賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

2020-11-26 21:16:06 | 信仰生活

オンラインの集会に参加することで潤される


    私は数年前に家族と一緒に主イエスを信じ始めました。しかし2017年になって仕事のせいで頻繁に集会に参加できず、霊が沈んでいくのを徐々に感じました。自分の気に入らない物事に出会うたび、私はしばしば怒りっぽい性質を露わにしていました。心の中では自分を憎んでいたものの、それでも感情を抑えられなかったのです。そこで主に祈り、聖書の学習で私を導き、それによって主との関係修復を助けられる人を用意してくださるようお願いしました。

    ある日、Facebookグループである人のために祈っていたところ、ひとりの姉妹が私を友達に加えてくれました。その後、私たちは信仰に関することをオンラインでチャットするようになりました。その姉妹は聖書について多くのことを知っており、彼女の交わりはとても光に満ちていたので、私は自分の霊が再び潤されたことについて心から主に感謝しました。あるとき、彼女が説教を聞くよう招待してくれたので、私は喜んで従いました。説教の間、ある兄弟が聖書を使って、人類の堕落の起源と、どのような人が天国に入れるかを語りました。彼の説教は牧師のものよりも啓きに満ちていて、耳を傾けていた私の心は光で満たされ、その兄弟の説教を聞くのが楽しみになりました。

オンラインの噂と牧師に影響され、神様による終わりの日の働きの考察を拒絶する

 

    次の集会が終わりに向かう中、その兄弟は「神様につき従う決心を揺るぎない」という賛美歌を歌いました。私はその賛美歌を聴いたことがなかったので、好奇心からオンラインでそれを探しました。あるリンクをクリックしたところ馴染みのある画像が現われ、それが全能神教会のウェブサイトであることと、その賛美歌が東方閃電によって作曲されたことを思い出しました。以前、牧師が全能神教会のウェブサイトをプロジェクターで映し、それについて悪く言っていたことがあるので、私はとても驚きました。しかし兄弟による説教はとても光に満ちていました。いったいどうなっているのでしょう。それから東方閃電に関する多くの否定的なコメントをオンラインで読んで、その兄弟を心の中で警戒するようになりました。その後、私はあの姉妹に、兄弟が歌った賛美歌は東方閃電のもので、彼の信仰は私たちのものと違うと言いました。すると姉妹は、次のオンライン集会でその問題の答えを一緒に見つけましょうと言ってくれました。

    集会のあいだ、私たちは心の中の疑惑を兄弟に伝えました。すると兄弟は、真の道を考察するときは神様のお声に耳を澄ますべきで、オンラインの噂を基に考察すべきではないと語りました。そして、今は終わりの日で、主イエスは肉となってお戻りになり、全能神の御名で神様の家から始まる裁きの働きをなさっていると言いました。また神様による終わりの日の裁きの働きや、神様が御名を変えられたことに関する聖書の聖句も数多く示してくれました。終わりの日の裁きの働きと全能神の御名に関する聖書の預言に反論することはできませんでしたが、全能神はお戻りになった主イエスであるという兄弟の言葉は私にとって信じがたいものでした。私はこう考えました。全能神は本当にお戻りになった主イエスなのか。牧師がそれについて語るのを以前に聞いたことはないし、主イエスも「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)とおっしゃった。主イエス以外に私たちを救える方はいらっしゃらない。全能神を信じるなら、主イエスを裏切っていることにはならないか。私はまだ天国に入れるだろうか。そうしたことを考えると、兄弟の言うことに耳を傾ける気がしなくなりました。

    その後、異端に気をつけるようにとのメッセージが教会のFacebookグループから送信されました。私はそれを見て、あの兄弟と接触するのがさらに嫌になりました。また姉妹が何度も招待してくれたにもかかわらず、オンライン集会に参加するのも断わりました。しかし後になって、兄弟の説教は主の御言葉と一致しており、ゆえに異端であるはずがないと感じました。そう考えていると心の中で葛藤が起こり、惨めな気分のまま、どうすべきかわからないでいました。その後、兄弟がグループチャットで数編の動画を送ってくれました。それらの動画を再生したところ、西洋の宗教学者による研究報告やコメントがいくつかありました。彼らは中国共産党による全能神教会への非難を調査し、インターネットで流れている全能神教会についての否定的な報道の大半は中国共産党が捏造したフェイクニュースであり、根拠となる事実がないことを証明していました。それらはまた、全能神教会を誹謗し断罪している中国共産党のフェイクニュースが、宗教的信仰の抑圧を目的としていることも暴いていました。これらの動画を見終えて初めて、インターネット上の噂がすべて嘘であることに気づきました。その後、兄弟がグループチャット経由で送ってくれた全能神教会による福音動画も見ました。その動画に登場する兄弟姉妹は中国共産党による逮捕を避けるため、しばしば集会の場所を変える必要がありました。集会の最中に中国共産党によって逮捕され、残酷な拷問を受けた人もいれば、自宅を捨てて逃げることを強いられた人もいました。私はそれらのシーンを見てとても悲しくなり、かつてある長老が中国に行って教えを宣べ、中国共産党はクリスチャンを迫害するのに力を惜しまず、中には投獄された長老さえいると言っていたことを思い出しました。また日曜礼拝の教師は、中国共産党は無神論者でマルクス主義を信じているから、神様を信じる人は誰もが弾圧されると言っていました。当時、私はそれらを誇張だと思っていました。盗みも強盗も働いていない主の信者を、どうして中国共産党が逮捕するでしょうか。しかしこれらの動画を見て初めて、中国共産党は犯罪と闘うよりも宗教的信仰を抑圧するほうに関心があり、彼らによる全能神教会の断罪を信用してはならないと理解しました。

神様による終わりの日の働きを受け入れるのは主イエスを裏切ることなのか

 

    私は中国共産党による噂を見抜きましたが、主イエスと全能神の関係についてはまだはっきり理解しておらず、兄弟の説教を聞き続けるべきかどうかわからないままでした。全能神を信じ始めたら主イエスを裏切ることになるのではと不安だったのです。すると姉妹が、そんな簡単にあきらめず、最後の判断を下す前に詳しく調べてはどうかとアドバイスしてくれました。彼女の言うことは正しいと思いました。いったい何なのかを突き止めることなくあきらめたら、実際に主がお戻りになっていた場合、主をお迎えする機会を失うことにならないだろうか。そこで、次の集会で兄弟が説教することに耳を傾けることにしました。

