賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

全能神の出現と働き——全能神教会の誕生と発展の歴史 第1部

2020-11-28 23:10:37 | 福音を証しするシリーズ

全能神の出現と働き——全能神教会の誕生と発展の歴史 第1部

    2千年前、主イエスは言われた。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)そして約束された。「わたしは、すぐに来る」(ヨハネの黙示録 22:7)クリスチャンは2千年の間、願い続け、待ち続けた。何世代にもわたって、主イエスの再来を切望してきた。救世主の到来と人類の完全なる救いを、あらゆる人間が熱望した。それは、世界が暗黒に包まれていた時代だった。神に抵抗するサタンの邪悪な力が最も激しく猛烈な時代だった。東の国、中国に夜明けが訪れたのだ。1991年、その特別な年に――受肉した人の子、全能神が出現した。真理を表し、働きを行うために家庭教会に姿を現わされたのだ。そしてまず、神の家から裁きの働きを開始された。

このドキュメンタリーはおもに、全能神が家庭教会のあいだに現われ、働きを行ない御言葉を発し始めた真の過程を記録しています。選民は全能神によるこれら現代の御言葉を分かち合う中で、徐々に真理を理解し、実践の道を得るとともに、聖霊が人類にもたらす喜びと自由を享受するようになりました。


これが真に善良な人である

2020-06-23 11:24:21 | 福音を証しするシリーズ

   私は子供の頃から常に、他人にどのように見られているか、どのように評価されているかということにとても重きを置いていました。私が行なうすべてのことに対して他人から称賛を得られるよう、他人が私に抱くよい印象が崩れてしまうのを避けるため、決して誰とも口論しませんでした。終わりの日における神様の働きを受け入れた後も、私はこのような状態のまま、兄弟姉妹が私に抱いていたよい印象をありとあらゆる手段を用いて維持してきました。以前、私がある働きを担当していた時、私の働き方はまるで「イエスマン」のようで、真理を実行している者の働き方ではないとよく指導者から言われたものでした。私はそれを気にするどころか、他人に善良な人だと思われていればそれで満足していました。

   ある日、私は次の一節を読みました。

 

 

   「神への信仰において真理を求めていなければ、たとえ過ちを犯しているように見えなくても、真に善良な人ではありません。真理を求めない人に正義感があるはずはなく、神が愛するものを愛することも、神が嫌うものを嫌うこともできません。このような人は絶対に神の側に立てず、まして神と相容れることなど不可能です。ならば、正義感のない人がどうして善良な人と呼ばれるのですか。世間の人々に「イエスマン」扱いされる人には正義感がなく、人生の目標もありません。絶対に他人を怒らせたくない人に過ぎませんが、そのような人に何の価値がありますか。真に善良な人とは、前向きなことを愛する人、真理を求め光を切望する人、善悪を区別できる人、そして人生の正しい目標をもつ人を指します。神はこのような人だけを愛されるのです」(『全能神教会の仕事計画の記録・選集』収録の「神に仕えるには人を識別できるようになる必要がある」より)。これらの言葉を読んだ後、私は突然光を目にしました。善良な人とは世間の人々と親しく言葉を交わす人、彼らと口論や喧嘩をしない人、または兄弟姉妹によい印象を与え、兄弟姉妹からよい評価を得られる人ではないことがわかりました。真に善良な人とは、前向きなことを愛し、真理と義を求め、人生において真の目標をもち、正義感があり、善悪を区別でき、神様が愛するものを愛し、神様が憎むものを憎み、自分の本分を尽くすことに進んで全力を注ぎ、自分のいのちを真理と義に捧げる意志と勇気をもつ人です。私自身の行いのどこに正義感があったでしょうか。兄弟姉妹が福音の伝道から戻り、どれだけ困難だったか話しているのを聞くと、私は葛藤を感じて不平を言い出し、福音の伝道は容易なことでなく、本当に難し過ぎると感じたり、無意識のうちに人の肉の側に立ったり、もう交わりをしたくないと感じたりせずにはいられませんでした。神様に対する観念が広まっているなどのことで教会が騒ぎになっていた時、状況が深刻であれば、巧みな言葉を使って交わりを行ない、その問題を解決しようとしていました。それが深刻でなければ、不適切な話し方が理由で他の人によく思われなくなることを恐れ、見ないふりをしてその問題をやり過ごしていました。私のパートナーが真理に何の関係もないことをしていたり、自分の置かれた環境を考えていなかったりするのを見ると、私は彼女とその問題について話し合いたいと感じつつも、「私がこの件を持ち出せば、彼女は我慢できるだろうか。こんなささいなことのせいで私たちのよい関係を傷つける価値はない。今度起こったらその時に話し合おう」などと考え、何とかその問題を切り抜ける言い訳を見つけていました。

   私は世俗の人にとっての善良な人、つまり世間の人々から見た「イエスマン」の条件を満たしているだけだったことに気づきました。つまり、他人を怒らせないことを望むばかりで、前向きなものを愛し、真理を求め、正義感をもつ、神様がお喜びになる善良な人とはまるで違っていたのです。私は他人の自分に対する印象を真理を得ることよりも重要であると考え、他人に称賛してもらうだけで満足していました。こんな私が人生の正しい目標を持つ人だったと言えるでしょうか。他人に称賛されることは、私に真理があることを表わすものでしょうか。他の人による高評価は、私がいのちを得たことを表わすものでしょうか。神様を信じながら真理や正義を求めず、自分の性質の変化を求めず、代わりにいつも自身の評判を追い求め、体面を保っているなら、それは神に従う上で何の役に立つでしょう。最後までこのように従い続けたところで、一体何を得られるでしょうか。私はとことん汚れた創造物にすぎませんでした。みんなに高く評価され、みんなの心の中で高い地位を占めていたとしたら、神様の地位を巡って争ったあの大天使と同じになっていたのではないでしょうか。神様の真の敵になっていたのではないでしょうか。このような人間は、死に価する罪を犯した者として神様の目に映るのではないでしょうか。神様が救い、完全になさるのは、真理と正義を求める、真に善良な人たちです。そのような人は、善悪の区別を見分けられず、愛と憎しみの違いが分からず、正義感もない無分別な者たちとは違います。まして、自身の評判だけを気にして神様に敵意を抱く悪人ではありません。世間の人々が善良な人とみなす姿を自分の行動規範にし続けていたら、私は神様による淘汰と懲罰の対象となっていたでしょう。

