賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

真の教会とは──どうすればヒラデルヒヤ教会が見つかるのか

2020-09-30 23:39:43 | 勝利者の証し

   世界は今や混乱状態にあり、あらゆる類の災害が人類を襲っています。そして多くの人々が、「主はもう再来されたのだろうか? もしもう再来されたのなら、なぜ私たちは大災害の前に携挙されないんだろう?」と悩んでいます。また、牧師や長老たちがいつも昔ながらの説教をしていたり、信者たちは信仰が冷めて世俗的な流行を追い、主の言葉を生きられずにいたりするのを目にすることもあります。それを見た人々は、キリスト教会は主に見放されたラオデキヤの教会のようではないかと悩むのです。ヨハネの黙示録にあるヒラデルヒヤの教会への手紙には、次のように書かれています。「わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」(ヨハネの黙示録3:8)。ここから、ヒラデルヒヤ教会の人々だけが、どのような状況においても主の御言葉を守り、聖霊の働きを受けられることがわかります。大災害の前に真に携挙されるのは彼らだけであり、聖霊の働きを受けているこのような教会だけが、唯一の真の教会なのです。中にはこれを現在のキリスト教会の状態と比べて、真の教会を探しに行きたいと思う人々もいます。しかし一方で、教会は繁栄しているし、聖書についての知識を競う会が開かれたりして、あらゆる祝祭日も活気に満ちているではないか、と考える人々もいます。彼らは「これが聖霊の働きというものではないのか。このような教会が真の教会であり、間違いなく携挙されるはずだ」と思っています。どの見方が正しいのでしょうか。真の教会とは何でしょうか。そしてどうすれば、真の教会と偽の教会を見分けられるのでしょうか。今日はこうした問題について、交わりを持ってみましょう。

 

 

真の教会と偽の教会を見分けるための第一原則:その教会では聖霊が働いているか、そして教会員たちは真理を追求しているか

   聖書には次のようにあります。「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ人への手紙 1:23)。ヤーウェ神はソロモンに次のように言われました。「今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある」(歴代志下 7:16)。そして神の言葉には次のようにあります。「神の働きの各段階において、それに対応する人間への要求がある。聖霊の流れの中にいる者たちは皆、聖霊の臨在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の働きがまったくない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の配慮と守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるだろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名において受け入れる者全てについて、神は責任を負うであろう」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より引用)。

   神の言葉から、その教会は神の礼拝所であり、神によって保たれ、神に認められていることがわかります。真の教会には聖霊の働きがあり、その構成員たちは神の現在の働きを受け入れていて、聖霊の流れの中に生き、真理を追求しています。そのような教会では忠実な信徒たちが、集まって神が現在発している声についての交わりを持ち、聖霊による啓きと光を得て、神の旨と要求を理解し、生活の中で一層の進歩を成し遂げています。彼らは日々の暮らしの中で神の言葉を実践した証しを立てることができます。主イエスが働きを行うために到来されたとき、神を心から信じ主イエス者たちが集まって教会を構成しました。彼らは主が説かれた悔い改めの道を受け入れ、それまでのように律法の拘束を受けることはなくなりました。また彼らは主の言葉に従って行動し、他者に対して寛大さや忍耐強さ、許しを示すようになりました。聖霊の最新の働きによる導きを受けて、彼らの人間性と彼らがその生活の中で生きるものは、一層正しくなっていったのです。また彼らは、主が途方もない苦難と屈辱に耐えて人間のため磔にされ、人類の罪を贖うのを目にし、神の性質が慈悲深く愛に満ちていることを理解しました。そして彼らの信仰はますます強くなったのです。このことから、このような教会には聖霊の働きがあり、それこそが真の教会であることがわかります。逆に、聖霊が働いていない教会は偽の教会です。たとえば律法の時代の末期、主イエスが働きを行うために到来されましたが、そのときに聖霊の働きは変化し、礼拝所は荒廃しました。ユダヤ人の祭司長、書士、そしてパリサイ人たちは、主イエスの最新の働きと言葉を受け入れませんでした。彼らは律法や戒めを守っているようではありましたが、聖霊の働きを受けておらず、最終的には自分たち自身の規則すら守れなくなり、窃盗、殺人、乱交といった背徳行為が蔓延していたのです。礼拝所はもはや神を崇拝する場所ではなく、盗人の巣窟となっていて、金銭のやりとりが行われ、家畜や鳩が持ち込まれ売り買いされていました。では、今日のキリスト教会の状態はどうでしょうか。牧師たちは説教の中でも聖書の知識や教義をいくらか解説できるだけで、聖霊の啓きも光も得ていません。信者たちも真の潤しや滋養を受けられていないのに気づき、否定的で受動的になり、信仰心が冷めてしまっています。集まりはただおざなりに行われ、神の言葉を楽しむこともなく、牧師も長老もまた普通の信者も、ほとんどの場合神の教えを守ることすらできていません。教会では牧師や長老たちが、ますます嫉妬による論争に没頭するようになり、誰が演壇に立つかで争っていて、欲深く、神を畏れる心をまったく持っていません。忠実な信徒の多くは次第に世間に戻って、金を稼ぐため忙殺されるようになり、肉の楽しみばかり求めて、礼拝に参加する人はどんどん少なくなっています。人々が教会へ行くのは、何かのイベントがあるときや食事が供されるとき、または何か大きな危険に直面したときだけです。純粋に真理を求めることはなく、ほとんどの場合ただ楽しいことに参加するか、恵みを得て生活の安寧を確保したいだけなのです。そのような教会は、外部からどれほど活気があるように見えたとしても、淀んだ水たまり以外の何物でもなく、律法の時代末期の礼拝所とまったく同じです。そのような教会では明らかに聖霊は働いておらず、神もその教会を保っていません。

   そのため真の教会と偽の教会を区別するには、まずその教会で聖霊が働いているか、聖霊がその教会を保っているか、人々が神の最新の言葉を読んでいるか、そして神の言葉を読むことでより多くの真理を理解し神への信仰を成長させているか、ということに目を向ける必要があります。教会が神の現在の働きについて行っておらず、聖霊の導きを得ていないなら、信者がどれほど多かろうと、さまざまなイベントを催してどれほど勢いがあるように見えようと、それは偽の教会でしかなく、まもなく神に見放されることになるのです。それは神がヨハネに告げて、ラオデキヤの教会に次のように書き送らせたとおりです。「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」(ヨハネの黙示録 3:15–16)。

   真の教会と偽の教会を見分けるための第二原則:支配しているのは真理か、または偽の羊飼いか

   真の教会と偽の教会を区別する際には、もう一つ重大な原則があります。それはその教会を支配しているものが真理か、または偽の羊飼いかを見定めることです。教会とは真理を求める人々が教会生活を生き神を崇拝する場所であり、心から神を信じる人々、自分の中で聖霊が働いている人々で構成されている教会が真の教会なのです。そのような教会は真理に支配されており、皆が神の言葉を読んで実践し、真理に従っています。そしてその教会は真理を探求する人々によって導かれ、真理の探求者を支えています。神の言葉と真理に逆らう者、悪事を働き教会で逆上するような者は誰でも、拒絶され追放されます。真理を探求する者には聖霊の働きと導きがあるため、そのような人々で構成される教会では神の旨が行われており、そこには神の存在があります。恵みの時代、主イエスが到来されて働き語ったとき、イエスは自ら十二使徒を選び出し、直接ペテロの証人となってペテロを教会の指導者に任命されました。使徒たちは当時の忠実な信徒たちを主の言葉に従って導き、主イエスの救いの福音を伝えました。それによって神の旨が成し遂げられ、主イエスの聖い名は遠方まで広まったのです。

