賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

なぜ新しいいのちを得るために神を信じる人たちは祈り、集まり、神の言葉を読まなければならないのか。

2020-12-01 23:07:05 | 勝利者の証し

なぜ新しいいのちを得るために神を信じる人たちは祈り、集まり、神の言葉を読まなければならないのか。

神の御言葉による答え:


    祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段であり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊の無い死んだ者であると言える。それは、彼らには神によって心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りが無ければ、彼らは正常な霊的生活を実現できず、まして、聖霊の働きに従うことなどできない。祈りが無ければ、彼らは神との関係を絶ち切り、神の承認を得ることが出来ない。神を信じる者として、あなたが祈れば祈るほど、神によって触れられることも多くなる。このような人々にはより強い決意があり、神から最新の啓きをもっと受けることができる。その結果このような人々だけが、最も早く聖霊によって完全にされ得るのだ。「祈りの実践について」より

 

    わたしは言葉を話し終えたというのに、人々はまだ充分理解していない。これは彼らが資質に欠けているからである。この問題は教会生活とお互いの交わりによって解決することができる。「実践(1)」より

    神がいつも語っているのを見て、神の言葉に飽き、言葉を読んでも読まなくても結果は同じだと考える人がいる。それは正常な状態ではない。そうした人の心は現実に入ることを渇望しておらず、そうした人は完全にされることを渇望せず、重要視もしない。自分が神の言葉に渇いていないことに気づくときはいつでも、あなたの状態が正常でないことを表している。…だから、どのような状態でも、忙しかろうと、そうでなかろうと、困難な状況にあろうと、そうでなかろうと、試練を受けていようといまいと、神の言葉を飲み食いしなければならない。結局のところ、神の言葉が人間存在の基なのだ。誰一人、神の言葉から離れることはできない。神の言葉を一日三度の食事のようにとらなければいけない。神に完全にしてもらい、神のものとされることは、そんなに単純なことなのだろうか。今あなたが理解しているか、あるいは、神の働きについて悟っているかどうかにかかわらず、神の言葉をもっと飲み食いしなければいけない。これが積極的に成長するということだ。神の言葉を読んだ後で、成長できることを急いで実践しなさい。そして、できないことはそのままにしておきなさい。…神の言葉を疎かにし、神の言葉に対していつも別の姿勢、つまり不注意で、神の言葉を読むかどうかは大差はないと信じている者は、現実を得ていない。聖霊の働きも、神による啓きも、そういう人たちの内には見ることができない。そうした人たちは、ただなりゆきにまかせているだけで、荘子の寓話に登場する南郭氏のように、本物の資格もないのに、そのふりをしているだけだ。

 

    ……

 

    神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければいけない。それだけが神を信じるということなのだ。神を信じると言いながら、神の言葉について何も話せず、実践できないのなら、その人は、神を信じているとは見なされない。それは「飢えを満たすためにパンを求め」ているのだ。つまらない証しや無益な事がら、表面的な事がらだけを話して、現実的には何も得ていないならば、それは神への信仰ではない。そのようであるなら、あなたは神を信じる正しい道を理解していない。なぜ神の言葉をもっと飲み食いしなければいけないのか。神の言葉を飲み食いすることなく天に昇ることだけを求めるのは、信じていると言えるだろうか。神を信じる者の第一歩は何か。神はどのような道を経て人間を完全にするのか。神の言葉を飲み食いすることなく完全にされるものだろうか。神の言葉を現実として持っていない者が、神の国の民とみなされるだろうか。神を信じるとは、正確にはどういうことなのか。神を信じる者は、少なくとも外に対しては、よい行いをしなければいけないが、最も大事なことは、神の言葉を自分のものとしているということだ。どんな事情があろうと、決して神の言葉を離れることはできない。神についての認識と、神の心の成就はすべて、神の言葉によって成し遂げられる。すべての国家、分派、宗派、領域は、将来、言葉によって征服されるだろう。神が直接話をし、すべての人は神の言葉をその手につかむ。それによって、人々は完全にされる。神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人々は神の言葉を内に抱き、神の言葉を語り、神の言葉のままに実践する。内面も外面も、人々は神の言葉に満たされ、そして人間は完全なものとされる。神の心を実践し、神の証人になれる者たちは神の言葉を現実のものとして得ている者たちである。

