賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

「裁き」への誤解を解消できた私は、主の再来を迎えた

2020-07-12 23:27:45 | 神に帰す証

   【編集メモ】多くのクリスチャンは皆聖書の中に記載されている「終わりの日の裁き」を知っていますが、「裁き」に含まれる意味を明確に説明できる人はいません。かつて彼女は「裁き」に対して想像に満ち、その後、神様の言葉の導きの下で、彼女は「裁き」に対して新たな認識を得られ、そして主の再来を迎えたのです。

集会の時に主が再来される良いお知らせを聞いた

   私は2016年に主を信じ、毎週教会堂に集会しに行っていました。その後、一人の新人、若い姉妹が来て、数回の集会を通して、私は姉妹が色々な聖句に対しての交わりに新しい光があって、皆も供給を得ることができたので、私も羨ましくなり、こう思いました。「この姉妹は若いですが、聖書に対する交わりは牧師よりよいです。彼女はどのように聖書を読んでいるのか?」私は好奇心を持って、こっそりと姉妹に聞きました。「あなたは聖書に詳しいですね。どうやってこんなに多くの聖句を理解しているのか。」姉妹は自分がほかの集会場所で集会しているから、そこの兄弟姉妹の交わりのほうが明白、理解しやすいと言い、私を誘ったのです。私は喜んでうなずきました。

   日曜日に、姉妹は私を連れてその集会場所に向かいました。兄弟姉妹は心をこめて私を招き入れました。腰掛けた後、兄弟姉妹は私に主イエスが既に戻られ、受肉された全能神であり、多くの真理を語られ、一段階の人を裁き、清める働きをなさり、まさに聖書の預言「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)の実現だと教えてくれました。そして、私に神様の六千年経営計画、神様の声をどのように聞き分けるか、人類の終着点の奥義などの側面の真理を交わりました。姉妹が詳しく交わってくれて、私はそれを聞いてから、明白になり、神様を信じることにおいての奥義がたくさんあることに気づきました。そこで、私は全能神教会をよく考察することを決意しました。集会が終わった後、家で読めるように、姉妹は一冊の神様の言葉の本をくれました。

 

 

心から「裁き」への誤解が生じた

   家に帰った後、私は手が空いたら全能神の言葉を読み、読み終わったら、神様の言葉がとてもいいと感じ、読むのが好きになりました。ある日、私は全能神が次のように言われた箇所を読みました。「終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。」私はこのように心の中で思いました。「主イエスは終わりの日に再び受肉され、最後の選別の働きをなさり、人々をそれぞれその種類に応じて分類させるなら、すべての神様の終わりの日の働きを受け入れる人は皆神様の裁きを経験しないといけないのか。」私はつい思わず自分が話すときにまだ嘘をついて人を欺き、人と付き合うときに術策を用い、人を妬み、他人に傷つけられたときに人を恨み、たくさんの欠点、例えば人に対していつも当たり散らし、同僚と怒るなどがあります。今日主が来られて裁きの働きをなさり、もし私の昔の出来事を持ち出されたら、私は罪に定められるのではないか。それならどうやって神様の国に入れるのか?これを考えて、私は自分を心配し、きっと神様の国に入れないと思って、消極的になってしまいました。私は兄弟姉妹に打ち明けて交わり、尋ね求めて解決したいですが、兄弟姉妹は私がこのような人であるのを知ったら、私を嘲笑い、貶すのではないかと恐れたため、私は逃避して再び集会をしたくなかったのです。

   兄弟姉妹はこのことを知らないので、よく集会に参加するように私を誘いましたが、私はいつも仕事が忙しい或いは他の口実で彼らを拒絶しました。しばらくしてから、兄弟姉妹はまた私にメッセージをして、いつ時間があるかを聞いて、彼らは私の時間に基づいて集会のスケジュールを組むと言いました。兄弟姉妹の思いやりに直面しても、私は心の扉を閉じていました。私はあらゆる方法を尽くして理由を探して彼らを拒絶し、ひいてはわざと返事しないが、彼らは気にかけず、私を包容し、忍耐し、また様々な方法を考えて私に集会できない問題を解決してくれて、いつも私に何か困難があるかを聞き、言葉には私への思いやりと世話を表し、これは本当の愛ではないか。兄弟姉妹に誠実に招かれ、私は本当に断わりかねて、彼らの集会に参加しました。最初、私はどうしても心を静められず、私は毎日罪を犯しては告白する状態の中に生き、もし神様が私を裁いたら、その時また私は罪に定められるため、今聞いても無駄だと心の中で思っていました。しかし、これらの考えはずっと兄弟姉妹に話さなかったのです。メンツにほだされ、いい加減に集会に参加していました。

「裁き」への誤解が解消された

   ある集会の時、姉妹が裁きに関する側面の真理を交わった時、ようやく私の観念が解消されたのです。楊姉妹はこう交わりました。「全能神が真理を語られ、終わりの日の人を裁き、清める働きを行われるのは、私たちを神様の国に導き入れるためです。しかし、ある人は神様の意図を理解できず、神様が人を裁き、刑罰するのは、人を罪に定めるのではないかと思います。そのため、神様の終わりの日の裁きの働きを受け入れることを拒絶するのです。それでは、神様が再び肉となって裁きと刑罰の働きをなさり、人間にとっていったい救いなのか、それとも罪に定めることですか?多くの人はこの問題を理解することができません。この側面について、全能神はどう言われるかを一緒に見てみましょう。」楊姉妹の話を聞いて、私はパッと元気になり、「今日の交わる話題はとても興味があります。私は楊姉妹が言った『多くの人』の中の一人であり、神様の裁きの働きは人間にとって罪に定めるか、それとも救いなのかが分からないのです。」と心の中で思いました。私はさらにまじめに聞きました。

