賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

今日のみことばー神は人間のいのちの源である(抜粋 2)

2020-07-31 23:26:14 | デボーション

   神はこの世を創造し、神がいのちを授けた生けるものである人を、この世にもたらした。次いで、人は両親や親族を持つようになり、もはやひとりぼっちではなくなった。人が最初にこの物質的な世界を見て以来ずっと、人は神の定めの範囲内で存在するように運命づけられた。生けるものひとりひとりを成人になるまでの成長を通じて支えるのは、神からのいのちの息である。この過程において、神の配慮の下で人が生き、成長しているとは誰も信じない。むしろ、人は彼が彼の両親の愛情と配慮の下で成長し、彼の成長はいのちの本能によって支配されていると考える。これは、誰がいのちを授けてくれたのか、それはどこから来たのかについて人が知らず、ましてやどのようにいのちの本能が奇跡を作り出すのかについては更に知らないからである。人にはただ、食物がいのちの継続の礎であり、忍耐がいのちの存続の源であり、人が頭で考える信念が、人の生存の資本であるということだけが分かっている。人は神からの恵みと備えを感じない。そして人は、神によって授かったいのちを浪費するのである……神が日夜顧みている者のなかで、進んで神を礼拝しようとする者はひとりもいない。神は、何の期待も持っていない人に対して計画した通りの働きを続ける。神は、いつの日か、人が夢から覚め、突然いのちの価値と意義について悟り、神が人に全てを与えたその代価がどれほどかを理解し、神がどれだけ熱烈に、人が自身のもとへ戻ってくるよう望んでいるかを知ることを望みながら、その働きを続ける。かつて、人のいのちの起源と継続の秘密を深く考えた者は誰もいない。それでもなお、このことをすべて理解している神ひとりが、神からすべてを受け取ったにも関わらず感謝の気持ちを持たない人からの苦痛と打撃に、静かに耐えるのである。人は、いのちがもたらすものすべてを当たり前のこととして考える、そして、「当然のこととして」神は人から裏切られ、忘れ去られ、ゆすり取られている。神の計画は本当にそれほど大切なのだろうか。神の手によって生まれた生けるものである人は、本当にそれほど大切なのだろうか。神の計画は絶対的な重要性をもっている。しかし、神の手によって創造される生けるものは、神の計画のために存在するのである。したがって、神は、この人類に対する憎しみから自分の計画を無駄にすることはできないのである。神がすべての苦しみを耐えるのは自分の計画と吐いた息のためであり、人の肉のためではなく、人のいのちのためである。神は、人の肉ではなく、神が吐き出したいのちを取り戻したいと望む。これが神の計画である。

   この世に来る者はすべて、生と死を経験しなければならず、多くの者が死と再生のサイクルを経験した。生ける者は間もなく死に、死せる者は間もなく返ってくるだろう。これはすべて、生ける者それぞれのために神によって手配された人生の行路なのである。しかしながら、この行路とサイクルは、神が人に見てほしい事実、神によって人に授けられたいのちは無限で、肉、時間、空間の拘束を受けないという事実なのである。これは、神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来たことの証なのである。多くの者は、いのちが神から来たと信じないかもしれないが、神の存在を信じるか、否定するかにかかわらず、人は必然的に神から来るものすべてを享受する。いつの日か、もし神が突然心変わりをし、世に存在するものすべてを取り戻し、神が与えたいのちを取り戻したいと望むなら、すべてのものはなくなるだろう。神は自分のいのちを使って生けるものといのちのないもの両方のすべてのものを供給し、神の力と権威によって、すべてに良き秩序をもたらすのである。これは、誰も想像できず、たやすく理解できない事実であり、これらの理解不可能な事実こそが、神の生命力の顕示と証明なのである。今わたしはあなたにひとつの秘密を教えよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にも推し測ることができない。これは今もそうであり、昔もそうであったし、これからもそうであろう。わたしが伝える第二の秘密はこれである。すべての被造物のいのちの源は神から来るのである。いのちの形や構造にいかなる違いがあっても、あなたがどのような生命体であっても、神が定めたいのちの道と逆方向に動くことはできないのである。いずれにしても、わたしが人に理解してほしいことは、人がどんなに努力しても、奮闘しても、神の配慮、守り、備えなしには、人は受け取るはずであったものを何も受け取ることができないということである。神からのいのちの供給なしには、人は生きる価値を失い、いのちの意義を失う。神のいのちの価値を無駄にする人が、それほどのんきでいることを神がどうして許すことができるだろうか。もう一度言うが、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。もし人が、神が授けたものを大事にできなければ、神は与えたものすべてを取り戻すだけではなく、人は神が費やしたものすべてを償うために、二倍を返さなくてはならないのである。

