賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神は動物の毛皮を使ってアダムとエバのために着る物を作られる

2020-04-04 23:09:58 | 聖書の奥義を開く

   (創世記3:20-21)さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

   ではこの3番目の箇所を見ていこう。ここではアダムがエバに与えた名前には意味があるということが語られている。この箇所は、創造された後アダムが自分の考えを持ち、たくさんのことを理解していたことを示すものだ。だがここでは彼が何をどのくらい理解していたかということを掘り下げていくのではない。この3番目箇所でわたしが取り上げたいテーマはそこではない。ではこの箇所で取り上げることとは何か。「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」というところを見てみよう。もしわたしたちが今日この聖句の意味するところを掘り下げなければ、もしかしたらあなたがたは一生この聖句の意味するこころを本当には理解できないかもしれない。最初に、ヒントをあなたがたに与える。アダムとエバが住んでいるエデンの園を想像しよう。神が彼らのもとへやって来たが、彼らは裸だったので隠れる。神には彼らの姿が見えないため、彼らを呼ぶと、彼らは、「私たちはあなたにお会いすることができません。私たちは裸ですから。」と答えた。彼らは裸だったので、神に会おうとしなかったのである。このときヤーウェ神は彼らに何をしただろう。原文にはこう書いてある。「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」。今、神が何の素材で人間の服を作ったか知っているだろうか。神は人間の服を作るために動物の皮を使ったのだった。つまり、神が人間に作ったのは毛皮のコートだ。これが、神が人間のために最初に作った服だ。毛皮のコートというのは今日では高級品で、誰でも着ることのできるものではない。もし誰かに、「人間の祖先が最初に身に着けた衣類は何だったか。」と聞かれたなら、あなたは、「毛皮のコート」と答えればよい。「誰がその毛皮のコートを作ったのか。」と聞かれたなら、「神が作られた。」と答えればよい。これが重要な点なのだ。この服は神によって作られたものだった。これは注目に値することではないだろうか。今わたしが説明したことが、心に描けただろうか。せめて簡単な概要くらいはあるはずだろう。今日このことをあなたがたに伝えているのは、人間が最初に身に着けた服が何であったかを知らせるためではない。では、何が重要なのか。重要なのは毛皮のコートではなく、神が毛皮のコートを与えたことによって表された神の性質、神であるものと持っているものをどのように捉えるか、ということである。

 

 

   この「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」という部分では、アダムとエバと共にいた神は彼らにとってどのような役割をしたのだろうか。人間が2人しかいないこの世界で、神は自身をどのような役割を持つ者として現しただろうか。神としての役割であっただろうか。香港の兄弟姉妹よ、答えてくれないか。(親としての役割)。韓国の兄弟姉妹よ、神はこの時にどのような役割の者として現れたと思うか。(家族の長)。台湾の兄弟姉妹よ、どう思うか。(アダムとエバの家族の一人、つまり家族の一員としての役割)。あなたがたの中には、神はアダムとエバの家族の一員として現れると言う人もいれば、神は家族の長として現れると言う人もあり、また、親として現れると言う人もいる。これらの答えは全て適切だ。だが、わたしが言おうとしていることは何か。神はこの2人の人間を創り、2人を自身の友として扱った。2人の唯一の家族として、神は彼らの生活を見守り、基本的な必要において面倒を見たのである。ここでは、神はアダムとエバの親として現れている。その間、人は神がどれだけ高尚であるか見ることをせず、神の至高、その奥義、そして特に怒りや威厳を見ることをしなかった。人が見るのは神の謙遜、慈愛、人間への思い、神の責任及び配慮である。神の態度やアダムとエバの扱い方は、人間の親が自分の子どもに対して心配するものと同種である。人間の親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのに似ている――現実的で、見ることができ、触れて感知することができる。自身を高く、威厳のある者として位置付けるのではなく、神は人間のために動物の皮で衣服を作ったのである。その毛皮のコートが、裸の身体を覆うためだったか、寒さから守るためだったかは問題ではない。要するに、人間の体を覆うための衣服は神が自分の手で作ったということだ。人間が想像するような、神の考えだけで衣服を作ったり、奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ神にはできない、神がするべきないと人が考えるような方法で作ったのである。そのような簡単なことを敢えて言うまでもないと思う人もいるかもしれない。しかし神に従ってはいたが、神についてぼんやりとしたイメージしか持っていなかった人たちにとっては、この箇所を見ることで神の真実さ、魅力、忠実さ、謙遜をはっきり見ることができるようになる。そして自分が位の高い、力ある存在と考えるどうしようもなく高慢な人たちに、神の真実さや謙遜の前に自分を恥じ入らせ、自惚れていたその頭を下げさせる。ここで現されている神の真実さや謙遜を通して、神の魅力を知るようになる。人の心の中の大きく、愛すべきであり、全能である神が小さく、醜い、吹けば飛ぶようなものになってしまっている。この聖句を読み、ストーリーを聞くとき、このようなことをした神をあなたは見下すだろうか。そういう人もいるかもしれない。しかしある人にとっては全く逆で、神を真実で愛すべきとして捉え、その真実さと愛すべき性質に心動かされるだろう。本当の神の側面をより知っていくことで、神の愛、神が自分の心の中にいてもらえることの重要性、そして神がどんなときも共にいてもらえることに、より深い理解を得るようになる。

