賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

終わりの日に主イエスはどのように来られるかについての預言

2020-08-20 11:10:35 | 聖書預言

   「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書 24:27)

   「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」(マタイによる福音書 24:44)

   「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」(ヨハネの黙示録 16:15)

   「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)

   「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン」(ヨハネの黙示録 1:7)

 


   関連する神の言葉:

   わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。

   宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より

   数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

   終わりの日が来て、世界中の国は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現し、人の世界は大惨事で、天は災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。しかし、人々にとっては陽気ですばらしい世界のように見え、ますますそうなっていくように思われる。人々が世界を見渡すと、彼らの心は惹きつけられ、多くの人はそこから抜け出すことができない。数多くの人が策略や妖術に携わっている人々に騙されるだろう。「実践(2)」より

   あらゆる災害が次々に襲ってくるだろう。すべての国、すべての場所は災害を経験するだろう──疫病、飢饉、洪水、干ばつ、地震が至る所で発生する。これらの災害は一か所や二か所だけに起こるのではなく、一日や二日の間だけ起こるのでもなく、広大な領域にわたって広がり、次第に激しさを増していくだろう。この間、あらゆる種類の虫害による疫病が次々に発生し、残忍な現象があらゆる場所で起こるだろう。これはすべての国家、すべての民族に下すわたしの裁きである。「キリストの初めの言葉」の「第六十五章」より

   今日、わたしは赤い大きな竜の国に降り立つだけではなく、わたしの顔を全宇宙に向け、天空全体が揺れるようにする。わたしの裁きが行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしの投げつける懲罰が行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしは行く先々に、あらゆる災いの種を蒔いた。これは、わたしの働く方法の一つで、必ずや人間を救う行いなのであり、わたしが人間に差し伸べるものは、何であれ、一種の愛なのである。わたしは、さらに多くの人々がわたしを知り、わたしを見ることができるようにし、そうして長い間人々が見ることのなかった神、だが、今日、現実となった神を、崇めるようにしたいのだ。「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より

   恵みの時代の後、最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのになぜ神はまだイエスと呼ばれることができるのであろうか。どうして神は人々のあいだでイエスの外観を取ることができるのであろうか。イエスはただナザレ人の姿であったことを忘れたのか。イエスはただ人類の贖い主であったということを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し完全にする働きを行なうことができるのであろうか。イエスは白い雲に乗って去って行った。これは真実である。しかし、イエスが白い雲に乗って人間のもとに帰ってきて、またイエスと呼ばれるなどということがどうしてありえようか。イエスが本当に雲に乗って来たなら、人間に見分けられるのではないであろうか。世界中の人々がイエスを見分けるのではないであろうか。その場合、イエスだけが神ということになるのではないのか。その場合、神の姿とはひとりのユダヤ人の外見であり、永遠に同じということになる。イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。イエスは去って行ったとおりにやって来ると言った。いつ来るのかは、イエス自身も知らないのである。それではイエスがあなたに前もって知らせることができたであろうか。あなたは彼の到来を見ることができるのか。これは冗談ではないのか。「神の働きのビジョン(3)」より

   多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より


終末預言は既に実現され、主は既に新しい名前に変えて戻られた

2020-06-03 00:11:16 | 聖書預言

   二千年前、主イエスは預言されました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書24:7~8)またヨハネの黙示録にはこう預言されました。「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり……」(ヨハネの黙示録6:12)この二節の聖句は主が再来する時の兆しは、さまざまな災害が頻発し、また血の月の兆しが現れると明確に私たちに教えました。しかし、血の月は既に2011年と2013年に現れました。2014年4月から2015年9月までに連続の四つの血の月が現れ、太陽が暗くなってめったにない天象が伴っていました。近年、各国の情勢が混乱の中にあり、時々テロ攻撃が発生し、干ばつ、地震、洪水、火災も発生し続けています。しかも、2020年の災害はさらに大きく、新型コロナウイルス肺炎は世界中に広がり、至るところが不安に襲われています。オーストラリアの大火災は何ヶ月も燃え続け、数億匹の動物が死亡し、全世界に深刻な汚染をもたらしました。米国でインフルエンザの猛威が続き、致命的なインフルエンザウイルスが全米国で蔓延しています。カナダのニューファンドランド・ラブラドール州では前例のない暴風雪に見舞われ、都市全体が雪に埋められました。東アフリカも25年以来最も深刻な蝗害に遭遇し、数千万人が食糧危機に直面しています。プエルトリコでは102年以来最も強い地震に遭遇しました。フィリピンのマニラは火山噴火に遭遇し、巨大な火山灰が全都市を覆い、地震も起こりました。また北アメリカのカリブ諸島で7.7震度の地震が起こるなど、災害が頻発し、四つの血の月が現れ、主の再来の預言が既に実現されたことを示し、多くの主を信じる人々は皆今は終わりの日であり、主イエスが再来される時であると感じています。