    インターネットに接続すると、私の疑問について兄弟がこう説教してくれました。「主イエスを信じる私たちはみな、主が真の神様であることを知っています。また主から多くのお恵みと祝福を受け取り、大いに感謝して愛情を抱いています。ゆえに、主はすでにお戻りになっているが、もはやイエスではなく全能神と呼ばれていると聞くとき、私たちの多くは心の中でためらいを感じだし、自分は別の神様を信じて主を裏切っているのではないかと不安になります。そのせいで神様の働きをあえて考察しようとしないのです。しかしこのような考え方は正しいでしょうか。私たち全員が知っているとおり、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ファリサイ人は主の働きを異端だと断罪し、ローマ帝国と手を結んでイエスを十字架にかけました。主の御名がメシアではなく、安息日をお守りにならず、神殿の外に行って働きをなさり、教えを宣べ伝えられたからです。次のことを考えましょう。何世代もヤーウェ神に仕え、熱心にメシアを待ち望んでいたファリサイ人は、主イエスが預言されていたメシアであるとどうして気づかなかったのでしょう。それは、彼らが神様を知らず、とても傲慢でうぬぼれていて、自分の観念と想像を基に主イエスを断罪して拒んだからです。彼らは最終的に神様を信じながら神様に抵抗した人たちとして人生を終えました。ならば、主がお戻りになったという知らせを聞きながら、主の御名がイエスから全能神に変わったからといって考察するのを拒むなら、それは単に当時のファリサイ人の過ちを繰り返していることになりませんか」

    兄弟の説教は深く考えるべき多くのことを私にもたらしました。彼は正しいと私は思いました。神様にはお知恵があり、神様がどう働かれるかは私たちに想像できることではない。しかし自分の観念と想像を基に神様の働きを判断すれば、まさにファリサイ人と同じではないだろうか。そう考えると心がとても落ち着き、引き続き兄弟の説教に耳を傾けました。

    兄弟は続けました。「事実、ヤーウェ神と主イエスと全能神は一つの神様です。その働きと、働かれた場所は違っていますが、いずれも堕落した人類の必要に応じて神様がなさらなければならない働きなのです。律法の時代、神様はヤーウェ神の御名を使って働きをなさいました。ヤーウェ神は律法を布告なさって生まれたての人類を導かれ、地上でどう暮らすべきかをお教えになり、威厳と怒りと憐れみの性質を表現なさいました。律法に従う人たちは神様の祝福とお恵みを得ました。律法に背いた者は罪の捧げ物をしなければならず、さもないと石打ちの刑に処されるか、天の火によって焼かれました。律法の時代の後期、人類の罪はますます深刻になり、罪を贖われるためにする罪の捧げ物ももはやないほどでした。ゆえに、神様は人類が必要とするものを基に受肉され、イエスの御名で恵みの時代の働きをなさり、愛とあわれみの性質を表現なさるとともに、豊富なお恵みを人類に授けられ、悔い改めの道を宣べ伝えられ、自分を愛するように他人を愛するようお教えになり、人類のために罪の捧げ物として十字架にかけられました。恵みの時代の働きは二千年にわたって続き、主の贖いのおかげで私たちの罪は赦されてきたものの、傲慢さ、偽り、利己心、邪悪さといった私たちの堕落したサタン的性質はいまだ残っており、いまなお罪を犯しては告白するという循環の中で生き、罪の束縛からまったく逃れられないでいます。これは真実ではないですか」

    私は言いました。「ええ、真実です。主は私たちに、寛大で忍耐強くなり、自分を愛するように他人を愛するようお教えになりました。私たちは自分の怒りを抑えられるときもありますが、自分の意にそぐわない物事に遭遇すると怒りっぽい性質をどうしても露わにすることがあります。私たちは主の御前で罪を告白して悔い改めますが、それでも再び同じ罪を犯してしまいます」

    兄弟は再び説教を始めました。「そうです。主イエスによる贖いの働きのおかげで私たちの罪は赦されてきましたが、私たちに罪を犯させるサタン的な本性はいまなお深く根ざしており、いつでもどこでも罪を犯して神様に反抗することができます。聖書にはこう記されています「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)また主イエスはこうおっしゃいました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書8:34-35)罪を犯しては告白するというこの状態の中で生き続けるなら、たとえ主イエスの罪の捧げ物が永遠に有効だとしても、私たちはなお主によって天国へ引き上げられることができません。ゆえに終わりの日、神様は私たちが必要とするものを基に、主イエスによる贖いの働きを土台としてより高い働きをなさり、私たちの罪を裁いて不正を清めるべく真理を表現なさって、私たちが真の救いを得て天国に入れるようにしてくださいます。そのことから、ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きはそれぞれ不可分に結びついており、働きの各段階は直前の段階に比べてより高く、それらが一つの神様の働きであることがわかります。ここで神様の御言葉の二節を読みましょう。そうすればもっとはっきり理解できます。


9歳のキリスト教徒はあやまって井戸に落ちた後、どのようにして生き延びたのでしょう

2020-11-19 22:41:40 | 信仰生活

 私は幼かった頃、母を模範として主を信仰しました。これ故に、私は主の御加護の下で育った子供でした。聖書に書かれている:「あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。」(詩篇91:9-12)。という言葉を目にする度に、私は子供の頃に井戸に落ちた後、主に救っていただいた時のことを思いだします⋯

 私が9歳だった時、雨が降ったばかりのある秋の夜、私は野菜を摘みに一人で野菜畑まで行きました。野菜畑は離れた所にありました。暗闇が怖かった私は暗くなる前に戻りたいと思っていました。こうして、私は雨靴を履いて細くぬかるんだ小道を足早に歩きました⋯

 私は歩いていた時に突然何かを踏みつけてしまい、それは柔らかくてまだ動いているように感じました。それがヘビであったのを見た私は叫び声を上げて駆け出しました。しかし、道はとても滑りやすくなっていたので、私は全く走ることができず、野菜畑に向って早歩きをすることしかできませんでした。しかし、私はその入り口に着いた時、足を滑らして、思いがけず井戸に落ちてしまったのです。

 井戸の中の水は深さが2メートル以上もありました。私は井戸に落ちたとたんに底まで沈み、水が続けて口の中に入り込んできました。私は泳げなかったので、水の底でもがきました。私はとても無力に感じてこう思いました:「回りには誰もいない。私は今日井戸で溺れてしまうのか。」

