賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンの結婚 – 神様の御言葉が夫をお戻しくださった

2020-12-03 16:13:44 | 信仰生活

 私の夫は見た目がよいだけではなく、高学歴で、よい仕事に就いています。さらに、かつては兵士で、戦場に行った経験もあります。夫は外見、教育、知識の面で私を上回っています。息子が生まれてからは、夫は仕事から帰宅すると、いつも、洗濯物を手伝ってくれたり、食事を作ってくれたり、息子の世話をしてくれたりしました。夫は息子と私をとても愛しており、本当によき夫で、よき父でした。当時、私は自分のことを世界で最も幸せな女性だと思っていました。私は幸せで、こんなに素晴らしい夫を持っていることを自慢に感じていました。しかし、幸せな一方で、いつか、夫が悪い風潮に従い、別の女性に心を奪われ、私を裏切る日が来るのではないかと、やや不安と危機感を持っていました。

 当時、夫は政府機関のある部門の部門長から、商業グループの副社長に突然昇進しました。夫がこの知らせを伝えてくれたとき、私は嬉しさと同時に心配になりました。嬉しくなったのは、夫の昇進により、名声と社会的地位、そしてお金が手に入るからでした。また、さらによい生活をすることができ、他人が私達を崇めると考えたからでした。一方、不安になったのは、夫が部門長であったとき、仕事のために夜中に帰宅することが時々あり、副社長に昇進すると、接待が多くなり、息子や私の面倒を見ることができなくなること、そして社会には愛人を持つ人が多く、特に、裕福で、有名で、社会的地位がある人々はこの悪い風潮に従う傾向にあること、さらには夫の地位が高くなるほど、よりさまざまな人と出会うこととなり、この悪い風潮に一層従いやすくなってしまことを考えたためでした。これについて考えると、幸福感が突然消失し、その代わりに、不安と恐れで胸が一杯になり、不吉な予感がしました。

 夫が新しい幹部職に就いてから、社会的地位は高まり、より多くの権力を手にするようになりました。目標を達成するために、中間管理職の女性が、一緒に食事したり、お酒を飲んだり、踊ったり、歌ったりして夫を喜ばせるようになりました。最初のうちは、夫もこの退廃的な生活と社会現象に抵抗、憤慨し、それについて強い絶望感を覚えると私に幾度となく言っていました。しかし、徐々に、夫は度重なる誘惑のため、この生活に堕ちないでいることはできず、ご馳走や快楽を求める人生を送り、飲んだり、快楽に浸ったりし始めました。ときには、夜、帰宅しないことすらありました。私は精神的なトラウマとなり、精神崩壊の危機に瀕しました。夫が私にもたらした幸福感はなくなっていました。ある日、息子が「ママ、どうして僕はお父さんに一週間も会っていないの?」と尋ねました。息子の心を傷つけないよう、私は嘘を付き、「お父さんはお仕事で忙しくて、あまりの忙しさに、夜遅くなってから帰宅することがあります。あなたは朝早くに学校に行くからお父さんに会わないのです」と言いました。こう言った後、私は言いようのない悲しみと痛みを胸に感じました。今、私達はお金、名声、社会的地位を手にしましたが、夫は私達から益々遠ざかっていました。これを考えると、かつて感じたことのない孤独と痛みを感じました。私は残りの人生をこのような痛みの強い人生の中で生きていかなければならないのでしょうか?かつて夫が私にもたらしてくれた幸せを思うと、この結婚を諦めたくはありませんでした。離婚の危機に瀕したこの結婚を救うため、次の3原則について夫に交渉しました。1つ目は、夜に接待があるときは、午後9時までに帰宅すること。2つ目は、週に3回は息子と私と一緒に夕食を取ること。3つ目は、浮気をしたら、家の敷居をまたいではならないこと。夫はすぐに同意したものの、夜遅くに帰宅する回数は全く減らず、以前と同じ生活を続けていました。夫が時間までに帰宅しないと、夫と口論になることがあり、そのため、私達の家族から平和な暮らしがなくなりました。夫と私の心は益々離れていきました。かつて、友人や親戚から羨望の的であった私達の家族がこのように壊れてしまったことを目の当たりにし、私は胸が張り裂けるように感じ、失望しました。私は心の中で、「この辛い人生はいつ終わるのだろうか?」と考えました。2012年、私が絶望しているとき、ある人が私に福音を伝道し、私は神様を信じるようになりました。その後、私は、これらの言葉を読みました:ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。 

