賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる

2019-12-20 22:31:39 | いのちのパン

   大抵の人の神への信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を求め、慕い求めることができないのだ。黙って神に付き従っているに過ぎない。多くの人は神を信じているが、神を愛している者はほとんどいない。人々が神を「畏れる」のは、災難を恐れているから、あるいは、神が偉大な存在だから「崇めて」いる―しかし、その畏れや尊崇には愛も、心からの思慕もない。人々は信仰体験において真理のごく小さな部分、あるいは、些細な奥義を求めることでしかない。大抵の人は単に従うだけで、混乱の中ではとにかく恵みさえ受け取れれば良いという姿勢でいる。そうした人は真理を求めない。また、神の祝福を受けるために、誠に神に従おうとはしない。人々の神への信仰生活は無意味だ。無価値で、人々はただ自身の利益と目的だけ追求する。神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じているのだ。多くの人は好きなように振る舞い、心の赴くままに行動し、決して神のためも、自分のしていることが神の心に適うかどうかも考えない。そうした人は、神を愛することができないのは言うまでもなく、真の信仰を持つことさえ出来ない。神の本質は、ただ人間が信じるためだけのものではない。それ以上に、愛すべきものなのだ。しかし、神を信じる者の多くは、この「秘密」を見いだすことがでない。人々はあえて神を愛そうとせず、また、愛そうと試みることもない。人々は神には愛すべき点が数多くあることを見つけだしておらず、神が人間を愛していること、人間にとって神が愛すべき存在であることを見つけだしていない。神の優れている点は、その働きに示されている。神の業を経験してはじめて、人は神のすばらしさを見つけだす。実際に体験してはじめて、神のすばらしさを認識するのであって、実際に体験することがなければ、誰一人神のすばらしさを見つけだせない。神の敬愛するべき点はまことに数多いのに、実際に神に触れることがなければ、人々はそれを見つけだせない。それはつまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神に触れることができず、実際に神に触れることができなければ、その働きを経験することができず、そこで、人々の神への愛には偽りや想像が介在することになる。天にいる神への愛は、地上にいる神への愛ほどの真実味がない。天にいる神についての認識は、その目で見たり実際に体験したりしたことではなく、想像によるものだからだ。神が地上に来ると、人々は神の業とすばらしさをその目で見られる。神の実際的で正常な性質のすべてを見られるのだ。それらはみな、天にいる神についての認識より数千倍も現実的なものなのだ。人々が天の神をどれほど愛そうと、その愛に真実は何もない。人間の考えたものばかりだ。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は実際的である。たとえごくわずかであっても、それでも現実のものなのだ。神は実際の働きを通して人々に自分を知らせになる。そして、その知識によって人々の愛を得られる。これはペテロと同じことだ。もし彼がイエスと共に暮らしたことがなければ、イエスを愛することは不可能だったろう。ペテロのイエスへの忠誠心もまた同じで、イエスとの交わりを通して築かれたものだ。人間が自分を愛するようになるため、神はおいでになって人々と共に生きた。そして人々が見て経験するものはみな、神の実際なのである。

 

 

   神は現実と事実を用いて、人々を完全にする。神の言葉は、人間を完全にするための働きの一部であり、これは導きの働き、道を開かれるということなのだ。いわば、神の言葉によって人は実践の道を見出し、ビジョンに対する認識を見出さなければいけないのだ。これらのことを理解していれば、実践の中に道とビジョンを得、神の言葉によって啓くことができよう。これらのことは神から出たものであると理解し、多くを識別できる。理解した後、ただちにこの現実に入り、神の言葉によって、現実の生活において神を満足させなければならない。神は、あらゆることであなたを導き、実践の道を示し、神のすばらしさを感じさせ、神の働きのあらゆるもの全ては、あなたを完全にするためのものであることが理解できるようにしてくれる。もし神の愛を知りたいのなら、もし神の愛を真に体験したいのなら、現実に深く入らなければならず、現実の生活に深く入らなければならない。そして、神のすることはみな愛であり、救いであり、人間が汚れたものを捨て去り、内にある神の心を満たすことのできないものを練られるようにするためだということを理解しなければならない。神は、人間にいのちを供給するために言葉を用いる。また、人間が体験できるよう、現実の環境を創る。そして、もし人間が神の言葉を多く飲食するならば、それを実践したとき、神の言葉を用いれば、現実の問題をみな解決できる。つまり、現実を深く入るには、神の言葉を身につけていなければいけないということなのだ。神の言葉を飲み食いしなければ、また、神の働きがなければ、生きるうえでの道を見いだすことがない。神の言葉を飲み食いすることがなければ、何か起こった時に惑うことになる。神を愛すべきだと知るだけで、識別することができなければ、また、実践の道を知らなければ、あなたは惑い、混乱して、時には肉の欲求を満たすことが神の心にかなうことだと思い込む。こうしたことはみな、神の言葉を飲み食いしていないから起こることなのだ。つまり、神の言葉を助けにすることなく、現実の中で手探りしているだけでは、根本的に実践の道を見出すことができないのだ。こうした人は、神を信じるということがどういうことなのかを全く知らず、まして、神を愛するということがどういうことかを理解していない。もし神の言葉の啓きと導きとに従ってしばしば祈り、探り、求め、それによって実践すべき事柄を見いだし、聖霊の働きの機会をみつけ、真に神と協力し、惑い混乱することがないなら、現実の生活に道を見出し、本当に神を満足させることになる。神を満足させれば、あなたの心の内に神の導きがあり、神から格別の祝福を受ける。すると、喜びを覚える。あなたは神を満足させたことを特に光栄に感じ、特に内に光を感じ、心は明瞭で安らかである。意識は穏やかで、責められることがない。また、兄弟姉妹を見ると、心楽しい。これが神の愛を享受するということであり、これだけが真に神を喜ぶということなのだ。神の愛を享受するということは経験によって得られる。苦難を経験し、真理を実践し、神の祝福を受ける。神が本当に愛してくれると神は人々に重い代価を払い、神は忍耐強く、やさしく多くの言葉を話し、いつでも人々を救ってくれると口にするだけなら、あなたが言うこれらの言葉は神にある喜びの一面に過ぎない。しかし、もっと大きな喜び――真の喜び――は、真理を現実の生活で実践することだ。そうすると、心は安らかで明晰になり、内に深い感動を覚え、神はほんとうにすばらしいお方だと感じるだろう。あなたは、自分の払った代価は十分に価値あるものだと感じるだろう。大きな代償を払って努力したあなたは、とりわけ明るい気持ちになるだろう。自分が真に神の愛を受けていて、神が人々に救いの働きをし、神が人々を練るのは清めるためであり、神が人々を試すのは、本当に神自身を愛しているかどうかを調べるためだということがわかるのだ。もしあなたがいつでもこのように真理を実践するなら、徐々に神の働きについての明確な認識を身につけ、そうしたときいつでも、神の言葉が水晶のように明瞭であると感じるようになる。多くの真理を明確に理解できるなら、すべてのことは容易に実践でき、問題を乗り越え、誘惑に打ち勝てると感じ、また、困難なことは何もないとわかる。そうすると、ほんとうに解放され、自由な状態になる。そのとき、あなたは神の愛を享受し、神の真の愛があなたのものになる。神はビジョンを持つ者、真理を得、認識を得、心から神を愛する者を祝福する。神の愛を得たいのなら、日々の生活の中で真理を実践しなければいけない。進んで苦痛に耐え、愛するものを捨てて神を満足させ、たとえ涙することがあっても、神の心を満足させるのでなければいけない。そうすれば、神は必ずあなたを祝福する。そして、もしそうした困難を耐え忍ぶなら、聖霊の働きが行われるだろう。現実の生活の中で神の言葉を経験することで、人々は神の愛すべきことがわかるのであり、神の愛を経験してはじめて、人は真に神を愛せるのだ。

