賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神に祈るとき、この3つの点を理解することはとても重要です

2020-01-03 23:26:47 | 礼拝説教

  兄弟姉妹の皆さん:

  主にあって平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じています。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

  実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです

  主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなければならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかどうかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとさえします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。また、家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中で、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです

  私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を頂いて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。….これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)

第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです

  恵みの時代の最初の段階で、神殿に聖霊の働きがあった頃を思い出してください。人々が罪を犯した時、彼らは聖霊による鍛錬を受けました。神様に仕える祭司が律法を守らなかったならば、天からまっすぐに火が降りてきて彼らを焼き殺しました。人々は非常に恐れ、神様を敬う心を持ったのです。けれども恵みの時代の後半になり、イエス様が現れて業を成されるようになると、ユダヤの人々は律法を守ることができず、神殿を両替や生活用品を売る場所として使ったのです。彼らは神殿を強盗の巣にしたのです。そこには聖霊の鍛錬はもはやありませんでした。聖霊はイエス様の働きを守るため、すでに神殿から離れていたので、神殿に残ってイエス様の救いを拒否した人々は神様の働きから排除され、闇に落ちました。たとえヤーウェの名で彼らが祈っても、神様は聞かれませんでした。彼らが聖霊の働きを得ることなど尚更ありませんでした。

  今日の教会に目を向けてみましょう。牧師や長老の説教は退屈です。新たな光などありません。兄弟姉妹はいのちを養われることはなく、彼らの霊は萎えて暗くなり、聖霊の存在を感じることができません。彼らは肉の欲と人生の楽しみとともに、地位と権力さえ欲し始めます。同僚の間には摩擦が起こります。彼らの罪は彼らに対して勝利を宣言し、彼らは主に負い目を感じることもなくなります。 神様の言葉に従うことはなく、神様の命令を守ることもしません。神様の旨を完全に損ない、神様を拒絶する者たちとなりました・・・このような教会と、律法の時代後期に存在した神殿との違いは何でしょうか? これは聖書の次の預言の完全なる成就です。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。 そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」事実、神様は恵みの時代の教会を去られました。多くの兄弟姉妹が、教会には既に聖霊の働きはなく、神様は御顔を隠されてしまったと感じているのです。それならばどうして私たちの霊が萎えずにいることができるでしょうか。それでどうして神様が私たちの祈りを聞くことができるでしょうか。

  これまで説明してきた3つの状況が、主が祈りを聞かれない主な理由です。私たちは主の前に出て主の意図を求め、これらの問題を振り返ってみるしかありません。また私たちは、主に聞いていただけるような祈りはどのようなものかを追求しなくてはなりません。これは私たちが学んで成長する必要のある真実です。それではここで、みなさんが神様の意図に沿って祈るにはどう祈ったら良いかを知るために三つの方法をご紹介します。私たちが毎日心から実行し、実践することができるのであれば、主は私たちの祈りを聞いて下さると私は信じています。

第1に、霊によって祈り、心から、真実の言葉をもって祈らなければならないということです

  私たちはみな神様が忠実なお方だと知っています。神様には不実も、偽善も嘘もありません。神様は私たちひとりひとりに誠実です。神様は私たちが誠実で正直な祈りをささげることを願っておられます。イエス様が次のように言われた通りです。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37) 従って、祈るときには、神様にありのままを話さなければなりません。私たちが弱ければ、弱いと素直に言うべきです。神様の意図に沿わないどんな考え、発想、痛み、困難、物事も、完全に心を開いて神様に話すべきです。他人に話すのは恥ずかしいような言葉や内容もありますが、それらを神様から隠すことはできません。私たちは神様に心を開いて正直に話すべきなのです。私たちが心を大きく開いて何も隠さず、心のままを率直に神様に話していることを神様が知るならば、神様は私たちが神様の意図と真理の全ての側面を理解するように導いて下さいます。そうすれば私たちは進むべき道を得るのです。

  加えて、祈るときには静まらなくてはなりません。私たちは心を集中させて祈らなければなりません。気持ち半分であったり、上の空で祈ったりしてはなりません。私たちは、親と話す時には、親を尊敬できます。親に対する態度は誠実です。親は私たちより年長で、育ててくれたからではないでしょうか。神様は私たちを造られ、いのちを与えられ、生活に必要な全てを与え、真理を与えて下さいました。そうであれば、神様を敬う気持ちで祈ることは尚更大切ではないでしょうか。何を祈るかに関わらず、私たちは熱心に神様の意図を求め、正直に思いと困難を伝え、神様の時を忍耐を持って待たなくてはなりません。そうして初めて、私たちは神様の啓きと導きを得、神様の意図を理解することができるのです。そうする時に、私たちの困難は、必要な時に解決されるのです。