   ああ、神様。あなたの導きと啓きに感謝いたします。そのおかげで真に善良な人であるとはどういうことかが少しはわかり、それ以上に私自身の誤った思い込みや無知を目の当たりにし、自分の反抗と抵抗に気づくことができました。ああ、神様。今日から私は「真理を求めて正義感をもつ」という言葉を自分の行動規範とし、真理により深く入り、自分の性質の変化を求め、愛と憎みの違いを明確に理解して正義感をもつ、真に善良な人へとすぐになれるよう努力したいと思います


終わりの時のしるしは表れた──あなたは携挙されたか

2020-05-31 23:35:05 | 福音を証しするシリーズ

   今日、世界各地で大災害がますます激化しつつあります。ニュースは飢饉や地震、洪水、旱魃の記事であふれています。あなたは、主の再臨の預言は成就されたのになぜ私たちは主に迎えられていないのだろう、と心の中で考えたことはありますか?このようなことが続くなら大艱難が到来したとき、私たちも大災害に陥ることにならないでしょうか? 主は私たちを一体いつ天の御国に引き上げてくださるのでしょうか? 

   携挙されるとき、私たちは実際に空中に引き上げられるのか

   主の信者の多くは聖書の次のような言葉を読んでいます。

   「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(テサロニケ人への第一の手紙 4:17)

   信者は主が来られたとき空中に引き上げられ、主にお会いすることを待ち望んでいます。ところが実際は、この言葉は主イエスのお口から発せられたのでも、ヨハネの黙示録にある預言でもありません。使徒パウロの言葉にすぎないのです。主の来臨のお迎えに関して、パウロの言葉を信頼することは正しいのでしょうか? パウロの言葉は主の御言葉を表せるのでしょうか? 終わりの日の主がどう到着され、主を信じる者をどう神の国に連れて行かれるかということは、神ご自身の働きです。パウロは、主に代わってお告げを広めている使徒にすぎません。パウロはこのようなことをどうして知っていたのでしょうか? 主の到来をお迎えすることはとてつもなく重要な事柄であり、私たちにとって唯一正しいのは主イエスの御言葉を信頼することです。主イエスはこうおっしゃっています。

   「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 6: 9–10)

 ヨハネの黙示録には次のような預言もあります。

   「また、聖なる都、新しいエルサレムが、……神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、』」(ヨハネの黙示録 21:2-3)

   「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(ヨハネの黙示録 11:15)

 これらの預言の中にある、「天から下って来る」、「神の幕屋が人と共にあり」、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった」といった言葉は、神が地上に神の国を打ち立てるであろうことと、神が人のために用意された終着点も地上にあることを示しています。天に引き上げられたいという私たちの強い願望は、自らの観念や想像から生じているのではありませんか? そしてそれは、神から離れた道を歩くことになるのではありませんか?

   実際には、神が人々を空中に引き上げると言われたことはありません。それは神の働きの事実から確認できることです。神がはじめに土のちりで人を作ってエデンの園に置かれると、人はそこで暮らし神をしかるべき方法で崇めました。ノアの時代に神は、ノアとその家族が洪水を免れるよう彼らを空中に引き上げようともされませんでした。その代わり、地上での箱舟作りという実際的な行動をとるよう、ノアに命じられたのです。その後律法の時代に、人々は神の律法を破ったがために処刑される危険にさらされました。神は罪の贖いの供物を得るために人々を空中に引き上げるようなことはされず、神ご自身が肉となって地上に来られ、ここで人間のために自ら十字架に架けられ人間を罪から解放されました。こうしたことから、地上で人間を救うため、また人間が生活し、神を崇める中で導くために、神が絶えず働いておられることがわかります。空中に引き上げられたいという私たちの強い願望は、神の御心と明らかに食い違っているのです! 

   大患難の前の携挙とは何か

 皆さんの中には、「携挙される」ということが実際にどういうことかわからない、という人もいるでしょう。このことを理解するために、まず神がどんな御言葉を発されているのか見てみましょう。神はこのように言われています。

   「『引き上げられる』とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。『引き上げられる』とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「第百四章」より引用)

   この御言葉は、携挙されることは、私たちが想像するように空中に引き上げられて主にお会いすることではないと述べています。むしろ、神の声を聞いたあとにその新たな働きを受け入れて従えることと、子羊の足跡にぴったり歩調を合わせること、神が地上に来られて働きを行われるときにその御前に出ることを意味するのです。これが唯一の真の携挙です。主イエスが贖いの働きをされるために来られたときと、まったく同じなのです。ペテロもサマリア人の女性、ヤコブといった者も、主の御言葉を聞いたときはその声を聞き分けて、この方が来臨される救世主であると判断しました。その結果、恵みの時代に主の救いを受け、全員が主の御前に引き上げらました。 終わりの日に主の再来をお迎えし、神の現在の働きを受け入れる者はみな、子羊の足跡を追う者であり、主の御前に引き上げられる者なのです! 

   どうすれば大患難の前に携挙されるか

 では、主をお迎えして大災難の前に携挙されるためには、一体どうしたらよいのでしょう? このことは、はるか昔に聖書の中で主イエスが次のように言われたときに預言されています。

   「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)

   ヨハネの黙示録の第2、第3章には、預言が再三登場します。

   「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

   第3章20節でもこう述べられています。

   「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

   神の御言葉はこう告げています。

   「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より引用)神の御言葉は、私たちが主をお迎えしたいなら、神の働きと御言葉を探求することが鍵となると語っています。今日教会に向けた聖霊の御言葉がどこにあるのか、今日神の現れと働きがどこにあるのかを探すことほど重要なことはありません。もし私たちが自分から神の足跡を探そうとせず、神の声を聞くことを重視もせず、その代わり空の雲をぼんやりと見つめて、主が来られて自分を空中に引き上げられるのを無為に待っているとしたら、そうした思いは空想になるのではないですか? そして永遠に主をお迎えできず、最終的に神に携挙されるチャンスを逸することになりはしないでしょうか? 

