賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

あなたは主の再来の2つの方法を知っているのか

2020-08-04 23:34:58 | キリストの再臨

   【編集者メモ】主イエスの再来をうまく迎えることには、主の再来の二つの方法を知ることがとても重要です。では、あなたはこの二つの方法を知っているのでしょうか。

   終わりの日に主はいったいどのように来られるかと言えば、多くの人は聖書に書かれている「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝1:11)に基づき、主イエスが復活後に白い雲に乗って昇天されたので、再来される時にも雲に乗って降臨されると思っています。

   長年において、私たちはずっとこのように雲を眺め、主が戻られるのを待ち望み、主が白い雲に乗って降りてきて、私たちを天国に迎えるのを想像しています。結局長年が経ち、私たちが待っていた結果は神の国に入る喜びではなく、荒廃した教会の泣き声です。実は、思いもよらないことですが、現在、様々な災害が続々と降りかかり、四つの血の月が既に現れ、ハルマゲドンの戦いは間もなく開始し、主の再来の預言は全て実現されているのですが、私たちは盲目で主を迎えていません。これはなぜでしょうか。

   ある書籍にはこう書かれています。「あなたはイエスに会いたいと思うか。イエスと共に生きたいと思うか。イエスの語る言葉を聞きたいか。もしそうであれば、イエスの再臨をどのように歓迎するのか。あなたは完全に備えができているか。どのようにしてイエスの再臨を歓迎するのか。……イエスが再び来る時、あなたにイエスが本当に分かるのか。あなたがたはイエスの語る全てを本当に理解するだろうか。イエスの働きの全てを本当に、無条件に受け入れるだろうか。……何が想像で、何が現実かを知っているか。」

   この一連の問題は私たちの心の奥まで直撃し、私たちを再検討させずにいられなくします。主は本当に私たちが想像するような白い雲に乗って私たちを迎えに来られるのか。もうそうだとすると、なぜいまだに主が白い雲に乗って来られるのをまだ見ていないのか。主の再来はまだ他の方法があるのか。もし主が別の方法で来られるなら、私たちは主を認識できるのか。自ら進んで主の再来を迎えることができるのか。

   私たちはみな答えを知りたく、主を迎えたいです。では、一緒に主は終わりの日にいったいどのように来られるかを見てみましょう。

実は主の再来の方法は二つある

   1、雲に乗って公然と降臨される

   「力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)

   「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」(ヨハネの黙示録1:7)

   これは私たち多数の人が堅く守っている主の再来の方法です。

   2、密かに降臨される

   「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録16:15)

   「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。」(ヨハネの黙示録3:3)

   「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マルコによる福音書13:32)

   「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)

   これは私たち多数の人が見落としている主の再来の方法です。

   これらの聖句に主は「盗人のように」来ると言及し、これは主がこっそりと来られ、密かに降臨され、誰も知らなく、私たちが見ても分からないだと示しています。もし主の再来は雲に乗って降臨されるなら、すべての人が見えて、「盗人」のようにとたえられることはなく、人の間に降臨されて戸の外に立って、叩くこともありません。そして、聖書の多くの箇所には、主の再来は「人の子が来る」「人の子が現れる」と預言されています。例えば次の通りです。「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。」(ルカによる福音書12:40)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書17:24、25)「人の子」と言えば、人間として生まれた普通の人です。主イエスはマリアから生まれ、外見は普通かつ正常でしたが、主イエスは受肉された神様であり、地上で働かれる神様ご自身でした。もし、主が雲に乗って降臨され、霊体で人々の間に現れるのなら、「人の子」と呼ぶことができません。ヤーウェ神は霊であり、天使も霊であり、霊でありながら、いかなる人間の姿を持っていますが、霊のからだに属するものはみな「人の子」と言えません。そして、もし霊体が公然と現れるなら、人々はみな怖がって恐怖に震え、あえて抵抗しないので、神様が苦しみを受け人々に見捨てられることもありません。受肉された神様だけが「人の子」と言えます。人間は神様の本当の身分を認識できず、ひいては神様を普通の人として扱い、様々な観念に基づいて、神様に抵抗し、罪に定めます。当時のパリサイ人が観念に基づいて主イエスがメシアではないと罪に定めたこと同じです。これは聖書の預言「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」を実現されているのです。

二つの方法はどのように実現されるのか

   ある人はこう言うでしょう。聖書に主の再来は雲に乗って降臨され、すべての人の目が見ると預言されています。また主の再来は受肉されて密かに降臨されると預言されています。この二つの方法は見たところ矛盾しています。

   実際のところ、神様の言葉には矛盾がなく、神様が預言された事のすべては成就され、現実となります。

   主の再来はまず受肉されて密かに降臨され、その後雲に乗って公然と現れるのです。なぜ神様はまず受肉されて密かに降臨されるのか。実は、これは神様の終わりの日の出現と働きに関わっています。