第2に、私たちは被造物の立場に立ち、神様に要求をしないということです。これは、神様への服従心を持って祈るということです

  祈るときには、私たちは被造物であり、神様が創造主であることを明確に知っていなければなりません。神様は全てのことと全てのものを御手に握っておられます。私たちの全ては主の御手に支配されています。私たちが日々直面することは、事の大小を問わず、全て神様の采配によるのです。私たちが神様に祈る時には、被造物としての立場にしっかり立ち、熱心で従順な態度で神様の御心を求めなければなりません。神様に何ら要求をしてはなりません。例えば、困難に直面してどうして良いか分からない時、次のように祈ることができます。「神様。この事に関して、一体何が真実なのか分かりません。あなたの意図に沿うにはどうすべきなのか分かりません。けれども、わたしはあなたの言葉を求め、あなたの求めに応じて物事を行い、あなたの意図を満足させたいと願っています。どうか私を啓き導いてください。アーメン。」私たちの心に神様の場所があり、被造物としての立場に立って祈り、ひれ伏し、創造主に礼拝を捧げる時、そして神の働きに従ってその御言葉を実践する時に初めて、神様との正常な関係を築くことができ、聖霊の働きを得ることができるのです。ヨブが神を畏れて悪を避ける人であったことはみな良く知っています。ヨブが自分の家畜、息子、娘達をすべて失った時、そして体中が腫れ物に覆われて激しい痛みに耐えていた時、ヨブは神様が万物の支配者であり、神様の許しなしにはそのような事が自分に降りかかることはないと信じました。それだけではなく、自分の命も含めて、所有物のすべてが神様によって与えられたものだということを知っていました。神様がいつそれを取り上げても、自然で正しいことだと知っていました。ですから、ヨブは神様に不平を言うことも神様に何かを要求することもありませんでした。それ故ヨブは、膝をかがめ、服従の心を持って神様を礼拝し、次のように祈ったのです。 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。(ヨブ記 2:10)ヨブは堅く立って、神様に対する証しとなりました。ヨブの理性と神様への服従は神様からの称賛を得ました。私たちもヨブと同じような姿勢で神様に向かうことができたならば、心に神様の居場所があり、どのような困難に出会おうとも神様への服従心によって祈ることが出来、神様は私たちを導き、啓き、真理を理解できるようにして下さいます。私たちの霊は研ぎ澄まされ、思考がはっきりとしてきます。私たちが何らかの堕落を現わしたり、良くない状況になったりした時、それを自覚して適切に対処することが容易になります。そうなれば、神様は更に私たちに近づいてくださり、いのちの成長は更に速くなります。

第3に、私たちの教会に聖霊の働きがないのであれば、それを求める祈りを捧げなければならないということです

  律法の時代の後期、サタンにより人間は益々堕落したことを私たちは知っています。人は罪の中に生き、律法によって罪に定められて死に追いやられる危機に直面しました。しかしその後神様は、イエスの名によって律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始められ、人類を贖う働きをされました。以降、ユダヤ教は完全に神の栄光の存在を失いました。主イエス様の名と業を受け入れなかった者はみな、たとえどのような状況にあったとしても、どのような祈りを捧げ、ヤーウェである神様に訴えたとしても、神様はその祈りを聞かれることはなく、そのような者たちが聖霊の働きを得ることはありません。けれども、イエス様の新しい働きを受け入れてイエス様の名によって祈る者はみな、神様の泉からの生ける水による養いを楽しみます。彼らが主に呼ぶならば、神様の業を見ることができ、聖霊の業が彼らに伴うでしょう。

  今日、主イエス様の御名によって私たちがどう祈ろうとも、私たちが聖霊の働きを感じることはなく、神様の存在を感じることはできません。いのちを養っていただくことはできず、罪を犯しても鍛錬を受けることもありません。聖霊の働きがまたしても離れてしまった可能性が大いにあります。聖書は次のように言っています。 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48) 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)これらの聖句から、終わりの日に神様が再び戻られ、裁きの業の段階を実施されることが分かります。主は忠実なお方です。主が成就すると言われることは成就します。私たちは神様に求めて祈り、いのちの泉へと導いて下さるように願い、神様によって潤され養われ、そして主の足跡を辿るようにしなければなりません。私たちが心に飢え渇きを覚えて求めるならば、神様の導きを得ると私は信じます。神様は次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)

  主の導きに感謝します。本日皆さんと分かち合った、祈り方に関する内容が一人ひとりにとって益となることを願います。祈りは神様との正常な関係を築く上で重要なステップです。それはまた、聖霊の働きを得る上で要となる道でもあります。主からの応答を受け取るにはどう祈れば良いかを理解し、従うべき実践の道を得て頻繁に実践するときに初めて、主は私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちの祈りが早く神様の意図と一致することを願います。

  すべての栄光が神様にありますように。

 


6種の言動を見るだけでも、あなたが主と正常な関係を持つかどうかを知ることができる

2020-01-02 23:00:12 | 礼拝説教

あなたは主と正常な関係を持っていますか

  一部の兄弟姉妹たちはこの質問を聞いた後、「神との正常な関係は一体どういう関係ですか」と聞くかもしれません。実は、正常な関係は、被造物と造物主の関係です。わたしたちが神を神として礼拝し、神に従うようになったら、神と正常な関係を持つようになります。つまり、わたしたちが真心をもって神に従い、心を神に渡し、神と本当の交わりを持ち、心の中で神が自分の神だと認めるとしたら、わたしたちは神に属する人になり、神と正常な関係を持つようになります。もしわたしたちが神と正常な関係を持たなければ、わたしと神の関係は否定的な、間違った関係です。そうなるのは、わたしたちが祝福、平安を得たり、自分の目的を達成したり、災難を避けて死を免れるために神を利用したいからです。一部の兄弟姉妹たちはこの観点に不服を唱えるかもしれません。彼らはこう思っています。自分が毎週教会に行って主イエスを礼拝し、いつも聖書を読み、祈り、福音を宣べ伝え、また援助を必要としている国を援助し、しかもいつも貧乏な人を助ける、そうするのは主に仕え、主に忠誠を尽くすのだ、と。では、わたしたちは次の6種の言動を見てみましょう。そうすれば、自分と神の関係が正常かどうかを知ることができます。

  第一に、神を信じていますが、全然神に打ち明け話をせず、全然神の言葉を通して神の御心を求めません。事が起こり、困難や災難がある時にだけ、神に祈ります。しかも、心の中で神とこう約束します。

  「神よ、あなたがわたしを死なせないなら、わたしはあなたのために働き、福音を宣べ伝え、自分をささげます。……」と。これは明らかに神と取引するのです。

  第二に、名目上は神の信者ですが、実際には神の言葉を信じず、自分の知識や能力だけを信じ、自分の能力ですべてのことをし、まるで運命が自らの手中に握られているかのようです。

  第三に、祝福を得、天の国に入るためだけに神を信じます。このように神を信じる人は神のために大いに費やし、絶えず福音を宣べ伝え、苦しみを受けます。彼らはそうすれば、主が来られる時、天の国の中に携え上げられることができ、冠を得ることもできると思っています。

  第四に、表面的には心から神を信じるように見えるが、何かあった時は神の御心を求めず、あらゆることで人に望みをかけ、人の言葉に聞き従い、どんな困難があっても人と相談し、人に解決してもらいます。

