賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神を知る道を見つける

2020-06-29 23:35:25 | 勝利者の証し

   ある日私は、「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」の中に書かれている次の神様の御言葉を目にしました。「長らくイエスに従って、ペテロはイエスの生活の全て、つまりイエスの行動、言葉、動作、表情などを観察し、心に留めた…ペテロはイエスと接するようになってから、イエスの性格が普通の人とは違っていることにも気づいた。イエスは常に落ち着いて行動し、決して焦ることも、誇張することもなく、物事を控えめに表現することもなく、ごく普通で称賛に値するような生活を送った。イエスは会話においては、上品で、優雅で、率直で、朗らかでありながらも、穏やかで、働きを実行するときも決して威厳を失うことはなかった。ペテロは、イエスがあるときは無口になったり、またあるときは絶え間なく話したりするのを見た。イエスは時には嬉しくて、鳩のように敏しょうに、いきいきとふるまい、時には悲しみの余り、まるで風雨にさらされた母親のように、まったく口をきかないこともあった。時としてイエスは、勇敢な兵士が敵を殺すために突進するように、また時には吠え猛るライオンのように憤りで一杯になることさえあった。イエスは時には笑い、時には祈り泣くこともあった。イエスがどのように行動するかに関わらず、ペテロは限りのない愛と敬意をイエスに抱くようになった。イエスの笑い声はペテロを幸せで満たし、イエスの悲しみはペテロを嘆きに落とし入れ、イエスの怒りはペテロを脅かしたが、その一方、イエスの憐れみ、赦し、厳しさによって、ペテロはイエスに対して真の畏敬と憧れを抱くようになり、ほんとうにイエスを愛するようになった。もちろん、これらのこと全ては、ペテロが数年イエスのもとで生活して、次第に分かってきたことである。」(『言葉は肉において現れる』より)これを読んで私は思いました。「道理でペテロは神様を知ることができたわけだ。ペテロはイエス様の側で日も夜も生活しながら、イエス様の言動を一つ一つ目の当たりにし、そうすることで神様が愛されるに相応しいお方であることを知ったのだ。今だって、神様が肉となられて自ら人の世に降臨され、働きをなさる時代だ。ペテロのように神様に直接お目にかかり、共に過ごす機会が得られるなら、私も神様をもっとよく知ることができるのではないか。ああ、神様の御言葉を読むことはできても、イエス様のお顔を拝見できないとは何と残念なことだろう。だとしたら、どうやって神様のことを真に認識することができるだろうか。」

   そう思って悲しくなり、落胆していた時、神様の御言葉が私を啓いてくれました。「神を知ることは、神の言葉を読み理解し、神の言葉を実践し経験することを通じてなされなければなりません。『私は受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知ることができるのか』と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、神の愛と人類の救い、そして人類を救う神の方法を見ることができます。……神の言葉は人間を使って書かせるのではなく、神自身によって表現されるからです。それは神によって直々に表現されるのです。つまり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待を表現しているからです。神の言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はなんと厳しいのかと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、あらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は神の侵すことを許さない性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出向いたりする価値はありません。今、人々が神の前に出向けるのは、ひとえに神の恵みです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義から見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。」(『キリストの言葉の記録』の「受肉した神をいかにして知るか」より)神様の御言葉のおかげで、突然私の目の前に光が射しました。そうです。受肉された終わりの日の神様は、すでにご自身の御言葉によってその性質を残らず人間に示され、ご自身が偉大な力をもち、至高であり、謙虚にお隠れになり、愛される価値があることを人間が見えるようになさり、さらには神様の喜びと悲しみを人間が認識し、神様が所有されているものと神様そのものすべてを人間が知るようにされたのです。このことから、神様の御言葉を読んで経験する以外に神様を知る方法はないことがはっきり分かります。神様の御言葉から離れてしまったら、肉となられた神様に直接お会いしたところでどうなるでしょう。当時のパリサイ人もイエス様に会っているではありませんか。それでもイエス様を十字架にかけたのはどういう訳でしょうか。イエス様の御言葉に耳を傾けず、傲慢で、自分たちの観念と想像に執着し、自分たちが理解できる聖書のわずかな断片を基にして主イエスを拒否し、断罪したからではないでしょうか。それに比べてペテロは、自身の観念と想像を捨て、主イエスの御言葉を注意深く聞き、イエス様が発せられた一言一句を丹念に考えることができたために、イエス様を知ることができました。主イエスのご発言と行動を通じて、ペテロは神様の性質と神様が所有されているものと神様そのものすべてを知り、最後は神様に関する真の認識を得るまでになったのです。この揺るぎない事実は、人は神様の御言葉によらなければ神様を知ることができないということを十分に示してはいないでしょうか。さらに、終わりの日における受肉された神様の主な働きが御言葉の働きであるならば、私が神様を知るにあたって大いに役立つのではないでしょうか。

