賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

だれがわたしの仕事に対する態度を変えるのに決定的な役割を果たしたのか

2020-10-09 22:49:55 | 職場の人間関係

   おととい、わたしは一篇の文章を読みました。その文章の小見出しの一つは「わたしのボスは神である」です。この言葉は深くわたしの心を打ちました。その文章の中の主人公は記者です。主を信じる前に、彼の仕事に対する態度はよくなかったのです。出勤簿には、彼が取材に行ったと書いてありますが、実際には彼は自分の副業を行ったり、或いは家に帰って寝たりしました。主を信じて洗礼を受けた後、彼は「うそを言ってはならない」という神の言葉を見て、クリスチャンが誠実であるべきだと認識しました。そこで、彼は神に祈って、誠実な人になろうという志を立てました。神に祈っていた時、彼は自分が仕事の中でうそを言ったと認識しました。そして、勇気を出してチーフと以前の会社の社長に謝りました。それ以後、彼はずっと神の言葉にしたがって、誠実な人になるための実行をしています。神の言葉によって、彼の仕事に対する態度は完全に変わりました。そのため、彼は光栄にも初めての皆勤賞をもらいました。それ以来、彼は家で原稿を書くのに、上司の監督と催促を必要としなくなっていました。家では、タイムカードを押す制度がないけれど、彼はいつも朝早く起きて仕事をしました。彼は、彼が仕事をする上で神に対して責任を負い、神が彼のボスだと言いました。今でも、彼はこのような態度で自分の仕事を扱うのです。

   神の言葉は実に貴重なものです。神のこの一言は人の仕事に対する態度、人の人生観と価値観を変えることができ、人がもはやサタンから出たうそを言わず、公明正大にふるまい、義理堅くふるまうようにすることもできます。今、わたしはわたしも神に向かって仕事をし、神を自分のボスだと見なさなければならないと、ひそかに志を立てました。なぜなら、わたしもクリスチャンですから。

   ある日の午後、同僚Vikiさんはメールで彼女の作った文案をわたしに送って、その文案をチェックしてくれと頼みました。わたしはよくないところをすべて直した後、タイトルが適切ではないのを見ました。わたしはいいタイトルを考え出そうと、しばらく思案したが、インスピレーションがわきませんでした。そこで、わたしはVikiさんに、タイトルを替えるようにと勧めました。そして、自分の手元の仕事をやり始めました。しばらくしてから、Vikiさんは新しいタイトルをメールでわたしに送りました。わたしはそのタイトルも適切ではないのを見て、また考えてみなさいと返事をし、しかも彼女に、わたしたちが以前作った文案から考え方の方向を探すようにと勧めました。しばらくすると、彼女はメールでわたしに二つのタイトルを送りました。わたしはその二つのタイトルがやはりよくないと思って、また考えてみなさいと返事をしました。そのため、彼女は困ってしまい、わたしに彼女と一緒に考えるようにと頼みました。当時、わたしは口から出任せに承諾しました。でも、わたしはただ儀礼的に彼女に返事しただけであり、彼女がいいタイトルを探すのを助けるつもりがなかったのです。

   夜、Vikiさんは寝る時間になっても、いいタイトルを考え出せませんでした。そのため、その文案ができ上がらず、仕事の進度が影響されました。このような時、わたしは良心のとがめを受け、不安を感じました。わたしはVikiさんに、彼女を助けていいタイトルを探すと約束したが、そうしなったからです。そこで、わたしは神の前に出て、こう祈りました。「神よ、Vikiさんはわたしにいいタイトルを探してほしいと頼みました。わたしは承諾したが、そうしませんでした。神よ、わたしは不誠実で、うそをつきました。今、わたしは誠実な人になりたく、また、悔い改めて、Vikiさんを助けていいタイトルを探したいと思います」。祈った後、わたしは「うそを言ってはならない」という神の言葉を思い出し、また「わたしのボスは神だ」という言葉を思い出しました。そして、わたしは自分の言動を反省し始めました。Vikiさんが助けてくれと頼んだ時、わたしはしぶしぶ承諾し、「これはあなたの文案だから、わたしがいいタイトルを考え出したら、あなただけが業績を収める。やはりわたし自身の仕事をした方がいい」と考えました。当時、わたしの内に利己的で狡猾な性質があるから、うそをつき、わたしが利益に支配されているため、彼女を助けたくなかったのです。あの時、わたしはVikiさんがわたしの仲間だと考えませんでした。Vikiさんがわたしに彼女の文案をチェックしてくれと頼んだ以上、わたしはその文案に責任を持ち、それを神からの任務、委託として扱うべきでした。わたしは神の監視を受けながら、神に向かってその文案をチェックするべきであり、わたしの文案と彼女の文案をはっきり区分する必要がなかったのです。そこまで考えて、わたしはVikiさんを助けて、いいタイトルを探したくなりました。

   翌朝、目が覚めた後、わたしはまず「わたしのボスは神だ」という言葉を思い出しました。この言葉によって、わたしの心は喜びに満たされるようになりました。オフィスに入った後、わたしはまず神に祈りました。そして、Vikiさんのためにいいタイトルを探し始めました。わたしは資料を参考にしたり、身の回りの同僚に尋ねたりすることによって、いくつかのタイトルを考え出しました。そして、その中から最もいいタイトルを選んで、メールでVikiさんに送りました。Vikiさんはそのタイトルを一目で気に入りました。その後、わたしはそのタイトルに基づいて文案の結尾を少し直しました。こうして、この文案はとうとう出来上がりました。この労働の成果を見る時、わたしは内心浮き浮きしていました。栄光を神に帰します。

   その日、わたしはずっと「わたしのボスは神だ」という信念をもって仕事を扱っていました。その結果、わたしは各部門の同僚といいパートナーになりました。その日、わたしたちは仕事について話し合ったり、試案、考え方の方向を検討したりしました。わたしたちが交流することによって、仕事上の多くの困難、残されてきた多くの問題は解決されました。こうして、仕事の効率と質が向上しただけではなく、わたしと同僚の関係も親しくなりました。神の言葉のゆえに、わたしは仕事に対して正しい態度を持つようになり、また生きる価値と意義を見つけました。神に感謝します!

