賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

子供の教育ー神の御言葉は正しい選択をするように導いてくださりました

2020-01-01 23:02:50 | 子供の教育

   私は貧乏な家庭に生まれました。私が幼かった頃から私の両親は私の弟と私に対して私たちは一生懸命勉強すべきであり、良い大学に入ってのみ明るい将来と良い生活環境を手にすることができると言っていました。将来幸せな生活を送りかった私は出来る限り一生懸命に勉強し、 頻繁に夜遅くまで勉強しました。しかし、自分がまさか大学入試に失敗するとは思ってもいませんでした。そして私は平凡な短大に通うことを余儀なくされました。私たちの短大は海外で1年間インターンとして働くことを必須としていたので、私は2016年9月にインターンとして日本に行きました。私が4年制大学に入る夢は打ち砕かれてしまったので、私の両親と私は望みを全て弟に託しました。弟がより良い環境で生活できるようにと、私の両親は地元の外で働きました。

  ある日の夜遅く、私は帰宅するとWeChatから母がビデオチャットをしたがっているというリマインダーを受けました。私たちがチャットを始めると、母は心配そうにこう言いました:「あなたの弟のことなんだけどね。あの子は勉強に怠けて、学校の成績がかなり落ちてるのよ。こっそり携帯電話で遊んでるんじゃないかと思うのよ。」実は、私は頻繁に仕事の後に弟とWeChatでチャットしていたので、弟が携帯電話に夢中になっていることは私の中では明らかでした。それでも、私はこう言って母を安心させました:心配しないで。勉強のストレスがいっぱい溜まってるに違いないわ。きっちりとストレスを解消することは良いことだわ。」母は私のアドバイスには耳を傾けず、父に実家に戻って弟が勉強する間は側にいるようせき立てました。母はこうしないと気になって仕方なかったのです。

  弟が学校に通う間、彼と同居して彼の面倒を見ていた父は、弟が書いたラブレターを発見して弟に好きな女の子がいたことを知りました。そして、父はこのラブレターを母に送りました。私の母はこれを見た後、直ぐにがっかりしてどうしていいのから分からず私に又電話をしてきました。私はこの知らせを聞いた時、怒りで震えながらこう考えました:「弟は私よりも賢くて、将来大学に入れるって皆が信じている。有名な高校に入学してるからもう大学に半分入ったようなものなのに。でもやることやらずに恋しているなんて。これは本当に心配だわ。しかも、良い大学に入らずにどうやって良い仕事を見つけるっていうの?良い仕事に就かずに幸せな生活ができるのかしら?」

  その当時、私は毎日このことを心配しました。後に、私がこのことをある姉妹に話すと、この姉妹は神の御言葉の次の2節を送ってくれました:「人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。」「大学で有利な学部を選択し、卒業後は満足できる職に就いて、人生の旅路の第一歩で成功を収める者もいる。様々な技能を学んで身に付けたが、自分に適した職や役職を得られず、ましてや経歴を積むなど問題外で、人生の旅路に就いてすぐに、何をしても挫折感を味わい、様々な問題に悩まされ、先行きが暗く、人生が不確かな者もいる。熱心に勉強に励んでも、高等教育を受ける機会をあと少しの所で逃してしまい、その後の成功運は失われたように思われ⋯能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が追究する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。」

  私は常に良い大学に入ってのみ良い仕事に就いて幸せな生活を送れるものだと思っていました。しかし、神の御言葉は、人が就く職やどれだけの富を手にするかはその人の努力や野心によるものではなく、かなり前から創造主によって運命づけられていると知らせてくれました。神の御言葉に照らし合わせていると、私は自分の村にいた大学生で、現在未だには農作業をしている人がいたのを思い出しました。実生活において、同じようなことが他にも沢山あります。高学歴を持っている人が、沢山挫折した後でも未だに満足のいく仕事に就けないこともあります。大学に行かずにビジネスで成功を収める人たちもいます。正に、私たちが良い仕事に就けるかどうかは私たちの学歴、努力、または野心によるものではなく、むしろ神の主権と神が定められた宿命によって定めされているのです。私たちの運命は神の御手にあるのです。私たちが自分のためにどれだけ駆けずり回って努力しても、神の主権を超えられる人などいないのです。過去を振り返ってみると、私は大学に入るために多くの代償を払いましたが、結局失敗に終わっています。同様に、私の弟が良い大学に入れるかどうか、そして良い仕事に就けるかどうかも全て神の御手にあります。弟は最善を尽くしてさえいればよいのです。私はこれと落ち着いて向き合うべきなのです。私はこの全てを理解した後、とても解放された気分になりました。

  しかし、その数日後、弟のありさまを受けて、私の母も自宅に帰ってしまいました。後に、母は弟が恋をしているだけでなく、ゲームで遊ぶことに夢中になっており、彼らが弟にゲームをさせないようにしたら怒りっぽくなったとまで私に言いました⋯母が期待外れの弟に対する憤慨を次から次へと吐露するのを聞いていると、私は弟が最近私とチャットをしようとしないで、自分の落胆した気持に関する様々なメッセージをOzoneに投稿をしていたことを思い出しました。このような状況の中、私はどうしていいのか分かりませんでした。この2日後、私は母から次の内容を知りました:「私の両親は弟の状態について話をしていると泣せずにいられませんでした。意外にも、弟は偶然これを目撃してしまい、突然猛烈に怒り出し、どうして彼に圧力をかけるのかと彼らに問いただしたのです。彼はそれまでずっと一生懸命に勉強し、ゲームで遊ぶ時間も減らしたのに、それ以上どうして欲しいのか分からないと言いました。弟は母をせかしてそこから追い出したのです。私はこの話を聞いていると、弟がとても大人げなく思えました。私の両親がしたことは全て弟のためであったのに。私はもうこれ以上我慢できなくなり、弟に文句を言おうと思い電話をしました。私の言ったことを聞いた弟は感情的になってこう言いました:「その通りだよ!僕は皆からしたらろくでなしだよ。僕は悪い子なんだよ!僕は死ぬまで必至になって勉強し続けるべきだと思ってるんだろ?もう海外から戻ってきても僕には二度と会いに来ないでくれ!ここには来ないでくれ!」