 その時、私は力強い主イエス様のことを思い出しました。私を救えるのは主のみだと思いました。従って、私は主に助けを請い続けました。突然、私はもう口を開けていられないことに気が付きました。口を開けていたら私は水で窒息してしまうところだったのです。私は慌てて唇をしっかりと固めて息を止めました。それと同時に、私は水から抜け出そうと必至になって井戸の壁にある石につかまろうとしました。しかし、コケで覆われていた石はとても滑りやすかったのでつかまることができませんでした。それに加えて、水は波を打っていたので、私の体は左右に揺さぶられ、石につかまるのは更に困難でした。その後、私は何とかして石につかまり、そして上に這いあがろうとしましたが、滑ってしまい又しても井戸の底へと沈んでしまいました。この瞬間、私は更に怖くなり、もう息を止めていられなかったので水がどんどん口に中に入り込み、窒息してしまうかと思うほど息をするのが困難になりました。

 しかし、私は井戸の中で生き延びることを諦めませんでした。よって、私はさらにはやる思いで主に助けを求め、もっと力をくださるようお願いしました。私は祈りを捧げた後、また自信がつきました。そして、私は息を止め、もう一度壁の石をつかみ、上に登り続けました。しかし、石にはコケがつき過ぎており、私は石につかまっていないとまた井戸の底まで沈んでしまうことを恐れたので、必至になって横にあった石に足をかけようとしました。突然、私はしっかりとした石の上に乗り上がることができました。そして、私は石に足をかけて井戸の壁に沿りながら上に登っていきました。

 私はやっと一瞬だけ水からはい上がることができましたが、その時は既に暗くなっていました。息を長い間止めていたせいで、私は息を切らしてあえぎ、お腹の中は水でいっぱいで、体はぐったりしている感じがしました。私は高い所にある井戸の開口部と下にある冷たい水を見ていると、その瞬間、登っている最中に力尽きたり、コケの付いた石を掴んだりして水に滑り落ちてしまうのではないかと本当に怖くなりました。これを何度も繰り返していたら、私は力を使い果たして溺れてしまうでしょう。この瞬間、私は主イエス様のみが自分を救うことができると分かっていたので、井戸の開口部まで這いあがるために、もっと信念と力を与えてくださるようもう一度主に助けを求めました。

そして、私は少し休憩しました。少し力が回復した後、私はまた登り始めました。しかし、もう夜遅かったので井戸の中は暗くなっていました。このため、私は石がどこにあるのかがよく見えませんでした。こうして、私は足を乗せられる石を見つけようと、蹴ったりしながらゆっくりと登っていきました。私は主に助けを求めながら慎重に足を乗せていきました。

 ついに、私は主の優しさと御加護の下で井戸の縁まで到着し、精一杯の力で自分を地面に引き上げました。水でびしょ濡れだった私は壁の側に座ってゆっくりと元気を回復させました。私は回りを見渡してみました。そこは真っ暗で誰もいませんでした。秋風が吹いていたので、私は寒く感じました。しかし、私は心の中は全く怖くありませんでした。むしろ、私は主イエス様が側にいておられると心の中ではっきりと分かっていたので、とても穏やかな気分がしていました。私は主の優しさと御加護のおかげで脱出に成功したのです。私は主に救ってくださったことを感謝しました。私が井戸の底から安全に登り出ることができたのは、紛れもなく主からいただいた信念と耐久力のおかげだったのです。

 私はこの体験を思い起こしました:井戸に落下した後、私は死の瀬戸際では主のみが唯一の頼みの綱であることを体験しました。これについて聖書にはこう記されています:「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」(詩篇18:2)。 救い主であられる主イエス様がお与え下さった救いの恵みに感謝します!私は主の優しさと御加護のおかげで無事に切り抜けることができました。全ての栄光、主にあれ!


主の導きがあるので、軽々しく「わたしはだめだ」と言うべきではない

2020-10-10 22:58:33 | 信仰生活

   生活の中で、きっと大小さまざまな困難にぶつかります。困難にぶつかる時、わたしたちはいつも困難から逃れ、神の設けた盛りだくさんな宴席を避けます。しかし、もしわたしたちが正しい態度をもって困難に直面し、神に依り頼むなら、きっと思いがけない収穫を得られます。……

 

 

   困難に直面する時、わたしはいつも困難から逃れて、「わたしはだめだ」と言う

   ある日の午後、わたしは先日作った歌のデモテープを同僚に検査してもらいました。同僚はデモテープを聞いた後、まゆねをしかめて話しました。「あなたの歌の調子がとても低い。あなたの歌い方もぎくしゃくだ。歌を聞く時、わたしは何の感動もない。もう一度録音したほうがいいではないか」と。彼女の言葉を聞いた後、わたしはショックを受け、「会社のパーティーのプログラムのために、わたしは二日間歌を録音して、この数曲の歌のデモテープを作った。明日は作品を提出する日だ。もし今もう一度録音するなら、デモテープは時間どおりに作り上げることができるだろうか。もともとわたしの専攻は音楽ではない。このデモテープを作るのに、わたしはもう全力を尽くした。高音で歌うなんて、わたしが死んでも達成できない」と思いました。そこで、わたしは考えもせずに言いました。「これがわたしにできるせいいっぱいのところだ。わたしはもうベストを尽くした。これでだめなら、わたしはお手あげだ。今度だめならそれまでだ」と。

   思いがけず同僚がわたしの困難を思いやらず、わたしにこう言いました。「雅文さん、このような態度で仕事をしてはだめだよ。何事もいいかげんにするなら、成功を収めることができるだろうか。若者は地道に働き、根気よくことを行い、全力を出してベストを尽くすべきだ。そうしてこそ本当の能力を身につけることができる。このような作品は提出されても、上司の気に入られない。このことはどうしたものか、あなたよく考えてみなさい」。

   同僚が離れた後、わたしの気持ちが長いこと静まらなかった。同僚の一言一言はわたしを不愉快にさせ、わたしの痛いところをついたが、理にかなっていたのです。思い返してみれば、この数年間、わたしは仕事の中で少し困難にぶつかると、「わたしはだめだ」と言い、そして仕事を他人にやらせました。そういうわけで、今になってもしっかりした技量を身につけておらず、どんなことにも精通していません。全く同僚の言うとおりですね。わたしは確かに全然向上心がありません。だが、わたしの今のレベルでは、こんなに短い間に本当にもっとよい効果を収められません。「ああ、どうすればいいでしょう」と、途方に暮れたわたしはぽかんと椅子に座っていました。