   ここで、わたしたちの話を現在とつなげてみるべきだろう。もし神が最初に自身が創造した人間に対しこれらの様々な小さなこと、人間が全く考えたり予想したりしないようなものですら人間に対して行うことができるのなら、神は今日の人々に対してもそのようなことをすることは可能だろうか。「可能だ」と言う人もいるだろう。それはなぜだろうか。それは神の本質は偽物ではなく、神の魅力が偽物ではないからである。神の本質は真に存在しており、他者によって付け加えられるものではなく、また時間、場所、時代によって変わるものでも決してないからである。神の真実さや魅力は、人間が注目に値するとも重要とも思わないことをする中に、そして神がするとは思えないようなとても小さなことのなかに真に現されるのである。神は偉ぶってはいない。神の性質や本質のなかには、誇張、偽装、高ぶり、あるいは高慢さは存在しない。神は決して誇らず、かえって人間を愛し、配慮し、世話をしてくれ、忠実さと誠実さをもって自身が創造した人間を導く。人々がこのことをどれだけ感謝し、感じ、また理解できるかにかかわらず、神は間違いなくそうしている。神がそのような実質を持っていると知ることは、人々の神への愛に影響をもたらすだろうか。彼らの神への畏れに影響するだろうか。あなたが神の本当の側面を理解する時、あなたが神とさらに親しくなり、神の人間への愛と配慮にさらに深い感謝を持つことができるようになり、それと同時に神に心を捧げ、そして神に対しての疑いもいぶかりも持たなくなることをわたしは願っている。神はその誠実さ、忠実さ、そして愛をもって、人間のために全てのことを静かに行っている。しかし神は自身の行うこと全てに対して不安を持ったり後悔したりすることは一切なく、また人間から何らかの形でのお返しを必要とすることもなく、人間から何かを得ようとする意図も一切ない。神がこれまでに行ってきたこと全ての唯一の目的は、神が人間の真実な信仰と愛を受け取ることができるようになるためである。ここで最初のテーマについてまとめることにしよう。

 

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アダムへの神の命令

2020-04-03 22:49:47 | 聖書の奥義を開く

   (創世記2:15-17)ヤーウェ神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。ヤーウェ神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

   この箇所からあなたがたは何かを学んだだろうか。この箇所をあなたがたはどのように感じただろうか。なぜ「アダムへの神の命令」を聖書から取り上げるのだろうか。神とアダムが心に描けただろうか。想像してみてほしい…もしあなたがたがこのシーンの中にいたら、神をどのような存在と思うだろうか。あなたがたはどのような感情を抱くだろうか。これは感動の、心温まるシーンである。そこには神と人間しかおらず、その関係の親密さは羨ましいほどだ。神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包んできた。人間は純粋で、無邪気で、気楽、気ままで、神に見守られて満足して生きている。神は人間を心配してくださり、そして人間は神の護りと祝福の中で生きていた。人間の全ての言動は、神と密接に関係し、神と切り離すことはできない。