  弟の言ったことを聞いた私は呆気にとられました⋯私は弟がどうしてこんな風になってしまったのか分かりませんでした。その後、私は弟のQzoneに、「僕は生きて行きたくない」、と書かれていたのを目にしました。ちょうどその時、母から電話があって、弟をもっときつく叱るよう私に言ってきましたが、私はそれを拒否しました。私はそんなことをしたら、弟が何らかの自傷行為に走るかもしれないと感じたからです。そして、その時、私はこう考えました:「どうして私たちは皆して弟が大学に行くことを期待しているのかしら?実際、最終的な目標は弟が将来豊かで幸せな生活を送ること以外の何でもないのに。でも、4年制大学に入学して、明るい将来と良い結果を得て、物質的に豊かになったとしても、弟は本当に幸せになるのかしら?」これについて神はこう仰っておられます:「初めて社会科学の考えを持つようになってから、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それからすぐ、科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや人が神を礼拝する充分な余地はなくなり、神を礼拝する好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められていった。人の心の中に神の居場所が無い世界とは、暗く、何の希望も無く、空虚である…人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の欲求、探究心、そして霊的空虚感が解消されるのである。」 神の御言葉を読み、私は次のような理解に至りました;「私たちが必要なのは、知識、地位、または物質的な喜びではなく、むしろ神からいただくお救い、そして真理といのちなのです。私たちは神に創造されたので、神のみが私たちの精神的必要を満たすことがおできになるのです。私たちは神から離れてしまうと、物質的にどれだけの物を手にしても、心の中では依然として虚しさを感じるでしょう。私は以前インターネットで読んだ次のようなレポートを思い出しました:「とても快適な暮らしをしていながらも虚しさを感じていた億万長者の孫は刺激を求めてドラッグレースに参加しましたが、最終的には命を落としてしまったのです。他にも沢山の有名人に関するものがありました。彼らは皆、欲しいものを全て手にしていますが、それでも空虚感から抜け出すことができず、そして麻薬を吸うことを選びました。実に、私たちは富みを手にすると、物質的な面で欠くことはありませんし、肉の快楽も楽しむことはできますが、私たちの心の虚しさを埋めることができる人はいないのです。これ故に、多くの人々が興奮を求めますが、結果的に彼らのいのちが損なわれてしまうのです。実生活において、類似する出来事は稀ではありません。この全てより、物質的な満足感がもたらすものは真の幸せとは程遠いものばかりであることは明らかです。

  私は自分のことについてこう考えました:「過去、私は4年制大学に入る夢に向かって熱心に勉強し、多くの知識を修得しましたが、言葉で表せないほど頭を悩ませ、魂は虚しく感じました。私は何年も苦しい思いをして一体何を手にしたのでしょう?それは苦しみ以外の何でもありませんでした。今私は神を信じるようになりました。神の御言葉を毎日読み、兄弟姉妹たちと集会を開くことで、私は神の主権といのちの意義をある程度は得ることができるようになり、心の中で大きな満足感を味わっています。この全てはお金で購入できるものではありません。こう考えた時、私はやっと次の理解に至りました;「他人よりも際立つこと、そして名誉と富を手にすることは、私たちに幸せをもたらすことはできません。人は神に前に行き、神の御言葉の備えを受け、そして神を礼拝する時に限って心で真の幸せを感じることができるのです。」これらを理解した後、私は後で自分の弟に福音を伝導して、弟を神の前に導く決意をしました。

  その後、私は弟に胸中を明かすことにしました。弟はオフライン中でしたが、私はそれでも勇気を出して弟に謝り、今後は無理やり勉強させたりしないし、何か困ったことがあれば私とチャットすればいいと伝えました。このメッセージを送信した後、私は弟が返事をくれないのではないかと心配になりとても緊張しました。意外にも、私は翌日弟から返事を受け、弟は気にしていないと言ってくれました。私はこの短いメッセージを何度も読み返して、言葉で言い表せないほど嬉しくなりました。

  その後、私の叔母から電話があり、彼女は中国に戻ったら私の弟が良い大学に入って明るい将来を手にできるようにちゃんと勉強をさせると言いました。これを聞いた私は笑みを浮かべて、弟の学校の成績は彼の将来性には関係なく、まして彼の将来の幸せとはもっと関係がないと彼女に伝えました。弟は自分の道を進むべきで、私たちは事を自然の成り行きに任せるべきなのです。私の叔母はこれを聞いてとても驚いていましたが、私の考えに賛成だと言ってくれました。そして、私の弟は次第に元気を取り戻し、自分から私とチャットしてくれるようになりました。ある時、私はQzoneに弟が投稿したこのコメントを目にしました:「自分の悪い所を家族に見せて、他人に優しくする。」私がこの言葉を読んだ時、心の中に感動の波がこみ上げてきました。神様ありがとうございます!神の御言葉による御指導がなければ、私は両親のように、依然として弟に無理やり勉強させ、弟はそのうち私たちからの2重のプレッシャーの中で挫折していたことでしょう。私はこういう自分を完全に手放すことができたことを神に心から感謝しました。私は神の御言葉の御指導のおかげで正しい選択をすることができたのです。

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子供の教育-私は試験で100点を取ったが、しかし私はどうして楽しくありませんか?

