賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

あなたは「乞食」のような生活に別れを告げたのか

2020-08-07 22:49:00 | 人生の奧義

   わたしは「借金」という短い物語を読みました。物語の内容は次のとおりです。一人の乞食はある通行人に千円を求めました。その通行人は彼に「今日は800円しか持ち合わせていない」と言い、そしてそのお金を彼に渡しました。だが、乞食はそのお金を財布に入れた後、お礼を言わず、かえって胸を張って「それなら、あなたはまだわたしに200円の借りがあるね」と言いました。その通行人はその言葉を聞いてたいへん驚きました。

   この物語を読んだ後、わたしはこの乞食のずうずうしさには閉口し、この乞食があまりにも理知に欠けていると思います。通行人が親切心から乞食を助けたので、乞食はお礼を言うべきでした。けれど、乞食は通行人が彼にお金を与えるべきだと思っていました。通行人が彼の要求を満たすことができなかったら、通行人は彼に借りがあるということにさえなってしまったのです。乞食はあろうことか自分を恩人の債権者だと思ってしまいました。この乞食は本当に理不尽です!

   だが、ある日わたしは突然あることに気づきました。現実生活の中で、人々は無意識のうちに乞食の役をつとめているということに、です。ある人は健康だが、神から与えられた容貌があまり美しくないと文句を言います。ある人は生まれながらの美人だが、神が自分によい出身を与えなかったと文句を言います。ある人は衣食に困らないのだが、神が自分に栄耀栄華を得させなかったと文句を言います。ある人は自分の配偶者がまじめで有能だが、神が自分に理想的な伴侶を与えなかったと文句を言います。……わたしたちは、神が不公平だと文句を言い、神がわたしたちに大きな借りがあると思っています。しかも、わたしたちは神が無条件にわたしたちに祝福を与え、あらゆることでわたしたちを満足させるべきだといつも思っています。わたしたちは生まれつき神の債権者、神から借金を取り立てる者であるかのようです。神がわたしたちに祝福を与えられましたが、わたしたちは神の祝福が足りず、あまりよくないと思っています。今、わたしたちの貪欲な心はすでに、わたしたちの神のご恩に感謝する心に取って代わりました。

   わたしはいつもこのことを見ます。教会の集会で、皆さんは主に恵み、祝福を求めるし、また自分の子女が仕事、婚姻の面で主の恵みを得たり、家の病人が主にいやされたりするために、牧師に代祷をしてもらいます。もちろん、わたしも自分を神の最大の債権者と見なし、神がわたしの求めるすべてのものを無条件にわたしに与えるべきだと思います。大学入試を受ける前に、わたしは理想の大学に合格するように教会に行って主イエスに祈り、それからわたしの友達のためにも祈り求めました。だが、大学入試の成績が発表された後、期待とは裏腹にわたしは重点大学に落ちました。そのため、わたしはこう考えていました。「ふだんわたしより成績が悪いクラスメートは、今回の試験ではわたしよりよい成績を収めた。彼らを採用する学校もわたしを採用する学校よりよい。これはなぜだろう。主はあらゆることで人の願いをかなえてくださるのではないか。なぜ主がわたしに祝福を与えなかったのか」と。そして、わたしの心の中は疑問、不服、主に対する不平不満でいっぱいになりました。

   ある日、お隣さんはわたしが大学に合格したことを祝って、わたしに贈り物を送った時、「このような大学に受かるのも悪くないね。多数の人がこのような大学に合格できない」と言いました。わたしも今の大学に受かるのは他人からうらやましがられていること、ありがたいことだと知っています。だけど、わたしは主のご恩に感謝せず、かえって、主がわたしの欲望を満たさなかった、主がわたしに聡明さ、知恵とインスピレーションを与えなかったので、わたしが能力を十分に発揮して、もっとよい大学に合格することができなかったと、文句を言いました。このことのゆえに、わたしと主の間にわだかまりができました。

   ある日、わたしはヨブ記を読みました。それで、ヨブが神に何かを求めたことがなく、常に主にいけにえをささげて、神から与えられたすべてに感謝するのを見ました。あの時、神がヨブを試して、彼のすべての財産、彼の子女を奪いましたけれども、ヨブは地にひれ伏して神を賛美し、しかも「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名がほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。ヨブは、彼が世に来た時は何も持っていなかったこと、また、彼が持っているすべてのものは神の特別の褒賞であることを知っていました。神が彼に何を与えても、どのくらい与えても、たとえ彼のすべてを奪っても、彼は不平不満がなく、依然として神の支配、神の知恵あるみわざを賛美しました。ヨブはどんな時でも神を造物主として扱います。神はヨブの真心を見た時、ヨブを大いに祝福し、彼の財産を二倍にされました。

   ヨブの理知、善良さ、従順さには、わたしは非常に感心します。自分が求めたり、思ったりすることを思い返してみると、わたしは恥じ入ります。すると、わたしの心の中の不平不満、誤解はすぐに消え失せました。その後、神に大きな負い目を感じています。今、わたしはこのことを知りました。人はただ神が塵で造ったものにすぎず、もともと何も持っていませんでした。人がどんな条件を持っても、人のめぐり合わせがどんなによくても、それは神の特別の恵みです。だから、人はあらゆることで神のご恩に感謝すべきです。聖書に書いてあるように、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。……」(一テサ5:16-18)。ヨブのように神を畏れ悪を避けるために、ヨブのような理知を持つために、また神の支配に従うために、わたしはちゃんと真理を追い求めようという志を立てました。そうすれば、わたしは神を満足させ、神から与えられたすべてに感謝して、「乞食」のような生活に別れを告げることができます。


裕福な生活を持てば幸せになるのか

2020-04-30 16:31:28 | 人生の奧義

   【編集者メモ】裕福はすべての人が夢にまで願うことです。しかし、手に入れた後、それはまるで一枚の華やかな「上着」のよう、だたうわべを飾ることができ、私たちの心の中の苦痛と貧しさを解決することができないと私たちは気づきました。陳卓はかつて裕福な生活を得るために一生懸命働いたが、病の苦痛と心の空虚さから抜け出せず、苦痛と困惑の中で、神様の言葉の導きによって彼は本当の人生を見つけました。

   物質的な生活の豊かさは、すべての人が夢にまで願うことです。私も例外なく、私はかつて裕福な生活を得るため一生懸命働く人でした。しかし、手に入れた後、私は病の苦痛と心の空虚さの中に生きていました。私は聖書に書かれている「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」(伝道の書1:2−3)を切に体得しました。歩んできた道を振り返って、私は種々の感慨にこもごも至ります。

 

裕福な生活を得るために努力する

   小さい頃、事業が成功したおじさんがプレゼントを詰め込んだ車に乗って帰省するのを見る度、私は羨ましくてたまらず、心に夢を抱き、私は大人になってからおじさんのように金もあり力もあり、裕福な生活を送りたかったです。

   卒業後、私は海辺の都市に行き、周辺の高層ビル、走っている車を見て、私のお金持ちになる欲望が膨らんできました。親戚に頼って、私は国有企業の社員になり、その時から私は全身全霊で仕事に身を投じました。現場で私は汗びっしょり、苦闘し、事務所で私は上司の喋りたてる叱責を耐え忍び、徹夜業務の難関を解決していました。……数年後、私はライン管理者になり、それにつれて親戚や友達、近所の人々が私に贈り物をし、彼らの子供が就職先を見つけるように頼んできました。私は人々に見上げられることを享受し、心は極めて満足していました。年々昇給するにつれて、私の生活が裕福になってきました。

   しかし、私はそれに満足できず、生活を一層よくするため、私は大胆にも安定した国有企業の仕事を辞め、外国企業のボスに従って他の都市に起業しに行きました。

 

 

   それからの数年間、テンポの速い仕事環境、厳しい外国企業の管理法、それに加えて私は毎日違う性格の取引先に対応し、彼らと酒食遊楽にふけり、彼らと調子を合わせ、ストレスが溜まってきました。その後、私と接したそれらの外商やボスが贅沢で淫らな生活を過ごし、ひいては麻薬に制御されるのを目撃し、その狂ったような心ここにあらずの醜い姿を見て、私は見ただけで恐ろしくなりました。冷静になってから、私は自分が贅沢な生活を享受してから「得た」ものは、体重が何キロも増え、健康の各基準値を超え、ひどい不眠症になり、毎日疲れ果て、椎間板ヘルニアになって、長期の圧迫で足取りがしびれ、三月間自分の生活の面倒を見ることができなくなりました。異なる人々に直面し、私は人の顔色をうかがい、こびへつらうことを学びました。……これは私が裕福な生活を享受する裏にある辛酸と苦痛です。この時、私は自分が一生懸命努力してきた裕福な生活のゆえに、幸せと楽しみを感じないだけではなく、かえって、私に多くの病の苦痛と心の痛みをもたらしました。私はなぜ人が生きるのがこんな苦しいのかを知りませんでした。