   自分の論理的思考を思い出せば出すほど、自分がいかに惨めで、愚かで、幼稚であるかを痛感しました。毎日、私は神様の御言葉を手に取り、神様の御言葉を飲み食いし、読み、経験してきたにもかかわらず、それらの御言葉を心から愛していたわけではなく、キリストのお顔を拝見しなければ神様を知ることはできないと考えていたのです。私は本当に祝福された人生を送りながら、それを感謝せずにいたのです。ああ、神様。あなたを知る私の間違った方法を明らかにして正し、神様を知る道を見えるようにしてくださり感謝します。これからはあなたの御言葉を読み、それを深く考え、御言葉を通じてあなたの喜びと悲しみを理解するよう求め、またあなたの愛らしさをさらに多く見つけることで、あなたをより深く知るようになりたいと心から思います。


クリスチャンの結婚 – 神様の御言葉が夫をお戻しくださった

2020-06-28 22:52:51 | 婚姻・家庭

   私の夫は見た目がよいだけではなく、高学歴で、よい仕事に就いています。さらに、かつては兵士で、戦場に行った経験もあります。夫は外見、教育、知識の面で私を上回っています。息子が生まれてからは、夫は仕事から帰宅すると、いつも、洗濯物を手伝ってくれたり、食事を作ってくれたり、息子の世話をしてくれたりしました。夫は息子と私をとても愛しており、本当によき夫で、よき父でした。当時、私は自分のことを世界で最も幸せな女性だと思っていました。私は幸せで、こんなに素晴らしい夫を持っていることを自慢に感じていました。しかし、幸せな一方で、いつか、夫が悪い風潮に従い、別の女性に心を奪われ、私を裏切る日が来るのではないかと、やや不安と危機感を持っていました。

   当時、夫は政府機関のある部門の部門長から、商業グループの副社長に突然昇進しました。夫がこの知らせを伝えてくれたとき、私は嬉しさと同時に心配になりました。嬉しくなったのは、夫の昇進により、名声と社会的地位、そしてお金が手に入るからでした。また、さらによい生活をすることができ、他人が私達を崇めると考えたからでした。一方、不安になったのは、夫が部門長であったとき、仕事のために夜中に帰宅することが時々あり、副社長に昇進すると、接待が多くなり、息子や私の面倒を見ることができなくなること、そして社会には愛人を持つ人が多く、特に、裕福で、有名で、社会的地位がある人々はこの悪い風潮に従う傾向にあること、さらには夫の地位が高くなるほど、よりさまざまな人と出会うこととなり、この悪い風潮に一層従いやすくなってしまことを考えたためでした。これについて考えると、幸福感が突然消失し、その代わりに、不安と恐れで胸が一杯になり、不吉な予感がしました。