『言葉は肉において現れる』より

 


御言葉讃美歌

   人を救おうとする神の切実な願いを知る者はいない

   人は生きるために食べる事しか知らない。生きてゆく事は忍耐を必要とし、生き残るためには信念が鍵となるが人は神の恵みと備えを知らない。人は神が与えた命を無駄に過ごし、神を崇めようともしない。それでも神は人類のために神の計画を行い続ける何の期待もせず、人が目覚め人生の価値と目的を見つけて、神が与えた代価と神が人の帰りを待ち焦がれている事に、気付いてくれるのを強く願い続けている。神が行う全ては人類のため。

   人はどのように命が始まって保たれているか深く考えていない。だが神は理解し全てを与えられても感謝しない人がもたらす痛みに耐える。人は命にもたらされた。全ての事を当たり前のように楽しむ。しかし人は神を裏切り、神を忘れて神に要求する。神の計画はそれほど大切なのか?神の創造物である人も大切なのか?そう・・神の計画は重要なのだ。人はその計画を成し遂げるために存在する。神は人類への憎しみで計画を台無しにする事は出来ない。神が苦痛に耐える事は神の計画であり、神の吐く息のためだ。人の肉のためではなく、神が吐き出した人の命のためなのだ。これが神が心に抱く計画だ。神が行う全ては人類のため。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


韓国の賛美歌「神と心を通わせて」日本語字幕

2020-07-30 23:52:28 | 讃美歌

韓国の賛美歌「神と心を通わせて」日本語字幕


おお、神よ!あなたに言いたいことが心に溢れています
御言葉は私の心の扉を開き
あなたの声を聞いた
あなたの御言葉は真理であり、心を潤す泉のようです
あなたの言葉を思い巡らすと
私の心は明るくなり安らぎ、平和と喜びに満ちる
御言葉を実践することで、深く真理を理解する
御言葉に、あなたの義と聖さ、そして真の愛を見出す
私はますますあなたの愛らしさを感じ
あなたはほんとうに人間の愛に値する
信仰において、私は平安と喜びを味わい
あなたとより親しくなった


ああ、神よ!鋭い剣のようなあなたの言葉は、私の心をつらぬき
私の魂の中にある醜さを切り開く
私はサタンの性質でいっぱいだ
私は傲慢で理性がなく
しょっちゅう嘘をついてあなたを欺く
あまりにも堕落し、あなたと取引し
贅沢な欲望でいっぱいだ
裁きがなければ
あなたに抵抗したことで、地獄に沈み込むしかなかっただろう
私を清め、救ったのはまさにあなたの裁きと刑罰だ
あなたが表す真理がなければ
私の主への信仰は虚しいだろう
堕落した人類にとって
裁きはとても意義深いことを私は知った
私は、あなたの愛に報いるために
真理を求め、清められる決意をする
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


ある体験の中、私は神の御加護を目の当たりにしました

2020-07-29 18:49:53 | 勝利者の証し

   私達は今まで一度も神を信じたことはありませんでした。しかし、2005年、神にお引き上げ頂いたことで、私の旦那、義理の父、伯父、そして私は全員が世の終わりの神の働きを受け入れる事が出来ました。その後すぐに、私は教会から書籍の管理業務に就かされました。後に、私達の自宅で火事が発生し、この火災の中で私達は神の奇跡的な御加護を授かったのです。神は正に全能であられるのです!

 

 