 

苦痛の根源を探し求める

   途方に暮れる中、私は力の限りで問題の根源を探し求めていました。神様の言葉の中でその答えを見つけました。

   「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりの心に染み込み、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。……つまり、この格言は既にあなたの行動や思想を支配しており、それをあきらめるよりも、むしろそれに自分の運命を支配されることを望んでいるのです。人はこのようなことをし、この格言に支配され、操られます。これは人間を堕落させるサタンによる効果ではありませんか。」

   神様の言葉から、自分の苦痛の根源はいつも金銭を求めているためだったと、私はやっと分かりました。「地獄の沙汰も金次第」「金銭至上主義」などのサタン的生存法則に苦しめられ、私はいつも金銭を求めることを自分の人生の追求する目標とし、お金があれば、品質の高い生活を享受することができ、立派な人になり、他人に見上げられ、目立つ人として生活できると思っていました。裕福な生活を過ごせるため、私は夜昼なく働き、力を絞って業務を深く研究していました。昇進や昇給のため、上司の前で私は屈辱に耐えて重い任務を負い、慎重で勤勉にしていました。ライン管理者になってから、私は現状に満足できず、金銭の誘惑の下で、私は安定な国有企業の仕事を辞め、高い利益のある外国企業に身を投じていました。業績を向上させるため、私は限度を超えた仕事のストレスに耐え、駆けずり回り、苦労を重ねて病気になり、一年じゅう病気ばかりしていました。その上、取引先の機嫌を取るため、私はへいこらすることを学び、お客様に付き添って飲酒し、ますます堕落していきました。最後に少しお金を儲け、生活も裕福になるが、裕福な生活は病の苦痛と心の重苦しさを解決できませんでした。この時、私は金銭をと求めることは人生の正しい道ではなく、だたますます苦しく生きさせるだけだと見極めました。その後の日々に、私は真面目に御言葉を読み、教会生活を送り、徐々に私の心にはこれまでにない解放と自由を得られました。

 

金銭の誘惑から抜け出し、本当の人生を見つけた

   ある日、医者の友達が私と提携して病院の薬の商売し、私は薬の仕入れ、配達、連絡、送金、お客様の食事とお酒の相手をし、お客様の招待や贈答などを担当することに誘いました。私の心は動揺し始め、子供が大きくなったら、お金を使うところも多くなり、もうちょっと稼いだら、家族が裕福な生活をさらに保障できると思い巡らしていました。この時、妻が「起業の何年間で受けた苦しみは少なかったのか。腰椎椎間板がずっとよくないのに、また駆けずり回ることに耐えるのか。あなたの現在の体の状況は食事とお酒の相手をすることができないです。同じ過ちを二度犯したいのか。以前のようにサタンに騙される日々を過ごしたいのか。私たちはやっとのことでサタンの闇から抜け出したのに、二度と陥らないで、これはサタンの狡猾な策略です。慎重にならないといけない。」と私に注意しました。

   そうですね。今、私は幸いに神の国の福音を受け入れ、神様の言葉から私はサタンの邪悪さを認識でき、神様の導きで、私は過った道から戻ってきたのに、二度と同じ過った道を求めてはいけません。私は次の神の言葉を目にしたのです。「物質世界で得る富と名声は、その者に一時的な満足感、束の間の悦楽、安楽の錯覚を与え、その者に道を踏み誤らせる。そうしたわけで、広大な人間の世界で翻弄されて平和と慰め、心の静寂を求めるうちに、人間は何度も波に呑まれる。人間は何処から来て、何故生きていて、どこへ行くのか、など、理解すべき最も重要な問題を理解せずにいる時、人間は富や名声により魅惑され、迷わされ、支配され、完全に道を見失う。時の流れは速く、年月は瞬くうちに過ぎ去ってゆく。人間は、気付かぬうちに、人生の壮年期に別れを告げる。」神様の言葉はまさに私の真実の描写です。かつて私は金銭と名利を貪り、お金を手に入れ、裕福な生活を送り、他人に見上げられたが、これらはだた一時的な享受で、心の空虚さと苦痛を全然覆い隠せなく、何十年もの間このように無駄に過ごしてしまいました。実は、神様が私たちをこの世に生まれてくることを支配するのは、私たちが裕福な生活を過ごせるために奮闘するのではなく、私たちが神様を信じ、神様を礼拝し、神様の導きを受け入れ、神様のすべての采配に従い、神様を認識することを追い求め、神様の奇しき業を証しすることを望み、このように生きてこそ価値があるのです。もし神様を認識する貴重な機会を逃したら、私は裕福な生活を持っていても空虚になり、心の楽しさを得ることができず、死ぬときでも手ぶらです。これらを理解した後、どう選択したらいいか私は分かりました。現在私の商売が安定しているし、稼いだお金も足りているし、もう欲張ってはいけません。私はより多くの時間を御言葉を読み神様を礼拝することにするべきです。それによって、私は友達の好意を断りました。

   私は決定を下したとき、かつて私が崇拝していたおじさんが、過労により脳出血で死んでしまった凶報を受け取りました。おじさんは地元で有名で、何千万の資産も持っていて、 半生の輝かしさはあっと言う間に消えてしまい、彼の人生は53歳で止まりました。おじさんの死から私は、裕福な生活を求めるのは、人に何の益ももたらすことができず、かえって、一種の危害だとさらに見極めました。

 

異なる裕福

   その後、私は御言葉を読みました。「神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人間性を生きることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。」そうですね。神様の本質は聖なるものであり、神様だけが私たちを人生の正しい道へと導かれます。私たちは神様の言葉によって人間として生きてこそ神様の配慮と見守りを得られ、様々なサタンの誘惑と侵害から遠ざかって、意義のある人生を生きることができます。私は思わずヨブのことを思い出しました。彼は一生自分が豊かになって、人々に見上げられるために生きることを求めるのではなく、神様を畏れ、悪を避ける道を歩み、神様の業を認識し、神様のすべての采配に従うことを求めたのです。そのため、彼が豊かになった時、それによって自分を誇るのではなく、依然として簡素な生活を過ごし、神様から離れるのを恐れるため、子女の宴楽に参加しませんでした。サタンが彼の財産を奪った時、彼は依然として神の御名を讃え、財産の損得によって神様への礼拝を変えず、神様のために証しに立ちました。最終、ヨブは神様の称賛を得られ、神様への認識は神様のことを聞いて知っていたから、神様が本当に存在していることを見られることに達し、神様への信仰心も高め、最も価値と意義のある人生を生き、彼は最も裕福な人でした。ヨブの経験は私を励まし、それからの日々に、時間があったら、私は心を神様の前で静め、神様の言葉を読み、神様を賛美する讃美歌を歌い、私の体が徐々によくなり、心もますます着実、平安になりました。

   成長過程において、私は自分が求めていた裕福はサタンが人を騙す華やかな「上着」であり、うわべだけを飾ることができ、永遠に私の心の虚しさを埋めることができないと深く感じました。金銭と名利は命の一分一秒も続くことができず、真理がいのちとならない人生は全く価値がありません。自分が神様の前に来て、神様のいのちの言葉の導きを得られ、心が着実と平安になることを喜ばしく、このような人生は本当の裕福です。


集会で失ったものと得たもの

2019-12-09 23:34:21 | 人生の奧義

   私の名前は果子(グオツィー)と言います。海外の米国で勉強している高校生です。私はキリスト教の家に生まれました。母は私が1歳の時に、全能神の終わりの日の働きを受け入れました。私がとても小さかった頃、母がいつも私にこう言っていたのを覚えています。「神様が天と地、そして存在するあらゆるものをお創りになったのよ。私達人間もまた神様がお創りになったもので、神様は私達を何よりも愛してくださっているの。覚えておいて。何かがあなたに起こるたびに、全能神にお祈りするのよ。そうすれば、神様はあなたのことを見守ってくださるわ。」こうして、私はとても小さい頃、神様が存在するということを学びました。何かが私に起こるたび、私は神様に祈りました。私は神様のご加護を経験したのです。でも、神様と神様の働きを本当に知ったのは、集会と信者仲間の語り合いでした。集会に出席しているうちに、徐々に神様と神様の働きに関する認識を得たのです。全能神教会のブラザーやシスターと一緒に真理を語り合っているうちに、知識を身に着けたのです。神様のお言葉を実践しているうちに身に着けたのです……



