賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神について何を理解しているのか

2020-10-31 22:06:00 | デボーション

神について何を理解しているのか

    人々は長いこと神の存在を信じてきたが、ほとんどの人は「神」という言葉を理解していない。単にぼんやりと後について行くだけである。彼らは一体なぜ神を信じるべきなのか、あるいは一体神とは何かについてまったくわかっていない。人々が神を信じ、従うことだけは知っていても、神が何かを知らなければ、そしてまた神を理解していなければ、これは世界最大の笑い話ではないだろうか。たとえ人々が今までに多くの天の奥義を目撃しており、これまで決して把握していなかったたくさんの深遠な知識について聞いていたとしても、最も初歩的だが、いまだ熟慮されていない多くの真理に関しては何も知らない。「私たちは何年にもわたり神を信じてきた。神が何かわからないわけがない。私たちを見くびっているのではないか」と一部の人は言うだろう。しかし実際には、今日誰もがわたしに従っているものの、誰もこの現在の働きを何も理解していない。もっとも明白で簡単な問題ですら理解できず、まして神に関する問題のような極めて複雑な問題は言うまでもない。自分が払いのけて、見つけだすことのできないこれらの問題こそが、もっとも理解すべき問題であることを知るべきである。なぜならあなたは群衆に従うことしか知らず、自分が身に着けておくべきものに注意を払わず、配慮しないからである。なぜ神を信仰するべきか、本当にわかっているのか。神が何であるか、本当にわかっているのか。人が何であるか、本当にわかっているのか。神を信仰している人としてこれらのことを理解できなければ、神の信者としての尊厳を失わないだろうか。今日のわたしの働きは以下の通りである。人々に自分自身の本質を理解させること、わたしの行うすべてを理解させること、および神の本当の顔を知らせること。これはわたしの経営(救いの)計画の最終行動、わたしの働きの最後の段階である。だからわたしは前もって人生の奥義のすべてをあなたたちに語り、あなたたちのすべてがそれらをわたしから受け入れることができるようにしているのである。これは最後の時代の働きなので、わたしはあなたたちがこれまで決して会得することのなかったいのちの真理のすべてを語らなければならない。あなたたちはあまりにも不完全で、あまりにも準備不足なので、それらを吸収することやそれらに耐えることができなくても、わたしは語らなければならない。わたしはわたしの働きを完了し、わたしのすべての必要な働きを終わらせ、わたしがあなたたちに行うよう任せていることを十分に知らせて、暗闇が降りてきたとき、あなたたちがふたたび迷って、邪悪な者の策略にだまされないようにしたい。あなたたちの理解力の及ばない道、あなたたちが理解しない事柄がたくさんある。あなたたちはそれほど無知なのだ。わたしはあなたたちの霊的背丈と欠点をよく知っている。従って、たとえあなたたちが吸収できないであろう言葉がたくさんあっても、わたしはあなたたちがこれまで決して会得しなかったこれらの真理のすべてをあなたたちに話したい。あなたたちの現在の背丈では、わたしの証人になれるかどうか心配し続けているからである。あなたたちをみくびっているわけではない。あなたたちは皆、わたしの正式な訓練を受けていない獣であり、あなたたちの中にどのくらい栄光があるかは実に疑わしい。あなたたちに取り組むためにわたしは膨大なエネルギーを費やしてきたが、あなたたちには積極的な要素はほとんど存在しないようである。一方、消極的な要素は指折り数えることができ、それらはサタンを恥じ入らせる証しに向けられるだけである。それ以外にあなたたちのなかにあるもののほとんどすべてはサタンの毒である。わたしにはあなたたちが救いようもないように見える。目下のところ、わたしはあなたたちのさまざまな表現や態度を見て、ようやくあなたたちの本当の背丈を知った。だからわたしはあなたたちのことを心配し続けている。思うままに暮らすよう放置されたら、人は本当に最終的には今日よりも良い、あるいは今日と同じくらいの状態でいられるだろうか。あなたたちは自分の子供じみた背丈が心配ではないのか。あなたたちは本当にイスラエルの選民のようになり、どのようなときでもわたしに、わたしだけに忠実になることができるのか。あなたたちが今見せているのは、親の目の届かないところにいる子供のいたずら好きな特質ではなく、主人のむちの届かないところで動物に沸き起こる獣性である。あなたたちは自分の本質を知るべきで、それはあなたたちすべてが共有している弱点、共通の病気でもある。したがって、今日わたしからあなたたちへの唯一の忠告は、わたしの証人になることである。いかなる事情があろうとも、古い病気を再発させてはいけない。もっとも重要なのは、証しをすることである。それがわたしの働きの核心である。あなたたちは、マリアが夢に現れたヤーウェの告知を受入れ、信じて、従ったように、わたしの言葉を受け入れるべきである。これだけが精神的に純潔であるとみなされる。なぜならあなたたちはわたしの言葉を一番多く聞く人々であり、わたしによってもっとも祝福される人々だからである。わたしはあなたたちにわたしの貴重な所有物すべてを与え、すっかり何もかもあなたたちに授けよう。しかしながら、あなたたちの地位とイスラエルの人々の地位は非常に異なり、完全に天と地ほどもかけ離れている。それにもかかわらず、彼らに比べると、あなたたちはずっと多くのものを受け取っている。彼らが必死にわたしの出現を待っている一方、あなたたちはわたしと共に愉快な日々を過ごし、わたしの富を共有している。比較すると、何があなたたちに、不平を言い、わたしと口喧嘩し、わたしの所有物の分け前を要求する権利を与えているのか。あなたたちは十分受け取っていないのか。わたしは多くを与えているが、あなたたちがお返しにわたしにくれるものは悲痛な悲しみと不安、それに手に負えない恨みと不満である。あなたたちはあまりにも不快だが、同時に哀れでもある。よってわたしは憤りをすっかり吞み込んで、あなたたちに繰り返し反対の声を上げるしかない。この数千年にわたる働きにおいて、これまでわたしが人類にまったく異論を唱えなかったのは、人類の発展の歴史上で、あなたたちの間の偽りだけがもっとも有名であることに気づいたからである。偽りは、古代の有名な先祖によってあなたたちに残された貴重な継承物のようなものである。わたしはそれらの人間以下の豚と犬をどれだけ憎むことか。あなたたちはあまりにも良心に欠けている。あなたたちの性格はあまりにも卑劣である。あなたたちの心はあまりにも無情である。もしわたしがこれらのわたしの言葉、わたしのこの働きをイスラエル人にもたらしたら、わたしはずっと以前に栄光を獲得していただろう。しかし、あなたたちの間ではそうはいかない。あなたたちの間には、残酷な無視、あなたたちの冷たい態度、あなたたちの言い訳しかない。あなたたちはあまりにも感情がなく、あまりにも価値がない。