 これらの言葉を読み、夫がひどく堕落してしまった理由は、サタンが人々を腐敗させるために使う邪悪な社会的な風潮のためであることを明確に悟りました。現在、「人生は短いのだから快楽を求めてその日を生きろ」「女性は悪くなると富を手にし、男性は富を手にすると悪くなる」「家庭での赤旗は下がることはないが、家の外のさまざまな色の旗はそよ風の中ではためいている」などの言葉が社会全体でよく使われています。これらの邪悪な悪魔のような考えは社会的な風潮になりました。この社会的な風潮の影響を受け、人類全体が益々邪悪で、堕落したものになっています。当初、夫は家族の面倒を見て、私のことを気にかけることができました。しかし、昇進に伴い、誘惑に耐えかねて、邪悪な社会的な風潮に従い、徐々に自分を見失い、豪勢で贅沢な生活にふけり、完全に私達を顧みなくなりました。夫だけではなく、腐敗した人類全体が、がっしりとサタンにコントロールされ、それに抗うことも、そこから自由になることもできずにいます。この邪悪な社会的な風潮により、人々は、正常な人間性が持つ平凡でシンプルな生活を送ろうとしません。その代りに、邪悪なものを支持し、高い社会的地位や莫大な富を楽しみ、肉の欲望にふけり、欲を満たすために興奮できるものを追い求め始めています。その結果、彼らは人間性もなく、堕落の一途を辿っています。さらに悪いことには、家族関係は崩壊し、彼らの霊は一層空虚で痛み多いものになり、平和や幸せを感じず、益々疲労を感じるようになっています。かつて、最高の夫、賢く従順な子供、名声、富を持つ私は世界で最も幸せな存在であると常々思っていました。事実に直面し、名声や富、物質的な快楽を得たとしても、私達は不幸で、傷付いていることに気が付きました。しかし、どうしたら幸せを取り戻すことができるでしょうか?私は、「かつては夫と口論や喧嘩をしたが、それでは彼を取り戻すことはできない。夫を取り戻し、ひいては結婚生活を取り戻すために私な何をすべきか?」と自問しました。

 その後、 また別の言葉を読みました:「言葉」という語は単純でありふれたものだが、肉となった神の口から出る言葉は、全宇宙を揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。…これらの言葉と、この働きはみな、人間が救われ、神の心を達成し、古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。神は言葉により世界を創り、全宇宙の人間を言葉により導き、言葉により征服し、救う。ついには、言葉により、古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営「救いの」計画が完了する。これらの言葉から、神様は最初に、御言葉により世界をお造りになり、今日、神様は御言葉により私達をお導きくださっていることを理解しました。神様の御言葉のお導きを離れたとき、私達は何が義で、何が邪悪であるかを明確に区別することができなくなりました。そのため、私達は邪悪な風潮に従い、それによる苦しみを味わっているのです。かつては、さまざまな努力やあらゆる手段により、夫を取り戻そうと努力しましたが、どれも失敗に終わりました。この事実に直面し、私のやり方に頼って夫を取り戻し、私達の結婚を救うことは不可能であることが分かりました。同時に、神様によるお救いを受けるために、神様の御前に来ることによってのみ、夫はすべてを見透かし、邪悪な風潮の欺瞞や苦しみを取り除くことができ、神様の御言葉だけが夫の失われた心を目覚めさせ、サタンによる邪悪な風潮から彼を救うことができることが分かりました。私の結婚生活が今後どうなろうと、神様に委ねることにしました。それ以降、私は自分のやり方で夫をコントロールしなくなりました。家族内の口論は徐々になくなっていきました。私はかつて感じたことのない安堵感と解放感を覚えました。神様にお祈りし、神様の御言葉に頼り夫との間の問題を解決しようとすると、神様は私の祈りをお聞き届けになり、環境を実際に整えてくださり、私に道をお開きになってくださいました。

