賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

復活後のイエスによる弟子達に対する言葉

2020-11-18 23:23:55 | 聖書の言葉

復活後のイエスによる弟子達に対する言葉

    八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20:26-29)

    またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネによる福音書21:16-17)

    これらの聖句により述べられている事柄は、主イエスが復活した後に、弟子達に対して行った業と言葉である。まず、復活の前後における主イエスの相違点について検討する。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わりないであろうか。この聖句には、復活後のイエスに関する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」という件が含まれている。この時の主イエスは肉にある存在ではなく、霊の存在となっていたことは明らかである。なぜなら、主が肉の限界を超越し、扉が閉ざされていたにもかかわらず、主は人々の前に来て自身の姿を見せたからである。これが復活前の肉にあった主イエスと、復活後の主イエスの、最大の相違点である。その時の霊的存在の外観と、それ以前の主イエスの外観には何ら相違はなかったが、その時のイエスは人々にとって見知らぬ人と感じられるような存在となっていた。なぜなら、主は死から復活した後に霊的存在となり、従前の身体と比較すると、その霊的存在は人々にとって謎めいた理解し難い存在となっていたからである。またそれが原因となり、主イエスと人々との間に、一層の隔たりが生じ、人々はその時の主イエスが一層不思議な存在になったと感じた。人々のこうした認識と感覚により、人々は、目に見えず触れることの出来ない神を信仰していた時代へと、突如として戻された。そうしたわけで、主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。

    主は霊の存在であったとすると、なぜ人々は主に触れ、主を見ることが出来たのであろうか。それは主イエスが人間の前に現れたことの意味に関連する問題である。これら2つの聖句について、何か気付くことがあるだろうか。通常、霊の体は見ることも触れることも出来ず、また主の復活後、主イエスの業は既に完了していた。したがって理論的には、主が復活前の姿で人々の前に再び現れ、人々に会う必要は全く無かった。しかし、主イエスの霊の存在がトマスなどの人々の前に現れたことにより、その意味が一層具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれた。主がトマスの前に現れた時、疑念を抱いていたトマスに自身の手に触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言った。この言葉や業は、主イエスが復活した後に伝えたい、行いたいと思ったものではなく、主が十字架にはり付けられる前に伝え、行いたいと思っていたものである。十字架にはり付けられる前の主イエスが、トマスのような者に関して理解していたことは明らかである。このことから何が分かるであろうか。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わらなかった、ということである。主の真髄は、変わっていなかった。トマスの疑念は、この時始まったのではなく、主イエスに付き従っている時分からあったものだが、主は死から復活して霊的世界から、復活前の外観、性質、そして肉にあった時の人間に対する認識で戻って来た。故に主イエスはまず最初にトマスのこところへ行き、自身のわき腹をトマスに触れさせて復活後の主の霊的存在に触れさせるだけでなく、主の霊的存在に触れて実感させ、トマスの疑念を完全に払拭させたのである。