賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

あなたは「子供のようになりたい」のか

2019-10-31 22:28:10 | 聖書の言葉

   天の国は神の国、聖なる神の国であり、信者のわたしたちが寝ても覚めてもあこがれている所です。主イエスが受肉して天の国の福音をもたらしてから二千年の間、わたしたちすべての信徒は主が再来される時、自分は生きていて、しかも主によって天の国の中に携え上げられると望んでいます。わたしは常にこう考えます。「主が来られる時、わたしは主によって天の国の中に携え上げられる見込みがありますか。天の国に入るための基準は何ですか」。

   ある日、主を信じる上で非常に追求する菅さんはわたしの家を訪問しました。それで、わたしは彼女とこの問題を探究しました。菅さんはほほえみながらこう言いました、「わたしもいつもこの問題を考えます。ある日、マタイによる福音書第18章3節で主イエスがこう言われたのを思い出しました。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』と。明らかに、これは主イエスの要求された、天の国に入る条件です。つまり、彼はわたしたちが子供のようになることを要求されました。では、主イエスが言うような子供はどんなふうな人ですか。誠実な人です。神には真実な本質があり、神は誠実な人が好きで、誠実な人を救われます。だから、誠実な人だけが天の国に入ることができます。なぜなら、誠実な人は言うことにもなすことにもごまかさず、人に対しても神に対してもいんちき、欺きをせず、子供のように単純で無邪気です。アブラハム、ヨブ、ペテロのことを例にあげましょう。神がどのように働いても、どのように要求し、試しても、彼らは神を疑わず、恨まず、誤解せず、本当に神に従い、神を愛していました。たとえ自分の利益が損なわれたとしても、神を満足しました。このような人は主イエスの言う『子供』のようになり、真の人らしさがあります。彼らは天の国に入ることのできる誠実な人です」。これらの言葉を聞いて、わたしはうなずきました。




   菅さんは続けて言いました。「わたしたちはまた、神に良しとされたアブラハム、ヨブ、ペテロたちがどんなことを達成したかを見てみましょう。ヤーウェ神がアブラハムにイサクをささげさせた時、アブラハムの態度が何でしたか。彼はどんなにつらくても、神を疑わず、神と事の是非を論じず、無条件に神に従い、約束の時間、約束の場所にイサクを神にささげました。神はアブラハムの真心、単純さと従順を見た後、イサクの命を取るどころか、かえってアブラハムを祝福して、彼の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やされました。ヨブは満山の牛や羊、すべての家産と子女たちを失った時、神に対する信仰を失わず、自分に臨むことは神に主宰され、按配されたことだと確信し、『主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』と言いました。彼は神に対する本当の信仰のゆえに、神に良しとされました。神は倍にして彼を祝福し、彼の寿命を三倍にされました。最後に、彼は長寿を保ち、老いて死にました。ペテロは主イエスにつき従っている間に、主の言葉を聞き、実行することを重んじ、イエスの言葉によって自分に厳しく要求し、命の性情の変化を追い求め、衣食住や乗り物の面で自分の意志に従わず、主イエスの言われた言葉は何でも受け入れ、従い、まじめにかみしめ、実行しました。最終的に、ペテロは従順と主に愛する本当の愛のゆえに、主イエスに良しとよれ、主は天の国の鍵を彼に授けられました。これで分かりますが、神に良しとされたこれらの人の最も大きな特徴は、神から来たすべてに無条件に従うことができ、神の行われたことに対して全然観念を持たないことです。彼らはみな、天の国で神に祝福された人です!

   わたしは二十数年主を信じた自分が主イエスの要求を満たして「子供のように」なったかを反省しました。よく考えてみれば恥ずかしく思います。わたしは伝道する中で実を結ばなかった時、神がわたしを嫌って、わたしを祝福しないだろうと疑いました。わたしが外で費やして兄弟姉妹を支えているが、家族が病気で入院した、という時、わたしは口では何も言わなかったが、主がなぜ家族を顧みず、守らなかったのかと、心の中で不平を言いました。同労者会議で問題を討論する時、わたしの観点が同労者に反対されると、わたしは主がわたしが好きではないと思い、以後自分が道を説くことができなくなるのではないと心配しました。またここ数年来、わたしは祈る時に感動がなく、道を説く時に光がなく、自分の霊が暗いです。そのため、自分が何かの原因で主を怒らせて、主に捨てられただろうと疑いました。後になって、わたしは自分は神を信じているのに、神に対する誤解、憶測、恨みに満ちていると認識しました。そして、『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』と言われた主の言葉を噛みしめることによって、自分が主に対する本当の信仰、従順を持たず、もしわたしがこのように、祝福を得ようという意図をもって神を信じるなら、永遠に天の国に入ることができないとはっきり分かりました。この時、神がどんな人を喜び、良しとするか、どんな人が天の国に入ることができるかについては、いくらかの認識を持ちました」。