 2013年になり、私は夫に神様の御言葉の証を立て、神様の御言葉を夫に見せました。神様の御言葉を私と一緒に読むことにより、堕落した放蕩生活を送った理由は、サタンによる邪悪な風潮によるものであることを夫は理解しました。夫は自身の楽しみのためだけに生きており、私達を完全に無視することさえあり、そのため、家族関係がもろくなりました。夫はこれまで彼がしてきたすべてを後悔し、神様の御前に来て、祈り、悔い改めました。徐々に、夫は徹夜で家を空けることがなくなってきました。夫に時間があるときは、自宅で息子や私と過ごし、あらゆることについて共に話し合いました。他人が夫を豪華で高級な場所に招待したときは、神様の御言葉に頼り、それらの誘いを丁寧に断りました。夫が誘惑され、惑わされるときは、神様の御言葉から、これらのことを神様が忌み嫌われることを知っていたため、邪悪な性情を裏切れるよう、神様に祈ることによりこの試練に耐えました。夫が変わったのを目の当たりにし、私は心の中でとても喜びました。神様の御言葉が真理であり、道であり、いのちであり、また、神様の御言葉は人々の心、霊、かつての考え、かつての性情を変えられることが本当に分かりました。今、私達は神様の御言葉を読み、意見を交わし、共に経験し、互いに助け合っています。また、神様が私達にもたらしてくださったお救いをより多くの人に証言するため、私達は教会で互いの本分を尽くしています。

 夫を元にお戻しくださり、私達の結婚をお救いくださったのは神様の御言葉でした。私はとても多くのことを経験したため、神様の御前に来て、神様に頼り、真理を求め、神様の御言葉に従い生きることによってのみ、多くのことを見透かし、いのちの正しい道を歩むことができることが分かりました。心の中で本物の平安と喜びを味わい、真実の幸せを得ています!


3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2020-11-24 22:46:53 | 信仰生活

    ケム姉妹へ:

    こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ

    こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

    あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

    今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。
    では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

    神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

    そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう


    賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです


    私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

    例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう


    通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

    私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより


3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2020-11-24 22:46:53 | 信仰生活

    ケム姉妹へ:

    こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ

    こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

    あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

    今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。
    では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

    神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

    そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう


    賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです


    私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

    例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう


    通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

    私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより


子供の教育-私は試験で100点を取ったが、しかし私はどうして楽しくありませんか

2020-11-21 23:53:47 | 信仰生活

子供の教育-私は試験で100点を取ったが、しかし私はどうして楽しくありませんか

    試験では誰もが良い成績を取りたがるものですが、私も例外ではありませんでした。良い成績を取って良い結果を出せば、賞をもらえるし、両親から褒められるし、さらに重要なこととして、先生たちに気に入られると同時に、同級生たちからは羨ましく思われることができます。

    私は小学4年生だった時の1学期目の期末テストのことを思い出しました。その日の数学の試験中、最初から全て順調だったのですが、最後の文章問題で手が止まってしまいました。どれだけ一生懸命に考えても、その問題は解けませんでした。これは6点の問題だったので、それが解けなければ94点しか取れないのです。6点を失いたくなかった私は、隣に座っていた同級生のヂョンに答えを聞こうと思いました。彼は数学が得意だったので、この問題を解けると思ったのです。試験官の方を見ると、彼女は頭を下げてコンピューターを見つめていました。そして、私は「絶好のチャンスだ、でもどうやって聞けばいいかな」と思いました。丁度その時でした、ヂョンが小声で「おい、この問題どうやって解いた?」と私に聞いてきたのです。意外にも、彼が先に答えを聞いてきたのでした。こうして、私たちはお互いに解けなかった答えを交換し合いました。

    私が家に帰ると、母が突然「今日の試験はどうだった? 難しい問題はあった?」と聞いてきました。私はすぐにカンニングしてしまったことを考えました。私は突然落ち着かなくなってこう思いました。「試験でカンニングをしてしまうなんて。僕は神を信仰する子供なのに。お母さんにカンニングしたことを話したら間違いなく叱られてしまう。でも、言わなかったらお母さんに知られることはない。とは言っても、神は人々の心の中をお調べになるから、このことを間違いなく知っておられる。」私は一瞬ためらいました。そして、私たちは何に遭遇しても神に祈りを捧げ、神を頼りにしなければならない、と母が言っていたことを突然思い出しました。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神様!今日私はカンニングをしてしまいました、そして家に帰ってから母に試験のことを聞かれたのですが、母に怒られるのが怖くてそれを話すことができませんでした。神様、どうか私が正直な人になって、母に真実を伝える意思を持てるようにしてください。」こう祈りを捧げると、正直に話す勇気が湧いてきたので、私は試験でカンニングしたことを母に話しました。