    あなたたちはわたしの働きに対してあなたたちのすべてを提供するべきである。あなたたちはわたしのためになる働きをするべきである。わたしはあなたたちにとってあいまいなことすべてについてあなたたちに話し、あなたたちに欠けているすべてをわたしから獲得できるようにしたい。たとえあなたたちの欠点が数えきれないほど多いとしても、わたしはあなたたちに対してするべき働きを行い続けることをいとわず、あなたたちにわたしの最後の慈悲を与え、あなたたちがわたしから利益を得て、あなたたちには欠けていて、世界がこれまでに見たことのない栄光を獲得できるようにしたい。わたしは長年にわたり働いてきたが、人々のうちでわたしを知るにいたったものは誰もいない。わたしはほかの誰にも話したことのない秘密をあなたたちに話したい。

    人々の間で、わたしは見ることのできない霊、決して接触することのできない霊であった。地上におけるわたしの三段階の働き(天地創造、贖い、破壊)のために、わたしは異なる時代に人々の真っただ中に現れ(決して公然とではない)、彼らの間でわたしの働きを行う。わたしが最初に彼らの中に出現したのは贖いの時代であった。もちろんわたしはユダヤ民族の中に出現した。従って神が地上に来るのを初めて見たのはユダヤ人であった。わたしがこの働きを直接行った理由は、わたしの贖いの働きの中で罪の捧げものとして、人となったわたしの肉体を使いたかったからである。そこでわたしを最初に見たのは恵みの時代のユダヤ人たちであった。わたしが肉体で働きを行ったのはそれが初めてであった。神の国の時代では、わたしの働きは征服し、完全なものにすることであるので、わたしはふたたび肉体の形で羊飼いとしての働きを行う。これはわたしが肉体の形で行う二回目の働きである。働きの最後の二段階では、人々が接触するものは、もはや目に見えない、触れることのできない霊ではなく、霊が肉体として実現化された人である。従って、人の目には、わたしはふたたび人になり、神の容貌も雰囲気も持たない。そのうえ、人々が見る神は男性だけでなく女性でもあるので、彼らには非常に驚異的で不可解である。再三再四、わたしの途方もない働きは、長年にわたり抱かれていた古い信念を粉砕し、人々は動転している。神は、聖霊、霊、7倍に強化された霊、すべてを包み込む霊であるだけでなく、人、普通の人、ことのほか平凡な人でもある。神は男性だけでなく、女性でもある。彼らはどちらも人間に生まれたという点で同じであるが、一人は聖霊によって受胎され、もう一人は生まれながらに人間であるが、霊から直接生じているという点で異なっている。彼らはどちらも神の肉体化した形で、父なる神の働きを実行するという点で同じであるが、一人は贖いの働きを行い、もう一人は征服の働きを行うという点で異なっている。どちらも父なる神を表すが、一人は親愛の情と慈悲に満たされた贖い主であり、もう一人は怒りと裁きに満たされた義の神である。一人は贖いの働きを開始するための最高司令官であり、もう一人は征服の働きを完了させる義の神である。一人は始まりであり、もう一人は終りである。一人は罪のない肉体であり、もう一人は贖いを完成させ、働きを続行し、罪によらない肉体である。彼らはどちらも同じ霊であるが、異なる肉体に宿り、異なる場所で誕生する。また、彼らは数千年も隔てられている。しかし、彼らの働きはすべて相互に補完し合っており、決して対立せず、同じ次元で語られる。どちらも人であるが、一人は男の赤子であり、もう一人は女の幼児である。長い年月のあいだ、人々が見てきたものは霊だけでなく、また人間、男性だけでなく、人間の観念と合致しない多くのことでもあり、従って、人々は決して十分にわたしを理解することはできない。彼らは、あたかもわたしは確かに存在するが、幻想的夢でもあるかのように、半ば信じ、半ば疑い続ける。そういうわけで今日まで、人々は神が何であるかをまだ知らない。あなたは単純な一文でわたしを要約することが本当にできるのか。本当に「イエスは他ならぬ神であり、神は他ならぬイエスである」とあえて言うのか。本当に大胆にも「神は他ならぬ霊であり、霊は他ならぬ神である」と言うのか。「神は肉を着ている人にすぎない」と抵抗なく言えるのか。「イエスの姿はまさに神の偉大な姿である」と断言する勇気が本当にあるのか。あなたの言葉の能力を頼りにして神の性質と姿を完全に説明することができるのか。本当に「神は自分の姿に合わせて男性だけを造り、女性は造らなかった」とあえて言うのか。もしそう言うなら、女性は誰もわたしが選んだ者の中に入らず、いわんや女性は人類の一種ではなくなるであろう。さて、あなたは本当に神が何であるか知っているのか。神は人間だろうか。神は霊だろうか。神は本当に男性だろうか。イエスだけがわたしのしたい働きを完成させることができるのか。わたしの本質を要約するために上記のうちひとつしか選ばないとしたら、あなたは非常に無知で忠実な信者であろう。わたしが一度、しかもたった一度だけしか受肉して働かないなら、あなたたちはわたしの境界を定められるだろうか。あなたは本当に一目見て、わたしを完全に理解することができるのか。生きている間に経験したものだけに基づいてわたしを本当に完全に要約できるのか。そして二回の受肉でわたしが同じ働きをすれば、あなたはわたしをどのように認識するのだろうか。永久にわたしを十字架に釘で打ち付けたままにしておくのだろうか。神はあなたが言うほど単純なものなのだろうか。