   経験することによって、わたしは主に依り頼むなら、難しいことは何一つないと悟った。

   時計の針がカチカチと音をたてて動いているのを見る時、わたしは一層焦れていて、「このように時間をむだにするのでは何にもならない。どうであろうと、試してみなければならない」と思いました。そこで、わたしは録音設備を調整して、試しに歌いました。だが、二回歌うと、わたしは「なぜか依然としてもとのままだ。わたしはだめだな」と気を落としました。この時、わたしは空気の抜けたゴムまりみたいで、非常にがっかりし、もう録音したくなくなりました。わたしはあきらめたい時、自分がクリスチャンであることを突然思い出し、「わたしの主は全能ではないか。わたしは主に依り頼むべきだ!」と思いました。だが、考え直してみると、「確かに主は全能だ。でも、主はわたしに発声練習の仕方や、歌の調子を高める方法を教えるはずがない」とがっかりしました。そこで、悩んでいるわたしはまた椅子に座りました。途方に暮れた時、わたしは次のような聖書の物語を突然思い出しました。主イエスの弟子ペテロは主イエスが海の上を歩いているのを見た時、主に「わたしに命じて、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と頼みました。だが、彼は信仰が小さかったので、強い風を見た時、自分が沈むことを心配して、「主よ、助けてください」と叫びました。すると、主イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました(マタ14:28-31を参照)。以前この物語を読んだ時、わたしはペテロの信仰がとても小さいと考えていました。だが、事実を前にして、わたしは哀れなほど小さい自分の信仰を思い知りました。わたしはそれくらいの困難にぶつかった時、神はわたしが歌を録音するのを助けるだろうかと疑い、神の全能と支配を信じませんでした。主イエスはこう言ったことがあります。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタ19:26)。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(マタ17:20)。そうですね。主の力は非凡であって、すべてを超越できます。天地万物を造った主はどんなことができないでしょうか。人の考えるような不可能なことは、主にとって容易なことです。この時、わたしはまた次のことを思い出しました。モーセはイスラエル人をエジプトから導き出した後、神に対する信仰によって紅海を二つに分け、そうすることによってイスラエルの民が海の中の乾いた所を通ることができるようにしました。幼いダビデは信仰によって、背が高く体が大きいペリシテ人を打ち負かしました。……これらの驚くべきことは、神の全能を表現しているのではありませんか。神がわたしの後ろ盾なので、わたしは神に対する信仰を持たなければならず、自分が真心をもって神に依り頼むなら、当面のこの小さな困難に打ちのめされることはないと信じなければなりません。そこで、わたしは敬虔に主に祈り求めました。「慈愛深い主イエスよ、わたしは困難にぶつかりました。わたしは全力を尽くして会社から与えられた任務を果たしたいですが、わたしのレベルが非常に低いので、どうしても基準を満たすことができません。しかし、わたしはこう信じています。どのことも主の許可のもとで発生するのだ、主がわたしを困らせることはない、と。だから、わたしはわたしの主に対する疑いを捨てて主に依り頼みたいです。主がわたしを助け、わたしに信仰を加えてくださるようにお願いします。……」。

   祈った後、わたしはかつてない心の自由を得、信仰に満ちているようになり、「真心をもって主に依り頼みさえすれば、主がきっとわたしを助ける」と信じました。それで、わたしはもう一度録音することにしました。録音する前に、わたしはまず技巧があるかどうかを考え、もう続けて力まかせにやろうとしませんでした。この時、わたしは突然、以前読んだ発声練習の教材を思い出しました。それで、わたしは曙光を見たかのように、教材に書いてある技巧によって発声練習をし始めました。そして、不思議なことが起こりました。以前、わたしが死んでも高音を出せなかったが、今回は楽々と高音を出し、しかも全然疲れませんでした。わたしは「鉄は熱いうちに打て」と思って、以前録音した数曲の歌をもう一度録音しました。思いがけず録音が一気呵成にやり遂げられ、短い間に完成しました。

   録音した後、わたしは喜んでデモテープを同僚のところに持っていきました。同僚はそれを聞いた後、「ああいい感じだ。今回の効果はとてもいいよ。……」と言いました。同僚の言葉を聞くと、わたしは主に依り頼むと効果は大いに違ってくるとつくづく思いました。自分の努力に頼った時、二日間録音してもよい効果を収めませんでした。だが、主の助けに頼った後、一日の午後を使うと録音をやり遂げ、しかもかなりよい効果を収めました。そのため、わたしは「ハレルヤ、主を賛美します!」と心の中で歓呼し、叫びました。

   夜、家に帰った後、わたしは昼間に起こったことについて繰り返して考えました。思い返してみれば、わたしは生活の中でほとんど主に依り頼みませんでした。だから、わたしはいつも、自分がだめだと断定し、何事においても試みをしたり、困難を乗り越える勇気がなく、次第に自分に失望しました。だが、今日の出来事によって、わたしは多くの収穫を得ました。神の知恵は霊妙で限りがないのです。神の恵みは豊かで無限です。だから、生活の中でいつも神に依り頼めば、すべての困難はすらすらと解決されます。なぜなら、聡明さ、知恵は神から来るのだから。わたしは今度、主から与えられたインスピレーションによって成功を収めました。今度のことのゆえに、わたしは技能が向上しただけでなく、また神の全能がいたるところにあると認識して、神に対する信仰を強められました。今後の生活の中で、わたしはあらゆることで努めて主に依り頼むべきであり、軽々しく「わたしはだめだ」と言うべきではありません。なぜなら、神はわたしの後ろ盾であって、乗り越えられない困難がないからです。わたしは一定期間このように実行した後、多くのことはわたしが想像しているほど難しくないと気づきました。いろいろな困難に直面する時、神の導きのゆえに、知らず知らずのうちに突破口を見いだしました。しかも神の導きのゆえに、わたしの業績が絶えず伸びています。わたしの生活は、主の知恵と全能のおがけで多彩になりました。……


噂は噂、どうやって見破るでしょうか

2020-10-07 23:25:31 | 信仰生活

噂を軽々しく信じることの結果

   かつてこのような物語を見ました。ある侠客はもっぱら富者の財貨を奪って貧者に施し、暴虐を取り除き良民を安んじました。それらの悪者は利益が損なわれた後、侠客を陥れようと、悪徳官吏と対策を相談しました。彼らはあちこちで人を殺したり、放火したり、平民の女性を強姦したりし、しかも他人にこれらは侠客のしたことだと知らせようと、印を残しました。そのため、侠客は官衙に追跡されました。侠客は仕方がなくて山林に隠居しました。ある日、侠客は奥深い山中で、悪者に追跡されているあるお嬢様とその女中に出会いました。付き合って半年、お嬢様とその女中はみな侠客に好感を持つようになりました。お嬢様は侠客と結婚しようとして、彼に告白しました。侠客は聞いた後、非常に喜び、空を仰いで、長いため息をつくときに自分の名前を言いました。お嬢様はそれを聞いたとき、これは官衛に指名手配されている者ではないかと、噂を聞いていたので、あまりの怖さに顔をそむけ、すぐに走り去りました。彼女は走っている時、うっかりして崖から落ちて、死んでしまいました。しかし女中はもし侠客が本当にあんなに悪いなら、彼女たちはすでに殺されたのではないか、どうして今日まで生きられるだろうかと。女中はそれで帰ってきました。それ以後、侠客と幸せな生活を送るようになりました。

   この物語はわたしたちに一つの情報を伝えてくれました。女中は事実を調べることを重んじるので、侠客と幸せな生活を送ることができました。このことから、わたしたちは噂は結局は立つことができないと分かりました。しかしお嬢様は噂を弁別しなくて、噂を軽々しく信じ、その結果命を失ってしまいました。これは本当に愚かなこと、悲しいことです!