   現在多くの人は皆主イエスが戻られて、新しい名前に変え、新しい働きをさなると証ししていますが、ある兄弟姉妹は聖書に書かれている「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)によって、主イエスの御名は永遠に変わらず、主イエスだけが救い主であり、主イエスの御名によって救われ、ほかの新しい名前を受け入れるのは主イエスを裏切ることになると思っています。このような考えはいったい正しいでしょうか。次に一緒に神様の名前についての真理を交流しましょう。

神様の名前は変わるのか

   私たちは神様の名前はイエスと呼ばれ、永遠に変わらないと思っていますが、事実は本当にこのようですか。神様の名前は決して変わらないのですか。一緒に二節の聖句を見てみましょう。聖書にはこう書かれています。「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。」(イザヤ書43:11)「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」(出エジプト記3:15)

   聖書の記載から分かるのは、律法の時代の神様はヤーウェと呼ばれ、ヤーウェ以外に救い主がいなく、ヤーウェの名前は永遠に続くのです。しかし、恵みの時代になると、なぜ人々は主イエスを救い主として受け入れたのですか。なぜまた主イエスの御名を守るのですか。しかも、聖書には「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)と書かれています。もし、私たちの思う通りに神様の名前が変わらないなら、神様の名前はなぜヤーウェからイエスに変わったのですか。「ヤーウェ」と「イエス」この二つの名前はいったいどれが神様の唯一の名前でしょうか。

   実は、「世々」とは神様がその時代での名前が永遠に変わらなく、つまりその時代で神様の働きが終了しない限り、私たちは神様のその時代の名前を守るべき、こうしてこそ神様の称賛を得られるのです。しかし、神様が新しい時代の働きをなさる時、私たちは神様の新しい名前を受け入れるべきです。こうしてこそ子羊の足跡に従い、聖霊の働きを得られるのです。律法の時代で神様がヤーウェという名前を取って、その時代の人々は「ヤーウェ」という名前を守り続け、永遠に変えられません。神様が受肉して「イエス」という名前で贖いの働きをなさる時、律法の時代の働きが完了し、もし人はヤーウェの名前を固執し、主イエスの名前を受け入れないなら、聖霊の働きに捨てられ、排除され、暗闇に落ちるのです。ペテロ、ヨハネなどの弟子たちのように主イエスの新しい名前を受け入れるだけ、聖霊の働きを得られ、主の救いを得られるのです。ここから分かるのは、神様の名前は決して変わらないのではなく、神様が新しい時代の働きによって変わりますが、神様の名前がどう変わっても、依然として同じ神様であり、ただ呼び名が異なるのです。しかも、聖書には「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)と書かれているのをどう理解しますか。実は、神様の本質、神様の性質が永遠に変わらないと指しているのです。神様の名前が永遠に変わらないのではありません。一段落の言葉ははっきりと説明しています。「神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。神の働きは常に同じだと言うのなら、神はその六千年の経営(救いの)計画を終えることはできるであろうか。あなたは神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代まで連れてくることができたであろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜであろうか。……『神は不変である』という言葉は神が本来持っているもの、そして神の在り方に関してである。いずれにせよ、六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するように単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはいられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても働くことができ、これはいかに神の働きが常に前進しているかという象徴である。」(『神の働きのビジョン(3)』より)ここから分かるのは、神様の本質、神様の性質は決して変わらないが、神様の名前が変わるのです。つまり神様が違う時代でなさった異なる働き、異なる名前を取り、神様の名前は「ヤーウェ」と呼ばれても、「イエス」と呼ばれても、神様の本質が変わらず、いつでも一人の神様が働きをなさるのです。もし、主が再来されて新しい名前に変え、私たちは受け入れるなら、これは主イエスを裏切ることではなく、子羊の足跡に従うのです。当時ユダヤ教のパリサイ人は、神様の名前が時代によって変わるのを知らなかったため、彼らはメシアだけが彼らの神様であり、彼らの救い主であると思い、結局、神様の名前を「イエス」に変えて、贖いの働きをなさって来られる時、彼らは気が狂って主イエスを罪に定め、主イエスに抵抗し、最終的に、主イエスを十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯してしまい、神様の懲罰を受けたのです。私たちはこのことを今後の戒めとすべきです。自分の観念と想像によって神様の名前が永遠に変わらないと決めつけることができず、さらに終わりの日の神様の名前はまた主イエスと呼ばれると言うこともできず、さもないと神様を決めつけることになるのです。