主イエスが十字架にはり付けられる前、トマスは常に主がキリストであるということに疑念を抱き、信じることが出来なかった。トマスの神に対する信仰は、トマスが見ること、手で触れることが出来ることのみに基づいていた。主イエスは、この種の人間の信仰について、よく知っていた。この種の人々は天の神のみを信じ、神が送った肉にあるキリストを受け容れることが出来なかった。主イエスの存在と、イエスが真に受肉した神であることをトマスに理解させ、信じさせるため、イエスはトマスに対し、手で自身のわき腹に触れさせた。主イエスの復活の前後で、トマスの疑念に異なる点はあったであろうか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊的存在がトマスの前に直接現れ、トマスに自身の身体に残された釘あとを触れさせる以外に、トマスの疑念を払拭することは誰にも出来なかった。そうしたわけで、主イエスがわき腹と残された釘あとをトマスに触れさせてからは、トマスの疑念は消え、トマスは主イエスが復活されたことを真に知り、また主イエスが真のキリストであり、受肉した神であったことを理解し、信じるようになった。この時トマスに疑念はなかったが、キリストに会う機会を永遠に失ってしまった。トマスはキリストと共にあり、キリストに付き従い、知る機会、そしてキリストにより全きものとされる機会を永遠に失ってしまった。主イエスの現れと言葉により、疑念を抱いている者の信仰に対する主の結論と審判が下された。主は自身の言葉と業により、疑念を抱く者に対して、天の神のみを信じ、キリストを疑う者に対し、そうした者の信仰や、疑念を抱きつつ付き従うことを好まないということを伝えた。そうした者たちが神とキリストを完全に信じるようになる時、それは他でもない、神の大いなる業が完了した時である。もちろん、大いなる業が完了した時は、そうした者たちの疑念に対する審判が下る時でもある。その者たちのキリストに対する態度により、その者たちの運命が決められ、そうした頑なな疑念の結果としてその者達が得るものは無く、頑固さゆえ、そうした者たちの希望は報われない。そうした者たちの天の神に対する信仰は幻により育まれており、またそうした者たちのキリストに対する疑念がそうした者たちの神に対する実際の態度であるため、そうした者たちは実際に主イエスの釘跡に触れたにもかかわらず、そうした者たちの信仰は無駄であり、そうした者たちの結末は無駄な努力をしているとしか言いようが無い。主イエスがトマスに対して述べたことにより、全ての者に対して、復活した主イエスが人間の中で33年と半年にわたって業を行っていた主イエスである、と明確に伝えられている。イエスは十字架に釘ではり付けられ、死の陰の谷を歩んだ後に復活したにもかかわらず、イエスのあらゆる側面は変わることがなかった。イエスの身体には釘あとが付き、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨は全く変わることがなかった。また、イエスは十字架から下ろされ、罪や苦難、そして死に打ち克ったと人々に伝えた。その釘あとは、サタンに対する勝利の証しであり、人類すべてを贖うための罪のいけにえとなった証であった。イエスは、人類の罪を既に負い、贖いの業を成し遂げたことを人々に告げていた。イエスが使徒たちの前に戻って来た時、イエスが出現されたことによって、使徒たちに対して「依然としてわたしは生きている。わたしは、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共に居る」と伝えた。また、主イエスはトマスの例を「主イエスを信じていたとしても、主を見ることも、主に触れることも出来ないが、あなたは、あなた自身の真の信仰により祝福され、あなたの真の信仰により主イエスを見ることが可能であり、それが可能な人は恵まれている」という、その後の人々に対する警告として用いたいと考えた。