噂はどのように生じるか

   物語の中のお嬢様は愚かでしたが、でも現実生活の中でこのお嬢様の役割を演じる人はやはりたくさんいます。このお嬢様が愚かだなと、わたしたちはため息をつきます。わたしたちはまた噂をでっち上げ、まき散らすそれらの人を憎みます。彼らの私欲と悪辣さは直接お嬢様を殺したのだと言ってもいい。では、なぜこれらの人は噂をでっち上げるでしょうか。噂の背後の真相は何でしょうか。わたしたちはパリサイ人が主イエスが働く時にでっち上げた噂を例にして根源を追究し、彼らが噂を狂おしくまき散らして主イエスを陥れる原因を探しましょう。

   主イエスが受肉して人の間で言葉を言い、働かれることは、ユダヤ国全体を沸き立たせました。一部の民は主イエスの説かれる道を聞いて、次々と主イエスにつき従いました。しかし当時の祭司長、律法学者、パリサイ人は民衆が主イエスに立ち返ったのを見た時、これでは民衆の支持を得られなくなって、民衆の神へのいけにえを享受できなくなるのではないかと心配していました。こういうわけで、彼らは自分の地位、生活の道を守るために、主イエスに関する噂をでっち上げ始めました。聖書にこう書かれています。「エルサレムから下ってきた律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」(マコ3:22)。イエスは働く時、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出すのだ、イエスはメシヤではない、などと彼らは噂をでっち上げました。それだけでなく、彼らは主イエスが死人から復活した後、依然として主イエスに罪を告白し悔い改めることをせず、もう一度うそで人を惑わそうと企てました。聖書にこう書かれています。「そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『弟子たちが夜中にやって来て、われわれの寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」(マタ28:12-13)。このことから分かりますが、これらの祭司長、律法学者は自分の地位、生活の道のために主イエスに関するさまざまな噂をでっち上げて人を欺きました。その結果、これらの噂は今日でもイスラエル人を惑わし、縛っています。これらの噂のゆえに、多くの人は主イエスの働きを調べる勇気がなくなり、そしてパリサイ人のまき散らす噂に盲従して主イエスを罪定めしました。そのため、彼らはこの上なく大きな罪を犯してしまい、また神に救われる機会を失ってしまいました。これは彼らの支配者が彼らにもたらす苦い結果であり、また彼らが噂を信じることの結果です!

   上の小さな物語も歴史の事実も、わたしたちにこういうことを分からせました。一般的に、噂は一部の人が人に言えない自分の目的を達成するためにでっち上げるものです。それは完全に、人を罪に陥れて、ありもしないことをねつ造するものです。わたしたちはまた噂をでっち上げる者の心がどんなに悪辣なのかを見ました。もしわたしたちが噂を見破ることができなければ、噂に害されて、取り返しのつかない悪い結果を招くでしょう!

あなたに噂を見破る3つの方法を教えよう

   では、わたしたちはどうすれば噂を見破ることができるでしょうか。

   第一に、神の働きという事実から調べる

   パリサイ人は主イエスに関する噂をたくさんでっち上げましたが、でも主イエスの救いを受け入れ、また主イエスの委託を受け、万国、万民に福音を宣べ伝える人はやはりたくさんいます。なぜこれらの人は噂に惑わされなかったのですか。それは彼らが事実の真相を調べることを重んじていたからです。主イエスは働いている間に、多くのしるしと奇跡を行なわれました。彼は目の見えない人が見えるようにし、足の不自由な人が歩けるようにし、五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させ、風と海をしかりつけられただけではなく、また死人を復活させるというようなしるしと奇跡を行なわれました。主イエスにつき従うそれらの人は主イエスの働きによって、主イエスが来たるべきメシヤだと分かり、主イエスの言うことなすことはいかなる被造物や非被造物も彼の代わりに言い、行なうことができないと見ました。これで分かりますが、事実はつまるところ事実で、いかなる噂も事実の真相を覆い隠すことができません。それは「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(マタ10:26)と主イエスが弟子たちに言われたこの言葉のとおりです。真相が明らかになる日がきっと来ます。だから、噂を見破るためには、まず事実の真相を調べなければなりません。他人の言ったことを受け売りし、軽々しく噂を信じてはなりません。

   第二に、神の声、言葉から調べる

   主イエスは働いている間に、多くの言葉を発表されました。これらの言葉には、天のの奥義を啓示するような主イエスのたとえ、主イエスがパリサイ人をしかる時のような、人の腐敗をさらけ出す言葉、そして人に対する慰め、励まし、人の隠れた秘密をさらけ出す言葉が含まれています。また聖書の多くの箇所に、主イエスが人にとりついている悪霊をしかると、悪霊が出ていくと記されています。これらの言葉はみな神の身分を表現します。これらの言葉を通して、人は主イエスの言葉が権威に満ちていること、主イエスがまさに人に現れた造物主であることを見ました。多くの人は主イエスの言葉を聞いて弁別することによって、主イエスが旧約に預言されている来たるべきメシヤ、受肉して人の子となって人に現れた神だと分かりました。そのため、彼らは神の働きの歩調についていけました。彼らは賢い乙女のように神の声を聞き分けるので、主イエスの言葉、声はまさに神の声だと分かりました。だから、外界の噂がどんなに凶暴であっても、彼らはその影響を受けず、主イエスがメシヤだと信じていました。このことも分かるように、神の声を聞き分ける人は神の声、言葉を通して神を知ることができます。そういうわけで、彼らは弁別力、噂に対する抵抗力を持つことができました。