    母は私にこう聞いてきました。「カンニングをしていた時、神はそれを好まれないってことを考えなかったの?」私は少し罪悪感を感じ「そうだ、どうしてあの時そう考えなかったんだろう?」と思いました。母は私に正直な人でいることの真理について、神の言葉のこの節を交えながら話してくれました。「あなたが為す全てのこと、一つひとつの行い、あらゆる意図と反応を神の前に示さなければならない。… あなたがいのちにおいて成熟するのを助けるのはこのような実践である。神の監督を受け入れる過程は、清めの過程である。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、あなたは一層清められ、神の意志と一致するので、あなたは放蕩や放縦の声を聞かなくなり、あなたの心は神の臨在の中で生きるだろう。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、サタンは一層辱められ、あなたはもっと肉を捨てることができる。」 私は母の話しを聞きながら内省しました。私は試験でカンニングをしたこと、そしてそれを母に話すのを拒んでいたことは全て欺瞞的な姿勢の表れであると気が付きました。そして、私はカンニングをしてより高い成績を上げようとしたのは、先生に気に入られて、同級生たちの切望の的になることを狙っていたからであったことにも気が付きました。神は私の心を見抜いておられ、私は正直でなかったことを恥じました。私は静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神様!今日私はカンニングをしてしまいましたが、それを悔い改めたいと思います。今後また、このような状況に直面することがあれば、真理を実践してあなたの証を立てられるよう、どうか私をお助けください⋯」

    その後、試験の結果が発表され、数学は100点でした。しかし、神の前ではこれを喜ぶことができなければ、100点を取った気分にもなれませんでした。

    あっと言う間に4年生の2学期目の期末試験を受ける日がやってきました。そして先生は私たちに試験を開始するよう言われました。試験はとても難しくて、私には解けない問題がたくさんありました。私は又しても同級生に答えを聞きたくなりましたが、前回神に祈りを捧げたことを思い出して聞くのを諦めました。その数日後、先生はその試験用紙を私たちに返してくれました。先生は答えを説明して、私たちは自分で試験用紙を採点して合計得点を計算しました。計算してみると、私はなんと、たったの59点しかなく、不合格になってしまいました。私はそれを受けとめることができませんでした。恥ずかしくてたまりませんでした。その時、先生は各問題について答えを間違った生徒の数を数えるから、答えを間違った生徒はその問題ごとに立ち上がるようにと言ったのです。私は少し恥かしくなってこう考えました。「今回はたくさん間違ってしまったからなあ、何回も立ち上がっていたら先生にどう思われてしまうだろう。普段はクラスで成績トップなのに。こんなにひどい成績を取ったことを知られたら、先生に嫌われてしまうよ。」こう考えた私は「だったら立ち上がる回数を減らそう」と思いました。ちょうどその時でした、何に遭遇しても神に祈りを捧げて神の御心を求めるべきだ、と母が言っていたことを私はもう一度思い出したのです。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神よ!私が自分の評判を守ろうとしないで、正直な人になれるよう、どうか私をお助けください。」 こう祈りを捧げた後、神のこの言葉が頭に浮かびました。「正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。是は是、非は非を意味する。事実に忠実に、適切な話しかたをすること。ずるをしたり、嘘をついてはならない。」 そして私は「そうだ!普通の人間らしさというのは正直な人であるということなんだ。正直な人はせめて、正直に喋って嘘を言わないものだ。神は正直な人を好まれるから、私は正直な人になりたい」と思いました。こう思った私は自分の面目を守ろうとすることは止めて、正直な人を実践する決意をしました。しかし、立ち上がったとたん、私の心臓はバクバク鳴りました。私は「先生からどんな批評を受けても、神の御心に適ってさえいれば大丈夫だ」と自分に言い聞かせました。ところが、先生は私を見下したりせず、今まで通り私と優しく接してくれたのです。この状況の中で、私は正直な人を実践することができてとても満足な気分になりました。