神様が違う時代で異なる名前を取る意義

   神様はなぜ違う時代で異なる名前を取るのですか。神様が異なる名前を取る意義は何でしょうか。一緒に一段落の言葉を見てみましょう。「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。」(『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より)この段落の言葉は神様が各時代で異なる名前を取る意義を教えてくださり、神様が律法の時代でヤーウェと呼ばれ、神様が律法の時代で行われた働きを表し、神様が律法の時代で発表された威厳、怒り、呪い、憐れみの性質を表しています。ヤーウェ神は律法と戒めを発布され、人々に罪と何か、地上でどのように生きていき神様を礼拝するか、律法と戒めを守る人が神様の祝福を得られ、律法に背く人は神様に呪われ、懲罰されるのを分からせました。したがって、律法の下でのイスラエル人は皆律法を守り、ヤーウェの名を聖いものとし、何千年ものあいだヤーウェ神の導きの下で生活していました。律法の時代の末期になって、人類の堕落はますます深くなり、律法や戒めを守れず、捧げるものもなく、律法違反によって死刑を宣告される危険な状態にありました。神様は人類を救うために、恵みの時代を開き、イエスという名前を取って、人類を贖う働きをなさいました。言い換えれば、「イエス」という名前は神様が恵みの時代でなさった働きを表し、神様が恵みの時代で発表された憐れみ、慈しみの性質を表し、主イエスが人に憐れみを与えられ、人に悔い改めの道を賜り、最後に人類を贖うために十字架に釘付けにされ、人類はもはや律法によって罪に定めることがなくなり、神様の前に来て祈り、主の恵みと祝福を得られるようになりました。ここから分かるのは、各時代で神様が固有の名前があるが、どの名前も神様の全体を表すことができず、そのため、神様の働きの新しい段階はそれぞれの時代の意義を反映する特定の名前を取って、神様のその時代での働き及び発表された性質を表すのです。同時に、私たちは、神様は常に新しく、決して古くならない神様であり、神様が新しい時代の働きを開く時、再び古い名前を使わず、私たちはただ神様の新しい時代での名前を受け入れてこそ、聖霊の働きを得られ、神様の称賛を得られることが分かりました。