   菅さんの言葉を聞いた後、わたしは彼女の認識には非常に光があると感じました。それは、わたしが聖書を読む時に得られない認識です。それによって、わたしは自分も子供のようになっていないのを見ました。この時、わたしは非常に急いでいて、菅さんに「わたしたちがどのように追い求めれば、主が来られる時に引き上げられることができるのですか。どうすればアブラハム、ヨブ、ペテロのようになれますか」と聞きました。

   菅さんはこう言いました。「主は、彼が再び来てわたしたちを彼のところに迎えることを約束されました。今、さまざまな兆しは、主の再来に関する預言がすでに実現したことを示しています。ヨハネの黙示録の多くの箇所で『耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい』と述べられています。これは、主が再来される時わたしたちに対して声を発し、言葉を言われることを証明しています。主イエスがこう言われました。『心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである』(マタ5:3)。『心の貧しい人々は、幸いである。その人たちは神を見る』(マタ5:8)。わたしたちは、観念を持たず、憶測せず、神の働きを限定しない、単一の心をもって神に従う人になるべきです。どこかに再来された主の声、言葉を証しする者がいれば、謙虚に探究すべきです。それは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行くためです。そうする人こそが子供のようになれ、すなわち誠実な人になれ、しかも小羊の足跡についていくことができ、主によって天の国の中に携え上げられる機会を得られます。逆に、わたしたちの心の中が観念、逆らいに満ちていて、わたしたちの観念、想像によって神の働きを限定するとすれば、わたしたちは主によって天の国の外へ捨てられます」。

   わたしは菅さんがこう言うのを聞いて、気持ちが晴れ晴れしてきました。主の到来を迎えるということで、わたしも単一の心をもって神に従う人、神の心の中の子供になりたいです。愛する兄弟姉妹よ、あなたたちはそうしたいですか。


聖書を読む4つの原則は、あなたが把握しているのか

2019-10-30 19:46:42 | 聖書の言葉

   聖書を読むことは、クリスチャンが毎日霊的生活を送るのにしなければならないことです。では、どのように聖書を読めば、よい効果を収めることができますか。あなたが四つの原則を把握したら、予想外の収穫を得られます。



第一に、神の即時的な言葉を読む

   神の即時的の言葉は神の最も新しい働きを代表します。それは神がわたしたちの当面の必要に応じてわたしたちに供給するものです。わたしたちがそれに聞き従ったら、神に良しとされることができます。例えば、旧約の時代にヤーウェ神は「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」(出21:24-25)という条令を発布されましたが、主イエスは来て働かれた時、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタ5:43-44)と言って、人の当時の必要に応じて、もっと適当な実行の原則を設けられました。もし当時の人がやはり律法の時期の神の言葉にしたがって実行すれば、神に良しとされることができません。神は新しい言葉を言い、新しい仕事をなさったからです。ヨハネの黙示録の多くの箇所に「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」と預言されています。だから、世の終わりに主は再来される時、また新しい言葉を言われます。わたしたちが神の最も新しい言葉を読めば、小羊の足跡にしっかりと従う人になります。それでこそ、神に良しとされることができます。

第二に、実際の問題に応じて聖書を読む

   毎日、わたしたちは大小さまざまなことに会います。もし順を追って聖書を読むなら、融通の利かない読み方をすることになり、容易にはよい効果を収めることができません。もしわたしたちが自分の問題に応じて聖書を読むなら、神の言葉から供給、導きを得ることができます。こうして、わたしたちの困難が解決されました。神の言葉はわたしたちの足のともしび、わたしたちの通り道の光ですから。例えば、もし現実生活の中でわたしたちが他人を容赦し、他人に我慢することができなければ、わたしたちは「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタ7:3)、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタ18:22)というような主の言葉を読むべきです。もし随意に一箇所の言葉を読むなら、わたしたちの問題は解決されることができません。だから、実際の問題に応じて聖書を読むことはとりわけ重要です!