   世の終わりに至った今、主イエスを信じる者たちはさまざまな教派に分かれ、それぞれに独自の指導者を擁しています。しかし聖書では、神が直接そうした牧師や指導者たちの証人となったことはなく、ましてや彼らを指導者に任命したなどとは言われていません。こうした教派の指導者や長老たちの大半は神学校の卒業生で、資格を得て指導者や牧師となるのであり、神の働きを経験する中で聖霊に完全にされ啓発されて立つのではありません。彼らはその働きや説教の中でも、主の言葉を証ししたり賛美したりすることは一切なく、主の旨について説教することもありません。おもに自分自身の才能や素質に頼って働いているため、彼らが話すことは聖書の知識と霊的な理論だけです。彼らは聖書を賛美し聖書を証しして、聖書の言葉を主イエスの代わりとしています。そのような働きは主に逆らうものです。それでどうやって、聖霊が彼らの教会を保つことができるでしょうか。彼らには神に関する真の認識を説教したり、人々を真理の現実に導き入れたりすることはできないのです。知っているのはただ、人々をどうやって規則や教義に導き入れ、道を踏み外させ、破滅へと導くかだけです。さらに彼らは教会の働きの中で、常に自分自身を称賛し、自分自身の評判を築き上げて、注目を浴びようとしています。神の言葉に従って行動したり人々を扱ったりはせず、一番多く寄付する人に媚びへつらい、自分のお気に入りを重要な役職に任命しています。兄弟姉妹たちの中には、真理を理解していない人もいます。そうした人たちは混乱していて判断力がないため、そのような牧師や長老をやみくもに崇拝し、彼らを探し出してはこの世のあらゆる問題について問いかけます。まるで、彼らだけが人々を神の国に導けるとでもいうかのように。こうした信者たちは神を信じ神に従っているように見えても、本質的には実際、そのような牧師や長老たちを信じているのです。特に、教会が荒廃し、より探求心の強い兄弟姉妹たちが聖霊の働いている教会を探して、再来された主が発する声を求めに行こうとすると、牧師や長老たちは全力を尽くしてそれを妨害し糾弾します。彼らは信者たちが自分の支配下から脱するくらいなら、霊的な飢えと渇きに死んでくれたほうがよいと思っているのです。そのような教会は明らかに、真理が支配してはおらず、代わりにそうした偽の牧羊者、反キリスト者、そして聖霊の働きを受けていない邪悪な従者によって管理されています。そのような教会は、もうずっと前に神の性質を侵し、聖霊に見捨てられているため、遅かれ早かれ完全に排除されることになるのです。これは聖書に次のようにあるとおりです。「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』」(ヨハネの黙示録 18:2–3)

真の教会を見つけるには

   今日の交わりもここまで来ましたので、おそらくもう皆さんの多くが、宗教界の教会ではもはや聖霊が働いていないことに気づかれていると思います。では、実際に聖霊が働き神が存在している教会は、どうやって見つければよいのでしょうか。その答えを求めるには、歴史をふり返ってみましょう。その昔、主イエスが到来されて働き語られたとき、礼拝所は荒廃していました。それは一面では、祭司長、書士、パリサイ人たちが信者を正しい道に導いていなかったため、聖霊に見捨てられていたのですが、またもう一面では、主イエスが新たな働きを行われていたため、聖霊が礼拝所での働きをやめ、神の歩みに遅れずに付き従っている人々の中で働きを始めていたのです。主イエスに従っていた人々は、主イエスの最新の言葉を聞いて、生きた水の滋養を受け取りましたが、礼拝所に残っていた人々は暗黒へと落ち込みました。そしてそれと同じことが、この終わりの日にも起こっています。宗教は荒廃し、聖霊の働きを得ていないため、私たちは自分で聖霊の発する声を探し求め、子羊の歩みに遅れないようついて行かねばなりません。これは聖書で次のように言われているとおりです。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった」(アモス書 4:7–8)。このように、神が到来して新たな働きを開始されると、古い時代の教会は荒廃する運命にあることがわかります。ここに神の旨があります。それは教会の荒廃を通して、私たちが神の歩みを探し求めに行かざるを得なくなるということなのです。災害の規模がますます拡大している今、主の到来の預言はほぼ満たされました。神がすでに再来されており、教会に現れて働きを行われている可能性は非常に高いといえます。神の足跡を見つけることができれば、当然ながら、真の教会も見つかることになります。

   では、どうやって神の足跡を見つければよいのでしょうか。そのことを明確に説明した神の言葉の一節があります。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より引用)。つまり、災害の前に携挙される真の教会を見つけたいなら、神の足跡を求め、神の発する声を求め、神の声を聞くことに集中しなければならないということです。これは聖書で次のように言われているとおりです。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)。

   神の言葉から、主は再来されると、教会に向けて新しい言葉を発されることがわかります。現在、世界中で全能神教会だけが、主が再来されたこと、まず神の家から裁きの働きを行われていること、そして無数の言葉を発し神の経営(救いの)計画のあらゆる神秘を明らかにされていることを証ししています。こうした神秘には、神の三段階による働きの現実の状況や、受肉の神秘、神の名の重要性、聖書の裏話、サタンがどのように人類を堕落させるか、神がどのように人々を救うか、あらゆる種類の人の最終的な終着点、人々がどのように完全な救いを得られるか、などがあります。こうした神秘は、私たちの目が開かれ、見るものを楽しめるようになるようにと、明らかにされているのです。全能神は終わりの日に裁きの働きを行うため到来され、そして全能神教会が生まれたのです。これは恵みの時代に主イエスが働きを行うため到来された後、恵みの時代の教会が生まれたのと同じです。全能神教会は、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れ、心から神を信じ、真理を追求する人々で構成されています。この人々は全能神の言葉による潤しと牧羊を受け入れ、神の現在の言葉を読み、主イエスの再来である全能神に祈りを捧げ崇拝しています。この人々は中国共産党の迫害と抑圧を受けており、一部は逮捕・投獄されて、暴力や拷問を受けましたが、それでも断固として全能神に従い、勝利者の証しを立てたのです。彼らは神の言葉の裁きと刑罰とを経て、自分自身のサタン的な性質を知るようになり、真の自責と自らへの真の憎しみを覚えるようになりました。彼らの堕落した性質は変容し、彼らはその堕落した性質が裁きと刑罰を通して清められたという事実について、多くの証しを立ててきました。終わりの日の神の裁きの働きによって、すでに一群の勝利者が生まれていることは確かです。こうした勝利者たちが、災害の前に携挙さる人々であり、神の約束と祝福を受け継ぐにふさわしいのです。全能神が表された本『言葉は肉において現れる』は今やオンラインで広く公開されており、さらに神の選民による経験的な証しのほか、全能神教会が製作したさまざまな映画や動画も、オンラインで豊富に紹介されています。真理を追い求める多くの人々が、全能神の言葉や神の選民による多くの経験的な証しを読んで、全能神とは再来された主イエスであることを確信しています。彼らは神の働きと、真理をどのように実践すべきかについて、新たな理解を得ているのです。そしてこのことから、全能神教会にこそ聖霊の働きがあることがわかります。全能神教会がヒラデルヒヤ教会であり、災害の前に携挙される教会なのです。最近では宗教界全体が荒廃に陥っている中、日毎にますます強くなっているのは全能神教会だけです。世界中で全能神教会の新たな分派が次々に設立され、日々拡大し強化され続けています。これは、神から来るものはすべて繁栄するのだということを示してくれています。

   発生する災害はどんどん大きくなっているため、なんとしても大災害の前に携挙されるヒラデルヒヤ教会を見つけ出さなければなりません。これは神の国に入れるかどうかという重大な問題にも直結しています。神の歩みに遅れずついて行くこと、そして真の教会を見つけ出すことができなければ、私たちは最終的に災害によって一掃され、多くの涙を流し歯ぎしりすることになるのです。この重大な時に、私たちは全能神の言葉に耳を傾け、それが神の声であるかどうかを聞き分けなければなりません。そしてそれが神の声であるとわかったら、急いでそれを受け入れなければなりません。それだけが、子羊の歩みに遅れずついて行くための方法なのです。

   この交わりで、真の教会と偽の教会を区別し、災害の前に携挙される、聖書に預言されたヒラデルヒヤ教会を 見つけるための道が見えたでしょうか。この記事がお役に立ったら、ぜひ友人にも見せてあげてください。より多くの人々が災害の只中で真の教会を見つけられるように、そして彼らもまもなく神の前に携挙されて、神の配慮と御加護を受けることができるように。