    あなたたちの信仰はとても誠実だが、あなたたちの中のだれもわたしを完全に説明することはできないし、あなたたちの中のだれもあなたたちが見る現実のすべてを十分に立証することはできない。考えてもみなさい。現時点ではあなたたちのほとんどは自分の義務を怠っており、その代わりに肉のことを追い求め、肉を満足させ、貪欲に肉を楽しんでいる。あなたたちは真理をほとんど所有していない。ではどうやってあなたたちはこれまで見てきたものすべてを証言することができるのか。あなたたちは本当にわたしの証人になれる自信があるのか。今日見てきたすべてのことをいつの日か証言できないならば、そのときまでには創造された人間として機能を失っているだろう。あなたの存在には何の意味もなくなってしまうだろう。人間である価値がなくなる。人間ではないとさえ言うことができる。わたしはあなたたちに膨大な量の働きを行ってきた。しかし、現在あなたは何も学んでおらず、何も知らず、無駄に働いているので、わたしが働きを拡大する必要があるとき、あなたはぽかんと見つめているだけで、口もきけず、まったく役に立たないだろう。それではあなたは稀代の罪人になってしまわないだろうか。その時が来たら、あなたはとてつもなく深い後悔を感じないだろうか。意気消沈してしまわないだろうか。わたしがこの働きのすべてを行っているのは暇つぶしや退屈しのぎからではなく、わたしの将来の働きの基礎を築くためである。わたしは行き詰っていないし、何か新しいことを考え出さなければならないわけでもない。わたしが行う働きを、あなたは理解するべきである。それは路上で遊ぶ子供が行うものではなく、わたしの父の表象が行う働きであることを理解するべきである。あなたたちはこのすべてを行っているのはただわたしではないことを知るべきである。それどころかわたしは父の代理を務めているのである。その一方で、あなたたちの役割はひたすら後に続き、服従し、変化を遂げ、証しをすることである。あなたたちが理解するべきことは、なぜわたしを信じなければならないかである。これはあなたたち一人ひとりが理解するべきもっとも重要な問題である。わたしの父は、その栄光のために、世界を創造した瞬間からわたしのためにあなたたちすべてを運命づけた。わたしの父があなたたちに運命づけたのは、他ならぬわたしの働きのためとわたしの父の栄光のためであった。あなたたちがわたしを信じるのはわたしの父によるのである。あなたたちがわたしに従うのはわたしの父が運命づけたことによる。このどれもあなたたちが自分で選んだものではない。さらに重要なことに、あなたたちはわたしの証しをするためにわたしの父がわたしに授けた者たちであることを理解しなければならない。わたしの父があなたたちをわたしに授けたので、あなたたちはわたしがあなたたちに授ける道、わたしがあなたたちに教える道や言葉に従うべきである。わたしの道に従うことがあなたたちの本分だからである。これが、あなたたちがわたしを信じる最初の目的である。そこで、わたしはあなたたちに言う、あなたたちはわたしの道に従うためにわたしの父がわたしに授けた人々にすぎない。しかし、あなたたちはわたしを信じるだけである。あなたたちはわたしに属していない。あなたたちはイスラエルの一族に属しておらず、その代わりに古代の蛇の種族に属しているからである。わたしがあなたたちにするよう要求することは、わたしの証人になることだけであるが、今日あなたたちはわたしの道を歩かなければならない。このすべては将来の証しのためである。あなたたちがわたしの道に耳を傾ける人々としてのみ機能するならば、あなたたちには何の価値もなく、わたしの父がわたしにあなたたちを授けたことの意義は失われるだろう。わたしがあなたたちに強く言いたいのは次のことである。「あなたたちはわたしの道を歩かなければならない。」


聖書は神ではなく人によって編纂されたものであり、聖書は神を表現できない

2020-10-30 20:44:51 | 勝利者の証し

聖書は神ではなく人によって編纂されたものであり、聖書は神を表現できない

    参考聖書箇所

    「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネによる福音書 5:39–40)

    「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書 14:6)

    関連する神の言葉

    聖書は神のイスラエルでの働きの歴史記録であり、古代の預言者たちの数多くの預言と、ヤーウェが当時その働きについて述べたことの一部が記録されている。だから、人々はこの本を神聖なものとして尊ぶ(神は聖く、偉大であるから)。もちろん、これはみな、人々のヤーウェへの畏敬と神への尊崇から来ている。人々がこの本をこのように扱うのは、神の被造物が自分たちの創造主を深く畏敬するためで、この本を天の書と呼ぶ者さえいる。実際のところ、これは人間の記録でしかないのだが。これはヤーウェが直接名付けたものではないし、ヤーウェが直接その作成を導いたものでもない。つまり、この本の著者は神ではなく、人間なのだ。聖書は、人間が敬ってつけた書名に過ぎない。この書名は、ヤーウェやイエスが話し合って決めたものではない。これは人間の考えでしかない。この本はヤーウェの著書ではないし、ましてイエスの著したものでもない。そうではなくて、多くの古代の預言者や使徒たち、予知する者の書いたものを後の世代が編集して、その人々にはとりわけ聖いものと映った古代の文書を一冊の本に、未来の世代によって解読されるのを待っている多くの計り知れない深遠な奥義を含んでいるとその人々が信じた一冊の本に、まとめたものである。だから、よけいに人々はこの本を天の書だと考えがちである。四福音書と黙示録の追加によって、この本への人々の態度は、他のどの本とも異なっていて、誰一人、この「天の書」を解明しようとしない。――それはあまりに「神聖」だからだ。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より

