賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

2020-11-30 21:58:02 | 天の国の福音

クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

 1つの投稿記事をここで転送します:

 こんにちは!兄弟姉妹の皆さん、私は1つ質問があり、皆さんのそれに関する理解を求めて、今日、ここに投稿します。どうぞ、積極的に参加してください。

 今日、私が強い信仰心でお勤めをしていると、マタイによる福音書第25章に10名の乙女に関する寓話があるのを読みました。5名の思慮深い乙女は誰かが「花婿がやって来た」と叫ぶのを聞いて、躊躇せずに彼を迎えに出ました。そのため、彼女達は主と共に夕食を取り、ごちそうを楽しみました。なんと栄光あることでしょう。一方、残りの思慮が浅い乙女5名は主を迎え出なかったため、神の国の門の外に閉め出されてしまいました。なんと愚かなことでしょう!そこで、私は、「誰かが『花婿がやって来た。外へ出て、彼を迎えよう』」と叫ぶのを聞いたら、私が生きている間は思慮深い乙女となり、躊躇せずに主を迎え出なければならない」と考えました。そこで、また、「主の再来は私が考えるほど単純なものではないはずだ。そうでなければ、どうして思慮が浅い乙女が主により閉め出されるなんてことがあろうか?」と考えました。そこで、思慮深い乙女となるにはどうすればよいかを知りたいと思います。

 投稿者:松本愛

 回答:

 姉妹岡田:

 松本愛、私にはこれが分かります。数日前に行われた聖書の勉強会で、リュー牧師は「現在は、終わりの日で、主イエス様が間もなく再来されます。私達は主をお迎えできるよう思慮深い乙女となり、主に見放され、神の国の門の外で泣いて、歯ぎしりをすることになる思慮が浅い乙女とならないようにしなければなりません。思慮深い乙女となるには、私達はもっと聖書を読み、注意深く祈り、主のためにもっと働く必要があります。これらのことを常日頃から行う者だけが思慮深い乙女であり、神の国に入り、主と共に夕食を取ることができるのです」と言いました。牧師のこの説教を聞いて、私はとても興奮しました。それから私は、毎日、注意深く御祈りをし、聖書を読むようになりました。思慮深い乙女となり、神の国の晩餐会に主と共に参加できるよう、時間がある限り、親戚や友人、仲間に福音を説き、主の証を立てています。

 ムイ:

 こんにちは!少しお話させていただきたく思います。姉妹岡田の言葉をたった今聞きました。過去10年間、私の牧師もそう言っており、私はそのようにいつも実践してきました。しかし、その後、何かがおかしいと感じるようになりました。私達はこれらのことをするだけで思慮深い乙女となれるのでしょうか?思慮深い乙女とは、主が再来されたときに、積極的に外へ出て、主を迎えることができることを意味するのではないでしょうか?10年はまたたく間に過ぎていきました。主の再来に関する預言が基本的に現実化し、大災害が次から次へと起きており、それは主がいつ何時でも再来し、私達を神の国に連れて行ってくださることを示しており、とても心配しています。そこで、イエス様が再来した際にお迎えできるよう、思慮深い乙女の基準を満たせるよう、どのようにそれを追求できるかについてぜひとも知りたいと思います。

 松本愛:

 さて、回答がありますか?

 ムイ:

 主よ、ありがとうございます!その後、兄弟姉妹との交流を求める中で、私はそのことを理解しました。主イエス様は次のように預言されました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 」(マタイによる福音書 25:6)。このことから、主イエス様が再来されたとき、主の御声を聞くことができ、外へ出て主をお迎えできる者だけが思慮深い乙女だということが分かります。従って、思慮深い乙女の主な現れは、その者たちが主の御声を認識できるということです。主イエス様がユダヤで働くために受肉されたとき、主は数多くの真理を明らかにされました。真理を本当に求め、神様の出現を切望する者は、救世主の到来を歓迎しました。これらの者は主イエス様の御言葉から神様の御声を認識し、主こそ到来が預言されていた救世主であると悟ったのです。

 佐藤恵和:

 ちょうどサイトに入ったばかりです。上のメッセージを読み、私も皆さんにお話したいことがあります。

 松本愛:

 ようこそ。

 ムイ:

 まるで、かつて収税人であった当時のマタイのように、主イエス様が「わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書 9:9),と彼に言われるのを聞いて、彼は立ち上がり、そのまま主についていきました。また、聖書には次も記録されています。主イエス様との短い会話を交わした後、ナタナエルは「ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(ヨハネによる福音書 1:49)と言い、主についていきました。また、ペテロは、イエス様が船の中で人々に説いていた説教を聞いて、網と船を捨て、主についていきました。

 佐藤恵和:

 少しお話させていただきたく思います。ペテロ、ナタナエル、マタイなどの人々はすべて、主の御言葉と御発言から主イエス様が救世主であると認識し、主についていきました。同様に、サマリア人の女性は主イエス様と話しているとき、主が 「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。』」(ヨハネによる福音書 4:13-14)と話されるのを聞き、彼女の心の中に隠していた秘密が主によって明らかにされました。そして、真理の謎について話し、彼女の秘密を明らかにすることができるこのような人は、明らかに、普通の人や預言者ではないと悟りました。彼女は、主の御言葉から、主イエス様が救世主、キリスト様であると確信を持ちました。

 ムイ:

 そう、佐藤さんの言う通りです。これにより、私達は、彼らが神様の御声を聞くことに意識を集中しており、そのため、主の出現を歓迎できたことが彼らの知恵であり、それが思慮深い乙女の表れであることが分かります。

 佐藤恵和:

 少し付け加えたいと思います。思慮深い乙女には、自分自身の意見と根拠がありました。主の御言葉を聞いたとき、彼女達は外に主を迎え出ました。彼女達が主についていっている間、彼女達の周りでどれだけ中傷、冒涜、非難の声を聞こうとも、彼女達は変わらず、主イエス様が救世主であることを受け入れていました。弟子達が主についていったときと同様、彼女達は、多くの祭司、律法学者、パリサイ人から、主に抵抗し、主を中傷する多くの声を耳にしましたが、主への信仰に影響することはありませんでした。

 松本愛:

 はい。その通りです。

 ムイ:

 これらの祭司、律法学者、パリサイ人、そして彼らに従うユダヤ人はすべて、律法と規則に従う限り、確実に救世主の到来をお迎えすることになるだろうと信じていました。主の御言葉と御働きにどれほどの力と権威があろうと、彼らは自分の観念と想像に固執し、主イエス様の御言葉と御働きを調査することを拒みました。彼らは主イエス様を普通の人、神様の御発言を人の言葉とみなし、主を裁き、冒涜さえしました。最終的に、彼らは待ち望んでいた救世主を十字架に磔にし、神様を信じながら神様に抵抗する者となったのでした。彼らには神様の御声を認識することができず、真理を求める心を持っていませんでした。その代りに、神様の御出現と御働きを盲目的に拒否し、非難しました。そのため、彼らは神様からの御救いを失い、最終的に、神様の御怒りと御懲罰が下りました。これは、思慮が浅い乙女の表れで、彼らの結末でした。

 松本愛:

 皆さんの言葉を読み、私はとても恥ずかしくなりました。私はこれまで何度も聖書でこれらの寓話について読んでいながら、この光を得ていませんでした。

 主よ、ありがとうございます。たった今行われた皆さんによる思慮深い乙女と思慮が浅い乙女の表れについての交流はとても明確で、思慮深い乙女とは主イエス様の御働きについていく者のことで、主の御声を聞くことができる者で、主の御声を認識したら躊躇せずに最後まで主の後についていく者のことを言うのだと理解することができました。

 佐藤恵和:

 そうです!思慮が浅い乙女が門の外に放っておかれた理由は、彼女達には謙虚な気持ちで求める心がなかったからです。主イエス様の福音に直面して、彼女達は思慮深い乙女達と共に表に出ていって、これを受け入れることを嫌がり、自分の意見を持たずに、彼女達が尊敬し、崇拝するパリサイ人に助言を求めました。そのため、彼女達は主の救済を失いました。

 ムイ:

 その通りです!そのことは、現在にも同様に当てはまります。主イエス様の再来に関する預言は、基本的に現実化しています。今こそ主が再来される重大な瞬間です。イエス様の再来をお迎えするために、私達はどのような環境を整えておくべきでしょうか?

 松本愛:

 もっと教えてください。

 ムイ:

 分かりました。主イエス様は次のように仰っています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これらの預言によると、主が再来されたときは、確かに御言葉を発することが分かります。主イエス様が次のように仰っているため、これは疑う余地がありません。 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)。従って、主の再来のお迎えに関して、主の御発言と御言葉に注意する必要があります。神様の羊は神様の御声を聞くものです。「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」(ヨハネの黙示録 14:4)。主が再来される終わりの日に、私達が主をお迎えできるか否かは、私達が主の御声を認識でき、主の後についていけるか否かにかかっています。この点で、思慮深い乙女は思慮が浅い乙女とは異なっています。今日、誰かが主の再来の福音を説いているのを聞いたら、私達は思慮深い乙女の例に倣い、自分の観念と神様が御働きになった過去から出て、新時代の神様の御発言と御言葉に耳を傾けなければなりません。このような人のみが神様によりお認めいただき、聖霊の働き、啓示、光を得ることができます。同時に、私達は終わりの日の主の御言葉と御働きを求める際に、思慮深い乙女達のように自信と勇気を持つべきです。他人が何を言おうと、私達は見定める力と自分自身の意見を持つ必要があります。私達が神様の御声を認識する限り、私達は躊躇せずに調査すべきです。それが神様の御働きであることが確認できたら、神様の後にぴったりとついていき、迷ったり、後退りしてはなりません。真理を渇望し、真理を求める心がある限り、私達はイエス様の再来を確実にお迎えできるでしょう。

 松本愛:

 主よ、ありがとうございます!ようやく、思慮深い乙女となる道が理解できました。つまり、誰かが外で「花婿がやって来た」と叫んでいたら、私達はその人を迎え入れ、調査するために外へ出る必要があります。これこそ主の御声であると確信を持ったら、その人を受け入れ、ついていく必要があります。

 ムイ:

 その通りです。主よ、感謝します。最後に、皆さんと御言葉の次の聖句を共有したいと思います。「私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」栄光は全能の神様のものです。アーメン!


クリスチャンが罪から解放される方法は存在します (II)

2020-11-27 22:16:02 | 天の国の福音

    私は張兄弟が又しても世の終わりの神の裁きの働きを言及したのを聞いて、こう尋ねました:「兄弟、世の終わりに神が裁きの働きをしに来臨されると仰りましたが、私はそれがどうもはっきり分かりません。もし主が本当に人間を裁きにやって来られるのなら、それは恐ろしい状況になるのではないですか?そうしたら、神が人間を救いにやって来られると言えるのはどうしてなのでしょう?」私がこう言ったのを聞いた張兄弟は笑顔でこう言いました:「私たちは神が人間を裁きにやって来られるのは恐ろしい状況となり、神が人間を裁かれる時、人間は非難されると思っています。しかし、実際、これらは全て私たちの観念と想像なのです。全能神の御言葉から2つの節を読んでみましょう、そうすれば神がどのように裁きの働きをなさるかが分かるでしょう。」