   夫が新しい幹部職に就いてから、社会的地位は高まり、より多くの権力を手にするようになりました。目標を達成するために、中間管理職の女性が、一緒に食事したり、お酒を飲んだり、踊ったり、歌ったりして夫を喜ばせるようになりました。最初のうちは、夫もこの退廃的な生活と社会現象に抵抗、憤慨し、それについて強い絶望感を覚えると私に幾度となく言っていました。しかし、徐々に、夫は度重なる誘惑のため、この生活に堕ちないでいることはできず、ご馳走や快楽を求める人生を送り、飲んだり、快楽に浸ったりし始めました。ときには、夜、帰宅しないことすらありました。私は精神的なトラウマとなり、精神崩壊の危機に瀕しました。夫が私にもたらした幸福感はなくなっていました。ある日、息子が「ママ、どうして僕はお父さんに一週間も会っていないの?」と尋ねました。息子の心を傷つけないよう、私は嘘を付き、「お父さんはお仕事で忙しくて、あまりの忙しさに、夜遅くなってから帰宅することがあります。あなたは朝早くに学校に行くからお父さんに会わないのです」と言いました。こう言った後、私は言いようのない悲しみと痛みを胸に感じました。今、私達はお金、名声、社会的地位を手にしましたが、夫は私達から益々遠ざかっていました。これを考えると、かつて感じたことのない孤独と痛みを感じました。私は残りの人生をこのような痛みの強い人生の中で生きていかなければならないのでしょうか?かつて夫が私にもたらしてくれた幸せを思うと、この結婚を諦めたくはありませんでした。離婚の危機に瀕したこの結婚を救うため、次の3原則について夫に交渉しました。1つ目は、夜に接待があるときは、午後9時までに帰宅すること。2つ目は、週に3回は息子と私と一緒に夕食を取ること。3つ目は、浮気をしたら、家の敷居をまたいではならないこと。夫はすぐに同意したものの、夜遅くに帰宅する回数は全く減らず、以前と同じ生活を続けていました。夫が時間までに帰宅しないと、夫と口論になることがあり、そのため、私達の家族から平和な暮らしがなくなりました。夫と私の心は益々離れていきました。かつて、友人や親戚から羨望の的であった私達の家族がこのように壊れてしまったことを目の当たりにし、私は胸が張り裂けるように感じ、失望しました。私は心の中で、「この辛い人生はいつ終わるのだろうか?」と考えました。2012年、私が絶望しているとき、ある人が私に福音を伝道し、私は神様を信じるようになりました。その後、私は、これらの言葉を読みました:ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。

   これらの言葉を読み、夫がひどく堕落してしまった理由は、サタンが人々を腐敗させるために使う邪悪な社会的な風潮のためであることを明確に悟りました。現在、「人生は短いのだから快楽を求めてその日を生きろ」「女性は悪くなると富を手にし、男性は富を手にすると悪くなる」「家庭での赤旗は下がることはないが、家の外のさまざまな色の旗はそよ風の中ではためいている」などの言葉が社会全体でよく使われています。これらの邪悪な悪魔のような考えは社会的な風潮になりました。この社会的な風潮の影響を受け、人類全体が益々邪悪で、堕落したものになっています。当初、夫は家族の面倒を見て、私のことを気にかけることができました。しかし、昇進に伴い、誘惑に耐えかねて、邪悪な社会的な風潮に従い、徐々に自分を見失い、豪勢で贅沢な生活にふけり、完全に私達を顧みなくなりました。夫だけではなく、腐敗した人類全体が、がっしりとサタンにコントロールされ、それに抗うことも、そこから自由になることもできずにいます。この邪悪な社会的な風潮により、人々は、正常な人間性が持つ平凡でシンプルな生活を送ろうとしません。その代りに、邪悪なものを支持し、高い社会的地位や莫大な富を楽しみ、肉の欲望にふけり、欲を満たすために興奮できるものを追い求め始めています。その結果、彼らは人間性もなく、堕落の一途を辿っています。さらに悪いことには、家族関係は崩壊し、彼らの霊は一層空虚で痛み多いものになり、平和や幸せを感じず、益々疲労を感じるようになっています。かつて、最高の夫、賢く従順な子供、名声、富を持つ私は世界で最も幸せな存在であると常々思っていました。事実に直面し、名声や富、物質的な快楽を得たとしても、私達は不幸で、傷付いていることに気が付きました。しかし、どうしたら幸せを取り戻すことができるでしょうか?私は、「かつては夫と口論や喧嘩をしたが、それでは彼を取り戻すことはできない。夫を取り戻し、ひいては結婚生活を取り戻すために私な何をすべきか?」と自問しました。