   真理を実践するほど、より多くの真理を得る。真理を実践すればするほど、より神の愛を得る。そして、真理を実践すればするほど、神の祝福を受ける。いつでもこのように実践するなら、徐々に神の愛を内に見出し、ペテロがそうだったように、神を知るようになる。ペテロは、神が天地万物を創造する知恵をもっているだけではなく、そのうえ、人々の中で実際的な働きを行う知恵を持っていると語っている。ペテロは、神が天地万物を創造したから人々の愛にふさわしいだけではなく、そのうえ、人間を創り、人間を救い、人間を完全にし、人間に愛を与えてくれる力がありだから人々の愛にふさわしいのだと述べている。だから、ペテロは、神には人間の愛を受けるに値する点が数多くあるとも言うのである。ペテロはイエスに言った。「主は、天地万物を創られた以上に人々に愛されるにふさわしいのではありませんか。あなたが愛されるべきに他の理由はあなたの中にあります。あなたは現実の生活の中で働き、動いておられます。あなたの御霊はわたしの内に触れ、わたしを懲らしめ、わたしを咎められます。こうしたことは、ずっと、人々の愛にふさわしいのではありませんか。」神の愛を見、経験したいと望むのなら、それを現実の生活の中で探し、求めなければならない。そして、進んで自分の肉を捨てなければならない。このように心を定めることができなければならない。固く決心し、あらゆる点で神の心にかない、怠ることなく、肉の喜びに貪欲にならず、肉のためではなく神のために生きることのできる者でなければならない。あなたが神の心にかなわない時もあるだろう。それは、神の心を理解していないからだ。次にはもっと努力が必要であっても、神に満足してもらえるようにしなさい。肉の欲望を満たそうとしてはいけない。このようにして経験していくと、神を知るようになる。神が天地万物を創造できたことを知り、人々がほんとうに実際に彼を見、実際に交流することのできるよう、また、神が人々の間を歩きその霊が現実の生活の中で人々を完全にできるよう、人間が神のすばらしさを見て、その鍛えや懲らしめ、祝福を経験できるようになるために受肉したことがわかるようになる。いつでもこのような経験をしていれば、現実に神と分かち難くなり、いつの日か、神との関係が正常のものではなくなる場合、叱責を耐えることができ、悔いる気持ちを覚えるようになる。神と正常な関係にあるときは、決して神と離れようと思わず、ある日、神が去ろうと言われるようなことがあれば、恐れ、神と離れるよりは死にたいと言うだろう。そうした感情を持つとすぐに、神と離れることはできないのだと感じ、そうして基礎ができ、真に神の愛を享受できる。

   人々はよく、神を自分のいのちにさせると言うが、まだそうなるところまで経験していない。あなたは単に神が自分のいのちであり、毎日自分を導いてくれる。自分は毎日神の言葉を飲み食いし、毎日神に祈っているのだから、神が自分のいのちになってきていると言う。こうしたことを言う人々の認識は表面的なものに過ぎない。多くの人々は基礎ができていない。神の言葉は植えつけられたが、まだ芽を出しておらず、まして実を結んでなどいない。今日、どの程度まで経験しているだろうか。ここまで神が強引に連れてきてやっと、神と離れることはできないと感じているのだろうか。いつか、一定のところまで経験したところで、神があなたを去らせようとするなら、あなたは立ち去ることができなくなるだろう。あなたはいつでも、神がいなければ生きていられないと心の中に感じるだろう。夫や妻、子供、家族、父母、肉の喜びはなくとも生きることはできるだろう、しかし、神なしでは、いられない。神なしでいるのは命を失うようなもので、神なしでは生きていられない。こういう状態になるまで経験を積むと、神への信仰の到達点の一つに至ったと言える。そして、このようにして神はその人のいのちとなり、存在の基礎となると、決して二度と神と離れることができない。こうしたところに至った人は、真に神の愛を喜んでいる。神との関係は真に密接になり、神があなたのいのち、愛となり、あなたはこう祈る。おお、神よ。あなたから離れることができません。あなたはわたしのいのちです。他のすべてがなくともやっていけます。でも、神なしでは、生きていけません。これが人々の真の姿、これがまことのいのちである。中には、今日まで、強制されてきた人々もいる。その人たちは望むと望まざるとに関わらず進まなければいけない。その人たちは、いつでも苦難の板挟みなっていると感じる。神が自分のいのちであること、自分の心から神を奪われることは、命を失うようなものであることを経験しなければいけない。神は自分にとっていのちであって、神から離れることはできないという状態でなければならない。そうすれば、ほんとうに神を経験することができ、その時に、再び神を愛するようになれば、真に神を愛すのであり、それは唯一の純粋な愛であるだろう。いつの日か、そうした経験をして、いのちのある点に至り、神に祈り、神の言葉を飲み食いし、心が神を離れることができず、たとえそうしたいと思っても、神を忘れることができない。神はあなたのいのちになる。世界を忘れることはできる。妻や夫や子供を忘れることはできる。しかし、神を忘れるのは難しいだろう。不可能なのだ。それがあなたの真のいのちであり、神への真の愛なのだ。神への愛がある点に至ると、他のどんなものへの愛も神への愛には及ばなくなる。神が最も愛するものなのであり、そうなると、あなたは他のすべてを捨て去れる。そして、神からなら、どんな取り扱いも刈り込みも受け入れられるようになる。神への愛が他のすべてより重要になったなら、あなたは現実の中に神の愛の内に生きるようになる。