    そして、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」

    これを読み終えた後、張兄弟はこう言って交流してくれました:「全能神の言葉から、裁きの働きは、神が天国でテーブルを立て、全ての人間が地面に跪いた状態で、神が彼らの運命を彼らの行いの善し悪しを基に定め、邪悪な者を罰し、善良な者には報いを与えてくださるという私たちの想像とは違うことが分かります。もし神が本当にこのような形で人間を裁かれるのであれば、私たちの行いを基に助かる人はいないでしょう。実際、神は様々な真理を使って裁かれ、私たちの内にあるサタンのような本質、あらゆる種類の誤った動機と観念を明らかにして、世の終わりに私たち堕落した人類を裁き、清める働きをなさります。全能神の御言葉を読めば、神は直接私たちを裁き暴露され、神の御言葉は諸刃の剣のように私たちの本性を暴露され、サタンによる堕落の真理、そして私たちが既に真の人間らしさを失っていることを明確に分かるようにしてくださっていると感じるでしょう。従って、私たちは深く恥じ入り、神の前に倒れ込んで悔い改めずにいられなくなるのです。私たちは自らを嫌い、自らを呪い始め、自分の堕落した性質の中で生きるのが嫌になるのです。これと同時に、私たちは、神の義なる性質は害することができない、そして神の神聖さは汚すことができないことも知ります。そして、私たちは神に対しえ敬虔の心を持たずにはいられなくなり、又神に背き逆らって罪を犯そうとはせず、むしろ肉に背いて真理を実践し始めるのです。すると、私たちのサタンのような堕落した性質が変化し始め、私たちは神の御計画と御采配に従って神の愛に報えるよう自分たちの創造物としての本分を尽くす意思を持つようになります。これが神の裁きの働きが引き起こす効果です。私たちの経験において、世の終わりの神の裁きの働きを受けてのみ、私たちのサタンのような性質は完全に清められ、そして私たちは神に認められ、天国に入れることが分かります。神の裁きの働きを受け入れられない者たちはどうなるかと言うと、彼らは清めを受けられず、変化を遂げることもできず、神の裁きの働きが終わる時に神の罰を受けることになります。」

    神の御言葉と張兄弟の交流を聞いた後、私は自分が持っていた裁きに関する理解は本当に自分の観念と想像から生まれていたということに気が付きました。実に、神による裁きとは非難を意味するのではなく、むしろ私たちの堕落した性質を清めることなのです。神は御言葉を使って世の終わりの裁きの働きをされ、その結果私たちは神の御言葉を通じて自分の堕落した本性と内にある様々な堕落した性質を知り、それらを心から忌み嫌い、そうすることで真理を実践し、堕落した性質を捨てられるようになるのです。これこそが、神が裁きの働きをなさる方法であることが分かりました。私は神の働きは本当に現実的であると感じました。長年に渡って主を信仰していながらも、私は罪の中を生きていたのだと思いました。私は他人の対応をする時に主の教えを実践できず、頻繁に腹を立てていました。私はこれが原因で心に痛みを感じていたのです。しかし、今、私は罪を取り除く方法を見つけました。

    その後に行われた集会の最中、張兄弟は真と偽の羊飼いの見分け方、真の道を探す原則、そして神の受肉の奥義等について私と交流してくれました。彼の交流は本当に多くの知識を与えてくれたと同時に、私は30年以上に渡って教会で信仰してきた以上の内容を理解できたと感じました。しばらく調査した後、私は、全能神が主イエス様の再臨であることを確立しました。なぜなら、神のみが奥義の全てを暴露して、私たちに真理の全てを話すことができるからです。これは主イエス様のこの預言を現実化しています:「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12–13). 主イエス様が働きをされた時に沢山の奥義を人間に話されなかったのは、当時人間は霊的背丈が低すぎてそれを修得することができなかったからなのです。これ故に、神は世の終わりに人類を救う真理全てを話しに来られ、私たちは世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って神の御国に救い入れていただけるのです。神を讃えます!子羊の足跡を辿れるほど幸運な私は本当に恵まれているのです。

    その後、私は時間があれば神の御言葉を読むようになり、読めば読むほど、増々惹かれていきました。神の御言葉はとても素晴らしく、以前知らなかった数多くの真理を理解させてくださっているように感じました。これに加え、全能神教会のウェブサイトの内容もとても素晴らしいものでした。踊りと讃美歌の動画や福音映画、全てが真理の様々な側面を伝えていました。これらを観賞した後、私は神の働きをより深く理解しました。

    私が全能神の働きを受け入れてから3か月以上が経ちました。過去に、私は自分の家族と話しをするとイライラしがちで、それが私の家族と私の両方に辛い思いをさせていました。しかし、この問題は解決し難いものでした。今現在、私は神の御言葉を読み、そして集会で兄弟姉妹たちと交流し合うことで、自分が腹を立てていたのは自分の傲慢な本質に支配されていたことが原因であったことを徐々に理解しました。私は常に夫と子供に言うことを聞いて欲しかったので、彼らの言葉と行動が不愉快な時は彼らに対して怒りをぶつけていたのです。これはサタンの堕落した性質だったのです。今、神の御言葉は、神は人間が真の人らしさを貫くことを要求され、人間は神に祈りを捧げずに自分を頼りにしていたのでは、堕落した性質から自由になる方法はないということを示してくださりました。これを念頭に置きながら、私はカッと怒りそうになった時、神に静かに祈りを捧げ、私を守り、そして神の御言葉を実践できるように導いてくださるよう請いました。次第に、私は自分の怒りをある程度は抑えられるようになりました。私の娘が私に逆らった時、私は落ち着いて彼女と話をすることができました。私は実体験を通じて、世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って私たちの堕落した性質は変わることができ、私たちは清められ、そして神の御救いを受けることができると知りました。今現在の私は経験と知識が浅すぎ、自分の中には堕落した性質が多く残っています。これ故に、私は全能神の御言葉をもっと読んで神の御言葉の裁きと刑罰を受ける必要があり、これにより自分の堕落した性質を捨てられるようになり、そして真の創造物らしさを貫いて神を讃えられるようになるのです。