   聖書にはこう預言されています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12、13)

   「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)

   「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)

   これらの預言から分かるのは、終わりの日に主が再来される時に、また多くの真理を語られ、私たちをすべての真理に導きます。言い換えれば、神様は終わりの日に神様の家から始まる一段階の裁きの働きをなさいます。言葉を語られ、人を裁き、清め、最終的に人を清められ、一群の勝利者を作れられて天国に導き入れるのです。私たちが知っている通り、私たちは主イエスを信じて罪が赦された。しかし、サタンの堕落した性質はまだ神様に赦されておらず、罪深い本性はまた私たちのうちに存在しています。私たちは人と付き合うときに、寛容や忍耐を実践できず、自分の意の通りにならない事に臨む時に怒り出したりします。口には神様に忠誠し、服従すると言いますが、神様を敬う心がありません。常にこの世の欲にふけって神様から離れたり、家が天災や人災に臨む時に神様に不平を言ったりするのです。これは私たちが罪の束縛と制御から抜け出しておらず、まだ昼間罪を犯し、夜になると告白する状態の中で生きていることを示しています。なぜなら、主イエスがなさった働きは人類を贖う働きであり、人間はもはや律法に断罪されず、束縛されなくなりました。人間を罪から贖い出したのは、終わりの日に罪を取り除く働きの道を整える働きでした。罪の束縛から抜け出したいなら、更なる神様の救いを受け入れる必要があります。そのため、主イエスは「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12、13)と預言されたのです。つまり、神様は人の子となって終わりの日の裁きの働きをなさり、人々は神様の言葉による裁きと刑罰を経験することを通して徹底的に清められるのです。

 

 

   ある人は、この裁きの働きは、神様が霊として働かれることでは、できないのだろうかと質問するかもしれません。

   実は、もし神様が受肉されて言葉を語られるのではなく、神様の霊が直接言葉を語って働かれたら、人を清め救う効果を達成することができないのです。なぜなら、私たちは神様の霊を見ることも触れることもできません。しかも霊が私たちに語られても私たちはまったく分からず、雷の音のように聞こえて怖がるのです。旧約に記載されているヤーウェ神がシナイ山に現れたとき、イスラエルの人々は皆、かみなりと、いなずまとを見て、彼らは恐れおののきました。ヤーウェ神の雲を見て神様に撃ち殺されるのを恐れて、神様の言葉を聞くことがまったくできませんでした。(出エジプト記20:18、19を参照する)しかし、受肉された神様が働いて来られて、地上で人々に接され、人の言語で実際的に言葉を語られ、人々を潤し、養われ、人々に悔い改めの道を与えられます。人々はそれを聞いてから、どのように神様に祈り、悔い改めるのか、どのようにして正直な人になるかなどを知るようになります。そのため、終わりの日に神様は人々を罪から徹底的に救い出すため、もう一度受肉されて働かれ、実際的に様々な真理を語られ、私たちのサタン的性質を暴き、裁く必要があります。それによって、私たちは自分のサタン的本性と堕落の真相に対して本当に認識し、どのように実践すれば堕落した性質から解放されるかを理解し、言葉によって変化され、清められる効果に達します。このような働きの効果は、受肉された神様の実際的な働きだけが達成することができます。

   もし、神様が霊を通して働かれるなら、人々は皆恐れ、皆神様の前にひれ伏して神様を礼拝するので、人々の観念や人の抵抗と反抗を露わにすることができません。こうして真理を憎み、神様に抵抗する邪悪な人々をも露わにすることができません。それぞれはその種類に応じて分類されることもできず、ヨハネの黙示録に預言された麦と毒麦、良いしもべと悪いしもべを分ける働きも成就できません。しかし、神様が受肉されて働きを行われることによって、神様を敬う心がない人は受肉された神様の外観が普通かつ正常であるのを見て、あえて思うままに裁いたり、拒絶したりします。このような人こそ露わにされたパリサイ人、悪いしもべであり、神様を十字架に釘付けにした人です。神様を敬う心を持ち、神様の出現を切望する人は、キリストの外見を見ずに、キリストの言葉と働きを考察し、その中から神様の声が分かって主の元に帰るのです。このような人こそ賢い乙女であり、良いしもべなのです。このようにして善悪が分けられるのです。

   ここから分かるのは、神様の働きの必要に応じて、堕落した人類の必要にも応じて、終わりの日に神様はまず受肉されて密かに降臨されて人を裁き、清め、一群の勝利者を完全にされるのです。この一群の勝利者を作られた後、神様によって大きな災害が降りかかり、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ始めるのです。その時、神様は白い雲に乗って公然とすべての国とすべての民族に現れ、終わりの日のキリストを受け入れず、かえって抵抗する人は皆、災害の中に陥り、歯ぎしりして泣くのです。これはヨハネの黙示録の「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。」(ヨハネの黙示録1:7)という預言を成就することになります。