神を知る者だけが神に証しを立てることができる

2020-09-29 23:00:32 | デボーション

   神を信じ、神を知ることは、天の法則であり地上の原則である。そして、今日、つまり受肉した神がその働きを自ら行なっている時代は、神を知るのに特に良い時である。神を満足させることは、神の心についての理解という基盤の上に築くことにより達成されるものである。そして、神の心を理解するためには、神についての何らかの認識をもつことが必要である。この神に関する認識とは、神を信じる者がもつべきビジョンである。それは人間の神への信仰の基礎である。この認識の不在においては、人間の神への信仰は曖昧な状態に、空っぽの理論の只中に存在するであろう。神に従うことが、たとえこのような人々の決心であっても、彼らは何も獲得しない。この流れのにおいて何も得ることのない人々は皆、排除される者である。彼らは皆、たかり屋である。神の働きのどの歩みを経験するのであろうと、強力なビジョンを携えていなくてはならない。さもなければ、新しい働きのそれぞれの歩みを受け入れることは困難となるであろう。神の新しい働きは人間の想像力を超えて存在し、人間の観念の範囲外にあるからである。だから、人間の世話をする羊飼いなしには、ビジョンについての話し合いに関わる羊飼いなしには、人はこの新しい働きを受け入れることはできない。もし人がビジョンを受けることができなければ、神の新しい働きを受けることはできず、また人が神の新しい働きに従うことができなければ、神の心を理解することはできず、そうなれば、人の神についての認識は結果的に無となるであろう。神の言葉を実行する前に、人は神の言葉を知らなければならない。つまり神の心を理解しなければならない。こうしてのみ、神の言葉は正確に、神の心にかなって実行されることができる。これは真理を求める者が皆、所有するべきものであり、それはまた神を知ろうとする者が皆、経なければならない過程でもある。神の言葉を知るようになる過程は、神を知るようになる過程であり、神の働きを知るようになる過程でもある。だから、ビジョンを知ることは、受肉した神の人間性を知るだけではなく、神の言葉と働きを知ることも含んでいる。神の言葉から人々は神の心を理解するようになり、神の働きから人々は神の性質を知り、神であるものを知るようになる。神への信仰とは神を知ることへの第一歩である。この初期の神への信仰から最深の信仰へと前進する過程は、神を知るようになる過程であり、神の働きを経験する過程である。もし神を信じるためだけに神を信じ、神を知るようになるためでないのであれば、あなたの信仰には現実性がなく、その信仰が純粋であることはあり得ない。このことに疑いはない。もし神の働きを経験する過程において、人が徐々に神を知るようになると、人の性質は次第に変化し、その信仰はますます真実なものになる。このようにして、神への信仰において成功するとき、人は完全に神を得ている。神が自らその働きを行なうために、これほどの大変な苦労をして再び肉となった理由は、人間が神を知ることができ、神を見ることができるようになるためであった。神を知ること[a]は、神の働きの結末において達成される最後の成果である。それは神の人類への最後の要求である。神がこれを行なう理由は、神の最終的な証のためである。神がこの働きを行なうのは、人がついに完全に神に向かうようにである。神を知ることによってのみ、人は神を愛するようになることができ、神を愛するためには人は神を知らなければならない。人がどのように求めようと、何を得ようと求めようと、人は神についての認識を達成できなければならない。こうしてのみ、人は神の心を満足させることができる。神を知ることによってのみ、人は神への真の信仰をもつことができ、そして神を知ることによってのみ、神を真に畏れ神に従うことができる。神を知らない人々は、神への真の服従と畏敬に決して到達することはない。神を知ることには、神の性質を知り、神の心を理解し、神であるものを理解することが含まれる。しかし、どの側面を知るようになるにせよ、それぞれが人に代価を払うこと、従う意思を要求する。それなしには誰も最後まで従い続けることはできないであろう。神の働きは、人の観念とはあまりにも相容れないものであり、神の性質と神であるものは、人が知るには難解過ぎ、神が言い行うこともすべて、人には理解不可能である。もし人が神に従いたいと思いながらも、神に服従しようとしないならば、人は何も得ることはない。天地創造から今日に至るまで、神は人には理解不可能で、受け入れ難いたくさんの働きを行い、人の観念がおさまりにくくなるほど多くを語ってきた。しかし、人が多すぎる困難をかかえているからといって、神はその働きを中断したことはない。それどころか、神は働き語り続け、多数の「戦士たち」が道端に倒れてしまっても、神は働きをまだ行っており、神の新しい働きに服従する覚悟のある人々の集団を次から次へと中断せずに選び続けている。神は倒れた「英雄たち」への憐れみはもたず、その代わりに神の新しい働きと言葉を受け入れる人々を大切にしている。しかし神は何の目的に向かってこのように段階的に働くのだろうか。なぜ神は常に何人かを排除しては別の何人かを選別しているのだろうか。神が常にこのような方法を用いるのはなぜだろうか。神の働きの目的は、人が神を知り、それゆえ神に得られることができるようにすることである。神の働きの原則は、神が現在行なう働きに従うことのできる人々に対して働くことであり、神が今日行なう働きに反対しつつ過去に行なった働きに従う人々に対して働くことではない。ここに神が多数の人々を排除してきた理由がある。

 


   神を知るようになる課業の成果は、一日や二日で達成できるものではない。人は経験を重ね、苦しみを経て、そして真の服従を達成しなければならない。まず、神の働きと神の言葉から始めなさい。神についての認識には何が含まれており、その認識にいかに到達するのか、そして自分の経験の中にいかに神を見るべきかを理解することが必須である。これは神を知ろうとする人が皆しなければならないことである。誰も神の働きと言葉を一挙に把握できないし、誰も短期間に神の全体についての認識を得ることはできない。経験という必要な過程があり、それなしには誰も神を知ることも、神に真摯に従うこともできない。神が働きをすればするほど、人は神についてさらに知ることになる。神の働きが人の観念と異なれば異なるほど、人の神についての認識はさらに新しく、深くなる。もし神の働きが永遠に固定され不変であれば、人の神についての認識はあまりないことであろう。天地創造から現在まで、神が律法の時代に行ったこと、恵みの時代に行ったこと、神の国の時代に行うことについて、あなたがたはこれらのビジョンについてこの上なくはっきりしていなくてはならない。あなたがたは神の働きを知っていなくてはならない。ペテロはイエスに従った後ではじめて、霊がイエスの中で行なった働きの多くについて徐々に知るようになった。ペテロは「完全な認識に到達するには、人間の経験に頼ることは不十分である。わたしたちが神を知るようにしてくれる神の働きから来る多くの新しいものがなくてはならない」と言った。当初、ペテロはイエスのことを使徒のように神から遣わされた人だと思い、イエスをキリストとして見なかった。ペテロがイエスに従い始めたとき、イエスはペテロに「ヨナの息子シモンよ。わたしについて来るか」と尋ねた。ペテロは「私は天の父から遣わされたお方に従わなくてはなりません。私は聖霊によって選ばれたお方を認めなければなりません。私はあなたに従います」と言った。ペテロの言葉から、ペテロがイエスに関して何も知らなかったことが分かる。ペテロは神の言葉を経験し、自らを取り扱い、神のために苦労をしたが、それでもペテロは神の働きについて何も知らなかった。一時期の経験の後、ペテロはイエスに神の業の多くを見、神の美しさを見、神であるものの多くをイエスに見た。ペテロはまたイエスの話した言葉は人には話せるはずのないものであると知り、イエスが行なった働きは人には行えるはずのないものであると知った。さらに、イエスの言葉と働きの中に、ペテロは神の知恵と、神性の働きの多くを見た。これら経験のあいだ、ペテロはただ自らを知るようになっただけでなく、イエスの行動のすべてに注目し、そこに多くの新しいことを発見した。すなわち、イエスを通して神が行った働きの中に実際の神の多くの表現があるということ、イエスは話した言葉や取った行動において、また教会を牧した方法や実行した働きにおいて、普通の人とは異るということである。それでペテロは学ぶべき多くの課業をイエスから学び、まさにイエスが十字架に釘打たれそうになる時には、イエスについてのある程度の認識を獲得していた。この認識はペテロのイエスへの生涯を通しての忠実と、主のための逆十字架刑の基盤となった。当初ペテロはいくつかの観念にとりつかれ、イエスについての明確な認識はなかったものの、これは堕落した人間の一部として避けられないことである。イエスは今にも去らんという時、十字架にかけられることが自分が行なうために来た働きであり、時代にイエスが見捨てられなくてはならず、この不純で古い時代はイエスを十字架に釘付けにせねばならず、イエスは贖いの働きを完するために来たのであり、その働きを終えたので自分の職分は終わりにある、とペテロに告げた。これを聞くとペテロは悲しみに襲われ、ますますイエスに傾倒するようになった。イエスが十字架に釘付けにされたとき、ペテロは密かにひどく泣いた。この前に、ペテロはイエスに、「主よ。あなたは、ご自分が十字架に付けられるとおっしゃいます。あなたが去られた後、私たちはいつあなたに再びお会いできますか」と尋ねていた。ペテロが語った言葉には不純な要素がなかったであろうか。それらには観念が混ざっていなかったであろうか。心の中では、ペテロはイエスが神の働きの一部を完成させるために来たのであり、イエスが去った後は霊が自分と共にあるであろうこと、たとえイエスが十字架に付けられ天に昇ったとしても、神の霊が自分と共にあるであろうことを知っていた。当時、ペテロにはイエスについてのある程度の認識があった。すなわち、ペテロはイエスが神の霊により遣わされたこと、神の霊がイエスの中にあること、イエスは神そのものであること、イエスはキリストであることを知っていた。しかし、ペテロのイエスへの愛ゆえに、人間としての弱さゆえに、ペテロはこのような言葉を語ったのである。もし、神の働きの歩みの一つひとつにおいて、人が観察し労を惜しまず経験することができるならば、神の美しさを発見することが徐々にできるようになる。ではパウロは何を自分のビジョンとしたであろうか。イエスがパウロに現れたとき、パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と言った。イエスは「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えた。これがパウロのビジョンであった。ペテロはイエスの復活、四十日間にわたり現れたこと、イエスの生涯にわたる教えを、その旅路の終わりまで自分のビジョンとした。