神様の終わりの日の新しい名前を通して主の再来を迎える

   それでは、主が再来される時に新しい名前に変えるのですか。実は、聖書はずっと前に、私たちに主が再来される時に新しい名前があると教えてくださいました。例えば、「利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録3:12)「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである。」(ヨハネの黙示録1:8)「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。』」(ヨハネの黙示録19:6)「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』。」(ヨハネの黙示録4:8)「そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、『今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。』」(ヨハネの黙示録11:16-17)聖書に神様の新しい名前について言及されていることから、私たちは主が再来される時に必ずイエスと呼ばないことを確定できます。しかも、ここには多くの箇所に神様の名前は「全能者」と呼ばれることに言及し、このいくつかの聖句以外に、ほかの聖句にも記載されています。例えば、「ヨハネの黙示録」の15章3節、16章7節、14節、21章22節などです。これらの聖句には「全能者」と言及しています。これらの聖句に基づき、私たちに分かるのは、主が戻られて新しい働きをなさる時に、主の名前は「全能者」に変わることです。しかも神様は「全能者」という名前を用いて新しい時代を開き、恵みの時代を終わらせ、人々に神様のすべての性質を認識させ、皆「全能者」を大いなる名前と崇めるのです。私たちは神様の終わりの日の新しい名前を受け入れるのは、主イエスの再来を迎えていることです。

   今「東方閃電」の人が主イエスが既に戻られ、全能神と呼ばれることを証ししています。「全能神」という名前はまさにヨハネの黙示録の預言の成就です。しかも、彼らは全能神が既に多くの真理を語り、一段階の人を裁き清める働きをなさり、人々をそれぞれの種類に応じて分類され、毒麦と麦を分けられ、神様の言葉の裁きを受け入れ、清められる人は災いの前に、神様に勝利者に完全にされて神様の国に入り、神様の言葉の裁きを拒絶する人は災いの中に落ちるのです。全能神がなさった言葉の裁きの働きはまさに聖書の預言の成就です。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)「収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう。」(マタイによる福音書13:30)聖書の預言の成就から見れば、おそらく全能神が主イエスの再来でしょう。私たちは主を迎えることにおいて、謙虚に尋ね求め考察すべきです。こうしてこそ主の再来を迎える機会を容易に逃すことはありません。


聖書預言の成就は私たちの想像に合致するのか

2020-05-23 23:43:06 | 聖書預言

   聖書に記されている、主の再来に関する預言がたくさんあります。どのクリスチャンもこれらの預言をよく知っています。特に主の再臨を切に待ち望んでいるわたしたちは、主の再来に関する預言を正確に理解し、認識したいと強く思っています。主の再来を見られるように。天の国に入りたいという望みを実現できるように。こういうわけで、どのように預言を扱うかは非常に重要です。これは、わたしたちが主の再来を見られるかどうかにかかわります。


  
   主イエスが来て働かれた時、イスラエル人は旧約聖書の預言を根拠としていて、メシアの到来をしきりに待ち望んでいました。彼らは聖書にこう預言されているのを見ました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザ9:6-7)。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5:2)。彼らは聖書の預言の文字どおりの意味、およびメシアの到来に対する想像、推理に基づいて断定的判断を下しました。「主は来られる時、きっとメシアと呼ばれる。彼はきっと王宮や、貴族の家や、権勢のある富貴の家や、或いは地位の高い家に生まれる。その容貌はきっと立派で人並み優れていて、堂々としていて、非凡だ。彼はダビデのようにイスラエルの王となり、しかもイスラエル人を導いてローマ政府の支配から脱する」と。

 

   しかし、事実はどうでしょうか。神は彼らの観念、想像によってこれらの預言を成就しませんでした。主が来られた時、メシアと呼ばれず、イエスと呼ばれました。彼は王宮や貴族の家、王の家に生まれたのではなく、飼い葉桶の中に生まれました。彼は高い地位を持つどころか、かえってヘロデ王に追跡されました。イエスの容貌は彼らが想像しているように人並み優れていて、非凡であるのではありません。イエスの容貌はとても普通で正常でした。

 

   しかも主イエスの働きは彼らの観念に反撃しました。主イエスは彼らの想像するようには彼らをローマ政府の支配から救い出しませんでした。むしろ逆に、人に罪を告白し、悔い改めるように要求し、人に寛容で我慢し、敵を愛し、人を七十七回赦すように教えられました。彼は神殿の中で働かず、かえって神殿から出て来ました。彼は安息日を守らないだけでなく、また安息日に人のために病気をいやし、悪霊を追い出しました。彼の弟子たちは空腹になった時、麦の穂を摘んで食べました。……実現した預言はいずれもイスラエル人の想像に合致しません。主イエスの仕事は律法の時代でなされたことがないものです。それは律法の基礎の上でなされた新しい仕事です。