どのように主の現れと働きを迎えるのか

   それでは、私たちはどのようにして主の現れと働きを迎えることができるのか。ヨハネの黙示録3章20節にこう書かれています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」

   また七箇所に「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と言及しています。

   ここから私たちが分かるのは、終わりの日に神様は語られた言葉を用いて私たちに戸を叩くのです。すべての諸教会に向けた聖霊の言葉を聞く人は、神様の声がわかり、神様の終わりの日の働きを受け入れる人は、主の迎えている人です。そのため、今、私たちはいちずに主が雲にの来られるのを切望して待ってはいけません。神様の声を聞くことを重視することが肝心です。主の再臨の証しを聞いてから、真理の現れと神様の声であるかどうかを謙虚に尋ね求め考察すれば、神様の足跡にたどることができます。

   今、多くの人は皆知っています。「東方閃電」は主が受肉されて密かに降臨され、数百万字の真理を語られ、神様の家から始まる一段階の働きをなさっていると証しをしています。そして、ここ数年「東方閃電」の福音が迅速に広がり、中国大陸および香港、台湾だけでなく、米国、ドイツ、イタリア、フランス、イギリスなどの地域にも全能神教会があり、少なからぬ宗教家、信仰の無い人々は全能神の言葉を読んで、皆これらの言葉には権威と力を持ち、普通の人が話すことができず、聖霊からの語たられた言葉だと感じています。また彼らの教会は神様を証しする映画、MV讃美歌、ミュージカル、漫才などを制作しています。これによって、多くの神様の出現を渇望し尋ね求め、真理を愛する人が褒めたたえ、続々とこのキリスト教会を尋ね求め考察し始めるのです。

   「東方閃電」はこんなに繁栄しているのは、聖霊の働きに極めて関連性が深く、主イエスの再来である可能性は非常に大きいことを言わなくてはならなりません。まさに主イエスが言われた通りです。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書24:27)では、私たちは神様の声であるかどうかを聞き、謙虚に尋ね求め考察すべきではないでしょうか。これは私たちすべての真心で主の再来を待ち望んでいる兄弟姉妹が深く考えるに値します。


再臨のメシアが現れた。私たちはどのように探すべきか

2020-05-12 11:46:05 | キリストの再臨

   【編集者メモ】ここ数年、災害がますます多くなり、聖書の中の主の再来に関する預言は既に実現され、なぜ私たちはなかなか主が雲に乗って降臨されるのを見ていないのか。主は戻られたのか。主の再来はいったいどのように人間に現れ、私たちはどのようにして主を迎えることができるのか。この文章を読んで理解しましょう。

   ここ数年、地震、飢饉、疫病などの災害がますます多くなり、聖書の中の主の再来に関する預言は既に実現され、真心で主の出現を切望する多くの兄弟姉妹は、主が戻られたかもしれないと感じています。しかし、なぜ今、私たちはまだ主を迎えていないのか。主はいったいどこにおられるのか。私たちはどのように主の出現を探し求めるべきか。この話題に言及したら、ある人は、今主はまだ戻られていないので、探し求める必要がない、なぜなら聖書にはこう書かれています。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)主が戻られる時に雲に乗って降臨され、気勢がすさまじく、今これらの光景はまだ現れていないので、主がまだ戻られていないことを証明していると思っています。

 

 

   今二つの違う考えがあります。では、主はいったい戻られたのか。主が再来の時にどのように人間に現れるのか。私たちは主が雲に乗って来られるのを待って、神様の出現を見て主を迎えることを保証できるのか。これ らの問題に対して、私たちは一緒に交流しましょう。

 