   人は神の働きを経験し、自らを知るようになり、自分の堕落した性質を取り除き、いのちにおける成長を求める。これらはすべて神を知るためである。もし自らを知り、自らの堕落した性質を取り扱うことだけを求めるが、神が人に行なう働きが何であるか、神の救いがいかに偉大であるか、あるいはいかに神の働きを経験し、神の業を目撃するのかを一切知らないのであれば、この経験は実体のないものである。真理を実践でき忍耐できるのだから、いのちが成熟したと考えるのであれば、これはいのちの真の意味、あるいは神が人に対して働くことの目的をまだ把握していないということである。ある日、あなたが宗教的な教会で悔い改めの教会やいのちの教会のメンバーと一緒にいると、多くの敬虔な人々に出会うことであろう。彼らの祈りには「ビジョン」が含まれており、彼らはいのちを求める過程において感動し言葉によって導かれているように感じる。さらに、彼らは多くのことにおいて忍耐し、自分を捨て、肉に操られないでいることができる。その時、あなたには違いが分からないであろう。あなたは彼らがすることはすべて正しく、それがいのちの自然な表出であり、彼らが信じるものの名前が間違っているのはなんと残念なことだと思うであろう。このような見方は愚かではないであろうか。なぜ多くの人にはいのちがないと言われるのであろうか。それは彼らが神を知らず、従って彼らの心には神はなく、いのちがないと言われるのである。もしあなたの神への信仰がある点に到達し、神の業、神の現実性、神の働きの各段階を周到に知ることができるようになれば、あなたは真理を備えているのである。もしあなたが神の働きと性質を知らなければ、あなたの経験にはいまだに不適切な何かがある。イエスがその働きの段階をいかに行ったのか、この段階がいかに実行されているのか、神が恵みの時代にその働きをいかに行い、何の働きがなされたのか、この段階では何がなされているのか、これらのことについて周到な認識がないのであれば、あなたは決して確信することはなく、いつも不安定に感じるであろう。もし、ある期間の経験の後、神による働きと神の働きの各段階を知ることができ、そして神がその言葉を語る目的を、またなぜ神の語った言葉のこれほど多くが成就していないのかについて完全な認識を得たならば、あなたは心配や鍛錬から自由になり、大胆に、またためらうことなく目の前の道を進むことができる。あなたがたは、神がどのような手段によりそれほど多くの働きを達成するのかを知るべきである。神は自身が語る言葉を用い、多くのさまざまな言葉を手段として、人を鍛錬し人の観念を変革する。あなたがたが耐えてきた苦難のすべて、経験してきた鍛錬のすべて、内面において受け入れてきた取り扱い、経験してきた啓発、それらはすべて神が語った言葉という手段により達成されてきた。人は何ゆえに神に従うのであろうか。それは神の言葉ゆえである。神の言葉は非常に神秘的であり、さらに人の心を動かし、人の心の奥深くに潜んでいることがらを明らかにし、過去に起きたことを人に知らしめ、人に未来を洞察させることができる。だから人は神の言葉ゆえに苦難に耐え、また神の言葉ゆえに完全にされる。このときに初めて人は神に従うのである。この段階において人がすべきことは、神の言葉を受け入れることであり、人が完全にされているか否か、あるいは鍛錬を受けているか否かに関わらず、神の言葉が鍵である。これが神の働きであり、人が今日知るべきビジョンである。

   いかにして神は人を完全にするのか。神の性質とは何であろうか。そして神の性質の内部には何が含まれているのか。これら全てのことを明確に述べることは、神の名を広めることであり、神を証することであり、また神を高めることである。神を知るという基盤の上に、人は最終的にいのちの性質において変革される。人は取り扱いと鍛錬を受ければ受けるほど、活気を得、神の働きの歩みが多ければ多いほど、人はますます完全にされる。今日、人の経験において、神の働きの歩みの一つひとつが人の観念に反撃し、すべての歩みは、人の知性を超越し、人の予想の枠外にある。神は人が必要とするすべてを与えるが、それはあらゆる点で人の観念と食い違う。神はあなたの弱い時に言葉を発する。こうすることによってのみ、神はあなたにいのちを与える。神はあなたの観念に反撃すること、神による取り扱いをあなたに受け入れさせ、こうすることによってのみ、あなたは自己の堕落を排除することができる。受肉した神は今日、ある面においては神性の状態において働くが、別の面では普通の人間性の状態において働く。あなたがいかなる神の働きも否定することができなくなるとき、神が正常な人間性の状態において何を言おうと何をしようと、それに服従することができるようになるとき、神がどのような正常性を表明しようと服従し理解できるようになるとき、実際の経験を得たとき、そのとき初めてあなたはその方が神であると確信でき、そのとき初めて観念を作り出すことを止め、そのとき初めて最後まで神に従うことができるようになるのである。神の働きには知恵があり、神は人間がいかに神の証人として確固としていられるかを知っている。また人の急所がどこにあるかを知っており、神が語る言葉はあなたの急所を攻撃することができるが、神はまたその威厳と知恵に満ちた言葉を用いてあなたを神の証人として確固と立たせる。これは神の奇跡的な業である。神が行なう働きは人の知性には想像不可能である。肉である人間がいかなる種類の堕落にとりつかれているか、そして何が人間の本質を形成しているか、これらのことはすべて神の裁きを通して明らかにされ、それにより人間には自分の恥から隠れる場所はどこにも残されなくなる。

   神は裁きと刑罰の働きを行うが、それは人が神についての認識を得られるようにであり、また神の証しのためである。人の堕落した性質を神が裁くことなしには、犯すことを許さない神の義なる性質を人は知ることはできず、神についての古い認識を新しいものに変えることもできない。神の証しのため、そして神の経営(救い)のため、神はそのすべてを公けにし、そうすることで、神の公的な出現を通して、人は神についての認識に到達することができ、その性質において変えられ、神のはっきりとした証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、さまざまな種類の神の働きを通して成し遂げられる。このような性質の変化なしには、人は神の証しを立てることはできず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化とは、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本であり標本、神の証人、神の心にかなう者になったことを意味する。今日、受肉した神がその働きを地上で行なうために来たが、神は人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなること、すなわち、神の実際的で正常な働きを知り、人の観念とは合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと、また神が人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをたてること、を要求している。神を証す人々は神の認識をもたなければならない。この種の証しのみが正確であり現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入りらせることができる。神の裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を、神はその証人として用いる。神はサタンにより堕落させられた人々をその証人として用い、また性質が変わり、それにより神の祝福を得た人々をその証人として用いる。神は口先で賞賛するための人を必要とせず、神に救われていないサタンの種類の称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しを立てる資格があり、性質において変革させられた人々だけが神への証しとなる資格がある。神は人が意図的に神の名に恥をもたらすことを許さない。