   その後、 また別の言葉を読みました:「言葉」という語は単純でありふれたものだが、肉となった神の口から出る言葉は、全宇宙を揺るがす。神の言葉は人間の心、その観念や古い性質、全世界の古い姿を変える。…これらの言葉と、この働きはみな、人間が救われ、神の心を達成し、古い創造の世界における元々の姿を変えるためのものである。神は言葉により世界を創り、全宇宙の人間を言葉により導き、言葉により征服し、救う。ついには、言葉により、古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営「救いの」計画が完了する。これらの言葉から、神様は最初に、御言葉により世界をお造りになり、今日、神様は御言葉により私達をお導きくださっていることを理解しました。神様の御言葉のお導きを離れたとき、私達は何が義で、何が邪悪であるかを明確に区別することができなくなりました。そのため、私達は邪悪な風潮に従い、それによる苦しみを味わっているのです。かつては、さまざまな努力やあらゆる手段により、夫を取り戻そうと努力しましたが、どれも失敗に終わりました。この事実に直面し、私のやり方に頼って夫を取り戻し、私達の結婚を救うことは不可能であることが分かりました。同時に、神様によるお救いを受けるために、神様の御前に来ることによってのみ、夫はすべてを見透かし、邪悪な風潮の欺瞞や苦しみを取り除くことができ、神様の御言葉だけが夫の失われた心を目覚めさせ、サタンによる邪悪な風潮から彼を救うことができることが分かりました。私の結婚生活が今後どうなろうと、神様に委ねることにしました。それ以降、私は自分のやり方で夫をコントロールしなくなりました。家族内の口論は徐々になくなっていきました。私はかつて感じたことのない安堵感と解放感を覚えました。神様にお祈りし、神様の御言葉に頼り夫との間の問題を解決しようとすると、神様は私の祈りをお聞き届けになり、環境を実際に整えてくださり、私に道をお開きになってくださいました。

   2013年になり、私は夫に神様の御言葉の証を立て、神様の御言葉を夫に見せました。神様の御言葉を私と一緒に読むことにより、堕落した放蕩生活を送った理由は、サタンによる邪悪な風潮によるものであることを夫は理解しました。夫は自身の楽しみのためだけに生きており、私達を完全に無視することさえあり、そのため、家族関係がもろくなりました。夫はこれまで彼がしてきたすべてを後悔し、神様の御前に来て、祈り、悔い改めました。徐々に、夫は徹夜で家を空けることがなくなってきました。夫に時間があるときは、自宅で息子や私と過ごし、あらゆることについて共に話し合いました。他人が夫を豪華で高級な場所に招待したときは、神様の御言葉に頼り、それらの誘いを丁寧に断りました。夫が誘惑され、惑わされるときは、神様の御言葉から、これらのことを神様が忌み嫌われることを知っていたため、邪悪な性情を裏切れるよう、神様に祈ることによりこの試練に耐えました。夫が変わったのを目の当たりにし、私は心の中でとても喜びました。神様の御言葉が真理であり、道であり、いのちであり、また、神様の御言葉は人々の心、霊、かつての考え、かつての性情を変えられることが本当に分かりました。今、私達は神様の御言葉を読み、意見を交わし、共に経験し、互いに助け合っています。また、神様が私達にもたらしてくださったお救いをより多くの人に証言するため、私達は教会で互いの本分を尽くしています。

   夫を元にお戻しくださり、私達の結婚をお救いくださったのは神様の御言葉でした。私はとても多くのことを経験したため、神様の御前に来て、神様に頼り、真理を求め、神様の御言葉に従い生きることによってのみ、多くのことを見透かし、いのちの正しい道を歩むことができることが分かりました。心の中で本物の平安と喜びを味わい、真実の幸せを得ています!


今日のみことばー神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である (抜粋6)