    その後すぐ、期末試験がやってきました。数学の試験には又しても解けない問題が幾つかありました。私は「これは期末試験、普段の月次試験よりも大事な試験だから高得点を取らないといけない」と思いました。私は前に座っている同級生がその隣の同級生に質問をしているのが見えました。試験官はこれに気が付いていませんでした。なので、私も同じ机に座っている同級生に答えを聞きたくなってしまいました。しかし、私は前回カンニングをしたことについて考えました。私は正直な人になることを学んで、神に対して欺瞞的にならないということを神に祈りの中で伝えていたのです。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神よ!私は又してもカンニングをしたくなっています、しかし私はあなたに祈りを捧げ、二度とカンニングはしないと決心しました。どうか、私が同級生の答えを写すことなど考えずに正直な人になり、真剣に試験と向き合い、可能な限り自分の力で問題に答えられるようお導きください。」 こう祈りを捧げた後、私は落ち着いて慎重に問題を考えることができました。すると、無意識のうちに、問題の解き方が突然いくつかひらめいたのです。私はとても嬉しくなり、神が私を導き、啓示してくださったことを知りました。今回、私は数学の試験で96点も取ることができ、予想を超える結果となりました。カンニングをしていたら、もっと高い点をとれたとは思いますが、同時に神の目前で神の証を失っていたことでしょう。私はとても幸せな気持ちになり、神の言葉を実践していく決意をしました。

    高得点を取るのは、先生や両親から好かれたり、同級生たちから羨ましがられる意味では良いことなのですが、それで幸せになることはできません。むしろ、神の言葉に従って正直な人として振る舞う時に限り、私は真の幸せを得ることができています。これこそが最も大切なことなのです。


主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

2020-11-09 20:30:22 | 信仰生活

主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

オンラインの集会に参加することで潤される

    私は数年前に家族と一緒に主イエスを信じ始めました。しかし2017年になって仕事のせいで頻繁に集会に参加できず、霊が沈んでいくのを徐々に感じました。自分の気に入らない物事に出会うたび、私はしばしば怒りっぽい性質を露わにしていました。心の中では自分を憎んでいたものの、それでも感情を抑えられなかったのです。そこで主に祈り、聖書の学習で私を導き、それによって主との関係修復を助けられる人を用意してくださるようお願いしました。

    ある日、Facebookグループである人のために祈っていたところ、ひとりの姉妹が私を友達に加えてくれました。その後、私たちは信仰に関することをオンラインでチャットするようになりました。その姉妹は聖書について多くのことを知っており、彼女の交わりはとても光に満ちていたので、私は自分の霊が再び潤されたことについて心から主に感謝しました。あるとき、彼女が説教を聞くよう招待してくれたので、私は喜んで従いました。説教の間、ある兄弟が聖書を使って、人類の堕落の起源と、どのような人が天国に入れるかを語りました。彼の説教は牧師のものよりも啓きに満ちていて、耳を傾けていた私の心は光で満たされ、その兄弟の説教を聞くのが楽しみになりました。

オンラインの噂と牧師に影響され、神様による終わりの日の働きの考察を拒絶する


    次の集会が終わりに向かう中、その兄弟は「神様につき従う決心を揺るぎない」という賛美歌を歌いました。私はその賛美歌を聴いたことがなかったので、好奇心からオンラインでそれを探しました。あるリンクをクリックしたところ馴染みのある画像が現われ、それが全能神教会のウェブサイトであることと、その賛美歌が東方閃電によって作曲されたことを思い出しました。以前、牧師が全能神教会のウェブサイトをプロジェクターで映し、それについて悪く言っていたことがあるので、私はとても驚きました。しかし兄弟による説教はとても光に満ちていました。いったいどうなっているのでしょう。それから東方閃電に関する多くの否定的なコメントをオンラインで読んで、その兄弟を心の中で警戒するようになりました。その後、私はあの姉妹に、兄弟が歌った賛美歌は東方閃電のもので、彼の信仰は私たちのものと違うと言いました。すると姉妹は、次のオンライン集会でその問題の答えを一緒に見つけましょうと言ってくれました。

