賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神の御言葉は本当に聖書以外には存在しないのでしょうか(II)

2020-07-28 23:48:13 | 聖書と神

   彼が交流した後、私はびっくりしてこう思いました:「長年に渡って主を信仰してきたけど、こんな説教は一度も聞いたことがないわ。彼の交流は合理的だし、実情をとらえているわ。彼はどうやってこんなに多くのことを理解しているのかしら?」

   彼は私の心を悟ったかのように話し続けました、「私は神の御言葉を読んでいますから、たくさん理解して、こういった知識を得ることができているんです。神の御言葉がその奥義を明らかにしてくださらなかったら、誰も神の御言葉を理解できないでしょう」そして、彼は神の御言葉のこの段落を読んでくれました、「イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、その権威──律法の時代には、誰一人これをしなかった。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。…人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあった。これは愚行ではないか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。」

   そうです!神がどのように働かれるかは神のご自由なのです。神は聖書以外の働きをする権利をお持ちで、神の働きを聖書に制限する権利など私たちにないのです。こう考えはしたものの、私は盲目に聖書を崇拝していたため、すぐには自分の観念を捨てることはできませんでした。後に、兄弟姉妹たちは、神が終わりの日に新たな働きをするために再臨されるということに関して記述した聖句を根気強くたくさん検索し、それらをまとめて終わりの日の全能神の裁きの働きを証言してくれました。彼らの説教を聞いて、私はそれが合理的であると思った上に、心の中で彼らの交流内容に納得していたのですが、自分が間違っていたことは認めたくなかったので、「ひょっとしたら彼らが読んでいる聖書は私が読んでいる聖書とは違うんじゃないかしら?」と考えたりしていました。

   私は帰宅すると、急いで聖書のページをぱらぱらとめくり、彼らが交流していた聖句を注意して読みました。私は彼らが証言した裁きの働きは聖書に記された預言を完全に成就していたことを知りました。私は思わずショックを受けて「全能神が主の再臨だなんてことがあり得るのかしら?」、と考えました。私はこう考えた時、急いで跪いて主に祈りました、「主よ!今日私は全能神教会から来た兄弟姉妹の交流を聞きました。私はそれがとても啓蒙的で、私が長年に渡って聖書を読んで理解していたものではないと感じました。全能神の御言葉は真理で間違いありません。主よ!私は依然として全能神があなたの再臨であると確信しきることができません。どうか私に啓示と導きをお与えください。私はこのまま調査を続けていきます。」

聖書から外れるものは全て異端でしょうか?

 


   2日目、私の友人と私は一緒に全能神教会に足を運びました。兄弟姉妹たちは私たちを温かく迎え入れたくれると、『聖書の奥義を解く』と題した映画を見せてくれました。主人公は私と同じ考えを持っていたので、私はとても興味を持ちました。彼女も、「聖書以外に神の御言葉は存在しない、聖書に書かれていないものは全てが異端である」、と考えていたのです。この映画の中で私の心を特に動かしたのは、全能神教会の兄弟がこの観点について彼女に話した内容でした。彼はこう言ったのです。「聖書に詳しい人たちには有名なことですが、聖書を編集する過程において、編集者たちの論争や不注意のため、預言者が伝達した一部分の御言葉は旧約聖書に収録されていません。これは公認の事実です。可能性として聖書以外にも神様の働きと言葉はあります。では、収録されていない預言は御言葉ではないと言えますか?そして新約聖書では御言葉のすべてを収録できたのですか?聖書に言われたとおり、『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。』(ヨハネによる福音書21章25節)これは主イエスの働きと言葉が新約聖書以外にもあるということです。だから、『聖書以外に神様の働き、言葉はない』とは事実に合いません。兄弟姉妹、さらに新約聖書、旧約聖書はともに神様の一段階の働きが終わった、その後に人間が記したもの。最初には旧約聖書しかなく、主イエスの働きと言葉は旧約聖書にはありません。聖書を超えると異端だと言うなら、主イエスもまた異端だということになる。この事実から『聖書以外には神様の働きと言葉はなく聖書を超えると異端だ』という言い方には何ひとつ根拠がないことが分かります。」

   私は観賞しながらこう考えました:「その通りだわ。旧約聖書にヤーウェ神の御言葉全ては記録されていないのよ。だって、ヤーウェ神は何千年にも渡って地上で人類の生活を導かれ、ヤーウェ神が預言者たちを通じて宣べ伝えられた御言葉は旧約聖書に記されたものより遥かに多かったからよ。そして、主イエス様は3年半に渡って宣教されている訳だから、聖書に記述されている御言葉だけを仰せられていたはずがないわ。だから、私は結論を急いだりしないで、全能神の働きを注意して扱うべきだわ。」こうして、私は次の展開を見るのが待ちきれなくなりました。

   「私たちは以前から聖書を読むことに慣れてはいますが、聖書の実相を明確に理解できていませんでした。しかし、今日、全能神のこの御言葉がその全てを明らかにしてくださっています。『 聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。』兄弟姉妹の皆さん、全能神の御言葉より、聖書は神が過去になされた働きの歴史的記録であり、人間を救うことはできないということが分かります。聖書を神と比較することは全くできないのです。神はいのちの生ける水の泉であり、神の御言葉には終わりがなく、その流れが止まることは決してありません。しかし、聖書の記録は非常に限られています。これは誰も否定できない事実です。兄弟姉妹の皆さん、神は常に新しく、古いことは決してありません。神は各時代において、新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられます。主イエス様は恵みの時代に新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられました。しかし、当時のユダヤ教の祭司とパリサイ人は旧約聖書の内容に固執し、主イエス様の働きを拒み、非難しただけでなく、主を十字架に釘付けにすらしてしまい、重大な罪を犯しました。今現在、全能神、すなわち終わりの日のキリストは人類を救い清めるための真理を全て表されましたが、それらは聖書に全く記されていないものです。それらは記録されていないので、聖書は終わりの日の神の働きと神の御言葉全てを示すことはできないのです。兄弟姉妹の皆さん、いつまでも聖書に固執していてはいけません。私たちは神の現在の御心と聖霊の働きを探求する必要があります。それのみが、神の御心に即しているのです。」

   そして、全能神の御言葉と兄弟の交流に従い、私は注意深くこのように熟考しました:「神の働きは常に前に進んでいるんだわ。神の働きと御言葉が旧約聖書の内容に制限されていて、神が恵みの時代に贖いの働きをされていなかったら、私たち人類は律法の下に生きて、律法を守れないことを理由に有罪となって、処刑されていたはずだわ。もしそうなっていたら、人類は今日まで発展してくることができなかったはずだわ。今の教会の状態を目前に、主が終わりの日に再臨して人類を裁き清める働きをされなかったら、私たちは罪の中に生きることを余儀なくされて、罪から脱却できなくなってしまうわ。体中が堕落した私たちに、来臨される主の御顔を見る資格なんてあるはずがないわ。」私は熟考すればするほど、心の中で増々啓発を受けた気分になり、以前はおかしな観点に固執していたものだと感じました。