   主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言われました。神の言葉は、わたしたちの生存の基本であり、わたしたちがことを行う上での指針です。わたしたちが神の言葉にしたがってことを行い、神に向かってすべてのことをし、すべての仕事に責任を持つなら、神はわたしたちと共にあり、わたしたちに実行の道を指し示し、わたしたちを楽しく生きさせ、わたしたちを義理堅い人にしてくさだいます!


クリスチャンの体験談|正直な人になることは喜びに溢れたことです

2020-05-04 21:25:44 | 職場の人間関係

   私達は日常生活の中でこれらのことに常にイライラさせられます。たとえば、あなたがいくつかの何気ない言葉を誰かに言い、その人が予想に反して、冷たい返事をしてきます。その人はあなたの言葉を誤解したようです。そこで、あなたが急いであれこれ説明しますが、全く役に立ちません。別の例では、ある友人が突然あなたに素気ない態度を取るようになりました。何が起きたのかあなたが分からないでいると、別の友人が、あなたが先日言った言葉により、あなたがバカにしているとその人が思うようになったと教えてくれました。これを聞いてあなたは「それは不公平だ!そんなつもりでは全くなかった。どうやったらそんな誤解ができるのか?彼女は何と心が狭い人なんだ!」と叫ぶでしょう。この時、あなたは憂鬱な気持ちと、申し訳ない気持ちと、無力感に苛まれているはずです。

   話し手と聞き手が怒りを感じ、動揺する一方で、傍観者は冷静に、「話し手はそんなつもりではなかったかも知れないが、聞き手は重く受け止めた」と結論付けます。話し手が気軽に言った言葉に聞き手が腹を立てる。なぜそのようなことが起きるのでしょうか?なぜ、私達は誰かが言った言葉について、心の中で反芻し、その意味について想像し、話し手の立場を難しくするのでしょうか?実は、私もかつては敏感な聞き手の1人でした。誰かの何気ない言葉を分析し、次のように考えたものでした:彼女はどういうつもりでこれを言っているのだろう?私を見下しているのだろうか?私をバカにしているのだろうか?たとえば、ある同僚が「服装のせいで、今日はいつもと違って見えるよ!」と言ったとすれば、私は次のように考えたものです:どういう意味だろう?このドレスが似合ってないという意味だろうか?褒めているのか、バカにしているのか?別の例では、ある時、旅行について同僚とおしゃべりをしていて、私は「箱根は温泉が多い以外面白いことはないわ」と言いました。すると、同僚の1人が驚いて「あなたは箱根にも行ったことがあるのね。旅行?それとも住んでいたの?」と言いました。これを聞いて私はとてもイライラしました。彼女は私が旅行に行くためのお金がないと思って見下しているのだろうか?そこで、不機嫌に「旅行よ。どうしてこれにそんな大騒ぎするの?」と答えました。一瞬で、雰囲気が張り詰めたものになりました。こんな風に、私は常に誰かの言葉に影響されて不機嫌になったり、時にはかっとなったりしていました。また、私は常に損得が気になり、それを解放することができませんでした。それは私の親密な人間関係にも影響を及ぼしました。こんな風になりたくはありませんでした。しかし、何かに遭遇するとすぐに自分の考えをコントロールできずにいました。このことに私は困っていました。

   ある日、私はこれらの言葉を読みました。「わたしは他人に対して疑いを持っていない人を高く評価し、真理を容易に受け入れる人を好んでいる。わたしはこれらの2つの種類の人間を大切にする。わたしの目には正直な者たちだからだ。あなたが非常に狡猾であるならば、あなたはすべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考を持っているであろう。」

 

 

   私は、自省し始めました。私は何気ない言葉を聞くと、それを別の意味に解釈していました。誰かが正直に思ったことを口にすると、この言葉を分析し、その人の言葉には別の意味があったり、私を見下したりバカにしたりしているのではないかと考えていました。私は常に狭い心から生まれた考えを使って人々の親切心を評価し、かっとしたり、悲しくなったりしていました。さらに、他人に対し、偏見や妬み、憎しみの気持ちも抱えていました。これらの態度を思い返し、私は「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」というサタンの毒に支配されて生きていたことに気が付きました。私は常に他人が私のことをどう思っているかを気にしていました。私の面目を失わせるようなことを聞くと、その話し手に対して疑いの念を抱き、嫌な態度を示すことさえありました。その結果、私は周りにいる人々を傷付けていました。その一方で、私自身もひどく苦しみ、誰も信用できないでいました。私があまりにも面目にフォーカスしすぎ、不正直の本性があることこそが、これを引き起こしているのではなかったでしょうか?その時、次のことに気が付きました。他者と仲良くしている時、私達は他者に対して先入観を持ち、何気ない言葉を聞くと、それには隠された意味があり、彼らは私達を辱めようとしているのだと考え、疎遠になります。友人同士が二度と連絡を取り合わないようになることさえあります。これはすべて、私達が面目にあまりにも気を取られすぎており、他者を疑う傾向にあるためです。私は、「注意深い聞き手には、何気ない言葉が多くのことを示すことがある」という言い回しにおける問題の根本を突き止めました。