  第五に、神を信じていますが、全然神の御心を探りません。祝福を得ようとして、ひたすら神に祈り求めます。困難がある時神に祈り、困難がない時、神に言いたいことは何もありません。安逸な時、国、社会が安定している時、神を相手にしません。災難が起きると、教会に行って集会に参加したり、祈り始めたりします。

  第六に、ある人たちは神を信じていますが、人を崇拝し、有名人や偉人を崇拝します。偉人、有名人、或いは牧師、長老は彼らの心の中で非常に重要な位置を占めていますが、主は彼らの心の中で小さい位置を占めています。誰かの言葉が彼らの心の中の崇拝する人の姿を破壊すると、彼はかんかんに怒ります。

なぜ神と正常な関係を結ぶことが非常に重要ですか

  わたしたちが神と正常な関係を持たなければ、聖霊の働きを得られません。もしわたしたちが聖霊の働きを持たず、ただ主のためにあれやこれやをし、労苦し、奮闘し、最終的に神の言葉を理解せず、また神を認識しないなら、わたしたちは試練や患難を受ける時、神に不平を言い、「わたしはたとえ功労を立てなくとも、苦労をなめて来た。苦労をなめたことがないにしても、心身ともに疲労した。神よ、なぜあなたがわたしを守ってくれなかったのか」とさえ言い、どんな非理性的な言葉も、どんな、神に逆らう言葉も口に出せます。逆に、わたしたちが神を礼拝し、神に従い、命を得るためだけに神を信じるなら、わたしたちは容易に神と正常な関係を結ぶことができます。わたしたちが神と正常な関係を結んだら、聖霊の働きを得られます。わたしたちが聖霊の働きを持ったら、神の顔の光の中に、神の導きの下に生きるようになり、また神の心にかなうことをすることができるようになります。そうなったら、わたしたちのするすべてのことは神に良しとされました。こうして、わたしたちはこのことをはっきり知りました。つまり、命を得、神に良しとされると望むなら、まず神と正常な関係を結ばなければなりません。

あなたが次の4点を成し遂げなら、あなたと神の関係は正常になります

  第一に、心を神に渡して、神に支配させ、正常に神と交わり、神に祈り、祈り求め、自分が聖霊の働き、聖霊の導きを得るようにしなければなりません。この点を成し遂げるのにしなければならないことは、神の言葉を常に読むこと、神の言葉に基づいて神に祈り、祈り求めること、神の言葉を通して、罪を犯しては罪を告白する自分の本当の状態を認識し、自分の欠けたところを自覚すること、神に祈り、祈り求め、神に自分を救い、きよめることを懇願すること、自分の達成できないこと、自分にできないことを神に託し、神に依り頼み、神に望みをかけて、神に導き、解決することを懇願することです。聖書にこう書かれています。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:24)。これらを達成したら、神との正常な関係を保つことができます。

  第二に、神を信じる上での不正な意図を捨てるべきで、神と取引し、神を利用してはならず、またパンを求めて満腹するために神を信じてはならず、自分の利益のために考えてはならず、神の支配と按配に従わなければなりません。

  第三に、わたしたちは神を大いなるものとし、神を畏れなければならず、あらゆることで真理を求め、神に決めていただかなければなりません。わたしたちは喜んで神のしもべになるべきであり、神を認識し、本当に神を愛することを追い求めるべきです。

  第四に、わたしたちは神からの委託に絶対的に忠実でなければならず、サタンを見捨て、絶対的に神を礼拝しなければならず、あらゆることで真理を実行し、神のために証しをしなければなりません。

  わたしたちは、以上述べたことに結びつけて、自分がこれらを達成したかどうかを反省しましょう。もしこれらを達成していないなら、今から以上述べたことに基づいて実行し、できるだけ早く主と正常な関係を結ぶべきです。そうすれば、わたしたちは主に良しとされる人になれます。

 


神に祈るとき、この3つの点を理解することはとても重要です

2019-12-28 11:24:54 | 礼拝説教

   兄弟姉妹の皆さん:

   主にあって平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じています。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

   実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです

   主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなければならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかどうかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとさえします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。また、家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中で、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

 

 

第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです

   私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を頂いて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。….これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)

第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです

   恵みの時代の最初の段階で、神殿に聖霊の働きがあった頃を思い出してください。人々が罪を犯した時、彼らは聖霊による鍛錬を受けました。神様に仕える祭司が律法を守らなかったならば、天からまっすぐに火が降りてきて彼らを焼き殺しました。人々は非常に恐れ、神様を敬う心を持ったのです。けれども恵みの時代の後半になり、イエス様が現れて業を成されるようになると、ユダヤの人々は律法を守ることができず、神殿を両替や生活用品を売る場所として使ったのです。彼らは神殿を強盗の巣にしたのです。そこには聖霊の鍛錬はもはやありませんでした。聖霊はイエス様の働きを守るため、すでに神殿から離れていたので、神殿に残ってイエス様の救いを拒否した人々は神様の働きから排除され、闇に落ちました。たとえヤーウェの名で彼らが祈っても、神様は聞かれませんでした。彼らが聖霊の働きを得ることなど尚更ありませんでした。

   今日の教会に目を向けてみましょう。牧師や長老の説教は退屈です。新たな光などありません。兄弟姉妹はいのちを養われることはなく、彼らの霊は萎えて暗くなり、聖霊の存在を感じることができません。彼らは肉の欲と人生の楽しみとともに、地位と権力さえ欲し始めます。同僚の間には摩擦が起こります。彼らの罪は彼らに対して勝利を宣言し、彼らは主に負い目を感じることもなくなります。 神様の言葉に従うことはなく、神様の命令を守ることもしません。神様の旨を完全に損ない、神様を拒絶する者たちとなりました・・・このような教会と、律法の時代後期に存在した神殿との違いは何でしょうか? これは聖書の次の預言の完全なる成就です。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。 そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」事実、神様は恵みの時代の教会を去られました。多くの兄弟姉妹が、教会には既に聖霊の働きはなく、神様は御顔を隠されてしまったと感じているのです。それならばどうして私たちの霊が萎えずにいることができるでしょうか。それでどうして神様が私たちの祈りを聞くことができるでしょうか。