2020-06-27 22:17:13 | デボーション

   三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。現在、あらゆる教派そして分派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識していないということであり、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できず、そのために彼らは、先の二つの段階の働きと同様に、この段階の働きが神ヤーウェによるものかどうかが解らないのである。神に従ってはいても、ほとんどの人がそれが正しい道なのかどうかを区別できない。人は、この道が神が自ら導いているものかどうか、神の受肉が事実であるのかどうかを気に病んでいるが、ほとんどの人は、このことに関し、どのように見分ければ良いのか一切手掛かりがないのである。神に従っている人たちは、取る道を決断できず、よって、発せられる言葉はこのような人たちの間では部分的な効果しか持っておらず、また完全な効果を発揮できないために、そのような人々のいのちに影響を及ぼしている。三つの段階の働きにおいて、それらが違う時期に、違う場所で、そして違う人々に対して神が為したことであると人が見きわめることができれば、たとえ働きが違っていても、それらは全て唯一の神によるものであることが人には解るであろう。それらが全て唯一の神によって為されたものである以上、それは正しいものであり、間違いはないし、それが人の観念とは合致せずとも、唯一の神の業であることは否定できないのである。人がそれは唯一の神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細な事となり、言及する価値もなくなるであろう。人のビジョンが明確でない上に、人はヤーウェが神でありイエスが主であることしか知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念することに留まり、今日の働きについての観念に悩まされ、ほとんどの人は常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていないのである。人は、見ることができなかった先の二つの段階の働きに関しては、何の観念も持っていない。それは、人が先の二つの段階の働きの実情を理解せず、またそれらを自ら目撃しなかったからである。見えないからこそ、人は好きなように想像するが、どんなに想像しても証拠となる事実はないし、またその誤りを正す者もいない。人は、本能のままに警戒心を捨てて想像力を逞しくさせているのだが、立証する事実がないので、証拠があるかどうかに関わらず、人の想像したことが「事実」となっている。従って、人は自分で想像した神を心の中で信じているわけで、実際の神を求めないのである。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人が居れば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きを実際に見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取りつかれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。信者になってたった一年の人も、自らの観念をとおして神を信じているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神に対する観念がある信仰から抜け出すことはできない。人は自らの古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や言い伝え以外の何物でもないことを人は知らないのだろうか。人はみな自分の観念が正確で間違いないのだと思い、自分の観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を放つのである。だが、過去の想像と考え方がこの段階の働きの障害になったため、人がそのような観念を手放し、またそのような考え方に反論するのが困難になっている。今日まで神に従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は以前にも増して危機的なものになっており、これらの人たちは、徐々に受肉した神に対する頑固な敵意を形成しているが、この憎しみは人の観念と想像から出ているのである。事実は人に想像する自由を与えず、さらに人によって簡単に反論されることはない一方、人の観念と想像は事実の存在を許さず、その上に人は事実の正確さと信憑性には考慮せず、ただひたすら自分の観念を自由に働かせ、自分自身の想像力をたくましくするために、人の観念と想像は、人の観念とは相いれない今日の働きの敵となったのである。これは、もっぱら人の観念の誤りと言えるもので、神の働きの誤りではない。人が何を想像しようが自由だが、神の働きの事実は人が侵すことができないものだから、神の働きのどの段階でも、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えるべきではない。あなたは自由に想像しても構わないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても構わないが、ヤーウェとイエスの働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなた方はこれらの問題の重大さを理解しなければならない。人はこの段階の働きは人の観念と合致しないが、先の二つの段階の働きはその限りではないと信じている。人はその想像の中で、先の二つの段階の働きは今日の働きと同じでないことを確信しているが、神の働きの原則は全て同じであり、神の働きは常に実践的であること、時代に関係なく、いつも神の働きの事実に逆らい反対する人が大量に現れることを考えたことがあるだろうか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく反対していただろう。そのような人々は常に神の敵だからだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三つの段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てるのである。このような人々が神を知る人々であり、真に神に従う人々である。神の経営(救い)の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、最後には神が人を神の支配のもとに戻さなければならないのである。これが三つの段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける前の二つの段階は、全宇宙における神の経営(救いの)計画である。これは誰にも否定できないし、そしてこれが神の働きの事実である。人々はまだこの働きのほとんどを経験もしていなければ見てもいないが、事実は事実であり、人はだれもこれを否定できない。神を信じる全宇宙各地の人々はみなこの三つの段階の働きを受け入れるであろう。もしあなたが一つの特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず過去の神の働きも理解しないならば、あなたは神の全経営(救いの)計画の真相を語ることはできないし、あなたの神の認識は偏ったものである。神への信仰においては、あなたは神を知らず、理解していないために、あなたには神を証しする資格がないのである。あなたの現時点でのこれらの事柄に関する認識が深かろうと浅かろうと、最後には、あなた方は認識を持ち完全に納得するようになるはずであり、あらゆる人が神のすべての働きを目にして、神の支配の下に服従するようになるのである。この働きの終わりには、全ての教派が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪教は無に帰して、二度と現れることはない。