   第三に、神の働きの効果から調べる

   律法の時代の末期、人はサタンに腐敗させられて、律法を守られなくなり、罪の中に生きるようになって自力では抜け出せず、そのため律法に罪定めされて死刑にされるという危険に直面していました。わたしたち腐敗した人類の必要と、神の人類を救う経営計画に基づいて、神は初めて受肉して人の世に来て、主イエスの御名によって律法の時代の仕事を終わらせ、天の国の福音と悔い改めの道を宣べ伝え始め、恵みの時代の贖いの仕事を展開されました。わたしたちが主イエスを贖い主として受け入れ、主に祈り、罪を告白し、悔い改めさえすれば、赦しを得ることができます。そうなれば、わたしたちは律法を守れなくて罪に定められることはなくなります。そのうえ、主イエスは人が歩むべき道がない時に、人に多くの新しい実行の道を与えられました。例えば、ペテロが主イエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタ18:22)と聞いた時、主イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタ18:22)と言われました。彼はまた「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタ22:37-39)と言われました。主のこれらの言葉は人に新しい時代の歩むべき方向を与えました。人が主の言葉にしたがって行なうと、聖霊は彼と同在し、彼も平安、喜びを得られます。人が主の言葉に背くと、暗やみの中に生きるようになります。当時、主イエスにつき従うそれらの弟子は主の言葉を実行するため、自由を得て、聖霊の働きの流れの中に生きるようになり、神に良しと認められました。わたしたちは主イエスの働きを経験することによってもたらされる効果によっても、噂を弁別することができます。事実は雄弁にまさるからです!

   考えてみましょう。わたしたちが主イエスが働いた年代に生まれて、パリサイ人のでっちあげた、天地を覆うほど多くの主イエスに関する噂に直面するなら、わたしたちは主イエスにつき従う弟子のように、噂を理性的に分析し、扱い、神の働き、言葉を調べることを重んじるでしょうか、それとも愚かなユダヤの民のように、探究し、調べることもせずに盲目的に噂を信じ、まき散らすでしょうか。わたしたちが噂を見破る原則を把握できなければ、いとも容易に噂によって混乱させられます。噂を見破り、真理の道を調べる原則を把握してこそ、すべての噂の中で立つことができます。こうして、わたしたちは真理を理解することによって、噂をわきまえる弁別力を持つようになります。


息子よ、お母さんはもうあなたをコントロールしません

2020-07-22 23:11:21 | 信仰生活

   チンシンは貧しい家庭に生まれました。彼女は「知識は人の運命を変える」や「人の宿命はその人次第である」といったことを先生たちから教え込まれていました。これ故に、彼女はこっそりと自分自身にこう誓いました:「私はサラリーマンになってレベルの高い生活を送れるよう一生懸命に勉強して4年制大学に入る必要があるわ。」しかし、事は彼女の期待とは逆の方向に進みました。チンシンは4年制大学には入れず、事務員としての生活を始めることになりました。

   彼女の息子が生まれた後、チンシンは自分の夢を息子に託し、息子が人々の間で注目を浴びて家名に名誉をもたらしてくれることを期待しました。彼女は内に秘めた夢を実現させようと、息子が喋ることを学んでいた頃、家の壁にリーディングカードを沢山貼り付けて読むことを学ばせようとました。これに加え、彼女は息子の思考能力と脳の発達を刺激しようと息子に教育に関するCDを沢山購入しました。彼女は毎週末に家事をしながら息子を教育しました。

   チンシンは息子が2歳半だった時に彼を保育所に送りました。ある日の夜中、彼女の息子は泣きながら突然起き上がりました、「ママ―、僕、学校には行かない。おもちゃで遊ぶ時間が無いから。」これを聞いたチンシンは心が痛みました。しかし、彼女は、「社会における競争はとても激しいし、一生懸命に勉強しなかったら将来息子は社会的地位を手にすることができないわ」と考えました。彼女はこう言って息子を慰めざるをえませんでした、「ママはあなたが一生懸命に勉強してることは分かってるわよ。でも将来良い生活をしたかったら頑張るしかないの。」彼女の息子は半分分かったように頷いて、ボーっとした感じで横になって、また眠りにつきました。チンシンは自分の幼い息子を見て涙をこぼしました。彼女はこう考えました:「ママがやっていることは全てあなたが将来の保証を手にするためなのよ。他には選択肢がないのよ。」

   瞬く間に、彼女の息子は小学校に入学しました。息子にもっと学習させようとしたチンシンはかなり忙しくしていました:毎日、息子が学校から帰ると、彼女は先ず彼を塾に連れていき、そこではベテランの教師が子供たちの宿題を手伝い、絵の描き方を教え、インターネットに関する教育も行われていました。夕方になると、チンシンは息子を急いで家に連れて帰りました。息子が素早くシャワーを浴びて夕食を済ませると、彼女は彼を他の塾に連れていきました。息子が帰宅した時は既に夜の10時半になっていました。チンシンは毎日自分を引きずるようにして帰宅する息子を見ていると、言葉では表現できないような無力感に駆られました。

   幸い、彼女の息子は成長する強い願望があり、彼の成績は常に最高レベルでした。彼女の友人と親戚たちは誰もが彼女の息子を高く評価し、彼は賢くて、将来間違いなく立派になって家名に名誉をもたらすだろうと口を揃えて言いました。これを聞いたチンシンはとても喜び、息子の良い成績が彼女にとって何よりのご褒美であると思いました。

   息子が誤って不良と関わるのを避けるため、チンシンは息子が中等学校に入ると彼の外出に制限をかけるようになり、息子が運動場にバスケットをしに行っても、目の届かない所に行くことは許しませんでした。彼女の息子はこの要求に対して決して反抗しませんでした。彼が同級生の誕生日パーティに行きたいことがあっても、彼女は、「外に遊びに行くより、家で勉強していた方がいいわ。将来、名を上げたら何でも好きなことしていいんだから。」彼女に数回却下されて以降、息子はもうこのようなことは口にしなくなりました。

   2018年1月、彼女の息子は大学入試を受ける段階に差しかかり、彼は専攻科目を決定する必要がありました。チンシンは科学は将来性があって、息子が将来的に良い仕事を選ぶ選択肢が沢山あると思ったので彼に科学を選択するよう言いましたが、彼女の息子は違う考えを見せました。チンシンは理由を説明しました、「競争の激しい実社会ではプロの知識がないと自分の地位は確立できないの。そうじゃないと生き残れないのよ。」意外にも、彼女の息子はこう言いました、「科学には興味ないんだ。僕は一般教養科目を選択するよ。」自分の息子の考えを変えようと、チンシンは、「興味は変わるものよ」、と言ってこれを全く受け入れませんでした。しかし、彼女の息子はそれでも、「興味は絶対に変わらないよ。好きでもないことを一生するのは嫌だからね」、と言って自分の決断に固執しました。それ以降、二人は頻繁に顔を真っ赤にしながらこれについて口論して、お互いに譲歩しませんでした。