 

   実は、当時主イエスは多くの真理を発表し、多くのしるしや奇跡を行い、完全に神の権威と力を明らかにされました。しかし、当時のパリサイ人は彼らの観念、想像と合致しないこれらの働きに直面している時、全然真理を求める心を持たず、かえって至る所で主イエスを訴える口実を探しました。最終的に、彼らは主イエスを十字架につけて、この上なく大きな罪を犯し、そのため国の滅亡のつらさを味わいました。

 

   この残酷な事実はわたしたちに次のことを教えています。パリサイ人はメシアの到来を切に待ち望んでいるが、到来したメシアを捨て、到来したメシアに逆らいました。彼らの頭の中はメシアに関する預言に対する幻想、観念、想像でいっぱいになりました。彼らは聖書の預言の文字どおりの意味に基づく認識を頑なに守り、自分の推理、想像によって神の働きに対して断定的判断を下しました。だから、預言が成就する時、それが彼らの観念、想像に合致しないので、彼らは極力主イエスに逆らい、主イエスを罪定めしました。彼らの愚かさと無知は彼らを葬り去りました。最終的に、彼らは神に逆らう人になってしまい、神に淘汰され、捨てられました。だが、自分の観念と想像を捨てられて、主イエスの働きと言葉を探求し、調べる人たちは、主イエスが来たるべきメシアだと確信しました。だから、彼らはすべてを捨てて主イエスに従うことができました。そのため、彼らは主に良しとされました。

 

   聖書にこう書かれています。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽せよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか』」(ロマ11:33-34)。神は造物主であり、わたしたちは被造物、土の塵です。神の知恵、全能、霊妙さは、わたしたちが永遠に計り知ることができません。預言の中に、神の霊妙さと知恵があり、奥義もあります。預言がどのように成就して事実になるかは、わたしたちが計り知ることができません。それでは、わたしたちはどうして神の働きを計り知り、神の相談相手になることができるでしょうか。コリントの信徒への手紙二第3章6節で「文字は殺しますが、霊は生かします」と書いてあります。聖書のこれらの言葉とパリサイ人の失敗の事実から見れば、預言の成就はわたしたちが想像しているように簡単ではなく、預言は聖書の文字どおりの意味によって成就するはずがありません。実は、主イエスの到来はすでに預言を成就しました。しかし、預言は人の想像、観念によって成就したのではありません。主はすでに降誕しました。彼は処女マリアから生まれ、ベツレヘムに生まれ、そしてヘロデ王に追跡されました……。これらは預言が成就したことを証明しています。しかし、パリサイ人はメシアを迎える上では、自分の考え、想像を信じ、聖書の字句の表面上の意味によって理解し、推理するのでした。そういうわけで、彼らは必然的に、永遠にメシアの到来を見られません。

 

   今、世の終わりがもう来ました。わたしたちはどのように主の再来に関する預言を扱うべきですか。もし主がわたしたちが望み、想像するようには再来しないなら、わたしたちはどのようにこの現実に直面すべきですか。この問題は私たちが深く考えに値します。


