賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

私たちクリスチャンはどのように結婚相手を選ぶべきでしょう

2020-07-21 11:32:39 | 信仰Q&A

  信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ

   私は結婚相手を見つける年頃になりました。私の結婚については両親から心配され、親戚と友人たちからもよく聞かれるので、私は重いプレッシャーを感じています。結婚相手を探す話しになると、私の未信者の友人たちは誰もが、「背が高くて、金持ちで、ハンサム」や「色白で、金持ちで、美しい」人を選びたがっていますが、私たちクリスチャンはどのような人を選ぶべきなのか、私は全く分かりません。お返事お待ちしております。

敬具

シャンヂィ

2018年11月20日

 

   シャンヂィ姉妹へ

   結婚は私たちの生活においてとても重大な出来事ですので、じっくりと考えるのは良いことです。私たちはクリスチャンとして、本事柄における神の御心を理解するために真理を求め、関連する原則に従って行動するべきです。そうすると、私たちは適切な結婚相手を見つけて、神の祝福を受けることができます。次に、私の個人的な体験を話したいと思います。

   以前、私もハンサムで家計の豊かな人を結婚相手に見つけたいと思っていました。そこで、私はこういった条件に合った男性と出会った時、彼と交際を始めました。しかし、その後予期せぬ事が起こりました。未信者であった彼は抑えがきかないほど勝手気ままな人だったのです。特に、彼は女付き合いにけじめの無い人でした。これ故に、彼と交際をしていた間はとても不安な思いをしました。また、彼はキャリアの面で私の助けを必要としていたので、いつも横から私をおだててくるのですが、私たちの勤める会社で安定したした足掛かりを手にしたとたん、私の相手はしてくれなくなりました。特に、私は悲しくて、失望し、慰めて欲しかった時、彼は私のことを気に掛けてくれなかっただけでなく、私は手間がかかり過ぎると言って文句を言ったのです。なので、彼と交際していた間に一番多く感じたのは彼の心遣いや配慮ではなく、むしろ無関心さでした。後に、私は、彼が私との交際を始める以前から他の女性と交際していたということを彼のQzoneで知り、その後私は彼から冷たくフラれてしまいました。その衝撃にはとても辛い思いをさせられました。

   教会の集会で、私は姉妹に自分のこの体験を話しました。すると、彼女はこのように交流してくれました、「私たちはクリスチャンとして、結婚を含めて何をするにしろ、自分の好みに頼るのではなく、神の御心を求めるべきです。なので、私たちは自分たちの結婚相手を選ぶ時も、それを神の御手に委ねるべきなのです。さらに、私たちは好みの人が自分たちに合っている人であるかどうかも神に尋ねるべきです、なぜなら神のみが人々の深奥を覗き、人々の心を見抜くことができるので、神が私たちに用意してくださるお相手は間違いなく最も適した人なのです。もう1つ考慮すべき点はその結婚相手が私たちと同じ心を持っているかどうかということです。お互いに理解し合えないような人々が一緒に幸せになれるでしょうか?これについて聖書にはこう記されています、『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。』(コリント人への第二の手紙 6:14)。そして、ある人がした交流の中にこういう節があります、’大人になったら結婚するのは至って普通のことですが、人は適切な相手を選ぶべきです。それは、最低限、その人の信仰といのちにとって有益な人であるべきで、それはとても重要なことです。人々のする選択により歩んで行く道と終着点が決まるのです。大事なことは、神の御要件に従ってそれぞれが自分の歩む道を選択できるかどうかということです。’ この言葉は実践すべき道を私たちにはっきりと指し示しています。自分の結婚相手を探す際に、私たちは相手の容姿や家計のみを重要視するべきではありません。最も大切なことは同じ考え方を共有し、善良な人間性を持ち、私たちの信仰に有益な人を選ぶことです。こうすることで、お互いに理解し合い、我慢し合い、許し合えるのです。また、これは私たちの真理の追究といのち成長においても有利なことです。しかし、結婚相手を自分の好みまかせに選んでしまうと、相手は背が高くで、ハンサムで、その家族が裕福であったとしても、その人自体は人間性が悪く、貪欲で、かつ怠慢な遊び人で、家族を大切にしない人であるということがあります。そのような人とは全く分かり合えません。これ故に、その人と暮らしても害と悲しみ意外は何も得られません。さらに酷いことに、もしその人が、私たちが神を信じることを妨げるようなことがあれば、それは私たちの人生を台無しにさえしてしまい、私たちは救われる機会を失ってしまいます。」この交流を通じて、私はこう理解しました:「クリスチャンとして、結婚相手を探す時に最も大切なことは自分の相手が善良な人間性をもっているのかどうか、そして自分の信仰に有益な人であるかどうかを確かめるべきなのです。私はまた、お互いが同じ心を持っていて、同じものを追求しているのかどうかも考慮する必要があったのです。」