主が雲に乗って降臨されるのを座して待つことで、神様の出現を見ることができるのか

   多くの兄弟姉妹は聖句「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝1:11)に基づいて、主イエスが復活されて天に上った時に雲の乗って去り、主が再来される時にも、復活された霊体で雲に乗って来られ、主が雲に乗って降臨される光景を見ていない限り、主がまだ来られていないことを意味すると思っています。しかし、私たちのこのような理解の仕方は完全に神様の心にかなうと保証できますか。ヤーウェ神は言われました。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっているとヤーウェ神は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55:8~9)神様の知恵は天より高く、私たち被造物である人間はどうして神様の働きを推し測ることができようか。終わりの日に主はいったいどのように現れて働かれるかについて、私たち人間はこれを決めつけるべきではありません。当時聖書にメシアが来ると預言され、結局主イエスが来られたように、これは私たち人間が想像できるものでしょうか。当時のパリサイ人は傲慢で高ぶり、自分の観念と想像に固執したため、神様に抵抗する人になりました。主イエスの言葉と働きにはどれほどの権利や力をもっていても、彼らはひたすらに観念と想像に基づいて神様の働きを決めつけ、メシアが来られて権力を担うので、きっと王の宮殿に生まれ、そして外見が威風堂々としていると思っていました。そのため、彼らは主イエスが普通のユダヤ人であり、名前もメシアと呼ばず、王の宮殿に生まれなかったことを見たとき、主の働きを拒絶して受け入れなかっただけでなく、ひいてはローマ政府と共謀して主イエスを十字架に釘付けにしてしまい、最後に神様の懲罰を受けたのです。しかし、パリサイ人はどのように主を罪に定めても、主に抵抗しても、主イエスが現れて働かれたことは事実であり、そして全人類を贖う働きを完成させたのです。ゆえに、神様の出現と働きであるかどうかは、人間が認めるかどうかによって決まるのではなく、神様の働きの事実に基づくのです。今、災害が頻発しており、イスラエルが戻り、四つの血の月は既に現れ、これはまさに主の再来の預言を実現しています。もし、主は既に戻って来られたら、私たちはまだ消極的に主が雲に乗って降臨されることを待っていて、パリサイ人が主イエスに抵抗したことと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。神様が言われた通りです。「あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。」

   実は、終わりの日に主はいったいどのように来られるかについて、聖書には雲に乗って降臨される預言以外に、密かに降臨される預言もあります。例えば、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」(ヨハネの黙示録3:3)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)これらの聖句は「夜中に叫ぶ声がした」「盗人のよう」と言及し、これは主が再来される時にこっそりと来られ、密かに人の間に降臨され、言葉で私たちに戸を叩くことを示しています。もし、終わりの日に主が雲に乗って降臨され私たちに現れるなら、これらの預言はまたどのように実現されるのか。もし、主が雲に乗って降臨されるなら、まだ人に戸を叩く必要があるのか。もし、主が雲に乗って主を信じるすべての人に現れるなら、すべての人があえて抵抗できず、みな主の御前にひれ伏すのですが、聖書に預言された主が再来される時に、毒麦と麦、ヤギと羊、愚かな乙女と賢い乙女を分ける働きをどのように成就されるのか。そのため、私たちは一節また二節の預言に基づいて、主の再来は白い雲に乗って私たちに現れると決めつけてはいけません。このようにして容易に神様の意図を誤解してしまうのです。

 

神様の出現をどのように探し求めるか

   つい先ほど、私たちは聖書の預言に基づいて、主の再来のもう一つの方法は密かに降臨されることに言及しました。では、私たちは神様の出現をどのように探し求めるべきでしょうか。主イエスは言われました。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)また『ヨハネの黙示録』の多くの箇所に預言されています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録第2、3章)主の言葉とヨハネの黙示録の預言から分かるのは、主の現れを探し求めることにおいて、消極的に主が雲に乗って降臨されるのを待ってはいけません。神様の声を聞くことを学び、諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるべきです。神様はどう言われるかを一緒に読んでみましょう。「神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。……

   ……神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちなのです』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。」

   神様の言葉から私たちが分かるのは、神様の現れをその目で見たいと思うなら、神様の足跡をたどりたいと願うなら、神様の語られた言葉を探し求めるべきです。以前、私たちは神様の現れを目で見るのは、主が霊体で白い雲に乗って突然私たちに現れることを指していると思っていました。実際のところ、神様が人間に姿を現すことは何かのしるしではなく、短期間で人間に現れることでもありません。神様が自ら人間の間に降臨されて人類を救う働きをなさり、古い時代を終わらせ、人間に真理を与えられ、人間を新しい時代へと導かれるのです。そのため、私たちは神様の語られた新しい言葉を見つけたら、神様の声を聞き、神様の出現を目で見ているのです。主イエスが現れて働きをなさった時のように、律法の時代を終わらせ、新しい時代を開かれ、悔い改めの道を語られ、人間に罪を告白し、悔い改め、寛容や忍耐、敵を愛するなどを教えてくださり、また天国の奥義、天国に入る条件を明らかにされるなどです。例えば、「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書4:17)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)これらの言葉は私たちがどのように天国に入るかにかかわるのです。聞いたら、とても奥深く、権威と力があり、人間には話すことができないと感じ、受肉された神様が地上で語られた言葉です。それらの主イエスの説教を聞いて、神様の声であることが分かり、主イエスの働きを受け入れる人は、神様の出現を目にし、神様の足跡をたどっているのです。しかし、それらの律法に固執し、ただメシアの到来だけを待つ人は、主イエスの語られた言葉を聞いても、主イエスの行われた奇跡は人間にはできないことを目にしても、神様の出現だと認めません。かえって、主イエスが神様を汚し、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出していると裁き、罪に定めました。これらの人は神様の声を聞き分けないので、愚かな乙女であり、神様に露わにされ排除される対象です。したがって、私たちは主の現れを迎えるには、神様の声に注意を払って慎重に聞くことが肝心です。主イエスは既にご自身が再来される時にまた真理を語られると預言されました。例えば、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12~13)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)またヨハネによる福音書17章17節にこう書かれています。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」ペテロの第一の手紙4章17節にこう書かれています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」これらの聖句から分かるのは、主が再来される時に、私たちの霊的背丈によって、恵みの時代より多く、より高い真理を語られ、つまり「御霊が諸教会に言うこと」を語れて、そして神様の家から始まる裁きの働きをなさり、神様の語られる真理を用いて私たちの堕落した性質を清め、私たちが罪の束縛から解放され、清められて天国に入ることができるようになります。そのため、私たちは主の現れを迎えることにおいて、当面の急務は諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるべきです。