   2015年12月、ブラザーとシスターとの集会に出席してみたらと母は私に提案して、こう言いました。「終わりの日の神様の働きはすぐ終わるわ。集会に出席せず、ブラザーやシスターと神様のお言葉について語り合わず、神様のお言葉を自分だけで読んでも、真理を理解するのはとても難しいわ。それでは簡単に救済を得られないわ。」その時私は、母は口で言っているだけだと思いました。なので、私はそうねと適当に母に返事しておきました。よもや母が実際に教会に連絡して、シスターと私のオンライン集会を開くようにシスターにお願いしていたとは思っていませんでした。シスターが集会時間を設定したので、私は本当にいやいや参加しました。毎週集会に参加しなきゃいけないなんて、私の自由時間が減ると思ったのです。友人と外食したり、飲んだり、楽しんだりする時間が減ると思ったのです。私は心の中では集会に出席したくはありませんでした。その時の状態を保ちたかっただけなのです。何かが私に起きると、私は神様にお祈りしていました。時には神様のご加護もあり、そのご加護だけで、心の中で神様を信じるのに十分でした。でも、シスターを即座に拒否するなど、あまりにばつが悪かったので、いやいや同意するしかありませんでした。でも、集会時間が来ると、いつも集会から逃げる言い訳を考えようとしました。集会に出席したとしても、私の心はあまり幸せではありませんでした。神様に祈る時、私ができたことは、称賛の単語をいくつかつぶやくことだけでした。そうして、テストやテストみたいなもので成功するために助けてもらったのです。神様の言葉について信者仲間と語り合う時、自分の番が来るのが本当に怖かったです。なぜなら私の心には光がなかったからです。信者仲間と何について話せばいいのかわかりませんでした。私ができることと言ったら、私が重要だと思った一節を探して読み上げることでした。それから文字通りの意味を少し説明しました。たとえば、読解のようなことをしたわけです。これは神様の言葉に対処する私の態度が適切ではなかっただめです。私は集会にじっくり注意を払いませんでした。聖霊による啓蒙が私にはなかったのです。見返りもありませんでした。こんな風に集会に参加するにつれ、私はますます集会を退屈だと思うようになりました。私はこう思いました。これよりクラスメートと外出して楽しむ方が遥かにいいわ。特に携帯電話で受信した大量のテキストメールのメッセージを見ると、クラスメートや友人と出かけることを思わず考えてしまいました。そこで母に、集会に出席したくない、自分で神様のお言葉を読むだけで大丈夫だと言いました。でも、母はこう言いました。「集会に出席しなくて、意識を集中させて神様の言葉を読めるの?神様の言葉は、学校で読む教科書に出てくるようなものとは違うのよ。み言葉を文字通り受け取って理解できるものではないわ。ブラザーやシスターと集会に出席して、それについて信者仲間と語り合い、お互いと経験や知識を分かち合う必要があるの。そうやって初めて、徐々にはっきりと理解できるようになるのよ。」私は集会への出席がそんなに重要だと思ってもみませんでした。でも、集会は神様の言葉を読む機会をもっと与えてくれて、集会でもっと真理を理解することができたので、私は何も言えませんでした。でも、私は素敵な時間を過ごすことにしか興味がなかったので、欲をあきらめて真理を実践する気はなかったのです。真理を少しは理解していたんですけど。なので、その後も集会に出席するたびに、まず神様の言葉について信者仲間と話して、次に携帯電話で遊び始め、ゴシップ・ニュースを眺めて、最新のテレビ番組をチェックして、時には友人とおしゃべりしていました。こんな風でしたから、毎回集会に出席しても、何も得るものはありませんでした。

   ある時、母が突然私に聞きました。「最近集会出席はどんな感じ?聞いたことを理解してる?集会中に絶対携帯電話で遊んではダメよ!出席しているのがオンライン集会だから、シスターにあなたがしていることを見えないとしても、神様はあなたの言葉や行動をいつもご覧になれるんですからね。全然注意を払ってないと、神様は啓蒙さえしてくださらないわよ!」その直後、母は私に神様の言葉の一節を読んでくれました。「神の道を歩むためには、自分自身に関する事柄や、自分の周囲で起こる事柄は、小さいことでも、すべてないがしろには出来ない。自分がそれに注意すべきであるかどうかを問わず、問題に直面している限り、それを無視してはならない。そうした事柄は、全て神からの試験であるとみなす必要がある。こうした姿勢は、どのようなものであろうか。あなたが、こうした姿勢をとっている場合、それにより、ある事実が確認される。すなわち、あなたの心が神を畏れていること、そして悪を避けることを望んでいるということである。あなたに、神に満足してほしいという願望があるなら、あなたが実行する事柄は神を畏れ、悪を避ける基準とかけ離れていることは無い。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)母はこう言いました。「あなたは集会に出席している時に携帯電話で何かを覗くのはそんなに大したことじゃないと思っていても、これは集会だけではなく神様に対する態度に関係あることよ。神様は私達の傍にいて、私達の一挙一動を見て、私達が何を考えているのかも逐一観察しているから。自分がなぜ集会中にいつも携帯電話で遊びたいのかを考えてみたことがあった?実際、これにはサタンのトリックが見て取れるわ。私達が集会に出席してもっと真理を理解して、いのちが速く成熟して、最後に神様の救済を得るのは神様のご意思よ。でも、サタンはあなたに神様を避けさせ、神様の言葉に耳を傾けさせないようにするために、あなたが好きなものを使ってあなたを誘惑するの。神様の御前であなたの心が落ち着かないようにして、最後にはあなたが何も得られないようにするためにね。神様の働きがなくなると、あなたは人生を失うのよ。」母の言葉を聞きながら、私は心の中で思いました。わかったわ。今回のように何か小さなことを求める真理もあるのね。これは神様に対する人間の態度にも関わってくること。私はちょっと恥ずかしかったです。母に私が考えていたことをズバリと言い当てられて。昔私はいつもこう思っていました。オンラインで集会に出席しているだけだから、誰も見ていないって。だから自分のしたいことをしたくていろいろ考え始めたんです。今やっとわかりました。神様はこの全てをご覧になっていたのだと。そう考えると罪の意識を感じて、ちょっと動揺しました。ここ何回かの集会中にいつも携帯電話で遊んでいたのを神様が全部見てたなんて。後悔の念でいっぱいになって、神様にお祈りを捧げる時に、慌てて自分のミスを認めました。この後、私は集会中に二度と携帯電話で遊ばない、神様のお言葉を熟考するよう頑張ろうと決心しました。ブラザーとシスターの話に意識を集中させて耳を傾けることにしました。私はその後で出席した何回かの集会で携帯電話の電源を切り、携帯電話をどこか自分から遠く離れた所に置いておきました。自分の注意をシスターの話に耳を傾けることに集中させました。耳を傾けている時に、時々私の心が上の空で、心ここにあらずの状態になることもありましたが、それでも集会に出席して得ることが多かったです。

   でも、楽しみたいという欲が強かったので、少し経つと、また集会中に携帯電話で遊びたくなって、手がうずうずしました。私はこう思いました。ちょっと携帯電話を覗いてみるだけ、約束するわ。私は携帯電話をさっと取り上げて、チラリと見てみました。でも、この携帯電話を見るということになると、結果は絶望的でした。あっという間に昔のやり方に戻ってしまいました。時には集会で使っていたコンピュータを横に押しのけて遊んだりしました。私は全てを無視して、携帯電話を手に取ってテレビ番組を見ていました。悪いと知りつつ悪いことをするというこの態度のせいで、私は聖霊の働きを受けることができませんでした。集会を開いている時でも、集会の最初から最後までシスターの話を全く理解していませんでした。私が話をする番になると、何を言うべきなのか全くわかりませんでした。徐々に集会に出席したくないという思いがまた芽生えてきましたが、恥ずかしくてとても母に言えませんでした。私は半分上の空で何とか出席を続けていました。これは、ある時ある集会で携帯電話で遊んでいる時まで続きました。私はその時、始まったばかりの新しいテレビ番組に気づきました。すぐ見たかった番組でしたが、その番組を見るにはソフトウェアのダウンロードが必要でした。ちょっとためらいましたが、それでもそのソフトウェアをダウンロードしました。ダウンロードを終えてそのプログラムを開こうとすると、突然私の携帯電話の画面が真っ暗になりました。次にパスワードを要求されました。でも、パスワードなんて知ってるはずがないでしょう。私はなぜ画面が真っ暗になったのか、その理由を検索しようとしてオンライン接続して、自分がトリックに引っ掛かったのだと気づきました。誰かが私の携帯電話のコントロールを奪ったので、携帯電話が使用不能になったのです。私は非常に後悔しました。同時に神の懲らしめという発想が心に浮かびました。私はこう思いました。神様は人々の心の最も深い部分を観察していて、私の一挙一動が神様の御前に全画面表示で映し出されているのだと。私は悪いとわかっていながら悪いことをしました。これは神様が下した懲らしめなのだと。そう考えると、集会中に本当にもう携帯電話で遊べなくなりました。