    集会のあいだ、私たちは心の中の疑惑を兄弟に伝えました。すると兄弟は、真の道を考察するときは神様のお声に耳を澄ますべきで、オンラインの噂を基に考察すべきではないと語りました。そして、今は終わりの日で、主イエスは肉となってお戻りになり、全能神の御名で神様の家から始まる裁きの働きをなさっていると言いました。また神様による終わりの日の裁きの働きや、神様が御名を変えられたことに関する聖書の聖句も数多く示してくれました。終わりの日の裁きの働きと全能神の御名に関する聖書の預言に反論することはできませんでしたが、全能神はお戻りになった主イエスであるという兄弟の言葉は私にとって信じがたいものでした。私はこう考えました。全能神は本当にお戻りになった主イエスなのか。牧師がそれについて語るのを以前に聞いたことはないし、主イエスも「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)とおっしゃった。主イエス以外に私たちを救える方はいらっしゃらない。全能神を信じるなら、主イエスを裏切っていることにはならないか。私はまだ天国に入れるだろうか。そうしたことを考えると、兄弟の言うことに耳を傾ける気がしなくなりました。

    その後、異端に気をつけるようにとのメッセージが教会のFacebookグループから送信されました。私はそれを見て、あの兄弟と接触するのがさらに嫌になりました。また姉妹が何度も招待してくれたにもかかわらず、オンライン集会に参加するのも断わりました。しかし後になって、兄弟の説教は主の御言葉と一致しており、ゆえに異端であるはずがないと感じました。そう考えていると心の中で葛藤が起こり、惨めな気分のまま、どうすべきかわからないでいました。その後、兄弟がグループチャットで数編の動画を送ってくれました。それらの動画を再生したところ、西洋の宗教学者による研究報告やコメントがいくつかありました。彼らは中国共産党による全能神教会への非難を調査し、インターネットで流れている全能神教会についての否定的な報道の大半は中国共産党が捏造したフェイクニュースであり、根拠となる事実がないことを証明していました。それらはまた、全能神教会を誹謗し断罪している中国共産党のフェイクニュースが、宗教的信仰の抑圧を目的としていることも暴いていました。これらの動画を見終えて初めて、インターネット上の噂がすべて嘘であることに気づきました。その後、兄弟がグループチャット経由で送ってくれた全能神教会による福音動画も見ました。その動画に登場する兄弟姉妹は中国共産党による逮捕を避けるため、しばしば集会の場所を変える必要がありました。集会の最中に中国共産党によって逮捕され、残酷な拷問を受けた人もいれば、自宅を捨てて逃げることを強いられた人もいました。私はそれらのシーンを見てとても悲しくなり、かつてある長老が中国に行って教えを宣べ、中国共産党はクリスチャンを迫害するのに力を惜しまず、中には投獄された長老さえいると言っていたことを思い出しました。また日曜礼拝の教師は、中国共産党は無神論者でマルクス主義を信じているから、神様を信じる人は誰もが弾圧されると言っていました。当時、私はそれらを誇張だと思っていました。盗みも強盗も働いていない主の信者を、どうして中国共産党が逮捕するでしょうか。しかしこれらの動画を見て初めて、中国共産党は犯罪と闘うよりも宗教的信仰を抑圧するほうに関心があり、彼らによる全能神教会の断罪を信用してはならないと理解しました。

神様による終わりの日の働きを受け入れるのは主イエスを裏切ることなのか


    私は中国共産党による噂を見抜きましたが、主イエスと全能神の関係についてはまだはっきり理解しておらず、兄弟の説教を聞き続けるべきかどうかわからないままでした。全能神を信じ始めたら主イエスを裏切ることになるのではと不安だったのです。すると姉妹が、そんな簡単にあきらめず、最後の判断を下す前に詳しく調べてはどうかとアドバイスしてくれました。彼女の言うことは正しいと思いました。いったい何なのかを突き止めることなくあきらめたら、実際に主がお戻りになっていた場合、主をお迎えする機会を失うことにならないだろうか。そこで、次の集会で兄弟が説教することに耳を傾けることにしました。