   人々の内で神がいのちになるやいなや、神を離れることはできなくなる。それは神の業ではないのだろうか。これ以上の証しはない。神は一定のところまで働いた。神は人々に、仕えよ、罰を受けよ、あるいは死ねと言ったが、人々は退いていない。このことは、彼らが神に征服されていることを示している。真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、しかるべき成果が生み出されていることになる。あなたは実際に生きることができ、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られる。外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉について交わるときも神に導かれ、神によって啓かれている。自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを伝えることができ、霊において奉仕することを深く理解している。話し方は率直で、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何かが降りかかった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。このような人が真に神の愛を見たのである。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。それはつまり、ある程度の経験を積むと、心の中に神について理解力が養われ、そこで、外に現れる性質もまた、安定するのだ。多くの人は真理を実践せず、証しに立つことができない。そうした人には、神の愛、神についての証しが欠けているのだが、神はそうした人々を最も嫌われる。彼らは神の言葉を飲み食いするが、表に現れるのはサタンであって、神の言葉をサタンが汚すのを許しているのだ。そうした人々の内には、神の愛がかけらもない。彼らが表現するものは全てサタンから出ている。もし心がいつでも神の前で安らかであるなら、また、周囲の人々や物事、あるいは、自分の周りで起こっていることに常に注意を払っていて、神の負っているものについて心を留めているのなら、また、いつでも神を畏れ敬う心をもっているなら、神はあなたの心の中で教え導いてくれる。教会には「監督者」であるものがいて、他の人々の過ちに殊更注意を払い、それを真似て見せる。彼らは物事を識別できず、罪を憎まず、サタンに関わることを嫌いも不快に思いもしない。そうした人々はサタンの事がらに満たされており、ついには神から完全に見放されるだろう。あなたはいつも神の前に畏敬の心をもち、言葉や行いが穏やかであらねばならず、神に敵対したり、神を悲しませたりすることを望んではならない。神の内なる働きを無にしたり、それまでに耐えてきた苦難や実践してきたことすべてを無にしたりすることを決して望んではならない。あなたは前進する上でもっと一生懸命働き、さらに神を愛さなければならない。そうした人々はビジョン基礎とする人である。そうした人々は前進を求める人である。

   もし人々が神を畏れる心で神を信じ、神の言葉を経験するなら、そうした人々には神の救いや神の愛がもたらされる。そうした人々は神を証しすることができ、真理に生き、真理、神であるすべて、神の性質について証しし、神の愛に包まれ、神の愛を知っている。もし神を愛したいと願うのなら、神の愛すべきことを経験し、神の愛すべきことを理解しなければならない。そうしてはじめて、神を愛する心、忠実に神に仕えようという思いが生じる。神は文字、あるいは想像力に訴えて人々が神を愛せよとはさせない。神は自身を愛することを人々に強いない。むしろ、人々が自ら進んで神を愛するようにするのだ。自分の働きと言葉の内にその愛すべきことを見るようにし、その後で、神への愛が生まれるようにするのだ。そのようにしてはじめて、人々は真に神を証しできる。人々は、他人からそうするように駆り立てられて神を愛するのではない。また、一時的な感情の衝動に動かされて愛するのでもない。人々が神を愛するのは、神の愛すべきことを見たからであり、神には人々が愛するに値するものが数多くあること、神の救いと知恵、驚くべき業を見、その結果、心から神を讃え、心から神を求め慕い、神を自分のものとしなければ生きて行けないほどの掻き立てられた情熱が芽生えるのだ。真に神を証しする人々は、神についての真の認識と心から慕う気持ちとが土台にあるからこそ、素晴らしい証しをできるのである。これは、感情に突き動かされているのではなく、神とその性質についての認識によっている。その人々は神を知るようになり、まことに神を証しし、神を求めるすべての人々に神のことを知らせ、神の愛すべきことと神の実際を知るようにしたいと感じているからである。人々の神への愛同様、その人たちの証しは自発的で真実であり、本物の意義と価値がある。これは受動的なものでも、虚しく無意味なものではない。真に神を愛する者だけが最も価値ある意義深い人生を送ることができ、そうした人々だけが真に神を信じているというのは、その人たちが神の光の中で生きており、神の働きと計画のために生きることができるからだ。彼らは闇の中で生きているのではなく、光の中で生きている。無意味な生を生きているのではなく、神の祝福を受けた生を生きているからだ。神を愛する者だけが神を証しでき、彼らだけが神の証人であり、彼らだけが神の祝福を受け、彼らだけが神からの約束を受け取る。神を愛する者は神と親しい者であり、神に愛され、神と共に幸いを享受できる。こうした人々だけが永遠に生き、また、こうした人々だけが神の顧みと守りの下、永遠に生きる。神は愛するべき対象であり、人々に愛されるにふさわしい対象だが、すべての人が神を愛せるわけではない。誰もが神を証しして、神と共に力をもつわけでもない。神を証しできるので、すべての努力を神の働きに捧げられるので、真に神を愛する者は天下のどこを歩いてもあえて敵対しようとする者がいない。また、地において力を振るい、神の民みなを支配できる。こうした人々は世界中からやって来る。話す言葉は違い、肌の色も異なっているが、その存在は同じ意味を持っている。彼らには神を愛する心があり、みな同じ証しをし、同じ決意を持ち、同じことを願っている。神を愛する者は世界中を自由に歩くことができ、神を証しする者は、全宇宙を旅できる。こうした人々が、神の愛する者であり、その人たちは神の祝福を受けており、神の光の中で永遠に生きる。