   この時、ある姉妹は全能神の言葉を読みました。「神のすることはすべて、あなたたちへの真の愛である。神に悪意はまったくない。神があなたたちを裁くのは、あなたたちの罪の故である。それは、あなたたちが自分自身をよく吟味し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな、人間を形成するために行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしている。そして、確かなことは、神には、自らの手で創造した人間を完全に破壊するつもりはない。今、神は働くためにあなたたちの間に来た。これは、より以上の救いではないか。もし神があなたたちを憎んでいるのなら、あなたたちを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたたちを憎まないし、あなたたちに何の悪意ももたない。あなたたちは、神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人々を救わなければならないのは、唯一、彼らの不服従の故である。そうでなければ、彼らは救われないだろう。」「今日、神はあなたたちを裁き、あなたたちを罰し、あなたたちを罪に定めるが、あなたを罪に定めるのはあなたが自分を知るためであることを知りなさい。罪に定めること、のろい、裁き、刑罰――これらはみなあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きの必要性に適っていること、神は人を救うための計画に従って働くこと、神は人を愛し、人を救い、人を裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。……神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、そして救うために来たのだ。」

   楊姉妹はこう交わりました。「全能神の言葉から私たちは明らかに認識できるのは、神様が終わりの日に裁きの働きをなさる目的は私たちの罪を定めるのではなく、さらに私たちを懲罰するのでもなく、私たちの心を目覚めさせ、自分がサタンにより深く堕落させられた真実を認識し、背くことを許さない神様の義であり聖なる本質を認識し、堕落した性質から解放されるように私たちを救い、真の人間らしさを行動で示し、神様に救われるためです。なぜなら、今全人類がサタンの支配下に生き、ますます邪悪、堕落が酷くなり、終日飲食と快楽を追求し、罪の中に生きていて悔い改めを考えず、罪のはかない歓楽にふけ、宗教界さえ世界の邪悪な流れに従い、生きているので、不信者との違いがありません。真理を慕い求め、神様の出現を望む人がいません。神様が終わりの日に現れて働き、語られた真理は皆インターネットに載せられていますが、積極的に探し求め考察する人は何人いるのでしょうか。人々は皆全く関心も持たず、無視しており、ひいては神様の再来を罪に定め、抵抗しています。ここから分かるのは、私たちはサタンに頂点まで堕落させられ、真理を愛さず、邪悪を崇め、神様に抵抗するのです。もし終わりの日に神様が真理を語られ裁きの働きを行わないなら、私たちは自分を反省し認識できず、また主が憐れみ、慈しみであり、いくら私たちがどれほど罪を犯しても、主に赦され、主が再来される時に皆天国に引き上げられると思うのです。実は、神様が聖くて義であるのに、神様はどうして神様に抵抗する人を神の国に導き入れるのでしょうか?私たちは神様の裁きと刑罰を経験してこそ、自分の堕落した真相を見極め、いのちの性質が変化され、神様へ本当の服従と畏敬に達することができ、こうしてこそ神様の国に導き入れられる資格を得られます。ここから分かるのは、神様の裁きの働きは人にとって極めて大きな愛と救いです。それらの真理を憎み、全能神の言葉の裁き、清めを拒絶する人だけが、暴かれ淘汰されるのです。」

   ここまで聞いて、私の心配は安心に変わり、なんと神様が人を裁くのは罪に定めるのではなく、よりよく人を救うためだと分かったのです。私たちは毎日罪を犯しては告白する状態の中で生き、いつも思わず神様に逆らってしまい、確かにサタンに深く堕落させられ、私たち自分自身に頼るなら、罪の束縛から抜け出すことできず、確かに神様が一段階の裁きの働きをなさって私たちを救う必要があります。もし今日姉妹のこのような交わりがなかったら、私はまだ神様の意図を誤解し、神様の裁きの働きは私たちを罪に定めることだと思っていたままでした。神様に感謝します。今私は神様が終わりの日に裁きの働きをなさる意味を理解しました。

神様の終わりの日の裁きの働きはとても現実的である

   この時、楊姉妹は続けて交わりました。「私たちは神様の終わりの日の裁きの働きが人を救うためであることを知りました。それでは、神様はどのように裁きの働きをなさるのでしょうか?この側面の真理について、一緒に一段落の神様の言葉を読んでみると分かるはずです。全能神は言われます。『終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。』

   神様の言葉から私たちが分かるのは、全能神は真理を語られて裁きの働きを行われ、私たちが全能神の言葉を読むとき、神様が私たちに面と向かって私たちを裁いているのを感じ、神様の言葉は鋭い剣のように、私たちの神様に抵抗し、神様に背く本性を暴き出し、私たちは自分がサタンに深く堕落させられ、生きているのは皆傲慢で高ぶり、真理にうんざりし、利己的で下劣で、欺瞞や不正を行い、邪悪かつ貪欲などのサタン的性質があり、真の人間らしさは少しもありません。例えば、本分を尽くすとき、兄弟姉妹が私たちに異なる意見を出すとき、私はいつも自分の考えが正しいと思い、いくら相手の言ったことが真理と一致しても、私たちは受け入れたくなく、他人が自分の言うことを聞くように求め、とても高慢で高ぶっています。私たちは神様を信じているが、本性は真理を愛さず、金銭、名利や地位を崇め、不信者と同じく飲食と快楽を追求し、官能的快楽にしがみついています。少し放棄し費やしても、神様と取引するのであり、報いを得て天国に入るためであり、神様の愛に報い、被造物の本分を尽くすのではありません。そのほか、神様の終わりの日の働きは、言葉を用いて私たちを裁き、刑罰する以外、実生活の中で、様々な環境を配置されて私たちを刈り込みと取り扱い、試練と精錬をするのです。例えば、私たちがいい加減に本分を尽くすとき、神様は私たちを刈り込みと取り扱いをするためにリーダーや働き人を興されます。私たちが頑なに神様に逆らい抵抗するとき、神様は私たちを懲らしめと鍛錬するために環境を作り出されます。私たちの心が神様に立ち返るとき、神様はまた私たちを憐れみ、私たちが神様の意図を理解するように啓示し導いてくださいます。私たちは神様のこのような裁きの働きの中で、自分の堕落した真相に対してますます認識するようになり、肯定的なものと否定的なものに対してますます識別できるようになり、物事の見方が次第に変化し、神様の性質に対して真の認識を身につけ、神様への畏敬と敬愛の心を持つようになり、あらゆることにおいて真理を尋ね求め、実践し始め、再びサタンの堕落した性質によって生きたくないのです。良心と理知が取り戻され、堅実に被造物の本分を尽くしたくなり、神様の支配と采配に服従し、いのちの性質がますます変化され、真の人間らしさを持つようになります。これは皆神様の裁きの働きによって達した効果です。」