   ある日、チンシンは又しても科学の有利な点を実体験と照らし合わせながら息子のために分析しようとしました。彼女は熱心に優しい口調でアドバイスしました、「お母さんは科学の勉強が出来なかったから一般教養科目を勉強するはめになったから、今は事務員としてしか働けないけど、あなたのいとこ3人は科学を専攻して、全員がサラリーマンとして高い固定給をもらいながら生活しているわよ。本当に沢山の人たちが彼らのことを高く評価しているわ。どの科目を選択するべきかちゃんと考えなさい。」彼女の息子はすぐさまこう言い返しました、「お母さん、人はそれぞれだよ。お母さんにはお母さんのアイデアと理由があって、僕には僕の意見と目標があるんだ。もうこれ以上は僕に強制しないでよ。」彼はこう言ってその場を歩き去りました。二人の会話は又しても意見が合わないまま終わってしまいました。頑なに自分の道を行く息子を見たチンシンは彼の将来がもっと心配になりました。

 

ある夜、チンシンはキッチンで料理をしていると、彼女の息子がいつも通りに手伝いに来ました。頑固に一般教養科目の専攻にこだわる息子のことを考えた彼女はとても腹を立てていました。そして、彼女は声を上げて彼にこう言いました、「どこかに行ってちょうだい。手伝ってもらわなくて結構よ。」彼女の息子は彼女の行動に唖然としました。しばらくした後、彼はすすり泣きながらこう言いました、「お母さん、今まではずっとお母さんが僕のことを全部決めてきたから、僕は一度も自分の意見を口にしたことがない。でも僕はもう大人になったんだよ。どの科目を勉強するかは僕に決めさせてよ。科学の勉強は凄くストレスが溜まると思うし、一日中研究していると目眩がするんだ。お母さんは僕が一生そんな苦しい思いをすることを期待しているの?」チンシンは自分の息子がこう言ったにもかかわらず、頑としてこう言いました、「私はあなたの将来を心配しているだけよ。現実は残酷なんだから。自分の将来をいい加減に扱ったら駄目よ。」これを聞いた彼女の息子は静かに涙しながら自分の部屋に戻って行きました。

   その夜、チンシンはベッドの上で寝返りを打ちながら横になっていました。彼女は息子と口論になった状況を振り返り、とても悲しくなりました。彼女の息子は幼かった頃から彼女の前で泣くことは滅多になかったのです。それは今回彼は心の中で大きな不満を抱え、辛い思いをしていたことを示唆していたのかもしれません。彼女はこのようなことは二度と起こって欲しくないと心の底から思ってはいたものの、一般教養科目を専攻することは彼の将来にとって良くないのではないかと心配していました。ちょうどその時でした、彼女は神を信じていたことを思い出し、この問題を神の前に持って行き、神に祈りを捧げて彼女がどうするべきかを御導きいただくことにしたのです。祈りを捧げた後、彼女は次の御言葉を読みました、「人間は、自分の人生においては自分が無力であり、絶望的であること、何かに卓越する機会や希望は二度と無いこと、自分の運命を受け入れるほか無いことを知っている。そうしたわけで、人間は自分の希望や、叶わなかった願望や理想を、次の世代に期待し、自分の子孫が自分の夢を叶え、願望を実現する助けとなること、そして自分の娘や息子が家の名に栄誉をもたらし、重要人物や富豪、有名人となることを望む。つまり、人間は自分の子が幸運に恵まれることを願う。人間の計画や幻想は完璧であるが、自分の子の人数や自分の子の容姿、能力などは自分で決められず、自分の子の運命は自分の掌中には無いということを知らないであろうか。人間は、自分が自分自身の運命の主では無いにもかかわらず、若い世代の運命を変えることを願い、自分自身の運命から逃れる力が全く無いにもかかわらず、自分の娘や息子の運命を制御しようとする。人間は、自己を過信していないだろうか。これは人間の愚かさと無知さではなかろうか。」「能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。

   チンシンは神の御言葉を読んだ後、複雑な気持ちになりました。彼女はこう思いました:「私はまさに神の仰っておられるような人なんじゃないかしら?私は自分が出世できなかったから自分の願望を息子に押し付けているんだわ。」彼女は思わず過去を思い出しました。彼女は幼い頃からサラリーマンになる決意をしていました。彼女は沢山苦労した後、4年制大学の受験に失敗したのです。自分の願望を諦めたくなかった彼女は自分の期待全てを息子に託し、息子が注目を浴びて明るい将来を手にするように育て上げようとしていたのです。こうして、彼女は息子がまだ喋ることを学ぼうとしていた時に教育を始め、3歳にもなっていなかった息子を保育所に送り、彼が小学生の時には予備校で授業を受けさせたのです。しかも、彼女は息子が勉強する時間をさらに確保しようとして、息子の外出に制限を課したのです。彼女は自分の息子から幸せで自由な幼年期を取り上げてしまったのです。彼女はこう考えていると息子に少し悪いことをしたと感じました。神の御言葉を受けて、彼女は自分の息子が将来就く仕事や人生でどれだけ稼ぐかは神から予め定められていることであり、彼女の計画や取り決め、または息子の才能や努力によって決まるものではなく、まして彼がどの科目を学ぶかによって決まるようなことではないということを理解しました。しかし、彼女は神の主権を知らず、「知識は人の運命を変える」や「人の宿命はその人次第である」ということを信じていたため、自分の息子は沢山の知識を修得すれば明るい将来を手にすることができると期待したのです。そして、彼女は自分の計画と取り決めによって自分の息子を行動させ、自分が息子のために決めた人生の進路に沿って息子を成長させようとしていたのです。これは極めて傲慢で、愚かで、無知なことだったのではないでしょうか?彼女は過去を振り返りました。彼女は若かった頃、他人に勝ることを目指していました。しかし、苦労して最善を尽くした結果、彼女は何を得られたでしょう?彼女は自分の運命を変えることすらできなかったのに、どうやって息子の運命を変えることができるというのでしょうか?彼女は心の中でこう思いました。「私は自分を過大評価してしまっているわ。息子の将来は外的要因には影響されないんだから、リラックスさせて好みの科目を好きなように選択させてあげた方が良いのではないからしら?こう考えてチンシンは今まで感じたことがない安堵を感じました。彼女は神の御啓示のおかげで自分は常に自らの誤った観点を基に神の主権に逆らっていたということに気付けたことを神に感謝しました。それ以降、彼女は我執を捨て、息子の将来を神に託し、神の支配と御計画に服従しました。