聖書の預言について、どう扱われば主の御心に適うのか

2019-06-01 22:22:14 | 聖書預言

   聖書にはこう書かれています:「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」(ペテロの第二の手紙1:20-21)。「彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。」(ペテロの第二の手紙3:16)。「それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(コリント人への第二の手紙3:6)。 私たちは自分たちの観念と想像に頼って預言を文字通りに解釈してはならない、なぜなら預言は神から来るものであり、私たちは聖霊の御啓示を通じてのみそれを理解することができるということをこれらの聖句は語っています。しかし、預言が成就されるまで、私たちは自分たちの観念に頼り、文字通りの解釈をしてしまいがちです。これにより、預言を誤解しやすくなってしまいます。そして、私たちの不条理な解釈が他人を誤って導いてしまいます。例えば、パリサイ人はメシア来臨の預言について、自分たちの考えに頼ってしまいました。イエス様がお生まれになる前、彼らはイザヤ書7:14と9:6-7、そしてミカ書5:2の預言の文字通りの意味を基に、「メシアはベツレヘムの処女に生まれ、インマヌエルと名づけられる。そしてメシアは宮殿で育ち、王位につきながらイスラエルを統治される」、という内容でメシアの来臨を想像しました。しかし、これらの預言が成就された時、彼らが想像していたメシアは現実とは違いました。「主は結婚していたマリアから、大工の家庭に生まれ、イエスと名付けられた。イエスはナザレの出身で、最後は十字架に釘付けにされる」というのが彼らが実際に見た内容だったのです。これは預言の文字通りの意味とは非常に異なる内容でした。これ故に、パリサイ人は主イエス様の働きと宣教に権威と力があることを目撃していたにもかかわらず、主イエス様が約束されたメシアであられたことに気付かなかったのです。代わりに、彼らは主イエス様が悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると言って、主イエス様を冒涜したのです。こうして、彼らは聖霊を冒涜するという罪を犯し、神を怒らせてしまったので、主の許しを得ることは決してありません。そして、見識を持たずパリサイ人の言葉を信じていた庶民も神の救いを失ってしまいました。この例より、パリサイ人は自分たちの想像と預言の文字通りの意味にこだわったがために、自分たちだけに限らず、他人まで滅ぼしてしまったということが分かります。

聖書の預言,神様の御心神の御心に従って,扱う方法

   2000年が経過した今、主の来臨をお迎えする大切な時期が到来しました。聖書には、主の来臨に関する様々な預言が多く存在し、私たちは頻繁にそれらを文字通りに解釈してしまうため、それらに関する観念をたくさん持っています。例えば、主の来臨に関する聖句の中に「夜中」や「盗人」という言葉を目にすると、(見てヨハネの黙示録16:15; マタイによる福音書 25:6)、私たちはその文字通りの意味から、主は夜中に来られる、と確信してしまいます。この結果、夜になると、クリスチャンの中には服を着た状態で携挙されることを期待しながらコートとズボンを身にまとって寝る人がいるといった有り様です。しかし、私たちは聖書に「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。」(ヨハネの黙示録1:7)、と書いてあるのを見ると、文字通りに主が日中に雲に乗って再臨されて、人類の前にその御姿をお見せになり、皆がそれを目にすることを意味しているとみなすのです。この結果として、主が突然雲に乗って降臨される日を切望しながら、頻繁に空を仰ぎ見る人たちがいます。つまり、私たちはこのトピックについて多くの誤解を抱いているのです。神はこう仰っておられます:「人が信じているものはすべて観念であって、人が受け入れているものは全て文字通りの意味や、また人の想像力に沿ったものである。それは聖霊の働きの原則とは一致せず、神の意図に沿っていない。…神の奥義は人間には理解できないことをあなたがたは知っているのだろうか。神の言葉は人間には説明できないということをあなたがたは知っているのだろうか。あなたは聖霊の啓示を受け、聖霊の光に照らされたとでも確信しているのか。聖霊があなたにそのように直接的に示したのであろうか。これらは聖霊の指示であるのか、それともあなた自身の観念なのか。」神の御言葉は神の奥義を理解できる人はいないということを私たちに伝えておられます。私たちの想像にまかせて預言をその文字通りに解釈するのは神の御旨に沿っていません。従って、私たちは主が再臨される光景を想像するのを止めるべきなのです。なぜなら、預言がどのようにして実現するのかは神御自身がそれを成就しに来られるまで、私たちには全く分からないからです。私たちは皆、神の創造物であるため、神がどのように働きをなさるかは分かりません。神の御啓示を受けた後に預言を告げた預言者が何人かいましたが、彼らもその真義やそれがどのようにして成就されるかは知りませんでした。