   姉妹の交わりを聞いて、私の心配が全部なくなり、神様の働きは本当に現実的だと分かりました。もし神様の言葉の裁きと刑罰を経験しなかったら、私たちは皆自分を高く評価し、自分を認識することなんかできません。もし自分を認識しなかったら、私たちはどうやって変化できるのでしょうか?神様の終わりの裁きの働きに対して少し認識できた後、私は喜んで神様の終わりの日の働きを受け入れました。

   次の集会をするときに、姉妹は私に一部の全能神教会の証しの経験の映画「神様の働きによって私は真の人間らしさを生きてきました」を見せてくれました。映画の中の主人公は数十年にわたって建築の請け元に携わっており、かつて「政府と企業の共謀」の暗黙のルールに従わないと商売できない暗い社会の中で、お金を稼ぐため、彼は止むを得ず邪悪な流れに従って、賄賂し、自堕落になり始め、政府関係者とぐるになって、たくさんの悪事を働くのですが、良心のとがめにより彼は苦痛ともがきの中で生きています。母親が全能神の終わりの日の福音を彼に伝えた後、神様の言葉の裁きと刑罰の中で、彼は自分がサタンに堕落させられた哀れさを見極め、自分を後悔し、嫌悪し、神様の言葉によって正直者となることを実践し、その後、次第にサタンの束縛から抜け出し、神様の祝福と守りの中で生きられるようになりました。

   この映画を見てから、私は神様の裁きの働きは確かに人間を救い、清めることができることを見ました。もし神様の裁きと刑罰がなかったら、私たちは自分がどれほどサタンに堕落させられたかを知ることができず、神様の裁きと刑罰は確かに私たちをサタンの束縛から救い出すことができ、神様の言葉は本当に権威と力があります。幸いに私は神様の終わりの日の働きを受け入れることができて、本当に心から神様に感謝します。今私のうちに堕落した性質はまだたくさんあり、今後私はより多く全能神の言葉を読み、神様の裁きと刑罰を経験し、一日も早く神様に清められ、完全にされ、神様の心に適う人になれるように願います。


生まれ変わる真の道を見つけた

2019-12-07 22:27:04 | 神に帰す証

   私はクリスチャンの家庭に生まれましたが、両親は知識不足のため聖書に関する知識は何も説明してくれませんでした。後に、私は教会の経営する教区立学校に入学しました。そこの先生は毎週聖書の勉強会を開いてくれました。それ以降、私は聖書を理解し始め、ノア、アブラハム、そしてダビデといった伝説的な聖徒が沢山登場することを知りました。彼らは全員が素晴らしい人たちで、私は彼らのストーリーに感心し、彼らが羨ましくなりました。次第に、私は日曜学校に通い始め、祈りの捧げ方を学びました。しかし、その後、私は生活のストレスから退学してしまい、代わりに家を出て働きに行きました。

   私が以前受け入れた信仰により、私は神を信仰することは救われて、天国に入るためであっても、天の御国に入りたいのであれば、私たちは完全に告白し、悔い改め、常に主のもとを離れてはいけないのだと分かっていました。なぜなら聖書にはこう記されているからです。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」(ペテロの第一の手紙1:15-16)。したがって、私は家から離れて働いていた間も、毎週日曜日の集会には可能な限り足を運びました。

   それと同時に、主を喜ばせ、将来救われて天国に入れることを期待した私は主の道を守り、完全に悔い改めることも望みました。それにもかかわらず、実際、私は頻繁に罪を克服できないことがあり、常に罪を犯し告白するといった状態の中を生きていました。例えば、主は、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書5:37)、と仰って私たちに真実を語ることを教えてくださりました。しかし、時折、私は一時的な欲を満たそうと一日中トランプをして遊んでいたにもかかわらず、友人に電話でどこにいるのかと聞かれると、仕事中だと言って嘘をつくことがありました。それに、私は他人の富をむやみに切望するべきではないと良く分かっています。しかしならが、他人が無くした価値のある物を見ると、それを自分の物にしたくなることがたまにあります。更に酷いことに、主は私たちに女性を見てもみだらな気持ちを抱いてはいけないと教えてくださったにもかかわらず、私は美しい女性を見るといつも良からぬことを考え、それを抑制できずにいます。枚挙に暇がありません。こういった状況の中で、私はいつになったら真の悔い改めができるのか、そしてもう罪を犯さないために何をするべきなのかさっぱり分かりませんでした。たまに、私は仲の良かったクリスチャンの友人たちと自分の状況について話ましたが、自分たちが同じ困惑を抱えているとは思いませんでした。これ故に、私はこう思いました。「この問題を書き出しておいて、後で牧師を家に招待できる時に聞いてみたら、答えが分かるかもしれない。」