 


クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

2020-11-25 22:33:55 | 天の国の福音

    1つの投稿記事をここで転送します:

    こんにちは!兄弟姉妹の皆さん、私は1つ質問があり、皆さんのそれに関する理解を求めて、今日、ここに投稿します。どうぞ、積極的に参加してください。

    今日、私が強い信仰心でお勤めをしていると、マタイによる福音書第25章に10名の乙女に関する寓話があるのを読みました。5名の思慮深い乙女は誰かが「花婿がやって来た」と叫ぶのを聞いて、躊躇せずに彼を迎えに出ました。そのため、彼女達は主と共に夕食を取り、ごちそうを楽しみました。なんと栄光あることでしょう。一方、残りの思慮が浅い乙女5名は主を迎え出なかったため、神の国の門の外に閉め出されてしまいました。なんと愚かなことでしょう!そこで、私は、「誰かが『花婿がやって来た。外へ出て、彼を迎えよう』」と叫ぶのを聞いたら、私が生きている間は思慮深い乙女となり、躊躇せずに主を迎え出なければならない」と考えました。そこで、また、「主の再来は私が考えるほど単純なものではないはずだ。そうでなければ、どうして思慮が浅い乙女が主により閉め出されるなんてことがあろうか?」と考えました。そこで、思慮深い乙女となるにはどうすればよいかを知りたいと思います。

    投稿者:松本愛

    回答:

    姉妹岡田:

    松本愛、私にはこれが分かります。数日前に行われた聖書の勉強会で、リュー牧師は「現在は、終わりの日で、主イエス様が間もなく再来されます。私達は主をお迎えできるよう思慮深い乙女となり、主に見放され、神の国の門の外で泣いて、歯ぎしりをすることになる思慮が浅い乙女とならないようにしなければなりません。思慮深い乙女となるには、私達はもっと聖書を読み、注意深く祈り、主のためにもっと働く必要があります。これらのことを常日頃から行う者だけが思慮深い乙女であり、神の国に入り、主と共に夕食を取ることができるのです」と言いました。牧師のこの説教を聞いて、私はとても興奮しました。それから私は、毎日、注意深く御祈りをし、聖書を読むようになりました。思慮深い乙女となり、神の国の晩餐会に主と共に参加できるよう、時間がある限り、親戚や友人、仲間に福音を説き、主の証を立てています。

    ムイ:

    こんにちは!少しお話させていただきたく思います。姉妹岡田の言葉をたった今聞きました。過去10年間、私の牧師もそう言っており、私はそのようにいつも実践してきました。しかし、その後、何かがおかしいと感じるようになりました。私達はこれらのことをするだけで思慮深い乙女となれるのでしょうか?思慮深い乙女とは、主が再来されたときに、積極的に外へ出て、主を迎えることができることを意味するのではないでしょうか?10年はまたたく間に過ぎていきました。主の再来に関する預言が基本的に現実化し、大災害が次から次へと起きており、それは主がいつ何時でも再来し、私達を神の国に連れて行ってくださることを示しており、とても心配しています。そこで、イエス様が再来した際にお迎えできるよう、思慮深い乙女の基準を満たせるよう、どのようにそれを追求できるかについてぜひとも知りたいと思います。

    松本愛:

    さて、回答がありますか?

    ムイ:

    主よ、ありがとうございます!その後、兄弟姉妹との交流を求める中で、私はそのことを理解しました。主イエス様は次のように預言されました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 」(マタイによる福音書 25:6)。このことから、主イエス様が再来されたとき、主の御声を聞くことができ、外へ出て主をお迎えできる者だけが思慮深い乙女だということが分かります。従って、思慮深い乙女の主な現れは、その者たちが主の御声を認識できるということです。主イエス様がユダヤで働くために受肉されたとき、主は数多くの真理を明らかにされました。真理を本当に求め、神様の出現を切望する者は、救世主の到来を歓迎しました。これらの者は主イエス様の御言葉から神様の御声を認識し、主こそ到来が預言されていた救世主であると悟ったのです。

    佐藤恵和:

    ちょうどサイトに入ったばかりです。上のメッセージを読み、私も皆さんにお話したいことがあります。

    松本愛:

    ようこそ。

    ムイ:

    まるで、かつて収税人であった当時のマタイのように、主イエス様が「わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書 9:9),と彼に言われるのを聞いて、彼は立ち上がり、そのまま主についていきました。また、聖書には次も記録されています。主イエス様との短い会話を交わした後、ナタナエルは「ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(ヨハネによる福音書 1:49)と言い、主についていきました。また、ペテロは、イエス様が船の中で人々に説いていた説教を聞いて、網と船を捨て、主についていきました。

    佐藤恵和:

    少しお話させていただきたく思います。ペテロ、ナタナエル、マタイなどの人々はすべて、主の御言葉と御発言から主イエス様が救世主であると認識し、主についていきました。同様に、サマリア人の女性は主イエス様と話しているとき、主が 「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。』」(ヨハネによる福音書 4:13-14)と話されるのを聞き、彼女の心の中に隠していた秘密が主によって明らかにされました。そして、真理の謎について話し、彼女の秘密を明らかにすることができるこのような人は、明らかに、普通の人や預言者ではないと悟りました。彼女は、主の御言葉から、主イエス様が救世主、キリスト様であると確信を持ちました。

    ムイ:

    そう、佐藤さんの言う通りです。これにより、私達は、彼らが神様の御声を聞くことに意識を集中しており、そのため、主の出現を歓迎できたことが彼らの知恵であり、それが思慮深い乙女の表れであることが分かります。

    佐藤恵和:

    少し付け加えたいと思います。思慮深い乙女には、自分自身の意見と根拠がありました。主の御言葉を聞いたとき、彼女達は外に主を迎え出ました。彼女達が主についていっている間、彼女達の周りでどれだけ中傷、冒涜、非難の声を聞こうとも、彼女達は変わらず、主イエス様が救世主であることを受け入れていました。弟子達が主についていったときと同様、彼女達は、多くの祭司、律法学者、パリサイ人から、主に抵抗し、主を中傷する多くの声を耳にしましたが、主への信仰に影響することはありませんでした。

    松本愛:

    はい。その通りです。

    ムイ:

    これらの祭司、律法学者、パリサイ人、そして彼らに従うユダヤ人はすべて、律法と規則に従う限り、確実に救世主の到来をお迎えすることになるだろうと信じていました。主の御言葉と御働きにどれほどの力と権威があろうと、彼らは自分の観念と想像に固執し、主イエス様の御言葉と御働きを調査することを拒みました。彼らは主イエス様を普通の人、神様の御発言を人の言葉とみなし、主を裁き、冒涜さえしました。最終的に、彼らは待ち望んでいた救世主を十字架に磔にし、神様を信じながら神様に抵抗する者となったのでした。彼らには神様の御声を認識することができず、真理を求める心を持っていませんでした。その代りに、神様の御出現と御働きを盲目的に拒否し、非難しました。そのため、彼らは神様からの御救いを失い、最終的に、神様の御怒りと御懲罰が下りました。これは、思慮が浅い乙女の表れで、彼らの結末でした。

    松本愛:

    皆さんの言葉を読み、私はとても恥ずかしくなりました。私はこれまで何度も聖書でこれらの寓話について読んでいながら、この光を得ていませんでした。

    主よ、ありがとうございます。たった今行われた皆さんによる思慮深い乙女と思慮が浅い乙女の表れについての交流はとても明確で、思慮深い乙女とは主イエス様の御働きについていく者のことで、主の御声を聞くことができる者で、主の御声を認識したら躊躇せずに最後まで主の後についていく者のことを言うのだと理解することができました。

    佐藤恵和:

    そうです!思慮が浅い乙女が門の外に放っておかれた理由は、彼女達には謙虚な気持ちで求める心がなかったからです。主イエス様の福音に直面して、彼女達は思慮深い乙女達と共に表に出ていって、これを受け入れることを嫌がり、自分の意見を持たずに、彼女達が尊敬し、崇拝するパリサイ人に助言を求めました。そのため、彼女達は主の救済を失いました。

    ムイ:

    その通りです!そのことは、現在にも同様に当てはまります。主イエス様の再来に関する預言は、基本的に現実化しています。今こそ主が再来される重大な瞬間です。イエス様の再来をお迎えするために、私達はどのような環境を整えておくべきでしょうか?

    松本愛:

    もっと教えてください。

    ムイ:

    分かりました。主イエス様は次のように仰っています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これらの預言によると、主が再来されたときは、確かに御言葉を発することが分かります。主イエス様が次のように仰っているため、これは疑う余地がありません。 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)。従って、主の再来のお迎えに関して、主の御発言と御言葉に注意する必要があります。神様の羊は神様の御声を聞くものです。「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」(ヨハネの黙示録 14:4)。主が再来される終わりの日に、私達が主をお迎えできるか否かは、私達が主の御声を認識でき、主の後についていけるか否かにかかっています。この点で、思慮深い乙女は思慮が浅い乙女とは異なっています。今日、誰かが主の再来の福音を説いているのを聞いたら、私達は思慮深い乙女の例に倣い、自分の観念と神様が御働きになった過去から出て、新時代の神様の御発言と御言葉に耳を傾けなければなりません。このような人のみが神様によりお認めいただき、聖霊の働き、啓示、光を得ることができます。同時に、私達は終わりの日の主の御言葉と御働きを求める際に、思慮深い乙女達のように自信と勇気を持つべきです。他人が何を言おうと、私達は見定める力と自分自身の意見を持つ必要があります。私達が神様の御声を認識する限り、私達は躊躇せずに調査すべきです。それが神様の御働きであることが確認できたら、神様の後にぴったりとついていき、迷ったり、後退りしてはなりません。真理を渇望し、真理を求める心がある限り、私達はイエス様の再来を確実にお迎えできるでしょう。

    ムイ:

    その通りです。主よ、感謝します。最後に、皆さんと御言葉の次の聖句を共有したいと思います。「私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」栄光は全能の神様のものです。アーメン!


クリスチャンが罪から解放される方法は存在します (II)

2020-11-13 21:19:12 | 天の国の福音

クリスチャンが罪から解放される方法は存在します (II)

    私は張兄弟が又しても世の終わりの神の裁きの働きを言及したのを聞いて、こう尋ねました:「兄弟、世の終わりに神が裁きの働きをしに来臨されると仰りましたが、私はそれがどうもはっきり分かりません。もし主が本当に人間を裁きにやって来られるのなら、それは恐ろしい状況になるのではないですか?そうしたら、神が人間を救いにやって来られると言えるのはどうしてなのでしょう?」私がこう言ったのを聞いた張兄弟は笑顔でこう言いました:「私たちは神が人間を裁きにやって来られるのは恐ろしい状況となり、神が人間を裁かれる時、人間は非難されると思っています。しかし、実際、これらは全て私たちの観念と想像なのです。全能神の御言葉から2つの節を読んでみましょう、そうすれば神がどのように裁きの働きをなさるかが分かるでしょう。」