    それ以前には、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の始めに、人々は旧約を読んだのである。新約は恵みの時代になって、はじめて現れる。イエスが働いていた間、新約は存在しなかった。イエスがよみがえり、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録した。そうしてはじめて、四福音書が生まれ、それに加えて、パウロとペテロの書簡、そして黙示録が生まれた。イエスが昇天して三百年以上過ぎた後で、後の世代が記録を集め、新約が生まれた。この働きが完了した後ではじめて新約が存在した。それ以前にはなかったのである。神がすべての働きを行った。使徒パウロも自分のすべての働きを行った。その後に、パウロとペテロの書簡が集められ、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻が、終わりの日の働きを預言していたため、最後に加えられた。これらはみな、後の世代の編集したものであって、今日の言葉とは別物である。今日記録されていることは、神の働きの段階に沿ったものである。人々が今日関わっているのは、神が自ら行った働きであり、神が自ら語った言葉である。人は介入する必要がない──霊から直接出る言葉は順を追って並べられており、人間の記録を編集したものとは異なっている。彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての能力の程度に従っていたと言える。彼らが記録したものは人間の経験であった。人々にはそれぞれ自分なりの記録の手段と認識があり、それぞれの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より

    結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より

    多くの人は、聖書を理解することと解釈できることは、真の道を探すのと同じことだと信じている。しかし、実際、物事はそんなに単純だろうか。聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。

『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より

    神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる 」より

    堕落した人々は、みなサタンの罠に囚われている。彼らは肉に生き、利己的な欲求をもって生きていて、彼らの中には、わたしと融和する者は、ただの一人もいない。わたしと融和すると言う者もいるが、みな漠然とした偶像を拝んでいる。彼らはわたしの名を聖いものとしているが、わたしに反する道を歩んでいる。そして、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。心の底では、みなわたしに敵対しており、わたしと融和していないからである。毎日、彼らは聖書にわたしの痕跡を探し、適当に「都合の良い」句をみつけては、いつまでも読み続け、それを聖句として唱える。彼らはわたしと融和する方法を知らず、わたしに敵対するということが何を意味するかを知らず、単に闇雲に聖句を読んでいるだけである。彼らは見たことがなく、見ることもできない漠然とした神を聖書の中に閉じ込めて、暇な時に取り出して眺めている。彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。だから、彼らは未来と罪のための捧げ物を見捨て、聖書の教義に従わなかったイエスを罪に定めて殺したのである。彼らは聖書の一字一句に隷属していたのではないか。

    では、今日の人々はどうだろう。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受けるために、キリストを人間の間から追い出したいくらいなのである。彼らは聖書の権益を守るために真理の訪れを完全に否定し、聖書の永続を確実にするため、再び肉となったキリストをもう一度十字架に釘付けにしたいくらいなのである。あれほど悪意に満ちた心をもち、わたしに対してあれほど敵意のある本性をもつ人間が、どうしてわたしの救済を受けられるのか。わたしは人間の間に生きているが、人間はわたしの存在を知らない。わたしが人間に光を照らしても、人間はわたしの存在を知らずにいる。わたしが怒りを人間の上に放つと、人間はますます強くわたしの存在を否定する。人間は言葉、聖書との融和は求めるが、真理と融和しようとわたしの前に来る者はただの一人もいない。人間は天のわたしを見上げ、天にいるわたしについて、とりわけの関心を向けるが、肉におけるわたしを心にかける者は誰一人いない。人間の間で生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の言葉に合致するものだけを求める人々、漠然とした神に合致することだけを求める人々は、わたしには哀れに見える。それは、その人たちが崇めているのは死んだ言葉と、計り知れない宝を与えられる神だからである。その人々が崇めているのは、人間の思いのままになる神なのだが、それは存在しない。では、そうした人々はわたしから何を得られるのか。人間はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する人々、わたしに限りない要求をする人々、真理を愛さない人々、わたしに反抗心をもつ人々──どうしてそんな人々がわたしと融和できるのか。

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より

    現在わたしが説明している事実は、神であるもの、神がもつものは永遠に無尽蔵であり、無限であるということである。神は生命と万物の源である。神は、創造物が想像し得ないものである。最後に、すべての人に再度思い出させなければならないことがある。すなわち、神を書籍や言葉、従来の言葉に制限してはならない、ということである。神の働きの特徴は「新しい」という一語に尽きる。神は旧来の道を辿ったり、働きを反復するのを好まない。さらに、神は人間が神を一定範囲に制限した上で礼拝することを望まない。これは神の性情である

『言葉は肉において現れる』の「あとがき」より


キリストの再来についての七つの預言

2020-10-29 21:13:28 | 天の国の福音

キリストの再来についての七つの預言

    今はもう世の終わりの末期です。ヨハネの黙示録第22章12節では、主イエスは『見よ、わたしはすぐに来る』と言われました。主はわたしたちに、彼がまた来ると約束されましたが、主はすでに来られましたか。わたしたちはどうすれば主が再来したかどうかを知ることができますか。真心から主を信じて、主の到来を待ち望む兄弟姉妹たちはきっとこのような疑問を抱いているでしょう。

1.信徒の愛が冷えた
    マタイによる福音書第24章12節でこう書かれています。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。今、各宗派の信徒たちはおしなべて世をむさぼります。ある者は商売をし、ある者は工場を開設して、金を稼ぐのに忙しく、主のために働く気持ちがなくなります。牧師、長老たちも互いに腹を探り合って暗闘し、互いにねたみ、争います。中には、徒党を組み、いけにえを盗み食いし、ふしだらな行いをする者さえもいます。人の信仰がますます薄くなり、人の愛がますます冷えてきます。今、教会の荒廃状態がますますひどくなります。