2019-09-10 22:29:17 | 子供の教育

  試験では誰もが良い成績を取りたがるものですが、私も例外ではありませんでした。良い成績を取って良い結果を出せば、賞をもらえるし、両親から褒められるし、さらに重要なこととして、先生たちに気に入られると同時に、同級生たちからは羨ましく思われることができます。

私は小学4年生だった時の1学期目の期末テストのことを思い出しました。その日の数学の試験中、最初から全て順調だったのですが、最後の文章問題で手が止まってしまいました。どれだけ一生懸命に考えても、その問題は解けませんでした。これは6点の問題だったので、それが解けなければ94点しか取れないのです。6点を失いたくなかった私は、隣に座っていた同級生のヂョンに答えを聞こうと思いました。彼は数学が得意だったので、この問題を解けると思ったのです。試験官の方を見ると、彼女は頭を下げてコンピューターを見つめていました。そして、私は「絶好のチャンスだ、でもどうやって聞けばいいかな」と思いました。丁度その時でした、ヂョンが小声で「おい、この問題どうやって解いた?」と私に聞いてきたのです。意外にも、彼が先に答えを聞いてきたのでした。こうして、私たちはお互いに解けなかった答えを交換し合いました。

私が家に帰ると、母が突然「今日の試験はどうだった? 難しい問題はあった?」と聞いてきました。私はすぐにカンニングしてしまったことを考えました。私は突然落ち着かなくなってこう思いました。「試験でカンニングをしてしまうなんて。僕は神を信仰する子供なのに。お母さんにカンニングしたことを話したら間違いなく叱られてしまう。でも、言わなかったらお母さんに知られることはない。とは言っても、神は人々の心の中をお調べになるから、このことを間違いなく知っておられる。」私は一瞬ためらいました。そして、私たちは何に遭遇しても神に祈りを捧げ、神を頼りにしなければならない、と母が言っていたことを突然思い出しました。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神様!今日私はカンニングをしてしまいました、そして家に帰ってから母に試験のことを聞かれたのですが、母に怒られるのが怖くてそれを話すことができませんでした。神様、どうか私が正直な人になって、母に真実を伝える意思を持てるようにしてください。」こう祈りを捧げると、正直に話す勇気が湧いてきたので、私は試験でカンニングしたことを母に話しました。

母は私にこう聞いてきました。「カンニングをしていた時、神はそれを好まれないってことを考えなかったの?」私は少し罪悪感を感じ「そうだ、どうしてあの時そう考えなかったんだろう?」と思いました。母は私に正直な人でいることの真理について、神の言葉のこの節を交えながら話してくれました。「あなたが為す全てのこと、一つひとつの行い、あらゆる意図と反応を神の前に示さなければならない。… あなたがいのちにおいて成熟するのを助けるのはこのような実践である。神の監督を受け入れる過程は、清めの過程である。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、あなたは一層清められ、神の意志と一致するので、あなたは放蕩や放縦の声を聞かなくなり、あなたの心は神の臨在の中で生きるだろう。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、サタンは一層辱められ、あなたはもっと肉を捨てることができる。」 私は母の話しを聞きながら内省しました。私は試験でカンニングをしたこと、そしてそれを母に話すのを拒んでいたことは全て欺瞞的な姿勢の表れであると気が付きました。そして、私はカンニングをしてより高い成績を上げようとしたのは、先生に気に入られて、同級生たちの切望の的になることを狙っていたからであったことにも気が付きました。神は私の心を見抜いておられ、私は正直でなかったことを恥じました。私は静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神様!今日私はカンニングをしてしまいましたが、それを悔い改めたいと思います。今後また、このような状況に直面することがあれば、真理を実践してあなたの証を立てられるよう、どうか私をお助けください⋯」

その後、試験の結果が発表され、数学は100点でした。しかし、神の前ではこれを喜ぶことができなければ、100点を取った気分にもなれませんでした。
あっと言う間に4年生の2学期目の期末試験を受ける日がやってきました。そして先生は私たちに試験を開始するよう言われました。試験はとても難しくて、私には解けない問題がたくさんありました。私は又しても同級生に答えを聞きたくなりましたが、前回神に祈りを捧げたことを思い出して聞くのを諦めました。その数日後、先生はその試験用紙を私たちに返してくれました。先生は答えを説明して、私たちは自分で試験用紙を採点して合計得点を計算しました。計算してみると、私はなんと、たったの59点しかなく、不合格になってしまいました。私はそれを受けとめることができませんでした。恥ずかしくてたまりませんでした。その時、先生は各問題について答えを間違った生徒の数を数えるから、答えを間違った生徒はその問題ごとに立ち上がるようにと言ったのです。私は少し恥かしくなってこう考えました。「今回はたくさん間違ってしまったからなあ、何回も立ち上がっていたら先生にどう思われてしまうだろう。普段はクラスで成績トップなのに。こんなにひどい成績を取ったことを知られたら、先生に嫌われてしまうよ。」こう考えた私は「だったら立ち上がる回数を減らそう」と思いました。ちょうどその時でした、何に遭遇しても神に祈りを捧げて神の御心を求めるべきだ、と母が言っていたことを私はもう一度思い出したのです。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神よ!私が自分の評判を守ろうとしないで、正直な人になれるよう、どうか私をお助けください。」 こう祈りを捧げた後、神のこの言葉が頭に浮かびました。「正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。是は是、非は非を意味する。事実に忠実に、適切な話しかたをすること。ずるをしたり、嘘をついてはならない。」 そして私は「そうだ!普通の人間らしさというのは正直な人であるということなんだ。正直な人はせめて、正直に喋って嘘を言わないものだ。神は正直な人を好まれるから、私は正直な人になりたい」と思いました。こう思った私は自分の面目を守ろうとすることは止めて、正直な人を実践する決意をしました。しかし、立ち上がったとたん、私の心臓はバクバク鳴りました。私は「先生からどんな批評を受けても、神の御心に適ってさえいれば大丈夫だ」と自分に言い聞かせました。ところが、先生は私を見下したりせず、今まで通り私と優しく接してくれたのです。この状況の中で、私は正直な人を実践することができてとても満足な気分になりました。