神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる

2019-12-20 22:31:39 | いのちのパン

   大抵の人の神への信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を求め、慕い求めることができないのだ。黙って神に付き従っているに過ぎない。多くの人は神を信じているが、神を愛している者はほとんどいない。人々が神を「畏れる」のは、災難を恐れているから、あるいは、神が偉大な存在だから「崇めて」いる―しかし、その畏れや尊崇には愛も、心からの思慕もない。人々は信仰体験において真理のごく小さな部分、あるいは、些細な奥義を求めることでしかない。大抵の人は単に従うだけで、混乱の中ではとにかく恵みさえ受け取れれば良いという姿勢でいる。そうした人は真理を求めない。また、神の祝福を受けるために、誠に神に従おうとはしない。人々の神への信仰生活は無意味だ。無価値で、人々はただ自身の利益と目的だけ追求する。神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じているのだ。多くの人は好きなように振る舞い、心の赴くままに行動し、決して神のためも、自分のしていることが神の心に適うかどうかも考えない。そうした人は、神を愛することができないのは言うまでもなく、真の信仰を持つことさえ出来ない。神の本質は、ただ人間が信じるためだけのものではない。それ以上に、愛すべきものなのだ。しかし、神を信じる者の多くは、この「秘密」を見いだすことがでない。人々はあえて神を愛そうとせず、また、愛そうと試みることもない。人々は神には愛すべき点が数多くあることを見つけだしておらず、神が人間を愛していること、人間にとって神が愛すべき存在であることを見つけだしていない。神の優れている点は、その働きに示されている。神の業を経験してはじめて、人は神のすばらしさを見つけだす。実際に体験してはじめて、神のすばらしさを認識するのであって、実際に体験することがなければ、誰一人神のすばらしさを見つけだせない。神の敬愛するべき点はまことに数多いのに、実際に神に触れることがなければ、人々はそれを見つけだせない。それはつまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神に触れることができず、実際に神に触れることができなければ、その働きを経験することができず、そこで、人々の神への愛には偽りや想像が介在することになる。天にいる神への愛は、地上にいる神への愛ほどの真実味がない。天にいる神についての認識は、その目で見たり実際に体験したりしたことではなく、想像によるものだからだ。神が地上に来ると、人々は神の業とすばらしさをその目で見られる。神の実際的で正常な性質のすべてを見られるのだ。それらはみな、天にいる神についての認識より数千倍も現実的なものなのだ。人々が天の神をどれほど愛そうと、その愛に真実は何もない。人間の考えたものばかりだ。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は実際的である。たとえごくわずかであっても、それでも現実のものなのだ。神は実際の働きを通して人々に自分を知らせになる。そして、その知識によって人々の愛を得られる。これはペテロと同じことだ。もし彼がイエスと共に暮らしたことがなければ、イエスを愛することは不可能だったろう。ペテロのイエスへの忠誠心もまた同じで、イエスとの交わりを通して築かれたものだ。人間が自分を愛するようになるため、神はおいでになって人々と共に生きた。そして人々が見て経験するものはみな、神の実際なのである。

 

 

   神は現実と事実を用いて、人々を完全にする。神の言葉は、人間を完全にするための働きの一部であり、これは導きの働き、道を開かれるということなのだ。いわば、神の言葉によって人は実践の道を見出し、ビジョンに対する認識を見出さなければいけないのだ。これらのことを理解していれば、実践の中に道とビジョンを得、神の言葉によって啓くことができよう。これらのことは神から出たものであると理解し、多くを識別できる。理解した後、ただちにこの現実に入り、神の言葉によって、現実の生活において神を満足させなければならない。神は、あらゆることであなたを導き、実践の道を示し、神のすばらしさを感じさせ、神の働きのあらゆるもの全ては、あなたを完全にするためのものであることが理解できるようにしてくれる。もし神の愛を知りたいのなら、もし神の愛を真に体験したいのなら、現実に深く入らなければならず、現実の生活に深く入らなければならない。そして、神のすることはみな愛であり、救いであり、人間が汚れたものを捨て去り、内にある神の心を満たすことのできないものを練られるようにするためだということを理解しなければならない。神は、人間にいのちを供給するために言葉を用いる。また、人間が体験できるよう、現実の環境を創る。そして、もし人間が神の言葉を多く飲食するならば、それを実践したとき、神の言葉を用いれば、現実の問題をみな解決できる。つまり、現実を深く入るには、神の言葉を身につけていなければいけないということなのだ。神の言葉を飲み食いしなければ、また、神の働きがなければ、生きるうえでの道を見いだすことがない。神の言葉を飲み食いすることがなければ、何か起こった時に惑うことになる。神を愛すべきだと知るだけで、識別することができなければ、また、実践の道を知らなければ、あなたは惑い、混乱して、時には肉の欲求を満たすことが神の心にかなうことだと思い込む。こうしたことはみな、神の言葉を飲み食いしていないから起こることなのだ。つまり、神の言葉を助けにすることなく、現実の中で手探りしているだけでは、根本的に実践の道を見出すことができないのだ。こうした人は、神を信じるということがどういうことなのかを全く知らず、まして、神を愛するということがどういうことかを理解していない。もし神の言葉の啓きと導きとに従ってしばしば祈り、探り、求め、それによって実践すべき事柄を見いだし、聖霊の働きの機会をみつけ、真に神と協力し、惑い混乱することがないなら、現実の生活に道を見出し、本当に神を満足させることになる。神を満足させれば、あなたの心の内に神の導きがあり、神から格別の祝福を受ける。すると、喜びを覚える。あなたは神を満足させたことを特に光栄に感じ、特に内に光を感じ、心は明瞭で安らかである。意識は穏やかで、責められることがない。また、兄弟姉妹を見ると、心楽しい。これが神の愛を享受するということであり、これだけが真に神を喜ぶということなのだ。神の愛を享受するということは経験によって得られる。苦難を経験し、真理を実践し、神の祝福を受ける。神が本当に愛してくれると神は人々に重い代価を払い、神は忍耐強く、やさしく多くの言葉を話し、いつでも人々を救ってくれると口にするだけなら、あなたが言うこれらの言葉は神にある喜びの一面に過ぎない。しかし、もっと大きな喜び――真の喜び――は、真理を現実の生活で実践することだ。そうすると、心は安らかで明晰になり、内に深い感動を覚え、神はほんとうにすばらしいお方だと感じるだろう。あなたは、自分の払った代価は十分に価値あるものだと感じるだろう。大きな代償を払って努力したあなたは、とりわけ明るい気持ちになるだろう。自分が真に神の愛を受けていて、神が人々に救いの働きをし、神が人々を練るのは清めるためであり、神が人々を試すのは、本当に神自身を愛しているかどうかを調べるためだということがわかるのだ。もしあなたがいつでもこのように真理を実践するなら、徐々に神の働きについての明確な認識を身につけ、そうしたときいつでも、神の言葉が水晶のように明瞭であると感じるようになる。多くの真理を明確に理解できるなら、すべてのことは容易に実践でき、問題を乗り越え、誘惑に打ち勝てると感じ、また、困難なことは何もないとわかる。そうすると、ほんとうに解放され、自由な状態になる。そのとき、あなたは神の愛を享受し、神の真の愛があなたのものになる。神はビジョンを持つ者、真理を得、認識を得、心から神を愛する者を祝福する。神の愛を得たいのなら、日々の生活の中で真理を実践しなければいけない。進んで苦痛に耐え、愛するものを捨てて神を満足させ、たとえ涙することがあっても、神の心を満足させるのでなければいけない。そうすれば、神は必ずあなたを祝福する。そして、もしそうした困難を耐え忍ぶなら、聖霊の働きが行われるだろう。現実の生活の中で神の言葉を経験することで、人々は神の愛すべきことがわかるのであり、神の愛を経験してはじめて、人は真に神を愛せるのだ。