   脚注

   a.原文では「神を知る働き」。


神の経営の中でのみ人は救われる

2020-09-28 23:46:25 | デボーション

   誰もが神による経営(救い)を未知のものだと感じる。なぜなら、神の経営は完全に人間と無関係だと人々は考えるからである。人々はこの経営は神だけの働き、神独自の用事だと考えるので、神の経営の働きに無関心である。こうして、人類の救いは漠然とした不明瞭なものとなり、今では空虚な言葉にすぎないものとなっている。人間は救われて美しい終着点に達するために神に付き従うのだが、神がどのように働きを行なうのかについて無関心である。人間は、神が何を行なおうとしているか、救われるために自分が果たすべき役割については考えていない。なんと悲しいことか。人間の救いは神の経営と不可分であり、まして、神の計画と切り離すことなどできない。それなのに、人間は神の経営について何も考えず、ますます神と離れて行く。そのため、ますます多くの人々が創造とは何か、神を信じるとはどういうことか、神をどう礼拝するか等、人間の救いに密接に関係のある事柄を知らずに神に付き従うようになっている。だからここでは神の経営の働きについて話し、信者の一人一人が神に付き従うこと、神を信じることの意義について明らかに知るようにしなければいけない。そうすれば、ただ祝福を得ようとして、あるいは災いを避けようとして、あるいは成功するために神に付き従うのではなく、歩むべき道をもっと正確に選べるようになる。

 


   神の経営は人間には深遠に思えるだろうが、人間に理解不可能なものではない。神の働きはすべて神の経営に連結しており、人間の救いの働きに関係しており、人類のいのち、生活、終着点に関わっているからである。神が人間の間で、そして人間に対して行なう働きは、まことに実際的で意義深いものだと言える。それは人間が目で見、経験できるものであり、抽象的なものではまったくない。神のする働きすべてを人間が受け入れることができないなら、この働きにどんな意味があるというのか。また、どうしてそうした経営が人間の救いにつながり得るのか。神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいるため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのである。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちのいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目的しかもっていない。その目的とは祝福を受けることである。このような人は、その目的に直接関係しない他の一切のことにわざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものの方向を変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力がそのような献身を続けさせるのだろうか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しする信仰心だろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人々がそれほどまでに神に捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。

   人類の神への信仰の最も悲しい点は、神の働きの只中に人間が自分なりの経営を行い、神の経営そのものには無関心なことである。人間の最大の失敗は、神に服従し神を礼拝することを求めると同時に、人間は自分なりの理想の終着点を打ち立て、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき、憎しみに満ちた哀れな存在かを理解したとしても、自分の理想や希望を簡単に捨て去ることのできる人がどれだけいるだろうか。また、誰が途中で足を止め、自分の事だけを考えるのをやめられるだろうか。神と密接に協力して、その経営を完成する者を神は必要としている。神に服従するために、神の経営の働きに身も心も捧げる人を神は必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者は必要ではない。まして、わずかばかりを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者は、無用である。わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を神は嫌う。神の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話したがる心無い人々を神は憎む。それにもまして、神が人類を救うために行なう働きがもたらす機会を通じて利を得ようとする人々を、神は嫌う。そうした人は、神が経営の働きで成し遂げ、獲得しようとしていることにはまったく無関心だからである。そういう人々は、神の働きがもたらす機会を利用していかに祝福を受けるかということだけに気をもんでいる。彼らは、神の心には無関心で、自分たちの未来と運命のことだけに没頭している。神の経営の働きを嫌い、神がどのように人類を救うかとか、神の心についてはまるで関心がない人々は皆、神の経営(救い)の働きと無関係に好き勝手をしている。彼らの行動は、神によって記憶されず 、認められず、まして神に喜ばれることなどない。

   広大な宇宙に、どれほどの生ける物が、一つの不変の規則にしたがって生き、いのちの法則に何度も何度もしたがって、生き、再生しているのか。死ぬ者は生きる者の物語を抱えて行き、生きている者は死んだ者と同じ悲劇的な歴史を繰り返す。そこで、人類は自問せずにはいられない。なぜわたしたちは生きるのか。そして、なぜわたしたちは死ななければいけないのか。誰がこの世界を支配しているのか。そして、誰がこの人類を創ったのか。人類はほんとうに大自然の生み出したものなのか。人類はほんとうに自分の運命を支配しているのだろうか。…数千年にわたり、人類はこうした問を何度も何度も発している。残念ながら、人類がこうした問に頭を悩ませれば悩ませるほど、ますます科学への渇望が強くなった。科学は、ささやかな肉の欲求の充足と、つかの間の肉の楽しみを与えるが、人類を魂の奥底にある孤独や寂しさ、かろうじて隠している恐怖と無力感から解放することなど到底できない。人類は単に肉眼で見、脳で理解できる科学的知識を用いて心を麻痺させているが、これは 人類が奥義を探ることを止めることはできない。人類は、宇宙万物の支配者が誰であるかを知らないし、まして、人類の始まりも未来も知らない。人間はこの法則の中で、ただ生きている、否応なしに。誰一人、逃れることができないし、誰もこれを変えることはできない。あらゆる物事の間と天において、永遠から永遠にすべてを支配しているのは、ただお一方だけだからである。それは、かつて人間が見たことがないお方、人類が知ることもないお方、その存在を人類は信じたこともない。しかし、それは人類の祖先に息を吹き込み、人類にいのちを与えたお方である。人間の生存のために施し、養い、今日まで導いて来たお方である。さらに、人類が生き残るために依存する唯一のお方なのである。彼は万物を支配し、天の下のすべての生ける物を支配している。彼は四季を支配し、風と霜、雪、雨を呼ぶ。彼は人類に陽光を与え、夜の訪れをもたらす。天と地とを整え、人間に山々と湖、川、すべての生き物を与えたのは彼である。彼の業はあらゆるところにある。その力はいたるところにある。その知恵はいたるところにある。その権威はいたるところにある。その法則や規則の一つひとつは彼の業の具現であり、その一つひとつが彼の知恵と権威とを明らかにしている。誰が彼の支配を免れることができようか。また、誰が彼の采配から逃れることができようか。万物は彼の眼差しの下にあり、さらに、彼の支配の下で生きている。彼の業と力の前に人類は、彼が実際に存在し、万物を支配していると認めざるを得ない。神を除いては、他の何も宇宙を支配できず、まして、やむことなく人類に施すこともできない。神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命は神の定めるところであって、神が永遠にあらゆるものの支配権を持ち続けることに疑いはない。神の存在と権威とは、人間に認められ理解され得るかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人類の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関りなく、人類は近い将来、これらのことすべてをその目で見ることになる。そして、これは神が間もなく実現する事実である。人類は神の目の下で生き、死ぬ。人類は神の経営のために生きているのであり、その目が最期に閉じる時もまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去り、行き来を繰り返す。例外なく、これはすべて神の支配し、定めていることである。神の経営は常に前進しており、やむことがない。神は人類に自身の存在を知らせ、神の支配を信じさせ、神の業を見させ、神の国に戻らせる。これが神の計画であり、何千年にもわたって神が行なってきた働きなのである。

   神の経営(救い)の働きは天地創造の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神が万物を創造したのは、人間のためであると言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、ほんの数分や数秒、瞬時に行われるものではなく、一、二年で行なわれるものでもないので、神は人間が生きて行くために必要なもの、すなわち太陽や月、あらゆる種類の生き物や食物、生きるための環境などを数多く創る必要があった。これが神の経営の始まりであった。

   その後、神は人類をサタンに渡し、人類はサタンの領域で生きた。そして、これが徐々に神の最初の時代の働きへと至った。律法の時代の物語である…。数千年に及ぶ律法の時代、人類は律法の時代の導きに慣れ、軽く考えるようになり、徐々に神の保護から遠ざかった。そして、律法を守っていながら、同時に偶像をも拝み、邪悪なことを行った。彼らはヤーウェの守りなしに、ただ神殿の祭壇の前で暮らしているだけだった。実際、神の働きはずっと以前に彼らのもとを去っていた。イスラエル人はまだ律法に従い、ヤーウェの名を唱え、自分たちだけがヤーウェの民、ヤーウェの選民だと誇っていたものの、神の栄光は静かに彼らを捨て去った…。