    ……

    これが疑い深い者に対する主イエスの姿勢である。それでは、主イエスを心から信じて付き従う者に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ったであろうか。次に、その言葉と業について、主イエスがペテロに対して述べた言葉を検討する。

    この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ペテロよ、わたしを愛するか」と尋ねている。これは、主イエスが復活した後に、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような者に対して主イエスが求めた、比較的高い基準である。この質問は、ある種の調査であり、ある種の尋問であったが、それ以上に、ペテロのような者に対する要求であり、期待であった。イエスはこのような方法により、人々に自分自身を省みて「主イエスが人々に要求していることは何であろうか。私は主を愛しているか。私は神を愛する者であろうか。私はどのように神を愛するべきであろうか。」と自問自答させた。主イエスがこう質問したのはペテロだけであったが、神はその心の中で、神を愛することを追い求める更に多くの人々に、同様の質問を投げかけることを望んでいた。ペテロは、この種の人々の代表として、主イエスから直接この質問を受ける祝福にあずかったというだけのことである。

    主イエスがトマスに対して「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活後に述べたのに対し、ペテロに対しては3回「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。この質問により、主イエスの厳格さと、主が質問した時の切迫性を、一層感じ取ることができる。狡猾で不正な性格のトマスの疑念について、主イエスはトマスを主の釘あとに触れさせることで、主イエスが復活した人の子であり、主イエスがキリストであることをトマスに確信させた。主イエスはトマスを厳しく非難することも、審判を明確に述べることもなかったが、イエスは実際の行動により、自分がトマスを理解していることをトマスに知らせつつ、この種の人々に対する主の姿勢と判断を示した。この種の人々に対する主イエスの要求は、主の言葉には見られない。これは、トマスのような人々には真の信仰が全く無いためである。こうした人々に対する主イエスの要求は真の信仰あるのみであるが、ペテロのような人々に対する啓示は全くこれと異なる。イエスは、ペテロに対して釘あとに触れるよう要求することも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言うこともなかった。そのかわりに、イエスはペテロに対し、同じ質問を繰り返した。これは、思考を刺激すると同時に、キリストに付き従う者すべてが自責の念にとらわれ、畏れを感じ、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じざるを得ないような、意味深い問いかけであった。そして、キリストに付き従う者たちは、大いなる痛みと苦しみに苛まれている時に、主イエス・キリストの懸念と労り一層深く理解することが出来るで、イエスの純粋で誠実な人々に対する熱心な教えと厳格な要求を認識する。主イエスの問いかけにより、人々はこうした簡潔な言葉により啓示された主の人々に対する期待は、主を信じ、付き従うことだけでなく、愛ある人間となり、主を愛し、神を愛することであることを感じることができる。この種の愛は、慈しみと服従である。それは人類が神のために生き、死に、全てを神の前に差し出し、尽くし、捧げることである。また、この種の愛により、神は慰めを得、自身に対する証を喜び、そして安息を得る。この種の愛は、人類の神に対する返報であり、責任であり、義務であり、本分であり、人類がその生涯を通して従うべき道である。この3回の問いかけは、ペテロをはじめとする完全な存在となる人々に対する主イエスの要求であり、警告であった。ペテロがその人生の道を完遂するよう導き、励ましたのは、この3回の問いかけであった。また、完全な存在となる道を歩み始めるようペテロを導いたのも、ペテロの主に対する愛ゆえに、主の心を労り、主に服従し、主に慰めを与え、この愛ゆえに自分の生涯と自分自身の全てを捧げるようペテロを導いたのも、主イエスが去る際の、この問いかけであった。

    恵みの時代では、神の業は専ら2種類の人々を対象とするものであった。その2種類の人々のうちの1つは、神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を負い、恵みの時代の道を守ることのできる人々であった。この種の人々は、神の祝福を得て、神の恵みを享受した。2つ目の種類の人々は、ペテロのように完全な存在となる人々であった。そうしたわけで、主イエスが復活した後、主は最初にこの2つの極めて有意義な業を行ったのである。そのうちの1つはトマスに対してであり、もう1つはペテロに対してであった。この2つの業は何を表しているであろうか。神が人間を救う真の旨を表しているであろうか。神の人間に対する誠実さを表しているであろうか。神がトマスに対して行った業は、疑うことなく、ひたむきに信じるよう人々に警告するためのものであった。主がペテロに対して行った業は、ペテロのような人々の信仰を強化し、この種の人々に対する要求を明確化し、この種の人々が目指すべ き目標を示すためのものであった。

    主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生のなかでこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼすであろうか。その出来事は、神を信じる生活において最も素晴らしい、至高のビジョンである、と認識するであろうか。人生において神に付き従い、神を満たすために努力し、神への愛を追求する上で励みになると認識するであろうか。この至高のビジョンを広めるため、一生涯をかけて努力するであろうか。主イエスの救いを広めることを、神から授けられた命令として受け入れるであろうか。あなたがたはこうした業を経験していないが、トマスとペテロの業の事例は、現代の人々にとって、神の旨と、神自身を明瞭に理解するに十分である。神が受肉して人間として人間の中で生活を経験し、人間の腐敗や人間生活の惨状を目の当たりにした後、受肉した神は、人間の絶望や悲しみ、哀れさを深く感じた。受肉して生活した際の人性と直感が原因となって、神は人間の惨状に対する憐れみを一層深めた。その結果として、神は、神に付き従う者に対する懸念を深めた。こうした事柄は理解できないかもしれないが、神に付き従う者全てに対する受肉した神の懸念と慈しみは、「極めて強い懸念」という表現で表わすことができるであろう。強い懸念という言葉は人間の言葉であり、極めて人間的な言葉ではあるが、神に付き従う者に対する神の気持ちを真に表現している。人間に対する神の強い懸念は、経験を重ねてゆくにつれて感じ取ることができるであろう。しかし、それを感じ取るには、あなたがた自身の性質の変化を追求することによって神の性質を徐々に理解することによるほかにない。主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。