観念を捨て、子羊の足跡を辿りました

   映画を見た後、私の頭にはまだそのストーリーが残っていました。私が以前固執していた観点は全能神の御言葉によって覆されたのです。私は思いました。「神の御言葉はとても明確だわ。頑なに自分の観点に固執していたら、私も当時主イエス様に抵抗し、主を非難したパリサイ人と同じということにならないかしら?私は神に忌嫌われ、退けられ、呪われてしまうわ!」こうして、私は全能神教会に頻繁に足を運んで探求して、調査する決意をし、全能神が主イエス様の再臨であると確信できれば、全能神を受け入れて、以前の教会にはもう行かないことにしました。

   その後、彼らは、『小羊が開いた巻物』と題した本を私にくれました。全能神の御言葉は私たちの考え、誤った動機、そして傲慢さ、うぬぼれ、欺き、身勝手さ、そして卑劣さといった、私たちの堕落した性質を明らかにされるということを私は知りました。私はそれを読めば読むほど、神のみが人類の心の奥底を調べ、私たちの誤った動機と堕落の全てを暴露することがおできになるのだから、全能神の御言葉は聖霊、そして神から来るものであるということを増々認識しました。さらに、聖書の本質と奥義、神の三段階の働き、神への真の信仰、そしてどのような人が天国に入れるのか等、全能神は本当に多くの真理を表してくださっているのです。私は今まで主を信仰してきて、このような真理を一度も耳にしたことがありませんでした。これらは私を完全に目覚めさせてくださり、聖書に記されたこの御言葉を完全に成就しているのです、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)私は全能神の御言葉を読んで、全能神が主イエス様の再臨であると確信しました。私は生きている間に主の再臨をお迎えできるとは思っていなかったので、心がとても興奮しました。私は全身全霊をかけて全能神について行く決意をしました。

   私は神が愛に満ちた心で私を助けるためにたくさんの兄弟姉妹たちを動かして、私が幸運にも神の働きを受け入れられるようにしてくださったことを感謝しました。私は全能神の御言葉を読み、僅か数か月の間に宗教界で10年かけて学んだことよりも多くのことを学びました。神の御言葉は正に生ける水の泉であり、常に絶えることなく私たちを備えくださっているということを私は知りました。振り返ると、私はむやみに牧師の言葉を信じ、自分の観念と想像まかせに神の御言葉を聖書の中だけに制限していました。私は完全に理知を欠いていたのです。私は神が私を救ってくださり、私の誤った観点を覆してくださったおかげで、主の再臨を逃さずに済んだことを感謝しています。神に感謝です!全ての栄光、神にあれ!終わり。


神の御言葉は本当に聖書以外には存在しないのでしょうか(I)

2020-07-27 23:09:10 | 聖書と神

教会は荒廃し、私は主の再臨を予期しました

   私は16歳の時、主の信仰を始めました。当時、私は教会に足を運ぶ度に心がとても穏やかになりました。特に、神を称賛する讃美歌を耳にした時は喜びを感じ、主の愛情にしばしば感動させられていました。これ故に、私は両親からどのように妨げされても教会に通い続けたのです。聖書を読んでいると、神は人類を救うためにたくさんの働きをなされ、更に、神は私たちを罪から贖うために、自ら十字架に釘付けにされて罪の捧げものになられたということを、私は少しずつ理解していきました。そして、主イエス様は終わりの日に再臨されて私たちを天国に引き上げてくださるとお約束されたのです。従って、私の信仰はさらに厚くなり、私は神に必ずついて行こうと決心しました。

   私は大人になった後、熱意をもって真理を追い求め、積極的に教会の事務業務を担い、さまざまな教会の活動をまとめ、積極的に兄弟姉妹たちに仕えました。私は毎日仕事を終えて、夜になると教会に行き、しばらく聖書を読んでから家に帰っていました。なぜなら、私は聖書のみが私の生活の備えであり、真理の全てが聖書に書かれており、そして、その御言葉は私の足元のランプであり、私の道を照らす光であると、固く信じていたからです。これ故に、私は聖書を読み、祈り、仕えるということを貫き、心の中ではとても平安で豊かな気持ちがしていました。

 


   知らぬうちに、教会の状態は日に日に悪化していきました。兄弟姉妹の多くは消極的になり、薄弱していき、集会に参加しなくなる人たちまでいました。牧師たちも毎回聖書の節を文字通りの意味で繰り返し宣教しているだけでした。さらに、彼らは兄弟姉妹たちの抱える困難を解決することもできませんでした。また、私は備えを得ることができず、魂が干からびてしまい、主の御前で感じる喜びと平安も感じなくなりました。次第に、主を礼拝するための集会も単なる儀式と化してしまいました。当時、私は頻繁に主に祈り、信仰と力を与えてくださるよう請いました。しかし、私はどのように祈りを捧げても、以前のように主を切望し、探求する気力を奮い起こすことはできませんでした。私は主が早く来てくださり、主がおられないこの悲観的で意思薄弱な生活から私が抜け出せるようにしてくださることを、ただ期待するだけでした。

自分の観念に固執した私は終わりの日の全能神の働きを拒否してしまいました

   2017年6月、私と友人は用事があって外に出かけた時、主のある信者と出会いました。共通の話題を持っていた私たちはとてもいい会話ができました。教会の荒廃について話し合った時、彼はこう言いました、「それは神が既に恵みの時代の教会を去っておられるからですよ。今は全能神として受肉されています。全能神は人間の中にお戻りになり、真理を語られ、人類を裁き清める終わりの日の働きをされており、聖霊の働きも全てこの段階の働きに移行しているんですよ。律法の時代末期に主イエス様が新たな働きをされたのと同じです。聖霊は神殿を去り、神殿は荒廃しました。当時、主イエス様に従った者たちだけが聖霊の働きを受けることができました。今も同様に、私たちは終わりの日の全能神の働きについてのみ聖霊の働きを受けて、いのちの備えを得ることができるのです。反対に、終わりの日の全能神の働きを拒否する者たちは闇に沈んで行くのです。これは聖書に書かれたこの預言を正確に成就しています、『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。』」 (アモス書 4:7)。彼の言葉は全て聖書の内容に沿っており、私の心は即座に啓発された気分になりました。私は絶えず切望し、心底待ちわびていた主が既にお戻りになっておられるとは思ってもいませんでした。私は興奮が込み上げてくるのを感じ、全能神の働きが何を意味しているのかを彼に聞きたくなりました。その時、彼はカバンからある書籍を取り出して、私にそれを手渡しました。彼はその書籍に書かれた御言葉は神が終わりに日に語られた真理だと言いました。そして、それらは私の混乱を全て解消してくださったのです。彼は全能神の働きを調査することを私たちに勧めました。