    そして、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」

    これを読み終えた後、張兄弟はこう言って交流してくれました:「全能神の言葉から、裁きの働きは、神が天国でテーブルを立て、全ての人間が地面に跪いた状態で、神が彼らの運命を彼らの行いの善し悪しを基に定め、邪悪な者を罰し、善良な者には報いを与えてくださるという私たちの想像とは違うことが分かります。もし神が本当にこのような形で人間を裁かれるのであれば、私たちの行いを基に助かる人はいないでしょう。実際、神は様々な真理を使って裁かれ、私たちの内にあるサタンのような本質、あらゆる種類の誤った動機と観念を明らかにして、世の終わりに私たち堕落した人類を裁き、清める働きをなさります。全能神の御言葉を読めば、神は直接私たちを裁き暴露され、神の御言葉は諸刃の剣のように私たちの本性を暴露され、サタンによる堕落の真理、そして私たちが既に真の人間らしさを失っていることを明確に分かるようにしてくださっていると感じるでしょう。従って、私たちは深く恥じ入り、神の前に倒れ込んで悔い改めずにいられなくなるのです。私たちは自らを嫌い、自らを呪い始め、自分の堕落した性質の中で生きるのが嫌になるのです。これと同時に、私たちは、神の義なる性質は害することができない、そして神の神聖さは汚すことができないことも知ります。そして、私たちは神に対しえ敬虔の心を持たずにはいられなくなり、又神に背き逆らって罪を犯そうとはせず、むしろ肉に背いて真理を実践し始めるのです。すると、私たちのサタンのような堕落した性質が変化し始め、私たちは神の御計画と御采配に従って神の愛に報えるよう自分たちの創造物としての本分を尽くす意思を持つようになります。これが神の裁きの働きが引き起こす効果です。私たちの経験において、世の終わりの神の裁きの働きを受けてのみ、私たちのサタンのような性質は完全に清められ、そして私たちは神に認められ、天国に入れることが分かります。神の裁きの働きを受け入れられない者たちはどうなるかと言うと、彼らは清めを受けられず、変化を遂げることもできず、神の裁きの働きが終わる時に神の罰を受けることになります。」

    神の御言葉と張兄弟の交流を聞いた後、私は自分が持っていた裁きに関する理解は本当に自分の観念と想像から生まれていたということに気が付きました。実に、神による裁きとは非難を意味するのではなく、むしろ私たちの堕落した性質を清めることなのです。神は御言葉を使って世の終わりの裁きの働きをされ、その結果私たちは神の御言葉を通じて自分の堕落した本性と内にある様々な堕落した性質を知り、それらを心から忌み嫌い、そうすることで真理を実践し、堕落した性質を捨てられるようになるのです。これこそが、神が裁きの働きをなさる方法であることが分かりました。私は神の働きは本当に現実的であると感じました。長年に渡って主を信仰していながらも、私は罪の中を生きていたのだと思いました。私は他人の対応をする時に主の教えを実践できず、頻繁に腹を立てていました。私はこれが原因で心に痛みを感じていたのです。しかし、今、私は罪を取り除く方法を見つけました。

    その後に行われた集会の最中、張兄弟は真と偽の羊飼いの見分け方、真の道を探す原則、そして神の受肉の奥義等について私と交流してくれました。彼の交流は本当に多くの知識を与えてくれたと同時に、私は30年以上に渡って教会で信仰してきた以上の内容を理解できたと感じました。しばらく調査した後、私は、全能神が主イエス様の再臨であることを確立しました。なぜなら、神のみが奥義の全てを暴露して、私たちに真理の全てを話すことができるからです。これは主イエス様のこの預言を現実化しています:「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12–13). 主イエス様が働きをされた時に沢山の奥義を人間に話されなかったのは、当時人間は霊的背丈が低すぎてそれを修得することができなかったからなのです。これ故に、神は世の終わりに人類を救う真理全てを話しに来られ、私たちは世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って神の御国に救い入れていただけるのです。神を讃えます!子羊の足跡を辿れるほど幸運な私は本当に恵まれているのです。

 その後、私は時間があれば神の御言葉を読むようになり、読めば読むほど、増々惹かれていきました。神の御言葉はとても素晴らしく、以前知らなかった数多くの真理を理解させてくださっているように感じました。これに加え、全能神教会のウェブサイトの内容もとても素晴らしいものでした。踊りと讃美歌の動画や福音映画、全てが真理の様々な側面を伝えていました。これらを観賞した後、私は神の働きをより深く理解しました。

 私が全能神の働きを受け入れてから3か月以上が経ちました。過去に、私は自分の家族と話しをするとイライラしがちで、それが私の家族と私の両方に辛い思いをさせていました。しかし、この問題は解決し難いものでした。今現在、私は神の御言葉を読み、そして集会で兄弟姉妹たちと交流し合うことで、自分が腹を立てていたのは自分の傲慢な本質に支配されていたことが原因であったことを徐々に理解しました。私は常に夫と子供に言うことを聞いて欲しかったので、彼らの言葉と行動が不愉快な時は彼らに対して怒りをぶつけていたのです。これはサタンの堕落した性質だったのです。今、神の御言葉は、神は人間が真の人らしさを貫くことを要求され、人間は神に祈りを捧げずに自分を頼りにしていたのでは、堕落した性質から自由になる方法はないということを示してくださりました。これを念頭に置きながら、私はカッと怒りそうになった時、神に静かに祈りを捧げ、私を守り、そして神の御言葉を実践できるように導いてくださるよう請いました。次第に、私は自分の怒りをある程度は抑えられるようになりました。私の娘が私に逆らった時、私は落ち着いて彼女と話をすることができました。私は実体験を通じて、世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って私たちの堕落した性質は変わることができ、私たちは清められ、そして神の御救いを受けることができると知りました。今現在の私は経験と知識が浅すぎ、自分の中には堕落した性質が多く残っています。これ故に、私は全能神の御言葉をもっと読んで神の御言葉の裁きと刑罰を受ける必要があり、これにより自分の堕落した性質を捨てられるようになり、そして真の創造物らしさを貫いて神を讃えられるようになるのです。