 

 

   この命令は神が人間を創造以来、最初に与えた命令だったといえる。ではこの命令は何を表しているのだろうか。それは神の意志を表しているが、同時に神の人類に対する懸念も表している。これは神の最初の命令であり、そしてこの時初めて神は、人間のことを心配した。どういうことかといえば、神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を持っていたということである。その責任とはどのようなものだろうか。それは人間を守り、顧みるという責任である。人間が神を信頼し従うことを神は望んだ。そしてそれは神が人間に抱いた最初の期待でもある。神はその期待とともに、次のように言った。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。このシンプルな命令に神の意志が現れている。そして神の人間に対する心配をすでに表していたこともわかる。被造物にあって、アダムだけが神の姿に似せて造られ、アダムだけが神の息を吹き込まれ、神と歩み、神と対話できる存在だった。それゆえに神はそのような命令を人間に与えたのである。神はこのことを命じたとき、非常に分かりやすい形で人間が何をすればよいのか、そして何をしてはいけないのかを伝えた。

   この極めてシンプルな言葉から、神の心をうかがい知ることができる。わたしたちはここからどのような神の心を見て取れるだろうか。神の心に愛はあるだろうか。そこに神の配慮は現れているのだろうか。この聖書箇所に示されている神の愛と配慮は、頭で理解できるだけでなく、実際に感じることができることだ。そうではないか。わたしは今これらのことを述べてきたが、あなたがたはまだ、これが単なる言葉だと思うだろうか。それほど簡単なものではないのではないか。このことに気づいたことが今までにあるだろうか。神がもし直接あなたにこれらのことを語ったら、あなたはどのように感じるだろうか。もしあなたが無慈悲で、心が冷え切っているなら、何も感じないだろうし、神の愛も理解できず、神の心を理解しようともしないだろう。しかしもしあなたに良心があり、人間性があるなら、見方は違ったものになる。もしそのような人間であるならば、温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じることができるだろう。違うだろうか。これらのことを感じるならば、あなたは神に対しどのように行動するだろうか。神とのつながりを感じるだろうか。心の底から神を愛し、敬うだろうか。あなたの心は神に近づくだろうか。神の愛が人間にとってどれだけ重要かということが、ここから見て取れるだろう。しかしそれよりさらに重要なのは、人間がその神の愛を深く知り、理解することである。事実、神はこの段階の働きにおいて似たようなことを多く語っていないだろうか。しかし、今日の人々は神の心を理解しているだろうか。今ここでわたしが述べた神の心の意味を掴めただろうか。あなたがたはこれほどはっきりしていて分かりやすく、現実に示されている神の心さえ、認識することができない。ゆえにわたしはあなたがたが神に対する本当の認識と理解を得ていないと言うのである。そうではないだろうか。このセクションでわたしが述べるのは以上である。

 