   2006年3月のある日、昼食後の午後1時頃、外では雪が激しく降っていました。私の旦那、娘と私は家の中にいて、火の近くで体を温めながらトウモロコシを脱穀していた時、突然外から、「お宅の家が火事になってるぞ!急いで、外に出て火を消すんだ!」、と大きい叫び声がしたのです。私達が急いで外に出て見ると、台所と豚小屋の屋根が既に燃えていたのです。3人の無信仰者が火を消すのを手伝いに来てくれて、「ほら、火を消すのを手伝って!」、と大声で叫びました。近隣の村2つにも私達の叫び声が届き、直ぐに30人から40人もの人達が火を消すのを手伝いに来てくれたのです。この時、私は誰かがこう口にしたのを耳にしました、「この家族は神を信仰していないのか?どうやったら火事なんかが起るんだ?でもこの家族の家は燃えてしまったから、これでも神を信じるだろうか。」私はこの時点では彼らの言っていることはどうでもいいと思いました。そして、私は炎が増々激しくなっていくのが見えました。強い風が燃え盛る炎を家の中心部に向って追いやっていました。家の中には教会の書籍と我が家の穀物があったので私はとても不安でした。この切羽詰まった瞬間、私は続けて神に呼び掛けました。「ああ神様!どうか教会の書籍と我が家の穀物を御守り下さい、これらの物が燃えてしまわないようにして下さい。」 私が祈りを捧げた後、奇跡が起こり、風の吹く方向が突然変わったのです。その時、私は家の中の物全てが保護されると分かり不安な気持ちが少し薄れて行きました。火を消そうとしていた人達が燃えてしまった物にどれだけ金銭的な価値があるかと話しているのを聞いた時、私は豚小屋に2匹の豚がいることを思い出しました。私の旦那は豚達を助けようと駆けつけました。しかし彼が中に入ったとたん、燃えた破片の塊が突然降りかかり、入口をふさいでしまったのです。私はこれを見て心臓が喉につまりそうになり、心の中で必死に神に呼び掛け、旦那を御守り下さるよう懇願しました。無信仰者達は皆、私の旦那が大きな危険にさらされているのではないかと心配していました。しかし、皆が見詰める中、私の旦那が1匹50キロ以上ある豚2匹を前に押しやりながらついにその無事な姿を現したのです。これで、私の心はやっと落ち着きを取り戻しました。炎は1時間もしくはそれ以上燃え続けた末に全体で台所と豚小屋を2つ燃焼させ、およそ4000元ほどの損害が出てしまいました。

   私達は後ほど、この大火災は火遊びをしていた子供によって起っていたことが分かりました。この時、私は神のこの御言葉を思い出しました。「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある…神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである…あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)この神の御言葉の中に、今日私達が自宅の火災に直面した時、これは表面的には子供の火遊びによって引き起こされていたように見えましたが、実は霊的な世界ではサタンが神と賭けをしていたのです。サタンはこれを利用して私に神を非難させて、裏切らせて、拒絶させたがっていたのだと理解することが出来ました。無信仰者達が「でもこの家族の家は燃えてしまったから、これでも神を信じるだろうか」と言った時、あれはサタンが私を誘惑していたのです。もし無信仰者達の言う通りに神を非難し、批判していたら、私は神に対する証言が出来なくなっていたことでしょう。私は神の御心を理解した後すぐ、こう神に祈りを捧げました。「ああ神様!私の今日の体験はあなたからの試練であり、サタンからの誘惑だったのですね。私がサタンの前であなたの証言を出来るよう、どうか私に信念と精神力をお与え下さい、そしてこの事態に関する不平を漏らさないようにして下さい。私は全ての出来事と物事はあなたの手中にあると信じています。私の運命はあなたの手中にあり、私はあなたの御主権と御采配に従います。」

   あの夜、私の家族は普段通りに集まって神の御言葉を頂き、私は旦那にこう問いかけました、「あなたの木材が燃えてしまったけど、神様のことを責めてる?」すると彼はこう言いました、「不満なんか何もないよ。豚を助けてやろうとして豚小屋に行った時、お前達は皆俺のいのちの事を心配して、何か良くないことが起るんじゃないかとビクビクしていたけど、俺は内心全く怖がってなかったんだ。最終的には無事に出て来れたし。これが神の御加護じゃないのか?神の御加護がなかったら、我が家は完全に燃え尽きていただろうし、俺のいのちもどうなっていたことか。我が家にはまだ物があるんだし、俺たちは神の御気遣いと御加護、そして俺達を愛して下さっていることを感謝しなきゃ。」 確かに、私はこの経験を通じて、神は私達のことを御気遣いになられ、私達を御守り下さっていることを本当に目の当たりにすることができました。我が家に火が付いた時、もし神が、数住人の人達を結集して、私達の所に来て火を消すようにして下さっていなければ、自分達だけの力では人を消すことは不可能であったでしょう。風が吹いて炎を家の中心部に押し向けていた時も、神が偉大な御力で風の方向を変えて下さっていなければ、教会の書籍、我が家の穀物、そして我が家そのものは燃え尽きていたことでしょう。私の旦那が炎を顧みず豚を救いに行った時も、神の御加護がなければ、旦那はあの大きな炎の勢いの中では焼け死んでいた可能性が高く、髪の毛が一本も焼けずにすんなりと歩いて出て来るようなことはなかったでしょう。私達は交流すればするほど、神の偉大な御力と愛をどんどん理解していくことが出来ました。私達は不平を言わなかっただけでなく、心の中が神に対する計り知れない感謝の意でいっぱいになっていたのです。