『言葉は肉において現れる』より


今日のみことばー神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である (抜粋7)

2020-06-26 22:03:47 | デボーション

   なぜこのように連続して三つの段階の働きに言及するのか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみなこの三段階の働きが変化するにつれて変わるのである。人類は神の働きに合わせて変化するのであって、人類が単独で発展しているのではない。神の三つの段階の働きに触れるのは、全ての被造物と、各宗教の人々全てを、唯一の神の支配の下に集めるためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けするだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。もしかれらが邪教信者であるなら、神とは相いれないし、そして神と相いれないなら、彼らは神に敵対する者なのである。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。神の働く場所がイスラエルでも中国でも、またその働きが聖霊によるものでも肉体によるものでも、全ては神自らによって行われるもので、他の誰にもできないことである。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働き、これはすべてのビジョンの中で最大のものである。もしあなた方が、神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の心を理解したいのであれば、神の働きを理解し、神の被造物に対する心を理解しなければならず、また神の経営(救いの)計画、そして神の為す仕事の意義の全てを理解しなければならない。これらの事が理解できない者は、神の被造物としての資格がない。もしあなた方が、神の被造物として、自分がどこから来たのかが分かっておらず、人類の歴史や神が行った働きの全てを知らず、さらには人類がいかにしてここまで発展してきたか、また全人類を支配するのは誰なのかを理解していないのであれば、あなた方には、その本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そして神が人類をこの地上に造ってからこれまで、神は一度も人の傍を離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、人類を導き続けて、一度も人から離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、ましてや神を知らないが、神の全ての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物であるのにも関わらず、自分たちの歴史も知らず、これまで自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気付かないから、神を認識できないのだ。あなたがもし今だに知らないとすれば、神を証しする資格はずっとないであろう。今日、創造主は、もう一度あらゆる人々を自ら導き、そしてあらゆる人々に神の英知、全能性、救い、そしてすばらしさを見せている。それでもあなたはまだ気付かず、あるいは理解できずにいるから、それであなたは救いを得られない者になっているのではないか。サタンに属する者たちは神の言葉を理解できず、神に属する者たちには神の声を聴くことができる。わたしの話す言葉に気付いて理解する全ての人々は、救われる者たちであり、また神を証しする者たちなのだ。わたしが言った言葉を理解しない全ての人々は神を証しすることができず、排除される者たちなのだ。神の心を理解できず、また神の働きに気付かない人々は、神の認識を達成することができず、そのような人々は神を証しすることはない。もしあなた方が神を証ししたいと願うなら、あなた方は神を知らなければならないし、その神の認識は、神の働きを通して達成される。結局のところ、神を知りたいと望むならば、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが最重要なのである。三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは6000年にわたる経営(救い)の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しすることができる者は、神の約束と祝福を受けることができる上に、最後の時に残り、神の権威を持ち、神を証しする一団になるだろう。もしかすると、あなた方の全ての人がこの一団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か数人だけがそうなれるかもしれないが、それはあなた方の意思と追求にかかっている。


ヨハネによる福音書20章29節:どのようにトマスの不信になることを避けるのか

2020-06-25 22:46:17 | キリストの再臨

   【編集者メモ】トマスは主を見てから、主イエスが復活されたことを信じました。そのため、トマスの信仰は主に罪に定められ、永遠に神様の祝福を失ったのです。終わりの日に、私たちはどのようにトマスから教訓を得て、主を迎えるのでしょうか。この文章はあなたにその答えを教えます。