   真理を実践するほど、より多くの真理を得る。真理を実践すればするほど、より神の愛を得る。そして、真理を実践すればするほど、神の祝福を受ける。いつでもこのように実践するなら、徐々に神の愛を内に見出し、ペテロがそうだったように、神を知るようになる。ペテロは、神が天地万物を創造する知恵をもっているだけではなく、そのうえ、人々の中で実際的な働きを行う知恵を持っていると語っている。ペテロは、神が天地万物を創造したから人々の愛にふさわしいだけではなく、そのうえ、人間を創り、人間を救い、人間を完全にし、人間に愛を与えてくれる力がありだから人々の愛にふさわしいのだと述べている。だから、ペテロは、神には人間の愛を受けるに値する点が数多くあるとも言うのである。ペテロはイエスに言った。「主は、天地万物を創られた以上に人々に愛されるにふさわしいのではありませんか。あなたが愛されるべきに他の理由はあなたの中にあります。あなたは現実の生活の中で働き、動いておられます。あなたの御霊はわたしの内に触れ、わたしを懲らしめ、わたしを咎められます。こうしたことは、ずっと、人々の愛にふさわしいのではありませんか。」神の愛を見、経験したいと望むのなら、それを現実の生活の中で探し、求めなければならない。そして、進んで自分の肉を捨てなければならない。このように心を定めることができなければならない。固く決心し、あらゆる点で神の心にかない、怠ることなく、肉の喜びに貪欲にならず、肉のためではなく神のために生きることのできる者でなければならない。あなたが神の心にかなわない時もあるだろう。それは、神の心を理解していないからだ。次にはもっと努力が必要であっても、神に満足してもらえるようにしなさい。肉の欲望を満たそうとしてはいけない。このようにして経験していくと、神を知るようになる。神が天地万物を創造できたことを知り、人々がほんとうに実際に彼を見、実際に交流することのできるよう、また、神が人々の間を歩きその霊が現実の生活の中で人々を完全にできるよう、人間が神のすばらしさを見て、その鍛えや懲らしめ、祝福を経験できるようになるために受肉したことがわかるようになる。いつでもこのような経験をしていれば、現実に神と分かち難くなり、いつの日か、神との関係が正常のものではなくなる場合、叱責を耐えることができ、悔いる気持ちを覚えるようになる。神と正常な関係にあるときは、決して神と離れようと思わず、ある日、神が去ろうと言われるようなことがあれば、恐れ、神と離れるよりは死にたいと言うだろう。そうした感情を持つとすぐに、神と離れることはできないのだと感じ、そうして基礎ができ、真に神の愛を享受できる。

   人々はよく、神を自分のいのちにさせると言うが、まだそうなるところまで経験していない。あなたは単に神が自分のいのちであり、毎日自分を導いてくれる。自分は毎日神の言葉を飲み食いし、毎日神に祈っているのだから、神が自分のいのちになってきていると言う。こうしたことを言う人々の認識は表面的なものに過ぎない。多くの人々は基礎ができていない。神の言葉は植えつけられたが、まだ芽を出しておらず、まして実を結んでなどいない。今日、どの程度まで経験しているだろうか。ここまで神が強引に連れてきてやっと、神と離れることはできないと感じているのだろうか。いつか、一定のところまで経験したところで、神があなたを去らせようとするなら、あなたは立ち去ることができなくなるだろう。あなたはいつでも、神がいなければ生きていられないと心の中に感じるだろう。夫や妻、子供、家族、父母、肉の喜びはなくとも生きることはできるだろう、しかし、神なしでは、いられない。神なしでいるのは命を失うようなもので、神なしでは生きていられない。こういう状態になるまで経験を積むと、神への信仰の到達点の一つに至ったと言える。そして、このようにして神はその人のいのちとなり、存在の基礎となると、決して二度と神と離れることができない。こうしたところに至った人は、真に神の愛を喜んでいる。神との関係は真に密接になり、神があなたのいのち、愛となり、あなたはこう祈る。おお、神よ。あなたから離れることができません。あなたはわたしのいのちです。他のすべてがなくともやっていけます。でも、神なしでは、生きていけません。これが人々の真の姿、これがまことのいのちである。中には、今日まで、強制されてきた人々もいる。その人たちは望むと望まざるとに関わらず進まなければいけない。その人たちは、いつでも苦難の板挟みなっていると感じる。神が自分のいのちであること、自分の心から神を奪われることは、命を失うようなものであることを経験しなければいけない。神は自分にとっていのちであって、神から離れることはできないという状態でなければならない。そうすれば、ほんとうに神を経験することができ、その時に、再び神を愛するようになれば、真に神を愛すのであり、それは唯一の純粋な愛であるだろう。いつの日か、そうした経験をして、いのちのある点に至り、神に祈り、神の言葉を飲み食いし、心が神を離れることができず、たとえそうしたいと思っても、神を忘れることができない。神はあなたのいのちになる。世界を忘れることはできる。妻や夫や子供を忘れることはできる。しかし、神を忘れるのは難しいだろう。不可能なのだ。それがあなたの真のいのちであり、神への真の愛なのだ。神への愛がある点に至ると、他のどんなものへの愛も神への愛には及ばなくなる。神が最も愛するものなのであり、そうなると、あなたは他のすべてを捨て去れる。そして、神からなら、どんな取り扱いも刈り込みも受け入れられるようになる。神への愛が他のすべてより重要になったなら、あなたは現実の中に神の愛の内に生きるようになる。