 

    言葉の時代、つまり、千年神の国の時代に入ることが、今達成されつつある働きである。今からは、神の言葉についての交流を行いなさい。神の言葉を飲み食いし、実践することによってのみ、あなたは神の言葉を示すことができる。経験からくる言葉によってだけ、他の人々はあなたの言うことを信じるようになる。神の言葉をもたないのなら、誰も信じさせることはできない。神に用いられる者は、神の言葉を語れる。できないのなら、それは、聖霊があなたの内に働いておらず、あなたはまだ完全にされていないということだ。これが神の言葉の重要性である。あなたの心には、神の言葉への渇きがあるだろうか。神の言葉への渇きを覚える者は、真理に渇き、そうした人々だけが、神の祝福を受ける。将来、神はあらゆる宗派・教派にもっと多くを語るだろう。神はまず、あなたがたの間で言葉を述べて、あなたがたを完全にする。その後で、異邦人たちに語り、彼らを征服する。言葉により、すべての人は心から完全に確信する。神の言葉と啓示とにより、人間の堕落した性質は消えていく。みな人間の姿になり、人間の反抗的な性質もまた減じる。言葉は権威をもって人間に働き、神の光の中で人間を征服する。神がこの時代になす働きは、神の働きの転機同様、すべて神の言葉の中にある。神の言葉を読まないなら、あなたは何も理解しない。自ら神の言葉を飲み食いし、兄弟姉妹との交わり、実際の体験を通じて、神の言葉についての認識は包括的なものとなる。そのようにしてはじめて、実際に神の言葉を生きることができる。「神の国の時代は言葉の時代」より

 

    人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な薬であり、糧であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。…したがって、あなたは、真理を携えてどこへでも行けるが、自分の内に一つの真理もないなら、宗教的人間はおろか、あなたの家族を説得しようなどと思ってはならない。真理無しでは、あなたはひらひらと舞う雪のようであるが、真理があれば、幸福で自由になることができ、あなたを攻撃できる者は一人もいない。理論がいかに強力でも、それは真理に打ち勝つことができない。真理があれば、世界そのものを揺るがし、山や海をも動かすことができるが、一方真理の無いところには、うじ虫による腐敗がもたらされる。それは事実にほかならない。「真理を理解したらそれを実行せよ」より


キリスト教の歌「神はより多くの人が救いを得ることを願う」歌詞付き

2020-11-16 18:09:06 | 勝利者の証し

キリスト教の歌「神はより多くの人が救いを得ることを願う」歌詞付き

神はより多くの人が救いを得ることを願う

より多くの人が神の言葉と業に出会った時
よく調べ
神に適う心で重要な言葉に臨むことを神は願う
罰を受ける者を真似てはならない
真理の道をはっきり知りつつも
故意に背き 罪のための捧げものを失った
パウロのようであってはならない
神の新しい業を受け入れ
神が与える真理を受けなさい
そうすれば神の救いを得られる

神はさらに多くの人が罰せられることを望まず
逆により多くの人が救われることを願う
そしてより多くの人が遅れずに
神の足跡をたどり
神の国に入ることを望む
神の新しい業を受け入れ
神が与える真理を受けなさい
そうすれば神の救いを得られる

神は人の年齢・地位・苦しみに関係なく
全ての人を公平に扱う
神の性質は永遠に変わらず
それらの事に関わらず 義である
神は誰もえこひいきしないが
もし全てを捨て
神の真理と新しい業を受け入れるなら
その人を思い遣る
神の新しい業を受け入れ
神が与える真理を受けなさい
そうすれば神の救いを得られる
『小羊従って新しい歌を歌おう』より