   母にこのことを話すと、母は私に神様の言葉の一節を読んでくれました。「大きな問題は何であろうか。小さな問題は何であろうか。神の道を歩むことが関与する問題は、大小の区別が無い。そのことが理解できるであろうか。(理解できる。)日常の問題に関しては、人間が重大な問題であると捉える問題と、些細であるとみなす問題がある。人間はこうした大きな問題を極めて重要な問題と考え、それが神により与えられたものと考える。しかし、こうした大問題が発生する過程においては、人間の未熟な背丈が原因となり、また人間の貧弱な力量が原因となって、神の趣意に従うことが出来ず、神の啓示や、価値のある実質的認識が全く得られないことが往々にしてある。些細な問題については、人間に軽視され、放置されて徐々に意識からなくなることが多い。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃している。このような、神があなたのために計画した人々、出来事、物事や状況を常に軽視したとしたら、どのような結果になるであろうか。その結果、あなたは、あなたを全き者とする日々のそして瞬間瞬間の神の業と神の指揮を、常に放棄することとなる。神があなたのために一定の状況を計画する時は、毎回あなたの心、思いや思想、考え方、行動のしかたを、常に神が隠れて観察している。あなたが不注意な場合、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことが無い場合、神がその状況をあなたのために計画した際に、神が完全にしたい物事や神があなたに要求している物事に、注意することも配慮することも無いであろう。また、こうした人々、出来事や物事が真理や神の趣意にどのように関連するかを知ることも無いであろう。繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなかったら、神はどのように事態を進行させるであろうか。……神のそうした人々に対する姿勢はただひとつである。その姿勢とは何であろうか。神はそうした人々を心の底から拒否する。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)私は神様の言葉を読みながら、こう考えました。今回、私は本当に神様の懲らしめを自分自身で経験して、神様が本当に私の傍にいて私のあらゆる行いをご覧になっていることがわかったわ。私いつも自分の堕落した行動や考えで、ブラザーとシスターを欺けると思ってた。でも、神様の観察から逃れることは絶対にできなかった。今まで意図的に悪いことをして、集会中に用心深く立ち回って神様のお言葉を読まなかったり、信者仲間と真理について語り合わなかったりしたわ。携帯電話で遊んでテレビ番組を見てただけだった。私はもう神様に嫌われてるんだわ。私の携帯電話のコントロールを誰かに握られただけじゃなくて、集会中、真理に関する信者同士の話から何も得られなかったし。時間を浪費して、「命の入り」を自分から阻止してしまった。そして、こうも思いました。昔はいつも自分自身の努力で携帯電話で遊ぶのを止めたいと思っていたけど、その結果どうなったかというと、自分ではサタンの誘惑を克服することができなかった。わかったことは、真理を実践して神を畏れ邪悪を避けようとする時、神様に頼るのではなく、自分自身の力に頼るのは、とても難しいということ。私、自分の器が小さすぎるんだと思う。これからは祈って神様に頼るだけにしようっと。そうして初めて、神様を畏れて邪悪を避ける状態になれるんだわ。集会で心から落ち着けるんだわ。

   その後数カ月間、私はクラスメートの携帯電話を借りました。人の電話だったので、どんなプログラムでも気に入れば、手当たり次第にダウンロードするわけにはいかなかったからです。それで集会に参加するたび、満ち足りた気持ちで自分の席に座って、シスターが話すことに耳を傾けていました。時には友人が私に次々とメッセージを送ってくるのを見て、好奇心が勝って友人が送ってきたものを本当にちょっと見てみたいと思いました。でも、次に思ったのは、神様が私の一挙一動を見ているということです。「現在集会中。信心深くて敬虔な態度でなければ、私は神様に嫌われるかもしれない。」なので、私は毎回携帯電話に手を伸ばそうとしては、さっと手を引っ込めていました。心の中で神様に祈っていました。「神様!私の心をお守りください。私の心が落ち着いて、サタンにかき乱されないように。」神様に祈って私の心を静め、シスターが話していることに耳を傾けて、神様のお言葉に対する彼女達の経験と認識を分かち合うのです。すると、私は集会の最初から最後まで神様のお言葉から非常に多くの啓蒙と光を得たことに気づきました。そうすることで神様と神様の働きについて幾ばくかの認識を得られました。私は昔、集会に行きたいと思ったことは一度もなかったのです。集会への出席を避けるため、学校の課題で忙しいという言い訳をしていました。今や私は自分の欲を捨てるために集会が必要で、集会に出席する時間を必ず見つけるべきだと感じています。いずれにせよ、勉強は通常それほど大きなプレッシャーや大きな作業ではありませんでした。私はよく自由時間を携帯電話で遊んだりテレビ番組を見たりして過ごしたものです。実際には、全体として集会への参加にもっと時間を費やせたのでした。参加時間を増やせば、真理を理解するのにとても役立ちます。なので、1週間に2回、集会に参加することを提案しました。こんな風に本心から実践することで、私はますます多くの真理を理解しました。神様の言葉に関する知識が、昔より遥かに増えました。時には携帯電話を体に乗せて盗み見しました。でも、欲を捨てなければならなかったことをすぐ思い出し、携帯電話をベッドの上に投げ出して集会を続けることができました。これは神様が密かに私の一挙一動を見ていると私が知っていたからです。もう自分の欲に従うのではなく、神様を敬う心を持つべきなのです。

   数か月経つと、私は本当に多くのことを得て、多くの真理を理解し、自分のいのちが大きな進歩を遂げたと本当に感じました。神様の言葉を経験したシスターの話を分かち合うことで、私も徐々に私の人生における神様の働きを学びました。私が覚えている最も深い経験は、数学のテスト中でした。私は他の生徒の回答を写して高得点を得ようとしたのです。何が起こったかと言うと、学問上の高潔さに問題があるかどうかについて、私は学校から問われました。この問題はあまりに重大だったので、私の大学進学にも影響があるでしょう。私がどうしていいかわからなかったちょうどその時、集会中にシスターが神様のお言葉を分かち合い、私の状況に基づいて神様のご意思を話してくれました。彼女は、神様は正直な人々が好きで、正直な人々は神様の救済を得られると言いました。私が神様のお言葉に従って正直な人間になる訓練をしていると、神様の行いを実感しました。つまり、再テストを受ける機会を得ただけではなく、その学期中の成績は全てAというご褒美も得たのです。このような経験はこの1回だけではありませんでした。……今や集会に出席するのがどんどん好きになっていきました。神様のお言葉についてシスターと話すのが好きです。神様のお言葉を実践した自分自身の経験を語るのも好きです。時には聖霊の啓蒙を通じて、神様のお言葉を読み、神様のお言葉を自分自身の経験と関連づけてじっくり考えていると、私の心はとても感動し、私は本当に感情に圧倒されそうになるのです。神様を信じることは、何て素晴らしいんでしょう!経験を経ることで、集会に出席するのが怖かった私から、集会を楽しむ私になりました。これは神様の言葉に率いられて達成した結果です!これをじっくり考えてみると、たとえ集会に出席したためにクラスメートと外出して食べたり、飲んだり、楽しんだり、羽目を外したりする時間が減ったとしても、私が得たことは私の人生の神様の定めでした。正直な人間が神様の祝福を得るということを私に理解させてくれたのは、神様のお言葉だったのです。真理を実践していると、私の心は喜びと平和を感じました。携帯電話で遊んで自分の欲のままに従うと、私はサタンに傷つけられ堕落させられる可能性があります。そうなると更にまた神様から遠ざかってしまい、これが原因で神様が私を忌み嫌う可能性もあります。真理に関する集会と信者仲間の話のおかげで、神様は神様を畏れ邪悪を避ける人間を褒めたたえること、そしてそれは私が追求して具現すべき真の人間の形でもあると私は徐々に学びました。神様のお導きにより、私は本当に多くを得ました。全能神様、ありがとうございます!