   私は『小羊が開いた巻物』と題された書籍を手にしました。私は思わず驚いて、心の中でこう思いました。「こんな書籍は見たことがないわ。ヨハネの黙示録には終わりの日にある巻き物が開かれるという預言がされているけれど、この書籍に書かれた言葉が神の御言葉だなんてことがあり得るのかしら?神の御言葉は聖書にしか記録されていないのに、聖書以外に神の御言葉を記録したものが存在し得るの?主の御言葉は全て聖書の中にあって、聖書から逸脱している、またはその範囲を超えているものは主の道から外れていて、異端であると、牧師たちはよく口にしているのに。」その時、私は、終わりの日にはありとあらゆる形の異端が生まれ、それらから自分たちを守る最適な方法は他の宣教に目をやらず、耳を傾けず、それと接触しないことだと牧師たちがいつも言っていたのを突然思い出しました。こう考えた私は無意識のうちに心の中で葛藤し、この兄弟を警戒して、これ以上彼の言うことを聞きたくなくなってしまったのです。しかし、私の友人は彼の話しと証言はとても良いと思い、彼からもらった書籍を読むことにした上に、全能神教会に行って調査する気にまでなっていました。私は彼女の反応を見て驚き、こう思いました:「どうしてそんな簡単に彼に同意できるの?聖書以外には神の御言葉は存在しないということを忘れてしまったのかしら?」私は彼女が調査するのを止めようとしました。しかし、失敗に終わったどころか、彼女は私に調査するよう説得しようとしたのです。彼女は20年以上も主を信仰してきて、聖書をよく理解し、信仰において自分自身の考えを持った上で調査することを決意したんだと私は考え、もうそれ以上は何も言いませんでした。結局、誰にでも選択の自由があるのです。

   それ以降、私の友人は終わりの日の全能神の働きを調査し始めました。時に、彼女は私にあの書籍から得た光について話し、その書籍を読むよう勧めてきました。しかし、私は、神の御言葉は聖書の中にあり、それ以外に神の御言葉は存在しないと牧師たちが何度も口にしていたことを思い出したとたんに、「もう勧めてこないでください。あなたはあなたの全能神を信仰して、私は私の主イエス様を信仰します」、と頑なに彼女に言っていました。このように、私は頑固に自分の態度を変えず、依然として主の道を支持していると勘違いしていたのです。

自らを解き放し、虚心に探求しました

   この後すぐのある日、私は以前一緒に働いていた同僚とバスの中で偶然出会いました。私たちは良い友人でした。彼女は私を見たとたん、興奮してこう言ったのです、「いい知らせがあるのよ!聖霊の働きが宿った教会を見つけたの。そこの宣教は素晴らしいのよ。彼らの説教を聞いたら、長年信仰しながら抱いていた困惑が解決して、たくさんの真理と奥義を理解することができたの。あなたに時間のある時があれば、私たちの教会に連れていってあげるわ。」彼女の言葉を聞いた私はそれを軽く受け止めてこう考えました。「今ほとんどの教会は同じ状況にあるというのに。牧師たちは宣教することが何もないし、信者も魂が薄弱になっているような状態よ。その教会が素晴らしいと言っても、一体どれだけ素晴らしいと言うのかしら?」しかし、エネルギーと活気であふれそうになっている彼女を見ていると、彼女がどの教会に行っているのかを知りたくならずにはいられませんでした。私は自宅に戻った後も、これについてじっくりと考えました。私は彼女の信仰は私のとは確実に違うと思いました。そして、私はどの教会に行っているのかと聞かずにはいられなくなって彼女にメッセージを送ると、彼女はこう返事したのです、「全能神教会ですよ。」私はびっくりして、こう思いました:「全能神教会には本当に真理があるということなの?どうして私の友達はこんなに大勢が全能神を信仰しているのかしら?これは神が私に終わりの日の全能神の働きを調査するように促しているってことなの?私が固持している考えは間違っているの?一体何が起こっているのかしら?」そしてすぐに、私は主に祈りを捧げ、主の応答を待ちました。

   その後、私の友人はまた全能神教会の話をしてくれました。当時彼女は全能神教会の御言葉を読んで、教会が荒廃する根源、偽羊飼いとは何か、宗教団体の詐欺師とは何か、終わりの日の全能神の働きがどのようにしてヨハネの黙示録に書かれた預言を成就させ、成し遂げるのか等、真理の奥義を幾つか理解することができたと言いました。私たちは終わりの日の神の働きを体験し、神の御言葉による裁きと刑罰を受け入れてのみ、自分たちの堕落した性質から少しずつ解放され、心から神を恐れ、神に従う人となり、そうすることが神とご対面して、神の御約束を受ける資格を得る唯一の方法だとも彼女は言ったのです。彼女の話を聞いた後、私はそれは筋が通っていると考えた上に、全能神を信仰するようになってから沢山の真理を理解できるようになった彼女を羨ましく思いました。なので、私は全能神教会を調査することにしたのです。

地上でより偉大なのは神と聖書のどちらでしょう

   その翌日、私の友人は私と交流するために全能神教会の兄弟姉妹を招待してくれました。私たちが顔を合わせた後、チェン兄弟は、「何でも困惑していることがあれば話してください。一緒に探求して交流し合いましょう」、と言ってくれました。

   私は言いました、「兄弟、私は聖書に書かれているもの以外に神の御言葉は存在しない、そして神の御言葉は聖書にのみあると思っています。聖書に反する、もしくはその範囲を超えるものは全て異端です。しかし、どうしてあなたはこの書籍に書かれた言葉が神の御言葉だと言うのですか?」

   チェン兄弟は辛抱強く私の言い分を聞いてから笑顔でこう言いました、「姉妹、2つ質問をさせてください。神と聖書、どちらが先に来たと思いますか?それと、神と聖書はどちらの方が偉大だと思いますか?」私はこの質問を聞いてとても不思議で奇抜だと感じました。なぜなら、私はこれまでの信仰の中で、牧師や長老がこんな質問をするのを聞いたことがなかったからです。

