賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンが罪から解放される方法は存在します (II)

2020-08-17 22:58:54 | 天国への道

   私は張兄弟が又しても世の終わりの神の裁きの働きを言及したのを聞いて、こう尋ねました:「兄弟、世の終わりに神が裁きの働きをしに来臨されると仰りましたが、私はそれがどうもはっきり分かりません。もし主が本当に人間を裁きにやって来られるのなら、それは恐ろしい状況になるのではないですか?そうしたら、神が人間を救いにやって来られると言えるのはどうしてなのでしょう?」私がこう言ったのを聞いた張兄弟は笑顔でこう言いました:「私たちは神が人間を裁きにやって来られるのは恐ろしい状況となり、神が人間を裁かれる時、人間は非難されると思っています。しかし、実際、これらは全て私たちの観念と想像なのです。全能神の御言葉から2つの節を読んでみましょう、そうすれば神がどのように裁きの働きをなさるかが分かるでしょう。」

   そして、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。」「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」

 


   これを読み終えた後、張兄弟はこう言って交流してくれました:「全能神の言葉から、裁きの働きは、神が天国でテーブルを立て、全ての人間が地面に跪いた状態で、神が彼らの運命を彼らの行いの善し悪しを基に定め、邪悪な者を罰し、善良な者には報いを与えてくださるという私たちの想像とは違うことが分かります。もし神が本当にこのような形で人間を裁かれるのであれば、私たちの行いを基に助かる人はいないでしょう。実際、神は様々な真理を使って裁かれ、私たちの内にあるサタンのような本質、あらゆる種類の誤った動機と観念を明らかにして、世の終わりに私たち堕落した人類を裁き、清める働きをなさります。全能神の御言葉を読めば、神は直接私たちを裁き暴露され、神の御言葉は諸刃の剣のように私たちの本性を暴露され、サタンによる堕落の真理、そして私たちが既に真の人間らしさを失っていることを明確に分かるようにしてくださっていると感じるでしょう。従って、私たちは深く恥じ入り、神の前に倒れ込んで悔い改めずにいられなくなるのです。私たちは自らを嫌い、自らを呪い始め、自分の堕落した性質の中で生きるのが嫌になるのです。これと同時に、私たちは、神の義なる性質は害することができない、そして神の神聖さは汚すことができないことも知ります。そして、私たちは神に対しえ敬虔の心を持たずにはいられなくなり、又神に背き逆らって罪を犯そうとはせず、むしろ肉に背いて真理を実践し始めるのです。すると、私たちのサタンのような堕落した性質が変化し始め、私たちは神の御計画と御采配に従って神の愛に報えるよう自分たちの創造物としての本分を尽くす意思を持つようになります。これが神の裁きの働きが引き起こす効果です。私たちの経験において、世の終わりの神の裁きの働きを受けてのみ、私たちのサタンのような性質は完全に清められ、そして私たちは神に認められ、天国に入れることが分かります。神の裁きの働きを受け入れられない者たちはどうなるかと言うと、彼らは清めを受けられず、変化を遂げることもできず、神の裁きの働きが終わる時に神の罰を受けることになります。」

   神の御言葉と張兄弟の交流を聞いた後、私は自分が持っていた裁きに関する理解は本当に自分の観念と想像から生まれていたということに気が付きました。実に、神による裁きとは非難を意味するのではなく、むしろ私たちの堕落した性質を清めることなのです。神は御言葉を使って世の終わりの裁きの働きをされ、その結果私たちは神の御言葉を通じて自分の堕落した本性と内にある様々な堕落した性質を知り、それらを心から忌み嫌い、そうすることで真理を実践し、堕落した性質を捨てられるようになるのです。これこそが、神が裁きの働きをなさる方法であることが分かりました。私は神の働きは本当に現実的であると感じました。長年に渡って主を信仰していながらも、私は罪の中を生きていたのだと思いました。私は他人の対応をする時に主の教えを実践できず、頻繁に腹を立てていました。私はこれが原因で心に痛みを感じていたのです。しかし、今、私は罪を取り除く方法を見つけました。