   神がその働きをする時は、いつでも静かに一つの場所から去り、そのあいだに別の場所でそっと新たな働きをする。これは、鈍重な人間には信じられないことのように思われる。人々はいつも古いものを大事にし、新しい、馴染みのないものには敵意をもつか、厄介なものとみなす。そこで、神が行なう新しい働きは何であれ、最初から最後まで、人間はあらゆるものの中で最後にそれを知ることになる。

   いつもそうであるように、律法の時代にヤーウェの働きをした後、神は新たな第二段階の働きを始めた。すなわち、人間として受肉し、十年、二十年間、信じる者たちの間で話し、働きを行った。しかし、例外なく誰もそれを知らなかった。ただ、ごく少数の人々だけが、イエスが十字架につけられ、よみがえった後、彼が受肉した神だと認めた。困ったことに、パウロという者が現れて、神に対して激しい敵意を抱いた。打ち倒され、使徒になった後でも、パウロの古い本性は変わらず、神に逆らう道を歩んだ。パウロは働きを為した間、多くの手紙を書いているが、不幸なことに、後の世代は彼の手紙を神の言葉として享受し、そのため新約聖書に収めてしまったほどで、神の話した言葉と混同された。これは聖書が登場して以来のまことに恥ずべきことである。そして、この誤りは人間の愚かさから起こったことではないのか。恵みの時代の神の働きの記録において、人間による手紙や霊的文書は、神の働きと言葉に取って代わるべきものでないということを知らなかったのだ。しかし、これは本題からずれているので、話しを戻そう。神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にはりつけになった後、人間を罪から取り戻す(つまり、サタンの手から人間を取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。そこで、サタンに捕らわれた後、人間は神の前で救いを受けることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは律法の時代から一歩進んだ神の経営であって、律法の時代よりもさらに深い段階のものであった。

   これが神による経営である。人類をサタンに引き渡し─神が何であるか、創造主が何であるか、神をどう礼拝するか、なぜ神に服従することが必要なのかを知らない人類を──サタンが堕落させるままにしたのである。神はそれから一歩一歩、人間が完全に神を礼拝しサタンを拒むまで、人間をサタンの手から取り戻す。これが神の経営である。これはみな神話的な物語のようで、わけがわからないように思われる。人々がこれを神話的な物語のように感じるのは、過去数千年の間にどれほど多くのことが人間に起こったかを知らないからであり、まして、この宇宙の広がりにおいてどれほど多くの物語が生まれたか、思いも及ばないからである。そのうえ、物質界の外に存在する、さらに驚くべき、はるかに恐ろしい世界があるのを意識することができず、人間の目では見ることができないでいるからである。これは人間には理解し難いことに思われるが、それは人間には神による人類の救いや神の経営の働きの意義が理解できず、また、人間が最終的にどのようになることを神が望んでいるかを知らないからである。そのような人類は、サタンに堕落させられる前のアダムとエバのようなものだろうか。いや、そうではない。神の経営は、神を礼拝し、神に従う一群の人々を得るためのものである。この人類はサタンにより堕落させられたが、もはやサタンを父とみなしておらず、サタンの醜い顔に気づいて拒み、神の裁きと刑罰を受けるため、神の前に来る。その人間は何が醜いか、それが聖いものとどう異なっているかを知っており、神の偉大さとサタンの邪悪さを認識している。このような人類は、もはやサタンのために働かず、サタンを崇めず、サタンを祭ることをしない。それは、その人たちが真に神のものとなった人々だからである。これが神による人類経営の意義である。神の今回の経営の働きのあいだに、人類はサタンによる堕落の対象であり、同時に、神による救いの対象であり、そして神とサタンが獲得しようと戦う産物でもある。神はその働きをすると同時に、徐々に人間をサタンの手から取り戻してきたので、人間は神に近づきつつある…。

   そして、神の国の時代が来た。これは、より実際的な働きの段階であるが、人間にとっては最も受け入れ難い働きでもある。それは、人間が神に近づけば近づくほど、神の鞭が人間に近づき、神の顔が人間の前にさらに鮮明になってくるからである。人間の贖いの後、人間は正式に神の家に戻る。人間は、今は楽しむ時であると思ったのだが、誰も予測すらしなかった神による徹底的な攻撃にさらされている。すなわち、これは神の民が「楽しむ」べき洗礼なのである。そうした扱いを受けると、人々は立ち止まり、「私は長い間迷っていたのを神が大金を払って買い戻した羊だ。それなのに、なぜ神はこのような扱いをするのか」と考えざるを得ない。これは、私を笑い、さらし者にする神のやり方なのか。…長い年月の後、人間は、鍛錬と刑罰の試練を経験し、苦労が風貌に現れるようになった。人間は過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識のうちに人間の行ないの原理を理解し、人類を救う神の長年にわたる献身がわかるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、神に向けた不当な要求の数々を憎むようになる。時間は戻らない。過去の出来事は人間の嘆かわしい記憶となり、神の言葉と愛とが人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日ごとに癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る…と、神はずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しい顔が依然として心揺さぶるものであることに気づく。神の心はまだ被造物である人類を気遣い、神の手は始まりの時同様、まだ暖かく、力強い。まるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、今回は人間はもはや蛇の誘惑に耳を傾けず、もはやヤーウェの顔から目をそむけない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、心から最高の捧げ物をする──ああ!わが主、わが神!

  神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡り、人間が神のよき意図を理解できるか否かに関わらず、神はいまだに疲れを知らず成就しようとする働きを続けている。人々がどれほど神の経営を理解しているかに関わらず、神の働きの恩恵と助けはすべての人が理解することができる。おそらく、今日、あなたは神が与える愛やいのちを一切感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、真理を追究しようという決意を諦めない限り、神の笑顔があなたに顕れる日は必ず来る。神の経営の働きの目的は、サタンの支配下にある人類を取り戻すことであり、サタンに堕落させられ、神に敵対する人類を見捨てることではないからである。

2005年9月23日


今日のみことばー神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道(抜粋2)

2020-09-27 23:16:47 | デボーション

   神であるすべて、神が持っているすべて、神の本質、神の性質は、全て神の言葉の中で人間に知らしめられている。神の言葉を体験する時、人間が神の言葉を実行する過程において、神が述べている言葉の根底にある目的、神の言葉の根源と背景を理解し、意図されている効果を理解するようになる。こうした事柄は全て人類にとって、真理といのちを得て、神の心を認識し、性質が変えられ、神の支配と定めに従うようになるために、経験し、認識し、把握する必要があるものである。人間がこうしたことを経験し、認識し、把握すると、人間は同時に神を徐々に理解し、その時様々な程度で神に関する認識を獲得するようになる。この理解と認識は人間が想像したり構築したりした物事からではなく、むしろ人間が自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた物事から生まれる。人間がこうした物事を自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた後、初めて人間の神に関する認識が中身のあるものとなる。この時人間が得る認識が初めて現実的なものとなり、本物となり、正確なものとなる。そして神の言葉を体得し、経験し、感じ、確かめることにより神に関する真の理解と認識を得る過程が、まさしく人間と神との真の交わりとなるのである。こうした交わりのなかで、人間は神の心を真に理解し、深く知り、神であるすべてと神の持っているものすべてを理解し、知り、神の本質を真に理解し、知り、神の性質を徐々に理解し、知り、あらゆる創造物に対する神の支配という事実に対する真の確信と正しい定義に達し、神の身分と地位に対する本質的な理解と認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の神に関する考え方が徐々に変化し、何の根拠も無く神のことを想像しなくなり、すなわち神への疑念を勝手に膨らませたり、誤解したり、非難したりしなくなり、あるいは神を評価したり、疑ったりもしなくなる。結果として、人間の神との議論、神との抵触が減り、神に反抗することが減る。それとは逆に、人間が神を思い、神に従うことが大いに増え、神に対する畏敬は、より実際的で深遠なものとなる。こうした交わりのなかで、人間は真理の備えといのちのバプテスマを得るだけでなく、同時に神に関する真の認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の性質が変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物の神を畏敬し礼拝する念が強くなる。こうした交わりの後、人間の神に対する信仰は、何も記されていない白紙の状態、あるいは甘い言葉だけの約束、盲目な追求や偶像化の形態では無くなる。またこうした交わりのみにより、人間のいのちが成熟に向かって日々成長し、人間の性質が次第に変えられ、神への信仰が段階的に漠然とした不確実なものから真に従い、神の心を思い、真に畏敬するものへと変化する。また人間は神を求める上で消極的立場から積極的立場へ、受け身の立場から能動的立場へと移行する。こうした交わりのみにより、人間は神に関して真の理解と把握、真の認識に達する。大部分の者が神と真に交わることが無いので、大部分の者にとって神に関する認識は理論的段階、文字の教理の段階に留まる。つまり、大部分の者は、神を信じてきた年月の長さを問わず、神を知ることに関する限り、初歩的段階から進歩せず、伝統的色合いと封建的迷信を伴う伝統的な形で敬意を表するに留まる。こうした者の神に関する認識が初歩段階に留まっているということは、神に関する認識が事実上不在であるということに等しい。人間による神の身分と地位の肯定とは別に、人間の神に対する信仰は未だに漠然とした不確実な状態にある。こうした状況において、人間は神に対する真の畏敬の念をどれほど持ち得ようか。