   その後すぐに、私の叔母が医者の男性を紹介してくれたのですが、その人の家庭は裕福で、彼の両親は共に教師であると言っていました。そして、彼女が彼の写真を見せてくれると、そこには彼のハンサムなルックスが写っていました。一目見て、彼が自分のタイプだと分かりました。その後すぐ、ヂャン姉妹が私に彼女の甥ヂャン・スンを紹介してくれて、私は彼と知り合いになりました。彼は見た目が普通な修理工、そして彼の両親は2人とも一般的な作業員でした。この条件は全てあの医者とは比べものになりませんでした。しかし、特に言及すべきこととして、ヂャン・スンは敬虔なクリスチャンだったのです。彼は心から神を信仰しており、私たちは同じ考え方をしていました。あの医者について考えてみましょう。彼は未信者でした。そして、もし彼と結婚することになれば、彼は私が神を信仰することを反対するかもしれません。考え方の共有ができないと、お互いの気持に直接悪影響を及ぼし、前のボーイフレンドと私のように離別に至ってしまうでしょう。しかしながら、自分の肉的な関心を考慮してしまった私は医者を選ぼうと思いました。このように、私はどう選択してよいのか分からなくなってしまったのです。

   その時、私は神に祈ることしかできませんでした。祈りを捧げた後、私はある交流の中でこの節を目にしました、「結婚相手を探す際に、真理ではなく、自分の肉的な好みに完全に頼り、自分の願望に沿った人だけを選んでしまう人々がいます。このような人々は神に従順であると言えるしょうか?神は私たちに、不信者とつり合わないくびきを共にしないということを要求されます。この要求に従って行動せよと言われたら、信者を結婚相手に選べますか?信者と交際する時に、’このルックスが悪くて地位も無い人は私の理想の相手ではないです。お付き合いしたくありません。ルックスが良くて、地位もあるけど信仰を持たない悪魔を選んだ方がましです’ 、と言う人がいます。このようなことをして、神に従順であると言えますか?」

   この交流を読んだ後、私は自分の心を静めて神の御旨を求めました。私はこう思いました:「私は2人の男性から選ぶことができたけども、単純に外見と家系で判断すれば、医者の方がいいと思ったわ。でも、それは、不信者の観点に従っていたということだし、自分の肉的な好みに基づいていたのよ。しかも、彼は神を信仰していなかったし、それは間違いなく私の信仰と真理の追究に対して不都合なことだったわ。一方のヂャン・スンはと言うと、彼の家計はあまり良くなかったけど、彼は神を信仰して、真理を追い求めて、さらには人間性が良くて、自分の家族と兄弟姉妹たちを大切にしていたわ。それに、彼は教会で積極的に本分を尽くしていた。彼を選んだら、私たちは将来同じ道を歩んで、一緒に主に仕えることができるわ。それがいい事だったのよ。自分の状況はと言うと、私は普通の家庭に生まれて、両親は共に一般的な作業員、それに私は高学歴でもないわ。この条件は全て医者に比べると遥かに劣っているわ。だから、彼と結婚したらつり合いが取れないのよ。それで、私は引け目を感じて困ってしまうだろうし、彼に避けられるかもしれないわ。」こう思った私は自分の考えを神に伝え、自分の肉の好みを捨てて神の御要件に従うと祈りを捧げました。祈りを捧げた後、私は心が穏やかになって落ち着きました。