集会で失ったものと得たもの

2019-12-09 23:34:21 | 人生の奧義

   私の名前は果子(グオツィー)と言います。海外の米国で勉強している高校生です。私はキリスト教の家に生まれました。母は私が1歳の時に、全能神の終わりの日の働きを受け入れました。私がとても小さかった頃、母がいつも私にこう言っていたのを覚えています。「神様が天と地、そして存在するあらゆるものをお創りになったのよ。私達人間もまた神様がお創りになったもので、神様は私達を何よりも愛してくださっているの。覚えておいて。何かがあなたに起こるたびに、全能神にお祈りするのよ。そうすれば、神様はあなたのことを見守ってくださるわ。」こうして、私はとても小さい頃、神様が存在するということを学びました。何かが私に起こるたび、私は神様に祈りました。私は神様のご加護を経験したのです。でも、神様と神様の働きを本当に知ったのは、集会と信者仲間の語り合いでした。集会に出席しているうちに、徐々に神様と神様の働きに関する認識を得たのです。全能神教会のブラザーやシスターと一緒に真理を語り合っているうちに、知識を身に着けたのです。神様のお言葉を実践しているうちに身に着けたのです……



   2015年12月、ブラザーとシスターとの集会に出席してみたらと母は私に提案して、こう言いました。「終わりの日の神様の働きはすぐ終わるわ。集会に出席せず、ブラザーやシスターと神様のお言葉について語り合わず、神様のお言葉を自分だけで読んでも、真理を理解するのはとても難しいわ。それでは簡単に救済を得られないわ。」その時私は、母は口で言っているだけだと思いました。なので、私はそうねと適当に母に返事しておきました。よもや母が実際に教会に連絡して、シスターと私のオンライン集会を開くようにシスターにお願いしていたとは思っていませんでした。シスターが集会時間を設定したので、私は本当にいやいや参加しました。毎週集会に参加しなきゃいけないなんて、私の自由時間が減ると思ったのです。友人と外食したり、飲んだり、楽しんだりする時間が減ると思ったのです。私は心の中では集会に出席したくはありませんでした。その時の状態を保ちたかっただけなのです。何かが私に起きると、私は神様にお祈りしていました。時には神様のご加護もあり、そのご加護だけで、心の中で神様を信じるのに十分でした。でも、シスターを即座に拒否するなど、あまりにばつが悪かったので、いやいや同意するしかありませんでした。でも、集会時間が来ると、いつも集会から逃げる言い訳を考えようとしました。集会に出席したとしても、私の心はあまり幸せではありませんでした。神様に祈る時、私ができたことは、称賛の単語をいくつかつぶやくことだけでした。そうして、テストやテストみたいなもので成功するために助けてもらったのです。神様の言葉について信者仲間と語り合う時、自分の番が来るのが本当に怖かったです。なぜなら私の心には光がなかったからです。信者仲間と何について話せばいいのかわかりませんでした。私ができることと言ったら、私が重要だと思った一節を探して読み上げることでした。それから文字通りの意味を少し説明しました。たとえば、読解のようなことをしたわけです。これは神様の言葉に対処する私の態度が適切ではなかっただめです。私は集会にじっくり注意を払いませんでした。聖霊による啓蒙が私にはなかったのです。見返りもありませんでした。こんな風に集会に参加するにつれ、私はますます集会を退屈だと思うようになりました。私はこう思いました。これよりクラスメートと外出して楽しむ方が遥かにいいわ。特に携帯電話で受信した大量のテキストメールのメッセージを見ると、クラスメートや友人と出かけることを思わず考えてしまいました。そこで母に、集会に出席したくない、自分で神様のお言葉を読むだけで大丈夫だと言いました。でも、母はこう言いました。「集会に出席しなくて、意識を集中させて神様の言葉を読めるの?神様の言葉は、学校で読む教科書に出てくるようなものとは違うのよ。み言葉を文字通り受け取って理解できるものではないわ。ブラザーやシスターと集会に出席して、それについて信者仲間と語り合い、お互いと経験や知識を分かち合う必要があるの。そうやって初めて、徐々にはっきりと理解できるようになるのよ。」私は集会への出席がそんなに重要だと思ってもみませんでした。でも、集会は神様の言葉を読む機会をもっと与えてくれて、集会でもっと真理を理解することができたので、私は何も言えませんでした。でも、私は素敵な時間を過ごすことにしか興味がなかったので、欲をあきらめて真理を実践する気はなかったのです。真理を少しは理解していたんですけど。なので、その後も集会に出席するたびに、まず神様の言葉について信者仲間と話して、次に携帯電話で遊び始め、ゴシップ・ニュースを眺めて、最新のテレビ番組をチェックして、時には友人とおしゃべりしていました。こんな風でしたから、毎回集会に出席しても、何も得るものはありませんでした。

   ある時、母が突然私に聞きました。「最近集会出席はどんな感じ?聞いたことを理解してる?集会中に絶対携帯電話で遊んではダメよ!出席しているのがオンライン集会だから、シスターにあなたがしていることを見えないとしても、神様はあなたの言葉や行動をいつもご覧になれるんですからね。全然注意を払ってないと、神様は啓蒙さえしてくださらないわよ!」その直後、母は私に神様の言葉の一節を読んでくれました。「神の道を歩むためには、自分自身に関する事柄や、自分の周囲で起こる事柄は、小さいことでも、すべてないがしろには出来ない。自分がそれに注意すべきであるかどうかを問わず、問題に直面している限り、それを無視してはならない。そうした事柄は、全て神からの試験であるとみなす必要がある。こうした姿勢は、どのようなものであろうか。あなたが、こうした姿勢をとっている場合、それにより、ある事実が確認される。すなわち、あなたの心が神を畏れていること、そして悪を避けることを望んでいるということである。あなたに、神に満足してほしいという願望があるなら、あなたが実行する事柄は神を畏れ、悪を避ける基準とかけ離れていることは無い。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)母はこう言いました。「あなたは集会に出席している時に携帯電話で何かを覗くのはそんなに大したことじゃないと思っていても、これは集会だけではなく神様に対する態度に関係あることよ。神様は私達の傍にいて、私達の一挙一動を見て、私達が何を考えているのかも逐一観察しているから。自分がなぜ集会中にいつも携帯電話で遊びたいのかを考えてみたことがあった?実際、これにはサタンのトリックが見て取れるわ。私達が集会に出席してもっと真理を理解して、いのちが速く成熟して、最後に神様の救済を得るのは神様のご意思よ。でも、サタンはあなたに神様を避けさせ、神様の言葉に耳を傾けさせないようにするために、あなたが好きなものを使ってあなたを誘惑するの。神様の御前であなたの心が落ち着かないようにして、最後にはあなたが何も得られないようにするためにね。神様の働きがなくなると、あなたは人生を失うのよ。」母の言葉を聞きながら、私は心の中で思いました。わかったわ。今回のように何か小さなことを求める真理もあるのね。これは神様に対する人間の態度にも関わってくること。私はちょっと恥ずかしかったです。母に私が考えていたことをズバリと言い当てられて。昔私はいつもこう思っていました。オンラインで集会に出席しているだけだから、誰も見ていないって。だから自分のしたいことをしたくていろいろ考え始めたんです。今やっとわかりました。神様はこの全てをご覧になっていたのだと。そう考えると罪の意識を感じて、ちょっと動揺しました。ここ何回かの集会中にいつも携帯電話で遊んでいたのを神様が全部見てたなんて。後悔の念でいっぱいになって、神様にお祈りを捧げる時に、慌てて自分のミスを認めました。この後、私は集会中に二度と携帯電話で遊ばない、神様のお言葉を熟考するよう頑張ろうと決心しました。ブラザーとシスターの話に意識を集中させて耳を傾けることにしました。私はその後で出席した何回かの集会で携帯電話の電源を切り、携帯電話をどこか自分から遠く離れた所に置いておきました。自分の注意をシスターの話に耳を傾けることに集中させました。耳を傾けている時に、時々私の心が上の空で、心ここにあらずの状態になることもありましたが、それでも集会に出席して得ることが多かったです。