第三に、心を落ち着けて神の前で心をもって祈り、神の言葉をかみしめる

   もしわたしたちが聖書を読む上で、心をもって祈ったり、神の言葉をかみしめたりしないなら、聖書を読んだ後、聖書の章節をいくらか覚えることができ、聖書の字句の表面上の意味を理解しているが、その真意が分からず、また神が言葉を言う時の御心が分かりません。こうして、どのように神の言葉にしたがって実行するかを知らなくなります。だから、聖書を読むことで収穫を得たいなら、心を落ち着けて神の前で心をもって祈り、神の言葉をかみしめることを、訓練しなければなりません。例えば、主イエスは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)と言われました。もし主の言葉の霊的な意味を考えず、ただ文字どおりに理解するなら、わたしたちはただ、主はわたしたちが子供のようになると要求したと思っているだけです。だが、どうすれば子供のようになるかについて考えなければ、やはり実行の道がありません。もしわたしたちが祈りながら主のこの言葉をかみしめるなら、「子供のようになる」とは、誠実で、単純で、心を打ち明け、何の束縛も受けないこと、すなわち誠実な人になることを言っているのであり、誠実な人になってこそ、神に救われることができると分かりました。この時、自分の言行を反省すると、自分の毎日のうそがとても多く、自分が単純で心を打ち明ける人ではないと自覚します。こうして、主の言葉を実行して、誠実な人になることを追い求める力を持つようになります。だから、聖書を読む時、神の言葉をまじめにかみしめてこそ、効果を収めることができます。そうしなければ、わたしたちの理解しているものは永遠に文字の教理であって、命になれません。

第四に、神の言葉を通して神の性質を認識する

   聖書を読む時には、神の言葉の霊的な意味をまじめにかみしめるだけでなく、神の言葉を通して神の性質を認識する必要があります。わたしたちはやはり「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)という主イエスの言葉を例としましょう。わたしたちが主のこの言葉をまじめにかみしめれば、次のことを認識できます。神は誠実な人が好きです。これは、神の本質は信実であることを証明します。だから、誠実な人になってこそ、天の国に入ることができます。これは神の義なるきよい性質を明らかにしました。これらを認識した後、わたしたちは神を畏れ、神の言葉にしたがって実行するようになり、天の国に入ることに関する想像を捨ててしまい、主の御名をしっかりと保ったり、労苦して働いたりしたら、天の国に入ることができると思わなくなります。だから、神の言葉を通して神の性質を認識することは非常に重要です!

   以上の、聖書を読む四つの原則が、兄弟姉妹たちが聖書を読み、霊的生活をする助けになればと期待しています。神がわたしたちを導いてくださいますように。わたしたちの命の成長がもっと早くなるように、神の言葉にもっと精を出しましょう。


なぜ主イエスがカナンの女の信仰を良しとされたのか

2019-10-29 20:18:43 | 聖書の言葉

   聖書にこう記されています。「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』。イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った、『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』。そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように』。そのとき、娘の病気はいやされた」(マタ15:22-28)。わたしはこの箇所の言葉を読むたびに、「主が働いている間に、主を信じ、主に従った人が非常に多く、主の恵みを得た人も数えきれないくらいだが、カナンの女のように主の称賛を得た人は指折り数えるほどわずかです!」と思います。だが、なぜ主はカナンの女の信仰が立派だとほめられましたか。カナンの女が主の前で自分が犬だと認めて、理性的な言葉を言ったからですか。この問題はわたしが分かりません。この問題については、わたしはいつも考えています。




   この問題を考える時、わたしはこう思います。主イエスがガリラヤで働き、伝道した時、主イエスがキリスト、神ご自身だと認める人は多くなかったのです。その上、パリサイ人たちがローマ政府と結託して、主イエスに関するデマをたくさんでっち上げたので、多くの人は主の救いを拒絶しました。ところが、カナンの女は主イエスに会ったことがないのに、主イエスの働き、主イエスの事績をいくらか聞いただけで、堅く主に信頼し、主が彼女の娘の病気をいやす力があると信じました。ここまで考えた時、わたしはカナンの女の粘り強さ、信仰に非常に感服し、主イエスがカナンの女の信仰のゆえに彼女を良しとしただろうと思いました。当時、カナンの女は何度も主イエスに断われたのに、依然として主に信頼していました。なぜ彼女がこんな信仰、根気があったのですか。当時、主を誹謗したデマがそんなに多いのに、なぜ彼女はこれらのデマによる封鎖を突破して、主を深く信じることができましたか。