2.戦争、飢饉、地震が現れた
    マタイによる福音書第24章6節から8節でこう書かれています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて生みの苦しみの始まりである」。ここ数年来、世界各地の災難はますます大きくなります。地震、水害、干害、火災、飢饉、疫病はしばしば発生し、しかもますます多くの地域が被災します。被災地区の悲惨な光景は人の心を痛めます。国際情勢は不安定で複雑でその変化が甚しいです。戦争や暴力事件やテロ襲撃はしばしば起き、しかもどんどんとエスカレートします。例えば、2016年4月、インドが40年来の最もひどい旱害に見舞われました。そのため、3億人以上の人の飲料水が不足してしまいました。2015年から2016年までに、ヨーロッパ、アフリカ、中東などに多くのテロ襲撃が起き、数えきれない死傷者が出ました。2008年、中国の四川省汶川県でマグニチュード8の大地震が起こり、7万人近くの死亡者が出、1.8万近くの人が行方不明になりました。本来ならば、地殻層が厚くなった後、地震がますます少なくなるはずですが、今は地震がますます多くなります。これは科学者たちを困惑させています。

3.イスラエル国家が復興した
    聖書にこう書かれています。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マタ24:32-33)。「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない』。」(ルカ21:29-32)。1948年5月、イスラエル国家が復興しました。1948年5月15日、ベン・グリオンがテルアビブでイスラエル独立を宣言した後、ソ連はすぐそれを承認し、しかも5月26日、イスラエルに大使館を開設しました。それ以後、ソ連は多くの面でイスラエルを支持しました。1949年5月11日、米ソ両国の支持の下に、イスラエルが国連加盟国として正式に承認されました。

4.天体が変わった
    マタイによる福音第24章29節でこう書かれています。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。天文学者たちは頻繁に天文情報を公表します。天文学者たちの話によれば、多くの星がいま落ちつつあり、多くの新しい星がすでに現れたということです。隕石落下の事件がしばしば起こります。2016年5月17日の明け方、アメリカのニューイングランド地方に巨大な隕石が落下しました。隕石が落ちている時に発する強い光によって、夜は昼間のようになりました。2013年2月15日午前9時15分、ロシアのウラル連邦管区のチェリアビンスク市は小惑星に衝突されました。その強力な衝撃波と爆発によって、1491人の負傷者が出、数えきれないほど多くのガラスが割れました。科学者の話によれば、その小惑星は直径が約15メートルで、質量が約7千トンだったそうです。これらは、「星は空から落ちる」という預言を成就しました。

5.福音は地の果てまで宣べ伝えられた
    マタイによる福音書第24章14節で「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と書かれています。ここの「福音は……全世界に宣べ伝えられる」は、世界各地の人が主の福音を聞いた後、キリストが再来することを示しています (これは、あらゆる人が福音を聞くこと、或いはあらゆる人がキリストを信じることを指すのではない)。主イエスが十字架につけられて贖いの仕事を成し遂げた後、聖霊は神の選民が主イエスを証しするのを導き始めました。ラジオ放送局、インターネット、書籍、福音の宣伝ビラ、宣教などによって、主の福音がますます広く宣べ伝えられてきました。今はクリスチャンは世界の至る所にいて、主イエスの福音はもう全人類に行き渡りました。無神論の政党によって統治されている中国でも、主イエスの福音を受け入れた人がたくさんいます。だから、主イエスが人類を贖ったという福音は世界の果てまで宣べ伝えられました。愛する兄弟姉妹たちよ、考えてみましょう。世界のどの国や地域の人がイエスの福音を聞いたことがないのですか。

6.異端者の出現
    マタイによる福音書第24章4節から5節でこう書かれています。「イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう』」。今、世界各国の宗教界にも、多くの異端者、邪教が現れました。これらの異端者、邪教は少しの真理も持たず、また人に真理、命を供給できず、全然人を築き上げ、人に益を得させることができません。

7.偽キリスト、反キリストの出現
    マタイによる福音書第24章23節から26節でこう書かれています。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない」。今、どの国の宗教界にも、偽キリストが人を惑わすようなことが起こりました。韓国では、多くの人は弁別力がないので、偽キリストに惑わされて、偽キリストの追従者になりました。偽キリストはいくらかの簡単なしるしや奇跡を行い、もっともらしい謬論を話して人を惑わすことしかできず、全然真理を発表して、人類が絶えず罪を犯すという問題を解決することができず、また人類を腐敗から救い出すことができません。聖書の預言から分かるように、主イエスが再来して働かれる時、きっと多くの偽キリストや人を惑わす者は現れて神の働きを妨げます。だから、偽キリストが現れる時、神はすでにひそかに来られました。ただ人がそれを知らないだけです。このような時、わたしたちは進んで神の世の終わりの働きを探求し、調べるべきです。兄弟姉妹たちよ、主イエスの再来を迎える上で最も重要なのは、真のキリストと偽キリストを見分けることです。これは、わたしたちが神の御座に携え上げられることができるかどうかにかかわります。だから、どのように真のキリストと偽キリストを見分けるかについての真理を装備することは、わたしたちの当面の急務です。今、あなたは真のキリストと偽キリストを見分けることができますか。

    x以上の事実からは、主の再来についての預言がすでに成就したことがうかがえます。これらの預言の成就から見て、主がすでに戻られました。しかし多くの人はきっと「主が戻られたなら、なぜわたしたちが主を見ていないのですか」と聞きます。彼らは考えたことがないでしょう。自分たちが主を迎える上で間違いを犯したかを。今、多くの人は主の再来についての知らせを聞く時、偽キリストを警戒することを最も重要なことだと見なして、どのように賢い乙女のように神の声を聞くべきか、どのように主の再来を迎えるべきかを重視せず、自分の観念、想像を固守して、主イエスの再来を証しする者たちの証しがすべて偽りのものだと思っています。そのため、彼らは探求し、調べることはしません。こうして、彼らは主の再来を見る機会を逸しました。