   この経験から、私は神の全能さと奇跡的な御業を自分の目で見ることが出来た上に、神の優しさと素晴らしさを実感することも出来ました。火災の後、我が家の状況は以前に比べると少し悪くなってしまったものの、神に従う私の心は全く変わりませんでした。他人の言うことに関わらず、私は神がどのような行動を成されようとも、その全てが常に人々を救い、完全にすることを目的とされておられるのだと堅く信じています。私は自分の霊的背丈を考慮すると神の証言をするのは不可能だったと解っています。しかしこの試練の間、私は神の証言をして、サタンを辱めることが出来ましたが、その全ては神の御働きから生まれた結果であったのです。今後、私は神の御言葉をもっと読み、更なる真理を手にして、あらゆる種の試練を受ける際にも私の真の霊的背丈を以て神の証言をいたします。全ての栄光、全能の神にあれ!


神の御言葉は本当に聖書以外には存在しないのでしょうか(II)

2020-07-28 23:48:13 | 聖書と神

   彼が交流した後、私はびっくりしてこう思いました:「長年に渡って主を信仰してきたけど、こんな説教は一度も聞いたことがないわ。彼の交流は合理的だし、実情をとらえているわ。彼はどうやってこんなに多くのことを理解しているのかしら?」

   彼は私の心を悟ったかのように話し続けました、「私は神の御言葉を読んでいますから、たくさん理解して、こういった知識を得ることができているんです。神の御言葉がその奥義を明らかにしてくださらなかったら、誰も神の御言葉を理解できないでしょう」そして、彼は神の御言葉のこの段落を読んでくれました、「イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、その権威──律法の時代には、誰一人これをしなかった。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。…人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあった。これは愚行ではないか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。」

   そうです!神がどのように働かれるかは神のご自由なのです。神は聖書以外の働きをする権利をお持ちで、神の働きを聖書に制限する権利など私たちにないのです。こう考えはしたものの、私は盲目に聖書を崇拝していたため、すぐには自分の観念を捨てることはできませんでした。後に、兄弟姉妹たちは、神が終わりの日に新たな働きをするために再臨されるということに関して記述した聖句を根気強くたくさん検索し、それらをまとめて終わりの日の全能神の裁きの働きを証言してくれました。彼らの説教を聞いて、私はそれが合理的であると思った上に、心の中で彼らの交流内容に納得していたのですが、自分が間違っていたことは認めたくなかったので、「ひょっとしたら彼らが読んでいる聖書は私が読んでいる聖書とは違うんじゃないかしら?」と考えたりしていました。

   私は帰宅すると、急いで聖書のページをぱらぱらとめくり、彼らが交流していた聖句を注意して読みました。私は彼らが証言した裁きの働きは聖書に記された預言を完全に成就していたことを知りました。私は思わずショックを受けて「全能神が主の再臨だなんてことがあり得るのかしら?」、と考えました。私はこう考えた時、急いで跪いて主に祈りました、「主よ!今日私は全能神教会から来た兄弟姉妹の交流を聞きました。私はそれがとても啓蒙的で、私が長年に渡って聖書を読んで理解していたものではないと感じました。全能神の御言葉は真理で間違いありません。主よ!私は依然として全能神があなたの再臨であると確信しきることができません。どうか私に啓示と導きをお与えください。私はこのまま調査を続けていきます。」

聖書から外れるものは全て異端でしょうか?

 


   2日目、私の友人と私は一緒に全能神教会に足を運びました。兄弟姉妹たちは私たちを温かく迎え入れたくれると、『聖書の奥義を解く』と題した映画を見せてくれました。主人公は私と同じ考えを持っていたので、私はとても興味を持ちました。彼女も、「聖書以外に神の御言葉は存在しない、聖書に書かれていないものは全てが異端である」、と考えていたのです。この映画の中で私の心を特に動かしたのは、全能神教会の兄弟がこの観点について彼女に話した内容でした。彼はこう言ったのです。「聖書に詳しい人たちには有名なことですが、聖書を編集する過程において、編集者たちの論争や不注意のため、預言者が伝達した一部分の御言葉は旧約聖書に収録されていません。これは公認の事実です。可能性として聖書以外にも神様の働きと言葉はあります。では、収録されていない預言は御言葉ではないと言えますか?そして新約聖書では御言葉のすべてを収録できたのですか?聖書に言われたとおり、『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。』(ヨハネによる福音書21章25節)これは主イエスの働きと言葉が新約聖書以外にもあるということです。だから、『聖書以外に神様の働き、言葉はない』とは事実に合いません。兄弟姉妹、さらに新約聖書、旧約聖書はともに神様の一段階の働きが終わった、その後に人間が記したもの。最初には旧約聖書しかなく、主イエスの働きと言葉は旧約聖書にはありません。聖書を超えると異端だと言うなら、主イエスもまた異端だということになる。この事実から『聖書以外には神様の働きと言葉はなく聖書を超えると異端だ』という言い方には何ひとつ根拠がないことが分かります。」