 

神様は既に現れて働かれ、あなたは神様の声がわかったのか

   では、私たちはどこで諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるのか。実際のところ、主は既に戻られ、終わりの日のキリスト全能神であり、既に受肉されて人の子として中国で現れて働かれ、人類を清め、救うすべての真理を語られ、神様の家から始まる裁きの働きをなさり、恵みの時代を終わらせ、神の国の時代を開かれました。今、全能神の神の国の福音は既に西方に広がり、全能神の言葉は20カ国あまりの言葉に翻訳され、インターネットに載せ、全人類が尋ね求め、考察するのに提供しています。これはまさに聖書の預言「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書24:27)の実現です。終わりの日に、全能神が神様の六千年の経営(救い)の働きの奥義を明らかにされ、私たち人類が神様に抵抗する罪を犯す根源を露わにされ、また私たちに清められ、救われる道を指し示してくださり、これらの真理は真の光であり、東から西にひらめき渡るのです。一緒にいくつかの全能神の言葉を読み、これらの言葉は真理であるかどうか、神様の声であるかどうかを見てみましょう。

   全能神は言われます。「わたしの何年もの働きのあいだ、人間は多くを受け、多くをあきらめてきたが、それでも人間は真にわたしを信じていないとわたしは言う。なぜなら、人間はわたしが神であること口先では認めはするものの、わたしが話す真理には異議を唱え、わたしが彼らに要求する真理の実践を行なうことなど尚更ないからである。つまり、人間は神の存在だけを認め、真理の存在は認めない。神の存在だけを認め、いのちの存在は認めない。神の名だけを認め、神の本質は認めない。その熱心さゆえに、人間はわたしにとって嫌悪するべきものとなった。人間はわたしを欺くために、耳に心地よい言葉を使うだけで、わたしを真の心をもって礼拝する者はいないからである。あなたがたの言葉には、蛇の誘惑がある。さらに、それは極端なまでに不遜で、まさに大天使の宣言そのものである。その上に、あなたがたの行いは不名誉なほどにボロのように破れている。あなたがたの過度の欲望や貪欲なもくろみは聞くに堪えない。あなたがたは皆、わたしの家の蛾、嫌悪をもって捨て去られる対象になった。あなたがたの誰も真理を愛する人ではなく、むしろ祝福を欲し、天に昇ることを欲し、キリストが地上でその力を振るう荘厳な光景を見ることを欲する人だからである。しかし、そこまで深く堕落し、神が何であるかを全く知らないあなたがたのような人が、どうして神に従うに値することがあり得るのかを考えたことがあるのか。どうして天に昇れるというのだろうか。壮麗さにおいて前例のないその荘厳さを見るのに、どうして値することがあり得るというのか。」

   「神に対するあなたの信仰の目的は、あなた方自身の目標を達成するために神を使うことである。これは神の性質に背いたことを表すさらなる事実ではないか。あなた方は天の神の存在は信じ、地上の神の存在を否定するが、私はあなた方の見方を認めない。私は地に足を着け地上の神に仕える人だけを賞賛し、地上のキリストを認めようとしない人は決して賞賛しない。そのような人は、どれほど天の神に忠実であろうとも、最後は悪人を罰する私の手から逃れられない。このような人は悪人である。彼らは神に敵対し、キリストに喜んで従ったことのない邪悪な者たちである。無論、キリストを知らない者、さらにはキリストを認めない者もみなこれに含まれる。」