その後すぐ、期末試験がやってきました。数学の試験には又しても解けない問題が幾つかありました。私は「これは期末試験、普段の月次試験よりも大事な試験だから高得点を取らないといけない」と思いました。私は前に座っている同級生がその隣の同級生に質問をしているのが見えました。試験官はこれに気が付いていませんでした。なので、私も同じ机に座っている同級生に答えを聞きたくなってしまいました。しかし、私は前回カンニングをしたことについて考えました。私は正直な人になることを学んで、神に対して欺瞞的にならないということを神に祈りの中で伝えていたのです。こうして、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました。「ああ、神よ!私は又してもカンニングをしたくなっています、しかし私はあなたに祈りを捧げ、二度とカンニングはしないと決心しました。どうか、私が同級生の答えを写すことなど考えずに正直な人になり、真剣に試験と向き合い、可能な限り自分の力で問題に答えられるようお導きください。」 こう祈りを捧げた後、私は落ち着いて慎重に問題を考えることができました。すると、無意識のうちに、問題の解き方が突然いくつかひらめいたのです。私はとても嬉しくなり、神が私を導き、啓示してくださったことを知りました。今回、私は数学の試験で96点も取ることができ、予想を超える結果となりました。カンニングをしていたら、もっと高い点をとれたとは思いますが、同時に神の目前で神の証を失っていたことでしょう。私はとても幸せな気持ちになり、神の言葉を実践していく決意をしました。

高得点を取るのは、先生や両親から好かれたり、同級生たちから羨ましがられる意味では良いことなのですが、それで幸せになることはできません。むしろ、神の言葉に従って正直な人として振る舞う時に限り、私は真の幸せを得ることができています。これこそが最も大切なことなのです。

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ゲームで病みつきになった息子はどのようにインタネット依存症から離れて彼女と仲間になるか

2019-08-21 23:06:04 | 子供の教育

   ある夏の夜、公園はとても賑やかでした。遊び回る子どもたち、おしゃべりを楽しむ大人たち、音楽にのって踊る人たちもいました。

   そんな中で1人、ジャオ・ファンは不安げな表情を浮かべてベンチに座り、息子のことを考え込んでいました。「この子は小さい頃、いつも私にべったりで、何でも話してくれた。でも、日に日に成長するにつれ、自分なりに関心や、趣味や生活スタイルができて、短気になってきた。それに、コンピューターゲームに病みつきになって、こっちは何度も強く注意しているけれど、全然耳を貸そうとしない。腹を割って話し合おうとしてもいつも二言三言交わすだけで意見が食い違って終わる。お互いの間にどんどん距離ができてしまっているようね。もう心も体も疲れたわ。どうしたらいいの。」



   「あの、ハンドバッグ落ちましたよ。」子どもの声に、彼女は我に返りました。

   「あら、ありがとう。」ジャオはハンドバッグを拾い、微笑んで少女の頭をなでてから、家に帰りました。

   帰宅するとジャオ・ファンは2人の子どもたちが一緒に座ってゲームをしているのを見ました。「そこよそこよ」、10歳の娘が兄に向って叫びました。「あーあ。またお兄ちゃんの負け。本当にバカなんだから。」

   その会話を聞いたジャオはますますいら立ち、ピシャリとドアを閉めます。

   すると娘が頭を上げました。「ママ、おかえり。」

   「あなたたち2人とも、1日中ゲームばっかりね。」ジャオはイライラしながら子どもたちに言いました。「もっとためになることをしたらどうなの」彼らが返事をしないのを見て、頭に血がのぼります。「あんたたちに話してるのよ、聞こえないの」。

   娘は口を結んだまま、しぶしぶ立ち上がり、その場を去りました。

   ジャオは怒りをこらえ、息子に向き直ります。「ゲームなんかしてて食べていける?学校の成績が上がるの?取りつかれたみたいに1日中ゲームばかりして。食事中だって、スマホばかり見ているでしょう。スマホがそんなに大事なの。」

   息子は一瞬面倒くさそうに彼女を見上げるとすぐに頭を下げ、またスマホで遊び続けました。これを見たジャオはスマホをつかんで叩き割りたい衝動に駆られました。

   その時、また娘がやって来ました。「ママ、怒らないで。夜ご飯作ってよ。私たち、朝も食べてないし、お腹ぺこぺこよ。」

   「今日は夜ご飯は作りません。好きなだけ遊ぶといいわ。言うことを聞かないんだから、ママはもうあなたたちの面倒はみません。」そう言うと、ジャオは寝室に入り、怒ってドアを閉めました。