   これまで説明してきた3つの状況が、主が祈りを聞かれない主な理由です。私たちは主の前に出て主の意図を求め、これらの問題を振り返ってみるしかありません。また私たちは、主に聞いていただけるような祈りはどのようなものかを追求しなくてはなりません。これは私たちが学んで成長する必要のある真実です。それではここで、みなさんが神様の意図に沿って祈るにはどう祈ったら良いかを知るために三つの方法をご紹介します。私たちが毎日心から実行し、実践することができるのであれば、主は私たちの祈りを聞いて下さると私は信じています。

第1に、霊によって祈り、心から、真実の言葉をもって祈らなければならないということです

   私たちはみな神様が忠実なお方だと知っています。神様には不実も、偽善も嘘もありません。神様は私たちひとりひとりに誠実です。神様は私たちが誠実で正直な祈りをささげることを願っておられます。イエス様が次のように言われた通りです。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37) 従って、祈るときには、神様にありのままを話さなければなりません。私たちが弱ければ、弱いと素直に言うべきです。神様の意図に沿わないどんな考え、発想、痛み、困難、物事も、完全に心を開いて神様に話すべきです。他人に話すのは恥ずかしいような言葉や内容もありますが、それらを神様から隠すことはできません。私たちは神様に心を開いて正直に話すべきなのです。私たちが心を大きく開いて何も隠さず、心のままを率直に神様に話していることを神様が知るならば、神様は私たちが神様の意図と真理の全ての側面を理解するように導いて下さいます。そうすれば私たちは進むべき道を得るのです。

   加えて、祈るときには静まらなくてはなりません。私たちは心を集中させて祈らなければなりません。気持ち半分であったり、上の空で祈ったりしてはなりません。私たちは、親と話す時には、親を尊敬できます。親に対する態度は誠実です。親は私たちより年長で、育ててくれたからではないでしょうか。神様は私たちを造られ、いのちを与えられ、生活に必要な全てを与え、真理を与えて下さいました。そうであれば、神様を敬う気持ちで祈ることは尚更大切ではないでしょうか。何を祈るかに関わらず、私たちは熱心に神様の意図を求め、正直に思いと困難を伝え、神様の時を忍耐を持って待たなくてはなりません。そうして初めて、私たちは神様の啓きと導きを得、神様の意図を理解することができるのです。そうする時に、私たちの困難は、必要な時に解決されるのです。

第2に、私たちは被造物の立場に立ち、神様に要求をしないということです。これは、神様への服従心を持って祈るということです

   祈るときには、私たちは被造物であり、神様が創造主であることを明確に知っていなければなりません。神様は全てのことと全てのものを御手に握っておられます。私たちの全ては主の御手に支配されています。私たちが日々直面することは、事の大小を問わず、全て神様の采配によるのです。私たちが神様に祈る時には、被造物としての立場にしっかり立ち、熱心で従順な態度で神様の御心を求めなければなりません。神様に何ら要求をしてはなりません。例えば、困難に直面してどうして良いか分からない時、次のように祈ることができます。「神様。この事に関して、一体何が真実なのか分かりません。あなたの意図に沿うにはどうすべきなのか分かりません。けれども、わたしはあなたの言葉を求め、あなたの求めに応じて物事を行い、あなたの意図を満足させたいと願っています。どうか私を啓き導いてください。アーメン。」私たちの心に神様の場所があり、被造物としての立場に立って祈り、ひれ伏し、創造主に礼拝を捧げる時、そして神の働きに従ってその御言葉を実践する時に初めて、神様との正常な関係を築くことができ、聖霊の働きを得ることができるのです。ヨブが神を畏れて悪を避ける人であったことはみな良く知っています。ヨブが自分の家畜、息子、娘達をすべて失った時、そして体中が腫れ物に覆われて激しい痛みに耐えていた時、ヨブは神様が万物の支配者であり、神様の許しなしにはそのような事が自分に降りかかることはないと信じました。それだけではなく、自分の命も含めて、所有物のすべてが神様によって与えられたものだということを知っていました。神様がいつそれを取り上げても、自然で正しいことだと知っていました。ですから、ヨブは神様に不平を言うことも神様に何かを要求することもありませんでした。それ故ヨブは、膝をかがめ、服従の心を持って神様を礼拝し、次のように祈ったのです。 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。(ヨブ記 2:10)ヨブは堅く立って、神様に対する証しとなりました。ヨブの理性と神様への服従は神様からの称賛を得ました。私たちもヨブと同じような姿勢で神様に向かうことができたならば、心に神様の居場所があり、どのような困難に出会おうとも神様への服従心によって祈ることが出来、神様は私たちを導き、啓き、真理を理解できるようにして下さいます。私たちの霊は研ぎ澄まされ、思考がはっきりとしてきます。私たちが何らかの堕落を現わしたり、良くない状況になったりした時、それを自覚して適切に対処することが容易になります。そうなれば、神様は更に私たちに近づいてくださり、いのちの成長は更に速くなります。

第3に、私たちの教会に聖霊の働きがないのであれば、それを求める祈りを捧げなければならないということです

   律法の時代の後期、サタンにより人間は益々堕落したことを私たちは知っています。人は罪の中に生き、律法によって罪に定められて死に追いやられる危機に直面しました。しかしその後神様は、イエスの名によって律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始められ、人類を贖う働きをされました。以降、ユダヤ教は完全に神の栄光の存在を失いました。主イエス様の名と業を受け入れなかった者はみな、たとえどのような状況にあったとしても、どのような祈りを捧げ、ヤーウェである神様に訴えたとしても、神様はその祈りを聞かれることはなく、そのような者たちが聖霊の働きを得ることはありません。けれども、イエス様の新しい働きを受け入れてイエス様の名によって祈る者はみな、神様の泉からの生ける水による養いを楽しみます。彼らが主に呼ぶならば、神様の業を見ることができ、聖霊の業が彼らに伴うでしょう。