   私は観賞しながらこう考えました:「その通りだわ。旧約聖書にヤーウェ神の御言葉全ては記録されていないのよ。だって、ヤーウェ神は何千年にも渡って地上で人類の生活を導かれ、ヤーウェ神が預言者たちを通じて宣べ伝えられた御言葉は旧約聖書に記されたものより遥かに多かったからよ。そして、主イエス様は3年半に渡って宣教されている訳だから、聖書に記述されている御言葉だけを仰せられていたはずがないわ。だから、私は結論を急いだりしないで、全能神の働きを注意して扱うべきだわ。」こうして、私は次の展開を見るのが待ちきれなくなりました。

   「私たちは以前から聖書を読むことに慣れてはいますが、聖書の実相を明確に理解できていませんでした。しかし、今日、全能神のこの御言葉がその全てを明らかにしてくださっています。『 聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。』兄弟姉妹の皆さん、全能神の御言葉より、聖書は神が過去になされた働きの歴史的記録であり、人間を救うことはできないということが分かります。聖書を神と比較することは全くできないのです。神はいのちの生ける水の泉であり、神の御言葉には終わりがなく、その流れが止まることは決してありません。しかし、聖書の記録は非常に限られています。これは誰も否定できない事実です。兄弟姉妹の皆さん、神は常に新しく、古いことは決してありません。神は各時代において、新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられます。主イエス様は恵みの時代に新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられました。しかし、当時のユダヤ教の祭司とパリサイ人は旧約聖書の内容に固執し、主イエス様の働きを拒み、非難しただけでなく、主を十字架に釘付けにすらしてしまい、重大な罪を犯しました。今現在、全能神、すなわち終わりの日のキリストは人類を救い清めるための真理を全て表されましたが、それらは聖書に全く記されていないものです。それらは記録されていないので、聖書は終わりの日の神の働きと神の御言葉全てを示すことはできないのです。兄弟姉妹の皆さん、いつまでも聖書に固執していてはいけません。私たちは神の現在の御心と聖霊の働きを探求する必要があります。それのみが、神の御心に即しているのです。」

   そして、全能神の御言葉と兄弟の交流に従い、私は注意深くこのように熟考しました:「神の働きは常に前に進んでいるんだわ。神の働きと御言葉が旧約聖書の内容に制限されていて、神が恵みの時代に贖いの働きをされていなかったら、私たち人類は律法の下に生きて、律法を守れないことを理由に有罪となって、処刑されていたはずだわ。もしそうなっていたら、人類は今日まで発展してくることができなかったはずだわ。今の教会の状態を目前に、主が終わりの日に再臨して人類を裁き清める働きをされなかったら、私たちは罪の中に生きることを余儀なくされて、罪から脱却できなくなってしまうわ。体中が堕落した私たちに、来臨される主の御顔を見る資格なんてあるはずがないわ。」私は熟考すればするほど、心の中で増々啓発を受けた気分になり、以前はおかしな観点に固執していたものだと感じました。

観念を捨て、子羊の足跡を辿りました

   映画を見た後、私の頭にはまだそのストーリーが残っていました。私が以前固執していた観点は全能神の御言葉によって覆されたのです。私は思いました。「神の御言葉はとても明確だわ。頑なに自分の観点に固執していたら、私も当時主イエス様に抵抗し、主を非難したパリサイ人と同じということにならないかしら?私は神に忌嫌われ、退けられ、呪われてしまうわ!」こうして、私は全能神教会に頻繁に足を運んで探求して、調査する決意をし、全能神が主イエス様の再臨であると確信できれば、全能神を受け入れて、以前の教会にはもう行かないことにしました。

   その後、彼らは、『小羊が開いた巻物』と題した本を私にくれました。全能神の御言葉は私たちの考え、誤った動機、そして傲慢さ、うぬぼれ、欺き、身勝手さ、そして卑劣さといった、私たちの堕落した性質を明らかにされるということを私は知りました。私はそれを読めば読むほど、神のみが人類の心の奥底を調べ、私たちの誤った動機と堕落の全てを暴露することがおできになるのだから、全能神の御言葉は聖霊、そして神から来るものであるということを増々認識しました。さらに、聖書の本質と奥義、神の三段階の働き、神への真の信仰、そしてどのような人が天国に入れるのか等、全能神は本当に多くの真理を表してくださっているのです。私は今まで主を信仰してきて、このような真理を一度も耳にしたことがありませんでした。これらは私を完全に目覚めさせてくださり、聖書に記されたこの御言葉を完全に成就しているのです、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)私は全能神の御言葉を読んで、全能神が主イエス様の再臨であると確信しました。私は生きている間に主の再臨をお迎えできるとは思っていなかったので、心がとても興奮しました。私は全身全霊をかけて全能神について行く決意をしました。