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創造主の権威のもとでは、万物が完璧である

2020-04-03 00:09:56 | 聖書の奥義を開く

   鳥や魚、木や花、神により造られた物は、移動する物と移動しない物を含め、第六の日に造った家畜や昆虫や、野生動物を含め、すべて神にとって良いものであり、また神から見て、神の計画によれば完璧に達しており、神が望む基準を満たしていた。創造主は、自身の計画に従って自身が意図した業を、段階的に実施していった。神が造り出すことを意図していた物が次々と生まれ、そうした物の出現は創造主の権威の反映であり、結晶化であった。また、こうした結晶化のために、あらゆる生物は、創造主の恵みと施しに対する感謝の念を感じずにはいられなかった。神の奇跡の業が現れると、この世の中は神が造った物で少しずつ拡大してゆき、混沌と闇の状態から、明瞭で明るいものへ、また死の静寂から生の無限の活力へと変化していった。大きいものから小さいもの、そして微小なものまで、創造されたあらゆる生物には、創造主の権威と力により造られなかったものは存在せず、それぞれの生物に固有の、生来の必要性と価値がある。あらゆる生物は、その形状や構造の相違に関係なく、創造主の権威に従って存在するよう、創造主により造られている。時として、極めて醜い昆虫を見て「酷い虫だ。こんな醜い虫が神に造られたはずがない。神がこんな醜いものを造るなどあり得ない。」などと言う人がいるが、極めて愚かな考えである。むしろ次のように言うべきである。「この虫は極めて醜いが、神が造った虫なのだから、この虫にしかない目的があるはずだ。」神の考えにおいては、神が創造した生物すべてに、様々な外観と機能と目的を授けられる意向であったので、創造された生物は、決して紋切り形ではない。創造された生物は、外観や内部構造、生活習慣や棲息地に至るまで、それぞれ異なるものである。牛には牛の、ロバにはロバの、鹿には鹿の、象には象の外観がある。最も外観が美しい生物はこれ、最も醜い生物はこれ、などと言えるだろうか。最も役立つ生物はこれ、最も必要性が低い生物はこれ、などと言えるだろうか。一部の人々は、象の外観を好むが、象を使って農地に植え付けを行う者はいない。全ての生物の中で最も外観が印象的なライオンやトラの外観を好む者もいるが、ライオンやトラをペットとして飼育できるだろうか。要するに、万物について、人間は創造主の権威に従順する、すなわち万物の創造主が定めた秩序を優先する必要がある。これが最も賢明な姿勢である。創造主の権威を真に受け容れ、確信するには、創造主の元来の意図を求め、それに従うことによるほかない。神は万物を良しとしているのだから、なぜ人間は万物に欠点を見出す必要があるというのか。

 

 

   こうして、創造主の権威による万物は、創造主の支配により新たな交響曲、新しい日の神の業への美しい前奏曲を奏でることとなった。またこの時、創造主は神の経営の業における新たなページを開くことになる。春の芽吹き、夏の成熟、秋の刈り入れ、そして冬の蓄えという創造主が定めた規律に従い、万物は創造主の経営(救いの)計画に従い、新たな日、新たな始まり、そして新たな生活を喜んで受け容れる。そしてやがて万物は無限の繁殖を続け、創造主の権威による支配下で新たな日々を迎える。

 

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第六の日、創造主が言葉を述べると、神の心にあった生物すべてが次々と現れた

2020-03-31 10:44:42 | 聖書の奥義を開く

   気付かれることなく創造主の万物創造の業は5日間にわたって続き、創造主による万物創造の業は、6日目に入った。この日もまた新たな始まりの日であり、特別な日であった。それでは、6日目前夜における創造主の計画は、どのようなものであったのだろうか。神は、どのような生物を造る予定であったのだろうか。神の言葉は次の通りであった。

   「神はまた言われた、『地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ』。そのようになった。神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。」(創世記1:24-25)これにはどのような生物が含まれるであろうか。聖句では、その種類に従って家畜、這うもの、地の獣とある。つまり、この日はあらゆる地上の生物が生み出されたのみならず、それらの生物は種類により分類され、前日と同様に「神は見て、良しとされた。」

   この日の前日までの5日間と同様の調子で、6日目は、神が望んでいた生物の創造を命じ、その種類に従ってそれらの生物が地上に出現した。創造主が自身の権威を行使した時、神が述べた言葉には全く無駄な部分が無かった。したがって、6日目に神が造ろうとしていた生物が、指定した時間に出現した。創造主が「地は生き物を種類にしたがっていだせ。」と言うと、すぐにあらゆる種類の生物が地上に出現して、その生物で満たされた。草に覆われた荒野には、頑強な牛が次々と現れて尾を振り、羊が鳴き声を上げながら群れ、馬がいななきながら早駆けをしていた。静寂だった広大な草原は、一瞬にして生物で溢れかえった。こうした家畜の出現は、静寂な草原の美しい光景であり、限りない活気をもたらした。家畜は草原で互いに仲間となり、その主となり、互いに依存し合い、さらに家畜は、草原の守衛的な存在となった。草原は家畜の恒久的な棲息地となり、家畜に必要とされる全てを与える、家畜の生活における永遠の育みの源であった。

 

 