   その後に行われた集会の最中、張兄弟は真と偽の羊飼いの見分け方、真の道を探す原則、そして神の受肉の奥義等について私と交流してくれました。彼の交流は本当に多くの知識を与えてくれたと同時に、私は30年以上に渡って教会で信仰してきた以上の内容を理解できたと感じました。しばらく調査した後、私は、全能神が主イエス様の再臨であることを確立しました。なぜなら、神のみが奥義の全てを暴露して、私たちに真理の全てを話すことができるからです。これは主イエス様のこの預言を現実化しています:「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12–13). 主イエス様が働きをされた時に沢山の奥義を人間に話されなかったのは、当時人間は霊的背丈が低すぎてそれを修得することができなかったからなのです。これ故に、神は世の終わりに人類を救う真理全てを話しに来られ、私たちは世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って神の御国に救い入れていただけるのです。神を讃えます!子羊の足跡を辿れるほど幸運な私は本当に恵まれているのです。

   その後、私は時間があれば神の御言葉を読むようになり、読めば読むほど、増々惹かれていきました。神の御言葉はとても素晴らしく、以前知らなかった数多くの真理を理解させてくださっているように感じました。これに加え、全能神教会のウェブサイトの内容もとても素晴らしいものでした。踊りと讃美歌の動画や福音映画、全てが真理の様々な側面を伝えていました。これらを観賞した後、私は神の働きをより深く理解しました。

   私が全能神の働きを受け入れてから3か月以上が経ちました。過去に、私は自分の家族と話しをするとイライラしがちで、それが私の家族と私の両方に辛い思いをさせていました。しかし、この問題は解決し難いものでした。今現在、私は神の御言葉を読み、そして集会で兄弟姉妹たちと交流し合うことで、自分が腹を立てていたのは自分の傲慢な本質に支配されていたことが原因であったことを徐々に理解しました。私は常に夫と子供に言うことを聞いて欲しかったので、彼らの言葉と行動が不愉快な時は彼らに対して怒りをぶつけていたのです。これはサタンの堕落した性質だったのです。今、神の御言葉は、神は人間が真の人らしさを貫くことを要求され、人間は神に祈りを捧げずに自分を頼りにしていたのでは、堕落した性質から自由になる方法はないということを示してくださりました。これを念頭に置きながら、私はカッと怒りそうになった時、神に静かに祈りを捧げ、私を守り、そして神の御言葉を実践できるように導いてくださるよう請いました。次第に、私は自分の怒りをある程度は抑えられるようになりました。私の娘が私に逆らった時、私は落ち着いて彼女と話をすることができました。私は実体験を通じて、世の終わりの神の裁きの働きを受けた場合に限って私たちの堕落した性質は変わることができ、私たちは清められ、そして神の御救いを受けることができると知りました。今現在の私は経験と知識が浅すぎ、自分の中には堕落した性質が多く残っています。これ故に、私は全能神の御言葉をもっと読んで神の御言葉の裁きと刑罰を受ける必要があり、これにより自分の堕落した性質を捨てられるようになり、そして真の創造物らしさを貫いて神を讃えられるようになるのです。


クリスチャンが罪から解放される方法は存在します (I)

2020-08-14 23:30:27 | 天国への道

   私は幼い頃から母に倣って主を信仰してきました。私は成長する過程で、主は私たち人類の罪を贖うために十字架に磔にされたことを知り、私は深く感動しました。それに、私は主を信仰するようになって以来、主の豊富な恵みを授かり、主をさらに深く信頼することができました。これ故に、私は生涯を通して主に従い、主の愛に報えるよう主の証言をする決心をしていました。