   私は次の言葉を反芻しました。「わたしは他人に対して疑いを持っていない人を高く評価し、真理を容易に受け入れる人を好んでいる。わたしはこれらの2つの種類の人間を大切にする。わたしの目には正直な者たちだからだ。」そして、主イエスが私達にお教えになった御言葉についても考えました。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」マタ 5:37。これらの言葉から、私は正直な人間になることの重要性が分かりました。神様は誠実であられるため、正直な人間を愛されます。正直な人間だけが真の人間らしさを持っています。正直な人間は子供のように無邪気で、スペードをスペードと呼び、偽りがなく、誠実です。さらに、正直な人間は面目や見栄のために生きることも、他者を疑うことも、自分勝手に他者を憶測することもありません。正直な人間は周りの人と簡単に仲良くし、人気者となります。日々の生活の中でさまざまなことに遭遇する時、神様は私達が神様の御言葉に従うことができるのかを確認するため、私達をお試しになっています。その時、私は心の中で密かに「私は神様の御言葉の要件に従い、正直な人間になることを実践していこう」に決意しました。

   ある日、昼食を取っていると、同僚が私のお弁当の中のおかず(人参ともやしの炒め物)を見て、「今、人参は安売りしているの?」と言いました。これを聞いて、たくさんの思いが頭を巡りました。彼女はどういうつもりでこれを言っているのだろう?彼女は私が貧しく、間に合わせで作る食事のために高価な野菜を買うことができないと思っているのだろうか?彼女は私のことをせせら笑っているのだろうか?私は少し腹を立てました。しかし、思い直し、神様の御言葉を思い浮かべると、私は面目を守ろうとして不正直の性情が現れていたことに気が付きました。彼女は人参が安く売っているのかどうかを普通に尋ねただけでした。「はい」であれば「はい」なのです。私が正直に答えることは全く正しいことです。なぜ、私は彼女を推察するのでしょうか?私はこの考えを手放し、穏やかに「はい!」と答えました。すると、この同僚は嬉しそうに、「今年の冬は寒くて、ほとんどの野菜が高値で売られています。でも、人参は寒さに耐えることができるのね・・・」と言いました。

   その後、数分前に私の考えが変化したことを思い返してみました。私の心は神様への感謝で一杯になりました。あぁ神様。あなた様の御導きがなければ、私は不正直な性情に従い生き、私の面目を守るために同僚の言葉を誤解していたでしょう。そうなっていれば、私は自分自身が悲しくなり、頑なな状態になっていただけではなく、同僚も傷付けていたでしょう。そう考えると、心の中に少し、甘くくすぐったいような気持ちがしました。神様の御導きにより、私は解放され、自由になりました。もう他者の言葉の裏にある意図や動機を疑うことはありません。


正直でいたら、私は本当に就職先が決まりました

2020-04-22 14:10:05 | 職場の人間関係

   大学の学位を持っていることが一般的であるこの時代、仕事を見つけるのはとても困難です。こういった状況の中、私は多くの求職者の中で際立つ方法を考える必要がありました。

   一度、友人の1人がこう言いました、「面接に行く時、会社はあなたの学歴を見るだけでなく、主にあなたの職歴に注目します。企業は職歴の無い新卒は雇ってくれませんよ。」これを聞いた私は心配になってこう思いました、「私は何の職歴も持ってない。私はただの新卒。仕事を見つけるにはどうしたらいいのかしら?」

   私は心配でしたが、それでも履歴書を書いて送付する必要がありました。私がそれを書いていた時、以前ウェブページを閲覧していた時に会社に採用してもらえるような職歴の書き方を教えてくれるプロフェッショナルがいるのを見たことを思い出しました。そして、私は頼みの綱を掴んだかのようにすぐさまオンライン検索をしました。しばらく閲覧した後、私は即座に希望を掴んだ気分になりました。こうして、私は彼らがオンラインで教えていた通りに履歴書を書こうとしました。

   しかし、ちょうど職歴の有無を書こうとした時、私は気おくれしてこう思いました:「仕事に関して、私は明らかに何もやったことがないのに、経験があると書かなきゃいけないなんて。これは正直な人のすることじゃないわ。」しかし私はこう考え直しました、「私は高学歴じゃないから。職歴はあると書けば、ひょっとしたら私の履歴書が面接官の注目を引いて、私の面接を予定してくれるかもしれない。それに、自分が選ばれるかどうかなんて分からないし。このまま書いて履歴書を送付した方がいいわ。」

 

 

   そして、私は履歴書に経験のない職歴を幾つか書いてそれを送付しました。意外にも、これが上手く行きました。数分の間に会社から電話があり、私に翌日の面接のオファーをしてくれたのです。私はこれをとても嬉しく思いました。私は職歴はとても重要だと思いました。

   翌日、私は気分よく面接に行きました。私は自分の面接をしてくれるマネージャーが難しい相手になるとは決して思っていませんでした。彼女は午後を通して私と話をし、私の職歴について沢山質問をしてきました。