   今日、主イエス様の御名によって私たちがどう祈ろうとも、私たちが聖霊の働きを感じることはなく、神様の存在を感じることはできません。いのちを養っていただくことはできず、罪を犯しても鍛錬を受けることもありません。聖霊の働きがまたしても離れてしまった可能性が大いにあります。聖書は次のように言っています。 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48) 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)これらの聖句から、終わりの日に神様が再び戻られ、裁きの業の段階を実施されることが分かります。主は忠実なお方です。主が成就すると言われることは成就します。私たちは神様に求めて祈り、いのちの泉へと導いて下さるように願い、神様によって潤され養われ、そして主の足跡を辿るようにしなければなりません。私たちが心に飢え渇きを覚えて求めるならば、神様の導きを得ると私は信じます。神様は次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)

   主の導きに感謝します。本日皆さんと分かち合った、祈り方に関する内容が一人ひとりにとって益となることを願います。祈りは神様との正常な関係を築く上で重要なステップです。それはまた、聖霊の働きを得る上で要となる道でもあります。主からの応答を受け取るにはどう祈れば良いかを理解し、従うべき実践の道を得て頻繁に実践するときに初めて、主は私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちの祈りが早く神様の意図と一致することを願います。

   すべての栄光が神様にありますように。


神に祈るとき、この3つの点を理解することはとても重要です

2019-12-28 11:24:54 | 礼拝説教

   兄弟姉妹の皆さん:

   主にあって平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じています。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

   実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです

   主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなければならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかどうかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとさえします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。また、家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中で、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

 

 

第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです

   私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を頂いて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。….これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)

第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです

   恵みの時代の最初の段階で、神殿に聖霊の働きがあった頃を思い出してください。人々が罪を犯した時、彼らは聖霊による鍛錬を受けました。神様に仕える祭司が律法を守らなかったならば、天からまっすぐに火が降りてきて彼らを焼き殺しました。人々は非常に恐れ、神様を敬う心を持ったのです。けれども恵みの時代の後半になり、イエス様が現れて業を成されるようになると、ユダヤの人々は律法を守ることができず、神殿を両替や生活用品を売る場所として使ったのです。彼らは神殿を強盗の巣にしたのです。そこには聖霊の鍛錬はもはやありませんでした。聖霊はイエス様の働きを守るため、すでに神殿から離れていたので、神殿に残ってイエス様の救いを拒否した人々は神様の働きから排除され、闇に落ちました。たとえヤーウェの名で彼らが祈っても、神様は聞かれませんでした。彼らが聖霊の働きを得ることなど尚更ありませんでした。

   今日の教会に目を向けてみましょう。牧師や長老の説教は退屈です。新たな光などありません。兄弟姉妹はいのちを養われることはなく、彼らの霊は萎えて暗くなり、聖霊の存在を感じることができません。彼らは肉の欲と人生の楽しみとともに、地位と権力さえ欲し始めます。同僚の間には摩擦が起こります。彼らの罪は彼らに対して勝利を宣言し、彼らは主に負い目を感じることもなくなります。 神様の言葉に従うことはなく、神様の命令を守ることもしません。神様の旨を完全に損ない、神様を拒絶する者たちとなりました・・・このような教会と、律法の時代後期に存在した神殿との違いは何でしょうか? これは聖書の次の預言の完全なる成就です。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。 そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」事実、神様は恵みの時代の教会を去られました。多くの兄弟姉妹が、教会には既に聖霊の働きはなく、神様は御顔を隠されてしまったと感じているのです。それならばどうして私たちの霊が萎えずにいることができるでしょうか。それでどうして神様が私たちの祈りを聞くことができるでしょうか。

   これまで説明してきた3つの状況が、主が祈りを聞かれない主な理由です。私たちは主の前に出て主の意図を求め、これらの問題を振り返ってみるしかありません。また私たちは、主に聞いていただけるような祈りはどのようなものかを追求しなくてはなりません。これは私たちが学んで成長する必要のある真実です。それではここで、みなさんが神様の意図に沿って祈るにはどう祈ったら良いかを知るために三つの方法をご紹介します。私たちが毎日心から実行し、実践することができるのであれば、主は私たちの祈りを聞いて下さると私は信じています。

第1に、霊によって祈り、心から、真実の言葉をもって祈らなければならないということです

   私たちはみな神様が忠実なお方だと知っています。神様には不実も、偽善も嘘もありません。神様は私たちひとりひとりに誠実です。神様は私たちが誠実で正直な祈りをささげることを願っておられます。イエス様が次のように言われた通りです。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37) 従って、祈るときには、神様にありのままを話さなければなりません。私たちが弱ければ、弱いと素直に言うべきです。神様の意図に沿わないどんな考え、発想、痛み、困難、物事も、完全に心を開いて神様に話すべきです。他人に話すのは恥ずかしいような言葉や内容もありますが、それらを神様から隠すことはできません。私たちは神様に心を開いて正直に話すべきなのです。私たちが心を大きく開いて何も隠さず、心のままを率直に神様に話していることを神様が知るならば、神様は私たちが神様の意図と真理の全ての側面を理解するように導いて下さいます。そうすれば私たちは進むべき道を得るのです。

   加えて、祈るときには静まらなくてはなりません。私たちは心を集中させて祈らなければなりません。気持ち半分であったり、上の空で祈ったりしてはなりません。私たちは、親と話す時には、親を尊敬できます。親に対する態度は誠実です。親は私たちより年長で、育ててくれたからではないでしょうか。神様は私たちを造られ、いのちを与えられ、生活に必要な全てを与え、真理を与えて下さいました。そうであれば、神様を敬う気持ちで祈ることは尚更大切ではないでしょうか。何を祈るかに関わらず、私たちは熱心に神様の意図を求め、正直に思いと困難を伝え、神様の時を忍耐を持って待たなくてはなりません。そうして初めて、私たちは神様の啓きと導きを得、神様の意図を理解することができるのです。そうする時に、私たちの困難は、必要な時に解決されるのです。