 では主の足跡はどこにあるのでしょう? また神はどこで御言葉を発されているのでしょう? 今日全能神教会だけが人類に対し公に、主がすでに再来されていることを証ししています。つまりそれは、終わりの日の受肉した神である、全能神なのです。全能神は何百万語もの御言葉を述べられ、多くの真理と奥義を啓示されるともに、私たちのために神の六千年の経営計画や受肉の奥義、聖書の奥義を明らかにされています。さらにまた人を裁き、本性を暴く御言葉を述べられ、サタンの手による私たちの堕落と私たちのさまざまなサタン的な本性について真実を明らかにされています。私たちは神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れることにより、自らの堕落に気づくと同時に、自分の示す一切のものが傲慢、わがまま、下劣さ、不誠実さ、ずる賢さといったサタン的な性質で、良心と理知が欠けていることを自覚するようになります。私たちは神の御言葉を完全に確信し、後悔にうちのめされて神の御前にひれ伏し、神の義で聖なる性質についていくらか認識を得ます。すると私たちの中で神への畏敬と服従の念が生じ、全能神によって表される全てが真理で、人々を清め変えることができることを心の内側から確信するのです。

 今日、全能神の御言葉は人類の間で広がっています。キリスト教のさまざまな宗派に属していても、真の信者で真理を心から愛する多くの人は、神の声を聞いて神の御言葉により覚醒し、その御座の前に戻っています。そうした人々は神の御言葉の水と糧を浴びて、こうした御言葉にいかに権威と力があるのかを悟り、全能神は主イエスの再臨であると判断しています。彼らは大艱難の前に携挙される人々なのです! 全能神の御言葉を読みましょう。

   「わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、『ユダヤ人の息子』ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた『赤児』である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。」(『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より引用)

 この神の御言葉を読んでどう思いますか? 胸が踊りませんか? 創造主が人類全体に対して話されていることだと思いますか? 神はすでに再来したと、神が私たちに今証言されていると思いますか? あなたがどう思おうと、私たちの前には差し迫った課題があります。思慮深い処女となり、全能神が語られた御言葉に耳を傾け、先入観をもたずに終わりの日の神の働きを探求しなければなりません。大患難の前に携挙される道は他にないのです!


逆境の最中に神の愛を味わう

2020-01-24 13:18:44 | 福音を証しするシリーズ

  私は1980年代にある村で生まれ、一家は代々続く農家でした。大学に進んで貧しく遅れた村の生活から抜け出そうと、私は学業に没頭しました。高校に入って「西洋美術史」と出会い、「創世記」「エデンの園」「最後の晩餐」など数々の美しい絵画を目にしたとき、宇宙には万物を創造なさった神がいらっしゃるのだと初めて気づきました。私は神への憧れで心が一杯になるのを抑えられませんでした。大学卒業後はよい仕事をたやすく見つけ、素晴らしい伴侶を得ました。ようやく自分の願いと先祖の希望が叶ったのです。私は地面を相手に働く先祖代々の農業生活から逃れ、2008年に子供が生まれると、人生はさらなる喜びに満ち溢れました。人生で得たすべてのものを見渡しながら、自分は幸せで快適な人生を送るに違いないと信じました。しかし、人も羨む美しい生活を送る一方で、心の奥にある漠然とした虚しさを振り払うことができませんでした。それは私をとても困惑させ、無力感を覚えさせたのです。

  2008年11月、家族が全能神の終わりの日の福音について教えてくれました。神の御言葉を通して、神が人類のいのちの源でいらっしゃること、神の御言葉が私たちのいのちの活力であり、柱であることをようやく理解しました。神から私たちのいのちへ授かった糧と滋養を捨ててしまうと、私たちの心は空虚で孤独なものとなり、物質的な喜びをどれほど得たところで、心と霊が必要とするものを満たすことは決してできないのです。全能神も次のようにおっしゃっています。

  「人間は結局、人間に過ぎない。神の地位といのちに取って代われる人間はいない。人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の欲求、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)神の御言葉は砂漠のオアシスのように私の心と霊を洗い流し、心の混乱を解放しました。このとき以来、私は強い飢えと乾きを癒やすように神の御言葉を読み、心がようやく故郷に戻ってきたような、言葉では表わせない安心感を常に覚えました。それから程なくして、教会の取り計らいによって数名の兄弟姉妹と会うようになりましたが、彼らはどんな悪天候でも絶えず私に会いに来てくれました。その頃、私は多くのことを理解していませんでしたが、彼らはいつも辛抱強く私と交わってくれました。かすかな苛立ちを見せることも、私に調子を合わせることもなかったので、これらの兄弟姉妹の誠実さと愛を深く感じました。より多くの真理を理解するにつれ、人類をお救いになる神の切実な希望を理解し始めました。また、兄弟姉妹がとても熱心に自分を費やし、神の福音を伝えていることもわかりました。私も自分の本分を尽くしたいと思いましたが、子供が小さく面倒を見てくれる人が他にいなかったため、道を開いてくださるよう神に祈るだけでした。その後、幼稚園を運営している姉妹がいることを聞き、彼女のもとに子供を預けることにしました。彼女はためらうことなく子供の世話を手伝うと約束してくれたうえ、学費や食費さえ受け取りませんでした。そのときから、この姉妹は日中だけでなく夜間も子供の世話を手伝ってくれました。私はこの姉妹の行動に深く感動しましたが、これはすべて神の愛から来ているものだと知っていました。神の愛に報いるため、私はためらうことなく福音を宣べ伝える活動に加わりました。福音を伝えていると、神の輝きに照らされておらず、悲しい状況にいる人たちを次々と目にしました。彼らの辛い人生の嘆きを聞き、彼らが神による終わりの日の救いについて知った後、その顔が喜びと幸福で満たされるのも目の当たりにしました。このことは、私の福音伝道への情熱をよりいっそう駆り立てました。そして私は、暗闇の中で暮らし光に飢えているより多くの人々に神の福音をもたらす決意をしました。しかし、ちょうどその頃、中国共産党政府が兄弟姉妹への厳しい弾圧と追及を開始し、私もこの災難を受けることになりました。