   創造主の言葉により家畜が生まれた日には、無数の昆虫も次々と出現した。昆虫は全生物の中で最も身体が小さかったが、昆虫の生命力は創造主の驚異的な創造物であり、昆虫の出現も遅れることは無かった。昆虫には、羽ばたきをするものや、ゆっくりと地を這うもの、跳ね回るもの、よろよろと歩くもの、高速で移動するもの、逃げ足の速いもの、横向きに歩むもの、高く跳ねるもの、低く跳ねるものなどがあった。全ての昆虫は慌てて棲息する場所を探した。草の中に分け入るもの、地に穴を掘るもの、木に飛び入るもの、森に潜むものなどがあった。昆虫は小さいながら、空腹に耐えることを好まず、すみかを見つけるとすぐに、食物を探して出て行った。草を登って柔らかい草の葉を食べるもの、泥を口いっぱいにほおばり、おいしそうに胃に詰め込むもの(昆虫にとっては泥でさえもご馳走であった)、森に隠れているものもあったが、決して休むことは無く、艶のある葉の汁を食料としていた。昆虫は、食べ飽きても休むことはない。身体は小さいが、大量のエネルギーと無限の活力を備え、全ての生物のなかで最も活発であり、勤勉な生物である。昆虫は、怠けることも、ゆっくり休むことも、決して無い。十分な食事を摂った後も、将来のために骨折って働き、明日のため、生存するために忙しく働き続ける。昆虫は、様々な旋律やリズムのバラードを口ずさみながら、働き続ける。昆虫もまた、草木や土に喜びをもたらし、その日、その年を特別なものにする存在であった。昆虫は独自の言葉と方法により、地上の動物すべてに知らせを伝えた。そして、昆虫独自の生涯を通じて、あらゆる物事に印をつけ、その痕跡を残した。昆虫は土や草、森と懇意にし、土や草、森に生命力と活力をもたらし、あらゆる生物に、創造主の訓戒や知らせを伝える。

   創造主の視線は、神の創造物すべてを見渡し、この時神の視線は、森と山に止まり、神の心に考えが生まれた。神が深い森と山々に対して言葉を述べると、それまで存在しなかった種類の生物が出現した。これらの生物は、神が述べた「野生動物」であった。かなり遅れて、それぞれ独特な顔つきの野生動物は頷き、尾を振った。野生動物には、毛皮のあるもの、甲羅のあるもの、むき出しの牙があるもの、歯がむき出しのもの、はにかむもの、首の長いもの、尾が短いもの、野生的な眼を持つもの、臆病な眼差しのもの、身体を曲げて草を食べるもの、口の周りに血が付いているもの、2本足で跳ねるもの、4つの蹄で駆けるもの、木のこずえから見下ろすもの、森で横たわり待ち続けるもの、休むためのほら穴を探すもの、草原で跳ね回るもの、森を徘徊するものがいた。また、うなるもの、遠吠えするもの、吠えるもの、鳴くものがいた。鳴き声が高いものと低いもの、鳴き声が大きい物、明るく歌うように鳴くものがいた。厳めしいもの、可愛らしいもの、醜いもの、愛らしいもの、恐ろしいもの、純粋な顔つきのものなどがあった。こうした野生動物も、次々と出現した。こうした野生動物は、意気揚々としていたり、自由奔放であったり、互いに興味を示さなかったり、見向きさえしなかったりする。こうした野生動物は、それぞれ創造主から授けられた命、独自の野生、残酷さがあり、森や山に出没する。野生動物は、極めて横柄である。こうした動物は、山や森の主であるからだ。創造主がこうした野生動物の出現を命じた時から、こうした動物達は、森や山を我が物としていた。なぜなら、創造主は既に野生動物の棲息範囲を決め、封じ込めていたからである。山や森の真の主は、野生動物のみであり、それが、野生動物達の野蛮さや傲慢さの理由となっている。野生動物は、単にあらゆる生物のなかで最も野蛮であり、飼い慣らすことが困難であるため、「野生動物」と呼ばれる。野生動物を飼い慣らすことはできないので、飼育することはできず、人間と調和した生活ができず、人間に代わって働くこともできない。野生動物が人間から離れて生活し、人間が野生動物に近づけないのは、野生動物が飼育不可能であり、人間のために働くこともできないからである。また、野生動物が人間から離れて生活し、人間が野生動物に近づけないので、野生動物は創造主から与えられた役割、すなわち山や森を守る役割を果たすことができるのである。野生動物の野蛮さが山や森を守り、それが山や森の存在や繁栄にとって最適な守護となった。それと同時に、その野蛮さにより万物の調和が維持されていた。野生動物が出現して山々や森に住み着いたことにより、拠り所と支えがもたらされ、静寂で空虚だった山々や森に活気がもたらされた。この時点以降、山々や森は野生動物の恒常的な棲息地となり、野生動物は棲息地を失うことが無い。なぜなら、山々や森は野生動物のためにあり、野生動物はその役割を果たし、山々や森を保護するために、出来る限りのことをしたからである。そうしたわけで、野生動物もまた、創造主の訓戒を遵守し、自分達の領域に留まり、その獣的性質により創造主が造った万物の調和を維持し、創造主の権威と力を示しているのである。