第2に、私たちは被造物の立場に立ち、神様に要求をしないということです。これは、神様への服従心を持って祈るということです

   祈るときには、私たちは被造物であり、神様が創造主であることを明確に知っていなければなりません。神様は全てのことと全てのものを御手に握っておられます。私たちの全ては主の御手に支配されています。私たちが日々直面することは、事の大小を問わず、全て神様の采配によるのです。私たちが神様に祈る時には、被造物としての立場にしっかり立ち、熱心で従順な態度で神様の御心を求めなければなりません。神様に何ら要求をしてはなりません。例えば、困難に直面してどうして良いか分からない時、次のように祈ることができます。「神様。この事に関して、一体何が真実なのか分かりません。あなたの意図に沿うにはどうすべきなのか分かりません。けれども、わたしはあなたの言葉を求め、あなたの求めに応じて物事を行い、あなたの意図を満足させたいと願っています。どうか私を啓き導いてください。アーメン。」私たちの心に神様の場所があり、被造物としての立場に立って祈り、ひれ伏し、創造主に礼拝を捧げる時、そして神の働きに従ってその御言葉を実践する時に初めて、神様との正常な関係を築くことができ、聖霊の働きを得ることができるのです。ヨブが神を畏れて悪を避ける人であったことはみな良く知っています。ヨブが自分の家畜、息子、娘達をすべて失った時、そして体中が腫れ物に覆われて激しい痛みに耐えていた時、ヨブは神様が万物の支配者であり、神様の許しなしにはそのような事が自分に降りかかることはないと信じました。それだけではなく、自分の命も含めて、所有物のすべてが神様によって与えられたものだということを知っていました。神様がいつそれを取り上げても、自然で正しいことだと知っていました。ですから、ヨブは神様に不平を言うことも神様に何かを要求することもありませんでした。それ故ヨブは、膝をかがめ、服従の心を持って神様を礼拝し、次のように祈ったのです。 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。(ヨブ記 2:10)ヨブは堅く立って、神様に対する証しとなりました。ヨブの理性と神様への服従は神様からの称賛を得ました。私たちもヨブと同じような姿勢で神様に向かうことができたならば、心に神様の居場所があり、どのような困難に出会おうとも神様への服従心によって祈ることが出来、神様は私たちを導き、啓き、真理を理解できるようにして下さいます。私たちの霊は研ぎ澄まされ、思考がはっきりとしてきます。私たちが何らかの堕落を現わしたり、良くない状況になったりした時、それを自覚して適切に対処することが容易になります。そうなれば、神様は更に私たちに近づいてくださり、いのちの成長は更に速くなります。

第3に、私たちの教会に聖霊の働きがないのであれば、それを求める祈りを捧げなければならないということです

   律法の時代の後期、サタンにより人間は益々堕落したことを私たちは知っています。人は罪の中に生き、律法によって罪に定められて死に追いやられる危機に直面しました。しかしその後神様は、イエスの名によって律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始められ、人類を贖う働きをされました。以降、ユダヤ教は完全に神の栄光の存在を失いました。主イエス様の名と業を受け入れなかった者はみな、たとえどのような状況にあったとしても、どのような祈りを捧げ、ヤーウェである神様に訴えたとしても、神様はその祈りを聞かれることはなく、そのような者たちが聖霊の働きを得ることはありません。けれども、イエス様の新しい働きを受け入れてイエス様の名によって祈る者はみな、神様の泉からの生ける水による養いを楽しみます。彼らが主に呼ぶならば、神様の業を見ることができ、聖霊の業が彼らに伴うでしょう。

   今日、主イエス様の御名によって私たちがどう祈ろうとも、私たちが聖霊の働きを感じることはなく、神様の存在を感じることはできません。いのちを養っていただくことはできず、罪を犯しても鍛錬を受けることもありません。聖霊の働きがまたしても離れてしまった可能性が大いにあります。聖書は次のように言っています。 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48) 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)これらの聖句から、終わりの日に神様が再び戻られ、裁きの業の段階を実施されることが分かります。主は忠実なお方です。主が成就すると言われることは成就します。私たちは神様に求めて祈り、いのちの泉へと導いて下さるように願い、神様によって潤され養われ、そして主の足跡を辿るようにしなければなりません。私たちが心に飢え渇きを覚えて求めるならば、神様の導きを得ると私は信じます。神様は次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)

   主の導きに感謝します。本日皆さんと分かち合った、祈り方に関する内容が一人ひとりにとって益となることを願います。祈りは神様との正常な関係を築く上で重要なステップです。それはまた、聖霊の働きを得る上で要となる道でもあります。主からの応答を受け取るにはどう祈れば良いかを理解し、従うべき実践の道を得て頻繁に実践するときに初めて、主は私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちの祈りが早く神様の意図と一致することを願います。

   すべての栄光が神様にありますように。


人間関係に疲れた時、クリスチャンが持つべき4つの原則

2019-12-27 23:04:01 | 礼拝説教

   対人関係の問題は多くの人々にとって頭痛の種となります。そして対人関係は、クリスチャンが人生を通じてしばしば直面する問題でもあります。主イエスは、私たちが互いに調和し、自分と同じように他の人を愛することを求めておられます。そして多くのクリスチャンが、その主の教えを実践しようとします。けれども現実的には、私たちの人間関係には多くのぶつかり合いや誤解が生まれ、互いの関係がぎこちなくなり、崩れてしまいます。これは誰にとっても辛いことです。では、互いに調和できない原因は何でしょうか。主の意図に沿った人間関係を、私たちクリスチャンはどう築けば良いでしょうか。これは私自身もこれまで困難を覚えてきた問題です。私を神様が導いて下さったことに感謝します。その後、私はある本の中に解決を見出すことができました。その経験と私が理解したことをここでご紹介します。