   ベッドに腰を下ろしたジャオ・ファンは、次第に落ち着いてきました。「私が何を言っても、この子は絶対に耳を貸さない。今ではゲームから離れない上に、私たちの親子関係もますます気まずくなってきている。私はなぜ、こんなにこの子に腹を立てているの。単にゲーム中毒のせいなの、それとも私の言うことを聞かないからなの。他にも理由があるのかしら。いったい私はなぜ気がどうかしてるの」どうすればよいか分からないまま、ジャオ・ファンは神の御前に出て自分の悩みを告げました。そして祈りの後、神のこの言葉を思い出しました。「しかし、一部の人々が言うように、神は自分の地位について仰々しい概念を持っており、『わたしは最も偉大な存在であり、わたしがあなたがたを支配している。あなたがたは全員わたしに慈悲を請わなければならず、わたしに従わない者は死をもって罰とする』などと言うのでしょうか。神はかつて、このように人間を脅迫したことがありますか。(ありません。)神は、これまでに『人類は堕落しているので、わたしが人間をどのように好き勝手に扱ってもどうでもよい。人間に対して周到な用意を行う必要は無い』などと言ったことがありますか。神はこのように考えるでしょうか。(いいえ。)神がそのように行動したことがありますか。(ありません。)それとは反対に、神による人間それぞれに対する処遇はまじめで責任感があり、あなたが自分自身に対するよりも責任感に溢れています。そうではないですか。神は無益に言葉を述べることも、尊大に振る舞うことも、人々を欺くこともありません。その逆で、神は誠実かつ静かに、自身が行うべきことを行います。」(「唯一の神自身 6」より)

   この神の言葉について思いをめぐらせているうちに、ジャオは悟ります。「神は創造主であり、宇宙の支配者。至高にして聖なる方なのに、へりくだって地上で真理を伝え、救いの働きを行われ、大きな苦しみを受けられた。私たちは神の御心が分からないことは何度もあったし、神に反抗したこともあったけれど、神がその身分と地位を使って私たちに何かを要求したり、やみくもに怒り散らしたりすることは決してなかった。神はただ、その計画通り、ご自身のやり方で私たちの中で働きを行われただけなのね。その言葉によって私たちの魂を動かし、いつも私たちのそばにいて、私たちの救いを諦めたことはない。神の本質はとても美しく良いもので、私たち人間の誰にもない。では、私はどうだったかしら。息子をしつけようとしてカッとなって、傲慢な本性をさらけ出してしまっているじゃないの。『私はこの子の母親よ、私がやってることは全部正しいし、この子のためだし、言うことを聞いてもらって当然よ』と思いながらいつもこの子をしつけ、お説教していた。息子が耳を貸さないと、私はひどくイライラして、腹を立てることもあった。そんな私に敬虔なキリスト教徒らしさなんて残っているのかしら。私は息子を産んだけれど、神の御前では、私たちは2人とも、サタンによって深く堕落させられた創造物よ。私に息子を叱りつける資格なんてあるのかしら。母親の立場を利用して言うことを聞かせ、意のままに行動させようとするなんて、あまりにも理不尽だったわ。」そう思ったジャオ・ファンは自分の傲慢さと思い上がりがさらに恥ずかしくなり、神の聖なる善良な本質に心を動かされました。

   そしてジャオ・ファンは心を鎮め、息子と良い関係を築くにはどうすればよいか、そして、息子を神の御前に連れて行き、ゲーム中毒を直していただくにはどうすればよいかについて真理を求めました。自分には息子を正しい道に導く力はないとわかっていました。それができるのは神だけです。自分自身を脇に置いて、息子を完全に神に委ねます。もうサタンの性質によって生きたくないと思いました。それでは息子との関係が壊れて、彼女自身が狼狽し辛くなるだけだからです。

   ある日、息子がまたコンピューターゲームで遊んでいるのを見たジャオ・ファンは、以前のようにイライラするあまり、コンピューターの電源を抜いてしまいたくなります。しかし、神の御前に決意を固めたことを思い出し、怒りを抑えて、すぐに心の中で神を求めました。祈りの後、神の言葉を2つ思い出します。「自分の知識と能力を頼りにして事業に着手するならば、あなたはいつも失敗し、いつも神の祝福をのがしてしまう。」(『神は全人類の運命を支配する』より)「人の心と霊は神の手の中にあり、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、生けるものも死せるものも、ありとあらゆるものが、神の思いによって、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。」(『神は人のいのちの源である』より)神の言葉が光のように心を照らし、彼女は悟ります。「確かにそのとおりだわ。私が自分のやり方に頼ると、いつも失敗する。息子の考え方や発想は神の手の中にあるのに。」そして静かに神に祈りました。「神よ、すべてをあなたの手に委ねます。すべてを整えていただきたいです。」不思議なことに、勢いをつけてプレイしていた息子のキーボードが動かなくなりました。彼は「変だな」と言いながら、仕方なくコンピューターを閉じます。これを見たジャオは、心の中で何度も神に感謝しました。同時に、息子と腹を割って話し合いたいと思いましたが、話をする前に息子は「宿題がある」、と言いました。そこでジャオ・ファンは、神の采配に従うことを望みながら、最適な機会が与えられるよう、神に祈りました。

   夕食時に息子が、「ママ、人生って退屈だね。学校にいる時は、のんびり好きなだけ遊びたくて、早く休みになれと思ったけど、今はよけいにつまらないや」と言い出しました。

   ジャオ・ファンは言いました。「あのね、それはなぜか分かる?この世界では、みんなそれぞれ正しくてまともだと思える趣味とか、関心とかがあるでしょ。それならなぜ、望みが満たされるともっと空しく感じるのかしら?それは、私たちの望みがサタンから来たもので、心の中の空しさや心配を解決できないからなのよ。それにわたしたちのいのちにもならない。私たちは神の御前に出て、神の言葉に従った時に初めて、心が安らいで喜べるの。後で一緒に神の言葉を読まないかしら。」

