賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

裕福な生活を持てば幸せになるのか

2020-04-30 16:31:28 | 人生の奧義

   【編集者メモ】裕福はすべての人が夢にまで願うことです。しかし、手に入れた後、それはまるで一枚の華やかな「上着」のよう、だたうわべを飾ることができ、私たちの心の中の苦痛と貧しさを解決することができないと私たちは気づきました。陳卓はかつて裕福な生活を得るために一生懸命働いたが、病の苦痛と心の空虚さから抜け出せず、苦痛と困惑の中で、神様の言葉の導きによって彼は本当の人生を見つけました。

   物質的な生活の豊かさは、すべての人が夢にまで願うことです。私も例外なく、私はかつて裕福な生活を得るため一生懸命働く人でした。しかし、手に入れた後、私は病の苦痛と心の空虚さの中に生きていました。私は聖書に書かれている「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」(伝道の書1:2−3)を切に体得しました。歩んできた道を振り返って、私は種々の感慨にこもごも至ります。

 

裕福な生活を得るために努力する

   小さい頃、事業が成功したおじさんがプレゼントを詰め込んだ車に乗って帰省するのを見る度、私は羨ましくてたまらず、心に夢を抱き、私は大人になってからおじさんのように金もあり力もあり、裕福な生活を送りたかったです。

   卒業後、私は海辺の都市に行き、周辺の高層ビル、走っている車を見て、私のお金持ちになる欲望が膨らんできました。親戚に頼って、私は国有企業の社員になり、その時から私は全身全霊で仕事に身を投じました。現場で私は汗びっしょり、苦闘し、事務所で私は上司の喋りたてる叱責を耐え忍び、徹夜業務の難関を解決していました。……数年後、私はライン管理者になり、それにつれて親戚や友達、近所の人々が私に贈り物をし、彼らの子供が就職先を見つけるように頼んできました。私は人々に見上げられることを享受し、心は極めて満足していました。年々昇給するにつれて、私の生活が裕福になってきました。

   しかし、私はそれに満足できず、生活を一層よくするため、私は大胆にも安定した国有企業の仕事を辞め、外国企業のボスに従って他の都市に起業しに行きました。

 

 

   それからの数年間、テンポの速い仕事環境、厳しい外国企業の管理法、それに加えて私は毎日違う性格の取引先に対応し、彼らと酒食遊楽にふけり、彼らと調子を合わせ、ストレスが溜まってきました。その後、私と接したそれらの外商やボスが贅沢で淫らな生活を過ごし、ひいては麻薬に制御されるのを目撃し、その狂ったような心ここにあらずの醜い姿を見て、私は見ただけで恐ろしくなりました。冷静になってから、私は自分が贅沢な生活を享受してから「得た」ものは、体重が何キロも増え、健康の各基準値を超え、ひどい不眠症になり、毎日疲れ果て、椎間板ヘルニアになって、長期の圧迫で足取りがしびれ、三月間自分の生活の面倒を見ることができなくなりました。異なる人々に直面し、私は人の顔色をうかがい、こびへつらうことを学びました。……これは私が裕福な生活を享受する裏にある辛酸と苦痛です。この時、私は自分が一生懸命努力してきた裕福な生活のゆえに、幸せと楽しみを感じないだけではなく、かえって、私に多くの病の苦痛と心の痛みをもたらしました。私はなぜ人が生きるのがこんな苦しいのかを知りませんでした。

 

苦痛の根源を探し求める

   途方に暮れる中、私は力の限りで問題の根源を探し求めていました。神様の言葉の中でその答えを見つけました。

   「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりの心に染み込み、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。……つまり、この格言は既にあなたの行動や思想を支配しており、それをあきらめるよりも、むしろそれに自分の運命を支配されることを望んでいるのです。人はこのようなことをし、この格言に支配され、操られます。これは人間を堕落させるサタンによる効果ではありませんか。」