1.誰に対しても公平・公正でなくてはならない。感情や好みで対応してはならない。

   イエスは言われました:「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書 5:46-48)この主の言葉から、クリスチャンは人生において、神様の言葉に沿った接し方をするよう求めておられます。自らの感情により、好んでそうしなければなりません。 私たちがどう周囲の人たちと接するかを考えてみると、自分たちに利益になったり助けになったりする場合は、相手に対して嬉しかったり感謝したりします。ところが、相手に傷つけられた場合、不愉快になってその後無視したりします。自分が好む相手であれば、その人に近づき、誘い込んだりします。好まない相手であれば、無視して近づきません。相手が高い地位にある人であれば、こびへつらい、ご機嫌を取ろうとします。地位も権力もない相手であれば、拒んで軽んじます。自分が好感を抱いている相手が自分の欠点を指摘した場合は受け入れることができます。けれども、そうでない相手が同様のことをしたならば、受け入れることができず、自分を義とし、言われたことに憤慨さえして相手に敵対し、攻撃したりします。これらはどれも、自分の感情や好みで接しており、公平に接していないことの例です。これはまた、未信者の接し方でもあります。クリスチャンがこのように接したならば、未信者と同じ道を歩んでいるのであり、主を信じる者と言われる価値はなく、そのような者は神様の意図に沿った行動ではありません。主を信じる者として、私たちは主の教えを実践しなくてはなりません。自分を愛するように、他の人たちも愛さなくてはなりません。優れた人間性を持ち合わせていれば、神様を純粋に信じ、真理を愛し、自分の好みに合うかどうか、気性、性格に合うかどうか、普通の兄弟姉妹か教会のリーダーであるかどうかに関係なく、心から、分け隔てなく接するべきです。相手に寛容と愛を示すべきです。欺いたり差別したりしてはなりません。このようなことを守って初めて、神様の意図と一致するのです。

2.相手の欠点を正しく指摘し、腐敗した部分を明らかにする。気まぐれに決めつけたり裁いたりしてはならない。

   イエスは次のように言われました:「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書 7:1-2)このイエスの教えにより、私たちはみなサタンに堕落させられた者だと理解することが出来ました。私たちの堕落した性質はみな同じなのです。周りの人々が傲慢さやうぬぼれ、利己主義や卑しむべきサタンの性質を現わしたならば、私たちも同様の性質を現わしかねないということです。私たちも周りの人たちと同じような欠点を持っているのです。周りの人たちより優れている訳ではないのです。もし欠点や腐敗によって相手を裁いたり決めつけたりするならば、私たちは真に傲慢で自分を知らなすぎるということなのです。ですから、周りの人たちがどのように堕落しているか、どのような罪を現わすかにかかわらず、私たちは正しい接し方をし、勝手に裁いたりその人をどのような人か決めつけたりしてはいけないのです。イエスが罪人に対してどのように接したか、聖書に書かれていることを思い出してみてください。「パリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』。…イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』。」(ヨハネによる福音書 8:3-11参照)この句から、サタンによって堕落させられ、罪に生きる人々の痛みと無力さを、イエスが理解していたことが分かります。イエスは人間の弱さに哀れみを感じられたのです。私たちの堕落が露わになったり、罪を犯したりした時に心から悔い改めるなら、神様は悔い改めて私たちが変わる時間を下さいます。我達もイエスに倣い、他の人の欠点や堕落した部分を正しく示さなければなりません。進歩という観点から、他の人たちを見なければなりません。これは、クリスチャンがその人生の中で、他の人たちに接する際の原則でもあります。もし私たちが他の人に厳しい姿勢を取り、あれこれと細かいことにこだわり、勝手に裁いたりするのであれば、そして、相手がどのような人間かを決めつけて、欠点を見てどうしようもない人間だと結論付けるのであれば、それは傲慢とうぬぼれによる腐敗した性質によって接していることになります。あなたがそのような事をするのであれば、神様の意図に沿ってはおらず、周りの人たちと正常な関係を持つことはまず出来ません。

   私の経験をいくつか紹介したいと思います。私たちの教会には、ご主人が未信者であるために集会に間に合うように来ることができない姉妹がいました。私はこの姉妹と何度も話しをしましたが、彼女は否定的な生き方をして信仰は弱いままでした。私はそのことに酷い怒りを感じ、彼女のことを、心から神様を信じることが出来ない人と決めつけました。もう彼女のことを助けることもサポートすることもしなくないと思いました。その後、聖書の中の次の言葉を読みました。「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ人への手紙 14:3-4)私はとても恥ずかしくなりました。私は自分が打ちのめされ、否定的で霊的に弱っていた時のことを考えました。神様は兄弟姉妹の気持ちに触れて、彼らが何度も私のところへ来て神様の言葉を読むようにされました。彼らは私と交わり、自分たちの経験を分かち合い、そうすることで私を助け、支えようとしました。神様の言葉による導きがなければ、私は揺るぎなく立っていることはできなかったのです。私自身に自慢できるものなどなかったのです。そしてこの姉妹はその時、ご主人の妨害により、集会に来ることが出来ませんでした。その姉妹を、愛の心をもって私は助けなければならなかったにも関わらず、彼女の生活に配慮してあげることができませんでした。私は彼女を避け、純粋に神様を愛してはいないと決めつけたのです。自分自身を考えた時、私は自分が非常に傲慢だと感じました。この姉妹のことに、愛と寛容を持って対応していませんでした。私のしたことで神様の意図に沿ったものは何一つありませんでした。それに気づいた私は、神様の前に罪を悔い改めて言いました。「私は喜んでこの姉妹を助け、支えようと思います。その後私は、愛の心で神様の言葉をこの姉妹に伝え、自分の経験と理解したことを伝えました。何度か彼女と交わりを持つうちに、彼女はご主人からの束縛から解放され、徐々にその状態は改善されていきました。この経験から、兄弟姉妹がどのような欠点や弱さを持っていても、そしてどのような堕落を示しても、心から神様を信じ、過ちを犯した時に悔い改めるなら、神様は変わる機会を与えて下さることを学びました。ですから、私たちも愛をもって他の人々を助け、赦し、神様の要求に沿って一人ひとりに接しなければならないのです。決して気まぐれに人を決めつけたり裁いたりしてはいけないのです。これが、公平に、そして神様の意図に沿って人に接するということです。