    インターネットに接続すると、私の疑問について兄弟がこう説教してくれました。「主イエスを信じる私たちはみな、主が真の神様であることを知っています。また主から多くのお恵みと祝福を受け取り、大いに感謝して愛情を抱いています。ゆえに、主はすでにお戻りになっているが、もはやイエスではなく全能神と呼ばれていると聞くとき、私たちの多くは心の中でためらいを感じだし、自分は別の神様を信じて主を裏切っているのではないかと不安になります。そのせいで神様の働きをあえて考察しようとしないのです。しかしこのような考え方は正しいでしょうか。私たち全員が知っているとおり、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ファリサイ人は主の働きを異端だと断罪し、ローマ帝国と手を結んでイエスを十字架にかけました。主の御名がメシアではなく、安息日をお守りにならず、神殿の外に行って働きをなさり、教えを宣べ伝えられたからです。次のことを考えましょう。何世代もヤーウェ神に仕え、熱心にメシアを待ち望んでいたファリサイ人は、主イエスが預言されていたメシアであるとどうして気づかなかったのでしょう。それは、彼らが神様を知らず、とても傲慢でうぬぼれていて、自分の観念と想像を基に主イエスを断罪して拒んだからです。彼らは最終的に神様を信じながら神様に抵抗した人たちとして人生を終えました。ならば、主がお戻りになったという知らせを聞きながら、主の御名がイエスから全能神に変わったからといって考察するのを拒むなら、それは単に当時のファリサイ人の過ちを繰り返していることになりませんか」

    兄弟の説教は深く考えるべき多くのことを私にもたらしました。彼は正しいと私は思いました。神様にはお知恵があり、神様がどう働かれるかは私たちに想像できることではない。しかし自分の観念と想像を基に神様の働きを判断すれば、まさにファリサイ人と同じではないだろうか。そう考えると心がとても落ち着き、引き続き兄弟の説教に耳を傾けました。

    兄弟は続けました。「事実、ヤーウェ神と主イエスと全能神は一つの神様です。その働きと、働かれた場所は違っていますが、いずれも堕落した人類の必要に応じて神様がなさらなければならない働きなのです。律法の時代、神様はヤーウェ神の御名を使って働きをなさいました。ヤーウェ神は律法を布告なさって生まれたての人類を導かれ、地上でどう暮らすべきかをお教えになり、威厳と怒りと憐れみの性質を表現なさいました。律法に従う人たちは神様の祝福とお恵みを得ました。律法に背いた者は罪の捧げ物をしなければならず、さもないと石打ちの刑に処されるか、天の火によって焼かれました。律法の時代の後期、人類の罪はますます深刻になり、罪を贖われるためにする罪の捧げ物ももはやないほどでした。ゆえに、神様は人類が必要とするものを基に受肉され、イエスの御名で恵みの時代の働きをなさり、愛とあわれみの性質を表現なさるとともに、豊富なお恵みを人類に授けられ、悔い改めの道を宣べ伝えられ、自分を愛するように他人を愛するようお教えになり、人類のために罪の捧げ物として十字架にかけられました。恵みの時代の働きは二千年にわたって続き、主の贖いのおかげで私たちの罪は赦されてきたものの、傲慢さ、偽り、利己心、邪悪さといった私たちの堕落したサタン的性質はいまだ残っており、いまなお罪を犯しては告白するという循環の中で生き、罪の束縛からまったく逃れられないでいます。これは真実ではないですか」

    私は言いました。「ええ、真実です。主は私たちに、寛大で忍耐強くなり、自分を愛するように他人を愛するようお教えになりました。私たちは自分の怒りを抑えられるときもありますが、自分の意にそぐわない物事に遭遇すると怒りっぽい性質をどうしても露わにすることがあります。私たちは主の御前で罪を告白して悔い改めますが、それでも再び同じ罪を犯してしまいます」

    兄弟は再び説教を始めました。「そうです。主イエスによる贖いの働きのおかげで私たちの罪は赦されてきましたが、私たちに罪を犯させるサタン的な本性はいまなお深く根ざしており、いつでもどこでも罪を犯して神様に反抗することができます。聖書にはこう記されています「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)また主イエスはこうおっしゃいました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書8:34-35)罪を犯しては告白するというこの状態の中で生き続けるなら、たとえ主イエスの罪の捧げ物が永遠に有効だとしても、私たちはなお主によって天国へ引き上げられることができません。ゆえに終わりの日、神様は私たちが必要とするものを基に、主イエスによる贖いの働きを土台としてより高い働きをなさり、私たちの罪を裁いて不正を清めるべく真理を表現なさって、私たちが真の救いを得て天国に入れるようにしてくださいます。そのことから、ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きはそれぞれ不可分に結びついており、働きの各段階は直前の段階に比べてより高く、それらが一つの神様の働きであることがわかります。ここで神様の御言葉の二節を読みましょう。そうすればもっとはっきり理解できます。