   人々の内で神がいのちになるやいなや、神を離れることはできなくなる。それは神の業ではないのだろうか。これ以上の証しはない。神は一定のところまで働いた。神は人々に、仕えよ、罰を受けよ、あるいは死ねと言ったが、人々は退いていない。このことは、彼らが神に征服されていることを示している。真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、しかるべき成果が生み出されていることになる。あなたは実際に生きることができ、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られる。外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉について交わるときも神に導かれ、神によって啓かれている。自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを伝えることができ、霊において奉仕することを深く理解している。話し方は率直で、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何かが降りかかった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。このような人が真に神の愛を見たのである。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。それはつまり、ある程度の経験を積むと、心の中に神について理解力が養われ、そこで、外に現れる性質もまた、安定するのだ。多くの人は真理を実践せず、証しに立つことができない。そうした人には、神の愛、神についての証しが欠けているのだが、神はそうした人々を最も嫌われる。彼らは神の言葉を飲み食いするが、表に現れるのはサタンであって、神の言葉をサタンが汚すのを許しているのだ。そうした人々の内には、神の愛がかけらもない。彼らが表現するものは全てサタンから出ている。もし心がいつでも神の前で安らかであるなら、また、周囲の人々や物事、あるいは、自分の周りで起こっていることに常に注意を払っていて、神の負っているものについて心を留めているのなら、また、いつでも神を畏れ敬う心をもっているなら、神はあなたの心の中で教え導いてくれる。教会には「監督者」であるものがいて、他の人々の過ちに殊更注意を払い、それを真似て見せる。彼らは物事を識別できず、罪を憎まず、サタンに関わることを嫌いも不快に思いもしない。そうした人々はサタンの事がらに満たされており、ついには神から完全に見放されるだろう。あなたはいつも神の前に畏敬の心をもち、言葉や行いが穏やかであらねばならず、神に敵対したり、神を悲しませたりすることを望んではならない。神の内なる働きを無にしたり、それまでに耐えてきた苦難や実践してきたことすべてを無にしたりすることを決して望んではならない。あなたは前進する上でもっと一生懸命働き、さらに神を愛さなければならない。そうした人々はビジョン基礎とする人である。そうした人々は前進を求める人である。

   もし人々が神を畏れる心で神を信じ、神の言葉を経験するなら、そうした人々には神の救いや神の愛がもたらされる。そうした人々は神を証しすることができ、真理に生き、真理、神であるすべて、神の性質について証しし、神の愛に包まれ、神の愛を知っている。もし神を愛したいと願うのなら、神の愛すべきことを経験し、神の愛すべきことを理解しなければならない。そうしてはじめて、神を愛する心、忠実に神に仕えようという思いが生じる。神は文字、あるいは想像力に訴えて人々が神を愛せよとはさせない。神は自身を愛することを人々に強いない。むしろ、人々が自ら進んで神を愛するようにするのだ。自分の働きと言葉の内にその愛すべきことを見るようにし、その後で、神への愛が生まれるようにするのだ。そのようにしてはじめて、人々は真に神を証しできる。人々は、他人からそうするように駆り立てられて神を愛するのではない。また、一時的な感情の衝動に動かされて愛するのでもない。人々が神を愛するのは、神の愛すべきことを見たからであり、神には人々が愛するに値するものが数多くあること、神の救いと知恵、驚くべき業を見、その結果、心から神を讃え、心から神を求め慕い、神を自分のものとしなければ生きて行けないほどの掻き立てられた情熱が芽生えるのだ。真に神を証しする人々は、神についての真の認識と心から慕う気持ちとが土台にあるからこそ、素晴らしい証しをできるのである。これは、感情に突き動かされているのではなく、神とその性質についての認識によっている。その人々は神を知るようになり、まことに神を証しし、神を求めるすべての人々に神のことを知らせ、神の愛すべきことと神の実際を知るようにしたいと感じているからである。人々の神への愛同様、その人たちの証しは自発的で真実であり、本物の意義と価値がある。これは受動的なものでも、虚しく無意味なものではない。真に神を愛する者だけが最も価値ある意義深い人生を送ることができ、そうした人々だけが真に神を信じているというのは、その人たちが神の光の中で生きており、神の働きと計画のために生きることができるからだ。彼らは闇の中で生きているのではなく、光の中で生きている。無意味な生を生きているのではなく、神の祝福を受けた生を生きているからだ。神を愛する者だけが神を証しでき、彼らだけが神の証人であり、彼らだけが神の祝福を受け、彼らだけが神からの約束を受け取る。神を愛する者は神と親しい者であり、神に愛され、神と共に幸いを享受できる。こうした人々だけが永遠に生き、また、こうした人々だけが神の顧みと守りの下、永遠に生きる。神は愛するべき対象であり、人々に愛されるにふさわしい対象だが、すべての人が神を愛せるわけではない。誰もが神を証しして、神と共に力をもつわけでもない。神を証しできるので、すべての努力を神の働きに捧げられるので、真に神を愛する者は天下のどこを歩いてもあえて敵対しようとする者がいない。また、地において力を振るい、神の民みなを支配できる。こうした人々は世界中からやって来る。話す言葉は違い、肌の色も異なっているが、その存在は同じ意味を持っている。彼らには神を愛する心があり、みな同じ証しをし、同じ決意を持ち、同じことを願っている。神を愛する者は世界中を自由に歩くことができ、神を証しする者は、全宇宙を旅できる。こうした人々が、神の愛する者であり、その人たちは神の祝福を受けており、神の光の中で永遠に生きる。