   でも、楽しみたいという欲が強かったので、少し経つと、また集会中に携帯電話で遊びたくなって、手がうずうずしました。私はこう思いました。ちょっと携帯電話を覗いてみるだけ、約束するわ。私は携帯電話をさっと取り上げて、チラリと見てみました。でも、この携帯電話を見るということになると、結果は絶望的でした。あっという間に昔のやり方に戻ってしまいました。時には集会で使っていたコンピュータを横に押しのけて遊んだりしました。私は全てを無視して、携帯電話を手に取ってテレビ番組を見ていました。悪いと知りつつ悪いことをするというこの態度のせいで、私は聖霊の働きを受けることができませんでした。集会を開いている時でも、集会の最初から最後までシスターの話を全く理解していませんでした。私が話をする番になると、何を言うべきなのか全くわかりませんでした。徐々に集会に出席したくないという思いがまた芽生えてきましたが、恥ずかしくてとても母に言えませんでした。私は半分上の空で何とか出席を続けていました。これは、ある時ある集会で携帯電話で遊んでいる時まで続きました。私はその時、始まったばかりの新しいテレビ番組に気づきました。すぐ見たかった番組でしたが、その番組を見るにはソフトウェアのダウンロードが必要でした。ちょっとためらいましたが、それでもそのソフトウェアをダウンロードしました。ダウンロードを終えてそのプログラムを開こうとすると、突然私の携帯電話の画面が真っ暗になりました。次にパスワードを要求されました。でも、パスワードなんて知ってるはずがないでしょう。私はなぜ画面が真っ暗になったのか、その理由を検索しようとしてオンライン接続して、自分がトリックに引っ掛かったのだと気づきました。誰かが私の携帯電話のコントロールを奪ったので、携帯電話が使用不能になったのです。私は非常に後悔しました。同時に神の懲らしめという発想が心に浮かびました。私はこう思いました。神様は人々の心の最も深い部分を観察していて、私の一挙一動が神様の御前に全画面表示で映し出されているのだと。私は悪いとわかっていながら悪いことをしました。これは神様が下した懲らしめなのだと。そう考えると、集会中に本当にもう携帯電話で遊べなくなりました。

   母にこのことを話すと、母は私に神様の言葉の一節を読んでくれました。「大きな問題は何であろうか。小さな問題は何であろうか。神の道を歩むことが関与する問題は、大小の区別が無い。そのことが理解できるであろうか。(理解できる。)日常の問題に関しては、人間が重大な問題であると捉える問題と、些細であるとみなす問題がある。人間はこうした大きな問題を極めて重要な問題と考え、それが神により与えられたものと考える。しかし、こうした大問題が発生する過程においては、人間の未熟な背丈が原因となり、また人間の貧弱な力量が原因となって、神の趣意に従うことが出来ず、神の啓示や、価値のある実質的認識が全く得られないことが往々にしてある。些細な問題については、人間に軽視され、放置されて徐々に意識からなくなることが多い。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃している。このような、神があなたのために計画した人々、出来事、物事や状況を常に軽視したとしたら、どのような結果になるであろうか。その結果、あなたは、あなたを全き者とする日々のそして瞬間瞬間の神の業と神の指揮を、常に放棄することとなる。神があなたのために一定の状況を計画する時は、毎回あなたの心、思いや思想、考え方、行動のしかたを、常に神が隠れて観察している。あなたが不注意な場合、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことが無い場合、神がその状況をあなたのために計画した際に、神が完全にしたい物事や神があなたに要求している物事に、注意することも配慮することも無いであろう。また、こうした人々、出来事や物事が真理や神の趣意にどのように関連するかを知ることも無いであろう。繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなかったら、神はどのように事態を進行させるであろうか。……神のそうした人々に対する姿勢はただひとつである。その姿勢とは何であろうか。神はそうした人々を心の底から拒否する。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)私は神様の言葉を読みながら、こう考えました。今回、私は本当に神様の懲らしめを自分自身で経験して、神様が本当に私の傍にいて私のあらゆる行いをご覧になっていることがわかったわ。私いつも自分の堕落した行動や考えで、ブラザーとシスターを欺けると思ってた。でも、神様の観察から逃れることは絶対にできなかった。今まで意図的に悪いことをして、集会中に用心深く立ち回って神様のお言葉を読まなかったり、信者仲間と真理について語り合わなかったりしたわ。携帯電話で遊んでテレビ番組を見てただけだった。私はもう神様に嫌われてるんだわ。私の携帯電話のコントロールを誰かに握られただけじゃなくて、集会中、真理に関する信者同士の話から何も得られなかったし。時間を浪費して、「命の入り」を自分から阻止してしまった。そして、こうも思いました。昔はいつも自分自身の努力で携帯電話で遊ぶのを止めたいと思っていたけど、その結果どうなったかというと、自分ではサタンの誘惑を克服することができなかった。わかったことは、真理を実践して神を畏れ邪悪を避けようとする時、神様に頼るのではなく、自分自身の力に頼るのは、とても難しいということ。私、自分の器が小さすぎるんだと思う。これからは祈って神様に頼るだけにしようっと。そうして初めて、神様を畏れて邪悪を避ける状態になれるんだわ。集会で心から落ち着けるんだわ。

   その後数カ月間、私はクラスメートの携帯電話を借りました。人の電話だったので、どんなプログラムでも気に入れば、手当たり次第にダウンロードするわけにはいかなかったからです。それで集会に参加するたび、満ち足りた気持ちで自分の席に座って、シスターが話すことに耳を傾けていました。時には友人が私に次々とメッセージを送ってくるのを見て、好奇心が勝って友人が送ってきたものを本当にちょっと見てみたいと思いました。でも、次に思ったのは、神様が私の一挙一動を見ているということです。「現在集会中。信心深くて敬虔な態度でなければ、私は神様に嫌われるかもしれない。」なので、私は毎回携帯電話に手を伸ばそうとしては、さっと手を引っ込めていました。心の中で神様に祈っていました。「神様!私の心をお守りください。私の心が落ち着いて、サタンにかき乱されないように。」神様に祈って私の心を静め、シスターが話していることに耳を傾けて、神様のお言葉に対する彼女達の経験と認識を分かち合うのです。すると、私は集会の最初から最後まで神様のお言葉から非常に多くの啓蒙と光を得たことに気づきました。そうすることで神様と神様の働きについて幾ばくかの認識を得られました。私は昔、集会に行きたいと思ったことは一度もなかったのです。集会への出席を避けるため、学校の課題で忙しいという言い訳をしていました。今や私は自分の欲を捨てるために集会が必要で、集会に出席する時間を必ず見つけるべきだと感じています。いずれにせよ、勉強は通常それほど大きなプレッシャーや大きな作業ではありませんでした。私はよく自由時間を携帯電話で遊んだりテレビ番組を見たりして過ごしたものです。実際には、全体として集会への参加にもっと時間を費やせたのでした。参加時間を増やせば、真理を理解するのにとても役立ちます。なので、1週間に2回、集会に参加することを提案しました。こんな風に本心から実践することで、私はますます多くの真理を理解しました。神様の言葉に関する知識が、昔より遥かに増えました。時には携帯電話を体に乗せて盗み見しました。でも、欲を捨てなければならなかったことをすぐ思い出し、携帯電話をベッドの上に投げ出して集会を続けることができました。これは神様が密かに私の一挙一動を見ていると私が知っていたからです。もう自分の欲に従うのではなく、神様を敬う心を持つべきなのです。

   数か月経つと、私は本当に多くのことを得て、多くの真理を理解し、自分のいのちが大きな進歩を遂げたと本当に感じました。神様の言葉を経験したシスターの話を分かち合うことで、私も徐々に私の人生における神様の働きを学びました。私が覚えている最も深い経験は、数学のテスト中でした。私は他の生徒の回答を写して高得点を得ようとしたのです。何が起こったかと言うと、学問上の高潔さに問題があるかどうかについて、私は学校から問われました。この問題はあまりに重大だったので、私の大学進学にも影響があるでしょう。私がどうしていいかわからなかったちょうどその時、集会中にシスターが神様のお言葉を分かち合い、私の状況に基づいて神様のご意思を話してくれました。彼女は、神様は正直な人々が好きで、正直な人々は神様の救済を得られると言いました。私が神様のお言葉に従って正直な人間になる訓練をしていると、神様の行いを実感しました。つまり、再テストを受ける機会を得ただけではなく、その学期中の成績は全てAというご褒美も得たのです。このような経験はこの1回だけではありませんでした。……今や集会に出席するのがどんどん好きになっていきました。神様のお言葉についてシスターと話すのが好きです。神様のお言葉を実践した自分自身の経験を語るのも好きです。時には聖霊の啓蒙を通じて、神様のお言葉を読み、神様のお言葉を自分自身の経験と関連づけてじっくり考えていると、私の心はとても感動し、私は本当に感情に圧倒されそうになるのです。神様を信じることは、何て素晴らしいんでしょう!経験を経ることで、集会に出席するのが怖かった私から、集会を楽しむ私になりました。これは神様の言葉に率いられて達成した結果です!これをじっくり考えてみると、たとえ集会に出席したためにクラスメートと外出して食べたり、飲んだり、楽しんだり、羽目を外したりする時間が減ったとしても、私が得たことは私の人生の神様の定めでした。正直な人間が神様の祝福を得るということを私に理解させてくれたのは、神様のお言葉だったのです。真理を実践していると、私の心は喜びと平和を感じました。携帯電話で遊んで自分の欲のままに従うと、私はサタンに傷つけられ堕落させられる可能性があります。そうなると更にまた神様から遠ざかってしまい、これが原因で神様が私を忌み嫌う可能性もあります。真理に関する集会と信者仲間の話のおかげで、神様は神様を畏れ邪悪を避ける人間を褒めたたえること、そしてそれは私が追求して具現すべき真の人間の形でもあると私は徐々に学びました。神様のお導きにより、私は本当に多くを得ました。全能神様、ありがとうございます!