神を信じず、その代わりに高潔にふるまい善行を行い、邪悪な行為をしなければ救いを得られるのか。

2020-11-15 17:50:27 | 勝利者の証し

神を信じず、その代わりに高潔にふるまい善行を行い、邪悪な行為をしなければ救いを得られるのか。

    神の御言葉による答え:

    …何故なら、神の導きなしには、支配者たちや社会学者たちが人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どんな社会学的理論も、心をむしばむ虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適な暮しは、つかの間の慰めに過ぎない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探索したい欲求や願望を鎮めることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけである。人は常に恐怖に怯えて存在し、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からない。人は科学や知識に脅かされるほどになり、自分の中にある空虚感をそれらのもの以上に恐れるようになる。…人間は結局、人間に過ぎない。神の地位といのちに取って代われる人間はいない。人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の欲求、探究心、そして霊的空虚感が解消されるのである。或る国や或る民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、そうした国や民族は暗黒に向かって、破滅への道を突き進み、神によって滅ぼされるであろう。

「神は全人類の運命を支配する」より

    「この地上には、義人はいない。この世には義人はいない。」というのは自明の理である。あなたがたが神の前に来るときは、着る物を考え、一言一行、あなたがたの考え方や発想の全て、そしてあなたがたが毎日見る夢さえも考えなさい――それらはすべて自分のためである。これはすべて本当の事ではないだろうか。「義」とは施しをする事でもなく、あなたの隣人を自分自身のように愛することでもなく、喧嘩しない、議論しない、強盗しない、盗まないということでもない。義とは主イエスが行った全てのことのように、いつどこにいようとも、神の委託をあなたの義務と考え、神の采配や取り決めを天から送られた使命として従うことを意味する。これこそまさに神によって語られた義である。ロトは自分が得することも失うことも気にかけず、神が送った2人の天使を救ったので義人と呼ぶこともできる。しかし、当時彼が行ったことを義と呼ぶことはできるが、彼を義人と呼ぶことはできない。それはロトは神を見たので、天使たちの代わりに自分の2人の娘たちを与えただけである。しかし、過去の全ての彼の行いが義を顕してしているわけではない。よって、わたしは「この地上に義人はいない」と言おう。たとえ快復の流れにある人たちの中にも、誰も義人と呼べる人はいない。あなたの行動がどんなに良くても、あなたがどんなに神の名に栄光を帰すように見えても、人をたたいたり罵ったりせず、彼らから強奪したり盗んだりしなくても、そのようなものは普通の人が持っているものなので、やはりあなたが義と呼ばれることはあり得ない。今日、鍵となるのはあなたが神を知らないということである。今日、あなたは少し正常な人間性を持ってはいるが、神が語った義を持ってはおらず、あなたがすることでは何もあなたが神に対する認識を証明することはできない。

「悪人は罰せられなければならない」より

    人が人を裁く場合は、人の行いを基準とする。つまり、行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は不道徳者である。神が人を裁く時は、人の本質が神に従順であるかどうかを基準とする。つまり神に従順な者は義なる人であり、神に従順でない者は敵であり、不道徳者である、この人の行いがよいか悪いか、この人の言葉が正しいか間違っているか、に関わらず。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を買うことを考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違って思っている。従って多くの人は虚偽の行為を通じて一時の恵みを獲得するためにこのような方法を用いようとする。

「神と人は共に安息に入る」より

    今、未来の人類の終着点を感じ取ることができず、しかもわたしが話す言葉を信じない多くの人々がいる。真理を行わない人々と同様に、信じない人々は皆、悪魔である。追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する知識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは、天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒も悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、彼らはやはり滅ぼされる。…肉となった神を信じない人はみな悪魔である。さらに、彼らは滅ぼされる。

「神と人は共に安息に入る」より


私の見解では、どの宗教も善良であることを教えている。それは、どの宗教に従おうとも、誠実であり邪悪な行為をしない限り救いを得られるということか。

2020-11-14 22:41:52 | 勝利者の証し

私の見解では、どの宗教も善良であることを教えている。それは、どの宗教に従おうとも、誠実であり邪悪な行為をしない限り救いを得られるということか。

神の御言葉による答え:

    世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けするだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。もしかれらが邪教信者であるなら、神とは相いれないし、そして神と相いれないなら、彼らは神に敵対する者なのである。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。

    ⋯

    この働きの終わりには、全ての教派が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪教は無に帰して、二度と現れることはない。

「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

    「この地上には、義人はいない。この世には義人はいない。」というのは自明の理である。あなたがたが神の前に来るときは、着る物を考え、一言一行、あなたがたの考え方や発想の全て、そしてあなたがたが毎日見る夢さえも考えなさい――それらはすべて自分のためである。これはすべて本当の事ではないだろうか。「義」とは施しをする事でもなく、あなたの隣人を自分自身のように愛することでもなく、喧嘩しない、議論しない、強盗しない、盗まないということでもない。義とは主イエスが行った全てのことのように、いつどこにいようとも、神の委託をあなたの義務と考え、神の采配や取り決めを天から送られた使命として従うことを意味する。これこそまさに神によって語られた義である。ロトは自分が得することも失うことも気にかけず、神が送った2人の天使を救ったので義人と呼ぶこともできる。しかし、当時彼が行ったことを義と呼ぶことはできるが、彼を義人と呼ぶことはできない。それはロトは神を見たので、天使たちの代わりに自分の2人の娘たちを与えただけである。しかし、過去の全ての彼の行いが義を顕してしているわけではない。よって、わたしは「この地上に義人はいない」と言おう。たとえ快復の流れにある人たちの中にも、誰も義人と呼べる人はいない。あなたの行動がどんなに良くても、あなたがどんなに神の名に栄光を帰すように見えても、人をたたいたり罵ったりせず、彼らから強奪したり盗んだりしなくても、そのようなものは普通の人が持っているものなので、やはりあなたが義と呼ばれることはあり得ない。今日、鍵となるのはあなたが神を知らないということである。今日、あなたは少し正常な人間性を持ってはいるが、神が語った義を持ってはおらず、あなたがすることでは何もあなたが神に対する認識を証明することはできない。

「悪人は罰せられなければならない」より

    人が人を裁く場合は、人の行いを基準とする。つまり、行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は不道徳者である。神が人を裁く時は、人の本質が神に従順であるかどうかを基準とする。つまり神に従順な者は義なる人であり、神に従順でない者は敵であり、不道徳者である、この人の行いがよいか悪いか、この人の言葉が正しいか間違っているか、に関わらず。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を買うことを考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違って思っている。従って多くの人は虚偽の行為を通じて一時の恵みを獲得するためにこのような方法を用いようとする。

「神と人は共に安息に入る」より

    今、未来の人類の終着点を感じ取ることができず、しかもわたしが話す言葉を信じない多くの人々がいる。真理を行わない人々と同様に、信じない人々は皆、悪魔である。追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する知識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは、天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒も悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、彼らはやはり滅ぼされる。…肉となった神を信じない人はみな悪魔である。さらに、彼らは滅ぼされる。

「神と人は共に安息に入る」より


神が義であるなら、善良な人々が脅かされ、抑圧され、苦難するのに邪悪な人々が悠々と成功するのはなぜか

2020-11-12 14:47:05 | 勝利者の証し

神が義であるなら、善良な人々が脅かされ、抑圧され、苦難するのに邪悪な人々が悠々と成功するのはなぜか

    聖書参照箇所
    「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。」(ルカによる福音書16章19〜28節)

    神の御言葉による答え:
    この生涯で幸運を得る者は、間違い無く永遠に苦難を受けるが、この生涯で苦難を受ける者は、間違い無く永遠に恵みを受けるであろう。私はそのように予定を定め、それは誰も変えることができない。誰も私の心を変えてはならず、私の言葉に何一つ加えてはならず、ましてや私の言葉を何一つ減らしてはならない。これに違反する者は、私が必ず罰する。

キリストが最初に発した言葉と証し」より