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クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

2020-10-28 19:25:17 | 天の国の福音

クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

    1つの投稿記事をここで転送します:

    こんにちは!兄弟姉妹の皆さん、私は1つ質問があり、皆さんのそれに関する理解を求めて、今日、ここに投稿します。どうぞ、積極的に参加してください。

    今日、私が強い信仰心でお勤めをしていると、マタイによる福音書第25章に10名の乙女に関する寓話があるのを読みました。5名の思慮深い乙女は誰かが「花婿がやって来た」と叫ぶのを聞いて、躊躇せずに彼を迎えに出ました。そのため、彼女達は主と共に夕食を取り、ごちそうを楽しみました。なんと栄光あることでしょう。一方、残りの思慮が浅い乙女5名は主を迎え出なかったため、神の国の門の外に閉め出されてしまいました。なんと愚かなことでしょう!そこで、私は、「誰かが『花婿がやって来た。外へ出て、彼を迎えよう』」と叫ぶのを聞いたら、私が生きている間は思慮深い乙女となり、躊躇せずに主を迎え出なければならない」と考えました。そこで、また、「主の再来は私が考えるほど単純なものではないはずだ。そうでなければ、どうして思慮が浅い乙女が主により閉め出されるなんてことがあろうか?」と考えました。そこで、思慮深い乙女となるにはどうすればよいかを知りたいと思います。

    投稿者:松本愛

    回答:

    姉妹岡田:

松本愛、私にはこれが分かります。数日前に行われた聖書の勉強会で、リュー牧師は「現在は、終わりの日で、主イエス様が間もなく再来されます。私達は主をお迎えできるよう思慮深い乙女となり、主に見放され、神の国の門の外で泣いて、歯ぎしりをすることになる思慮が浅い乙女とならないようにしなければなりません。思慮深い乙女となるには、私達はもっと聖書を読み、注意深く祈り、主のためにもっと働く必要があります。これらのことを常日頃から行う者だけが思慮深い乙女であり、神の国に入り、主と共に夕食を取ることができるのです」と言いました。牧師のこの説教を聞いて、私はとても興奮しました。それから私は、毎日、注意深く御祈りをし、聖書を読むようになりました。思慮深い乙女となり、神の国の晩餐会に主と共に参加できるよう、時間がある限り、親戚や友人、仲間に福音を説き、主の証を立てています。

    ムイ:

    こんにちは!少しお話させていただきたく思います。姉妹岡田の言葉をたった今聞きました。過去10年間、私の牧師もそう言っており、私はそのようにいつも実践してきました。しかし、その後、何かがおかしいと感じるようになりました。私達はこれらのことをするだけで思慮深い乙女となれるのでしょうか?思慮深い乙女とは、主が再来されたときに、積極的に外へ出て、主を迎えることができることを意味するのではないでしょうか?10年はまたたく間に過ぎていきました。主の再来に関する預言が基本的に現実化し、大災害が次から次へと起きており、それは主がいつ何時でも再来し、私達を神の国に連れて行ってくださることを示しており、とても心配しています。そこで、イエス様が再来した際にお迎えできるよう、思慮深い乙女の基準を満たせるよう、どのようにそれを追求できるかについてぜひとも知りたいと思います。

    松本愛:

    さて、回答がありますか?

    ムイ:

    主よ、ありがとうございます!その後、兄弟姉妹との交流を求める中で、私はそのことを理解しました。主イエス様は次のように預言されました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 」(マタイによる福音書 25:6)。このことから、主イエス様が再来されたとき、主の御声を聞くことができ、外へ出て主をお迎えできる者だけが思慮深い乙女だということが分かります。従って、思慮深い乙女の主な現れは、その者たちが主の御声を認識できるということです。主イエス様がユダヤで働くために受肉されたとき、主は数多くの真理を明らかにされました。真理を本当に求め、神様の出現を切望する者は、救世主の到来を歓迎しました。これらの者は主イエス様の御言葉から神様の御声を認識し、主こそ到来が預言されていた救世主であると悟ったのです。

    佐藤恵和:

    ちょうどサイトに入ったばかりです。上のメッセージを読み、私も皆さんにお話したいことがあります。

    松本愛:

    ようこそ。

    ムイ:

まるで、かつて収税人であった当時のマタイのように、主イエス様が「わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書 9:9),と彼に言われるのを聞いて、彼は立ち上がり、そのまま主についていきました。また、聖書には次も記録されています。主イエス様との短い会話を交わした後、ナタナエルは「ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(ヨハネによる福音書 1:49)と言い、主についていきました。また、ペテロは、イエス様が船の中で人々に説いていた説教を聞いて、網と船を捨て、主についていきました。

    佐藤恵和:

    少しお話させていただきたく思います。ペテロ、ナタナエル、マタイなどの人々はすべて、主の御言葉と御発言から主イエス様が救世主であると認識し、主についていきました。同様に、サマリア人の女性は主イエス様と話しているとき、主が 「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。』」(ヨハネによる福音書 4:13-14)と話されるのを聞き、彼女の心の中に隠していた秘密が主によって明らかにされました。そして、真理の謎について話し、彼女の秘密を明らかにすることができるこのような人は、明らかに、普通の人や預言者ではないと悟りました。彼女は、主の御言葉から、主イエス様が救世主、キリスト様であると確信を持ちました。

    ムイ:

    そう、佐藤さんの言う通りです。これにより、私達は、彼らが神様の御声を聞くことに意識を集中しており、そのため、主の出現を歓迎できたことが彼らの知恵であり、それが思慮深い乙女の表れであることが分かります。