   その後、私は思い切って医者と交際するのをやめて、ヂャン・スンと交際を始めました。私は彼と触れ合っていくうちに、彼の物事に対する考えは不信者のものとは完全に異なり、彼は人生の快楽を追い求めることに集中していなかったことを知りました。彼の自分の意見として、そのような物を追い求めるのは無意味であり、信者は真理を追い求め、神の御心を理解して神を喜ばせることに努力を注ぐべきだと言っていました。私たちが会う度に、彼は一緒に神を讃えようと私をリードしながら神の御言葉を読み、讃美歌を歌ってくれました。特に、彼は、「私たちの気持ちは神の御言葉を基礎づけて確立されているべきです。私たちは神の御言葉に従いながらお互いを愛し合うべきです。片方の言うことが正しくて、真理に適っているのなら、もう片方はそれに従い、それを受け入れるべきです。このようにして、真理を私たちの指導者とするのです」、と強調しました。さらに、私が傲慢さとうぬぼれを表すと、彼は私と話しをして、キリストの謙虚な姿勢と素晴らしさを見習うように言ってくれます。私が消極的で弱気になっていると、彼は神の御言葉を使って私を慰め、励ましてもくれます。彼としばらく仲良くしていると、私は彼が自分にとってとても大きな助けになっていたことに気が付きました。過去、私は神の御言葉を求めることには注意を払っていませんでした。しかし、今は、物事に直面すると、私は神の御心を求めることに集中し、神の御言葉を切望するので、真理を追い求めることにもっと自信が持てるようになっています。次第に、私たち2人は腹心の友となりました。物事が起こると、私たちはそれを解決するために真理を求めます。私は、神の御要件に従って相手を探してのみ、真の幸せを手にすることができると心の中で感じました。

   その後、私が実家を訪れると、叔母が私にこう言いました、「あの医者と結婚しなくて良かったわね。あの男は親に甘やかされているから。最近は一日中酒と、女と、ギャンブルにふけてるし、仕事も辞めてしまったから、両親がカンカンに怒ってるのよ。」これを聞いた私は心の中で神に感謝しました。結婚相手を探すことについて、神の御要件に従って行動せず、自分の虚栄心に屈していたら、私は今頃苦しみの中を生きていたことでしょう。この体験をした後、私は、「結婚相手を探すにあたって、私たちは相手の外見と家系は重要視すべきではありません。最も大切なことは、同じ考えを持ち、同じものを追い求める人を選ぶということです。こうしてのみ、私たちの結婚生活は幸せなものになり得るのです」、と心から理解しました。

   シャンヂィ姉妹、以上が私の持つ経験と認識です。これら全てがあなたの役に立つことを願っています。神の御要求通りに行動してさえいれば、私たちは神の御加護と祝福を授かることができます。神の御恵みがありますように!

敬具

信仰ステーション、ピンファンより


真に祈るのとはどういう意味か

2020-07-19 17:24:49 | 信仰Q&A

   真に祈るとは何を意味するであろうか。それはあなたの心の中にある言葉を神に話すことであり、神の意志を把握し、神の言葉に基づいて神と交わることを意味する。またそれは殊更に神を身近に感じ、神が自分の目の前にいて、あなたには何か神に言いたいことがあると感じることである。またそれは、自分の心の中に光が射すのを著しく感じ、神が殊更に愛しいと感じることである。あなたは著しく霊の動きを感じるだろう。するとあなたの兄弟姉妹は、あなたの話を聞いて喜びに満たされるだろう。彼らは、あなたが話す言葉が、彼らの心の内の言葉であり、彼らが言いたいと願っていた言葉だと感じるだろう。あなたが言うことが、彼らが言いたいことを代表していると感じるだろう。真に祈るとは、このことを意味する。真に祈った後、あなたは心の中に安らぎを感じ、喜びに満たされるであろう。神を愛する強さが向上し、あなたは全生涯で、神を愛する事以上に価値があり大切なことは無いと感じるであろう。そして、これら全ては、あなたの祈りが効果的であったことを証明するであろう。

「祈りの実践について」より

   神が人々に要求する最低基準は、自分の心を神に開くことができることである。人が神に対して真心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人の内に働くことをよしとする。神は人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心を求めている。人が神に自分の心の真実を話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人の中で働くことも無いであろう。したがって、祈りにおいて極めて重要なことは、自分の本心から来る言葉を話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱くであろう。そうでなければ、神はあなたから顔を隠すであろう。