   「わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。」

   全能神のこれらの人を裁き、露わにされる言葉を読んで、真の心と霊がある兄弟姉妹は、皆神様の言葉の権威と力を感じ、神様の義なる性質の現れを目にすると思います。全能神の言葉は私たちの真理を憎み、貪欲、偽り、横柄で傲慢などの堕落した性質、また信仰において誤った観点を明らかにされます。以前私たちは自分が苦労して働き、すべてを捨て苦しみを受けることができ、神様を愛する人であると思っていました。神様の言葉の裁きを受け入れることを通して、私たちは自分の性質は極めて傲慢であり、神様の出現と働きが私たちの観念と一致しないとき、あえて観念と想像によって神様の働きを決めつけてしまうのです。同時に、私たちの神様への信仰が極めて不純であり、真理を得て、神様の愛に報いるために神様を信じるのではなく、祝福を得て災害から逃れて天国に入るためであることに気づきました。私たちは神様のために自らを費やしますが、私たちは神様への本当の従順、本当の愛がありません。神様が祝福してくださる時、私たちは進んで神様のために自らを費やします。しかし、患難や試練に臨む時、私たちは自分を制御できずに神様に不平を言い、ひいては神様を疑い、否認します。これらの言葉の裁きがなければ、私たちは自己を少しも知らず、自分を称賛さえし、自分が既に神様を愛し、神様に従順な人であり、主が再来される時に直接引き上げられて天国に入れると思っています。しかし、神様の言葉の裁きを受け入れてから、私たちは神様がとても聖くて義なるお方であり、神様を信じることにおいて、罪から抜け出すために真理を追求せず、祝福と恵みを得るために神様を信じるのは、神様を利用し、神様の性質を犯すことであるのを感じました。再び自分が神様に従順な人だと大言せず、自分が深く堕落している人であることを感じ、速やかに真理を追求し、肉に背き、堕落した性質から抜け出すべきです。同時に私たちは、終わりの日のキリストが語られた真理をもって人を裁く真摯な意図を理解し、神様の人を裁く言葉は厳しいですが、皆より私たちが自分を反省し、真の悔い改めと変化に達するため、神様の義なる性質は神様の私たちへの憐れみが含まれておられます。私たちが神様の裁きと刑罰を経験しなかったら、永遠に自分がどれほどサタンに深く堕落させられたかを見極めることができず、永遠に神様の義、威厳、背くことの許されない性質を認識できず、神様への敬う心を生み出すこともできず、永遠に罪の束縛から抜け出し、真の神様に順従な人になることもできません。もし、神様が受肉されて言葉を語られなかったら、誰かの言葉が背くことの許されない聖く義なる神様の性質を表すことができるのか。誰かが言葉を語って私たちの堕落した本質を裁き、明らかにすることができるのか。終わりの日に全能神が人を裁き、人を清めるすべての真理を語られ、神様ご自身の身分と地位が完全に明らかにされ、人類に対して裁き、罪に定めることであり、清め、救いでもあります。終わりの日に、神様は災害の前に言葉によって神様の出現を切望する人々を探し求めるのです。ノアの時代のように、神様は災害が降りかかる前に、人を救うためにノアに福音を伝えるように命じられ、福音を受け入れ、神様の言葉を信じる人々は生き残り、ノアの八人家族が神様の言葉に聞き従い、順従に箱舟に入り、最後に生き残りました。しかし、それらの事実を見ていない、信じない人々は洪水に滅ぼされました。終わりの日に、終わりの日のキリストの言葉の裁きを受け入れる人々は、清められ変化され、災害の前に神様に勝利者にされ、神様に次の時代へと導かれて、神様の祝福と約束を受け継ぐことができます。神様が勝利者の群れを作られた後、神様は大きな災害を注ぎ、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、雲に乗って公然と人間に現れ、それらの主が雲に乗って降臨されることだけを待ち、神様の密かにされている働きを拒絶する人々は、災害の中に落ち、懲罰を受け、歯ぎしりして泣き、これはまさに聖書の預言「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)を成就されています。

   それでは、私たちはどのように神様の終わりの日の働きを扱うならば神様の心に適うのでしょうか。全能神は言われます。「イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、のんきであってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。」全能神の言葉には神様の私たちへの期待が含まれ、神様は私たちが神様の終わりの日の働きに直面するときに、まず観念や想像によって決めつけずに、一人の謙虚で真理を尋ね求める人になり、神様の語られた真理を聞き、神様の声であるかどうかを尋ね求めることを求められています。こうして私たちは主の現れを迎えることができます。そうでなければ、この数年間私たちは神様を信じてきて、主の迎える機会を逃れてしまい、後悔しても後の祭りになるしかありません。


主が戻られてどこに現れるのか

2019-09-04 22:17:01 | キリストの再臨

シャォシィさん、

昨日、私はリュウ兄弟から地元の教会が今、さらに荒んだ状態にあることを知りました。そして、教会を蘇らせるために、シャォシィさんは頻繁に断食し、祈りを捧げ、20日間も何も食べず、空腹のために気絶することもあると聞きました。私はこれを知ってとても心配していますので、今すぐにでもあなたとお話しをしたいと思っています。しかし、教会でやるべきことがありますので、まずはリュウ兄弟にこの手紙をあなたのもとへ届けるようお願いしておきます。