   私は思わず、「もちろん、神が先で、神の方が偉大です」、と言いました。

   チェン兄弟はこう言いました、「その通りです。神の御言葉と働きが先で、それから聖書です。聖書に記録されているのは単にかつて神が仰せられた御言葉と神がかつてなされた働きなのです。しかし、私たちは、聖書を神より偉大なものとしてとらえ、神の働きがその範囲を超えることを認めず、神の御言葉はその全てが聖書の中に記されていて、その範囲を超えるものはいずれも異端だと考えているのです。実は、こういった観点は間違っています。主イエス様が働きをしに来られた時も同じでした。主は人々に説教を宣べ伝えられ、彼らが各々の罪を告白して悔い改めることができるようにされ、人々に自分を愛するように他人を愛し、敵を愛し、他人を何度でも許すよう教えられ、そして安息日に人々を癒されました。こういった主イエス様の御言葉と働きは旧約聖書には記されておらず、それらは「目には目を, 歯には歯を」、「罪を犯したら神に罪の捧げものをしなければならない」、そして 「安息日に働いてはならない」 という人類に課された神の律法と戒めに則したものではありませんでした。当時の人々の目には主イエス様の働きも聖書の範囲を超えるものとして映りました。でも、主イエス様の働きが異端であったなどと言えるでしょうか?もちろん、それは不当です。当時、ユダヤ教のパリサイ人たちは主イエス様の御言葉と働きが旧約聖書にあるものでないとみなし、全力で主に抵抗し、主を非難し、最後には主を十字架に釘付けにしてしまいました。実は、神は至高の神であり、神の働きは常に新しいもので、決して古くありません。神は決して聖書の内容に沿って、また聖書の内容を参照にしながら働きをされることはなく、信者たちを導く道を聖書の中で探すなどということはなおさらされません。むしろ、神は新たな働きをされ、人間に聖書を超えた新たな道をお与えくださります。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのです。神は間違いなく聖書を超えて、神御自身のご計画とその時に人類が必要とするものに基づいて新たな働きをする権利をお持ちです。私たちが自分たちの観念と想像に従って神の働きと御言葉を聖書に制限して構わないはずがありません。聖書に記されている以外の御言葉と働きを神が仰せられたり、実行されることは決してないなど、私たちが言えるはずがないのです。」続く…


聖書には永遠のいのちの道が含まれているか

2019-08-23 23:24:43 | 聖書と神

   ある夜、高兄弟は聖書を手に桂兄弟の家へと急ぎました。

   高兄弟がそこに着くと、二人はソファに座りました。

   高兄弟は聖書を開いて言いました。「桂兄弟、聖書を読んでいる途中で一つの問題に突き当たったんだけど、どう解決すればいいかわからないんだ。この問題は、僕らが主への信仰を通じて永遠のいのちを得る鍵のような気がする。だから君と一緒に答えを探し求めようと急いだんだ」

   桂兄弟は笑みを浮かべて言いました。「わかった。じゃあそれを話してくれ」

   すると高兄弟は言いました。「聖書はキリスト教の正典で、クリスチャン全員が読まなければならないものだと、僕らはみんな知っている。集会に参加していようと、ディボーションをしていようと、福音を宣べ伝えていようと、あるいは説教をしていようと、いつも聖書に従う必要があるんだ。だから、聖書は欠かすことのできない僕らのいのちの一部だと言えるだろう。聖書には神様の以前の働きだけでなく、多くの人による証しも記されている。聖書の中にはいのちがあって、じっと聖書を読み続けていれば永遠のいのちを得られると、僕らは堅く信じている。でも今晩聖書を学んでいたら、主イエスが「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書5:39-40)とおっしゃった一節を目にしたんだ。そのせいで僕はすっかり混乱した。と言うのも、聖書に神様の御言葉と人間の証しが含まれているなら、聖書を読むことで永遠のいのちを得られるはずだからだ。ならどうして、主イエスは聖書の中に永遠のいのちはないとおっしゃったんだろう。その御言葉をどう理解すべきだろう。これが本当にはっきりと理解できなくて、君の認識はどうなのかと思ったんだ」



   桂兄弟は言いました。「高兄弟、君が話したこの問題は本当に鍵を握っているよ。何人かの他の同労者と僕も、最近この問題のせいで混乱したんだ。そのあと、町の外で行なわれた集会に出かけたとき、数名の兄弟姉妹と一緒に答えを探し求めてようやくこの問題を理解したんだよ」

   高兄弟は喜んで言いました。「本当かい。主よ、感謝いたします。さあ、早くそれを教えてくれないか」

   桂兄弟は言いました。「いいとも。実を言うと、この問題を理解したければ、まずは聖書に記されている、律法の時代と恵みの時代に神様がなされた働きの内幕と、それらの働きによる結果とを理解する必要があるんだ。そうすれば、なぜ主イエスがそのようなことをおっしゃったのかが理解できる。まず最初に、旧約聖書に記された律法の時代にヤーウェ神がお語りになった御言葉は、律法とヤーウェ神の戒めを布告することと、地上におけるイスラエル人の生活を導くことがおもな目的だった。どう正常に生きるべきか、どのように捧げ物をして神様を讃えるべきか、罪とは何かなどを人間が知るようお教えになったことが、ヤーウェ神の成し遂げられた結果だった。しかしそれらは単純な真理に過ぎず、人間がいのちを得られるようにするにはほど遠く、まして永遠のいのちを得られるようにするなど不可能だった。新約聖書には主イエスの御言葉と働きが記録されているけれど、それはおもに人類を贖う主の働きであり、悔い改めの道を人間に与えるとともに、天国が近づいていることと、誰もが悔い改めなければならないことを人間に伝えている。人々が告白して悔い改められるようにし、それによってその人の罪が赦されるとともに、盗みや強盗をしないとか、他人と争わないとか、他人を罵ったりしないとか、酒を飲まないとかいう、いくらかの外面的な良い振る舞いをできるようになったというのが、主の成し遂げられた結果だった。また一部の人たちは、強い熱意をもって働いたり、主のために自分自身を費やしたり、主に従って主の福音を広めるためにすべてを捨てたりすることさえできるようになった。

   「よって、天地万物は神様によって造られたこと、律法の時代に神様が律法と戒めを布告なさったこと、そして神様のお求めに従って地上で暮らすにはどうすればいいか人類が知るようになったことを、僕らは聖書を読むことで知るようになる。そして神様の性質が鮮明で本物だったことや、神様は僕らに憐れみをお示しになるだけでなく、人を呪い罰することもありうるとわかった。さらに、神様に自分の罪を告白して悔い改め、他人を許して自分の敵を愛し、塩と光になるべきだということもわかるようになった。僕らは自分の十字架を背負って福音を広めるべきであり、また主イエスが自分のように隣人を愛されたこと、人間に果てしない憐れみと愛情をお授けになったこと、そして主の救いを受け入れることでのみ僕らは神様のお恵みと祝福を豊富に享受できることを理解するようになった。だから、聖書に記されている律法の時代と恵みの時代における神様の御言葉と働きはすべて、人類の堕落の度合いと当時の人間が必要としていたものを土台にしていた。律法の時代におけるヤーウェ神の御言葉は、人間が地上で正常な生活を送れるように語られたものであり、恵みの時代に主イエスがお話しになった御言葉は、人間が悔い改められるようにする道としか呼べず、永遠のいのちの道とは呼べないんだ。