   カナンの女は主イエスの働き、言葉によって、主の身分を知り、主イエスが神ご自身、造物主であることをはっきり意識しました。主イエスが彼女に対してどんな態度を取っても、彼女を犬として扱っても、彼女は気にしませんでした。彼女は主イエスが彼女の礼拝すべき神ご自身だと堅く信じていたからです。そういうわけで、彼女は主イエスの外側の人性がどうなのか、主イエスがナザレ人か、それとも大工の息子かを問題にせず、主イエスの福音がパリサイ人とユダヤの民に罪定めされ、冒涜されたことさえも問題にしませんでした。彼女は主イエスが伝道し、言葉を発表し、天の国に関する奥義を啓示し、しるしや奇跡を行ったことによって、こんな権威、力を持っていて、こんなに大きな仕事をすることができる者がきっと普通の人ではなく、万物の主宰者――神ご自身だと意識しました。だから、彼女はいつまでも主を離れません。これで分かるように、彼女は主イエスを認めるだけでなく、また心の中で、主イエスが来たるべきメシアであり、キリストであり、天地万物を創造した主だと堅く信じていました。カナンの女は何かの原因で神を否むことはなく、主イエスの態度のゆえに神に対する信仰をあきらめることもありません。すべての人の心を探る神である主イエスはカナンの女のこんな信仰を見て、彼女の信仰が立派だとほめられました。これは、カナンの女の奇特さです!

   パリサイ人は主イエスに対しては、カナンの女と全然違う態度を取りました! パリサイ人は代々ヤーウェ神を信じ、長年神殿の中で神に仕え、また律法、戒めに精通していました。主イエスが来て働かれた時、彼らは主イエスが口ずから宣べ伝えた言葉を聞き、また自分の目で主イエスの行ったしるしや奇跡を見たけれど、外見が正常で、父母も姉妹も持つ主イエスの正常な人性だけを重んじるため、主イエスが一人の人だと罪定めしました。彼らは主イエスの働き、言葉から神の神性の本質を認識せず、かえって主イエスが冒涜の言葉を言ったとはばかりなく罪定めし、また主イエスの肉体を冒涜し、神の働きを否み、罪定めしました。最終的に、彼らは主イエスを十字架につけて、この上なく大きな罪を犯してしまい、そのため神に呪われました。ここまで考えた時、わたしの心の中の疑問は解消され、主イエスがカナンの女を良しとしたのは、カナンの女が本当の信仰を持っていて、主イエスの働き、言葉を通して、主イエスが来たるべきメシアであることを知ることができるからだと分かりました。

   マタイによる福音書第15章22節から28節の言葉を分析することによって、わたしは次のことが分かりました。主の到来を迎える上では、わたしたちもカナンの女のように神に対する本当の信仰を持つべきです。神の言葉と働きを通して神を認識することは非常に重要です! そうしてこそ、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)という主の願いを満たすことができます。


神様の一言一言はその性質の表れである

2019-10-28 22:09:39 | 勝利者の証し

   神様の次の言葉を読む度に私は不安になりました。「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。わたしの言葉を慎重に熟考するとよい。必ずそれらから多くの利益を得るであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より)私が不安を感じていたのは、神様の性質を理解することが、神様に関する人間の認識と、神様を愛し、神様に喜んでいただこうと求めることの両方にとって、とても大切だからです。しかし神様の御言葉を飲み食いするにあたって、私はいつも神様の性質が抽象的すぎると感じ、どのように認識すればいいのかわかりませんでした。その後、指導者との交わりを通じて、神様が何を好まれ何を嫌われるかはその御言葉から学ぶべきで、それによって神様の性質を理解できるようになるのだとわかりました。続いてしばらくそれを実践したところ、ある程度の成果を挙げることができました。しかしそれでもまだ「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。」という神様の言葉に困惑を感じ、いったいどう理解すればよいのかわかりませんでした。


   