   神様の言葉から、自分の苦痛の根源はいつも金銭を求めているためだったと、私はやっと分かりました。「地獄の沙汰も金次第」「金銭至上主義」などのサタン的生存法則に苦しめられ、私はいつも金銭を求めることを自分の人生の追求する目標とし、お金があれば、品質の高い生活を享受することができ、立派な人になり、他人に見上げられ、目立つ人として生活できると思っていました。裕福な生活を過ごせるため、私は夜昼なく働き、力を絞って業務を深く研究していました。昇進や昇給のため、上司の前で私は屈辱に耐えて重い任務を負い、慎重で勤勉にしていました。ライン管理者になってから、私は現状に満足できず、金銭の誘惑の下で、私は安定な国有企業の仕事を辞め、高い利益のある外国企業に身を投じていました。業績を向上させるため、私は限度を超えた仕事のストレスに耐え、駆けずり回り、苦労を重ねて病気になり、一年じゅう病気ばかりしていました。その上、取引先の機嫌を取るため、私はへいこらすることを学び、お客様に付き添って飲酒し、ますます堕落していきました。最後に少しお金を儲け、生活も裕福になるが、裕福な生活は病の苦痛と心の重苦しさを解決できませんでした。この時、私は金銭をと求めることは人生の正しい道ではなく、だたますます苦しく生きさせるだけだと見極めました。その後の日々に、私は真面目に御言葉を読み、教会生活を送り、徐々に私の心にはこれまでにない解放と自由を得られました。

 

金銭の誘惑から抜け出し、本当の人生を見つけた

   ある日、医者の友達が私と提携して病院の薬の商売し、私は薬の仕入れ、配達、連絡、送金、お客様の食事とお酒の相手をし、お客様の招待や贈答などを担当することに誘いました。私の心は動揺し始め、子供が大きくなったら、お金を使うところも多くなり、もうちょっと稼いだら、家族が裕福な生活をさらに保障できると思い巡らしていました。この時、妻が「起業の何年間で受けた苦しみは少なかったのか。腰椎椎間板がずっとよくないのに、また駆けずり回ることに耐えるのか。あなたの現在の体の状況は食事とお酒の相手をすることができないです。同じ過ちを二度犯したいのか。以前のようにサタンに騙される日々を過ごしたいのか。私たちはやっとのことでサタンの闇から抜け出したのに、二度と陥らないで、これはサタンの狡猾な策略です。慎重にならないといけない。」と私に注意しました。

   そうですね。今、私は幸いに神の国の福音を受け入れ、神様の言葉から私はサタンの邪悪さを認識でき、神様の導きで、私は過った道から戻ってきたのに、二度と同じ過った道を求めてはいけません。私は次の神の言葉を目にしたのです。「物質世界で得る富と名声は、その者に一時的な満足感、束の間の悦楽、安楽の錯覚を与え、その者に道を踏み誤らせる。そうしたわけで、広大な人間の世界で翻弄されて平和と慰め、心の静寂を求めるうちに、人間は何度も波に呑まれる。人間は何処から来て、何故生きていて、どこへ行くのか、など、理解すべき最も重要な問題を理解せずにいる時、人間は富や名声により魅惑され、迷わされ、支配され、完全に道を見失う。時の流れは速く、年月は瞬くうちに過ぎ去ってゆく。人間は、気付かぬうちに、人生の壮年期に別れを告げる。」神様の言葉はまさに私の真実の描写です。かつて私は金銭と名利を貪り、お金を手に入れ、裕福な生活を送り、他人に見上げられたが、これらはだた一時的な享受で、心の空虚さと苦痛を全然覆い隠せなく、何十年もの間このように無駄に過ごしてしまいました。実は、神様が私たちをこの世に生まれてくることを支配するのは、私たちが裕福な生活を過ごせるために奮闘するのではなく、私たちが神様を信じ、神様を礼拝し、神様の導きを受け入れ、神様のすべての采配に従い、神様を認識することを追い求め、神様の奇しき業を証しすることを望み、このように生きてこそ価値があるのです。もし神様を認識する貴重な機会を逃したら、私は裕福な生活を持っていても空虚になり、心の楽しさを得ることができず、死ぬときでも手ぶらです。これらを理解した後、どう選択したらいいか私は分かりました。現在私の商売が安定しているし、稼いだお金も足りているし、もう欲張ってはいけません。私はより多くの時間を御言葉を読み神様を礼拝することにするべきです。それによって、私は友達の好意を断りました。