  それは2012年12月21日の午前のことでした。十数人の兄弟姉妹があるホストファミリー宅で集会をしていると、突然ドアをけたたましくノックする音と、怒鳴り声が聞こえました。「ドアを開けろ!ドアを開けろ!家宅捜索だ!」姉妹の1人がドアを開けると、6、7人の警官が警棒を振り回しながら突入してきました。彼らは私たちの間に乱暴に分け入り、引き出しをあさり始めました。若い姉妹が進み出て、「私たちは友人の家に集まっていただけで、違法行為はしていません。どうして家宅捜索しているのですか」と尋ねると、その警官は強い口調で「言うことを聞け!俺たちがそこに立ってろと言ったら、そこに立ってるんだ。俺たちが話せと命じてないなら、黙っていろ!」と答えました。そして彼女を乱暴に床に投げ飛ばすと、「反抗する奴は叩きのめしてやる!」と怒鳴りました。彼女の爪は割れていて、指から出血していました。警官の悪意に満ちた顔を見て憎しみと恐怖を感じた私は、私に強さと自信を与え、神の証しに立てるよう私をお守りくださいと、心の中で神に祈りました。祈り終えると心がかなり落ち着きました。警官は伝道に使う資料と神の御言葉の書籍を多数押収し、私たちをパトカーへと追い立てました。

  警察署に着くやいなや、警察は私たちの所持品をすべて押収し、名前と住所を訊いたあと、教会のリーダーは誰かと問いました。私は家族を巻き込むことを恐れて何も話さず、もう1人の姉妹も無言でした。そのため、警察は私たちがリーダーだと考え、別々に尋問する準備を始めました。そのとき、私は強い恐怖を感じました。警察は地元以外の人間が相手だと特に残酷になると聞いており、その自分が尋問対象とされたのです。それは間違いなく、残忍な行為と不運を意味していました。私が心を乱して恐怖に陥っていると、すぐそばにいた姉妹が「神よ、あなたは私たちの岩であり、私たちの避難所です。サタンはあなたの足元にひれ伏す存在で、私はあなたの御言葉に従って生き、証を立ててあなたに満足していただきます」と祈るのが聞こえました。それを聞いて心が明るくなり、次のように考えました。「その通りだ。神は私たちの岩でいらっしゃり、サタンは神の足元にひれ伏す存在だ。何を恐れる必要があるだろう。神に頼り、神に協力する限り、サタンを打ち負かすことができるだろう」突然、私は恐怖を感じなくなり、それと同時に恥ずかしさを覚えました。この姉妹はこんな状況に遭遇しても神の御言葉に頼って生きることができ、神への信頼を失っていません。一方の私は臆病で意気地なしです。神を信じる者の気骨がまったくないのです。神の愛と、私を力づけ助けてくれたその姉妹の祈りのおかげで、私は警察の横暴な力に対する恐れを感じなくなりました。そして心の中で次のように決心しました。「今日、私は逮捕されたけれど、きっと証しを立てて神に満足していただこう。神を失望させる臆病者には決してならないわ」。

  10時頃、2名の警官が私に手錠をかけ、私だけを尋問室に連行しました。警官の1人が地元の方言で話しかけましたが私には理解できず、何と言ったのかと聞き返しました。すると意外にも、この質問に警官たちは激怒しました。警官の1人が叫びながら立ち上がり、「お前は俺たちを尊敬していない!」と怒鳴りながら私のほうに駆けてきて、髪の毛を掴んで頭を前後に揺さぶりました。私はめまいを感じてひっくり返り、頭皮が剥がれて髪が引き抜かれたような気がしました。その直後、今度は別の警官が私のもとに駆け寄り、「痛い目に遭わせなきゃならんようだな。白状しろ!誰に言われて福音を伝道したんだ」と叫びました。私は怒り心頭で、「福音の伝道は私の本分よ」と答えました。そう口にした瞬間、最初の警官が再び私の髪を掴んで顔を平手打ちしながら、「それならもっと伝道させてやるぞ!もっと伝道させてやる!」と怒鳴りました。そして、私の頬が赤かぶのように赤くなり、痛みがこもり、腫れ上がるまで、彼は殴り続けました。殴り疲れると私を放し、私から発見した携帯電話とMP4プレーヤーを取り上げて、教会に関する情報を聞き出そうとしました。私は知恵を絞って彼らに対処しようとしましたが、1人の警官が出し抜けに「お前はここの人間ではないな。お前の北京語は流暢すぎる。明らかにそこら辺の奴とは違う。正直に言え!なぜここに来た。誰に送られた。お前たちのリーダーは誰だ。ここの教会にどのように接触したんだ。お前の住所はどこだ」と訊きました。警官たちが私を重要人物とみなし、あくまで私から教会の情報を聞き出そうとするのを耳にして、口から心臓が飛び出そうになりました。そこで自信と力を与えてくださるよう神に求めました。祈りのおかげで心が次第に落ち着き、「私は何も知りません。」と答えました。その返事を聞くと、彼らは激しくテーブルを叩いて「ちょっと待ってろ。すぐに思い知らせてやる!」と叫びました。そして私のMP4プレーヤーを取り上げ、再生ボタンを押しました。私はとても怖くなりました。彼らがどんな手段を使って私を取り扱おうとしているのかがわからず、急いで神様を呼び求めました。いのちへの入りに関する交わりがここで再生されるとは思ってもいなかったのです。「あなたがたは、そのような人間が救われると思っているのですか。そのような人はキリストへの献身がなく、キリストと心を一つにしていません。そのような人は試練に遭遇すると、キリストから離れて独自の道を進みます。神に背を向けてサタンに従うのです……赤い大きな竜の治世で神の働きを経験するあいだ、赤い大きな竜に背を向けて神の側に立てるならば、どのような迫害や追及や抑圧があろうと、神に絶対的に従い、死ぬまで神に身を捧げることができます。このような人だけが「勝利者」と呼ばれるにふさわしく、神と心を共にしている人と呼ばれるにふさわしいのです(『いのちへの入りに関する説教と交わり IV』収録の「救われて完全にされるために入らなければならない神の御言葉の10の現実」より)。「キリストから離れ」という言葉を聞いて、心が刺されたように痛みました。主イエスが働きをなさっていたとき、主に従ってそのお恵みを享受した人は数多くいたものの、主が十字架にかけられ、ローマの兵士がクリスチャンをこぞって捕縛し始めると、多くの人が恐怖のために逃げ出したことを思い出さずにはいられませんでした。それは神に大きな痛みをもたらしたのです。しかし、これら恩知らずな人々と私の違いは何でしょうか。私は神のお恵みと祝福を享受し、自分は神に従っていると信じ切っていました。しかし、苦しんで代価を払うことが必要な試練に直面すると、臆病になって恐怖を覚えたのです。それでどうして神に安心していただけるでしょうか。無神論者が支配する国、中国で受肉なさることは大きな危険を伴うことを、神は明確にご存じだったにもかかわらず、堕落した私たち人間を救うべく、ためらうことなくこの悪魔の地へとおいでになり、追及と断罪に耐え、自ら私たちを真理の追求の道へと導いてくださった事実について考えました。神が私たちを救うために進んですべてを犠牲になさり、すべてをお捨てになるのを目の当たりにして、神の救いというお恵みを享受している私のような人が、どうしてわずかばかりの代価を払えないのでしょうか。私は良心の呵責を感じ、自分がとても自分勝手で無価値なことを憎みました。また、神が私への期待と心配に満ち溢れていらっしゃることを私は深く実感しました。私の霊的背丈が未熟であり、サタンの横暴に直面して恐れを感じていることを、神はよくご存じなのです。神は警官に録音を再生させるという形でそれを私にお聞かせになり、ご自身の御心を理解できるようになさることで、私が試練と抑圧の最中で神の証しを立て、神に満足していただけるようになさいました。しばらくのあいだ、神の愛にとても感動して涙が溢れ出ました。そして心の中で次のようにお伝えしました。「あぁ、神よ。私はあなたから離れてあなたを傷つける人にはなりたくありません。喜びのときも悲しみのときも、あなたと共にいたいのです。いかにサタンが私を拷問しようと、私はあなたの証しを立て、あなたに安心していただくことを決意しました」。