「祈りの実践について」より

   祈りとはひととおりの儀礼を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち祈りとは言葉を模倣し、他人を真似ることではない。祈りにおいて、あなたは心を神に捧げなければならない。そして、神に心を触れられるよう、自分の胸中の言葉を神と分かち合わなければならない。あなたの祈りが効果的であるためには、その祈りはあなたが神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中で祈ることによってのみ、あなたはもっと多くの啓き照らしを得ることが可能となる。真の祈りは、神による要求を待ち焦がれる心を持ち、それらの要求を自ら進んで果たすことにより示される。あなたは神が憎む物事全てを憎み、それを基礎として、神が説明する真理について知り、明瞭に理解するようになるであろう。決意と信仰、認識、また、祈った後に実践するための道を持つこと。それのみが真の祈りであり、このような祈りだけが効果的であり得るのである。しかし、あなたが神の言葉を享受すること、神の言葉の中で神と交わること。また、あなたの心が神を求めることができ、神の前で静まっていること。それらのことの基盤の上に、祈りは建て上げられねばならない。このような祈りは、既に神との真の交わりを持つ境地に達しているのである。

「祈りの実践について」より

   わたしは、兄弟姉妹が日々真に祈ることが出来ることを願っている。これは教理に固執することではなく、ひとつの達成すべき効果である。…あなたは、次のように言うべきである。「神よ、私は自分の本分を尽くすことを望みます。私達の中であなたが栄光を受け、私達という人間の集団の中の証しを得ることが出来るようにするために私ができることは、私の全存在をあなたに奉げ尽くすことだけです。願わくは、私があなたを真に愛し、満足させ、あなたを私が追求する目的とすることが出来るよう、私達の中で御業を行ってください。」あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にするであろう。あなたは、自分のためだけでなく、神の意志を実行し、神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。

「祈りの実践について」より

   霊的生活を送れば送るほど、心は神の言葉で満たされる。あなたは常に霊的生活を送ることを考えるようになり、その重荷をになうようになる。あなたがそのような状態になると、霊的生活を通して神に自分の心の中にある真実を示すことができ、あなたのやりたいこと、考えていること、神の言葉への理解と求め方を神に伝えることができるようになる。小さなことであっても、隠しておいてはいけない。心の中にある言葉を神に話す練習をし、神に真実を伝え、躊躇せず心の中にあるものを語らなければならない。これを実践すればするほど、あなたは神の素晴らしさを感じるようになり、あなたの心はますます神へと近づけられて行くのである。その状態になると、あなたは神が誰よりも大切だと感じるようになる。何があっても決して神のそばを離れなくなる。このように日々ディボーションの時間を持ち、それをおろそかにすることなく、自分の人生における使命と捉えるならば、神の言葉があなたの心を占領するようになる。これが聖霊に触れられるということなのである。それはあたかも、あなたの心がずっと神のものであったかのようで、あなたの心に常に愛があったかのように感じるものである。それをあなたから取り上げる事のできる者はいない。この状態にまでなると、神は真にあなたの心に住み、あなたの心には神が存在するようになるのである。

「健全な霊的生活は人々を正しい道へ導く」より


神が義であるなら、善良な人々が脅かされ、抑圧され、苦難するのに邪悪な人々が悠々と成功するのはなぜか

2020-07-18 23:53:15 | 信仰Q&A

  聖書参照箇所

   「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。」(ルカによる福音書16章19〜28節)


   神の御言葉による答え:

   この生涯で幸運を得る者は、間違い無く永遠に苦難を受けるが、この生涯で苦難を受ける者は、間違い無く永遠に恵みを受けるであろう。私はそのように予定を定め、それは誰も変えることができない。誰も私の心を変えてはならず、私の言葉に何一つ加えてはならず、ましてや私の言葉を何一つ減らしてはならない。これに違反する者は、私が必ず罰する。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より


仏教徒と道教徒には世俗的な事柄から離れ苦行を行うという宗教実践があるが、これで救いを得られるのか。

2020-07-07 23:31:57 | 信仰Q&A

  聖書参照箇所:

   「なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。イスラエルよ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。アロンの家よ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。主を恐れる者よ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。主はわれらをみこころにとめられた。主はわれらを恵み、イスラエルの家を恵み、アロンの家を恵み、また、小さい者も、大いなる者も、主を恐れる者を恵まれる。どうか、主があなたがたを増し加え、あなたがたと、あなたがたの子孫とを増し加えられるように。天地を造られた主によってあなたがたが恵まれるように。天は主の天である。しかし地は人の子らに与えられた。死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない。しかし、われらは今より、とこしえに至るまで、主をほめまつるであろう。主をほめたたえよ。」(詩篇115章2〜18節)