   私は決定を下したとき、かつて私が崇拝していたおじさんが、過労により脳出血で死んでしまった凶報を受け取りました。おじさんは地元で有名で、何千万の資産も持っていて、 半生の輝かしさはあっと言う間に消えてしまい、彼の人生は53歳で止まりました。おじさんの死から私は、裕福な生活を求めるのは、人に何の益ももたらすことができず、かえって、一種の危害だとさらに見極めました。

 

異なる裕福

   その後、私は御言葉を読みました。「神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人間性を生きることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。」そうですね。神様の本質は聖なるものであり、神様だけが私たちを人生の正しい道へと導かれます。私たちは神様の言葉によって人間として生きてこそ神様の配慮と見守りを得られ、様々なサタンの誘惑と侵害から遠ざかって、意義のある人生を生きることができます。私は思わずヨブのことを思い出しました。彼は一生自分が豊かになって、人々に見上げられるために生きることを求めるのではなく、神様を畏れ、悪を避ける道を歩み、神様の業を認識し、神様のすべての采配に従うことを求めたのです。そのため、彼が豊かになった時、それによって自分を誇るのではなく、依然として簡素な生活を過ごし、神様から離れるのを恐れるため、子女の宴楽に参加しませんでした。サタンが彼の財産を奪った時、彼は依然として神の御名を讃え、財産の損得によって神様への礼拝を変えず、神様のために証しに立ちました。最終、ヨブは神様の称賛を得られ、神様への認識は神様のことを聞いて知っていたから、神様が本当に存在していることを見られることに達し、神様への信仰心も高め、最も価値と意義のある人生を生き、彼は最も裕福な人でした。ヨブの経験は私を励まし、それからの日々に、時間があったら、私は心を神様の前で静め、神様の言葉を読み、神様を賛美する讃美歌を歌い、私の体が徐々によくなり、心もますます着実、平安になりました。

   成長過程において、私は自分が求めていた裕福はサタンが人を騙す華やかな「上着」であり、うわべだけを飾ることができ、永遠に私の心の虚しさを埋めることができないと深く感じました。金銭と名利は命の一分一秒も続くことができず、真理がいのちとならない人生は全く価値がありません。自分が神様の前に来て、神様のいのちの言葉の導きを得られ、心が着実と平安になることを喜ばしく、このような人生は本当の裕福です。


聖書の名言「洗礼受洗」について

2020-04-29 23:33:48 | 聖書の名言

 

1.わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。(マタイによる福音書 3:11)

 

2.それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、(マタイによる福音書 28:19)

 

3.信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。(マルコによる福音書 16:16)

 

4.そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。(ルカによる福音書 3:16)

 

5.わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。(ヨハネによる福音書 1:33)

 

6.すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。(使徒行伝 2:38)

 

7.それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。(ローマ人への手紙 6:3)

 

8.なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。(コリント人への第一の手紙 12:13)

 

9.そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。(コリント人への第一の手紙 15:29)

 

10.キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。(ガラテヤ人への手紙 3:27)

 

11.あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。(コロサイ人への手紙 2:12)


聖書の名言「祈り求める」について

2020-04-28 23:06:23 | 聖書の名言

1.あなたが彼に祈るならば、彼はあなたに聞かれる。そしてあなたは自分の誓いを果す。(ヨブ記 22:27)

 

2.悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。(詩篇 50:15)

 

 

3.神はほむべきかな。神はわが祈をしりぞけず、そのいつくしみをわたしから取り去られなかった。(詩篇 66:20)