   神の存在をどれほど確信していようと、その確信は神に関する認識や神に対する畏敬の念に代わるものとはなり得ない。どれほど多く神の祝福と恵みを享受してきたとしても、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。どれほど喜んで神のために全てを捧げて費やしていようと、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神の言葉に精通し、暗記していて反対から読み上げることさえ出来るかもしれないが、そうであったとしても、それが神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神に付き従う意向がいかに強かったとしても、神との真の交わりや神の言葉を真に経験することが無かったとしたら、神に関する認識は皆無であるか、終わりのない幻想に過ぎない。たとえどこかで神とすれ違ったとしても、神と直接対面したとしても、神に関する認識は皆無であり、神への畏敬は実質の無い標語や理想に過ぎない。

   『言葉は肉において現れる』より


   御言葉讃美歌

   神の権威を知るための道

   神の権威と力、神に固有の身分と本質についての認識は、あなたの想像力によって得られるものではない。「想像するな」ということは、「何もせずただ座って破滅を待て」という意味ではなく、「論理を用いて推測せず知識や科学を通して研究するな」という意味である。神の言葉を食べ、飲み、体験する中であなたは神の権威を体験し、確証して、徐々に理解と認識を得るだろう。これが唯一の道であり、近道はない。

   神の言葉と真理、あなたの生活を通して神には権威と運命を左右する主権があることを理解し、検証し、確認しなさい。そしてあなたは常に神の力は神が真の神自身であることを証ししていると知りなさい。これこそ神を認識する唯一の道、唯一の道である。神の言葉を食べ、飲み、体験する中であなたは神の権威を体験し、確証して、徐々に理解と認識を得るだろう。これが唯一の道であり、近道はない。神の言葉を食べ、飲み、体験する中であなたは神の権威を体験し、確証して、徐々に理解と認識を得るだろう。これが唯一の道であり、近道はない。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


精錬を経ることでのみ、人は真の愛をもつことができる

2020-09-26 23:54:09 | デボーション

   精錬の間、どのように人は神を愛するべきだろうか?精錬を経験してからは、精錬の間に人々は真に神を賞賛することができ、欠けているものがどれほどあるかを理解する。精錬が大きいほど肉を捨てることがより可能になり、精錬が大きいほど神に対する人々の愛はより大きくなる。これはあなた方が理解しなければならないことである。なぜ人々は精錬されなければならないのか?精錬によりどんな効果を達成することが目的なのか?人における神の精錬の働きの意義は何か?真に神を求めるなら、神の精錬をある程度経験した後で、精錬というものが大変にすばらしく、最も必要なことだと感じるだろう。精錬の間に人はどのように神を愛するべきか?神を愛する決意をして神の精錬を受け入れることによってである。精錬されている間、あなたは心の内に苦しみを抱く。それはあたかもナイフで心をえぐられるかのようであるが、それでもあなたは神を愛する心により神の意を満たそうとし、肉を労わろうとはしない。これが神への愛を実践することの意味である。内面で傷つき、苦しみはあるレベルに達しているが、あなたは依然喜んで神の前に来てこう祈る。「ああ神様!私はあなたから離れることはできません。私の中には暗闇がありますが、それでもあなたの意を満たしたいのです。あなたは私の心をご存知です。あなたの更なる愛を授かりたいのです。」これが精錬の間の実践である。神への愛を基礎として使えば、精錬によりあなたは更に神に近づき、神との親密さが増す。あなたは神を信じているのだから、神の前にあなたの心を差し出さねばならない。神の前であなたの心を捧げ、あなたの心を神に委ねるなら、精錬の間にあなたが神を否定することや神から離れることはできなくなるだろう。このようにして神とのあなたの関係はより親密により正常になり、神との交わりはより頻繁になるだろう。常にこのように実践すれば、あなたはさらに多くの時間を神の光の中で過ごし、神の言葉の導きの下でより多くの時間を過ごし、あなたの性質にもより多くの変化が起き、認識は日々増えるだろう。その日が来て神の試練が突然降りかかっても、あなたは神の側に立つことができるだけでなく、神への証も立てることができるだろう。その時、あなたはヨブやペテロのようであるだろう。神への証を立て、あなたは真に神を愛し、喜んで神のために命を投げだすだろう。あなたは神の証人であり、神に愛される者となろう。精錬を経た愛は強く、弱くはない。いつ、どのように神があなたを試練にあわせるかにかかわらず、あなたは自らの生死に悩むことなく、喜んで神のためにすべてを捨て、神のためにどんなことでも耐えることができる。かくして、あなたの愛は純粋になり、信仰は真となるだろう。そうして初めてあなたは真に神に愛される者となり、神により全き者となるのである。

 


   人々がサタンの影響を受けるようになれば、人々は自らの内に神への愛を持たず、以前のビジョン、愛と決心は消え去ってしまう。人々は神のために苦しみを受けなければならないとかつては感じていたのに、今は神のために苦しみを受けることは恥で、不平不満には事欠かない。これがサタンの働きである。それは人がサタンの領域に落ちたことを示している。もしこの状態に陥ったなら祈りなさい、そしてできるだけ早く他の道へ回りなさい。そうすれば、サタンの攻撃から守られるだろう。人がサタンの影響を最も受けやすくなるのは苦しい精錬の間である。そのような精錬の間にどのようにあなたは神を愛すれば良いのだろうか?強い意志を持ち、あなたの心を神の前に明け渡し、持てる時間全てを神に捧げるべきである。神がどのようにあなたを精錬しても、あなたは真理を実践して神の意を満たし、自ら神を求め、神との交わりを求めるべきである。このような時には、消極的になるほどより否定的になり、容易に後退してしまうだろう。自分に与えられている役割を果たすことが必要なときは、たとえうまくできないとしてもできる限りのことを行いなさい。神へのあなたの愛だけを使って行いなさい。あなたがうまく行ったとか失敗したなどと他人は言うだろうが、他人が何を言おうとあなたの動機は正しく、あなたは独善的ではない。あなたは神のために行動しているからである。他人があなたを誤解しても、あなたは神に祈り、このように言うことができる。「ああ神様!私は他人が私に寛容であることも私をよく扱うことも願いませんし、私を理解したり認めたりすることも願いません。あなたを愛することができ、心穏やかになり、私の良心が澄み切っていることだけを願います。他人が私を賞賛することや高く評価することを私は望みません。私は心からあなたの意を満たすことを求めるだけです。できる限りのことを行って私の役割を果たします。私は拙く、愚かで、力量もなく、盲目ですが、神は愛らしいと知っており、私が持つものすべてを喜んであなたに捧げます。」このように祈ればすぐに神へのあなたの愛が現れ、あなたの心はさらに安心する。これが神への愛を実践することの意味である。経験を重ねるにつれ、2回失敗しても1回成功し、5回失敗しても2回成功することがあるだろう。このように経験を重ね、失敗の中でのみ、あなたは神の愛らしさを理解し、あなたの内に欠けているものを発見するだろう。次にこのような状況に遭遇したら、自分自身に注意を払い、歩みを加減し、さらに頻繁に祈ることが必要である。あなたは徐々にそのような状況で勝利する力を得るだろう。そのような状況で勝利できれば、あなたの祈りには効果があったのである。今回勝利したのがわかれば、あなたは内に喜びを感じ、祈るときには神を感じることができ、聖霊の存在が去っていないことが分かるだろう。そうなって初めて、あなたの中で神がどのように働くのかわかるだろう。このように実践することは経験に至る道をあなたに与えるだろう。真理を実践しなければあなたの内には聖霊が存在しなくなるだろう。しかし実践すれば、あなたが内に傷ついても、その後は聖霊があなたと共にいて、祈りの際に神の存在を感じることができ、神の言葉を実践する力を持つだろう。そして、兄弟姉妹との交わりの際に、あなたの良心の重荷となるものはなくなり、平安を感じるだろう。そして、このようにして、あなたが行ってきたことを明らかにすることができるだろう。他人が言うことが何であろうとも、あなたは神との正常な関係を持つことができ、他人に制約されず、あらゆるものを超越するだろう。そしてその中で、神の言葉の実践が効果的であったことをあなたは実証するのであろう。