   従って、主の再臨に関する預言について、私たちはもっと祈り、神を恐れる心と謙遜して探求する姿勢を持たなければなりません。このようにしてのみ、私たちは聖霊の御啓示を受け、主をお迎えすることができます。ペテロ、ヨハネ、ナタナエルといった主イエス様の最初の弟子たちは預言の文字通りの意味にはこだわらず、それを神がなさったことに照らし合わせもせず、そして神がどのように来臨されるかを決めつけもせず、代わりに主イエス様が仰せられた真理に耳を傾けることに集中し、主の働きは権威と力にあふれ、他のいかなる者でも成し遂げられることではないということを知りました。このため、彼らは主イエス様がメシアの来臨であると判断し、主イエス様をお迎えして、最後には神の救いを受けたのです。彼らがメシアをお迎えした方法こそが正しい方法なのです。従って、主の再臨をどのように扱うかという疑問については、私たちは虚心に真理を求める人にならなければなりません。主の再臨を証言する人がいたら、私たちは自分たちの想像と観念、そして預言の文字通りの意味に依拠してその証言をむやみに拒むというパリサイ人と同じ過ちを犯すのではなく、代わりに自ら探求、そして調査しなくてはなりません。このように神を畏れる心を持つ場合に限り、私たちは主をお迎えする機会を手にすることができ、ほぼ無意識のうちに預言がどのようにして実現するのかを理解できるようになるのです。

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「スーパームーン三連発」は異常なことが起こることを示しています

2019-05-31 22:10:48 | 聖書預言

   専門家の予測によると、2019年2月19日と3月21日に、続けてスーパームーンが現れるとのことで、1月21日に現われた「スーパーブラッド・ウルフ・フムーン」に続く宇宙の珍しい現象が発生するとなるとのことです。

   関連する情報によると、「スーパームーン」とは、満月が地球に最も近づく「近地点」のことを指しており、月の直径が通常より14%大きく見え、その光度も30%増します。それは肉眼で見ることのできる最も大きく、最も円形に近い月となります。今年はスーパームーンが3回現れるはずですが、これは非常に珍しい天文学的現象です。実際、ブラッドムーンやスーパームーンといった不思議な現象が近年引き続いて起きています。2011年と2013年のブラッドムーン、2014年から2015年にかけて4回連続して現われたブラッドムーン、152年前にも現われ、2018年に再び起きたスーパーブルー・ブラッドムーン、そしてスーパームーン、ブラッドムーン、ウルフ・ムーンという3つの天文学的現象を完璧に融合し、最も輝かしい天文学的現象と言われた2019年1月21日のスーパーブラッド・ウルフ・ムーンなどがその実例です。

スーパームーン三連発,天文学的な不思議な現像

   多くの預言者達が、ブラッドムーンの出現は何か並外れた、大きな事が起こる予兆だと預言しています。聖書の専門家の中にも、ブラッドムーンの出現はヨエル書2章29~31節に記されている預言の成就だと堅く信じている人がたくさんいます。「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。」 また、黙示録6章12節にはこうあります。「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり」ヨエル書の預言の中の「大いなる恐るべき日」とは大災害を意味しています。私たちはみな近年災害が深刻化していることを見ています。地震、飢餓、疫病、洪水などといった頻発する災害は私たちを恐怖に陥れます。世界情勢は混乱し常に変動しています。頻繁に戦争が勃発し、暴力事件やテロ行為はエスカレートし、地球は温暖化し、極端な気象や様々な種類の不思議な天体現象が絶えず起こっています。クリスチャンとして、これらの災害をどう捉えるべきでしょうか。これらの災害を通して、神様は何を啓示しようとされているのでしょうか。大災害が訪れる前には神様はどのような働きをされるでしょうか。ヨエル書2章29~31節にはこう書かれています。「その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。」この預言によると、大災害が発生する前には神の霊が言葉を語り、ご自身のしもべとはしために水を注がれます。黙示録の2章と3章では、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と繰り返し預言されています。そして黙示録の7章14節には、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」とあります。また黙示録の14章4節には、「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」とあります。そして2章の7節には、「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」と書いてあります。これらの預言から、終わりの日には神様が新たな段階の働きをされることが分かります。つまり、神様は御言葉を表され、災害が起こる前に勝利者の一団を作られます。これらの人々は初穂であり、神に仕える人々であり、最終的に神がご自身の御国へ導かれる人々です。