    佐藤恵和:

    少し付け加えたいと思います。思慮深い乙女には、自分自身の意見と根拠がありました。主の御言葉を聞いたとき、彼女達は外に主を迎え出ました。彼女達が主についていっている間、彼女達の周りでどれだけ中傷、冒涜、非難の声を聞こうとも、彼女達は変わらず、主イエス様が救世主であることを受け入れていました。弟子達が主についていったときと同様、彼女達は、多くの祭司、律法学者、パリサイ人から、主に抵抗し、主を中傷する多くの声を耳にしましたが、主への信仰に影響することはありませんでした。

    松本愛:

    はい。その通りです。

    ムイ:

    これらの祭司、律法学者、パリサイ人、そして彼らに従うユダヤ人はすべて、律法と規則に従う限り、確実に救世主の到来をお迎えすることになるだろうと信じていました。主の御言葉と御働きにどれほどの力と権威があろうと、彼らは自分の観念と想像に固執し、主イエス様の御言葉と御働きを調査することを拒みました。彼らは主イエス様を普通の人、神様の御発言を人の言葉とみなし、主を裁き、冒涜さえしました。最終的に、彼らは待ち望んでいた救世主を十字架に磔にし、神様を信じながら神様に抵抗する者となったのでした。彼らには神様の御声を認識することができず、真理を求める心を持っていませんでした。その代りに、神様の御出現と御働きを盲目的に拒否し、非難しました。そのため、彼らは神様からの御救いを失い、最終的に、神様の御怒りと御懲罰が下りました。これは、思慮が浅い乙女の表れで、彼らの結末でした。

    松本愛:

    皆さんの言葉を読み、私はとても恥ずかしくなりました。私はこれまで何度も聖書でこれらの寓話について読んでいながら、この光を得ていませんでした。

    主よ、ありがとうございます。たった今行われた皆さんによる思慮深い乙女と思慮が浅い乙女の表れについての交流はとても明確で、思慮深い乙女とは主イエス様の御働きについていく者のことで、主の御声を聞くことができる者で、主の御声を認識したら躊躇せずに最後まで主の後についていく者のことを言うのだと理解することができました。

    佐藤恵和:

    そうです!思慮が浅い乙女が門の外に放っておかれた理由は、彼女達には謙虚な気持ちで求める心がなかったからです。主イエス様の福音に直面して、彼女達は思慮深い乙女達と共に表に出ていって、これを受け入れることを嫌がり、自分の意見を持たずに、彼女達が尊敬し、崇拝するパリサイ人に助言を求めました。そのため、彼女達は主の救済を失いました。

    ムイ:

    その通りです!そのことは、現在にも同様に当てはまります。主イエス様の再来に関する預言は、基本的に現実化しています。今こそ主が再来される重大な瞬間です。イエス様の再来をお迎えするために、私達はどのような環境を整えておくべきでしょうか?

    松本愛:

    もっと教えてください。

    ムイ:

    分かりました。主イエス様は次のように仰っています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これらの預言によると、主が再来されたときは、確かに御言葉を発することが分かります。主イエス様が次のように仰っているため、これは疑う余地がありません。 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)。従って、主の再来のお迎えに関して、主の御発言と御言葉に注意する必要があります。神様の羊は神様の御声を聞くものです。「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」(ヨハネの黙示録 14:4)。主が再来される終わりの日に、私達が主をお迎えできるか否かは、私達が主の御声を認識でき、主の後についていけるか否かにかかっています。この点で、思慮深い乙女は思慮が浅い乙女とは異なっています。今日、誰かが主の再来の福音を説いているのを聞いたら、私達は思慮深い乙女の例に倣い、自分の観念と神様が御働きになった過去から出て、新時代の神様の御発言と御言葉に耳を傾けなければなりません。このような人のみが神様によりお認めいただき、聖霊の働き、啓示、光を得ることができます。同時に、私達は終わりの日の主の御言葉と御働きを求める際に、思慮深い乙女達のように自信と勇気を持つべきです。他人が何を言おうと、私達は見定める力と自分自身の意見を持つ必要があります。私達が神様の御声を認識する限り、私達は躊躇せずに調査すべきです。それが神様の御働きであることが確認できたら、神様の後にぴったりとついていき、迷ったり、後退りしてはなりません。真理を渇望し、真理を求める心がある限り、私達はイエス様の再来を確実にお迎えできるでしょう。

    松本愛:

    主よ、ありがとうございます!ようやく、思慮深い乙女となる道が理解できました。つまり、誰かが外で「花婿がやって来た」と叫んでいたら、私達はその人を迎え入れ、調査するために外へ出る必要があります。これこそ主の御声であると確信を持ったら、その人を受け入れ、ついていく必要があります。

    ムイ:

    その通りです。主よ、感謝します。最後に、皆さんと御言葉の次の聖句を共有したいと思います。「私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」栄光は全能の神様のものです。アーメン!


イエス・キリストの再臨はいつなのか誰も知らないって本当ですか

2020-10-27 22:26:12 | 勝利者の証し

イエス・キリストの再臨はいつなのか誰も知らないって本当ですか

    朝食後、チェン・ユーハンは聖書を読み始めた時、ドアをノックする音が聞こえました。彼女がドアを開けてみると、そこには同僚のヘ・シングアンと彼の妻シンユーがいました。

    二人は中に入ってきて座りました。そしてシングアンは混乱した様子でこう言いました、「昨日の同僚会議の後、帰宅したら心の中で落ち着かない気分がしたんです。ご存知の通り、今は主が来臨される終わりの日の重大な時期です。沢山の人が主は既に再臨されたと証言していますが、リュウ牧師は主がいつ来られるかは誰も知らないと仰ったんです。それは聖書にこう記されているからだそうです:「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書24:36). 従って、主が再臨されたことを説く証言は全て嘘ということになります。それに、私たちが騙されることがあれば、そのような証言に耳を傾けたり、目を向けたり、その証言をする人たちと連絡を取ってはならないと主は仰りました。私はこの主の御言葉について考えれば考えるほど、増々何かがおかしいような気がするのです。なので、私は主の御言葉を疑っています。主イエスが本当に再臨されているのに、イエス・キリストの再臨を証言するいずれの人たちの言うことにも耳を傾けず、目を向けず、その人たちと連絡を取らずにいたら、どうやって主をお迎えできるというのですか?