   ある日、私は次の説教の言葉を読みました。「神様の性質には、神様が所有されているものと神様そのもの、神様の思いや識見、考えや知恵など、様々な側面が含まれます。神様の憐れみと配慮の感情、さらには人類の反抗や抵抗に対する怒りなど、ありとあらゆる人に対する神様の態度を含んでいるのです。神様の各文章には神様の考え、知恵、識見が含まれ、そのすべてに神様の御言葉の背景と源があり、どれも神様の人間への態度を自然と表し、一文たりとも根拠のないものはないので、各文に神様の性質が含まれているのはごく当然のことです。人間の口にする一言一句が人の性質を表すなら、神様の一言一句には神様の性質がはるかに多く含まれませんか。それは容易に理解できるものですが、それを見つけて知ることは人が想像するほど簡単ではありません。神様の言葉を読むにあたって、十分に理解しようとせず、努力を十分傾けず、十分な経験もないのであれば、神様の性質を簡単に知覚することはできず、ましてや理解するなど困難です。そのため、人は神様の御前で自分を静め、心をひたすら神様の御言葉に集中させ、祈りながら御言葉を読み、それを理解しようと努めることが必要なのです。そうすれば神様の御言葉の裏にある考え方の枠組みを見いだせるようになります」(『キリストの言葉の記録』の「全ての教会からの質問への回答」より)。この言葉を読んですべての辻褄が合いました。神様の性質が数多くの要素を含んでいることに気づいたのです。そこには神様が所有されているものと神様そのもの、神様の考えと識見、思考と知恵、そしてあらゆる人に対する神様の態度などが含まれています。さらに、神様の各文章には御言葉の一語一語の背景と源があり、根拠のない文章は一つもなく、神様がなさるすべてのことと、神様がお語りになるすべての文章は、いのちにおける神様の存在そのものを残らず自然に表しています。一方、神様の性質に関する私の理解は、神様が何を好まれ何を嫌われるかだけに限られていました。このような理解はあまりに一方的であり、そのせいで神様の各文章から神様の性質を理解することができなかったのです。これ以外にも、神様の性質を神様の各文章から理解したければ、神様の御前で自分を静め、神様の御言葉を理解しようとすることにもっと努力を傾ける必要があるとも知りました。さらに、神様の御前で祈ってお導きを求め、神様がお語りになった御言葉の裏にある考え方の枠組みと、神様の御業の背景と源を理解することに集中する必要もあったのです。

   私はこれらのことに気付かせてくれた神様の啓きと照らしに感謝し、その後はその側面の実践をして入ってゆくことに集中しました。そんなある日、神様の御言葉の一節を読みました。「この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。」(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は受肉した神による救いをさらに必要としている」より)この御言葉を慎重に理解しようとしていると、すごい宝物を発見したかのように感じました。神様の御言葉は、終わりの日にどのような方法で働きをなさるかについて、その時点における神様の考えの進展を示しています。考えが進展する中で、神様が最初に検討なさったのは、どの方法を用いればこの働きにおいて最も人間の益となるのか、人間を救うにあたって成果を挙げるにはどうするのが最善なのか、サタンに敗北を受け入れさせ、それによってサタンを征服し、深く傷つけられた人を完璧な救いへと導くにはどうすべきかということです。考えを巡らせる中で、神様は常に人間のことを気になさり、ご自分の益や安全は決して気になさいませんでした。神様は受肉によって多くの苦難を受けるであろうことをはっきり知りながらも、人類を救うとなると、それは考慮の対象ではありませんでした。その代わりに、神様は人類が必要としているものと、人類の堕落の現実に基づき、終わりの日の働きをなさるために、肉体となる方法を選ばれました。大きな危険を冒して虎の住処の奥へ入り、赤い大きな竜によるひどい迫害と追及に苦しみ、様々な宗教や教派からの虐待と冒涜に耐え、さらには神様に従う私たちからの抵抗、反抗そして誤解にも耐えています。神様が心に負った傷や非難、そして神様が耐える屈辱は、まことに誰ひとり理解することができないものです。神様が表現し、明らかになさることはすべて、いのちにおける神様の存在そのものです。神様の人に対する無私の献身と、人のために払う代価なのです。神様が偉大にして無私でいらっしゃることは、その働きと各文章に自然と現れており、またそれらは神様の素晴らしい憐れみと無私の愛をも象徴しています。人類に対する神様の愛は単なる空虚な言葉ではなく、神がお払いになる実際の代価なのです。その時、神様は本当に偉大で愛しい方だとはっきり感じました。これらの神様の御言葉は以前に読んだことがありましたが、キリストがお語りになった御言葉の背景や、それらが明らかにしたすべてのことは理解しておらず、人類に対するキリストの愛も理解していませんでした。いま初めて、「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。」という神様の御言葉を真に理解できたのです。