   「では、永遠のいのちの道とは正確には何だろうか。永遠のいのちの道とは、僕らがもはや罪の束縛や制約を受けないようにし、自分のいのちの性質が変化できるようにする道であり、僕らが永遠に生きるようにする真理の道だ。より具体的に言えば、それは僕らを罪から救い、僕らが真理を自分のいのちとして獲得することと、サタンの影響を完全に振り払うことを可能にするとともに、真に神様を知り、神様に従い、神様を崇拝し、これ以上罪を犯さず、神様に抵抗したり神様を裏切ったりしないようにすることができる。これらの成果を挙げることでのみ、僕らは永遠のいのちの道を見つけられるんだ。でも自分自身を振り返ってみると、僕らは聖書に詳しく、外面的な良い振る舞いをいくらかしているかもしれないけれど、罪深い本性が自分の中に深く根ざしたままで、いまだに思わず罪を犯しかねないことがわかる。たとえば、僕らはいまだ傲慢になったりうぬぼれたりしかねないし、親類や友人や教会の兄弟姉妹とうまくやっていくことができず、そのせいで他人を見下したり、見くびったり、排除したり、裁いたりするかもしれない。金銭関係の問題や、自分の個人的な利益に関する問題に直面したとき、僕らは互いに謀り合ったり欺瞞を行なったりしかねない。神様に仕えながら、他人が自分を仰ぎ見て偶像化するよう、自分の証しをして自身を高く掲げる可能性もある。何らかの地位に昇ると、他人を罠にはめて支配し、教会の中で派閥に分かれ、自分自身の王国を打ち立てるかもしれない。災害が起きたとき、それが人災だろうと天災だろうと、僕らはしばしば神様を責めて神様のことを誤解し、神様を裏切りさえする。これはいくつかの例に過ぎない。だから、律法の時代と恵みの時代に神様がなされた働きは、人々が自分の罪に気づけるようにし、それを悔い改めて告白できるようになったという成果を挙げたのは明らかだけど、僕らのいのちの性質を清めて変えるという働きはまだなされていなかった。主イエスは『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』(ヨハネによる福音書8:34-35)、『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)とおっしゃった。僕らがいまも頻繁に罪を犯しかねず、堕落した性質がまだ清められていないことは、僕らを罪の奴隷も同然にしているんだ。僕らはいまだに永遠のいのちの道を見つけていないし、神様にお会いする価値もない」

   桂兄弟の話を聞いたあと、高兄弟は考え込むように言いました。「桂兄弟、君の話は本当にその通りだ。律法の時代にヤーウェ神がなされた働きは、律法と戒めを布告し、人の生活を導き、神様をどう崇拝すべきか教える働きだった。恵みの時代、主イエスは僕らを贖われ、悔い改めの道をお与えになった。主への信仰を持ったあと、僕らの罪は赦されるけれど、罪深い本性が深く根ざしたままで、なおも思わず罪を犯したり、時々腹を立てたり嘘をついたり、神様に反逆したりしかねない。僕らはいまだに清められていないんだ。桂兄弟、もしそうなら、律法の時代と恵みの時代の働きを受け入れるだけでは、罪を振り払えず永遠のいのちも得られないということにはならないか。僕は正しく理解しただろうか」

   桂兄弟は言いました。「君は間違っていないよ」

   高兄弟は続けました。「じゃあ、聖書を読んでも永遠のいのちを得られないとすると、どうすれば永遠のいのちを得られるんだろう」

   桂兄弟は眼鏡を外して拭いました。そしてしばらく考え込んでからこう言いました。「僕が出席したその集会でのみんなとの交わりから、人類が死ぬべき運命にあるのはひとえに神様から離れてしまったこと、神様の御言葉を自分のいのちとして受け取っていないこと、そして罪の中で暮らしていることが理由だと僕はついに理解した。罪に関するこの問題を解決して真理が自分のいのちとなるようにすることができる限り、神様は僕らが決して死なないように永遠のいのちをもって祝福してくださる。だから永遠のいのちの道を見つける人は、傲慢や欺瞞や利己心や悪意といったサタン的な堕落した性質にもはや支配されず、真理を自分のいのちとして受け取ったあとは決して罪を犯したり神様に抵抗したりせず、キリストと相容れるようになる。神様だけが永遠のいのちの道を有しておられ、それを僕らにお授けになれる。では、神様はいったいいつ、僕らに永遠のいのちの道をお授けになるのか。それは終わりの日だということでみんな一致しているし、聖書もその考えを支持している。主イエスがこう預言なさった通りだ。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)。またヘブル人への手紙第9章28節にはこう記されている。『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである』。また黙示録の第2章と第3章でも『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』と7回も預言されている。さらにそこでは、神様のパラダイスにあるいのちの木の実と隠されているマナが人間に与えられるとも述べられている。だから主イエスは終わりの日にお戻りになるとき、聖書を乗り越えて、僕たちが永遠のいのちを得られるようにするすべての真理を表現なさることがわかるんだ。終わりの日のキリストが表現なさる真理を受け入れ、いのちの性質が変化し、罪が清められて真理を自分のいのちとして受け取るとき、僕らは永遠のいのちを得て、そのとき初めて天国へ引き上げられるのにふさわしくなるんだ」

   桂兄弟はそこでお茶をすすり、話を続けました。「僕は福音のウェブサイトでこのような神様の御言葉の一節を読んだ。『終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない』(『終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる』より)。永遠のいのちの道は終わりの日のキリストから生じるのであって、聖書から生じるものじゃない。聖書は神様の働きにおける以前の二段階を記録しているだけで、神様の証しに過ぎない。それは神様の権威や力や永遠のいのちを表わしているわけじゃないんだ。キリストだけが聖書の主でありすべてのいのちの源だ。まさに主イエスが『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない』(ヨハネによる福音書5:39-40)とおっしゃった通りだ。聖書にしがみつくだけで、お戻りになった主の働きを探し求めたり追究したりしないなら、僕らは決して主の出現をお迎えすることができず、永遠のいのちを得るのも不可能になってしまう。こうしたことを理解することが、永遠のいのちを得て、主への信仰を通じて天国へ入るのに不可欠なんだよ」

   高兄弟は喜びで顔を輝かせ、興奮した口調でこう言いました。「主よ、啓きとお導きに感謝いたします。聖書は神様の証しに過ぎず、永遠のいのちを含んでいないことをようやく理解しました。終わりの日のキリストだけが永遠のいのちの道を有しておられ、終わりの日のキリストが表現なさる真理を得て、自分の堕落した性質が清められて初めて、私たちは永遠のいのちを得て天国に入れるのです。そうだろう、桂兄弟」