  そのとき、警官がプレーヤーを止めると同時にばたんと音がし、警官たちが私のほうに駆け寄ったかと思うと憎々しげに、「その通りだ。俺は赤い大きな竜で、今日はお前を拷問するためにやって来たんだ」と言いました。それから地面に裸足で立つよう命じ、コンクリートブロックの真ん中に固定された鉄の輪に私の右手を拘束しました。ブロックがとても小さいので、中腰の姿勢にならざるを得ません。警官たちは私がしゃがむことも、左手を使って脚を支えることも許しませんでした。しばらくすると立っていられず、しゃがみたいと思いましたが、警官が私に近づき「しゃがむな!苦しみたくないならさっさと白状しろ!」と怒鳴りました。私は歯を食いしばって耐えることしかできませんでした。それからどれくらい時間が経ったでしょう。足は氷のように冷たくなり、脚は痛み、痺れ、どうしてもそれ以上立っていられずしゃがみこんでしまいました。すると警官は私を掴みあげ、コップ一杯の冷水を持ってきて私の首にかけました。あまりにも冷たくて身体が震えだしました。そして警官は私の手錠を外して木の椅子に突き飛ばすようにして座らせると、両手を椅子の両端に拘束し、窓を開けてエアコンをつけました。冷たい突風が吹き込み、寒さに震えが止まりません。心が弱るのを抑えられませんでしたが、この苦しみの最中、私はひたすら祈り続け、この痛みを耐える意志と強さを私に与え、肉の弱さに打ち勝たせてくださるよう神に懇願しました。まさにそのとき、神の御言葉が内側から私を導いたのです。「たとえあなたの体が苦しみに耐えている時でも、サタンによる思いを受け入れてはならない。…信仰とは一本の丸太橋のようものである。卑屈になって命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを進んで犠牲にする者には不安なく渡ることができる。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第六章」より)神の御言葉のおかげで、サタンは私に神を裏切らせるべく私の肉を拷問しようとしていることと、肉のことを少しでも気にかければサタンの策略にはまってしまうことがわかりました。私はこの2つの文章を頭の中で繰り返し反芻し、サタンの策略に用心してその考えを拒否しなければならないと自分に言い聞かせました。その後、警官は大きなやかんに入った冷水を持ってきて、私の首に残らずかけました。衣服がすっかりびしょ濡れになり、その瞬間、まるで氷室の中に落ちたかのように感じました。あまりにも卑劣で邪悪な警官を見て私は怒りで一杯になり、次のように考えました。「この悪魔の群れはあらゆる手段を用いて私に神を裏切らせようとしている。絶対にその企みを成功させるわけにはいかない」私がひどく震えているのを見た警官は私の髪を鷲掴みにして窓から空を見上げさせ、嘲るように「寒いんだろう。だったら神に助けてもらえよ」と言いました。私が無反応なのを見ると、再びやかん一杯の冷水を私に浴びせ、エアコンを最低温度に設定し、その風が直接私に当たるようにしました。骨を突き刺すような突風が何度も吹き込み、エアコンの冷風も私を襲います。私はあまりの寒さに身体を丸め、あたかも凍った塊のようになりました。全身が硬直してしまったような感じです。私の自信は少しずつ揺らいでいき、馬鹿げたことを考えずにはいられませんでした。「奴らはこんな寒い日に冷水を浴びせ、冷房をつけた。私を生きたまま凍らせようとしているのか。私がここで死んでも、親戚は知るよしもないだろう」私が暗闇に落ちゆく中、イエスが人類を贖われるべく十字架にかけられながら耐えた苦しみのことが突然頭に浮かびました。そして、次の神の御言葉を思い出しました。「精錬を経た愛は強く、弱くはない。いつ、どのように神があなたを試練にあわせるかにかかわらず、あなたは自らの生死に悩むことなく、喜んで神のためにすべてを捨て、神のためにどんなことでも耐えることができる。かくして、あなたの愛は純粋になり、信仰は真となるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「精錬を経ることによってのみ、人は真に神を愛することができる」より)神からのこれらの御言葉は私を心底刺激しました。そうです!神の証しを立てられる日には、神が私をすくい上げてくださる。肉のことなどどうして気にしていられるでしょうか。たとえそれが命を失うことを意味するとしても、私は神に忠実でいようと決心しました。すると突然、心の中にこみ上げるものがあり、大いに元気づけられました。私は無言で神に祈りました。「あぁ、神よ。あなたは私にこの息を授けてくださいました。いのちに執着してあなたを裏切った者として生きるぐらいなら死んだ方がましです」徐々にそれほど寒さを感じなくなり、神がそばにいらっしゃって私を慰めてくださるのを実感しました。正午から夜7時まで、警察は休むことなく尋問を続けました。私がまったく口を開かないのを見た彼らは尋問室に私を閉じ込め、冷気が直接私に当たるようにし続けました。