   今は既に終わりの日の末期であり、主を迎えるこの肝心な時に、クリスチャンは主イエスの再来を待ち望む心が切実になっています。多くの人は皆主が雲に乗って降臨されるのを待ち焦がれていますが、大きな災害がまもなく降りかかり、私たちはいまだに主が雲に乗って降臨されるのを見ていません。これはいったいなぜでしょうか。まさか私たちは主の再来を迎えることにおける実践を間違えたのでしょうか。これによって、私は聖書に記載されているトマスのことを思い出しました。主イエスが受肉されて働きを行われた間に、トマスはいつも疑いを抱き、心では主イエスがキリストであることを信じていませんでした。トマスは主イエスが復活されたことを聞いた時でも信じず、自分の目で主の霊体を見てから信じたのです。最終的に彼は主イエスから「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。」という宣告を受けたのです。トマスの物語は私たちすべての主の再来を切望している人にとって一つの警告です。もし、私たちは主を迎えることにおいて、ただ自分の目で見るだけによって、真理を尋ね求めないなら、トマスと同じ誤りを犯してしまうのではないですか。これは災害の前に携挙される機会を簡単に失ってしまうのです。このことから、私たちは主を迎えたいなら、トマスの神様への信仰における失敗の根源を理解し、トマスの誤った道を避けることが極めて重要であることが分かりました。次に、一緒に交流して探究しましょう。

 

 

   聖書の中にこう記載されています。弟子たちがトマスに主イエスが復活された知らせを教えた時、トマスは言いました。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」(ヨハネによる福音書20:25)「 イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』。」(ヨハネによる福音書20:29) 実際のところ、トマスは主イエスに従った間に主の御声に耳を傾けず、主イエスの説教がどれほど高くても、人に対してどんなに益になっても、彼はその中から、主の語られた言葉は真理を持っているかどうか、神様の声であるかどうかを尋ね求めなかったのです。いくら彼が何年神様を信じても、結局主イエスの本当の身分を認識することができなかったのです。そのため、彼は常に主イエスの身分に対して疑念を抱き、主イエスがキリストであることを信じず、これは彼の神様への信仰における失敗の根源です。まさにトマスは神様の声を聞き分けられなかったため、主イエスの身分を疑ってかかったのです。主イエスは十字架に釘付けにされる前に、弟子たちにご自身が死後に復活することを言われました。トマスは主の御言葉が成就されることを信じず、彼は弟子たちから主イエスが復活されたと聞いた時、依然として信じず、自分の目で、主イエスの復活された後の霊体が彼の前に現れたのを見てから信じたのです。主イエスが復活された後の霊体で彼に現れた時、彼は自分の目で主イエスの霊体を見て、主の釘痕を触ってから、主イエスが既に復活されたことを信じ、主イエスがキリストであることを確定したのです。しかし、その時は既に手遅れになり、彼の結末は既に定められ、永遠に神様の祝福を失ってしまったのです。

私たちは主を迎えるこの肝心な時に、トマスと同じ誤りを犯しているのです。主が既に受肉して戻られたという証しを聞いた時、あくまでも信じず、神様の声であるかどうかを自ら進んで考察もぜず、白い雲に乗って来られなかったら、主イエスではないと堅く信じ、どうしても自分の目で主イエスの復活後の霊体を見てからでなければ信じない、これは私たちがなかなか主を迎えられない根本的な原因です。ある人は、私たちは預言に基づいて主が雲に乗って降臨されるのを待ち望むのは間違いなのかと言うかもしれません。私たちは聖書の中の主の再来に関する預言がたくさんあり、主が雲に乗って降臨される預言があるだけでなく、受肉されて密かに降臨される預言もあることを知らなければなりません。例えば、主はこう預言されました。「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録16:15)「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音書24:44)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書17:24~25)「人の子」と言えば、人間から生まれ、正常な人間性を持つことを指しているのです。もし、霊或いは主イエスの復活後の霊体であるなら、「人の子」と呼ぶことができません。そのため、これらの預言は、主の再来は災害の前に受肉して密かに来られて働きをなさることを指しているのです。私たちの想像によって、主の再来は復活後の霊体で雲に乗って降臨されるならば、主が密かに降臨される預言はどう実現されるのですか。当時、トマスは主イエスが死者から復活される預言を信じず、まさか私たちも主が密かに降臨される預言が実現されることを信じないのでしょうか。私たちはいまだにトマスの失敗した道を繰り返すのでしょうか。主イエスははっきりと私たちに教えてくださいました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)ここから分かるのは、主の再来はご自身の語られた言葉を用いて私たちに戸を叩き、主を迎えるのに最も肝心なのは神様の声に耳を傾けることだということです。そのため、私たちはトマスの失敗から教訓を得て、主を迎えることにおいて、自分の目で主が雲に乗って降臨されるのを見ることだけによって信じてはいけなく、神様の声に耳を傾けることを重視すべきです。主が受肉して戻られたという証しを聞いたら、自ら進んで尋ね求め考察すべきです。神様の声だと分かったら受け入れて従ってこそ、本当に主を迎えて、主と共に宴席に着くのです。ペテロ、ヨハネなどの弟子たちのように、彼らは主イエスの言葉は権威と力を持つことに気づき、これこそ神様の声であることが分かり、最終的に主イエスに従って、主の救いを得られたのです。彼らは皆受肉された神様の語られた言葉を通して、主を迎えたのです。そのため、彼らは最も祝福された人です。