   すると桂兄弟は言いました。「その通りさ。僕らは終わりの日のキリストの働きを受け入れなければならない。そうして初めて、永遠のいのちを得る機会がもたらされるんだ。主よ、感謝いたします」

   高兄弟も言いました。「主よ、感謝いたします」


ヨハネの黙示録における「書き加えるな」という箇所の意味

2019-07-27 18:42:50 | 聖書と神

 自動車のクラクションの「ビ4ーッ、ビーッ」という鋭い音が狭い路地で鳴り響いたため、徐敏は考え事から我に返りました。振り向くと、「私ったら、牧師が今朝言ったあのことを考え込んでぼーっとしている間、後ろの車の邪魔になっていたのに気づかなかったのね」と悟りました。急いで謝って、車を通る場所ができるように横に移動したので、そこには彼女の細身の姿だけが残りました。冬の寒さもまったく平気であるかのように、彼女はゆっくり歩きました。

 やがて彼女はまた考え込みました。ここ数年の間に、教会がますます荒れ果て、兄弟姉妹の信仰と愛が次第に消えつつあり、彼女自身も霊的な闇と弱さをますます感じていました。何度も涙を流して主イエスに呼びかけましたが、主の臨在は感じられませんでした。これは彼女にとって非常に辛いことでした。また、様々な教会を何軒か回りましたが、収穫はありませんでした。それでも主の臨在を感じられなかったのです。そんな中で、親友が彼女に本を送り、「主が再臨して新たな言葉を発せられた」と伝えてくれました。彼女は大変喜び、これを求めて学ぶのが待ち遠しくなりました。この本は読めば読むほど、「とても実際的で、人々の神への信仰での多くの誤りを正してくれる」と感じたのです。読むと心が明るくなり、素晴らしい霊的な享楽を得ました。「これらの言葉は普通の人には語れるはずがない。きっと聖霊の啓きから来たのだわ」と信じたのです。しかしその日、このことを知った牧師が、彼女にそれを学ぶのをやめさせようと何度も何度も試み、言いました。「こう書かれている。『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる』(ヨハネの黙示録二十二章18~19節)。

 聖書黙示録における「書き加えるな」という箇所の意味

 黙示録には、聖書には何も加えたり取ったりしてはならないとある。主が再臨して新たな言葉を発したなどと証ししている者たちがいるなら、それは聖書に何かを加えていることになる。だから、そんな主張はどれも絶対に学んではならない。そうすれば主への裏切りになる。」

 これを聞いて徐敏は少し怖くなり、どうすべきかわかりませんでした。心が重く、きつく縛られたように感じました。

 帰宅してからもまだ腑に落ちなかったので、彼女は友人に電話して自宅に招き、交わりを共にしました。友人が徐敏の家に来たとき、二人であれこれと歓談してから、徐敏は自分の困惑を打ち明けました。

 友人はこう答えました。「聖書に『もしこれに書き加える者があれば…』とあるからといって、主が再臨されたときの働きや言葉に関ることを一切敢えて学ばないのは本当に混乱を招くわね。というのも、私たちは黙示録のその箇所を純粋に理解していないのだから。その本当の意味を理解すれば、あなたの混乱は解決できる。でも、この問題をはっきり理解するには、まず黙示録のこの言葉の背景を知らないといけない。実際、黙示録が書かれたのは主の時代から約九十年後だった。パトモス島でヨハネが終わりの日のまぼろしを見た後、それを記録した。当時は、旧約聖書と新約聖書を1冊の本にした全聖書どころか、新約聖書が存在しなかったのよ。

 新約聖書がまとめられたのは、主の時代から三百年後だった。だから、黙示録22章18節と19節で触れられている「この書」は、聖書全体のことではなく、黙示録でのその預言のことだった。それにもう少し細かく見てみると、この聖句で言われているのは、聖書ではなくてその預言に何かを書き加えるということなの。この二つの事柄からわかるのはつまりこういうことね。何も加えるなと言っているのは、『聖書の外には神からの新たな働きや言葉がない』という意味ではなく、『黙示録の預言には恣意的に何か加えたり取ったりしてはいけない』と説いているのよ。」

 これを聞いて、徐敏は急いで聖書を手に取って黙示録のページにめくり、それがまさにそうであると知りました。 黙示録には、その預言に何も書き加えてはならないとはっきり述べられていますが、聖書全体に何も書き加えてはならないとはありません。その聖句に基づいて、「聖書の外で神からの更なる言葉などがあるはずがない」と断定するのはまったく適切ではなかったのです。それは何と、一目瞭然でした。彼女にそれまでわからなかったのはなぜでしょうか。

 友人は続けて言いました。「それに、私たちは黙示録のこの言葉の本当の意味をはっきりさせる必要がある。『もしこれに書き加える者があれば…』と書かれているけど、私たちにはこれが人間に対する警告であることが分かる。人間は預言に何も加えてはいけない。なぜなら、預言とは神ご自身が将来なさる事柄だからよ。だから神ご自身が働きに来られるまで、預言が実際にどのように成就されるかは人間にはわからない。もし人間がこの土台の上に自分の観念を恣意的に重ねたりしたら、神の御言葉を歪め、神の性質を侵し、神の罰を受けることになる。黙示録のこの言葉は神ではなく私たち人類を対象としていたことを私たちは知っておかないといけない。神は創造主で、すべてが神の手の中にある。預言の範囲外でご自身の働きをする権限があり、これはどんな創造物にも妨げられるはずがないことだし、創造物にはこれを勝手に制限することはできない。例えば、聖書の申命記12章32節には、『あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない』とある。

 ここではヤーウェ神が、神の命令に何も加えてはならないと私たちに明確に仰っているけど、恵みの時代の主イエスの働きと言葉は聖書には記録されていないし、律法の一部の要求と全く違ってさえいた。たとえば、律法の時代には『目には目を、歯には歯を』と求められたけど、主イエスが働かれていた時、主はこう仰った。『「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい』(マタイによる福音書五章38~40節)。

 それに、ヤーウェ神は律法の時代の人々に敵を憎めと仰ったけど、恵みの時代に主イエスは仰ったのはこうだった。『しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ』(マタイによる福音書五章44節)

 旧約聖書に執着した人々が見るかぎり、主イエスが仰ったことの多くは律法の枠を外れていて、律法への付け加えだったので、彼らは主に従わなかった。特にパリサイ人は、主イエスを断罪するために旧約聖書の律法に固執し、聖霊を冒涜するというとんでもない罪を犯した。それは人間側の大きな反抗ではないかしら。

 神が何も加えたり取り除いたりしてはならないと御言葉で仰っているのは、人類に対する要求なのよ。神の御言葉の要求をどうして私たちが神御自身に課すことができるのかしら。神は万物の支配者で、神の働きは御自身の計画に従ってなされる。それはどんな人にも制約されないし、聖書の言葉に限定されることもない。」