   私は神が愛に満ちた心で私を助けるためにたくさんの兄弟姉妹たちを動かして、私が幸運にも神の働きを受け入れられるようにしてくださったことを感謝しました。私は全能神の御言葉を読み、僅か数か月の間に宗教界で10年かけて学んだことよりも多くのことを学びました。神の御言葉は正に生ける水の泉であり、常に絶えることなく私たちを備えくださっているということを私は知りました。振り返ると、私はむやみに牧師の言葉を信じ、自分の観念と想像まかせに神の御言葉を聖書の中だけに制限していました。私は完全に理知を欠いていたのです。私は神が私を救ってくださり、私の誤った観点を覆してくださったおかげで、主の再臨を逃さずに済んだことを感謝しています。神に感謝です!全ての栄光、神にあれ!終わり。


神の御言葉は本当に聖書以外には存在しないのでしょうか(I)

2020-07-27 23:09:10 | 聖書と神

教会は荒廃し、私は主の再臨を予期しました

   私は16歳の時、主の信仰を始めました。当時、私は教会に足を運ぶ度に心がとても穏やかになりました。特に、神を称賛する讃美歌を耳にした時は喜びを感じ、主の愛情にしばしば感動させられていました。これ故に、私は両親からどのように妨げされても教会に通い続けたのです。聖書を読んでいると、神は人類を救うためにたくさんの働きをなされ、更に、神は私たちを罪から贖うために、自ら十字架に釘付けにされて罪の捧げものになられたということを、私は少しずつ理解していきました。そして、主イエス様は終わりの日に再臨されて私たちを天国に引き上げてくださるとお約束されたのです。従って、私の信仰はさらに厚くなり、私は神に必ずついて行こうと決心しました。

   私は大人になった後、熱意をもって真理を追い求め、積極的に教会の事務業務を担い、さまざまな教会の活動をまとめ、積極的に兄弟姉妹たちに仕えました。私は毎日仕事を終えて、夜になると教会に行き、しばらく聖書を読んでから家に帰っていました。なぜなら、私は聖書のみが私の生活の備えであり、真理の全てが聖書に書かれており、そして、その御言葉は私の足元のランプであり、私の道を照らす光であると、固く信じていたからです。これ故に、私は聖書を読み、祈り、仕えるということを貫き、心の中ではとても平安で豊かな気持ちがしていました。

 


   知らぬうちに、教会の状態は日に日に悪化していきました。兄弟姉妹の多くは消極的になり、薄弱していき、集会に参加しなくなる人たちまでいました。牧師たちも毎回聖書の節を文字通りの意味で繰り返し宣教しているだけでした。さらに、彼らは兄弟姉妹たちの抱える困難を解決することもできませんでした。また、私は備えを得ることができず、魂が干からびてしまい、主の御前で感じる喜びと平安も感じなくなりました。次第に、主を礼拝するための集会も単なる儀式と化してしまいました。当時、私は頻繁に主に祈り、信仰と力を与えてくださるよう請いました。しかし、私はどのように祈りを捧げても、以前のように主を切望し、探求する気力を奮い起こすことはできませんでした。私は主が早く来てくださり、主がおられないこの悲観的で意思薄弱な生活から私が抜け出せるようにしてくださることを、ただ期待するだけでした。