   2002年、私はアメリカに移住した後、集会に参加できる教会を見つけ、そこで説教業務に携わっていた兄弟と知り合いました。説教師は誰もが敬虔で、主を愛しているように見えたので、私は自分の抱える問題に関して彼の意見を頻繁に求めました。しかし、驚いたことに、ある夜、彼は私に教会に行って彼への愛を宣言するように言ってから、私を淫らに触ってきたのです。幸運にも、私は素早く逃げ出すことができました。この後、私は、彼は中国で結婚していたにもかかわらず、アメリカでも結婚していたことを知りました。そしてそれにもかかわらず、彼はそのまま同じように私と接してきました。これにより、私は彼の偽善的な本性をはっきりと知りました。私はこう思いました:「彼は説教師なのに、本当にこんなことを犯すなんて、人前と人のいない所では振る舞いが全く違うわ。何て偽善的なんでしょう。これでどうやって主の御名前を讃えるっていうのかしら。」私はこの事態に大きなショックを受け、教会に行くのが嫌になりました。しかし、私は主イエス様に救っていただいたことを考えると主に対する恩義を感じました。この結果、私は時々ながら教会に足を運ぶことができました。

   その後、教会の状態はさらに悪化していきました。牧師の説教は同じことの繰り返しばかりで、私たちに何の喜びをもたらすこともなく、教会への寄付に関することが頻繁にその具体的な内容となっていました。信者たちは集会の最中に居眠りをしているか、携帯電話で遊び、快楽に満ちた人生について話すばかりで未信者のような生活していました。この状態を見ていると、私は増々消極的に、そして弱気になってしまいました。結果的に、私は、毎年、寄付をするために1回か2回教会に行く以外は、大抵自宅で祈りを捧げ、聖書を読むことを続けました。時間が経つにつれ、私は魂の中でどんどん暗さを感じるようになり、祈りを捧げても主を側で感じられなくなり、聖書を読んでも啓蒙が全く得られなくなってしまいました。日常生活において、私は主の教えを実践できなくなり、自分の子供に対していつも腹を立て、夫と子供について口論し続けました。私は腹を立ててしまう度に主の前でそれを悔い改め、告白しましたが、その後も繰り返し同じ罪を犯し、回避不能な罪の落とし穴にはまってしまったのです。それは私を本当に悲しませ、落胆させ、そしてそれは私にこのような疑いまでも持たせ始めたのです:「私の主への信仰はどうしてこんなに弱くなってしまったのでしょう?主はどうして私の祈りを聞いてくださらないのでしょう?私はどうして罪から抜け出して変わることができないのでしょう?私はこのような状態で天国に入ることができるのでしょうか?」

 

 

   私がちょうど憂鬱な気分で途方に暮れていた時でした、私は私の母と義理の姉が世の終わりの全能神の働きを受け入れたことを知り、母の神への信仰は更に強まったため、母が私の父と口論になった時、母は騒ぎ立てずに許すこと、そして我慢することを実践できるようになったと知りました。私は彼女の成し遂げた変化にこう考えさせられました:「全能神の働きは本当に神の働きなのかしら?そうでなかったら、母はこんな変化を遂げることはできなかったはずだわ。」これにより、私は世の終わりの全能神の働きを調べる決意をしました。これを受けて、私の義理の姉は私との交流のために全能神教会の兄弟姉妹を招待してくれました。

   集会の最中、全能神教会の張兄弟が教会が荒んだ状態にある理由について交流してくれました:「律法の時代後半において、神殿が荒んだ状態に陥った理由は、一方でユダヤ人の指導者がユダヤ人を神の戒律に従うように導かず、それぞれの勝手な道を歩んだために、神の憎しみと怒りをかってしまったこと。その一方で、主イエス様が新しい働きをされましたが、彼らはそれについて行かず、むしろ彼らは主に反対し、主を非難したことで聖霊の働きの流れから排除されてしまったことがあります。これが、神殿が最終的に家畜を販売し、お金を両替する場へと化してしまった理由です。今日の宗教界が荒んだ状態にある理由もこれと同じです。考慮すべき点の1つとして、牧師と長老たちは、信者たちが真理を理解し、主を知るために主の御言葉を実践して経験するよう導いておらず、むしろ信者を自分たちの前に導こうとして聖書の知識と神学理論を解釈することにしか注目していないということがあります。この結果、信者たちは主を信じていても、主を知らず、主に抵抗してしまう信者となっています。もう1つの点は、神が新しい働きをするために受肉され、聖霊の働きが移行しているということです。子羊の足跡をたどり、神の御言葉の裁きと清めを受ける人のみが聖霊の働きを受けられるのです。世の終わりの神の働きを受け入れない人々は聖霊の働きの流れから排除されてしまうのです。」この言葉を聞いた私は突然光が見えて教会が荒んだ状態にある原因を理解しました。その後、張兄弟は主が再臨される方法についても交流し、主の再臨の預言は既に成就しており、人間を裁き、清める働きをするために700万の御言葉を表された主イエス様の再臨、すなわち肉となられた他でもない全能神を目撃したと言ったのです。これらの交流はとても素晴らしく聞こえ、私は大いに霊的な備えを得ました。私は長年主を信仰してきた中で、ここまで素晴らしい説教は聞いたことはありませんでした。この説教は教会の牧師の説教を遥かに上回っていたのです。次回私はこれを慎重に聞く必要があります。