   2017年4月、ある牧師が私たちの教会に説教をしにやってきました。その当時、彼はヨハネの黙示録の預言について語りました。彼は、主が来られる日が迫っており、近々大きな災害が発生し、言葉を絶するようなありとあらゆる災難が起ると言いました。私はヨハネの黙示録の預言に関する説明を聞くのは初めてだったので、とても熱心に聞き入りました。次いでこの牧師は、世の終わりの災害を逃れたければ生まれ変わらなければならないと言いました。真に再生して救われた者だけが天国に入れるからです。再生の真理に関する牧師の説教を聞いた私は、罪を一掃する一縷の希望があるように思えました。これ故に、私は福音集会の最終3日間は一日も逃さずに毎日教会に説教を聞きに行きました。しかし、福音集会が終了した後、私はヨハネの黙示録に関する牧師の説教は生まれ変わる道の探求を熱望させてくれはしたものの、それは自分が罪を犯してしまう問題を解決するための道は示してくれていないように感じました。教会の兄弟姉妹たちが彼に残ってもっと説教をしてほしいとお願いした時、彼は現在多忙過ぎると言ってそれを断り、翌年の同じ時期まで先送りにしてしまいました。牧師がこう言ったのを聞いて、私の心の中の興奮はあっと言う間に冷め止んでしまいました。彼は大きな災害が近々降りかかってくると言いましたよね?彼が来年戻って来てそれについて語ったとしても、もし彼がくる前に災害が起きて、まだ私たちは完全に悔い改められていないとしたら、その時私たちはどうすれば良いのでしょう?「少なくとも私たちに進むべき道を指し示してくれればいいのに!」と思いました。しかし、私は教会にいる単なる平凡で普通の信者に過ぎないし、牧師と言葉を交わすにふさわしい者でもないので、悔い改めと再生に関する疑問について詳しく話して欲しいとお願いする資格などないのです。

   これを理由に、私は思わず溜息をついてしまいました。「ああ、主よ!私は素質が乏しい故に聖書がよく理解できません。あの牧師の説教を聞いている間、私は彼を称賛し、彼の説教に魅了されました。しかしその後ですら、私は実践するべき道が分かりません。ああ、主よ!私はあなたが来られる日が近いことを信じています。私はあなたが来られる前に完全に悔い改めることができていなかったら、祝福の代わりに不幸を被ってしまいます。ああ、主よ!私はこのまま罪を犯し続けるのでしょうか?聖書を完全に理解するまで待てば、罪を犯す問題は解決するのでしょうか?」

   主は私がすべきことを知っておられました。5月のある日、私の友人の1人が彼の所に説教師に会いに来るよう誘ってきたので、私は喜んでその約束をしました。私は彼の家でリー兄弟と出会いました。とても若い彼を見て私はびっくりしました。なぜなら、私は説教師は皆もう少し年上であるイメージを持っていたからです。

   私がそれ以上考える前にリー兄弟は私にこう聞いてきました。「兄弟、私はあなたは幼い頃から主を信仰している熱心なクリスチャンだと聞きました。質問なのですが、クリスチャンと聖徒の間には何か違いがあると思いますか?あなたの理解を話してくれませんか?」

   私は、「はい、違いはあります。聖徒は神聖で罪を犯さない人のことを指します」と言いました。

   リー兄弟はまたこう聞いてきました。「そうしたら、心を清めてもう二度と罪を犯さないようにするために、私たちはどのように振る舞うべきでしょう?」

   私は、「それは全く分かりません。私もその答えを探しているのです」と応えました。

   リー兄弟は続けてこう言いました。「聖徒になり、もう二度と罪を犯さないようにする方法は正に1つや2つの文章で明確に説明できる疑問ではありません。なので、ゆっくりと話し合いましょう。」

   私はリー兄弟が罪から解放される方法について交流をしてくださると言ったのを聞いて、即座に興味を持ちました。その夜、リー兄弟はあまり喋りませんでしたが、彼の交流した各問題は私の状態と欠陥に向けられており、私は彼の交流をとても新鮮に感じました。翌晩、リー兄弟は動画を再生し、それと聖書を組み合わせて交流してくれました。私はそれをとても斬新だと思いました。福音映画の中に見た討論はとても激しく、非常に魅力的で、リー兄弟の交流もまた合理的かつ根拠が堅いものでした。そして3日目の夜のことです、リー兄弟は聖書と動画を組み合わせて、オリーブ山は既に裂けており、イエス様は既にもう一度受肉され、裁きと清めの働きの段階に着手されていると証ししたのです。主の再臨の知らせを聞いた私はとても驚いて興奮しました。私は主が本当にお戻りになられたことを完全に確認することはできませんでしたが、リー兄弟の交流は聖書に基づいていたため疑う余地はないと感じました。その後、私は家に帰ってから動画をしっかり見て物事を明確に調査したかったので、リー兄弟に動画をいくつかダウンロードして欲しいと頼みました。しかし、4日目が来た時、説教を聞きに来た現役兵士の友人数人は突然所属している部隊に呼び戻されてしまいました。そしてリー兄弟も予期せぬことが起ってその場を去ってしまいました。彼らは急いで去って行ったため、私たちはお互いに連絡が取れなくなってしまいました。元々私に説教を聞きに来るよう誘ってくれた友人までが所属する部隊に戻ってしまったので、私に終わりの日の神の働きを交流し、それを私に証ししてくれる人がいなくなってしまいました。

   このような状況に直面し、私はとても驚き心細く感じました。なぜなら、私は神が肉に戻られる時になさる働きを未だ完全に確信できていないにもかかわらず、その探求方法が突然失われてしまい、私は妙に虚しくなり、途方に暮れてしまったからです。私はこう思いました。「主の再臨の知らせを聞いても、愚かな乙女のように花婿を迎えられずドアの外に閉め出されてしまっては、大損を被ってしまうのではないでしょうか?しかし、私は主の再臨の知らせを完全に信じることができないし、主の新たな働きを確信できでもいませんし、まして再臨された主について行く方法などなおさら分かっていないのです。私はダウンロードされた動画をいくつか手に持っていましたが、交流してくれる人がいないので、私はこれらの動画の明確な理解が得られず、曖昧で漠然とした考えしか持てませんでした。