自分の観念に固執した私は終わりの日の全能神の働きを拒否してしまいました

   2017年6月、私と友人は用事があって外に出かけた時、主のある信者と出会いました。共通の話題を持っていた私たちはとてもいい会話ができました。教会の荒廃について話し合った時、彼はこう言いました、「それは神が既に恵みの時代の教会を去っておられるからですよ。今は全能神として受肉されています。全能神は人間の中にお戻りになり、真理を語られ、人類を裁き清める終わりの日の働きをされており、聖霊の働きも全てこの段階の働きに移行しているんですよ。律法の時代末期に主イエス様が新たな働きをされたのと同じです。聖霊は神殿を去り、神殿は荒廃しました。当時、主イエス様に従った者たちだけが聖霊の働きを受けることができました。今も同様に、私たちは終わりの日の全能神の働きについてのみ聖霊の働きを受けて、いのちの備えを得ることができるのです。反対に、終わりの日の全能神の働きを拒否する者たちは闇に沈んで行くのです。これは聖書に書かれたこの預言を正確に成就しています、『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。』」 (アモス書 4:7)。彼の言葉は全て聖書の内容に沿っており、私の心は即座に啓発された気分になりました。私は絶えず切望し、心底待ちわびていた主が既にお戻りになっておられるとは思ってもいませんでした。私は興奮が込み上げてくるのを感じ、全能神の働きが何を意味しているのかを彼に聞きたくなりました。その時、彼はカバンからある書籍を取り出して、私にそれを手渡しました。彼はその書籍に書かれた御言葉は神が終わりに日に語られた真理だと言いました。そして、それらは私の混乱を全て解消してくださったのです。彼は全能神の働きを調査することを私たちに勧めました。

   私は『小羊が開いた巻物』と題された書籍を手にしました。私は思わず驚いて、心の中でこう思いました。「こんな書籍は見たことがないわ。ヨハネの黙示録には終わりの日にある巻き物が開かれるという預言がされているけれど、この書籍に書かれた言葉が神の御言葉だなんてことがあり得るのかしら?神の御言葉は聖書にしか記録されていないのに、聖書以外に神の御言葉を記録したものが存在し得るの?主の御言葉は全て聖書の中にあって、聖書から逸脱している、またはその範囲を超えているものは主の道から外れていて、異端であると、牧師たちはよく口にしているのに。」その時、私は、終わりの日にはありとあらゆる形の異端が生まれ、それらから自分たちを守る最適な方法は他の宣教に目をやらず、耳を傾けず、それと接触しないことだと牧師たちがいつも言っていたのを突然思い出しました。こう考えた私は無意識のうちに心の中で葛藤し、この兄弟を警戒して、これ以上彼の言うことを聞きたくなくなってしまったのです。しかし、私の友人は彼の話しと証言はとても良いと思い、彼からもらった書籍を読むことにした上に、全能神教会に行って調査する気にまでなっていました。私は彼女の反応を見て驚き、こう思いました:「どうしてそんな簡単に彼に同意できるの?聖書以外には神の御言葉は存在しないということを忘れてしまったのかしら?」私は彼女が調査するのを止めようとしました。しかし、失敗に終わったどころか、彼女は私に調査するよう説得しようとしたのです。彼女は20年以上も主を信仰してきて、聖書をよく理解し、信仰において自分自身の考えを持った上で調査することを決意したんだと私は考え、もうそれ以上は何も言いませんでした。結局、誰にでも選択の自由があるのです。

   それ以降、私の友人は終わりの日の全能神の働きを調査し始めました。時に、彼女は私にあの書籍から得た光について話し、その書籍を読むよう勧めてきました。しかし、私は、神の御言葉は聖書の中にあり、それ以外に神の御言葉は存在しないと牧師たちが何度も口にしていたことを思い出したとたんに、「もう勧めてこないでください。あなたはあなたの全能神を信仰して、私は私の主イエス様を信仰します」、と頑なに彼女に言っていました。このように、私は頑固に自分の態度を変えず、依然として主の道を支持していると勘違いしていたのです。

自らを解き放し、虚心に探求しました

   この後すぐのある日、私は以前一緒に働いていた同僚とバスの中で偶然出会いました。私たちは良い友人でした。彼女は私を見たとたん、興奮してこう言ったのです、「いい知らせがあるのよ!聖霊の働きが宿った教会を見つけたの。そこの宣教は素晴らしいのよ。彼らの説教を聞いたら、長年信仰しながら抱いていた困惑が解決して、たくさんの真理と奥義を理解することができたの。あなたに時間のある時があれば、私たちの教会に連れていってあげるわ。」彼女の言葉を聞いた私はそれを軽く受け止めてこう考えました。「今ほとんどの教会は同じ状況にあるというのに。牧師たちは宣教することが何もないし、信者も魂が薄弱になっているような状態よ。その教会が素晴らしいと言っても、一体どれだけ素晴らしいと言うのかしら?」しかし、エネルギーと活気であふれそうになっている彼女を見ていると、彼女がどの教会に行っているのかを知りたくならずにはいられませんでした。私は自宅に戻った後も、これについてじっくりと考えました。私は彼女の信仰は私のとは確実に違うと思いました。そして、私はどの教会に行っているのかと聞かずにはいられなくなって彼女にメッセージを送ると、彼女はこう返事したのです、「全能神教会ですよ。」私はびっくりして、こう思いました:「全能神教会には本当に真理があるということなの?どうして私の友達はこんなに大勢が全能神を信仰しているのかしら?これは神が私に終わりの日の全能神の働きを調査するように促しているってことなの?私が固持している考えは間違っているの?一体何が起こっているのかしら?」そしてすぐに、私は主に祈りを捧げ、主の応答を待ちました。