   彼女は落ち着いた口調で私にこう聞きました、「ある化粧品のボトルが数本しか在庫にない場合、あなたならどう対応しますか?あなたは何をして販売する製品が確実に十分あるようにしますか?」「それは簡単です。時間の余裕を持ってもっと製品を購入します」、と私はすばやく答えました。その後すぐ、彼女は私に購買に関する細かい質問をしてきました。私はすぐさま呆然としてこう思いました、「こんな仕事には今まで一度も対応したことがないわ。前の会社ではレジの操作をしたり、サービスデスクで客の会員情報をタイプ入力したり、ラッフルの記録を記帳したりといった事務所内での事務処理といった小さな仕事を幾つかやったことがある程度だわ。彼女に本当のことを言うべきかしら?いいえ、そんなことできないわ。そんなことしたら採用してもられないわ。」切羽詰まった私はこれらの質問をすばやく考えてから、自分の理解した内容をもとに返答しました。

   私が返答した後、彼女は何も言いませんでした。その時、私はやっと安堵のため息をつきました。ちょうどその時、彼女は私がもし購買、販売、配達における問題に直面したら、それらをどう解決すべきかと続けて質問してきました。その時、私はまた返答につまりました。どのように考えても、答えが分かりませんでした。落ち着いた様子の彼女を見ていると、私は余計に緊張してこう思いました、「本当のことを言うべきかしら?そうしたらこんなに心配しなくて済むわ。でも今はどの会社も求職者の職歴に注目するわ。私は高学歴じゃないからそれだけでも既に欲しがられるのが容易じゃないのに。それに加えて、私には職歴が無いから、採用される確率はさらに低いわ。だから本当のことを言う訳にはいかないわ。でも、私は神の信者よ。嘘をつくことは神に嫌われるし、神の御心に沿っていないわ。半分だけ本当のことを言って彼女を騙そうかしら?」

   突然、彼女の携帯電話が鳴ったので、彼女は入り口の方に歩きながら電話に出ました。その時、私は少しだけホッとして、緊張のせいで手がすごく汗ばんでいるのに気が付きました。困った私は心の中で静かに神に祈りを捧げました、「ああ、神様。私はどうしたらいいのでしょう?」

   この時点で私は突然こう思いました、「神は誠実であられる。神は決して曖昧に喋られたり、振る舞われたりはしないのです。神は私たちが純真で幼い子供たちのようになることを求めておられます。一方には神の御要求があり、またその反対側には私の個人的な利益があります。私はどちらを選ぶべきなのでしょう?私は本当のことを話すべきなのでしょうか、話さなくてもいいのでしょうか?」私はずっと躊躇していました。私は正直になりたかったのですが、この機会を逃すのは耐え難いものがありました。この会社から面接のオファーを受けるのは私にとって容易なことではありませんでした。以前この職に就いていたことがないと言ってしまったら、このチャンスは間違いなく駄目になってしまいます。

   この瞬間、私はこうも思いました、「今日の世間の傾向は会社が人々を判断すること、そして採用することを彼らの職歴に基づいて行うように仕向けてはいますが、実際、全ては神の御手によってコントロールされ、計画されており、それはマネージャーの思考と考えも含まれます。私は職歴があると彼女に信じてもらうために嘘をついて彼女の信頼を得たとしても、私がこの仕事に就くことを神が御計画しておられなければ、彼女は私を採用することはないし、また採用されたとしても、私はこのように嘘をついてごまかしていたら長期間に渡ってこの仕事に就くことはできないでしょう。」

   この時、私は仕事を探し始める前に自分が仕事探しを神の御手に委ね、神の主権と御采配に従うと言って神に祈りを捧げていたことに気が付きました。しかし、現実を目の前にした私は神の御要求を完全に脇に置いてしまい、俗に言う「面接の成功は職歴にかかっている」ということを信じてしまいました。自分の履歴書を提出してからここに面接を受けにくるまでの間、私は嘘をついてこの仕事を手にすることを無駄に期待していたのです。面接の間、私はどのように嘘をつけば職歴が無いことがばれずに採用してもらえるかとずっと考えていました。ああ、私は仕事を手にするために考え過ぎて臆病になっていたのです。

   神様、有難うございます!こう考えていると、職歴は私が採用されるか否かの重要な要素ではなかったことを理解しました。それどころか、最終的な裁量権は神の御手にあるのです。その一方で、私は真実を話さないと、この仕事を手にしても不安を感じることになり、さらに重要なこととして、私は神の前で神への証言を失ってしまうことにも気が付きました。私は正直になれず神に御満足していただけないだけでなく、サタンの笑い者にまでなってしまうのです。この時、私は気持がとても明るくなり、こう決心しました、「私は彼女に真実を話す必要がある。」彼女が私を採用するか否かは神の御手にあるのです。彼女が私を採用してくれなくても、私は神の主権と御采配に従ってゆきます。」

   しばらくした後、マネージャーは電話を切り、中に戻ってきて私の面接を続行しました。面接の残りの間、私は聞かれた質問に対して本当のことを話しました。答えが分かっていればそのまま答え、答えが分からなければ分かりませんと答えました。私は質問に答える度に冷静で安定している感じがしました。以前の精神状態に比べ、私は気持がだいぶ楽になった気がしました。面接後、マネージャーは2日以内に結果が出からそれまで待つようにと私に言われました。私は、「明らかに見込みは薄いなあ」、と思いました。私は少しがっかりした気分でしたが、神の御心を理解した私は依然として冷静に最終結果を受け止めようと思いました。

   知らぬ間に2日が経ちました。私は採用の通知を受けなかったので、他の仕事に応募することにしました。しかし、意外にも、3日目の朝、私はマネージャーから電話を受けました。彼女はこう言いました、「あなたがとても正直な人であることが分かりました。ですので、あなたにチャンスを与えることにしました。とにかく職場で一生懸命学んでください。」これを聞いた私はとても驚いたと同時に恥ずかしくなってこう思いました、「私が正直?いいえ。神の御導きがなければ、私は確実に嘘をつき続けていたでしょう。これは全て神の私に対する働きの効果だったのです。」