神の前で心を静めることについて

2019-09-07 22:23:59 | いのちのパン

神の前で自分の心を静めることは、神の言葉の中に生きるための重要な手順であり、現在全ての人々が緊急に入る必要のある課題である。神の前で自分の心を静める境地に入るには次のことが必要である。

1.外部の物事から自分の心を取り戻し、神の前で静まり、心を集中して神に祈る。

2.神の前で静まった心で、神の言葉を食べ飲みし、享受する。

3.心で神の愛について黙想・沈思すること、神の業について熟考することを日課とする。

まず祈ることから始めなさい。精神を集中して、決められた時間に祈りなさい。時間的にどれほど切迫しているか、どれほど多忙かを問わず、またどんな事があっても、いつものように日々祈り、神の言葉をいつものように食し、飲みなさい。神の言葉を食し、飲んでいる限り、自分の周りの状況がどうであれ、自分の霊は喜びに満たされる。また、他人や様々な出来事や自分の周りのものに悩まされることもない。常時神のことを心の中で黙想していれば、それ以外の出来事に煩わされることは無い。背丈があるとは、このことを意味する。まず祈りから始めなさい。神の前に静まり祈ることは、最も効果的である。その後、神の言葉を食し、飲み、神の言葉を思い巡らし、光を得て、実践の道を見出し、神の発した言葉の目的を知り、偏ること無く理解するよう努めなさい。普段から、外側のことに心を乱されることなく、心の中で神に近付き、神の愛について黙想し、神の言葉を熟考しなさい。あなたが熟考できるぐらい心がある程度安らいでおり、あなたのいる状況に関わらず、自分の心の中で神の愛について沈思し、本当に神に近付き、最終的に自分の心の中で神を讃美する程度に達したなら、それは祈りにも勝ることである。そして、その時初めてあなたはそこから或る程度の器量を得ることになる。もしあなたが、前述したような状態に達することができるなら、それはあなたの心が神の前で真に静まっている証拠である。それが第一段階であり、基本訓練である。人間は、神の前で安らかになることが出来て初めて、聖霊により触れられ、啓き照らされることが可能となる。その時初めて真に神と交わることや、神の意志と聖霊の導きを把握することが可能となる。そして、その時、人間は自分の霊的生活において正しい道を歩きだしたことになるのである。自分自身に反抗し、自分自身を忌み嫌い、神の言葉の中で生きることができる深みに達するために、神の前で生きるよう自分を訓練することが、真に神の前で自分の心を静めることである。自らを忌み嫌い、呪い、自らに反抗することが出来ることは、神の業が達成する成果であるが、人間には不可能である。したがって、神の前で自分の心を静める訓練は、人間が直ちに入るべき課題である。普段から神の前で自分の心を静めることが出来ないだけでなく、祈る時さえ自分の心が静まっていない者もいる。これは神の基準から全くかけ離れ過ぎている。自分の心を神の前で静められないのであれば、聖霊によって動かされることなどありえようか。神の前で静まることが出来ないのであれば、あなたは誰かが来た時には気を散らされ、誰かが話をしている時には気をそらされてしまうだろう。そして、他人が何かしていると、あなたの心はそれに惹き付けられてしまいかねない。それでは、あなたは神の前に生きる者ではない。あなたの心が、神の前で本当に静まっているのであれば、周囲で何があっても、それに煩わされず、どんな人や出来事、またいかなるものにも心を奪われることがないであろう。あなたがこのような境地に入るなら、それらの否定的な状態や、人間の観念、人生哲学、異常な人間関係、心の中の雑念などといった全ての否定的なものは自然と無くなるであろう。あなたは常に神の言葉について熟考し、あなたの心はいつも神に近付き、神の現在の言葉で満たされているので、そうした否定的なものは無意識のうちに取り去られる。肯定的な新しい物事があなたの心を占める時、否定的な古い物事が入る余地はなくなる。だからそうした否定的な物事に注目してはならない。そうした物事をコントロ-ルしようとして努力する必要は無い。神の前に静まることに注意を払い、神の言葉を食べ飲みして享受しなさい。もっと多くの聖歌を歌って神を讃美し、神があなたに働きかけられるよう機会を与えなさい。なぜなら、神は今自ら人間を完全にすること、また、あなたの心を獲得することを求めているからである。神の霊はあなたの心を動かす。そしてあなたが聖霊の導きに従って神の前に生きるならば、あなたは神を満足させるであろう。あなたが、神の言葉の中に生きることに心を配り、そして真理に関して一層の交わりを行って聖霊の啓き照らしを得ることに留意したならば、それらの宗教的観念や独善、自惚れは消え去り、神の為にどのように費やし、どのように神を愛し、どのように神を満足させればよいのかを知るであろう。神以外の物事は、その時無意識のうちに忘れられるであろう。

神の現在の言葉を食し飲むのと同時に神の言葉を熟考し、神の言葉について祈ることが、神の前で安らかであることの第一歩である。神の前で真に安らかであることが出来るならば、聖霊の啓き照らしは、あなたと共にあるであろう。

全ての霊的生活は、神の前に静まることによって達成される。聖霊に動かされるには、まず祈りの中で神の前に静まらなければならない。神の言葉を食べ飲みする時に、神の前に静まることによって、啓き照らしを受けることと、神の言葉を真に理解することが可能となる。あなたの通常の瞑想と交わりにおいても、またあなたの心で神に近付く際も、唯一あなたが神の前に静まる時にのみ、本当の神との親しさと、神の愛と神の働きに関する真の認識と、神の心に対する本当の思慮深さが得られるのである。神の前で普段から静まることができればできるほど、あなたは一層照らされることができ、自分の腐敗した性情や、自分に欠けているのは何か、自分が入るべきこととは何であるか、自分が担うべき役割、また、自分の欠点がどこにあるかを一層理解できるようになる。これら全ては、神の前に静まることに依存することによって達成される。神の前に静まることにおいて、あなたが本当にある深みに達したならば、あなたは霊においていくつかの奥義に触れることができる。神が今あなたに為したいと願っていること、神の言葉の一層深い理解、神の言葉の真髄、神の言葉の本質、神の言葉の存在に触れることが可能となり、また実践への道をもっと深くかつ正確に理解できるようになる。もしあなたが霊において静まり、ある深みに達することが出来ないのであれば、あなたは幾分聖霊に動かされるだけだろう。あなたは、内に力といくらかの喜びと平安を感じるが、それ以上の深みに触れることはないであろう。前にも言ったように、人が全力を尽くさないのなら、わたしの声を聞くことも、わたしの顔を見ることも困難であろう。それは、外面的努力ではなく、神の前に静まり深みに達することを指している。神の前で本当に静まることができる人は、自分を世のしがらみから解き放ち、神により占有することができる。神の前に静まることができない人々は、皆自堕落で無節操である。神の前で静まることができる者たちは、皆神の前で敬虔な人々であり、神を待ち望む人々である。いのちに注意を払い霊の交わりに気を配り、神の言葉を渇望し、真理を追求するのは、神の前で静まっている人々だけである。神の前で静まることに一切注意を払わず、神の前で静まることを実践しない者たちは皆、完全に世に執着し、いのちを持たない見かけだけの人々である。彼らは神を信じると言っても、それはただ口先だけである。最終的に神が完全にし完成する者たちとは、神の前で静まることができる人々である。したがって、神の前で静まる人々は、大いなる祝福の恵みを受けている人々である。日頃神の言葉を食し飲む時間を少ししか取らない人々、外部の状況に完全に心を奪われている人々、いのちの道に入ることに注意を払わない人々は、皆将来成長の見込みのない、偽善者たちである。神の前で静まることができ、真に神と交わることができる者たちこそ神の選民である。