   それまで、私は心を静めたことも、神様の御言葉を理解しようと真剣に努めたこともなかったせいで、今日に至っても神様に対する多くの観念と誤解を抱いたまま、いまだに神様から遠ざかっているほど、神様を理解するたくさんの好機を失ってしまいました。いまようやく、神様の性質を理解したいのであれば、神様の各文章にある真理を真剣に突き止め、求めようとしなければならないことがわかりました。そうすることできっと大きな益を得られます。今日からは、神様の御言葉により多くの努力を集中させ、神様について何らかの認識をもつ人に早くなろうと思います。


主の言った「真夜中」とはどういう意味か

2019-10-27 23:30:21 | 聖書の言葉

   主を信じたばかりの時、わたしはマタイによる福音書第25章6節に「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」と書いてあるのを見ました。そのため、わたしは、主は人が眠っている真夜中に来られる、と思っていました。再来した主に引き上げられる機会を逸しないように、わたしは毎夜、時間どおりに起きて祈りました。何回も起きて祈る夜はたくさんあります。しかも、わたしはいつも教会の兄弟姉妹たちにそのようにすることを要求しました。「だれでも真夜中に主が来られたという知らせを聞いたなら、他人に知らせなければならない。そうすれば、わたしたちはみな再来する主を迎えて、天の国の中に携え上げられることができる」と、わたしはいつも兄弟姉妹たちにそう言いました。

   今年の夏休み、大学生の孫は帰りました。孫は小さいころからわたしと一緒に主を信じます。彼もいつも聖書を読みます。孫がこんなに大きくなったのを見て、わたしは「彼と一緒に聖書のこの節を読んで、彼も真夜中に目を覚まして祈るようにすべきだ。そうすれば、彼は再来する主に引き上げられる機会を逸することがなくなる」と思いました。だが、わたしが彼に自分の考えを話した後、彼はこう言いました。「おじいさんは『真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした』(マタ25:6)という主イエスの言葉を読んだ後、『真夜中』はわたしたちが眠っている真夜中だと思うんだね。だが、わたしはそう思わない。幼い時、おじいさんはいつもわたしに次のように言っていた。神が天地万物を創造された時、わたしたち人類のために綿密に考えてくださった。当時、彼は人類の生活規律を定められた。すなわち、人類が昼間に働き、夜に休むということだ。人は1日働いた後、夜によく休むべきだ。そうしてこそ、体の疲れをいやして健康に生きることができる。もしわたしたちが神の定められたこの規律に背いて、夜に休まないなら、わたしたちは病気にかかるはずだ。このままでいけば死んでしまう。もしわたしたちが毎晩起きて主の到来を迎えるなら、わたしたちは休めなくなる。これは、神が人のために定められた生活規律に背いたのではないか。明らかに、それは主の心にかなわない。主は人が眠っている真夜中に来るはずがないとわたしは思う。さらに、主のこの言葉は預言だ。わたしたちは預言には一層慎重であるべきで、自分勝手に預言を解釈してはならない。聖書に書いてあるように、『何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです』(ペテ二1:20-21)。だから、わたしたちは主の再来に関する預言を自分勝手に解釈してはならず、また文字どおりに主の再来に関する預言を理解してはならない。それは聖書に『……文字は殺しますが、霊は生かします』(二コリ3:6)と書かれているとおりだ。預言の中の『真夜中』が、おじいさんの考える、人が眠っている真夜中であれば、それはありえないことだ。だって、世界各国の間に時差があるからだ。例えば、アメリカの真夜中はちょうど中国の正午で、中国の真夜中はアメリカの正午だ。では、主はどの国の真夜中に来られるのか。明らかに、『真夜中』に対するおじいさんの理解はただ想像で、預言の真意ではない。おじいさんはそう思わないか」。

   わたしの孫、陽ちゃんの言葉は道理に合って根拠があるし、また聖書に合致するから、わたしは返す言葉がありませんでした。聖書の中の「真夜中」に対するわたしの理解は本当に間違ったでしょうか。だが今、一部の信徒たちはわたしと同じ理解を持っています。ある教会は、信徒たちが夜に代わる代わる見張り、いつも目を覚まして祈ることさえ要求します。そのため、わたしはわたしの理解が正しいかどうか分からなくなり、主の言った「真夜中」をどのように理解すべきかを知らなくなり、またどのように目を覚まして主を待ち、迎えるべきかを知らなくなりました。