人生の虚しさを解放する道はここにある

2019-08-06 18:10:12 | 人生の奧義

   【編集者メモ】人生の虚しさを埋めるため、彼はよく友だちと飲み食いや遊びに出かけます。しかし彼の霊はいまだに満足していないだけでなく、そのような人生は虚しさに苦痛をも加えます。神様を信じるようになったあと、彼は自分の虚しさの根源を理解するとともに、それを解決する道を見つけます。

寄稿家:思明(韓国)

   朝早く、私は窓際の小さな机の前に座って『カナンの良き地の幸せ』というダンスと音楽のビデオを静かに見ていました。私の心はメロディーに合わせて舞い上がり、思わず笑みを浮かべました。神様の御前に出ることの平和と確かさを心から感じていたのです。

罪に陥り虚しさと苦痛の中で生きる

   私はより多くの収入を得ようと数年前に韓国へ来ました。しばらくのあいだ必死に働いたあと、徐々により豊かな生活を送るようになりましたが、心の中で虚しさや無聊を感じることがよくありました。友人からしばしば食事や飲み会に誘われ、歌って踊るためにカラオケバーなどの場所へ誘われることもありましたし、帰宅が深夜になることも珍しくはありませんでした。当時、私たちのあいだではこんな言葉がはやっていました。「喜びの日をつかめ。人生は短いからである。」「今日は飲んで心配は明日にしよう」「若さの特権を生かして飲み食いし、浮かれ騒いで人生を楽しもう。歳をとれば何も楽しめなくなるのだから」私はこうした言葉に共感を覚え、自分たちはこのように生きるべきだと考えました。その後、友人たちが集まって出かけるたび、一緒に行かないかといつも私を誘ってきました。仕事が終われば何もすることはないしどうせ退屈なので、私は必ず一緒に出かけました。どこかへ食事に出かければ兄弟のように飲み食いし、話して笑い、とても幸せに感じました。飲み食いしたあとはカラオケバーや他の場所に行って歌ったり踊ったりします。宴とお祭り騒ぎが終わったあと、こんなに大勢の友人と一緒に話したり笑ったりして、これほど大いに楽しむのは本当に素晴らしいことだと感じました。ときどき友人たちが出かけたくないことがあっても、私は出かけたいと思いました。そうしたとき、仕事で感じていた退屈さ、人生に対するあらゆる失望、そして不満に思う一切のことが一瞬で消え去りました。私は徐々に、飲み食いして人生を楽しまないのは馬鹿げているとか、そのような人生だけが喜びをもたらし、自分をつまらない仕事から引き上げるのだとか考えるようになりました。仕事が終わると毎日のように際限なく酒を飲みましたが、その後時間が空いたとき、心は虚しさと孤独を感じたままでした。私はこう思わずにはいられませんでした。人はなぜ生きるのか。どうすれば霊の空白を埋められるのか。

   私は様々な思いを抱いていたものの、生活と仕事は続けなければなりません。雨が降ると同僚も私も仕事を中断せざるを得ないので、みんなは自由時間に雀荘へ行き、麻雀をして時間を潰していました。私も誘われたのですが、そのときこう考えました。「ちょっとだけやってみよう。どうせ自由時間なんだ。麻雀しながら時間を過ごして、退屈な日が続いても暇を潰せるようにしよう」こうして私は雀卓の前に一日中いるようになったのですが、いつも大きく負けるばかりで勝つことはあまりありませんでした。一日で二、三百万ウォン負けることもあったほどです。麻雀をしているあいだは本当に幸せで、心ゆくまで楽しんでいました。しかし家に帰れば以前と同じままで、負けたお金のことを思い出して恐怖を感じました。もう麻雀はやめるよう自分に言い聞かせても、次の日には例のごとく雀荘へ舞い戻ってしまいます。結局さらに負けてしまい、友人にお金を借りるまでになりました。私は自制できないことに対して自分に憎しみを覚えました。はじめは単に暇つぶしのため、楽しむためにすこしだけ麻雀をするつもりでしたが、虚しさにこれほどの苦痛が加わるなど想像もしていませんでした。その後仕事のプロジェクトが終了し、私は借りていたお金をなんとかすべて返済したため、別の現場へ向かうことになりました。

   そこに着いたあとも、私は引き続き友人たちと集まり、稼いだ金で飲み食いや遊びに出かけました。そのどれもがつかの間の幸福をもたらすものの、私の生活は虚しいままで、偽りの世界で暮らしているように感じられるほどでした。一緒に飲み食いしたり遊んだりして人生を楽しむなど、表面上はみんなが友人でした。しかし実際には、誰もが自分のことしか心配していなかったのです。特に自分の個人的な利益に関係することがあると、背後で互いに攻撃したり非難したりします。私は暇なときによくこう考えました。「俺はこのように人生を送るべきなのか。周りの無数の人間はみんな他人の足跡に従っている。それ以外に生きる道はないということなのだろうか」


人の人生における虚しさの根源は何か

   ある日の仕事中、私は恩浩に出会いました。私たちは互いを知り、あらゆることを話し合い、親友になりました。あるとき会話の中で、私は心の中で感じていた苦悶を残らず彼に打ち明けました。すると恩浩はこう言いました。「君をある場所へ連れて行こう。そうすれば君の問題はすべて解決する」そうして結局、彼と一緒に教会へ行くことになったのです。私は兄弟姉妹に自分の経験を話し、率先してこう尋ねました。「人の人生はなぜこんなに虚しいのでしょう。いったいどうすれば人生の虚しさと苦痛を自分から取り除けますか」

   すると一人の姉妹が私に言いました。「兄弟、あなたがなさった質問は多くの人を困惑させています。いま人々の生活水準はますますよくなりつつあり、私たちはより多くの物質的な喜びを享受していますが、それでも霊の中の虚しさは日を追うごとに大きくなる一方です。それがなぜかを理解する人はいませんが、神様の御言葉が人類の苦痛と虚しさの根源を明らかにしてくださいます。神様の御言葉の一節を読みましょう。『人の心の中に神の居場所が無い世界とは、暗く、何の希望も無く、空虚である。…何故なら、神の導きなしには、支配者たちや社会学者たちが人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どんな社会学的理論も、心をむしばむ虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適な暮しは、つかの間の慰めに過ぎない。これ らのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への欲求や願望を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけである。人は常に恐怖に怯えて存在し、人類の將來にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からない。人は科学や知識に脅かされるほどになり、自分の中にある空虚感をそれらのもの以上に恐れるようになる。…人間は結局、人間に過ぎない。神の地位といのちに取って代われる人間はいない。人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の欲求、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。』