   そして、張兄弟は私とこのように交流してくれました:「私たちは皆、主を信仰してはいますが、それでも罪を頻繁に犯さずにはいられなくて、罪の中を生きることから抜け出せないということを経験しています。これは何故かと言うと、私たちはサタンによって深刻に堕落させられていて、誰もが傲慢、偽り、身勝手、貪欲等といったサタンのような本性を持っているからです。これらサタンのような本質は既に私たちのいのちと化しているのです。こういったものに指示を受ける私たちはお互いに対して真の辛抱強さや寛容を持っておらず、自分の意図に合わないものがある度に腹を立てる傾向にあり、頻繁に嫉妬と憎しみに悩まされています。自分たちの利益を守るため、私たちは頻繁にお互いに嘘をつき合い、騙し合い、自分たちの信仰の中で神と取引を行うこと等もできてしまうのです。私たちがこのように罪を犯す根源は私たちが持つサタンのような本質にあり、これは、解決しなければ、私たちは罪をお許しいただいているにも関わらず、私たちが罪を犯し、神に抵抗し続けるようにするのです。こんなことをしていて、私たちは天国に行ける何の資格を持っているというのでしょう?これ故に、主イエス様はお戻りになると仰ったのです。実に、主の来臨は人類を完全に清め、救う働きをするためなのです。

   次に、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じている限り、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということであった。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。」「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神を退ける性質が既に存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。あまりにも汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清められることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、聖くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。」

   張兄弟はこう交流してくれました:「神の御言葉は、主イエス様は当時贖いの働きをされたこと、そして主は十字架への磔によって人間の罪を背負ってくださったため、私たちは又罪を犯すことがあっても、主イエス様の前でそれを告白し、悔い改めてさえいれば、許していただくことができ、律法によって有罪とされ死刑になることはないと示しています。主は私たちの罪をお許しくだりましたが、それは私たちが罪深くなく、汚れていないという意味ではありません。

   私たちは依然としてサタンの堕落した性質をもっており、それはいつでも、何処でも、私たちが罪を犯し、神に抵抗して逆らうようにすることができるのです。聖書にはこう記されています:「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14). お分かりの通り、私たちは罪の中を生きて、清められていない場合は、主を目で見るに値しないのです。それは主が聖なるお方だからです。これ故に、私たちは罪深い本性を捨て、清めを受けた場合に限って神の御国に入ることができます。罪深い本性を捨てるためには、世の終わりの神の裁きの働き、および神の御言葉による刑罰を受ける必要があります。こうしてのみ、私たちは自分の堕落した性質を知り、それを神の御指導の下で捨て去り、そして真の人間らしさを貫いて、神に従い、神を畏れる人になることができます。こうしてのみ、私たちは神の御国に救い入れていただけるのです。」