五千人に食べ物を与える

2020-10-13 22:35:52 | 聖書の言葉

五千人に食べ物を与える

 そののち、イエスガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。

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聖書の言葉


聖書の言葉-また祈る時には、偽善者たちのようにするな・マタイによる福音書 6:5

2020-07-24 23:50:33 | 聖書の言葉

  聖書の言葉

   また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

マタイによる福音書 6:5

   この聖句では、神は私たちに人間の前で行動せず、神の前で行動するよう求めています。何かをするときに大小に関わらず、人が高く見えるかどうか気にせず、ただ神の心を満たしているかどうかに気にかけることを望んでいます。これは私に偽善者であるパリサイ人を思い付かせます、彼らは人の前で見せかけ祈りをし、非常に敬虔なふりをしていますが、ひそかにやもめたちの家を食い倒し、預言者を殺した。彼らは故意に会堂やまたは十字路でお祈りし、断食の時に故意に心配そうな顔を持ちます。衣服のサソリに聖句を書き、施しをするときに故意に人々に見せさせます。彼らのこれらのやり方はすべて自分自身を確立し、人々を崇拝させようとする為であり、神を満足させ、神に服従する為ではありません、このような行為は神によって賞賛されず、さらに神に非難されるのです。したがって、私たちは目を覚まさなければなりません、神と向き合い、神の心にかなうことをするべきです。


聖書の言葉-何事も思い煩ってはならない・ピリピ人への手紙4:6

2020-06-05 23:39:12 | 聖書の言葉

  聖書の言葉

   何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

ピリピ人への手紙4:6

   この聖句から私たちは祈りの重要性を理解しました。私たちは神様の前に来て求めて祈る時に、純真で率直で感謝の気持ちを持って神様に本音を言うべき、間違った動機を持って神様に求めてはならず、故意にひびきの良い言葉を言って神様に取り入り、神様を欺けてはなりません。それでは、本当の祈りとは何でしょうか。神様の言葉はこう言われています。「真に祈るとは何を意味するであろうか。それはあなたの心の中にある言葉を神に話すことであり、神の意志を把握し、神の言葉に基づいて神と交わることを意味する。またそれは殊更に神を身近に感じ、神が自分の目の前にいて、あなたには何か神に言いたいことがあると感じることである。またそれは、自分の心の中に光が射すのを著しく感じ、神が殊更に愛しいと感じることである。あなたは著しく霊の動きを感じるだろう。するとあなたの兄弟姉妹は、あなたの話を聞いて喜びに満たされるだろう。彼らは、あなたが話す言葉が、彼らの心の内の言葉であり、彼らが言いたいと願っていた言葉だと感じるだろう。あなたが言うことが、彼らが言いたいことを代表していると感じるだろう。真に祈るとは、このことを意味する。真に祈った後、あなたは心の中に安らぎを感じ、喜びに満たされるであろう。神を愛する強さが向上し、あなたは全生涯で、神を愛する事以上に価値があり大切なことは無いと感じるであろう。そして、これら全ては、あなたの祈りが効果的であったことを証明するであろう。あなたは、このように祈ったことがあるだろうか。」

 

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聖書の言葉-主イエスの教え・正直な人こそが天国に入れる

2020-05-29 00:55:12 | 聖書の言葉

  聖書の言葉

   よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。

マルコによる福音書10:15

   この聖句から、神様は幼な子のような素朴で、率直で正直な人を好み、このような人こそ天国に入れることが分かりました。それでは、私たちはどのように追い求めれば正直な人になれるのでしょうか。

   1、祈る時に正直でなければなりません。主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4:23-24)。正直な人になることの第一歩は祈りから始まり、祈りは心の中にある言葉を神様に言い、本当の状態、現実の困難を神様に示すことであり、ひびきの良い言葉や不本意な言葉を言って神様を欺くのではありません。

   2、正直な人になることは本当の事を言い、嘘を拒絶することから入るべきです。主イエスは言われました。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書5:37)。主イエスは私たちにありのままを言い、正確で混じりけのないように求められています。このようにしないと、悪を行う者なのです。

   3、本分を尽くすことにおいていい加減に神様に対応したり、神様を欺こうとしたりしないように達すべきです。主イエスは私たちにこのように求められています。「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである。』」(マタイによる福音書22:37-38)主の言葉から分かったのは、クリスチャンの一人として、私たちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主のために費やし、さらに多くの人を神様の前に連れてきて、全身全霊でできる限りの努力をし、いい加減に神様に対応しないようにしなければなりません。

   4、正直な人になることは心を真実に神様に捧げなければなりません。これは正直な人になるための最も肝心なことです。主イエスは言われました。「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。」(マルコによる福音書7:6-7)この中から分かったのは、神様は口先の信仰と礼拝を求めず、自分の心を完全に神様に捧げ、どんな環境に臨んでも、神様の支配と采配に従い、自分の言い訳と条件を言わず、自分の利益や損得を考えないことを求められるのです。