   息子は頷き、その隣に座っていた娘も、「ママ、私も神様の言葉を読みたい」と言いました。

   神の素晴らしい御業を見て、ジャオは心の中で神に感謝と賛美をささげました。「いいわ。夕食の後に一緒に神の言葉を読みましょう。」

   夕食後、ジャオは神の言葉、『若者は世界の悪しき風潮を見抜くべきである』を子どもたちに読んで聞かせました。彼女の語りを通して、コンピューターゲームはサタンが人間を傷つけるための道具であること、それで遊び続ければどんどん堕落していくことを、ジャオの息子は知るようになります。それを理解した彼は、神の言葉をもっと聞き、ゲームの時間を減らす、と言いました。しかしサタンが人間に害を及ぼす手段を見抜いていなかったので、またオンラインゲームにはまり、神の言葉を読まないことが多くなってしまいます。それを見たジャオはまた心配になり、息子が少しでも早くサタンの束縛から自由になり、普通の生活を送れるように願いました。しかし、息子の助けになることは何もできず、全くの無力感の中、神に祈ることしかできませんでした。

   何度も何度も祈り、ジャオは神の言葉から実践の道を見出だしました。それはさまざまな人々に対して、さまざまな原則とそれぞれの背丈に従って接する、という道です。彼女は考えました。「私自身が神の言葉を体験したことを、この子にもっと伝えるべきね。この子がプレッシャーをあまり感じないように。」

   ある日の夕食後、ジャオ・ファンは部屋でスマホで遊んでいる息子の隣に腰掛けます。すると息子は顔を見上げました。「ママ、どうしたの?」

   ジャオ・ファンは微笑んで、「ちょっとね、話がしたいの」と言いました。

   少し驚きながらも、息子はスマホをそばに置きます。「話って?」

   「まあ、何も特別なことじゃないの。ただ、今のあなたのことを、全然知らないような気がしたから。あなたが高校に入ってから、ママは仕事に時間をかけ過ぎて、あなたにかまっていなかった。あなたが話をしがっていても、いつも時間がなかったり、ちゃんと聞いてなかったりした。時々、あなたがトラブルに巻き込まれると、ママはいつもあなたにお説教して、自分の考えを押し付けてた。今まで本当にあなたを理解したことはなかった。だから、今日話ができたら、気持ちを伝えられたら、と思ったの。学校のこと、たとえばあなたをいじめる人がいないかとか、友だちのこと、辛い時は、どうやって乗り越えているのかを話していいのよ。プライバシーを侵害するつもりはないの。ただ、あなたのことをもっと知りたいから、正直に話し合いたいだけなのよ」と、ジャオは穏やかに言いました。

   それを聞くと、息子は喜んでクラスメートたちとのつきあいのことを彼女に話しました。ジャオは話をしっかり聞いて、自分で理解している神の言葉の一部分や、自分の体験を挙げながら根気強く息子に助言しました。どんな人と友人になるべきか、人と仲良くするにはどうしたらよいか、どのような悪い習慣を止めるべきかを教え、物事の分別がつくよう手助けをしました。その夜、息子はとりわけ幸せそうで、自分の将来や趣味のことを喜んで母親に話しました。そしてジャオは神の言葉に従って息子を導き、彼が正しい人生の展望を築けるようにしました。こうした会話により、彼ら親子はお互いの誤解が解け、距離が縮まり、再び親友同士のように何でも話し合える仲になったのです。

   その時から、何か問題が起きると、息子は一番にジャオに話し、ジャオは話をよく聞いて、神の言葉に真理を求めながら彼を助けるようになりました。

   時々、息子が強情になって腹を立てることがあっても、ジャオは即座に神に祈り、真理を求めます。そして彼が落ち着いた後で、サタンの性質のままに話したり、行動したりすると、周囲の人々を傷つけるのだということを理解させます。息子がまたゲームで遊んでいると、ジャオ・ファンは彼のために祈り、コンピューターゲームはサタンが人間に害を及ぼすための道具だということを話し合い、彼がゲームの本質を見抜き、神の言葉に基づいて行動し、ゲーム遊びを止める決心ができるようにします。知らず知らずのうちに、ジャオと息子の仲はますますよくなり、息子は進んで自分の悩みや喜びを母に打ち明けるようになりました。さらに、神の言葉を読むことを通して、ゲームの時間が次第に減り、さらに思慮深くなっていきました。この効果を目にしたジャオは心の中で神に感謝します。神の導きがなければ、2人が対等にふれあうことはできなかったでしょう。2人の関係もあまり改善せず、息子のゲーム中毒も直らなかったでしょう。すべては神の祝福なのです。


私は誘惑を振り払って正直になることを実践しました

2019-06-11 10:49:42 | 子供の教育

   ある日、私は体育の授業の後、空腹を満たそうと自動販売機に食べ物を買いに行きました。私はスロットに5ドル札を入れて、1ドルのスナックを購入、そして「お釣り」という印のあるボタンを押しました。その直後、沢山の小銭が落ちる音が聞こえました。私はビックリしてしばらくそこに立ち尽くしました。小銭を取り出してみると、およそ20ドル近くもあったのです。その時、私は欲張りなことを思いつきました:「この小銭を頂戴したら好きな物が買えるかもしれないな。」しかし、その時こう思いました:「いや、それは駄目だ。お金を取っても誰にもバレないだろうけど、神は全てを観察しておられる。神は正直な人を好まれるから。そんなことしたら正直で立派な人になれない。」しばらく躊躇した後、私は余分なお金を自分の先生に手渡すことにしました。その時、私の友達の1人がやって来て、このことを話すとこういって僕のことを笑いました、「お前は本当に馬鹿だなあ。お金が欲しくなかいなら俺にくれよ。」私は彼の言葉を聞いてこう思いました:「私はキリスト教徒だから、主の教えに従って行動するべきなんだ。これがキリスト教徒の行動規範だから。神に喜んでいただける限り、他人から愚か者だと思われても関係ないよ。」そして、私は余分な小銭を先生に手渡すと、先生は正直だと褒めてくれた上に感謝もしてくれました。今回正直になることを実践した私は平安と喜びを感じました。