   私はうなずいて賛成し、張兄弟にこう言いました:「兄弟、あなたの仰っていることは真実です。私は長年に渡って主を信仰しているのに、自分が罪を犯すのを止められません。主は私たちに寛容で我慢強くなることを教えてくださりましたが、私は主の御言葉を実践できませんでしたし、いつも怒りを露わにし、その後主に祈り、自分の罪を悔い改めましたが効果はありません。今、私はこれがはっきりと解りました。主イエス様は贖いの働きをされ、私たちは主を信仰すれば罪の赦しを得ることはできますが、私たちの罪深い本性は残ったままなのです。従って、私たちは罪を犯し、神に反対せずにはいられないのです。」「その通りです。」張兄弟は続けてこう言いました:「これで私たちは主を信仰しても、罪を許していただけるだけであるということが分かりました。罪深い本性を捨て去りたいのであれば、私たちは世の終わりに、神に裁きと清めの段階の働きを実行していただく必要があり、その場合に限って私たちは罪から完全に救われることができるのです。」
続く…


賢いおとめは神様の声を聞いて主を迎えた

2020-04-26 17:35:03 | 天国への道

   参考聖書箇所:

   「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。…しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。…夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。…そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた」(マタイによる福音書 25:1、4、6-7、10)

   「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)

   「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:29)

   「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)

   「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイによる福音書 7:7-8)

   「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書 5:3)

 

 

   関連する神の言葉:

   神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。「神の現れによる新時代の到来」より

  聖霊の働きは日毎に変化し、段階毎に高まっている。明日の啓示は今日よりも高く、段階が進むにつれてさらに高まる。これが神が人間を完全にする働きである。人がこれに付いて行けないのであれば、いつでも取り残されうる。人間が従順な心でいなければ、最後まで従うことはできない。これまでの時代は過ぎ去った。今は新しい時代である。新しい時代には新しい働きがされなければならない。とりわけ、人間が完全にされる最後の時代になると、神はそれまでになく素早く新しい働きをする。それゆえ、人が従順な心を持たないならば、神の足跡を辿ることを困難と感じる。神はいかなる規則に従うこともなく、自身のどの働きの段階をも不変のものとして扱うことはない。むしろ、神の為す働きは常に新しく、常に高みへと登り続ける。神の働きは段階を追うごとに益々実践的になり、益々人間の実際の必要に則したものとなる。人間はこのような働きを経験して初めて、最終的な性質の変化を遂げることができる。人のいのちに対する認識はますます高まり、同様に、神の働きも益々高みへと上る。このようにしてのみ、人は完全にされ、神に用いられるに相応しい者となることができる。神はこのように働いて人間の観念に反論し、覆す一方で、人を高みへ、そしてより現実的な状態、神への信仰の最高の領域へ導き、その結果、最終的に神の旨が成就するのである。故意に反抗する不従順な本質を持つ者は、神が即座に、すさまじい勢いを持って働くこの段階から置いて行かれる。進んで従い、喜んで身を低くする者だけが、道を最後まで進むことができる。このような働きにおいては、あなた方はみな、どのように従い、自分の観念をどのように脇に置くかを学ぶべきである。進む一歩一歩において注意深くあるべきである。不注意であるならば、間違いなく聖霊に拒絶されるような、神の働きを妨害する者となる。「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より

   聖霊の現在の言葉に従うことができる人々はみな祝福されている。そのような人々が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。最新の働きを得た人々は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人々は排除される。神は新しい光を受け入れることができる人々を望んでおり、神の最新の働きを受け入れ、知っている人を求めている。なぜ貞節な乙女でなければならないと言われているのであろうか。貞節な乙女は聖霊の働きを求め、新しいことを理解することができ、さらには、古い観念を脇へ置いて、今日の神の働きに従うことができる。今日の最新の働きを受け入れる人々のこの集りは、昔から神によって予め決められており、人々のなかで最も祝福されている。あなたがたは神の声を直接聞き、神の出現を見て、そのため天と地を通じて、時代を通じて、あなたがた、つまりこの集りよりも祝福された人々はいない。「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」より

   神を信じているのであれば、人間は神の歩調に遅れることなく、一歩一歩ついて行かなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきである。彼らだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の働きによって既に排除された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、各期間において、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような一つの時代のみに該当する真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きに遅れずついて行くことは決してできず、聖霊の働きを得ることは永遠にできないであろう。神がどのように働くかに関わらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、遅れずについて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊により排除されることなどあろうか。神が何を為すかに関わらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、何も疑わずに聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰されることなどあろうか。「神の働きと人間の実践」より