シャオシィさん、教会の荒廃は最近宗教界全体に広まっています。それに、主の再臨のしるしは基本的に既に成就しています。なので、私たちは何もせずにただ座って主の来臨を待っているわけにはいきません。私たちは聖霊の働きが宿る教会を探しに行って、子羊の足跡を辿るべきです。私は以前、頻繁にあなたと一緒に主の再臨について交流したのを覚えています。主は再臨される時にどこに現われるのかという話をした時、私たちはゼカリヤ書14章4節を学びました。「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り……」私たちはこの聖句を読み、それは主が再臨なさる時、主は間違いなくユダヤにあるオリーブ山に来られ、注意深く主を待っていた人たちに、その御姿を現しになると預言しているものと思っていました。これ故に、私たちは長年に渡ってイスラエルに注目してきたのです。特に、4つの血の月が現れた後、私たちは主の再臨の知らせを受けるのが待ち遠しくなり、更にイスラエルに注目するようになりました。その時、私たちに、イエス様は既にお戻りになられ、中国に現われて、働きをされておられると説教する人たちがいました。そして、彼らは主の再臨をお迎えする機会を逃すのを恐れ、私たちに可能な限り早く探求し、調べるよう助言しました。しかし、私たちはこう思いました。「彼らが説いている内容は聖書の預言に沿っていませんし、神が以前になされた二段階の働きは共に、何世代にも及ぶ信者たちが暮らすイスラエルで行われているのに、どうして神が中国に現われて働きをなさるというのでしょう。さらに、歴史を振り返っても、中国は人々が香をたき、仏陀と悪霊を礼拝し、クリスチャンは最も厳しく迫害されるという国です。それは最も遅れていると同時に、最も神を信じたがらない国です。なので、神が中国に現われて働きをなさるなんてことはありえないのです。」従って、当時、私たちはそれを受け入れず、教会にとどまり、主がいつかユダヤのオリーブ山に現れるのを待ち続けました。

私はここに来た後、ヂャオ兄弟と出会いました。彼の言ったことは私の考えを変えました。彼はこう交流してくれました。「聖書にはこう書かれています。『ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。」』(ローマによる福音書11:33-34)神の知恵は人間が計り知れるものではありません。私たちは神の働きを自分たちの考え方に照らして分析することもできません。さらに、神は決して将来なさる働きを私たち人間と予め話し合われることはなく、なす必要のある働きを直接なさり、私たちは神を神の働きから知り、そして神に従います。これと同様に、終わりの日の主の再臨に関しても、私たちは主の現れを自分たち独自の観念の中で定義するべきではありません。私たちはもっと探求して、もっと主に祈りを捧げるべきです。こうしてのみ、私たちは主の預言を完全に理解して主の来臨をお迎えすることができるのです。」

ヂャオ兄弟の言葉を聞いていると、私は過去のパリサイ人が頭に浮かびました。イエス様がメシアとは呼ばれておらず、王宮のお生まれでもないと知った彼らは、預言の文字とそれぞれの観念および想像に従ってイエス様に反対し、イエス様を非難しました。最終的に、彼らは主を十字架に釘付けにし、それが神の性質を怒らせる結果となって、彼らは神の怒りの下で滅びていったのです。終わりの日において、主の再臨の預言に関する自分たちの観念と想像に固持していたのでは、私たちも無意識のうちに主に抵抗したパリサイ人の道を歩むことになるでしょう。それは危険なことです。私はこの時初めて、このように待ち続けていたのでは決して主をお迎えできるようにはならないと気が付きました。こうして、私は自分の観念を脇に置き始め、主のお導きを求めて頻繁に主に祈りました。

私は主に祈りを聞いてくださったことを感謝しました。その後、私はある聖句を見つけました。マラキ書1章11節です。「日の出る所から没する所まで、異邦人のうちにわが名はあがめられている……と、万軍のヤーウェは言われる。」そして、イザヤ書にはこの記録があります。「だれが東から人を起したか。彼はその行く所で勝利をもって迎えられ、もろもろの国を征服し、もろもろの王を足の下に踏みつけ、そのつるぎをもって彼らをちりのようにし、その弓をもって吹き去られる、わらのようにする。彼はこれらの者を追ってその足のまだ踏んだことのない道を、安らかに過ぎて行く。」(イザヤ書41:2-3)マタイによる福音書24章27節です。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」これらの聖句に「異邦人」、「東から人を起こした」や「いなずまが東から」という言及があることから、主が働きをしに戻られる場所は東にあり、異邦人のいる所であることが分かります。そして中国はちょうど世界の東に位置しています。無神論国家である中国は神を礼拝したことが一度もなく、歴史を通してもクリスチャンを迫害してきています。中国人はかつて幾つかのキリスト教国から「異邦犬」と呼ばれていました。中国は正に異邦国の典型的な例なのです。これらの聖句を学んだ後、私は聖書の中に神は終わりの日に中国に現われて働きをなさると預言した記録があることを知りました。私たちが思っていたことは間違いであり、それは間違いなく私たちの観念と想像から生まれていたのです。