 そう言った後、彼女はタブレットを取り出して、器用にウェブページを開き、続けました。「これは福音サイトの文章よ。『新約の時代にイエスの行った働きは新たな働きを開いた。イエスは旧約の働きに沿った働きはしなかった。また、旧約のヤーウェが語った言葉に従わなかった。イエスは自分の働きをし、新たな働きをし、律法よりも上位の働きをした。そしてイエスは言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」だから、イエスの成就したことによって、多くの教義は廃棄された。イエスは弟子たちを連れて麦畑を通り、麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。当時、イスラエル人の規則によると、誰でも安息日を守らなかった者は石で打ち殺された。しかしながら、イエスは神殿に入りも安息日を守りもしなかったし、その働きは旧約の時代にヤーウェがしなかったことだった。だから、イエスの行った働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、掟に沿ったものではなかった』

 神が規則を守られないことは明らかね。 どの時代にも、神は新たな働きをなさり、新たな言葉を発せられる。前の時代の法令にはとらわれない。御自身の働きの要求と、私たち人間が何を必要としているかに従って行動される。常に新たな言葉を発せられている。これだけが、人類をより高い域に引き上げ、私たちがサタンの力から完全に逃れて、最終的に神の救いを得られるようにする道なのよ。だから私たちは神の働きと言葉を聖書の内容に限定されていると考えてはいけないし、特に神の人間に対する要求に基づいて、神に『何も書き加えるな、取り除くな』と要求してはいけない。それに『聖書の外に神からの新たな言葉などありえない』と断定してもいけない。そうではないかしら。」

 徐敏はうなずきました。友人からこのことを聞いて、彼女はこの上なくはっきり理解できたのです。 黙示録で、何も付け加えるな、取り除くなと言われているのは、「人間が神の御言葉をいたずらに削除したり追加したりしてはならない」という事実を指しているのであり、神自身がその後さらに言葉を発してはならないという意味ではなかったのです。 もし人々がその箇所の純粋な理解に欠けて、自分たちの不条理な観念に固執した上に、それによって神の働きを限定すれば、恐らく神の性質を侵してしまうのではないでしょうか。それに気づいた徐敏はひどく冷汗をかきました。パリサイ人は旧約律法に固執し、主イエスの言葉が律法につけ加わえていると考えたため、主が人々を惑わしたと結論付けしました。彼女はパリサイ人が犯したのと同じ間違いを犯すのをかろうじて免れたのです。

 友人は続けて言いました。「ヨハネ福音書16章12節と13節で言われていることを覚えているかしら。」

聖書黙示録における「書き加えるな」という箇所の意味

 徐敏はためらわずに言いました。「覚えている。 私たちがよく暗唱した箇所でしょう。主イエスは言われた。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書十六章12~13節)」

 友人は続けて言いました。「この聖句では非常にはっきり述べられている。神は終わりの日に戻られた時、もっと多くの言葉を発することで私たちを潤し養って、私たちがすべての真理を理解してそれらに入れるようにしてくださる、とね。黙示録にはこういう預言もある。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』(ヨハネの黙示録二章17節)、『わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」』(ヨハネの黙示録五章1~5節)。

 ここで触れられている『御霊が諸教会に言うこと』『隠されているマナ』、開かれる七つの封印の巻物などはすべて、神が終わりの日に戻られたときにもっと多くの言葉を発し、もっと多くの働きをなさることを証明している。神は私たちがこれまで理解したことのない奥義をすべて明らかにしてくださる。

 ということは、私たちは『もしこれに書き加える者があれば…』という言葉を理由に、「聖書の外にあるものはどれも神の御言葉ではありえない」なんて本当に結論付けられるのかしら。こうも書かれているわ。『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う』(ヨハネによる福音書二十一章25節)

 この聖句からも、『主イエスが働いている間に多くのことを語られ、多くの御業を行われたこと』と、『聖書に記録されていることが限られている』ことがわかる。主イエスの言葉と働きがすべて記録されているわけではないのよ。主イエスの働きと御言葉のすべてすら聖書に記録されていないのだから、私たちが『聖書の外にあるものは神の御言葉ではありえない』と言うのは、主御自身の御言葉と御業を否定することにならないかしら。」

 これを聞いて、徐敏は興奮のあまり立ち上がって言いました。「あらあら、私は毎日聖書を読んでいたのよ。どうしてこの奥義に気づかなかったのかしら。あなたの交わりのおかげで、自分の中でどんどんはっきりしてきたし、もう完全に分かったわ。聖書に記録されている神の働きが限られていて、神の働きと御言葉の完全な記録ではないことがね。それは主イエスの働きと御言葉の完全な記録ですらない。主イエスが三年余り働かれていたことを考えると、主がある特定の日に仰ったことは、現在聖書に記録されていることよりもはるかに多かったでしょうね。主は終わりの日に戻られるとき、新たな働きを行い、新たな言葉を発せられる。これは否定できない事実で、預言にとてもはっきり書かれている。人間は神の働きを決して限定することはできないし、特に神を聖書の範囲内で定義することはできないことは今の私にはわかる。真の道を探るときは特に、私たちは主をお迎えするために本当に聖霊の導きに従って、広い心でそれを求めて学ばなくてはならない。さもないと、パリサイ人のようになってしまう。彼らは聖書の文字通りの言葉にこだわったために、神に逆らって最後には滅ぼされた。そんなときに後悔しても遅すぎるわ。」

 友人は微笑んでうなずきました。「その通りよ。私たちは子羊の足跡について行きたいなら、義に飢え渇く心と、真理を求める心を保たなくてはいけない。自分たちのどんな観念や想像にも妨げられてはいけない。それだけが、終わりの日の主の現れをお迎えし、賢いおとめとなって、神の御座の前に携挙される道なのよ。主イエスが仰った通りね。『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。…義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。…心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう』(マタイによる福音書五章3、6、8節)徐敏は激しくうなずきました。混乱がすっかり晴れて、信じられないほどうれしく感じました。 彼女たちが交わりを続けている間、二人の幸せで快活な笑い声が時々外に漏れました…


イエスの再臨をお迎えする最も重大な時

2019-07-24 18:53:36 | 聖書と神

 「ハマグリの確認」と題した記事があります。それはハマグリが大好きな男の子のストーリーです。ある日、彼の母が袋一杯のハマグリを家に持って帰りました。美味しいハマグリを食べたかった彼は、調理をする前にハマグリの善し悪しを見て、悪いものを区別しておこうと思い、ハマグリの確認をすることにしました。こうして、彼は新鮮で生きていると思ったハマグリを取り出し、それをハマグリの匂いの善し悪しを判断する基準としました。そして、彼はそれぞれの殻を軽くたたき、基準としたハマグリと比較しました。彼はハマグリを1個ずつたたきましたが、それが終わった時、彼は他のハマグリは全て悪かった、もしくは死んでいたことが分かりました。彼は母にこのことを伝えました。しかし、彼の母はこれを不可能だと思い、どういうことかを確認しに行きました。その後、彼女は他のハマグリが新鮮でなかったのではなく、実は彼が基準として使っていたハマグリが悪かったことに気が付きました。これでは、悪いハマグリを基準として使っていた彼が他のハマグリの善し悪しの判断ができるはずがありません。