   神様の御言葉はこの奥義を明らかにし、災害の前にご自身がなされる働きとは何であるか私たちに告げました。神様が表された代表的な御言葉の幾つかを一緒に読んでみましょう。

   あなたの目を開いて見回してみなさい。そうすれば、わたしの偉大な力をどこにでも見ることができるだろう。あなたはどこにいてもわたしのことを確信できるだろう。宇宙と広大な大空がわたしの大いなる力を拡大している。わたしが語った言葉は、天候の温暖化において、気候変動において、人々の異常と社会的原動力の無秩序、そして人々の心の欺瞞において、すべて現実となった。太陽は白くなり、月は赤くなり、すべてが混乱している。あなた方にはまだこれらのことが見えないのか。キリストの初めの言葉」の「第三十九章」より

   すべての国や世界のいたる所で、地震、飢饉、疫病、あらゆる種類の災害が頻繁に発生する。わたしがすべての国や世界のいたる所でわたしの大いなる働きを為す時、これらの災害は、世界創造以来のどの時期よりもすさまじいものとなって起こるだろう。これがすべての民へのわたしの裁きの始まりである。「キリストの初めの言葉」の「第九十二章」より

   知らないうちに、世界各国の状況は緊張を増しており、日々崩壊し、毎日混乱に陥っている。各国の首脳はみな最終的に権力を得ることを願っている。彼らは予期していないが、わたしの刑罰はすでに彼らの上に来ている。「キリストの初めの言葉」の「第八十二章」より

   今日、世界の国々で、わたしは自分が着手した働きを行っており、それを完成させる。わたしは人類の真っただ中で動き回り、わたしが計画した働きをすべて行っており、全人類はわたしの意志に従って世界の様々な国々を解体している。地上の人々は注意を自分自身の終着点にしっかり向けている。その日は近づきつつあり、天使たちはラッパを吹き鳴らしているからである。もはや遅れはなく、創造されたものはすべて、すぐに歓喜して踊り始めるだろう。わたしの日を、自分勝手に遅らせ得る者がいるだろうか。地球に住む人間だろうか。それとも空の星だろうか。それとも天使だろうか。わたしがイスラエルのために民の救いを始めようと声を発する時、わたしの日は全人類の上にのしかかる。すべての人はイスラエルが戻るのを恐れる。イスラエルが戻る時はわたしの栄光の日であり、すべてが変化し、新しくされる日でもある。正しい審判が全宇宙に差し迫って近づいてくるにつれて、すべての人は臆病になり怯える。人間世界では義については聞いたことがないからである。義の太陽が現れると、東方に光が当たり、次に光は世界中に当たり、すべての人に届く。人が本当にわたしの義を実行することができれば、恐れるものなどあるだろうか。わたしの民は皆わたしの日の到来を待っている。皆その日を心待ちにしている。彼らは、わたしが義の太陽としての役割に従って、すべての人類に天罰をもたらし、人類の終着点を決めるのを待っている。わたしの国は全宇宙の上に形を取り始め、わたしの玉座は何億もの人々の心の中を統治する。天使たちの助けを借りて、わたしの偉業はまもなく実現されるだろう。わたしの子供たちとわたしの民は皆わたしが戻るのを息を殺して待ち、彼らが二度とばらばらにならないように再び結びつけることを強く望んでいる。わたしの国の多くの民衆が、わたしが彼らと共にいるのを喜んで、互いに駆け寄らずにはいられないだろう。これは対価を支払う必要のない再会なのだろうか。わたしはすべての人の目に尊敬に値する者として映り、すべての人の言葉によって宣言される。わたしが戻る時、わたしはすべての敵の力をさらに征服する。時は来た。わたしは自分の働きを始動させるだろう。わたしは人々の王として支配するだろう。わたしは今まさに戻る。そしてわたしは今や出発する。これはすべての人が望んでいること、彼らが希望することである。わたしは全人類にわたしの日の到来を見させよう。そして彼らにわたしの日の到来を喜びをもって歓迎させよう。「全宇宙への神の言葉」の「第二十七章」より

   宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々や宗派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。「七つの雷が轟く——神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より