この問題のより明確な理解を得ようと、私はヂャオ兄弟と交流することを求めました。当時、ヂャオ兄弟は私と沢山交流して、私の心を明るくしてくれました。私が最も感心したのは、彼が読んでくれた2つの節の御言葉です。これがそのコピーです。

「神はイスラエルの民を導きユダヤに生まれたが、また、異邦人の国にも生まれる。神の働きはみな、神が創造した人類全体のためではないのであろうか。神はイスラエルの民を百倍愛し、異邦人を千倍憎んでいるのであろうか。それはあなたたちの観念ではないのか。……もしあなたたちが神はイスラエル人だけの神であるといまだに言い張り、イスラエルのダビデ家が神の誕生の起源であり、イスラエル以外の民族はどれも神を『生む』資格がないどころか、異邦人の民族はヤーウェの働きを直接受けられはしないと信じているのなら──もし、まだこのように考えているのなら、それは、頑固に抵抗していることではないのか。……あなたたちはまた、神がどうして異邦人の国に直接顕現しえるということを考えてみたこともない。神はシナイ山かオリーブ山に下り、イスラエル人に現れるはずではないのか。異邦人(つまり、イスラエルの外の人々)はみな、神の嫌悪の対象ではないのか。どうして神が自らそうした者の間で働くのか。こうしたことはみな、あなたたちが長年の間にもつに至った根深い観念である。今日あなたたちを征服する目的は、あなたたちのそうした観念を打ち砕くことである。だから、あなたたちは神がシナイ山やオリーブ山ではなく、あなたたち、過去に神が導いたことのない民族の間に現れるのを見た。」(「征服の働きの内なる真実(3)」より)

「わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、わたしが呪った民族をも含む異邦人のすべての民族の神であることをわたしはあらゆる人々に知らしめる。わたしはすべての被造物の神であることをあらゆる人々に知らしめる。これがわたしの最も大きな働き、終わりの日のための働きの計画の目的、終わりの日に成就される唯一の働きである。」(「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」より)

私はこれを読み終えた後、突然気が付きました。「その通りだ!神はイスラエル人のみの神ではなく、全人類の神でもあるのです!この全世界が神によって創造されているのです。神はどの国にでも現れる権利をお持ちで、いかなる国や民族の私物ではないので、いずれの規則による束縛も受けないのです。」しかし、私たちは神が以前になされた2段階の働きはイスラエルで行われていたことを知った時、心の中で主は再臨なさる時はイスラエルのみに現われて、異邦国には現れて働きをされないという観念を持ちました。私たちは当時、聖句の文字を固持してイエス様に抵抗したパリサイ人のようだったのではないでしょうか?このような観念は私たちの神に対する誤解であり、勝手な定義であることが分かります。そんなものを固持しながらどうやって主に認めていただけるというのでしょう。実際、主がお戻りになり、中国に来て働きをするために受肉されたということには主の知恵と素晴らしさが込められているのです。主が再臨されて、働きをするためにユダヤに降臨され続けていたら、私たちは常に神の存在をイスラエルに限定し、神はイスラエル人のみの神であると主張してしまうでしょう。神の知恵は本当に私たちには計り知れないものなのです。

私たちは以前、自分たちの観念の中を生きていたため、主が中国に現われたと聞いた時にそれを調べず、ただ単に神がイスラエルのオリーブ山に現われることを待ちました。これはあまりにも理不尽なことです。今、宗教界は荒れはてた状態にあり、災害は増々深刻になっています。これ故に、私たちは自分の観念と想像に固執して神の現れを待ち続けていてはいけないのです。私たちは私たちの国家の持つ観念を打ち破って主の足跡と現れを探すべきなのです。こうしてのみ、教会が荒んだ状態にある問題を解決することができるのです。現在、私は神の現れと中国における働きについて調査しており、彼らの説教には本当に真理があり、それは私たちの抱える問題と困難を解消することができると同時に、私たちに教会が荒んだ状態に陥った理由をとても明確に示していることを知りました。彼らの説教は正に私たちのいのちが必要とするものを備えてくれています。

シャオシィさん、私はあなたもご自分の観念を捨て、直ちに率先して終わりの日における神の現れの働きを探求、そして調査し、兄弟姉妹たちを荒んだ教会から導き出せることを願っています。良い知らせが聞けることを楽しみにしています!

敬具

リーユー