   およそ半月後、友人の1人が私に会いに来ました。彼は熱心なクリスチャンでした。私は彼に主の再臨について聞いた内容と心の中の困惑について話し、そして神の働きを一緒に調べてもらおうと彼に動画もいつくか見せました。彼は動画を見た後、強い興味を示してこう提案しました。「今は情報化時代です。どんな情報でもインターネットにアップロードされます。主の再臨は本当に偉大な出来事ですから、それに関する情報がウェブサイト上にあるはずです。インターネットを検索してみましょう。」私は彼の提案は合理的だと思い、そうしてみようと思いました。その数日後、彼はFacebookでイタリアにいる東方閃電の信者リー・ジエ姉妹を見つけたと言って私にメッセージを送ってきました。彼は北京語に精通していなかったので、私にまず彼女を友達リストに追加して、中国語で会話をしてから分かったことを彼に伝えて欲しいと言いました。私は彼のメッセージを読んだ後、すぐにリー・ジエ姉妹を彼の友達リストから検索し、彼女に友達リクエストを送りました。これと同時に、私は終わりの日の神の働きを完全に調べる準備もしました。

   私の友人がリー・ジエ姉妹に予め連絡していたので、彼女は私を友達リストに追加したらすぐに私の神への信仰について質問してきました。そして、私も単刀直入に切り出しました。「姉妹、主がどのように戻られ、どのような方法で再臨されるかご存知ですか?東方閃電はイエス様の再来なのですか?」リー姉妹は全能神の御言葉の次の節を送ってくれました。「イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(「序文」より)私は、神の御言葉を聞いて、それは終わりの日に神は救いの働きを更に進めるためにもう一度受肉されると明確に表している感じがしました。

   そして、リー姉妹はこう言いました。「イエス様は最初に来られた時は十字架に磔にされて人類の罪を贖う働きのみなさりました。すなわち、主は大きな犠牲を払って私たちをサタンの手から救い出してくださったのです。しかし、私たちの内には依然として堕落した性質が存在しています。それ故に私たちは未だに頻繁に罪を犯し、神に抵抗し、罪を犯しては告白し、告白したら罪を犯すというサイクルの中を絶えず生きているのです。これが紛れもなく主の信者全員が送っている堕落生活なのです。したがって、神はもう一度受肉して裁きと清めの働きをする必要があり、それはまさにこのイエス様の御言葉を現実化しているのです。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。』(ヨハネによる福音書12:47-48)終わりの日に、神は、私たちがキリストの御国に入れるよう、自ら肉となられ、御言葉を表して私たちの堕落を裁き、明らかにされ、そして御言葉を使って私たちを真理が理解できるように導いてくださり、さらに私たちが徐々にサタンの堕落した性質から離れ、清らかになるのをお助けくださるのです。」

   この言葉を受けて、私はこう思いました。「私は長年に渡ってイエス様を信仰してきたのに、今まで一度も罪の束縛から脱出できず、むしろ何の真理を理解することもなく、未だに頻繁に罪を犯してそれを告白するという状態の中を生きている。私がやってきたことは多数派に従い、ただ集会に参加していただけ。こんな私に天の御国に入る資格があるわけがないのです。」神が救いの働きを先に進めるために受肉されていなかったら、私が自力で罪の問題を解決するのは正に不可能です。それに、イエス様は一度こう言っておられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)。私は今この御言葉について考えて見ると、それは神が終わりの日に人間を完全に清める働きをするために受肉される場合に限って、私たち人間は天の御国に入れると黙示しているように感じました。

   そして、リー姉妹は神の御言葉の他の2節を送ってくれました。「あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」(「呼び名と身分について」より)「裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)

   姉妹は続けて交流しました。「イエス様は人間のいのちの性質を変える働きをされていないので、私たちの内にある傲慢さ、身勝手さ、偽り、貪欲さ、邪悪さ等、すなわち、私たちの堕落した性質は未だに残ったままで、清め変えられていないのです。罪を犯し、神に抵抗するいずれの者は清らかな心を持っておらず、サタンに属しており、最終的には神から罰を受ける対象となります。これ故に私たちは終わりの日の神の裁きの働きを受ける必要があるのです。私たちは神の御言葉による裁きと刑罰を通じて自分たちの堕落に関する認識を得て、自分たちがサタンに酷く堕落させられて耐え難いほど醜くなってしまったことを知り、それにより自らを嫌い、肉に背き、そして神を崇める場合に限って神に背いたり、抵抗するのを止められるようになるのです。こうしてのみ、私たちは着実に清められ、神の御国に入る資格を得ることができるようになるのです。全能神の働きはまさに、大きな白い御座の前で行なわれる裁きの働きなのです。終わりの日の神の御言葉による裁きを受け入れる者は誰もが神の御言葉によって清められ、そして完全にしていただくために、神の御座の前で引き上げられていきます。最終的に、彼らは神の御言葉から真理を得て、自分たちの堕落を完全に捨て去ることができた時、完全に清められたことになります。この人々は、終わりの日に災害が降りかかる時、神の素晴らしい御加護を授かります。これについて聖書には、「たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。」(詩篇91:7)と書かれています。この人々は神から救われた人々であるため、災害には遭いません。そして彼らは神の御国で神の祝福を授かるのです。」



   次に、全能神教会の兄弟姉妹たちは、私に神の3段階の働き、受肉とは何か、神は終わりの日にどのようにして裁きと清めの働きをされるか等、更なる真理に関して詳しく交流をしてくれました。これにより、私は東方閃電は正に真の神の働きであること、そして全能神は間違いなくイエス様の再臨であることを完全に確信にしました。私は真に清められる道を発見し、子羊の足跡を辿り、真の悔い改めと再生の道を歩み、そしてこれはまた終わりの日に大きな災害を免れる唯一の方法でもあります。これは全能神による御救いのおかげです。全ての栄光、全能神にあれ! 