 

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ラザロの復活が神を褒めたたえる

2020-03-30 22:55:06 | 聖書の奥義を開く

   こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。(ヨハネによる福音書11:43-44)

   あなたがたは、この聖句を読んで、どのような感想を持つであろうか。主イエスが行ったこの奇跡の意味は、この前に検討した奇跡よりもはるかに重大である。なぜなら、死人を墓から蘇らせること以上に驚異的な奇跡は存在しないからである。主イエスがこのような業を行ったことは、この時代において極めて意義深かった。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、神の実際的な側面、わずかな神の側面しか見ることができない。たとえ一部の人々が神の性格や神が持っているであろうと考えられる力を見て理解したとしても、主イエスがどこから来たか、主の真髄は何か、自分達が見る以上にイエスが行うことのできる物事が何かを知る者は誰も居なかった。そうしたことは人類にとって未知であった。こうした事柄の証拠を求め、真実を知ることを望む者が大勢居た。神は、何らかの業を行い、神の身分を証明することが出来たであろうか。それは神にとって極めて容易であった。神はいつでもどこでも、何らかの業を行い、神の身分と真髄を証明することが出来たが、神は計画通りに、段階的に業を行った。神が無分別に業を行うことはなく、神は最適な時期と機会が到来するのを待って、人間が目の当たりにするのが最も有意義な業を行った。こうした方法により、神の権威と身分が証明された。それでは、ラザロの復活は主イエスの身分を証明出来るものであっただろうか。その点について、「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は…出てきた。」という聖句を検討する。主イエスがこの業を行った時に言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」のひと言であった。その後ラザロが墓から出て来たが、これは主のひと言で達成された事であった。この時、主イエスは祭壇を作ることも、それ以外の業を行うこともなかった。主は、そのひと言を述べただけであった。これは奇跡と呼ぶべきであろうか、それとも命令と呼ぶべきであろうか。それとも、これは何らかの魔術であったのだろうか。これは表面的には奇跡であると言うことができ、現在の観点から見ても、奇跡だと言えるであろう。しかし、無論これを、魂を死人から呼び戻す呪文とも魔術とも呼べないことは確実である。この奇跡は、創造主の権威を実証する、ごく普通の些細な証明である、というのが正しい。これは神の権威であり、能力である。神には、ある者を死なせ、その魂を身体から出してハデスその他の然るべき場所へ還らせる権威がある。ある者がいつ死ぬか、その者がどこへ向かうかを決めるのは、神である。神は、こうした事柄をいつでもどこでも行うことができる。神は人間や物事、空間、場所の制約を受けない。神は望むままに事を行うことが出来る。なぜなら、あらゆる物や生き物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威により生き、死ぬからである。神は死者を復活させることができるが、これもまた、神が時間と場所を問わず、いつでも出来ることである。これが、創造主のみが持つ権威である。

 

 