 

   その後、私はまた他の試練に直面しました。ある夜、私の母が夕食を買うために私をファストフードレストランに連れていってくれました。私は白米と塩味のベイクドチキンを注文しましたが、白米は売り切れだと言われました。「フライドポテトか他の物はいかがでしょうか?」、とウェイトレスが私に申し訳なさそうに聞いてきました。そして私は白米をフライトポテトに変更しました。私がメニューを見ると、「白米と塩味のベイクドチキンが8ドル、塩味のベイクドチキンが5.5ドル、そしてフライドポテト一人前が3ドル」と書いてあるのを目にしました。私はこう思いました:「今白米をフライドポテトに変更したから、合計で8.5ドル、てことはウェイトレスにあと50セント渡さなきゃいけないな。でも英語上手く喋れないしなあ。途中で言葉が詰まったらどうしよう。まあとにかく、たったの50セントだから、わざわざ彼女に渡さなくてもいいだろう。それに、彼女は払うように言ってこなかったし。」こう考えた時、私は心の中で罪悪感を感じました:「これって詐欺になるのかな?それに、ファーストフードレストランで働くのは彼女にとって楽じゃないだろうしなあ。払わないわけにはいかないよ」こう考えた私は彼女にあと50セント支払うことにしました。自分の食べ物を取りに行った時、私は彼女に50セントを渡してこう言いました、「これ残りの50セントです、塩味のベイクドチキンとフライドポテト一人前の合計は白米と塩味のベイクドチキンの合計より50セント高いんで。」こう言った後、私は自分の英語の流暢さに驚きました。その瞬間、ウェイトレスは私にこう言いました、「いえ、その必要はありません。」私が彼女を説得してお金を受け取ってもらおうと口を開く前に彼女は続けてこう言いました、「申し訳ありません、私が間違っていました。」「大丈夫ですよ」、と私は返事しました。「有難うございます。」そしてウェイトレスは私に微笑みかけてくれました。

   この2つはささいな出来事でしたが、私にとってはとても有意義であり、私はこれを通じてこの理解に至りました:私たちの生活において、サタンの誘惑はいつでも私たちに降りかかってくる可能性があります。しかし、主の教えに従って正直な人を実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じるでしょう。聖書にはこう記されています、「偽りを言うくちびるは主に憎まれ、真実を行う者は彼に喜ばれる。」(箴言12:22)。主は正直な人を愛されます。私たちは主の要件に従いながら見せかけなしに喋り、行動してのみ、主に求めていただくことができます。将来、私は主の御言葉を実践することにさらなる努力を費やし、主の御名前の栄光を讃えるために正直な子になります。


家庭教育-クリスチャンはどのように子供の教育をするべきでしょう?

2019-06-09 22:13:24 | 子供の教育

   子供の教育のことになると、どの親も自分の子どもが真の人生を送り、立派な人になることを期待するものです。しかし、私たちはクリスチャンとして、子供たちが人間の生活における真の道を歩むには、どのような教育をするべきなのでしょう?この問題について、一緒に真理に入れるよう探求しましょう。

1.子供たちが神を信じ、神を礼拝するよう指導することは、避けられない親の責任である。

   私たちクリスチャンは誰もが神は存在する、神がこの世を創造なされた、そしてすべてのものは神の主権の下で生存すると信じています。全ての人の将来と運命も神によって制御されており、人々は最終決定権を持てません。私たちは、神を信じ、神を礼拝するよう子供たちを指導するのか、それとも、子供たちが評判、地位、そして世界の将来を追い求めることを許可するかということを、神の信者としてどのように選択するべきなのでしょうか?私たちの選択は、私たちが神を信仰する中でどのような道を歩んでいるのかを明らかにするだけでなく、私たちの子どもたちの将来と運命にも関係します。今は既に終わりの日である故に、暗く古い時代はすぐに幕を閉じ、神を心から信じ、真理を追い求めている者たちのみが生き残ります。私たちはこれをはっきりと知っておかなければなりません。私たちは、神を信仰する中で、子供たちを神の前に導くことに焦点を置かず、子供たちが立派な人に成長することを期待しているとしたら、それは神の御心に沿っているでしょうか?私たちがそうすることは、愛でしょうか、それとも彼らを傷つけているのでしょうか?

   神はこう仰っておられます:「あなたは自分の肩にある荷の重さ、使命、責任などを理解しているだろうか … 神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。」

   神の御言葉から、神の御心が分かります。私たちは神の前に来たが故に、この世の堕落と悪をはっきりと目にしています。しかし、暗闇でもがく人々は依然として数えきれないほど存在しており、私たちの子どもたちも例外ではありません。この世のトレンドに誘惑され、騙されている子供たちはネットカフェで時間を全て費やし、若くして恋に落ち、自己顕示等をしているのです。彼らはサタンによる策略と堕落の中を生きていながら、全くそれに気付いていません。従って、私たちは、神の働きの証言をして、神は天と地と万物の支配者であること、神が万物と人類を創造なさったこと、サタンがどのようにして人類を堕落させ、神がどのようにして人間をお救いになるかを彼らに知らせる責任があります。こうすると、彼らは肯定的な事と否定的な事が分かるようになり、世の邪悪なトレンドを識別し、それぞれの人生で正しい方向性を築き上げることができるようになるのです。