神の前に来て神の言葉を自分のいのちとして受けるには、まず神の前で静まらなければならない。神の前で静まっている時のみ、神はあなたを啓き理解させるであろう。人が神の前に静まれば静まるほど、人は神の啓き照らしをより一層受けることが出来る。これらのことには、敬虔さと信仰を持つことが要求される。このようにしてのみ人間は完全になることができる。霊的生活に入るための基本的な訓練は、神の前に静まることである。あなたの霊的訓練は全て、あなたが神の前に静まっている時のみ効果的なものとなるであろう。自分の心を神の前で静められないのであれば、聖霊の働きを受けることが出来ない。あなたが何をしているかに関わらず、あなたの心が神の前に静まっているならば、その時あなたは神の前で生きる者である。あなたが何をしているかに関わらず、あなたの心が神の前に静まり、神に近付いているならば、それはあなたが神の前に静まる者である証拠である。他人と話をしている時、また歩いている時に「私の心は神に近付いており、外部のものにとらわれてない。そして私は神の前に静まっていることができる。」と言うことが出来る。それは、神の前に静まっている者である。あなたの心を外に引き付けるものに触れてはならない。また、神からあなたの心を引き離す可能性のある人々と接してはならない。あなたの心が神に近付くのを邪魔する可能性のある物事は何であれ、全て捨てるか、近付かないようにしなさい。その方があなたのいのちにとってより有益である。今こそが聖霊による大いなる働きの時である。神が自ら人間を完全にしている時である。今この瞬間に神の前に静まることができないのであれば、あなたは神の玉座の前に戻って来る者ではない。神以外の物事を追求するのであれば、神により完全にされる可能性は全く無い。今日神の発するこのような言葉を聞いてもなお、神の前に静まることができない者たちは、真理を愛さない人々、神を愛さない人々である。あなたが、今自分を神に捧げないなら、いったい何時捧げるのだろうか。自分を神に捧げることは、神の前で心を静めることである。これが真の捧げ物である。今本当に神に心を捧げる者は誰であれ、神により確実に完成されることが可能である。何であれ、あなたを煩わせる物事は一切ない。あなたに対する刈り込みであれ、取り扱いであれ、またあなたが挫折や失敗に直面しようが、あなたの心は、常に神の前に静まっているべきである。他人が自分をどう扱おうと、あなたの心は神の前に静まっているべきである。逆境、苦難、迫害など、どんな状況に直面しようが、また様々な試練があなたに降りかかろうが、あなたの心は、常に神の前に静まっているべきである。これが完全にされる道である。あなたが本当に神の前に静まっている時のみ、あなたは神の現在の言葉を明瞭に理解し、聖霊の啓き照らしを一層正しく実践し、そこから逸脱しない。また神の意図をもっとしっかりと把握し、自分の奉仕において一層明瞭な方向性を持ち、聖霊の動きと導きをもっと正確につかみとることができ、聖霊の導きの下で生きることがより確かなものとなる。これらが神の前で本当に静まることが達成する成果である。人々が神の言葉を明瞭に理解しておらず、実践する道が無く、神の意図が把握できない、あるいは実践における原則が無いのであれば、それは彼らの心が神の前で静まっていないからである。神の前で静まることの目的は、真剣かつ実践的となり、神の言葉の正確さと明瞭さを探求し、最終的に真理を理解することと神を知ることを達成することにある。

自分の心が神の前で継続的に静まっていないのであれば、神はあなたを完全にすることは出来ない。ある人に意志が無いならば、それは心が無いことと同じであり、心の無い人間は神の前で静まることが出来ない。彼らは神がどれだけ多くの業を行い、どれだけ多くのことを語っているのか知らず、またそれらを実践する方法も知らない。こうした者は、心の無い人間ではなかろうか。心の無い人間は、神の前で静まれるだろうか。神は、心の無い人間など完全にはできない。そんな者は獣に属するのだ。神は極めて明確かつ徹底して言葉を語ったが、あなたの心は依然として動かされず、あなたは神の前で静まることが出来ない。これでは動物と同じではないだろうか。神の前で静まることを実践する中で、迷ってしまう人々もいる。彼らは料理すべき時に料理せず、働くべき時に働かず、ひたすら祈り、瞑想する。神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。何も無い時には神の前で静まることが出来るが、何かが起きるとすぐさま心が神から去る人々も居る。それは神の前で静まることではない。経験すべき正しい方法は、いかなる場合も自分の心が神から離れず、外部の人々や出来事、物事が煩わしいと感じないことである。神の前で静まっている人とは、このような人のことである。集会で祈っている時は、自分の心を神の前で静めることが出来るが、交わりの時になると、神の前で心を静められず、気が散ると言う人たちもいる。それは神の前で静まるということではない。現在ほとんどの人たちがこうした状態にあり、彼らの心は、神の前に常に静まることができない。したがって、あなたがたは、この領域の訓練に一層努め、いのちの経験の正しい道に、一歩一歩入り、神によって完全にされる道を歩む必要がある。