   もし、私たちが神様の言葉に従って、神様が密かに降臨される間に神様の声を聞いて主を迎えず、依然としてトマスのように、自分の目で見ることによって、主が雲に乗って降臨されるのを待つなら、私たちは主が雲に乗って降臨されるのを本当に見る時、どんな結果をもたらすのでしょうか。聖書にこう預言されています。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録1:7)ここから分かるのは、私たちが自分の目で主が雲に乗って降臨されるのを見るとき、その時はちょうど地上の諸族が胸を打って嘆く時です。理屈から言えば、人々は主を見たら、喜んで主を迎えるはずですが、なぜ地上の諸族はみな嘆くのでしょうか。それは、終わりの日に主の再来はまず災害の前に受肉されて密かに降臨され、真理を語られて人を裁き、清める働きをなさり、それらの神様の声を聞いて尋ね求めて受け入れる人が賢い乙女であり、神様の前に引き上げられるからです。彼らは神様の裁きと清めを受け入れ、神様に勝利者にされた後、神様の受肉されて密かに降臨される働きが完了するのです。その後、大きな災害が降りかかり、善人をねぎらい、悪人を懲らしめるのです。その時が人の結末を定める時でもあります。災害の前に作られたすべての勝利者は、神様に守られて生き残るのです。しかし、それらの主イエスが雲に乗って降臨されるのを熱心に切望し、終始神様の終わりの日の働きを受け入れない人、ひいては終わりの日のキリストを罪に定める人は、徹底的に神様に見捨てられ、排除され、彼らを待っているのは、神様の義なる懲罰です。したがって、神様が災害の後に公然とすべての国とすべての民族に現れる時、彼らは自分が抵抗した終わりの日のキリストがまさに主イエスの再来であるのを知ってから、歯ぎしりして泣くでしょう。その時、主が雲に乗って降臨される預言が実現されるのです。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録1:7)

   今、全世界では全能神教会だけが公然と主イエスが戻られて、それは受肉された全能神であり、真理を語られて終わりの日の人を裁き、清める働きをさなり、災害の前に一群の勝利者を作られる証しをしています。これはまさに主イエスの預言を実現しています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12~13)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)また『ペテロの第一の手紙』4章17節にこう書かれています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」全能神が語られた言葉は、ヨハネの黙示録の預言「御霊が諸教会に言うこと」であり、既にインターネットに載せられ、すべての国々とすべての地方の人に向けられ、自由に尋ね求め考察することができ、これは主が人々に戸を叩いているということです。しかし、一部の人は、主がどう戸を叩いても、耳を塞いで主の御声を聞かず、あくまでもトマスのように自分の目で見ることに基づくなら、神様が災害の前に密かに降臨されてなさった救いの働きを逃してしまうのです。主が雲に乗って公然と降臨されるのを見るときは、まさに懲罰を受けるときであり、その時になって後悔しても手遅れになるのです。まさに主イエスが言われた通りです。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。」(ヨハネによる福音書20:29)全能神も私たちにこのように警告されました。「わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。」(『あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である』より)私たちはいったい神様が災害の前に受肉して密かに降臨されることを否定して、ただ主が雲に乗って降臨されるのを見ることを待って、災いを受ける人になりたいのでしょうか。それとも、主が雲に乗って降臨されるのを見ていない時に、主が受肉して再来され、なさった救いの働きを受け入れて、神様からの約束を受け取る人になりたいのでしょうか。これは、私たち個人の選択によって決まるのです。