   私はあの日面接に行ったことを考えずにはいられず、マネージャーは数人の求職者を面接したと言っていました。彼らは短期大学士や大学の卒業証書を持っていました。しかし、彼女は彼らを採用しなかったのです。彼らと比較すると、私は高い学位も職歴も持っていませんでしたが、それでも彼女は私を採用したのです。この瞬間、私は神がこの全てにおいて主権を握っておられたことを深く認識しました。私は自ら進んで正直な人を実践していた時、この仕事を逃さなかっただけでなく、神の祝福まで授かりました。この仕事を得られたのは神が私を御認めくださったということです。私は聖書に書かれているこの御言葉を実際に経験したのです、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」ヨハネによる福音書 4:23。


私と傲慢な課長の間の「堅氷」が溶けた

2020-04-21 13:41:04 | 職場の人間関係

   上司に困らされたら、どうすればいいですか。三年来、課長はいつも彼を困らせ、彼もずっと課長と張り合い、落ち込んで苦しく生きています。最後に彼はどのように苦痛の中から抜け出して、解放されて自由に生きているのか。どうぞ一名のクリスチャンの変化の経験を見てみましょう。

 

   快速ナビ

私は課長との張り合いが始まった

怒る根源を見つけた

神様の意図を理解した

再び困らされることに直面する時

課長との「堅氷」が溶けた

 

私は課長との張り合いが始まった

   私は電気溶接の作業員です。見事な深みのある技術を持っているから、今の会社に引き抜かれました。会社に来たばかりの頃、私が担当していた作業は一件の不良品があって、課長はわざわざ検査部門が私のために、検討会議を開き、私に不良品報告表を作らせました。私は、すべての人は皆不良品を作ったことがあるが、課長はあまり報告しないのに、なぜ今回はわざわざ検索部門が私に検討会議を開かせるのかと思いました。しかし、私はまたこう思います。今回は確かに私の間違いで、間違ったら、認めればいいです。それから私はこの事についてあまり考えないです。しかし、それから、課長はきりがなく依然として私を叱り、そして私に皮肉を言いました。「あなたはどうしてしでかすのか。」課長のこの態度を見て、私は自分のメンツと尊厳が大いに傷つけられたと感じ、思わず怒りを出しそうになり、「私はどうして間違ってはいけないのか、もう間違ったから、あなたはどうするつもりか。」と心に思います。これによって、私は課長と張り合い始めました。

   それから、課長はあらゆる面で私を困らせ、よく命令の口調で私にあれこれをするように指示し、またよく他人の仕事を私にやらせ、そして側で私をじっと見つめていました。これは課長がわざと私を狙い撃ちをし、私の粗捜しをするのを知って、私も人に負けないようにし、どんなに頑張っても仕事が終わらないとき、私は思い切ってもう進度を追わず、ゆっくりやります。しばらくしたら、お手洗いに行ったり、水を飲みに行ったりし、わざと課長の前を行ったり来たりし、故意に彼を怒らせます。課長は私の様子を見て、目をじっと見つめて私に大声で叫びました。「急いでいるのを、君は知らないのか。」「知っているよ。」「知っているのに、君はなぜ仕事を終わらせないのか。」「私の力はこれだけです。最初に仕事をする時もこのスピード、今も同じではないか。」課長が私の言葉を聞いて、タバコをもみ消し、ぷんぷん怒って去りました。私が仕事をする間にこのような事がよく発生し、毎回言い争った後、課長はどうしようもありません。しかし、私の心にはとても苦しくて辛いです。このような生活はいつまで終わるかを知りませんでした。

 

 

   ある日、課長はまたたくさんの仕事を私にやらせ、全くやりきれないので、私は不平と不満がいっぱいになり、どうしたら課長に私が甘くないことを知らせるのかをじっくり考えています。それで、翌日出社する前に、私は理由をつけて会社に休みを取りました。課長は私のやり方を見て、全くお手上げになり、やむなく仕事を急いでいるから、彼は進んで私に連絡しました。私にやらせた仕事を一部他人に分けたので、翌日出社するようにと言いました。これによって、課長は私に対してどうしようもないのを見て、しばらく平穏になって、もう私を困らせません。しかし、しばらくしないうちに、課長は会社の仕事がそんなに忙しくないのを見て、また私を困らせ始めました。私の工具が使いにくい事を彼に言いましたが、彼は私を我慢させました。私の作業着は時間が経ったから、焼損したので、彼に新しい作業着を申し込んだのに、彼は申し込んでくれませんでした。要するに、私の提出したすべての要求に対して、彼はほとんど私を満足させることなく、私たちの会話はいつも激しい敵意に満ちていました。私たちはこのように互いに張り合う状態の中で三年間を過ごしました。この三年間の中に、私は毎日重苦しく過ごしていて、ここから離れて辞めることさえ考えました。しかし、日本で何年間も努力してきたのに、安定した仕事がなかなか見つかりません。しかも、私は会社に引き抜かれたので、もしこのまま課長にいじめられて会社をやめたら、不本意です。自分のために頑張りたいから、私は苦痛を耐え忍んで勤め続けるしかありませんでした。

 