   神様の御言葉を読んでくれたあと、その姉妹は交わりを続けてこう言いました。「神様の御言葉は私たちの虚しさと苦痛の根源を完全に説明してくださいました。私たちはサタンによって堕落させられたあと、神様を避け始め、神様の御言葉のお導きと供給を失い、サタンの影響の下で生きました。人類がこのような虚しく苦痛に満ちた人生を送っているのはそれが理由なのです。私たちはみな人生においてお金や名声や富や肉体的な快楽のために争ったり走り回ったりしています。そしてこのような物事を追い求めれば追い求めるほど、私たちはより満足を覚えず貪欲になっていきます。それらの物事を手に入れると、物質的な生活水準は向上し、肉体は喜びを得ますが、それらを享受したあと心は再び虚しさを感じます。それらの物事を得られないとき、私たちはより大きな苦痛と無力感を覚えます。したがって、お金や地位を持たない人は虚しさを感じて人生に何の意欲も持ちませんが、それはまさにお金も地位もあって人生を大いに楽しんでいる人が感じることでもあるのです。彼らも虚しさを感じ、何の意欲も持っていません。霊の虚しさを埋めようとダンスクラブに行ったり、たばこを吸ったりお酒を飲んだり、旅行に出かけたりするなど様々な方法を試した人もいますし、中には麻薬を試した人さえいます。しかし私たちが何をしようと、どれも無駄なことです。お金や名声や富、あるいは肉体的な快楽が人類の虚しさを解決することはできず、私たちを幸せにも喜びに満ちた状態にもできないことを、それは示しています。私たち人類は神様によって作られたのであって、神様の御前に出て神様の救いを受け入れ、神様の御言葉によって生きることでのみ、私たちの心は安らぎと平和を感じ、この虚しさを自分から取り除くことができるのです」

   姉妹の話を聞いたあと、私は再び神様の御言葉について考え、それが私の心に直接語られたように感じました。当時、食べ物や着るものを買える余裕があるかについての心配はありませんでしたが、それでも人生に幸せを感じていませんでした。時間を潰して虚しさを取り除くため、よく友人と外出して飲み食いしたり遊んだりしていたものです。そうしたとき、私は肉体的に満足して表面上はとても幸せに見えました。しかし帰宅後、特に一人でいるときに信じられないほどの虚しさと無力感を覚え、自分には人生の目標がまったくなく、人生そのものが無意味だと思えるほどでした。気前よく散財したり、遊びにふけったり、際限なく飲酒したりする暮らしはつかの間の幸福をもたらしただけで、私が真の幸福を感じたことは一度もありませんでした。おそらく神様への信仰だけが、自分の霊的な虚しさを解決できる唯一の道だったのです。

自分から虚しさを取り除く希望を持つ

   それから姉妹は『神に救われていなければ』という賛美歌のビデオを再生しました。それを聴いた私は自分自身がその言葉を経験したかのように感じ、歌うあいだ自分の生活の一幕一幕が映画のように私の心に映し出されました。以前の生活では際限なく酒を飲んでばかりいて、人類がどこから来たのかも自分たちがどう生きるべきなのかも知らず、人生に何の目標も期待すべきこともなく、その代わりに「もがき罪に苦しんで虚しく、望みもなく」という賛美歌の歌詞どおり、何の目的もなく一日中ぼんやりしていただけでした。さらに、ビデオに登場する兄弟姉妹は神様を信じ始めたあと、自由で解放された人生を送っていることに気づきました。私はそのことに深く心を動かされ、神様は本当に私たちを虚しく苦痛に満ちた生活からお救いになれるのだと感じ、これからも神様の働きを勉強し続けたいと思いました。

   その後、神様の御言葉を読むことや、兄弟姉妹と集まって交わることを通じ、私は人類の堕落の源、サタンはいかに人間を堕落させるか、神様はどのように人間をお救いになるか、本当の人間らしさをどう生きるべきかといった真理の側面を理解するようになりました。全能神によって表現される御言葉はおそらくどんな人間にも語れなかったことを私は知り、また全能神の御言葉は私に人生で進むべき方向を示し、有意義な人生を生きるために何を追い求めるべきかを教えました。それらは私にとって大いに助けとなるものでした。私はその後教会に加わり、しばしば集会に参加して兄弟姉妹と神様の御言葉を分かち合いました。このように生きることで自分がとても豊かになったように感じ、私の霊はそれまで感じたことのない平和と喜びを体験しました。

誘惑に打ち勝てないことの根源

   ある日仕事が終わったあと、同僚がこれから出かけないかと私を誘いました。しばらく飲み食いに出かけておらず、生活が少し面白みに欠けるものになっていたことを思い出し、一緒に出かけて少しのあいだ気晴らしを求めるのもいいだろうと考えました。それで結局、私は彼らと一緒に出かけました。その夜帰宅したあと、私は心を静めて考えました。「俺はいま神様を信じているけれど、不信心者のようにこんな贅沢な生活を送ることは神様を喜ばせるだろうか。クリスチャンはこんな風に振る舞うべきじゃない」そこで私は神様の御前に出て祈りました。「神様よ。私はもう堕落に陥りたくありませんが、自分から誘惑を取り除くことができません。これらの肉体的な欲望と誘惑に打ち勝つ手助けをしてください」その後、私は神様の御言葉を読みました。「ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、墮落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲學、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣、これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の墮落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも墮落した人類にどうして救いの可能性があり得ようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。」

   神様の御言葉から、神様を信じることができながら同僚の誘いに耐えられないのはなぜか、彼らとこうした贅沢な生活を送ることで自分の心がいまだに喜ぶのはなぜかを理解するようになりました。それは社会の悪しき風潮によって生じた影響のせいだったのです。「喜びの日をつかめ。人生は短いからである。」や「酒に対いては当に歌うべし、人生幾何ぞ」などの誤った人生訓をはじめ、社会で流行しているありとあらゆる言葉が私の心に根を下ろしていました。人は人生の中で肉体的な快楽を追い求め、飲み食いしたり浮かれ騒いだりすることに集中すべきだと信じ、そうした生活だけが人に幸福をもたらし、この退屈な世界から引き上げることができる、そうすれば一生を無駄に過ごすことはないと考えていたのです。そうしたことがなければ人生がまったく無意味に感じられるので、しばらく飲み食いや遊びに出かけなかったりすると、私の心はそれを切望し始めるのでした。私は真理を持たず、何が正しく何が間違いかも知らなかったので、これらの悪しき風潮に捕らわれてしまい、罪深い快楽を楽しんだり、際限のない飲酒や堕落や放蕩から成る生活を送ったりしてしまったのです。肉体はつかの間の享楽を得るものの、霊は虚しく苦痛に満ちたままで、人生で追い求めるべき正しい目標を持たず、人生の意味にも気づいていませんでした。神様の御言葉の啓示を通じて、そのような人生訓はサタンに属していること、それらの考えや見方によって生きるのは方向を見失わせることしかできないことを、私はようやく理解しました。そのように生きていれば、罪の快楽の追求を正しいことと見なし、肉体的な快楽をやみくもに追い求め、ますます堕落し、真理を追い求めたり人生の正しい道を歩んだりする心を持たず、最終的にはサタンによって傷つけられ、食い物にされるでしょう。その事実の真相を見るようにしてくださったことに対し、神様に感謝いたします。

人生の方向を見つける

   私は神様の御言葉を読みました。「人々が追求する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本来の意図と一致するものがひとつも無いことが分かります。それらは全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離し、人間を墮落させて地獄へと導く罠です。このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による採配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」神様の御言葉は人生で進むべき方向を私に示しました。肉体的な快楽を追い求めるのは堕落の道だとすでに認識していたので、それを捨てて神様に従い、真理を追い求めて神様を崇拝する道を歩くほうを選ぶべきであることは知っていました。そうして丹念に真理を追い求め、社会の悪しき風潮を避け、以前のような贅沢な生活を絶対に繰り返さない決意をしました。

   時が過ぎて中秋節が目前に迫るころ、友人と親戚が私を呼び出して一緒に出かけようと誘ってきました。以前であれば、そうした休日に友人や親戚と一緒に出かけ、飲み食いしたり遊んだりするチャンスに飛びついていたでしょうし、大いに楽しめるはずだと信じながら外出して自分を甘やかしたでしょう。しかしいまは、真理を追い求めることでのみ平和と確かさを感じられると理解するようになっていました。一緒に出かけてもつかの間の肉体的な享楽しか得られず、私の心が神様を避けることになってしまい、その後はいまだに虚しさを感じたでしょう。それで私は丁寧に誘いを断わり、教会に行って神様の御言葉を読み、兄弟姉妹と真理について語り合いました。そしてそれまで感じたことのなかった幸福と確かさを感じたのです。

   私は自分が過去に誤った道を選んだこと、社会の悪しき風潮に捕らわれてしまったこと、罪の快楽をむやみに求めたこと、ますます堕落して人間らしさをすっかり失ったことを振り返りましたが、それはどれも自分の虚しさを埋めるためでした。私を神様の家に戻してくださったのは神様のご慈悲だったのです。神様によって表わされる真理を受け入れて初めて、私はこうした社会の悪しき風潮やサタンの人生訓についていくらか識別力を持ち、真の幸福とは何か、人生において追い求める価値が一番高いのは何かを知るようになり、人生における真の方向性を見つけました。心からの感謝を神様に捧げます。