  夕食後、警察の尋問は一層厳しくなりました。警官たちは悪意も露わに、「話すんだ!お前たちの教会のリーダーは誰だ。言わないなら手段は他にもある。唐辛子の絞り汁と石鹸水を混ぜたものをお前に飲ませ、糞を食わせ、裸のまま地下室に閉じ込め、そのまま凍死させてやる!今日話さなければ、明日もう一度訊いてやる。時間はいくらでもあるからな」と脅しました。警官がこのように言ったことで、彼らは人間ではなく、人間の皮を被った悪魔の群れであることがはっきり分かりました。彼らがこんな風に脅せば脅すほど、私は心から彼らを憎み、絶対に屈するものかと決意が新たになりました。私が屈しないのを見た彼らは布袋を見つけてきてそれを水に浸し、私の頭に被せました。そしてそれを私の頭部に押し付け、私を動けないようにしてからそれを縛り付けました。両手が手錠で椅子につながれているので、まったく身動きできません。間もなく、私は窒息しそうになりました。全身がこわばるのを感じましたが、それでも警官たちの憎悪が消えることはありませんでした。彼らは冷水の入ったやかんを持ち、口を割らなければ窒息死するぞと言いながら、冷水を私の鼻に注ぎました。濡れた布袋が空気を通さないのに、そのうえ鼻に水を注いだのです。呼吸するのも難しく、死がそこまで迫っているように感じました。私は無言で神に祈りました。「ああ、神よ。私のこの息はあなたが私に授けられたものです。そして今日、私はあなたのために生きなければなりません。いかに警察が私を拷問しようと、けっしてあなたを裏切りません。私のいのちを犠牲にせよとおっしゃるなら、一言たりとも不満を漏らさず、あなたの御旨と采配に喜んで従います……」警官たちはなおも拷問を続けました。私が意識を失って呼吸が止まろうとしたまさにそのとき、彼らは突然その手を放しました。私は心の中で神に感謝せずにいられませんでした。神が万物の主でいらっしゃること、常に私を見守っていらっしゃること、そして私が警察の手に落ちたとしても、肉への拷問はお許しになるものの、いのちまでは奪わせないことを身をもって体験したのです。その後、私は自信を深めました。

  翌日の正午頃、数名の警官が私ともう一人の姉妹をパトカーに乗せて拘置所に連行しました。警官の1人が脅すようにこう言いました。「お前はこの辺の人間じゃない。お前を6ヶ月拘束してから、3年ないし5年の禁固刑にしてやる。いずれにしても、誰も知るよしはないだろう」「禁固刑?」自分が刑罰を受けると聞いて、私は弱くならずにはいられませんでした。服役したら他人に見下されるだろうと思ったのです。苦痛と弱さを感じていると、神が再びそのお恵みを示してくださいました。同じ雑居房の囚人が全員、全能神を信じる姉妹だったのです。彼女たちは悪魔の巣窟にいても、恐れている様子を少しも見せませんでした。互いに励まし、支え合っていたのです。私が否定的になって弱っているのを見ると、自分の経験を話して証しをし、神への信頼を与えてくれました。また経験に関する次の賛美歌を歌い、私を励ましてくれました。

  「人類を救うため、神は謙って肉となられ、各段階を導き、教会の間を歩み、真理を表し、丹念に水を注いで人を清め、完全にする。私は試練の苦みを味わい、神の裁きを受けた。苦みの後には甘みが訪れ、私の堕落は清められた。私は神の愛に報いるため、心と体を捧げる。神は幾度も春、夏、秋、冬を見てこられた。苦みも甘みも共に味わいながら…。神は後悔することなく全てを犠牲にし、ご自身を無にして愛を与えられた。私は試練の苦みを味わい、神の裁きを受けた。苦みの後には甘みが訪れ、私の堕落は清められた。私は神の愛に報いるため、心と体を捧げる。愛する人々は私を捨て、他の人々は私を中傷したが、神への私の愛は最後まで揺るがない。私はひたむきに神の御心に従う。私は迫害や苦難に耐え、人生の浮き沈みを経験する。私が人生でこれに耐え、人生が苦みに満ちているのは重要ではない。私は神に従い、神を証ししないといけない。私は試練の苦みを味わい、神の裁きを受けた。苦みの後には甘みが訪れ、私の堕落は清められた。私は神の愛に報いるため、心と体を捧げる。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の愛に報いることと神の証人となること」より)この賛美歌について考えているうち、これら姉妹からのいのちの力を感じ、私は大いに励まされました。賛美歌のとおり、私たちは真の神に従い、神を敵とみなす無神論政党が支配する国で、正しいいのちの道を歩んでいるのです。私たちは数多くの苦難を経験するよう運命づけられていますが、そのすべてに意義があり、監獄にいるのさえ輝かしいことです。なぜなら、私たちは真理を追い求めて神の道に従うために迫害されているのですから。世俗の人々が恐ろしい罪を犯して投獄されているのとはまったくわけが違います。そして、真の道を守るために迫害と屈辱を受けた歴代の聖徒のことを考えました。しかし現在、私は数多くの神の御言葉を無償で提供され、何世代もの人々が理解できなかった真理を理解し、彼らが知りえなかった奥義を知っています。それなのに、どうして少しばかりの苦しみに耐えて神の証しをすることができないのでしょう。こう考えたとき、私は弱さの状態から再び這い上がり、心は自信と強さに溢れていました。そして神に頼り、毅然たる態度で、明日の拷問と自白の強要に臨む決意をしました。