神様の性別の奥義を理解して、主の再臨をお迎えする(I)

2019-12-02 21:40:43 | 神に帰す証

   私は1992年に主イエスを信じ始め、次の聖句を聖書で読みました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3:16)主イエスは人類の罪を贖われるために、罪の捧げ物として十字架にかけられました。そのことを考えるたび、私は心の中で大いに感動しました。主を信じ始めたあと、私は教会の集会に熱心に参加し、時間があるときはいつも聖書を読んで祈っていました。

   ある日、妹が以前に会ったことのない二人の姉妹を自宅に連れてきました。彼女たちは話の途中で、神様は受肉してすでに戻られていて、女性の姿で現われ働きをなさっていると言いました。私はそれを聞いてすぐに反論しました。「どうしてそんなことがあり得るんですか。聖書にはっきりこう記されています。『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネによる福音書3:16)聖書に記されているひとり子は間違いなく男性です。ということは、主もきっと男性としてお戻りになるはずでしょう。神様が女性としてお戻りになったとどうして言えるんですか」私がここまで反対する姿勢を示したにもかかわらず、姉妹はそれを見ても、私に精一杯の思いやりを示してこう言いました。「姉妹、神様が女性として受肉なさったことが私たちの観念に合わなくても、神様の働きは私たちの意志で変わるものではないことを知らなければなりません。また、神様の御業を私たちの考えで判断してはいけません。例えば主イエスがおいでになって働きをなさったとき、それは人間の観念と想像を超えていました。何しろ、主は宮殿ではなく飼い葉桶の中でお生まれになったのですから。また、主はユダヤ人を率いてローマ当局を打倒することもなさらず、その代わりに敵を愛して寛大さと忍耐強さを示すよう人々に教えられました。当時のパリサイ人は、主イエスの働きが自分たちの観念に合わないからといって、主に抵抗して断罪したのではなかったですか」そのとき私の心の扉が閉まり、彼女たちが何と言おうと私は耳を傾けませんでした。その代わりに立ち上がって他の用事を済ませに行ったのです……



   その後、私の母が全能神による終わりの日の働きを受け入れ、私にこう説教しました。「神様は受肉してお戻りになっています。全能神はお戻りになった主イエスで、御言葉を表現なさり、人間を清める働きをなさるのよ。私たちは何年も主を信じて、その再臨をお迎えできる日を心待ちにしてきたわ。主がお戻りになったことを受け入れないなら、あなたの信仰はすべて無駄になります。妹が戻ってきたら彼女の話にちゃんと耳を傾けなさい。さもないと主の到来をお迎えする機会を逃して、一生それを後悔するわ」しかし私は、主イエスは男性なのだから、お戻りになった主も男性のかたちでおいでになるはず、決して女性のかたちでおいでになることなんてないと、心の中で信じていました。そしてそれを受け入れないよう母に忠告さえしましたが、母はそれに耳を傾けませんでした。すでに決心を固めていたのです。

   その後、何名かの兄弟姉妹が来て私に主の再臨の福音を宣べ伝えましたが、私はそれを聞きたいと思わず、彼らに抵抗しました。しかしそのとき、私たちはみな主の信者であり、愛をもって客を迎えなければならないと聖書に書かれていることを思い出しました。彼らの説教することが自分の観念に合っていようといまいと、それでも正常な人間性を生きなければならないのです。それで私は自宅に彼らを迎えました。彼らが教えを説くあいだ、私は無表情のまま脇に座っていました。しかし、私がどんな態度をとっても、彼らは私への思いやりに満ちたままで、それでもわざわざ私に説教してくれるのだと気づきました。彼らがどのように生きているかを見て、私は警戒心を解きはじめました。

   そこで私はこう言いました。「あなたたちは主イエスが女性としてお戻りになったと教えていますが、私にはそれがよく理解できません。私たち全員が知っているとおり、主イエスは以前お戻りになったとき、男性としておいでになりました。それなら、主は終わりの日にも男性としてお戻りになるんじゃないでしょうか。女性としてお戻りになるなんてどうしてあり得ますか」

   私の疑問を聞いたあと、ひとりの姉妹が辛抱強くこう言いました。「『創世記』第1章26節から27節にはこう記されています。『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』神様はご自分のかたちに男女を創造されたと、創世記にはっきり記されています。私たちが言うように神様が男性なら、聖書のこれらの言葉はどう説明できますか。実際、神様の本質は霊であり、男女の区別はありません。男女の区別が生じたのはひとえに神様が受肉して人類を救われたからですが、そのことは神様が男性であるとも女性であるとも意味していません。主イエスが男性として受肉なさったからといって、神様を規定してはいけないのです。神様が男女どちらで受肉なさろうとも、それが神様の働きである限り、私たちは考察して受け入れなければなりません。その取り組みにあたって自分の観念や想像に頼ってはいけません……」

   私はその通りだと思いました。神様はご自分のかたちに男女を創造されたと、創世記にはっきり記されています。神様はアダムを男性に、エバを女性に造られましたが、二人とも神様のかたちに造られたのではないでしょうか。それは事実です。兄弟姉妹が帰ったあと、彼らの話には理知があり、聖書ととてもよく符合していたと私は考えました。もう一度来てくれるなら、熱心に耳を傾けてその真相をすべて突き止めようと決心しました。

   しかし数日後、私の姉が大教会から五人の兄弟姉妹を連れてきましたが、彼らは深刻な口調でこう言いました。「東方閃電の教えを宣べ伝える者がお宅に来ましたか。それを信じてはいけません。主が女性のかたちでおいでになって働きをなさるなど、どうしてあり得ますか。それを信じてはいけません……」彼らは順番にそれぞれの話をしましたが、私はそれまでためらっていたものの、彼らが言ったことのせいで、開きかけていた心の扉が再びばたんと閉じました。その後、教会の人に突き止められてしまうのではないかと不安になり、兄弟姉妹が神様による終わりの日の働きを説教しようと再び来たときも、私は自宅に入れるのを拒否しました。