   その数日後のある夜、彼女の息子が夕食を済ませて授業内容のおさらいをしに行こうとしていた時、チンシンは彼の所に行ってこう言いました、「ねえ、お母さん分かったわよ。私たちの人生における運命はなかり前から神によって定められているの。あなたはもう大きくなって、自分の考えと目的を持っているんだから、お母さんはあなたの選択を尊重して、科目の選択をする邪魔はもうしないわ。あなたさえ幸せなら、お母さんも幸せよ。」これを聞いた彼女の息子は興奮してこう言いました、「お母さん、それは本当に嬉しいよ!やっと分かってくれたね。実は、以前からお母さんからの要求に凄いプレッシャーを感じていたんだ。毎日のスケジュールも忙しくて、いつも時間が足りないように感じてた。お母さんの期待に応えようとしたけど、もう勉強でくたくたなんだ。」彼の言葉を受けてチンシンは自責の念に駆られました。彼女は自分の息子にそこまでのプレッシャーをかけてこんなに辛い思いをさせていたとは思ってもいませんでした。彼女はこれからは息子に無理やり勉強させないと決意しました。その瞬間、彼女は心の中でとても安定感を感じました。神の御言葉は彼女に実践するべき道を与えてくださり、息子をコントロールするのを止めるよう彼女を導いてくださりました。

   ある集会で、チンシンは兄弟姉妹と一緒に神の御言葉の次の箇所を読みました、「人間が知識を習得する過程において、サタンは人間が自分の欲を満たし、自分の理想を実現するよう、あらゆる手段を用いる。サタンがあなたを導きたい道について、正確に理解しているであろうか。穏やかに言えば、人間は知識を習得することは自然であり、何も悪いことが無いと考えている。人間は、高尚な理想を育むことや、大志を抱くことは、単に向上心があると言うことであり、それは人生において進むべき正しい道であると考える。人間が自らの理想を実現したり、人生において出世できたりするとしたら、そうした人生の方が素晴らしいのではなかろうか。そのようにして自分の祖先に栄誉をもたらすのみならず、歴史に自分の名を残すことは、良いことではなかろうか。こうしたことは、この世の人々から見れば、良いことであり、適切なことである。しかし、サタンは、邪悪な動機をもって、人間をそのような道へと導き、それで良しとするかというと、無論そのようなことは無い。実際には、人間の理想が如何に高尚であったとしても、また人間の願望が如何に現実的であり、適切であったとしても、人間が実現したい事柄、求める事柄は、2つの言葉と不可分な関連性がある。その2つの言葉は、人間それぞれの人生にとって不可欠であり、サタンが人間に吹き込みたいのは、その2つの言葉である。その2つの言葉とは、何であろうか。そのひとつは「名声」であり、もうひとつは「利得」である。……「人間は、自分が求める名声と利得を得るため、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有する全ての物事、将来、運命を、すべてサタンに引き渡す。人間は、この引き渡しにあたり、一瞬たりとも躊躇することが無く、それを奪回する必要性を省みることも一切無い。

   神の御言葉が表した内容はチンシンを深く考えさせました:彼女が知識を学んでいた間、サタンは「知識は人の運命を変える」、「人の宿命はその人次第である」、「自分を目立たせよ」、「先祖に栄光をもたらせよ」等、様々な思考や生存の原則を彼女に植え付けていたことが分かりました。その結果、彼女は、人は知識と高学歴を手にすれば名誉と富を手にし、質の高い生活を送れると思い、さらに彼女はそれが追い求めるべき正しい目標であるとまで思っていたのです。この思考と考えによる指示の下、彼女は上流社会に仲間入りして質の高い生活を送ろうと一生懸命に勉強していたのです。彼女の夢が実現しなかった時、彼女は自分の願望を息子に託し、とても若かった息子に自分の欲望の重荷を背負わせ、彼に重いプレッシャーと大きな苦しみをもたらしたのです。神の御言葉による御啓示は、彼女が抱いていた観点は元々適当であるように見えたけれでも実はサタンの策略で満ちていたことをチンシンに気付かせてくれました。彼女が夢を叶えようとする過程において、サタンは名誉と富を追いかける道を歩ませようと彼女を少しずつ誘惑したのです。彼女はこのように追求していた時、自分自身を苦しめただけでなく、自分の息子にも害をおよぼしました。それまでに、チンシンは自らの愚かさと無知さに心を痛め、様々な思考と考えを利用して人々を欺き堕落させたサタンを更に嫌いました。神の時になかった御救いを受けていなければ、彼女は名誉と富を追い求める誤った道を歩み、同時に自分の息子を引き返せない道へと導いていたでしょう。

   神はこう仰りました、「人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。」 神の御言葉はチンシンが誤った目標を改める決断をするよう導いてくれました。彼女は名誉と地位を求めることはなくなり、「自らを目立たせて先祖に栄光をもたらせよ」を自分の生涯の目標および自分の息子の追求するものとして取り入れるのは止め、まして自分の心に沿って息子の人生と学問を取り決めることは尚更しなくなりました。代わりに、彼女は息子を神の御手に委ね、神の御導きの下で自由に、幸せに成長させています。彼女は神が息子に用意してくださるものは最適なものであると信じるようになりました。チンシンは今、自由と安らぎを感じました。

   チンシンがしばらくの間このように実行していると、思いがけない結果が起りました:過去、彼女の息子は良い成績をおさめていながらも、独立性を欠いていました。彼は何をするのかという計画を立てることが全くなく、何をするにしても出来るだけ後回しにする人でした。チンシンはそれについて頻繁に彼と話しをして、彼は全てを計画するべきであり、そうでなければ将来的に社会で安定した基盤を築くことができないと言いながら熱心に忠告までしました。しかし、彼女が何を言っても、どのように言っても、彼は聞く耳を持ってくれませんでした。彼女が彼を解き放ち、自分で生活と勉強の準備をさせるようになった時、彼は全てを完璧に行い、毎日の生活と勉強の計画も上手に立てていました。チンシンはその時まで、自分の身勝手な行動が今までずっと息子の自己啓発を抑止していたことを理解していませんでした。彼女は時にかなった形で正しい決断ができたことを幸福に思わずにはいられませんでした。加えて、彼女は神が万物を支配するのに用いる権威を体験できると以前よりも強く確信していました。

   今、チンシンは、神の御言葉の御指導の下、自分の息子と幸せに仲良くできるようになりました。彼女の息子は困難に遭遇すると、彼女の提案を求めています。チンシンはそれに答える際、彼女は創造主の御手は息子が前進できるように導いてくださると信じているから、この先何が起ろうとも、全てに対して勇敢に立ち向かって行くよう息子を勇気づけています。将来がどのようなものであろうとも、彼女は創造主が人生において皆に用意してくださるものが最高のものであると確信しているのです。