  それから10日後、警察は私だけを別の拘置所に連行しました。そこに拘束されていたのは全員、詐欺や泥棒、違法ビジネスの罪を犯した人達でした。私が監房に入ると、彼女たちは「ここに入ったらよほどのことがない限り出られない。あたしたちはみんな判決を待ってる。中には数ヶ月待ち続けている奴もいるわ」と言いました。私はこの囚人たちを見て、不安のあまり心が張り裂けそうになりました。ひどい扱いをされるのではないかと怖くなったのです。そして、警察が私を彼女たちと同じ監房に入れたということは、きっと自分に重罪の判決が下るのだろうと考えました。8年間も投獄された兄弟姉妹がいるという話を聞いたことがありました。私の刑期はどのくらいになるのでしょう。まだ29歳だというのに。この暗い牢屋の中で老いていくなんて。これからの日々はどうなるのだろう。その瞬間、故郷、両親、夫、そして子供が突然ひどく遠くに行ってしまったかのように思えました。まるで心をナイフでえぐられたかのようで、目に涙が溢れました。自分がサタンの策略にはまったことは知っていたので、神に必死で呼びかけました。神が私をお導きになってこの苦しみから逃れることを望んだのです。祈りのさなか、「これに立ち向かうとき、あなたは神の許しを得ている。試練を受けたヨブのように不平を言うな」と、心の中で明確なお導きを感じました。その瞬間、神の御言葉が私を再び啓いたのです。「あなたはむしろわたしのすべての取り決め(たとえそれが死であっても、あるいは滅びることであっても)に服従するか、それとも、わたしの刑罰を避けるために途中で逃げ出すか。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より)神の御言葉の裁きと刑罰に私は恥ずかしくなりました。自分は神に対して少しも誠実でないのに、口では素晴らしい神の証しを立てたいと言っていたことに気づいたのです。しかし、投獄されるという厄災が実際我が身に降りかかると、私は逃げることだけを望みました。真理のために苦しむ実際の能力はこれっぽっちもありません。逮捕されたときのことを思い返すと、神は常に私のそばにいらっしゃいました。その間ずっと、私が自分の道を失ったり、道で躓いたりするのではないかとご心配になり、決して私をお見捨てになりませんでした。神の私への愛はまことに誠実で、まったく空虚ではありません。しかし、私は身勝手で、自己中心的で、自分の肉の損得ばかり考えていました。進んで神のために代価を払おうとしなかったのです。どうして私に人間性や良心があるでしょうか。そう考えると後悔と負い目で一杯になりました。私は無言で神に祈り、悔い改めました。「ああ、神様。私は間違っていました。これ以上あなたを口先で褒めて欺くことはできません。私は進んで現実を生き、あなたに満足していただきます。判決がいかなるものになろうとも、必ずあなたの証しを立てます。あなたが私の心を守ってくださることだけをお願いいたします」ちょうどそのとき、リーダー格の囚人が私のそばに来て、「なぜあんたがここにいるのかはわからないけど、あたしたちの間では、『休みたくて自白すれば、死ぬまで刑期を勤めることになる。激しく抵抗すれば、自分の人生を生きられる』って格言があるのよ。話したくないなら話しちゃだめよ」と話してくれました。リーダー格の囚人を通して私に授けられたこの信じられないような采配と知恵に対し、私は神に感謝しました。神はそうなさることで、続く尋問にどう対処すべきかを私が知るようになさったのです。また、他の囚人も私をいじめなかったばかりか、衣服をくれたり、食事の時間に多目によそってくれたり、自分たちが買った果物やお菓子を分けてくれたりするなど、私の面倒を見てくれた上、日々の労働でも私を助けてくれたことに感謝しました。これらがいずれも神の御旨にして采配であることはわかっていました。私の霊的背丈が子供のように低いことに対する神の思いやりだったのです。神の愛とご加護を目の当たりにし、私は決心しました。「刑期がいかに長くなろうと、神の証しを立てよう!」

  この拘置所では数日おきに警察の尋問を受けました。厳しくしても効き目がないと見た警察は、今度は下手に出始めました。尋問していた警官がわざと気楽な態度を装って私と雑談し、おいしい食べ物を与えたうえ、良い仕事を探す手伝いができると言いだしたのです。これはサタンの策略だとわかっていたので、彼が尋問するたび私は神に祈り、これらの策略にはまることがないようどうかお守りくださいとお願いしました。尋問中、この警官はついに邪悪な意図を見せました。「俺たちはお前に文句があるわけじゃない。ただ全能神教会を取り締まりたいだけなんだ。協力してくれ」この邪悪な言葉を聞いて私は心から怒りを感じ、次のように考えました。「神は人間を創造なさり、現在までずっと私たちに糧を施し、導いてこられた。そしていま、神はご自身がお作りになった人々を救い、私たちが苦しみの深淵から逃れる手助けをなさるべくおいでになった。いったいそのどこがいけないの。これらの悪魔にここまで憎まれ、中傷されなければならないのはなぜなの。私たちは神の被造物。神に従い、神を崇拝するのは正しく適切なこと。それなのに、サタンはなぜ私たちをこのように妨害し、神に従う自由さえ奪おうとするの。いま、彼らは神を打ち倒そうと躍起になる中で、私を操り人形にしようとしている。中国共産党政府はまさに、断固として神に逆らう悪魔の群れだわ。本当に邪悪な反動主義者よ!」そのとき、筆舌に尽くし難いほど心が痛み、神の証しを立ててそのお心を安らげることしか望みませんでした。なおも私が話そうとしないのを見ると、警察は心理的な手段を使ってきました。チャイナモバイル社経由で私の夫を探し出し、子供と一緒に説得のためによこしたのです。もともと、夫は私の神への信仰を気にしていませんでしたが、警察に騙されて何度も私に、「頼むから信仰を諦めてくれ。私のことはともかく、少なくとも子供のことを考えてくれ。母親が刑務所にいるなんて、この子にどれほどひどい影響を与えるか……」と言いました。夫は無知のせいでこのようなことを言っているのだと、私にはわかっていました。そこで夫の話を遮り、次のように言いました。「あなたはまだ私を理解していないの。私たちは長年一緒に暮らしてきたのよ。あなたはいつ、私が何か邪悪なことをしたのを見たっていうの。何もわかってないなら黙ってて」何を言っても私の心が変わらないのを見ると、夫は冷たい言葉を言い放ちました。「そんなに頑固で聞く耳を持たないなら、離婚だ!」「離婚」の一言は私の心を深く突き刺しました。そのせいで、私は中国共産党をいっそう憎むようになりました。夫が神の働きをこのように憎み、これほど心無い言葉を私に投げつけたのは、彼らが中傷し、不和の種を蒔いたからです。中国共産党政府こそ、天に背くよう一般の人々に呼びかける罪人です。また、私たちの夫婦としての感情を傷つけた罪人でもあるのです。そう考えると、もう何も夫に言いたくなくなりました。そして静かに、「だったら急いで子供を家に連れて帰ってください」と言いました。この作戦がうまく行かなかったのを見た警官は怒りのあまり机の回りを行ったり来たりしながら、私に「俺たちがこんなに努力しているのに、何一つお前から答えを引き出していない!あくまでこのまま口を割らないなら、お前をこの地域のリーダー、政治犯とみなす!今日話さなければもうチャンスはないぞ!」と叫ぶように言いました。しかし、彼らがどれだけ怒鳴り散らそうと、私は心の中で神に祈り、私の信仰を強くしてくださいとお願いするだけでした。