 


 

3.他の人たちを過大評価しても、過小評価してもいけない。他の人たちの長所から学び、それによって自分の弱さを改善しなさい。

   聖書は次のように言っています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ人への手紙 2:3)神様は一人ひとりに違う力量、能力と長所を与えられました。それ故、他の兄弟姉妹に謙虚な心で接し、相手の長所も短所も、正しく見なければなりません。他の人を過大評価しても、過小評価してもいけません。他の人の長所を吸収し、自分の短所を補うべきです。もしも、自分の力や力量、能力が理由で他の人たちを見下し、どこまでも自分を過大評価し、その結果自己顕示したり、自慢したり、他人を裁いたり、軽んじて傷つけたりするならば、それは私たちの傲慢とうぬぼれで堕落した本性に支配されているということです。クリスチャンがそのように生きるべきではありません。例えば以前私は、一緒に働いている姉妹よりも自分の方が優れているといつも思っていました。そのために彼女を見下していました。私たちが一緒に働く時は、意識的であれ無意識であれ、私は自己顕示し、私の心はプライドに満ちていました。私の堕落した性質故に、神様が私を嫌うようになり、私から顔を隠すようになってしまったのです。私の魂は暗くなり、落ち込みました。私は働きの中で、自分では見つけることのできない明らかに問題といえることが多く発生するようになる一方で、その姉妹の働きは徐々に向上していきました。私はイエス様の次の言葉を思いました。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイによる福音書 23:12)この時私は、自分がそれほど傲慢であるかを知りました。私は自分が分かっていませんでした。私の働きがある程度の結果を生み出していたことも、私が問題を見つけることが出来たことも、聖霊の働きだったというのが事実です。それでも私は、神様の栄誉を自分のものとし、非常に自己満足し、自分に感心していました。兄弟姉妹を見下していました。私にはまったく分別がなかったというのが実際のところです。同時に、私は心の中の執着を捨てる必要があることを分かっていました。姉妹の長所から得るものを吸収し、自分の短所を補うようにすべきでした。それができて初めて、神様は喜ばれ、私のいのちも成長を続けるのです。私はそれを実践し始めました。理解できない問題がある時は、その姉妹に助言を求めました。私が問題に直面したならば、彼女と話し合いました。そうする中で、私は彼女が、私にはない多くの長所があることに気づきました。私はとても恥じ入りました。そしてまた、私の短所を補うように、神様がこの姉妹と共に働くようにされたのだと分かりました。私たちに神様が託された働きを、協力して行うことを神様は望まれているのです。徐々に、私と姉妹の関係は改善され、私は再び聖霊の働きを受けることができました。

4.自分の考えに合致しない考えを他の人たちが持っていると気づいた時には、その人のことを見てばかりいてはならない。むしろ自分を意識して真理を実践しなければならない。

   イエスは言われました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイによる福音書 7:3-5)私たちが他の人達と接する時、摩擦や偏見は避けられません。そのような時、相手が間違えているとむやみに考えて、いつも相手が間違えていると決めつけてはいけません。むしろ神様の前に出て、神様の言葉の中に真理を求め、自分の問題はどこにあるのかを見つけることができるようにすべきです。神様の意図が理解でき、自らの堕落した性質を理解できたならば、相手の立場に立って物事を見ることができるようになります。私たちは他の人たちを理解できるようになり、共感できるようになり、忍耐深くなります。そうするとき、自然に相手に対する偏見が激減するのです。

   この点に関して、私は意味深い経験をしました。一緒に働いたある姉妹が、教会の働きに対して、私が重荷を負っていないと何度も指摘したことを覚えています。けれども、私はそれを神様からのものと受け取ることができなかったばかりか、この姉妹が故意に私のあら探しをして私を生きづらくさせていると疑いました。私の中に彼女に対する偏見が膨らんでいき、もうこの姉妹と働きをしたくないと思うようになりました。私は神様の言葉を読み、神様の意図を探りました。そして、私は自分の傲慢でうぬぼれたサタンの性質に支配されており、この姉妹の助言を受け入れることができなくなっていたことを知りました。そして彼女に対して疑い深くさえなっていました。それが原因で、彼女との正常な関係が持てなくなっていたのです。同時に、日々私が出会う人々や出来事、物事はすべて神様によって指示され、定められていることを知りました。神様が、これらのことを事細かに用意され、それによって私を変え、救おうとされたのであって、その姉妹が意図的に私にたいして面倒を起こそうとしていたのではなかったのです。私は神様に従い、自分の心の中の執着を捨て、彼女の正しい助言を受け入れることを学ぶ必要がありました。その後、私は神様の前に出て、自分を省みました。姉妹の助言を通して、確かに自分が教会の働きの重荷を担っていないことに気づきました。私はリーダーが用意した働きをし、自分が更に良い働きをしようと考えたことはありませんでした。神様の意図が理解できてからは、神様の要求に従って物事を進めました。私は前向きに、そして束縛されずに自分の堕落をこの姉妹の前で明らかにし、神様に対してもっと多くの責任を与えて下さるよう願いさえしました。何かあれば、どうしたらもっと教会の益となることができるかを考えるようになりました。このように実践することで、この姉妹との間のかつての誤解は解けていきました。私たちは霊的に繋がり、かつての調和を取り戻すことができました。

   実践に関する4つの原則は、私が自分の経験から学んだことです。私は、神様の言葉がクリスチャン生活の導きの光であることを真に経験しました。神様の言葉は私たちにとって羅針盤です。神様の言葉による導きがなければ、私たちは進む道はありません。私たちがすべきことは神様の教えを実践し、全ての人に対して公平であることです。そうして初めて、私たちは真の人間らしさを生きることができ、他の人達と強調することができ、他の人に益をもたらすことができ、神様に満足していただき、褒めていただくことができるのです。神様の導きに感謝します。全ての栄光は神様にあります!