   ラザロを死から復活させるなど、主イエスが業を行った時、イエスは、人間やサタンに対して、人間の生死など、人間の全ては神によって決められているということ、そして神が受肉している場合であっても、目に見える物質的世界も、目に見えない霊的世界も、依然として神が支配していることを、人間とサタンに対して証明し、知らしめることを目的としていた。これは、人間の全てはサタンの支配下にはないことを、人間とサタンに対して知らしめるためである。またこれは神の権威の啓示であり、証明であり、さらに人間の生死に関する事柄は、全て神により支配されていることを全てのものに示す手段である。主イエスによるラザロの復活のような業は、創造主が人間を教え導くひとつの手段であった。これは、神が自身の力と権威を用い、人間を指導し、人間に対して施す、実際の行為であった。またこれは創造主が言葉を用いずに、創造主が万物を支配しているという真理を人間が理解できるようにするための手段であった。さらに、これは神による以外に救いは存在しないということを、実際の業により人間に対して伝える手段であった。こうした神が言葉無しで人間に教えを授ける手段は永遠に続く。こうした教えは消える事がなく、人間の心に色あせる事のない衝撃と啓示が与えられる。ラザロの復活は神を褒めたたえた。神に付き従う者すべてに、それは大きな衝撃を与えるものである。ラザロの復活により、この出来事を深く理解する人々すべての心に「人間の生死を支配できるのは神のみである」という理解と認識が定着する。神にはこの種の権威があり、また神はラザロの復活により人間の生死に関する自身の権威を示したが、これは神の主要な業ではなかった。神は無意味に業を行わない。神が行う業には、その全てに貴重な価値があり、その全てが不朽の宝である。神は、ある者を墓から復活させることを主要ないし唯一の目的や事項として業を行うことはない。神は、無意味なことは一切行わない。ラザロの復活は神の権威を証明するに十分である。またそれは主イエスの身分を証明するに十分である。主イエスがこの種の奇跡を繰り返されることがなかったのは、このためである。神は、神自身の原則に従って業を行う。人間の言葉で言うならば「神は業の重要性に配慮されている」と言えるであろう。すなわち、神が業を行う時、神はその業の目的から外れることがない。神はこの段階において行いたい業が何であり、完遂したい業が何かを知っており、自身の計画に厳密に従って業を行う。腐敗した人間がこうした能力を持っていたとしたら、その者が考えることは、自身の能力を示し、高い能力を持つことを他人に知らしめ、他人を服従させ、支配して滅ぼす方法のみであろう。それはサタンに由来する邪悪であり、腐敗と呼ばれる。神には、そうした性質が無く、またそうした真髄も無い。神が業を行うのは自己顕示のためではなく、人間に対してより多くの啓示と導きを授けるためであるため、聖書においては、この種の業はごく僅かしか見られない。それは、主イエスの能力が限定されていたことを意味するものでも、その種の業を行えなかったことを示すものでもない。それは、単に神が行おうと思わなかっただけである。なぜなら、主イエスがラザロを復活させたことには、極めて現実的な意味があり、また受肉した神の主な業は、奇跡の業を行うことでも、人間を死から復活させることでもなく、人間に対する贖いの業であったからである。そうしたわけで、主イエスが完遂した業の大部分が、人々に教え、施し、助けることであり、ラザロを復活させたような業は、主イエスが行った業のうちごく僅かであった。さらに、「自己顕示すること」は神の真髄には含まれていない、ということも出来るだろう。したがって、それ以上の奇跡を示さなかったのは、故意に制限していたためでも、環境的な制約のためでも、無論能力が不足していたためでもない。

   主イエスがラザロを死から復活させる時、主が使った言葉は「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけである。主はそれ以上の言葉を用いなかったが、そのことは何を意味するであろうか。こうした事柄は、死者を復活させることを含めて、神があらゆる事を言葉により実現可能であることを示している。神が万物と世界を創造した時、神はこれらを言葉により創造した。神は言葉で命じ、すなわち権威ある言葉を用い、その言葉通りに万物が創造された。創造は、このようにして行われたのである。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した時に神が述べた言葉と同じであり、主イエスの言葉には神と同じ権威、創造主と同じ力があった。万物が神の言葉により形成され、存在したのと全く同じようにして、主イエスの言葉によりラザロが墓から出たのである。ラザロの復活は、受肉した身体により証明され、実現された神の権威であった。この種の権威や能力は、創造主と、創造主が形あるものとなった人の子のものである。神がラザロを死から復活させることにより、人間に啓示された知識は、その事実である。この件の検討は以上である。次に、下記の聖句について検討する。