    ユーハンはじっくり考えてこう言いました、「あなたが言ったことは本当に重大な問題です。主の来臨は慎重に対応するべきです。むやみにリュウ牧師に従ってはいけません。今現在、世界中で災害はどんどん悪化し、より頻繁に発生していますから、イエス・キリストの再臨をうたった預言は基本的に成就されています。今こそ、主が再臨される時なのです。私たちはイエス・キリストの再臨を切望しています。それが起れば、私たちは神との宴に参加して天国の祝福を授かるのです。今、私は沢山の人々がイエス・キリストの再臨を証言しているのを耳にしました。しかし、私が理解できないのは、」そして彼女は聖書を開き、続けてこう言いました、「主イエス様は明確にこう仰っておられるんです:「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マタイによる福音書24:36)。人の子ですらいつ再臨するか知らないのに、彼らはどうやってこれを知り得たというのでしょう?しかしながら、主がいつ再臨されるかを誰も知らないとしたら、私たちはどうやって主の救いを受ければいいのでしょう?そうしたら、主が再臨される目的は一体何なのでしょう?私はそれについても混乱しています。」

    シングアンは頷いてこう言いました、「これは本当に問題ですね。昨日の会議の後、私は帰宅してから主に祈りを捧げてこの節を理解しようとしてみました。今朝もう一回読んでみたら、突然理解できたんです。「その日、その時は、だれも知らない。」という節は、主がいつ再臨されるかは誰もしらないという意味ではありません。それは主が来られる日とその時間は誰も知らないという意味です。主が再臨された後、誰かが主に気が付くでしょう。そうでなければ、どうやって 「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6) という主イエス様の御言葉が成就されるでしょう?「夜中に呼ぶ声がした」という節は、主が来られる時、誰かがそれを知るということを示しています。」

    シンユーは驚いてこう言いました、「凄い!これは神の御啓示だわ!この節は主イエスが再臨される日とその時間は誰も知らないことを明確にしているし、それは私たちは主が再臨される正確な日を知らないことを意味しているわ。でも主が再臨して人々の中で働きをされる時は、間違いなく主に気が付く人たちがいるってことよ。これは、『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」』(マタイによる福音書25:6) という節を確証しているわ。そう思いませんか?でも、リュウ牧師は聖書を誤解して主がいつ再臨されるかは誰も知らないって仰っていたわ。彼の解釈は人々を誤った方向に導いていませんか?ああ!私たちは本当に無知だわ!この節の内容はとても明らかなのに、どうして以前は分からなかったのかしら?主イエスがいつ再臨されるかを知る人は間違いなく現れるわ。」

    ユーハンはじっと考え込んでいました。彼女はシングアンとシンユーの話しを聞いた時、興奮しながらこう言いました、「主の御慈悲に感謝します。私は今日この交流を通じて、その節は主が再臨される正確な時は誰も知らないけど、主が再臨して働きを開始される時、誰かがそれを知ることになることを意味していると、やっと理解できました。主イエス様が恵みの時代に贖いの働きをするために受肉された時と同じです。預言者はメシアが来ると預言しましたが、何時どのようにして来るかは誰も知りませんでした。主イエス様が働きと説教を開始されたとたん、多くの人々が主イエス様に気が付きました。これと同じで、主が再臨される日とその時間は誰も知らないのです。しかし、主が再臨され、働きを開始されれば、間違いなく誰かが主に気が付くでしょう。そして主に気が付いた人たちはイエス・キリストの再臨を広め、その証言をするでしょう。そうですよね?」

    シンユーは興奮して言いました、「その通りよ!主の御啓示が主の御言葉を理解させてくださったことに感謝します。イエス・キリストの再臨は些細なことではありません。私たち信者は皆、主が来られて私たちを天国にお連れくださると期待しています、そうですよね?」

    ユーハンは嬉しそうに頷きました。そして、彼女はあることに気が付きました。彼女はシングアンを見てこう言いました、「主が再臨される正確な日を知らずにどうやって主の再臨をお迎えしたらいいんだろう?」

    シングアンは少し考えてからこう言いました、「私もそのことを考えているんですよ。私は主に祈りを捧げて答えを探求しました。そして主がかつてこう仰ったことを思い出したんです:『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。』(ヨハネによる福音書10:27)。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。』(ヨハネによる福音書16:12-13)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。』(ヨハネの黙示録3:20)。これらの聖句は全て、主は再臨なさる時にまた真理をお話しになることを示しています。賢い乙女は主の御声を聞いてイエス・キリストの再臨をお迎えし、主との宴に参加するのです。私たちは賢い乙女たちと同じように、主の新たな御言葉を探しに行くべきです。私たちは、花婿が来た!と誰かが声を上げるのが聞こえたら外に出て主をお迎えするべきです。神の御声に気が付くことができたら、イエス・キリストの再臨をお迎えして神の足跡を辿りますよね?」

    ユーハンは嬉しそうに言いました、「もちろんです!主に感謝します!今日の交流は正に神から私たちへの御恵みです!これで、主の御声を聞き分けることが主を実際にお迎えするための道であることが分かりました!」

    シンユーは「これで主をお迎えする道が見つかったんだ…」、と感情を込めて言いました。