 このストーリーを読んだ後、私は主人公が心配になりました、なぜなら私は彼の母は売り主から騙されて、彼はあの日ハマグリを食べれなかったのではないかと思ったからです。私は最初のハマグリが実は悪いハマグリであったとは全く想像していませんでした。しかし、彼は自分の想像を頼りにそれは良いハマグリであると思い、それを基準として使い、他の全てのハマグリは悪いと見なしてしまう結果に陥ったのです。もし彼の母が彼の過ちを見つけるのが遅れていたら、彼はハマグリを全て捨てていたでしょう。想像と観念は本当に人々に害を及ぼすものなのです。

 私は律法の時代の頃について考えてしまいます。当時、ユダヤの祭司長、律法学者、およびパリサイ人はメシアの再臨をしきりに切望していましたが、同時に、彼らは彼に反対し、彼を非難することに全力を注ぎました。彼らは預言に関する誤解を多く抱き、救世主はお戻りになる時はメシアと呼ばれる、そして彼は王宮または貴族、最低でも高名な家族に生まれるべきだと思っていました。しかし、主イエス様が来られた時、主はメシアとは呼ばれておらず、一般的な家庭にお生まれになり、それは彼らの観念と想像とは全く合致していませんでした。これ故に、彼らは理不尽に主イエス様を冒涜、そして非難し始めました。彼らはその者がメシアと呼ばれていないのなら、その者はキリスト様ではないという誤った考えに固執して、主イエス様に抵抗し、主イエス様を中傷しました。彼らは真理を求める心を全く持っていなかったのです。最終的に、彼らはメシアをお迎えできなかっただけでなく、主イエス様を十字架に釘付けにしてしまいました。彼らはとんでもない罪を犯し、彼らの国家は破壊されてしまいました。

 しかし、サマリア人の女は違いました。彼女は主イエス様と会話をした後、主イエス様がメシアの来臨、すなわちキリスト様であることを知りました。これを受け、彼女は主イエス様に従いました。主がぺテオ、ヨハネ、マタイ、マルコおよび他の者たちを呼ばれた時、彼らは主イエス様がメシアであるとは分からなかったものの、主の説教には真理があったことを知ったので、自らの目で見えるものや他人の言葉を基にした判断はせず、主に従い、ついて行くことができたのです。弟子ナタナエルも同様に、主イエス様が内にお持ちであった御気持を話されるのを耳にした時、主イエス様がメシアの来臨であると即座に確信し、それを信じて主に従いました。また、多くの人々が主イエス様がこの節:「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた』。 」(マタイによる福音書 4:17)、「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」 (マタイによる福音書 22:37-40)等の説教と真理を表されるのを耳にした時、そして、5千人を5つのパンと2匹の魚で食べさせる、風と海を静める、そして一言発して死人を蘇らせる等、主イエス様の御業を目撃した後、主イエス様に従っているのです。上述の内容から、これらの人々は自分の観念と想像に頼らず、パリサイ人に抑制されてもいなかったことが分かります。代わりに、彼らは主の御言葉と働きを通じて、主イエス様がメシアの来臨であったことに気が付いて主に従ったのです。これ故に、彼らは主をお迎えして、他のユダヤ人たちとは大きく異なった運命を手にしたのです。

 ヤ―ウェ神はイザヤ書55:8-9でこう仰りました:「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」神の働きを理解できる人間はいないことが明確に分かります。神は賢明で、全能であられます。神は私たちの観念と想像通りに働きはなさりません。これは主イエス様が来られた時、全ての人々が神の御名前はメシアであり、神は王宮で生まれるはずだと考えていたことからも分かります。しかし、神の働きは人間の観念が誤っていることを力強くお示しになりました。主イエス様はメシアとは呼ばれておらず、まぐさ桶にお生まれになりました。これ故に、私たちは神の働きを自分たちの頭の中にある想像に照らして叙述することはできないのです。クリスチャンとして、私たちは主が早く来臨されることをはやる思いで切望しています。ユダヤの民が犯した過ちを繰り返すのを避けながら主をお迎えするためには何をするべきなのでしょうか?

白い雲に乗って,再臨,主イエス,神の声,救い主

 ここ数年を思い出すと、私は、天使のトランペットが鳴り響き、死者が蘇るといった大きな興奮の中、主は白い雲に乗って再臨なさると考えていました。これ故に、ここ数年、私は主が白い雲に乗って再臨され、私たちを天の御家にお連れ下さるのを待ちわびながら、頻繁に上空の雲を眺めています。私の周辺には、主イエス様は再臨され、御言葉を表しになり、教会を起点に裁きの働きをされておられると私に証言した人々がいますが、私は依然としてそれを探求し、調査する気になれません。その結果、私はその日が来るのを切望し、待ちわびています。しかし、長年経っても、主は来られませんし、主とご対面するために私たちを空に引き上げてもくださりません。今考えてみると、私は白い雲に乗って来られない主イエス様は偽キリストであると、神を自分の観念の中で定義してしまっていたのではないでしょうか。私はこんな具合で、主の再臨をお迎えする今も依然として自分の観念と想像の中を生きているのではないでしょうか?

 私は聖句を学習していた時、ヨハネの黙示録にこの預言を見つけました:「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。」(ヨハネの黙示録 2:7),「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書 10:27)と「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これらの節から、主の再臨をお迎えする上で大切なことは、神の御声を耳にした時に花婿を出迎えに行った賢い処女のように、神の御声を聞くことに注意を払い、神の御言葉と働きを通じて神を知ろうと試みることなのだと分かります。サマリア人の女は主の御言葉から主イエス様がメシアであると気が付いていましたよね?更に、主イエス様に従ったペテロ、ヨハネ、マタイそしてポリポなどの弟子たちが、主イエス様は権威と力をお持ちの唯一なる御方であることを知り、それ故に主に従うことに至ったのも、主の御言葉と御業を通じてのことでした。彼らはそれぞれの観念と想像を頼りにしながら主を定義したりせず、むしろ神の御声に耳を傾けることを選び、最終的には主イエス様の御救いを授かったのです。これは、神の御声を聞くことに注意を払うことは、私たちが主の再臨をお迎えする上で非常に重要であることを示しています。