 

   答え:

   この働きの終わりには、全ての教派が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪教は無に帰して、二度と現れることはない。

   …世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。…そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けするだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。もしかれらが邪教信者であるなら、神とは相いれないし、そして神と相いれないなら、彼らは神に敵対する者なのである。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。

「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

   人が人を裁く場合は、人の行いを基準とする。つまり、行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は不道徳者である。神が人を裁く時は、人の本質が神に従順であるかどうかを基準とする。つまり神に従順な者は義なる人であり、神に従順でない者は敵であり、不道徳者である、この人の行いがよいか悪いか、この人の言葉が正しいか間違っているか、に関わらず。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を買うことを考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違って思っている。従って多くの人は虚偽の行為を通じて一時の恵みを獲得するためにこのような方法を用いようとする。

「神と人は共に安息に入る」より

   しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

   わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。…

第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「二十六番目の言葉」より

   今、未来の人類の終着点を感じ取ることができず、しかもわたしが話す言葉を信じない多くの人々がいる。真理を行わない人々と同様に、信じない人々は皆、悪魔である。追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する知識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは、天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒も悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、彼らはやはり滅ぼされる。…肉となった神を信じない人はみな悪魔である。さらに、彼らは滅ぼされる。

「神と人は共に安息に入る」より


天国はどこにあるのか

2020-06-22 22:29:02 | 信仰Q&A

   神の御国は地上にあるのか天にあるのかわかりません。主イエスは何度も「天の国は近づき!」「来る」と。この「天の国」とは天にある国のことで、地上には有り得ないでしょう?

   解答: 「天」とは常に神を意味し、「天の国」とは神の御国のことです。ヨハネの黙示録にあります。「神の幕屋が人と共にあり」「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。」つまり神の御国は地に造られ、この地上の国は、最後に神の御国になるのです。大災害で古い世界が滅ぼされると、千年神の国が現われます。地上の国は、主とキリストの国となった、神の御心は、天のように地でも成され、新エルサレムが天から降って来るという預言を完全に成就します。暗く悪に毒された世代を終わらせるため、神は受肉し、終わりの日の裁きの働きをされます。神の声を聞く者は、御座の前に連れて来られ、勝利者として完全にされ、その時、大災害が起きます。終わりの日の神の働きで清められ救われた者は生き延び、神の御国の民となります。終わりの日の神の働きを体験できるのは、本当に祝福され、幸運にも神の御声を聞き、御座の前に連れて来られる者で、御言葉による裁きと刑罰を受けて清められ、災害の前に勝利者となり、神の最初の果実となります。そして神は大災害を送り、悪質な未信者や、神に逆らう者は、みな、滅ぼされます。清められ完全にされた者は、大災害の間、神に守られ、生き延びます。主が雲に乗って目の前に現われると、神が地上でその御国を得る。これこそ神が成就することです。これが理解できないのは、盲目ではないでしょうか?空を眺めて雲に乗って来る主を待っていた者は、主が実際に雲に乗って現われた時に、歯軋りして悔しがるでしょう。ヨハネの黙示録で預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」(ヨハネの黙示録 1:7)災害の前に神の声を聞かないなら、御座に連れて来られることもなく、災害に呑まれ、罰を受け、泣き叫び、歯軋りするでしょう。

 

 

   神は人を地上に造られ、サタンが人類を堕落させたのも地上、そして神が人類をお救いになるのも地上です。キリストの御国が地上に現われるまで、全て地上です。だから御国も終わりの日に、地上に建てられるのです。人類の終着点は天ではなく地上にあるのです。これは神が定められたことです。御言葉を少し読んでみましょう。「神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営(救い)が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。……人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で、残りの人類を導く。……」(「神と人は共に安息に入る」より)経営計画を完了された時に、神と人は共に安息に入るのだと、全能神ははっきり言われています。神の安息の地は天に、人の安息の地は地上にあり、これは神が私達に用意してくださった終着点で、神の御国が地上に建てられるのを意味する。何年信仰していても、これが分からないなら、真理、そして主の御言葉が理解できないということでしょう?

『夢からの目覚め』の映画台本から