   しかし母はそれまで通り全能神を信じ続け、集会が開かれるたびに参加し、どんな悪天候だろうと一度たりとも休みませんでした。それに全能神を信じ始めて以来、顔には満面の笑みが浮かび、神様への信仰も積極的かつ強くなったことに私は気づきました。家族を親切に優しく扱い、他人に対して寛大で忍耐強く、単に主を信じていたころとは大きな変わりようでした。しかし私はと言えば、教会に行って説教に耳を傾けていましたが、それらは同じ古い話ばかりで、霊が糧を得ることはありませんでした。自宅で聖書を読んだり祈ったりしても聖霊の働きを感じられず、聖書を読むことにおざなりの注意を払うだけで、読んでいる途中で眠ってしまうこともありました。どれほど読んでも聖書の中にある主の御心をまったく理解できず、祈るときも心が入っていませんでした。私は動作を繰り返しているだけでした。信仰はますます冷たいものになり、霊が乾いてしおれるように感じました。心も揺れ動き始めました。全能神が本当にお戻りになった主イエスだということがあり得るのか。私は真の神様の働きを閉め出しているのか。

   続く。


主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

2019-09-09 21:15:21 | 神に帰す証

オンラインの集会に参加することで潤される

私は数年前に家族と一緒に主イエスを信じ始めました。しかし2017年になって仕事のせいで頻繁に集会に参加できず、霊が沈んでいくのを徐々に感じました。自分の気に入らない物事に出会うたび、私はしばしば怒りっぽい性質を露わにしていました。心の中では自分を憎んでいたものの、それでも感情を抑えられなかったのです。そこで主に祈り、聖書の学習で私を導き、それによって主との関係修復を助けられる人を用意してくださるようお願いしました。

ある日、Facebookグループである人のために祈っていたところ、ひとりの姉妹が私を友達に加えてくれました。その後、私たちは信仰に関することをオンラインでチャットするようになりました。その姉妹は聖書について多くのことを知っており、彼女の交わりはとても光に満ちていたので、私は自分の霊が再び潤されたことについて心から主に感謝しました。あるとき、彼女が説教を聞くよう招待してくれたので、私は喜んで従いました。説教の間、ある兄弟が聖書を使って、人類の堕落の起源と、どのような人が天国に入れるかを語りました。彼の説教は牧師のものよりも啓きに満ちていて、耳を傾けていた私の心は光
で満たされ、その兄弟の説教を聞くのが楽しみになりました。

オンラインの噂と牧師に影響され、神様による終わりの日の働きの考察を拒絶する
次の集会が終わりに向かう中、その兄弟は「神様につき従う決心を揺るぎない」という賛美歌を歌いました。私はその賛美歌を聴いたことがなかったので、好奇心からオンラインでそれを探しました。あるリンクをクリックしたところ馴染みのある画像が現われ、それが全能神教会のウェブサイトであることと、その賛美歌が東方閃電によって作曲されたことを思い出しました。以前、牧師が全能神教会のウェブサイトをプロジェクターで映し、それについて悪く言っていたことがあるので、私はとても驚きました。しかし兄弟による説教はとても光に満ちていました。いったいどうなっているのでしょう。それから東方閃電に関する多くの否定的なコメントをオンラインで読んで、その兄弟を心の中で警戒するようになりました。その後、私はあの姉妹に、兄弟が歌った賛美歌は東方閃電のもので、彼の信仰は私たちのものと違うと言いました。すると姉妹は、次のオンライン集会でその問題の答えを一緒に見つけましょうと言ってくれました。

集会のあいだ、私たちは心の中の疑惑を兄弟に伝えました。すると兄弟は、真の道を考察するときは神様のお声に耳を澄ますべきで、オンラインの噂を基に考察すべきではないと語りました。そして、今は終わりの日で、主イエスは肉となってお戻りになり、全能神の御名で神様の家から始まる裁きの働きをなさっていると言いました。また神様による終わりの日の裁きの働きや、神様が御名を変えられたことに関する聖書の聖句も数多く示してくれました。終わりの日の裁きの働きと全能神の御名に関する聖書の預言に反論することはできませんでしたが、全能神はお戻りになった主イエスであるという兄弟の言葉は私にとって信じがたいものでした。私はこう考えました。全能神は本当にお戻りになった主イエスなのか。牧師がそれについて語るのを以前に聞いたことはないし、主イエスも「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)とおっしゃった。主イエス以外に私たちを救える方はいらっしゃらない。全能神を信じるなら、主イエスを裏切っていることにはならないか。私はまだ天国に入れるだろうか。そうしたことを考えると、兄弟の言うことに耳を傾ける気がしなくなりました。

その後、異端に気をつけるようにとのメッセージが教会のFacebookグループから送信されました。私はそれを見て、あの兄弟と接触するのがさらに嫌になりました。また姉妹が何度も招待してくれたにもかかわらず、オンライン集会に参加するのも断わりました。しかし後になって、兄弟の説教は主の御言葉と一致しており、ゆえに異端であるはずがないと感じました。そう考えていると心の中で葛藤が起こり、惨めな気分のまま、どうすべきかわからないでいました。その後、兄弟がグループチャットで数編の動画を送ってくれました。それらの動画を再生したところ、西洋の宗教学者による研究報告やコメントがいくつかありました。彼らは中国共産党による全能神教会への非難を調査し、インターネットで流れている全能神教会についての否定的な報道の大半は中国共産党が捏造したフェイクニュースであり、根拠となる事実がないことを証明していました。それらはまた、全能神教会を誹謗し断罪している中国共産党のフェイクニュースが、宗教的信仰の抑圧を目的としていることも暴いていました。これらの動画を見終えて初めて、インターネット上の噂がすべて嘘であることに気づきました。その後、兄弟がグループチャット経由で送ってくれた全能神教会による福音動画も見ました。その動画に登場する兄弟姉妹は中国共産党による逮捕を避けるため、しばしば集会の場所を変える必要がありました。集会の最中に中国共産党によって逮捕され、残酷な拷問を受けた人もいれば、自宅を捨てて逃げることを強いられた人もいました。私はそれらのシーンを見てとても悲しくなり、かつてある長老が中国に行って教えを宣べ、中国共産党はクリスチャンを迫害するのに力を惜しまず、中には投獄された長老さえいると言っていたことを思い出しました。また日曜礼拝の教師は、中国共産党は無神論者でマルクス主義を信じているから、神様を信じる人は誰もが弾圧されると言っていました。当時、私はそれらを誇張だと思っていました。盗みも強盗も働いていない主の信者を、どうして中国共産党が逮捕するでしょうか。しかしこれらの動画を見て初めて、中国共産党は犯罪と闘うよりも宗教的信仰を抑圧するほうに関心があり、彼らによる全能神教会の断罪を信用してはならないと理解しました。