恵みによって救われれば、天国に入れるのか

2020-11-07 21:09:45 | 天の国の福音

 今日、わたしは道を説く時、大災難がもうすぐ起こると言い、兄弟姉妹たちに積極的に集会に参加し、もっと多く聖書を読み、現実生活の中で主の道を行い、目を覚まして主の到来を待つように要求しました。わたしは一部の兄弟姉妹が依然として力を持たず、自分が天の国の中に携え上げられることができるかどうかを疑うのを見て、こう言いました。「兄弟姉妹たち、聖書にこう書かれています。『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ10:10)。主イエスを信じたわたしたちは心で信じ、口で公に言い表したため、永遠に救われました。主が再来される時、わたしたちはきっと天の国の中に携え上げられることができます!」。兄弟姉妹たちはこの言葉を聞いた後、うれしくなり、また力を持つようになりました。この時、同労者山田さんは立ち上がって言いました。「わたしはそうとは限らないと思います。主イエスは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』(マタイ7:21)と言われました。これはわたしたちに、神の御心を行う者だけが天の国に入ることができるとはっきり教えています。今わたしたちは救われましたが、依然として昼間に罪を犯し、夜に罪を告白します。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではありません。わたしはわたしたちが天の国に入ることができないと思います!」。

 兄弟姉妹はさっき少しうれしくなったが、同労者山田さんの一言で彼らの顔から笑顔が消えました。わたしはみなさんを見回して少し考えた後、その言葉を引き取って言いました。「兄弟姉妹たち、パウロ兄弟はガラテヤの信徒への手紙第3章26節で『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです』と言いました。これは、わたしたちはイエスを信じることによって神の子となったことを証明します。わたしたちは神の子ですから、必ず神の国に入ることができます!」。

 同労者山田さんはわたしの言葉を引き取って話しました。「佐藤兄弟、わたしはあなたの言葉に賛成しません! ペテロの手紙一第1章16節で『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあります。へブライ人への手紙第12章14節で『聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません』と書いてあります。聖書のこの二箇所の言葉から、わたしたちは神のきよい性質をはっきり見られます。わたしたちは救われましたけれど、いつも罪を犯し、罪を告白し、まだきよくなっていません。このようなわたしたちは全然主に会う資格がありません。これではどうして天の国に入ることができるでしょうか」。

 この時、佐々木兄弟は立ち上がって、聖書を指しながら厳しく言いました。「兄弟姉妹、使徒パウロはローマの使徒への手紙第8章33節から34節でわたしにはっきり言いました。『だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう』と。わたしたちはもう神に選ばれた人になりました。わたしたちが以前犯した罪も、わたしたちが以後犯す罪も、主イエスに赦されました。主はもうわたしたちを罪人だと思いません。わたしたちはすでに義とされました。だから、わたしたちはきっと天の国に入ることができます。これは疑う余地のないことです! わたしは佐藤兄弟の観点に賛成します」。

 同労者山田さんは断固として言いました。「兄弟姉妹たち、聖書には、聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできないと書かれているし、主イエスも天の父の御心を行う人だけが天の国に入ることができると言われました。これは、わたしたちがきよくなってこそ神の国に入ることができることを証明します。わたしたちは主の言葉を守らなければなりません!」。

 すると、わたしは大声で言いました。「同労者のみなさん、救われるという問題については、パウロはこう言いました。『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です』(エフェ2:8)。『もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります』(ロマ11:6)。パウロの言葉はどんなにはっきりしているのだろう。主の救いは価なしにわたしたちに与えられました。彼は人の行いを問題にしません。もし彼が人の行いを問題にすれば、それは主の恵みだと言えるでしょうか。今日、わたしたちが主の恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます!」。

 佐々木兄弟は手を揚げて言いました。「佐藤兄弟の言うとおりです! パウロはまたテモテへの手紙二でこう言いました。『神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ』(二テサ1:9)。主イエスを信じるわたしたちは恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます。行いによって救われることができる者はだれもいません!」。

 同労者山田さんは感情が少し高ぶって立ち上がって言いました。「兄弟姉妹たち、神を信じるわたしたちが天の国に入ることができるかどうかを決めるのは主イエスですか、それともパウロですか。主イエスの言葉に権威がありますか、それともパウロの言葉に権威がありますか。わたしたちは主イエスが真理、道、命であることを認めますか」。この言葉を聞いた後、みんなは互いに顔を見合せて、「もちろん認めます!」と言いました。

 同労者山田さんのこの言葉はわたしを悟らせました。「そうですね。わたしたちは神を信じる上で主の言葉を基準とすべきです。なぜわたしはいつもパウロの言葉に言及するのですか」とわたしは考えていました。ここまで考えた時、わたしは心を落ち着かせて、続けて山田兄弟の言葉を聞きました。

 同労者山田さんは続けて言いました。「わたしたちは主イエスが真理、道、命だと認めますが、でも今パウロの言葉は主イエスの言葉と矛盾し、対立しています。これは、パウロの言葉が混じり気のあるもの、人の意志によって出たものであって、真理ではないことを証明します。わたしは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』という主イエスの言葉を信じます。これこそ、天の国に入るための唯一の基準です!」。

 この時、高橋兄弟も興奮して立ち上がって言いました。「わたしたちは神を信じる上で主イエスの言葉を基準とすべきです。なぜなら、主イエスだけが天の国の主であり、彼の言葉にこそ真理、権威があります。主イエスの言葉に権威があるということは、主イエスが決定権を持っているということです! パウロが天の国の主ではないから、彼の言葉に権威がなく、彼の言葉が有効ではありません! パウロはただの使徒であり、しかも腐敗した人です。彼自身も神の救いを必要としていました。人が天の国に入ることができるかどうかは、主イエスによって決められるのです。彼はほかの人が天の国に入ることができるかどうかを決める資格があるでしょうか」。