   神は全人類の神である。神が自分を一つの国や民族の所有物とすることはない。神が自分の計画にある働きを、形式や国、民族といった制限を受けることなく行う。これまであなたはこのような形式を考えたこともなかったかもしれないし、そのような形式があることを否定するかもしれない。神が現れる国や民族は差別されている最貧国かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神は、自分の力によって、また自分の真理と性質を通して、自分と心が一つになっている人々をすでに得ている。それは神が求めていた人々で、神に征服され、苦しい試練とあらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる人々である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。まずは、自分の観念を脇に置きなさい。立ち止まって、次の言葉をよく読みなさい。あなたが真理を慕い求めるなら、神はあなたの知性を明るくし、神の心と言葉を理解できるようにしてくれる。「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。「神の現れによる新時代の到来」より


神様の御声をどのように聞き分けるのか

2020-04-24 15:00:30 | 天国への道

   参考聖書箇所

   「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

   「見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(ヨハネの黙示録 5:5)

 

 

   関連する神の言葉

  受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より

   神の言葉は、外見上平易であるか深遠であるかに関わらず、人がいのちに入るには全て必要な真理であり、人間が霊と肉の両方において生存することを可能にする生ける水の泉である。神の言葉は、人間が生き続けるために必要なことがら、日常生活を送るための教義と信条、救いを得るために進むべき道、目標、方向、神の前に造られた者として持つべき一つひとつの真理、そしてどのように神に服従し、神を礼拝すべきかに関する一つひとつの真理を与える。神の言葉は、人間の生存を保証するものであり、人間の日々のパンであり、また人間が強くあり、立ち上がることを可能にする頑強な支えでもある。神の言葉には、被造物である人類がそれを実際に生きる際、正常な人間性に関する真理の現実が豊かに含まれており、人間が堕落から解き放たれ、サタンの罠を避けるための真理と、創造主が被造物である人間に与えるたゆみない教え、訓戒、励まし、慰めが豊富に含まれている。神の言葉は、肯定的な事のすべてを理解するよう人間を導き啓発する灯台であり、人間が全ての正しいこと良いことを実際に生き、所有するための保証であり、人々、出来事、物事を測る基準であり、また人間を救いと光の道へと導く道標である。人間は、神の言葉の実体験の中でのみ、真理といのちを与えられ、その中でのみ、正常な人間性とは何か、有意義な生涯とは何か、真の被造物の存在とは何か、神への真の服従とは何かを理解するようになる。その中でのみ、人間がいかにして神を思いやるべきか、被造物としての本分をいかにして尽くすか、真の人間らしさをいかにして身につけるかを理解するに至る。そうしてはじめて、人間は真の信仰や真の礼拝とは何を意味するのか、天と地と万物の支配者が誰であるかを理解するようになる。そうしてはじめて、全ての創造物の主人である方がいかなる手段で万物を支配し、導き、与えるかを理解するようになる。人間は、そうしてはじめて、全ての創造物の主人である方がいかにして存在し、現れ、働きを行うかを理解し把握するようになる。……神の言葉を実際に経験することから離れるなら、人間は神の言葉と真理に関する真の認識と洞察を持つことがない。そうした者は、まさしく生きる屍であり、まさしく抜け殻であり、また創造主に関する認識は、その者とは一切無関係である。「神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道」より

   神を知ることは、神の言葉を読み理解し、神の言葉を実践し経験することを通じてなされなければなりません。「私は受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知ることができるのか」と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、神の愛と人類の救い、そして人類を救う神の方法を見ることができます。神の言葉は人間を使って書かせるのではなく、神自身によって表現されるからです……それは神によって直々に表現されるのです。つまり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待を表現しているからです。神の言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はなんと厳しいのかと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、あらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は神の侵すことを許さない性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出向いたりする価値はありません。今、人々が神の前に出向けるのは、ひとえに神の恵みです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義から見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。「受肉した神をいかにして知るか」より

   今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような神の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。「神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか」より

   神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。「神の働きと人の働き」より

   イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、のんきであってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど幸運ではない人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自らをいい加減に扱ってはならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より