神様による終わりの日の働きを受け入れるのは主イエスを裏切ることなのか
私は中国共産党による噂を見抜きましたが、主イエスと全能神の関係についてはまだはっきり理解しておらず、兄弟の説教を聞き続けるべきかどうかわからないままでした。全能神を信じ始めたら主イエスを裏切ることになるのではと不安だったのです。すると姉妹が、そんな簡単にあきらめず、最後の判断を下す前に詳しく調べてはどうかとアドバイスしてくれました。彼女の言うことは正しいと思いました。いったい何なのかを突き止めることなくあきらめたら、実際に主がお戻りになっていた場合、主をお迎えする機会を失うことにならないだろうか。そこで、次の集会で兄弟が説教することに耳を傾けることにしました。

インターネットに接続すると、私の疑問について兄弟がこう説教してくれました。「主イエスを信じる私たちはみな、主が真の神様であることを知っています。また主から多くのお恵みと祝福を受け取り、大いに感謝して愛情を抱いています。ゆえに、主はすでにお戻りになっているが、もはやイエスではなく全能神と呼ばれていると聞くとき、私たちの多くは心の中でためらいを感じだし、自分は別の神様を信じて主を裏切っているのではないかと不安になります。そのせいで神様の働きをあえて考察しようとしないのです。しかしこのような考え方は正しいでしょうか。私たち全員が知っているとおり、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ファリサイ人は主の働きを異端だと断罪し、ローマ帝国と手を結んでイエスを十字架にかけました。主の御名がメシアではなく、安息日をお守りにならず、神殿の外に行って働きをなさり、教えを宣べ伝えられたからです。次のことを考えましょう。何世代もヤーウェ神に仕え、熱心にメシアを待ち望んでいたファリサイ人は、主イエスが預言されていたメシアであるとどうして気づかなかったのでしょう。それは、彼らが神様を知らず、とても傲慢でうぬぼれていて、自分の観念と想像を基に主イエスを断罪して拒んだからです。彼らは最終的に神様を信じながら神様に抵抗した人たちとして人生を終えました。ならば、主がお戻りになったという知らせを聞きながら、主の御名がイエスから全能神に変わったからといって考察するのを拒むなら、それは単に当時のファリサイ人の過ちを繰り返していることになりませんか」

兄弟の説教は深く考えるべき多くのことを私にもたらしました。彼は正しいと私は思いました。神様にはお知恵があり、神様がどう働かれるかは私たちに想像できることではない。しかし自分の観念と想像を基に神様の働きを判断すれば、まさにファリサイ人と同じではないだろうか。そう考えると心がとても落ち着き、引き続き兄弟の説教に耳を傾けました。

兄弟は続けました。「事実、ヤーウェ神と主イエスと全能神は一つの神様です。その働きと、働かれた場所は違っていますが、いずれも堕落した人類の必要に応じて神様がなさらなければならない働きなのです。律法の時代、神様はヤーウェ神の御名を使って働きをなさいました。ヤーウェ神は律法を布告なさって生まれたての人類を導かれ、地上でどう暮らすべきかをお教えになり、威厳と怒りと憐れみの性質を表現なさいました。律法に従う人たちは神様の祝福とお恵みを得ました。律法に背いた者は罪の捧げ物をしなければならず、さもないと石打ちの刑に処されるか、天の火によって焼かれました。律法の時代の後期、人類の罪はますます深刻になり、罪を贖われるためにする罪の捧げ物ももはやないほどでした。ゆえに、神様は人類が必要とするものを基に受肉され、イエスの御名で恵みの時代の働きをなさり、愛とあわれみの性質を表現なさるとともに、豊富なお恵みを人類に授けられ、悔い改めの道を宣べ伝えられ、自分を愛するように他人を愛するようお教えになり、人類のために罪の捧げ物として十字架にかけられました。恵みの時代の働きは二千年にわたって続き、主の贖いのおかげで私たちの罪は赦されてきたものの、傲慢さ、偽り、利己心、邪悪さといった私たちの堕落したサタン的性質はいまだ残っており、いまなお罪を犯しては告白するという循環の中で生き、罪の束縛からまったく逃れられないでいます。これは真実ではないですか」

私は言いました。「ええ、真実です。主は私たちに、寛大で忍耐強くなり、自分を愛するように他人を愛するようお教えになりました。私たちは自分の怒りを抑えられるときもありますが、自分の意にそぐわない物事に遭遇すると怒りっぽい性質をどうしても露わにすることがあります。私たちは主の御前で罪を告白して悔い改めますが、それでも再び同じ罪を犯してしまいます」

兄弟は再び説教を始めました。「そうです。主イエスによる贖いの働きのおかげで私たちの罪は赦されてきましたが、私たちに罪を犯させるサタン的な本性はいまなお深く根ざしており、いつでもどこでも罪を犯して神様に反抗することができます。聖書にはこう記されています「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)また主イエスはこうおっしゃいました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書8:34-35)罪を犯しては告白するというこの状態の中で生き続けるなら、たとえ主イエスの罪の捧げ物が永遠に有効だとしても、私たちはなお主によって天国へ引き上げられることができません。ゆえに終わりの日、神様は私たちが必要とするものを基に、主イエスによる贖いの働きを土台としてより高い働きをなさり、私たちの罪を裁いて不正を清めるべく真理を表現なさって、私たちが真の救いを得て天国に入れるようにしてくださいます。そのことから、ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きはそれぞれ不可分に結びついており、働きの各段階は直前の段階に比べてより高く、それらが一つの神様の働きであることがわかります。ここで神様の御言葉の二節を読みましょう。そうすればもっとはっきり理解できます。