 皆さんがうなずいて賛成するのを見て、わたしは「山田兄弟、あなたの言うとおりです。わたしたちは主を信じる上で主イエスの言葉を基準とすべきです。しかし、わたしは救われることと天の国に入ることについてよく分かりません。この面についてあなたはどう考えていますか」と言いました。

 この時、同労者山田さんは落ち着いて言いました。「この面については、ここ数日わたしは聖書を繰り返して調べました。わたしはこの面についてこう思っています。救われるとは、律法の罪定めから解放されること、罪の赦しを得ることです。しかし救われる人は常に罪を犯し、神に逆らい、神に背き、まだきよくなっておらず、まだサタンの権威の下に生きています。天の国に入ることのできる人は天の父の御心を行い、神の言葉を実行する人、神を知り、神に従い、神に味方する人でなければなりません。だから、救われることと天の国に入ることは異なります。主イエスが言われたように、『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない』(マタ22:14)。これは、主を信じて救われる人が多いが、最終的に天の国に入る人が少ないことを証明します。これも神の義なる性質を明らかにしました」。

 この言葉を聞いて、高橋兄弟はこう言いました。「わたしは山田兄弟の観点に賛成します! 主イエスは『天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている』(マタ11:12)と言われました。主の言葉から分かるように、天の国に入るのには基準があるのです。それはわたしたちが想像しているように簡単ではありません。恵みに頼って救われるとしたら天の国に入ることができる、というのではありません。わたしたちは努めて主の道を行わなければなりません。それでこそ天の国に入ることができます」。

 彼らの言っていることはもっともですが、わたしの心の中にやはり疑問があります。そこで、わたしはこう聞きました。「天の国に入るのに、天の父の御心を行わなければなりません。これは間違いのないことです。だが、わたしたちはずっとパウロに倣ってすべてを捨てて主のために働くのではありませんか。多くの兄弟姉妹は自分の一生を主にささげ、一生娶ったり嫁いたりせず、主のために山々を越えて福音を宣べ伝えます。すべてのクリスチャンが天の国に入るために少なからぬ苦しみを受け、多くの代価を払ったと言ってもいい。これは天の父の御心を行うのではありませんか。わたしはわたしたちがずっとこのように実行すれば、きっと天の国に入ることができると信じています!」。

 同労者山田さんは手の中の聖書を下に置いて言いました。「兄弟姉妹たち、わたしたちはまじめに聖書を調べましょう。主イエスは、人がすべてを捨てて、主のために労苦し、働くなら天の国に入ることができると言ったことがありません! 主イエスはただ『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』と言われました。わたしはこう思います。本当に天の父の御心を行う人たちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛する人です。彼らが働き、苦しみを受けるのは、自分の利益と前途のためではなく、完全に神を愛し、神の愛に報いるためです。彼らは何事にも神の願いを顧みることができ、どんなことがあっても罪を犯したり神に逆らったりしません。彼らが神を信じるのは、完全に罪悪を逃れ、自分をきよくするためです。このような、主のために働く人こそが天の国に入る資格があります!」。

 この時、沈思している高橋兄弟はこう言いました。「山田兄弟の言うとおりです! 聖書に『義を行う者は、御子と同じように、正しい人です』と書かれています。ここの『正しい人』は信仰によって義と『された』人ではなく、義を行う人、もはや罪を犯さない人を指します。わたしたちは今、すべてを捨てて主のために働きますが、やはりいつも罪を犯します。わたしたちは真の義人ではなく、神の国に入る資格がありません!」。

 わたしは異議があって反駁しました。「パウロはこう言ったのではなりませんか。『わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。……』(二テモ4:7-8)と。わたしたちが主のために福音を宣べ伝え、労苦し、働き、主の道を守るのは、天の父の御心を行うのではありませんか」。

 同労者山田さんは冷静に言いました。「佐藤兄弟、あなたの観点によれば、海と陸を行き巡って至る所で福音を宣べ伝え、多くの苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っているパリサイ人も天の父の御心を行ったのではありませんか。わたしたちが知っているように、パリサイ人は外側で神のために苦しみを受け、代価を払いましたが、神に逆らい、主イエスを十字架につけました。これで分かりますが、人が外側で苦しみを受け、代価を払い、外側のよい行為を持つことは、人が天の父の御心を行い、神を認識し、神に従うことの証明ではありません! 同様に、わたしたちは今日主のために働き、苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っていますが、やはりいつも罪を犯し、神に逆らいます。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではなく、天の国に入る資格がありません!」。

 これらの言葉を聞いた後、わたしは言うべき言葉がなくなりました。考えてみれば、わたしたちが罪の中に生きていることは事実であり、わたしたちが主のために費やす時、主と取引するという意図、観点、祝福を得ようという欲望があることも事実です。

 この話題について、皆さんはそれぞれ自分の見方と認識を積極的に話しました。集会がもうすぐ終わる時、わたしは皆さんに喜んで言いました。「兄弟姉妹たち、神に感謝します。今日の弁論会によって、わたしたちは救われることは天の国に入れることを意味しないと分かりました。しかも、このような弁論によって、恵みに頼れば救われることができるというわたしの間違った観点も是正されました。以上から分かるように、わたしたちが外側でどのように神を信じても、どのように主のために労苦し、働いても、わたしたちの中の罪が解決されず、わたしたちが本当に神の御心を行うことができないとすれば、わたしたちは神に良しとされることができず、神の国に入ることもできません。この点から、神がきよくて正しい神であるのを知ることができます。だから、わたしたちはいつも自分の観念と想像によって神を信じるわけにはいかず、神がわたしたちに要求する、天の国に入るための基準によって追い求めるべきです。そうしてこそ、神の心を満足させ、神の称賛を得ることができます」。これらの言葉を聞いて、兄弟姉妹たちはみなうなずいて賛成しました……。