怒る根源を見つけた

   2018年、幸いに私は全能神の終わりの日の働きを受け入れました。時間があったら、私は兄弟姉妹と一緒に集会し、神様の言葉を読んでいました。集会を通して、私は自分がよく他人と張り合い、争い合うのは、サタンの堕落した性質によるものであり、神様が嫌悪することであるのを知りました。これを理解した後、私は生活の中で自分を反省し認識することを重視し始めました。

   ある日、まもなく終業する時に、課長はまた私に向かって命令の口調で私に言いました。「君、明日残業して、この前受けた新しい仕事を終わらせて。」私は何も言わずに、うなずいて応答しました。続いて課長は私に聞きました。「明日はこの新しい仕事を終わらせるのか。」新しい仕事なので、図表も見る必要があるし、具体的にどんな困難があるか、どのぐらい時間かかるか私ははっきり分からないので、私は「ほぼできる」と返事しました。課長がタバコをくわえて私を見ながら言いました。「ほぼできる?君は一日で終わらないだろう?」彼の傲慢な様子を見て、私の心にはとても反感を感じ、怒りが抑えられなさそうになっていました。続いて課長はまた挑発する口調で言いました。「俺なら半日で終わる。君は1日でも終わらない。試してごらん。」課長の軽蔑する目つきを見て、私は心に思いました。「あなたはずっと私を眼中に置くことなく、私と腕比べをしているか。私がここでぶらぶらして日を過ごしていると思うのか。明日一番短い時間でこれらの仕事を完成させ、実力であなたの口を塞ぎます。」ここまで考え、私も硬い口調でずけずけと彼に言いました。「明日やって見るわ。どのくらい時間かかるか、課長とどれくらい差があるかを見てみよう。」私の話を聞いて、課長はずるい笑顔を現しました。私は心に思います。「あなたが笑われないように、明日8時間でこれらの仕事を完成させるように勝ち取ろう。」

   帰り道で、私は腹いっばいの怒りを我慢して、会社にいるこの三年間に、課長はよく私を貶し、困らせ、本当に人を腹立たせます。今度私はこの仕事を終わらせてから、彼に軽べつされないように、必ず彼と言い争わなければなりません。歩いている途中、私はちょこっと携帯を見て、無意識のうちに兄弟姉妹のアイコンの写真が目に入って、私はすっと今自分が神様を信じる人であると思い出して、先ほど自分が堕落した性質を現していることに気づきました。しかし、私は家に帰った後、心がなかなか穏やかにならず、ずっとこのことのために悲しくなっています。それで、私は神様の前に来て祈ります。「神様よ、今日私は堕落した性質を現しました。サタンの前に証しに立つことができませんでした。神様よ、あなたは私の霊的背丈が小さいのを知っておられ、私は何も分からないので、自分の堕落したサタン的な性質を認識し、堕落した性質から抜き出す道を見つけるように、どうか私を導いてくださるように。お願いいたします。」

   その後、私は集会の時に、兄弟姉妹が私に交わった二段落の神様の言葉を思い出しました。神様は言われます。「人間が他人の前で怒るか、あるいは陰で怒るかを問わず、人間には皆様々な意図と目的がある。このような人間達は、自分自身の信望を構築している場合や、自らの利益を守ろうとしている場合、自分の外聞や面目を保とうとしている場合などがあるであろう。自分の怒りをある程度抑えるよう努める者も居れば、全く抑えようとする様子が無く、好きなときに心ゆくまで怒りを露わにする者も居る。つまり、人間の怒りは、自分自身の腐敗した性質から生まれている。その目的が何であれ、怒りは人間の肉欲や本性に関連するものであって、正義や不正義とは無関係である。なぜなら、人間の本性や本質には、真理に相当するものが皆無だからである。」「人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い腐敗した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、腐敗した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は汚れや謀略に満ちている。人間の腐敗と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。」

   神様の言葉を思い巡らして私は次のことが分かりました。人が怒り出したり腹を立てるのは、皆自分の意図や目的を持ち、あるいは自分のメンツやイメージを維持するため、或いは自分の威信を打ち立てるためです。要するに、理由が如何に適切であったとしても、怒り出すのは皆傲慢な本性から出たものであり、肉と血によるものであり、その中には個人的な野心や欲望に満ち、邪悪で、真理と一致しないものです。今日自分が課長に怒り出したのを反省し、それは主に自分のメンツと尊厳を維持するためでした。いつも私は「人はひと息のために戦い、仏は一本の線香のために争う」「人はメンツのために生き、木は皮のために生きる」これらのサタンの毒素によって生き、すべてのことにおいて自分のメンツと尊厳を維持し、私をいたたまれない思いをさせる人がいたら、私はすぐに怒り出しそうになり、傲慢な性質が現れ、普通の人間の理知を失ってしまいます。この何年間を思い返し、課長がいつもそっけない態度で私を扱うのを見て、或いは八方手を尽くして私をいじめる時、私は彼が私を何とも思わず、私を見下げて貶していると思い、自分のメンツと尊厳のために、いつも傲慢な性質によって課長と戦い、方法を考えて私と妥協するようにしています。今自分がなぜ自分のメンツを取り戻し、課長の尊重を得たいのかを考えて、自分が会社に引き抜かれてきた人材で、技術も、特長もあり、尊重を得るのは当たり前と思っているからです。実際に、私はどんな技術や特長があっても、私は塵や一人の被造物であり、どこに行っても他人からの尊重を求め、他人が言葉や行為において自分のメンツに気を配ることを求める資格がありません。これは理知のない要求であり、傲慢で高ぶっている表現です。ここまで考えて、私は自分の行為に恥ずかしさを感じます。

 