   神の精錬が大きいほど人々は神をさらに愛することができる。人々の心の苦しみは人々のいのちに有益であり、神の前でより平穏になり、神との関係がより近くなり、神の至高の愛と救いをよりよく理解できる。ペテロは何百回も精錬を経験し、ヨブはいくつかの試練を受けた。あなた方が神によって全き者になることを望むのであれば、あなた方も同じく何百回も精錬を経験しなければならない。この過程を通過してのみ、この過程に依拠することによってのみ、あなたは神の心を満たすことができ、神によって全き者になるのである。精錬は、神が人を完全にする最も良い手段である。精錬と厳しい試練だけが神への真の愛を人々の心にもたらす。苦難がなければ人々は神への真の愛に欠ける。もし人々が試練により試されず、真に精錬されなければ、人々の心は常に外側を漂い続けるだろう。ある程度まで精錬された後、あなたは自分の弱みと困難を理解し、どれほど欠けるところがあるか、遭遇する多くの問題をどれほど克服できないか、あなたの不従順がいかに大きなものかを知るようになるだろう。試練の間のみ人々は現実の状態を正しく知ることができるだろう。そして試練によって人々が全きものとなることがより可能になる。

   その生涯を通じ、ペテロは数百の精錬を経験し多くの苦難を受けた。この精錬は神に対するペテロの至高な愛の基礎となり、ペテロの一生で最も重要な経験となった。ペテロが神への至高の愛を持つことができたのは、ある意味では、神を愛する決意ゆえであった。しかし、より重要なのは、それはペテロが経験した精錬と苦しみゆえであった。この苦しみは神を愛する行路の指針となり、ペテロにとって最も記憶に残ったものとなった。神を愛する際に人々が精錬の苦しみを受けなければ、人々の愛は自然さと嗜好に満ちたものである。そのような愛はサタンの考えに満ちており、神の心を満たすことはまったくできない。神を愛する決心を持つことは真に神を愛することと同じではない。人々の思考には人間的な発想がないかのように、人々の思考はすべて神のためであるかのように、心の中で考えることがすべて神を愛するためであり、神の意を満たすためであるとしても、その人々の思考が神の前に出された時、そのような思考は神により賞賛も祝福もされない。人々が真理をすべて十分に知り、すべての真理を完全に理解しても、それが神を愛することの印であるとは言えず、すべての真理を十分に理解した人々が実際に神を愛しているとは言えない。多くの真理を理解したにもかかわらず、精錬を経験していない人々は、これらの真理を実践することができない。精錬の間においてのみ人々はこれらの真理の本当の意味を理解し、そうして初めてそのような真理の内的な意味を純粋に認識できる。その時、人々が再び試みると、真理を適切に実践することができ、神の心と調和することができる。その時、人々の人間的な考えは少なくなっており、人間としての自然性の程度は下がり、人間的な感情は消え去る。そのようになってのみ人々の実践は神への愛の真の表明となる。神への愛の真理の効果は話された認識や精神的な意思によって達成されるものではなく、単に理解することによっても達成することはできない。人々は代価を支払う必要があり、精錬されている間に多くの苦痛を受け、そうして初めて人々の愛は純粋になり、神自身の心を求めるものになる。人は神を愛せよという神の要求では、情熱や自然さによって人が神を愛することは求められない。神に奉仕するためにただ忠誠と真理を用いることで人は神を真に愛することができる。しかし人は自然性に生き、それゆえ真理と忠誠によって神に仕えることができない。人は神についてあまりにも情熱的であるか、あるいはあまりに冷たく無頓着であり、極端に神を愛するか、あるいは極端に神を憎む。自然性に住む人々は常にこの両極端の間に住み、常に真理がない状態に生き、自らは正しいと信じている。わたしはこの話を繰り返し取り上げたが、人々は真剣に受け入れることができず、その重要性を十分に知ることができず、それゆえ人々は自己欺瞞の信念に生き、そして真理ではない神への愛の錯覚に生きている。歴史を通じて、人類が発展して何世代かが過ぎ、人間に対する神の要求はますます高くなり、神に対して人が完全であることを神はますます求めるようになった。しかし、神に関する人の認識はますます曖昧かつ抽象的になり、それに伴って神に対する人の愛はますます不純になった。人の状態と人の行いのすべては神の心と調和しないものとなっている。これはサタンにより人がこれまで以上にひどく堕落したからである。これは神がますます、そしてさらに多くの救いの働きをすることを必要とする。人はますます神に厳しい要求を持ち、神に対する人の愛はますます小さくなっている。真理をなくし不従順に生き、そして人々は人間性のない生を生きる。人々は神への愛のかけらもないばかりか不従順と反抗に満ちている。人々は神への最大の愛を持ちあわせており、神に対してもはや寛容であることができないと思っているが、神はそのようには考えていない。人の神への愛がいかに汚れているのか神には十分に明らかであり、人の迎合ゆえに神が人に対する考えを変えたことはなく、献身の結果としての人間の善意に報いたこともない。人間とは異なり神は区別することができる。真に神を愛しているのは誰か、愛していないのは誰かを神は知っており、熱情により圧倒され人の一時的な衝動のために自身を失ったりせず、人の本質と行動に従って人を処遇する。結局のところ神は神であり、神には神の尊厳と洞察力がある。結局のところ人は人であり、真理と矛盾する人の愛により神が振り向くことはないであろう。逆に、神は人が行うすべてを適切に処遇する。

   人間の状態と神に対する態度に直面し、神は新しい働きを行い、神に対する認識と服従を人に得させ、愛と証しの両方をも得させた。従って、人は神による精錬、神の裁き、取り扱いや刈り込みを経験しなければならず、それなしでは人は神を知ることも決してなく、神を真に愛し、神への証を立てることもできない。神による人間の精錬は一方的な効果のためだけでなく多面的な効果のためである。決意と愛を完璧にするため、このような方法でのみ、真理を求めようとする人々の中で神が精錬の働きを行う。真理を求めようとする人々、そして神を慕う人々には、このような精錬より意味のあるもの、大きな援助となるものはない。つまるところ神は神であり、神の性質はそれほど容易に人により知られ理解されるものではない。一日の終わりに神が人と同じ性質を持つようなことはなく、したがって人が神の性質を知ることは容易ではない。真理は人が本質的に持っているものではなく、サタンによって堕落した人々が容易に理解するものではない。人には真理がなく、真理を実践する決意がなく、苦しみを受け、精錬されあるいは裁かれなければ、人の決意は決して完璧にならないだろう。すべての人々にとって精錬は耐えがたく、受け入れ難いものであるが、神が義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓きとより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬の間である。事実と真理の比較により、神は人自らについてのより大きな認識と真理を人に与え、神の心をより深く理解させ、そうしてより真理に近く純粋な神への愛を人に得させる。それらは精錬を実行する神の諸目的である。人の中で神が行う働きのすべてには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精錬は人々を神の前から取り除くことを意味するものではなく、地獄で人々を滅ぼすことも意味しない。それは精錬の間に人の性質を変え、動機や従来の見方を変え、神に対する人の愛を変え、人の一生を変えることを意味する。精錬は人の真の試練のひとつであり、真の鍛錬の一形態であり、精錬の間のみ人の愛はその本質的な機能を果たすことができる。