   その後、私の友人はまた全能神教会の話をしてくれました。当時彼女は全能神教会の御言葉を読んで、教会が荒廃する根源、偽羊飼いとは何か、宗教団体の詐欺師とは何か、終わりの日の全能神の働きがどのようにしてヨハネの黙示録に書かれた預言を成就させ、成し遂げるのか等、真理の奥義を幾つか理解することができたと言いました。私たちは終わりの日の神の働きを体験し、神の御言葉による裁きと刑罰を受け入れてのみ、自分たちの堕落した性質から少しずつ解放され、心から神を恐れ、神に従う人となり、そうすることが神とご対面して、神の御約束を受ける資格を得る唯一の方法だとも彼女は言ったのです。彼女の話を聞いた後、私はそれは筋が通っていると考えた上に、全能神を信仰するようになってから沢山の真理を理解できるようになった彼女を羨ましく思いました。なので、私は全能神教会を調査することにしたのです。

地上でより偉大なのは神と聖書のどちらでしょう

   その翌日、私の友人は私と交流するために全能神教会の兄弟姉妹を招待してくれました。私たちが顔を合わせた後、チェン兄弟は、「何でも困惑していることがあれば話してください。一緒に探求して交流し合いましょう」、と言ってくれました。

   私は言いました、「兄弟、私は聖書に書かれているもの以外に神の御言葉は存在しない、そして神の御言葉は聖書にのみあると思っています。聖書に反する、もしくはその範囲を超えるものは全て異端です。しかし、どうしてあなたはこの書籍に書かれた言葉が神の御言葉だと言うのですか?」

   チェン兄弟は辛抱強く私の言い分を聞いてから笑顔でこう言いました、「姉妹、2つ質問をさせてください。神と聖書、どちらが先に来たと思いますか?それと、神と聖書はどちらの方が偉大だと思いますか?」私はこの質問を聞いてとても不思議で奇抜だと感じました。なぜなら、私はこれまでの信仰の中で、牧師や長老がこんな質問をするのを聞いたことがなかったからです。

   私は思わず、「もちろん、神が先で、神の方が偉大です」、と言いました。

   チェン兄弟はこう言いました、「その通りです。神の御言葉と働きが先で、それから聖書です。聖書に記録されているのは単にかつて神が仰せられた御言葉と神がかつてなされた働きなのです。しかし、私たちは、聖書を神より偉大なものとしてとらえ、神の働きがその範囲を超えることを認めず、神の御言葉はその全てが聖書の中に記されていて、その範囲を超えるものはいずれも異端だと考えているのです。実は、こういった観点は間違っています。主イエス様が働きをしに来られた時も同じでした。主は人々に説教を宣べ伝えられ、彼らが各々の罪を告白して悔い改めることができるようにされ、人々に自分を愛するように他人を愛し、敵を愛し、他人を何度でも許すよう教えられ、そして安息日に人々を癒されました。こういった主イエス様の御言葉と働きは旧約聖書には記されておらず、それらは「目には目を, 歯には歯を」、「罪を犯したら神に罪の捧げものをしなければならない」、そして 「安息日に働いてはならない」 という人類に課された神の律法と戒めに則したものではありませんでした。当時の人々の目には主イエス様の働きも聖書の範囲を超えるものとして映りました。でも、主イエス様の働きが異端であったなどと言えるでしょうか?もちろん、それは不当です。当時、ユダヤ教のパリサイ人たちは主イエス様の御言葉と働きが旧約聖書にあるものでないとみなし、全力で主に抵抗し、主を非難し、最後には主を十字架に釘付けにしてしまいました。実は、神は至高の神であり、神の働きは常に新しいもので、決して古くありません。神は決して聖書の内容に沿って、また聖書の内容を参照にしながら働きをされることはなく、信者たちを導く道を聖書の中で探すなどということはなおさらされません。むしろ、神は新たな働きをされ、人間に聖書を超えた新たな道をお与えくださります。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのです。神は間違いなく聖書を超えて、神御自身のご計画とその時に人類が必要とするものに基づいて新たな働きをする権利をお持ちです。私たちが自分たちの観念と想像に従って神の働きと御言葉を聖書に制限して構わないはずがありません。聖書に記されている以外の御言葉と働きを神が仰せられたり、実行されることは決してないなど、私たちが言えるはずがないのです。」続く…