   ある日、わたしは教会の一人の、真理を熱心に追い求める兄弟に出会いました。わたしが彼にわたしの疑問を話した後、彼はわたしにこう言いました。「この問題については、以前わたしもよく分らなかった。一部の兄弟姉妹たちに尋ね、多くの人と交流することによって、わたしは初めて少し分かった。『真夜中』は、わたしたちの物質世界の真夜中を指すのではなく、サタンが暴れ回り、世界が最も暗く邪悪である時を指すのだ。今の世界から見れば、今はまさに真っ暗な夜ではないか。この世界では、人の人が互いに殺し、争い、国と国が互いに戦争をし、争闘する。ノアの時代の人は淫乱で邪悪で、互いに殺し合い、極みまで堕落し、そのため神の怒りに触れた。だが、今日の人はノアの時代の人よりもっと堕落する。また今の宗教界を見よう。主イエスを信じる人たちは同じ聖書を読み、同じ神を信じていて、互いに愛し合うとか、すべての人が一つとなるとか、互いに忍耐するなどと言っているけれど、今の宗教はもう二千余りの宗派に分かれた。しかも、どの宗派も『あらゆる宗派の中で、わたしたちの宗派だけが最も正統だ』という信条を守り、ほかの宗派が異端、邪教だと罪定めする。その上、どの宗派の内部にも争いがあり、どの宗派の人も自分の宗派の中で他人をねたみ、他人と論争し、他人を攻撃し、裁き、排斥している。そのため、どの宗派も絶えず分裂している。こういうわけで、小教会の中で数人が一緒にいても心を合わせることができない、というような現象ももう珍しくない。その結果、多くの信徒はこの俗世間に引きつけられ、主の委託と言葉、自分の霊的生活に興味を持たなくなり、もとの信仰と愛を失い、彼らの以前の熱心さもすっかりなくなった。しかも、教会の人数は日一日と少なくなってきた。少数の人が教会に来て集会に参加するけれど、彼らはただ何かの手順を踏み、形式的に集会に参加するのだ。集会の中で、彼らは居眠りしたり、雑談したりして、全然享受を得られない。今、多くの人は、神を信じるのに以前のような喜び、享受がないが、かえってとても疲れ、つらい思いをする。ある人たちはいつも泣きながら主に祈る、『主よ、わたしたちの歩むべき道はどこにありますか。わたしたちはどのように将来の道を歩むべきですか。……』と。このような状態は、次のような聖書の言葉を成就した。『しかし、終わりの時には困難の時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し』(二テモ3:1-4)。これらの言葉から分かるように、今は、世界と宗教界が最も暗い時、すなわち聖書に書かれている『真夜中』だ。……」。この兄弟の言葉を聞いた後、わたしの気持ちが明るくなり、「真夜中」とはどういう意味か分かりました。以前、わたしはあまりにも愚かで、ただ文字どおりに解釈していました。これは明らかに、主の心にかないません。

   今はもう世の終わりであり、聖書の中の預言はほとんど実現しました。では、主はすでに来られたのでしょうか。主が来られたら、人はどのように主を迎えるべきですか。一生主を信じた自分は再来する主を見る機会を逸するのではないかと心配して、わたしは一回また一回と主に祈り、主を呼び求めました。聖書を調べる時、わたしは主イエスの次のような言葉を見ました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙3:20)。わたしはまた、ヨハネの黙示録の多くの箇所で「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」と書かれているのを見ました。これらの預言によって、わたしは主イエスが戻られる時、諸教会に向かって言葉を発表されると分かりました。だから、わたしたちは主の御声を注意深く聞く賢い乙女になるべきです。もしだれかが主が戻られたと証しするなら、わたしたちは真理を求め、調べるべきです。そうしてこそ、主の御声を聞くことができます。そうなったら、わたしたちは本当に目を覚まして主の到来を待つ人、小羊の宴会に出て、神の御座の前に携え上げられる人になります。これらの認識を得た後、わたしはどのように主の到来を迎えるか分かり、主の御声を注意深く聞き、主の足跡を求めると決めました。主がこう言われたのを覚えています。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタ7:8)。だから、主がきっとわたしを導いて彼を見つけさせるとわたしは信じています。主に感謝します。アーメン。