 

4.乏しい者の祈をかえりみ、彼らの願いをかろしめられないからです。(詩篇 102:17)

 

5.悪しき者の供え物は主に憎まれ、正しい者の祈は彼に喜ばれる。(箴言 15:8)

 

6.主は悪しき者に遠ざかり、正しい者の祈を聞かれる。 (箴言 15:29)

7.シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。(イザヤ書 30:19)

 

8.しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(マタイによる福音書 5:44)

 

9.求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(マタイによる福音書 7:7)

 

10.また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。(マタイによる福音書 21:22)

 

11.そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。(マルコによる福音書 11:24)

 

12.誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。(マルコによる福音書 14:38)

13.わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。(ヨハネによる福音書 14:13)

 

14.御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。(ローマ人への手紙 8:26)

 

15.望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。 (ローマ人への手紙 12:12)

 

16.絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。(エペソ人への手紙 6:18)

 

17.何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。(ピリピ人への手紙 4:6)

18.目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。 (コロサイ人への手紙 4:2)

 

19.求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。(ヤコブの手紙 4:3)

 

20.あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。(ヤコブの手紙 5:13)

 

21.だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。(ヤコブの手紙 5:16)

 

22.わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。 (ヨハネの第一の手紙 5:14)


聖書の名言「いのち」について

2020-04-27 22:54:46 | 聖書の名言

 

1.それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。(マタイによる福音書 6:25)

 

2.自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。(マタイによる福音書 10:39)

 

3.自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。(マタイによる福音書 16:25)

 

4.たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。(マタイによる福音書 16:26)

 

5.それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。(ルカによる福音書 12:15)

 

6.この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。(ヨハネによる福音書 1:4)

 

7.それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。(ヨハネによる福音書 5:26)

 

8.神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。(ヨハネによる福音書 6:33)

 

9.イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。(ヨハネによる福音書 6:35)

 

10.わたしは命のパンである。(ヨハネによる福音書 6:48)

 

11.わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。(ヨハネによる福音書 6:51)

 

12.イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。(ヨハネによる福音書 6:53)

 

13.人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。(ヨハネによる福音書 6:63)

 

14.イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。(ヨハネによる福音書 8:12)

 

15.盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。(ヨハネによる福音書 10:10)

 

16.イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。(ヨハネによる福音書 11:25)

 

17.自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。(ヨハネによる福音書 12:25)

 

  1. イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネによる福音書 14:6)

 

  1. しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。(ヨハネによる福音書 20:31)

 

  1. いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。(使徒行伝 3:15)

 

21.人々はこれを聞いて黙ってしまった。それから神をさんびして、「それでは神は、異邦人にも命にいたる悔改めをお与えになったのだ」と言った。(使徒行伝 11:18)

 

  1. このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。(ローマ人への手紙 5:18)

 

23.肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。(ローマ人への手紙 8:6)

 

  1. このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。(ピリピ人への手紙 2:16)

 

  1. わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。(コロサイ人への手紙 3:4)

 

  1. こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。(テモテヘの第一の手紙 6:19)

 

  1. そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。(テモテヘの第二の手紙 1:10)

 

  1. あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。(ヤコブの手紙 4:14)

 

29.「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、(ペテロの第一の手紙 3:10)

 

  1. 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。(ヨハネの第一の手紙 5:12)

 

  1. 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。(ヨハネの黙示録 3:5)

 

  1. このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録 20:15)

 

33.そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。(ヨハネの黙示録 21:6)


賢いおとめは神様の声を聞いて主を迎えた

2020-04-26 17:35:03 | 天国への道

   参考聖書箇所:

   「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。…しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。…夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。…そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた」(マタイによる福音書 25:1、4、6-7、10)

   「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)

   「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:29)

   「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)

   「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイによる福音書 7:7-8)

   「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書 5:3)

 

 

   関連する神の言葉:

   神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。「神の現れによる新時代の到来」より

  聖霊の働きは日毎に変化し、段階毎に高まっている。明日の啓示は今日よりも高く、段階が進むにつれてさらに高まる。これが神が人間を完全にする働きである。人がこれに付いて行けないのであれば、いつでも取り残されうる。人間が従順な心でいなければ、最後まで従うことはできない。これまでの時代は過ぎ去った。今は新しい時代である。新しい時代には新しい働きがされなければならない。とりわけ、人間が完全にされる最後の時代になると、神はそれまでになく素早く新しい働きをする。それゆえ、人が従順な心を持たないならば、神の足跡を辿ることを困難と感じる。神はいかなる規則に従うこともなく、自身のどの働きの段階をも不変のものとして扱うことはない。むしろ、神の為す働きは常に新しく、常に高みへと登り続ける。神の働きは段階を追うごとに益々実践的になり、益々人間の実際の必要に則したものとなる。人間はこのような働きを経験して初めて、最終的な性質の変化を遂げることができる。人のいのちに対する認識はますます高まり、同様に、神の働きも益々高みへと上る。このようにしてのみ、人は完全にされ、神に用いられるに相応しい者となることができる。神はこのように働いて人間の観念に反論し、覆す一方で、人を高みへ、そしてより現実的な状態、神への信仰の最高の領域へ導き、その結果、最終的に神の旨が成就するのである。故意に反抗する不従順な本質を持つ者は、神が即座に、すさまじい勢いを持って働くこの段階から置いて行かれる。進んで従い、喜んで身を低くする者だけが、道を最後まで進むことができる。このような働きにおいては、あなた方はみな、どのように従い、自分の観念をどのように脇に置くかを学ぶべきである。進む一歩一歩において注意深くあるべきである。不注意であるならば、間違いなく聖霊に拒絶されるような、神の働きを妨害する者となる。「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より

   聖霊の現在の言葉に従うことができる人々はみな祝福されている。そのような人々が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。最新の働きを得た人々は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人々は排除される。神は新しい光を受け入れることができる人々を望んでおり、神の最新の働きを受け入れ、知っている人を求めている。なぜ貞節な乙女でなければならないと言われているのであろうか。貞節な乙女は聖霊の働きを求め、新しいことを理解することができ、さらには、古い観念を脇へ置いて、今日の神の働きに従うことができる。今日の最新の働きを受け入れる人々のこの集りは、昔から神によって予め決められており、人々のなかで最も祝福されている。あなたがたは神の声を直接聞き、神の出現を見て、そのため天と地を通じて、時代を通じて、あなたがた、つまりこの集りよりも祝福された人々はいない。「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」より

   神を信じているのであれば、人間は神の歩調に遅れることなく、一歩一歩ついて行かなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきである。彼らだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の働きによって既に排除された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、各期間において、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような一つの時代のみに該当する真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きに遅れずついて行くことは決してできず、聖霊の働きを得ることは永遠にできないであろう。神がどのように働くかに関わらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、遅れずについて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊により排除されることなどあろうか。神が何を為すかに関わらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、何も疑わずに聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰されることなどあろうか。「神の働きと人間の実践」より

   神は全人類の神である。神が自分を一つの国や民族の所有物とすることはない。神が自分の計画にある働きを、形式や国、民族といった制限を受けることなく行う。これまであなたはこのような形式を考えたこともなかったかもしれないし、そのような形式があることを否定するかもしれない。神が現れる国や民族は差別されている最貧国かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神は、自分の力によって、また自分の真理と性質を通して、自分と心が一つになっている人々をすでに得ている。それは神が求めていた人々で、神に征服され、苦しい試練とあらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる人々である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。まずは、自分の観念を脇に置きなさい。立ち止まって、次の言葉をよく読みなさい。あなたが真理を慕い求めるなら、神はあなたの知性を明るくし、神の心と言葉を理解できるようにしてくれる。「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。「神の現れによる新時代の到来」より