神の働きの三段階のそれぞれの目的と意義 II

2020-02-01 14:15:51 | 天国への道

   この最後の段階の働きにおいて、成果は言葉によって達成される。言葉を通して、人は多くの奥義や過去の世代にわたる神の働きを理解するようになる。言葉を通して、人は聖霊の啓きを受け、言葉を通して、人はかつての世代に決して解明されなかった奥義や、昔の預言者たちや使徒たちの働き、そして彼らの働きの原則などを理解するようになる。言葉によって、人は神の性質を知るようになると同時に、人の不従順さや反抗心を理解し、自分の本質を知るようになる。このような働きの段階と、語られた全ての言葉を通して、人は霊の働き、受肉した神の働きを知り、さらに彼の性質の全体を知るようになる。神の六千年以上にわたる経営(救いの)に働きについてのあなたの認識も言葉によって得られた。あなたが以前もっていた観念を知ったのも、それをわきに置くことができたことも、言葉を通して成されたのではなかったのか。前の段階で、イエスはしるしや不思議を行なったが、この段階ではしるしや不思議は行われない。なぜ神がしるしや不思議をしないのかという理解も言葉を通して得られたのではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   言葉の働きで一番大きな意義は、人々が真理を理解した後、真理を実践し、彼らの性質において変化を達成し、自分自身および神の業についての認識を獲得させることである。話すことを通して働くという手段のみが神と人の意思疎通を可能にでき、言葉のみが真理を説明することができるのである。このような方法で働くことは、人を征服する最善の手段である。言葉を発すること以外では、真理や神の業をより明確に人に理解させることのできる手段は他にない。そこで神は神の業の最終段階で人に話しかけ、人が理解しないすべての真理や奥義を明らかにして、彼らが神から真理の道といのちを得て、神の心を満足させることができるようにする。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人の救いをもたらす神の心を理解するべきである」より

  神の国の時代において、人間は完全に全き者とされる。征服の働きの後、人間は精錬と患難を受ける。この患難の期間に勝利し、証に立つことができる者たちは、最終的に完全にされる者である。彼らは勝利者である。この患難の間、人間はこの精錬を受け入れる必要があり、その精錬は神の働きの最後の実例である。それは、神の経営の働きが全て完結する前に人間が精錬される最後の時である。そして神に従う者は皆、この最後の試練を受け入れなければならず、この最後の精錬を受け入れなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

   征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は次の段階に移され、その業を全宇宙に広める。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者たちは悪として分類され、二度と陽の光を見ることがない。また、義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる。あらゆるものの終わりは近く、人間の終わりは目の前にはっきりと示された。そしてあらゆるものはその種類によって分けられる。それなら、どうして人間がこの分類をこうむることから逃れられようか。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より

  終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

   終わりの日とは、すべてのものが征服することを通して、その種類にしたがって分類される時のことである。征服することは終わりの日の業である。つまり、一人一人の罪を裁くことが終わりの日の業である。そうでなければ、どうやって人々を分類できるというのか。あなたたちの間で行われている分類の働きは、全宇宙におけるそうした働きの始まりである。この後、すべての国々のいたるところにいる人々も征服の働きの対象となる。これは、被造物であるすべての人々が種類によって分類され、裁きの座の前に進み出て裁かれるということだ。誰一人、何ものもこの刑罰と裁きの苦しみから逃れることはできない。また、誰も、何ものも、この種類による分類を避けることはできない。あらゆるものが種類ごとに分けられる。それは、万物の終わりが近く、天と地のすべてが終結に至るからだ。どうして人間が己の存在の終結を逃れられよう。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より

   裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを悪霊がはびこる場所に引き渡し、それらの悪霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。そして彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽勤労者の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残りるが、大半は奉仕をする資格さえない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの精粋となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、非信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理を以てもって裁きの働きを行う」より

   国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて人間の世界に与え、わたしによって、比類ない富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

   わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲の上に乗って降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より

   悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

   神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく──これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

   わたしの言葉が完成するにつれて、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人とのぬくもりが満ちる。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十二章」より