  尋問中、神の御言葉の賛美歌が私を内側から導き続けてくれました。「大きな信仰と大きな愛がこの働きの段階で要求される。不注意ならつまずくかもしれない。なぜならこの業は前と違うから、神が完全にするのは人の信仰である。人はそれを見ることも触れることもできない。神は言葉を信仰と愛と命に変える。神が完全にするのは人の信仰だ。人は幾多もの鍛錬に耐え、ヨブより大きな信仰を持たねばならず、大きな苦難を受けねばならない。それでも神から離れることなく、神が完全にするのは人の信仰である。人はそれを見ることも触れることもできない、神は言葉を信仰と愛と命に変える。神が完全にするのは人の信仰だ。人が大きな信仰を持ち、死に至るまで従順なら、神の業のこの段階は完成する。それはあなたが思うほど容易ではない。人の観念に合わないほどその意義は深くなる。これを注意して考慮せよ!」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神が完全にするのは信仰である」より)神の御言葉から受け取った信仰と強さのおかげで、尋問中、私は非常に断固たる態度を取ることができました。しかし監房に戻ると、いささか弱くなって傷ついた気持ちを抑えることができませんでした。「夫は本当に私と離婚するつもりのようだわ。そうしたらもう帰る家はない」また刑期がどのくらいになるかも見当がつきませんでした。この痛みの中、神からの次の御言葉が頭に浮かびました。「あなたは当時のペテロの気持ちを体験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来もどんな祝福も求めることはなかった。彼は利益、幸福、名声、世の富などを求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけを求めた。それは神の愛に答え、彼にとって最も、最も貴重なものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より)ペテロの偉業は私を深く感動させるとともに、すべてを捨てて神に満足していただく私の志をかき立てました。その通りです。ペテロは悲しみが極限に達したときも、それに耐えて神に満足していただくことができました。それは彼自身の見通しや運命のためでも、彼自身の益のためでもありません。そして最後は十字架に逆さ吊りにされましたが、そのときも神の証しを立てる立派な証人として振る舞いました。一方、私は幸運にも受肉した神に従い、私のいのちに対する神の無限の糧とお恵みと祝福を享受しながら、神のために本当の代価を払ったことは一度もありませんでした。そして私が神の証しを立てることを神が必要となさっているいま、その一度だけでも私は神に満足していただくことができないのでしょうか。この機会を逃してしまえば、一生後悔することにならないでしょうか。そう考えた私は神の御前で決意しました。「ああ、神よ。私は喜んでペテロの例にならいます。どのような結果になろうと、たとえ離婚されることになっても、監獄で刑期を勤めることになっても、私は決してあなたを裏切りません!」祈り終えると体の芯から強さが湧き上がってくるのを感じました。有罪になるのか、刑期はどのくらいになるのか、家に帰れるのか、家族と再会できるのかといったことはもはや考えから消えました。悪魔の巣窟での1日は神の証しを立てる1日だと、それだけを考えるようになったのです。一生刑務所で暮らすことになったとしても、決してサタンに屈しません。自分を捨てた瞬間、神の愛と愛情を本当に味わうことができました。それから数日経ったある日の午後、看守が突然、「荷物をまとめろ。家に帰っていい」と言いました。私は自分の耳を疑いました。釈放される前、警察は一枚の書類に署名するよう私に言いました。その書類にははっきりと、「証拠不十分にて無罪。釈放」と記載されていたのです。私はこれを見てとてつもなく興奮しました。「自らを進んで犠牲にする者には不安なく渡ることができる。」という神の全能性と誠実さを目の当たりにしたのです。この霊の戦争でサタンは戦いに敗れ、最後に勝利なさったのは神でした!

  36日間拘束されて中国警察から迫害を受けた後、私は残酷な専制政治と、中国共産党政府の反抗的で反動的な本質を真に理解しました。このとき以来、私は政府を深く憎悪するようになりました。この逆境のさなか、神はずっと私のそばにいらっしゃり、私を啓いて導き、私がサタンの残忍さと試練を克服できるようにしてくださったのです。これにより、神の御言葉はまさに人のいのちであり、私たちの強さであるという事実を真の意味で経験することができました。また、神は私たちの主でいらっしゃり、万物を支配なさり、サタンにどれほど多くの策略があっても、常に神に打ち負かされることを真に認識しました。サタンは私の肉を拷問して私に神を裏切らせようと試みましたが、その残酷な拷問は私を打ち負かすことができなかったばかりか、かえって私の決意を固くさせ、その邪悪な素顔をすっかり露呈するとともに、私が神の愛と救いを認識できるようにしました。私が最も貴重ないのちの豊かさを得られるよう、神が私のために采配なさったすべてのことに、心の底から感謝いたします。この先どのような抑圧や逆境があろうと、断固として神に従い、これまで同様、福音を広めて神の偉大な愛に報い続けることを、私は決意いたします。

浙江省 陳露