神様の意図を理解した

   私はまた一段落の御言葉を読みました。「もし、あなたが神によって完全にされることを望むなら、あらゆる事柄を経験することを学び、直面するいかなる事柄においても、神の啓きを与えられなくてはならない。何かに向き合うときは常に、良いことであれ悪いことであれ、あなたにとって得るものがなければならない。あなたが消極的になることがあってはならない。何が起ころうと、あなたは、神の側に立ってそれを考えることが求められるのであって、人の観点から分析あるいは検討してはいけない(これは、あなたの経験における逸脱である)。」

   神様の言葉を思い巡らして私は分かりました。私は昔から私たちの仲が悪い原因は、課長が傲慢すぎて、いつも他人を見下げているためだと思っていました。今私はついに自分のこの考え方が間違っていることに気づきました。このような環境に臨むのは、神様が許可されているから、私は再び反抗してはいけなく、教訓を学ぶことに重視すべきです。もし、私はずっと角突き合い、真理を尋ね求めず、他人の過ちだと思うなら、私は自分自身に存在する問題を認識することができなくなり、最終的に、何の真理も得ることができません。この時、私は自分が課長と角突き合う時、課長の過ちもあるが、自分も汚れて堕落しており、私はいつも自分の尊厳を維持するため課長と角突き合い、生きてきたのは少しの人間性や理性もなく、神様が私にこのような人間や出来事、物事を配置してくださるのは、私の堕落した性質を明らかにされ、私がこの環境の中で自分の堕落した真相を見極め、自分に対する正しい認識に達し、最終的に一人の正常な人間性を行動で示して神様に栄光を帰すためであることに気づきました。そのため、私は神様の前にきて祈りを捧げ、自分がメンツや尊厳などこれらの無価値のものを脇に置き、神様の言葉によって生きるように神様に求めました。

 

再び困らされることに直面する時

   翌日出社してから、私は昨日の仕事を終わらせて新しい仕事を始めています。しかし、あまり時間が経っておらず、課長が私を呼びました。彼に呼ばれたらきっといいことがないと心には思います。このように思う時に、自分のこの状態がよくなく、周りの環境は皆神様が配置しておられるから、私は神様から出たものであると受け入れるべきだと気づきました。そのため、私は心で黙って神様に祈りを捧げ、私の心を守って、神様の前に静まることができるように神様に求めました。その後、私は課長に向かいました。彼は定規を持って、私の完成品を測りながら言いました。「あなたの完成品は不合格だ。溶接ビードは5ミリメートル長かった、直して。この角度も違う、底板が不均一、全部やり直して。」彼が言っているのは皆許容誤差範囲内なのに、彼がわざと私を困らせていることが分かりました。彼と道理をわきまえようとする時、突然私はこのことを思い出しました。課長がこのように私を扱うのは、サタンからの誘惑であり、私の肉と血を挑発しようとし、私を課長に敵対する状態の中に置かれるのです。実は、課長がこのように私を扱うのも神様に許可され、神様が私の傲慢な性質を変化させ、私が人間性と理性を生き出させるように配置してくださった環境です。私は神様から出たものとして受け入れ、サタンの笑いぐさにならないようにまず従順になるべきです。ここまで考えて、私の心が静まってきて、初めて穏やかな口調で課長に言いました。「課長、ご安心ください。これを終わってから、一つずつ確認します。不合格の完成品を直しますので、必ず課長を満足させます。」私の言葉を聞いて、課長はキョトンとして、何も言わずにくるっと体の向きを変え離れてゆき、疑う表情で頭を振り返って私をちらっと見ました。課長が離れた後、私は体の向きを変え、思わず涙を流しました。長い間、このようなことに臨む時、私は初めて怒りを爆発させず、初めて心には不快な気持ちがありません。神様の言葉によって私はサタンの束縛から解放されて、私の心に言い表せない感動をもたらしました。

 

課長との「堅氷」が溶けた

   これから私は全力を仕事に投じ、午後四時半ごろ、私はこの新しい仕事を完成しました。その後、私は完成品を全部確認してから、課長の前に送って言いました。「課長、全部終わったので、どうぞご確認ください。もし不合格ものがあったら、私は直します。」課長が私の言葉を聞いて、不思議な顔をして私を見てキョトンとして言いました。「君は今日うっとうしい思いをしなかったのか。」私はこれを聞いてにっこりと笑って、正面から答えなかったが、心には黙って言いました。「私のこの時の喜びはあなたには分からないです。」仕事が終わった後、課長が私に今日の完成品が全部合格で、大きな問題がないと言いました。私は嬉しくなって帰りました。

   翌日仕事が始まった後、思いもよらないのは、課長が進んで私に挨拶しました。これは以前になかったことです。課長が離れた姿を見て、私は心にはこう言いました。「神様に感謝します。私はこんなに傲慢で自分自身を認識できない人で、神様があなたを通して私を明らかにされ、自分の傲慢な本性を認識させ、自分の学ぶべき事を学ばせるのです。」

   その時から、私は再び傲慢な性質で課長を扱わず、課長が私に対する態度もよくなりました。ある日、私の電気溶接機が使いにくくなって、彼に報告したら、すぐに替えてくれました。先日、私の作業着が焼損されて、彼が気づいて、自発的に私のサイズを聞いて、新しいのを申し込んでくれました。課長のこれらの変化を見て、私の心には暖かく感じ、私たちの三年間の仲が悪い関係がとうとうよくなり、私はこれは皆神様の言葉が私のうちに達成した効果だとわかります。神様に感謝します。今後私もより多く神様の働きを経験し、徹底的に自分の堕落した性質を変え、一人の正常な人間性を行動で示して神様に満足させるように頑張ります。