   ノアが箱舟を建てた時のことを思い出します。彼は神のお召しと任務を受け入れて神の御心に従いそれを建てただけでなく、自分の子供たちを一緒にやるよう導き、彼らを神の前に導く努力もしました。ついに、ノアの8人家族は箱舟の中に入り、洪水を生き延びました。ノアは父の本分を果たしたので下。私たちは、神を心から信じるクリスチャンとしてノアの例に倣い、私たちの子供たちを神の前に導くべきであります。私たちは神を信仰する道を歩んでいながら、子供たちがサタンの道を歩み、世の邪悪なトレンドを追いかけることを許していたとしたら、子供たちが神を信仰し、神の御救いを受ける機会を台無しにしてしまい、最終的には自分たちの責任を果たせなかったことを一生後悔することになるでしょう。

 

2.神の御言葉と真理をもって人生の正しい道を歩むよう子供たちに指導しましょう

   実際、両親の多くは、自分の子供たちが神を信じ、礼拝し、人生の正しい道を歩むように指導したいと思っています。しかし、彼らは真理をほとんど知らないため、神を信じることの意味や人類がサタンに堕落させられているという真理を十分に語ることができず、子供たちを完全に確信させることができません。これ故に、彼らは自分の子供たちを神に導くことができないのです。

   初めに、私たちは神を信じ、神に従いました。それは、私たちは神の御言葉には権威と力があり、それは誰も表すことができないものであると知った時、神に征服されたからでした。従って、子供たちに神の前に行くように教育するには、私たちは神の御言葉をもっと読むよう子供たちを指導し、真理を用いて彼らの心に触れるべきなのです。そして、私たちは、神は人類を征服し、救ってくださるという事実を子供たちが完全に確信できるようにしてあげるべきなのです。

   これは主イエス様に従ったペテロの経験と同じです。彼は主イエス様の御言葉の権威と力を耳にし、その御言葉は普通の人間が話せるものではないと感じ、そして主の起こされた奇跡は人間が起こせるものではないと知りました。こうして、彼は何の躊躇もせず、全てを捨てて主イエス様に従いました。これ故に、私たちは子供たちにもっと神の御言葉を読み、神を信仰するのは良いことだと単に言葉で伝えるのではなく、神の働きの証言をするべきなのです。それに加え、私たちは実体験をもって神の御業の証言をすることもできます。私たちは、それぞれが神を信仰する生活の中で神の御気遣いと御加護を体験しています。災害の中で神に驚くような形で守っていただき、神の全能さと人間に対する愛を知った人がいれば、神の御言葉による御啓示と御導きの下で自分の堕落した本質を知り、誤まった道から立ち返り、神を信仰する正しい道を歩んだ人などもいます。これら全てが私たちの子供たちを神の前に導く教育および指導方法であります。

3.子供たちが真理を理解し人生の正しい道を歩むために、実際の知識を学ぶことを教えましょう

   今は科学とテクノロジーが急速に発展する時代です。誰もが知識を深めることで社会で生きていくための足掛かりをつかむことを望み、両親はそれぞれの子供たちが成功を収め、目覚ましい功績を立て、家族に名声をもたらすことを期待します。しかし、私たちは神の信者として、知識を深めることや人の上を行くことは真の人生ではなく、真理を得ることが最も大切なことであると知っています。それは聖書にこう記されています:「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。」(箴言9:10)「知恵を求めて得る人、悟りを得る人はさいわいである。知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、その利益は精金よりも良いからである。知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物も、これと比べるに足りない。」 (箴言3:13-15)。 上述の聖句の中で触れている智恵と理解は明らかに、私たち神の信者は神を知ることになり、神の称賛と祝福を授かることを意味しています。神を喜ばせ、かつ神に祝福されることは、神の御言葉を読み、真理を理解するために実際の知識を学ぶこと、持つエネルギーの一部を神の証言をすること、そして神の福音を伝導することに打ち込むこと、そしてキリストに従って人生の正しい道を歩むことです。

   主イエス様の弟子であったペテロは文化に関する深い知識は持っておらず、他人の上に行こうともしませんでした。代わりに、彼は人生を通して真理を追い求め、主の道に従い、主のために労力を費やしました。彼は世俗的な富を手にすることはありませんでしたが、主イエス様から好意的に評価されたことで天からの栄光を授かり、主は彼に天国への鍵を与えたのでした。これに反し、世の中で名声と地位を得るために他人の上を行き、先祖に名誉をもたらし、盲目に知識を深めるよう子供たちを教育してしまったら、私たちはとんでもない愚か者になるのです。神はこう仰っておられます:「人間は、神を知り、真理を備えいる場合のみ、光の中で生きる。また人間は、自分の世界観と人生観が変わった場合のみ、その者は根本的に変化する。その者に人生の目標があり、真理に従って行動し、神に対して完全に服従して神の御言葉に従って生活し、確信し、照らされていることを霊の深遠で感じ、自分の心に闇が無く、神の御前で完全に自由に、かつ制限されること無く生きて初めて、その者は真の人間の生活を送り⋯」

   私たちは、真理を理解し、真理を修得し、真理に従って振る舞う時、初めて真の人生を手にできるということが分かります。地位がどれだけ高くても、知識がどれだけ豊富にあっても、それは私たちに真の人生をもたらすことはできないのです。神が終わりの日にこの邪悪で堕落した世の中を終わらせる時、お金、名声、富、地位、そしてその他いずれの世俗的な物も災害の中で価値の無いものと化すでしょう。これ故に、私たちクリスチャンは、自分たちの子供が成功を収めるという夢が叶ったとしても、その結末は中身の無いものであるということをはっきりと知っておかなければなりません。私たちは子供たちが神を信仰し、真理を追い求める人生の正しい道を歩み、そして神の称賛と祝福を得られるように、実際の知識を学ぶことを教えるべきであり、それこそが真の、そして永遠の栄光なのです。

   上述したことを実践する3つのアプローチについて交流することで、私たち全員が人生の正しい道を歩むことの理解と、それを子供たちに教える方法を修得することができると思います。この交流を用意してくださった神に感謝します。