迷える羊の喩え

2020-03-04 00:40:16 | 職場の人間関係

   迷える羊の喩え

   「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」(マタイによる福音書 18:12-14)

 

 

   これは喩えであるが、この聖句についてどのような印象を受けるであろうか。この喩えでは、人間の言葉による修辞技法が用いられており、人間の知識の範囲内のものである。もし律法の時代に神がこのようなことを述べていたとしたら、人間はその言葉が神の存在と一致しないと感じていたであろう。しかし、恵みの時代に人の子がこの言葉を述べた時、その言葉は慰めとなり、暖かく、人間と懇意なものと感じられる。神が受肉した時、神が人間の姿となった時、神は極めて適切な比喩を用いて、人となった神の心の声を述べた。この言葉は、神自身の言葉と神がその時代に遂行することを望んでいた業を示していた。またこの言葉は、恵みの時代における神の人間に対する姿勢を示している。神の人間に対する姿勢という観点から、神は人間ひとりひとりを羊に喩えた。一匹の羊が迷い出た場合、神はあらゆる手を尽くしてその羊を探すであろう。これは、この時代に、受肉して人間の中にあった神の業の原則を示している。神はこの喩えにより、その業に対する神の決意と態度を説明した。これが、神が受肉したことの利点であった。つまり、神は人間の知識を利用し、人間の言葉で人間と会話して神の旨を表現することが可能であった。神は、人間が人間の言葉により、理解しようと苦戦していた神の深遠な神性の言葉を、人間に対し、人間のやり方で説明ないし「解釈を与え」た。このことは、人間が神の旨を理解し、神が遂行したいと考えていた業を知る上で役立った。また、神は人間の立場から、人間の言葉を使って人々と話をし、人々が理解できる方法で意思疎通を行うことが可能であった。神は、人々が神の優しさと親しみを人間が感じ、また神の心を理解できるように、人間の言葉と知識を用いて言葉を述べ、業を行うことさえ可能であった。このことから何が分かるであろうか。それは、神の言葉や業を妨げるものが存在しないことであろうか。神が人間の知識や言葉、話し方を用いて自身の話したいこと、実行したいと望む業や自身の旨に関して表現することは不可能であるという人間の考え方は、誤りであるということである。神は、神の現実性や誠実さを感じることができるように、またこの時期における神の人間に対する態度を理解できるように、こうした喩えを用いた。この喩えにより、長年にわたり律法に従って生活していた人間は夢から覚め、さらにこの喩えは、恵みの時代に生活してきた何世代にもわたる人々に励ましを与えた。人間は、この喩えの聖句を読むことにより、人間を救う神の誠実さや、神の心における人間の重要性を理解する。

   次に、この聖句の最終文「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」を再度検討する。これは主イエス自身の言葉であろうか、それとも天にいる父の言葉であろうか。表面的には、話をしているのは主イエスであるように思われるが、イエスの旨は、神自身の旨を示している。そこで主は「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」と述べたのである。当時の人々は、天の父のみを神として認識していたので、こうした人々の目の前に居た人すなわちイエスは、神が遣わしたものにすぎず、したがってイエスは天の父を現すことが出来なかった。この理由のため、主イエスは、人間に対する神の旨を人間が真に感じ、イエスの述べたことが真正かつ正確であると人間が感じることが出来るよう、このことも述べる必要があったのである。イエスの述べたことはシンプルではあるが、イエスがそれを述べたということは大いに思いやりのあるものであり、イエスの謙遜と慎ましやかさを示すものであった。神が受肉して行ったか、霊的な領域で業を行ったかを問わず、神は人間の心を最も良く理解しており、また人間に必要とされていた物事を最も良く知り、人間が憂う事柄、人間を困惑させる事柄について知っていたので、神はこの一行の文を付け加えた。この文では、人間の隠された問題に注目している。すなわち、人間は、人の子が述べる事柄に懐疑的であったこと、つまり、主イエスが話をしている時、主は「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」と付け加える必要があった。この前提があって初めて、イエスの言葉は実を実らせることができ、イエスは自身の言葉が正確であることを人々に信じさせ、その信ぴょう性を増すことができた。このことは、神が普通の人の子となった時、神と人間の間には極めて不自然な関係があったこと、また人の子の状況は、極めて恥ずかしいものであったことを示している。またこのことは、当時、人間の中で主イエスの地位がどれほど低かったかも示している。イエスがこの言葉を述べた時、それは実際には、人々に対して「これはわたし自身の心にある言葉ではなく、あなたがたの心にいる神の旨であるから、安心してよい」と伝える言葉であった。人間にとって、これは皮肉なことではなかろうか。受肉して業を行う神には、神の本来の姿にはない多くの利点がある一方で、神は人間の疑念と拒絶や、人間の愚鈍さに耐えなければならなかった。人の子の業の過程は、人間からの拒絶を経験する過程、およびイエスと争う人間を経験する過程でもあった、と言えるであろう。それにもまして、この過程は、神の中にある物事や神の存在、そして神自身の本質により、人間の信頼を継続的に得て、人間を征服するよう努める過程であった。この過程は、受肉した神が地上でサタンを相手に戦っていた、というよりも、神は普通の人間になり、神に従う者たちと戦い、その戦いの中で、人の子が、自身の謙遜と自身の中にある物事や自身の存在、そして愛と知恵によりその業を遂行した、といったものであった。神は、神が求めていた人々を獲得し、神に相応しい身分と地位を獲得し、神の玉座に戻った。

 

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