賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

宗教的な奉仕は一掃されなければならない

2020-10-05 22:18:17 | デボーション

   全宇宙における神の働きが始まって以来、神は多くの人々を神に仕えるように運命づけてきた。そこにはあらゆる社会的地位の人々が含まれている。神の目的は、神の心を満たすことと、神の地上での働きが、必ずとどこおりなく成就するようにすることである。これが神に仕える人々を神が選ぶ目的である。神に仕える人は誰もがこの神の旨を理解しなければならない。この神の働きを通して人々は、神の知恵、神の全能性、また神の地上における働きの原則をよりよく見て取ることができる。神が実際に働きを行なうために地上に来て人々と接触するのは、人々が神の業をより明確に知ることができるようにである。今日、あなたがたのこの集団は幸運にも実践の神に仕えている。これはあなたがたにとって計り知れない祝福である。実のところ、これは神が人を引き上げているのである。神に仕える人の選択において、神は必ず神自身の原則をもっている。神に仕えることは、人々が想像するように、ただ熱心さの問題ではないことは絶対である。今日あなたがたは、神の前で神に仕える人は誰であれ、それは彼らに神の導きと聖霊の働きがあるから、また、彼らは真理を追究する人々であるから、そうしているのを見ている。これらは、神に仕えるすべての人に要求される最低限の必要事項である。

 


   神に仕えることは単純な作業ではない。堕落した性質が変わらないままの人は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないのならば、その性質はいまだにサタンを表している。これは、あなたの奉仕があなた自身の善意から出ていることの十分な証明である。それはサタン的性質にもとづく奉仕である。あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行ないたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。これは人間の経験から来る教訓である。人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まし悔い改めないならば、最後には終わりの日に出現する偽キリストとなり、人間を騙す者となるであろう。話しにでる偽キリストと詐欺師は、この種の人から現れる。もし神に仕える人々が自分たちの性格に従い、自分たちの意思のままに行動したならば、彼らはいつでも追放される危険にある。他人の心を獲得し、見下すような態度で他人に訓戒し人々を制限するために自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位からくる恩恵を諦めない人は、神の前に倒れるであろう。このような人はパウロと同類の人間であり、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きのじゃまをする。人は古いものに固執することを好む。過去の観念、過去からの物事に固執する。これは奉仕への大きな障害である。それらを捨て去ることができなければ、それらがあなたの全生涯を圧迫するであろう。たとえ脚を折るほど走り回ったり、大変な労苦を背負っても、また神への奉仕において殉教したとしても、神は少しもあなたを褒めることはない。それどころか逆であり、神はあなたを邪悪な行いをする者だと言うであろう。

   宗教的な観念をもたず、古い自分自身を脇へやる覚悟ができており、純朴に神に従う人々を、神は今日から正式に完全にし、また神の言葉を待ち望む人々を神は完全にする。このような人々は立ち上がり、神に仕えるべきである。神には終わることのない豊かさと無限の知恵がある。神の驚くべき働きと貴い言葉は、それらを享受するさらに多くの人々を待っている。現状では、宗教的な観念をもつ人、経歴の長さゆえに尊大に振る舞う人、自分自身を脇へやることができない人は、これらの新しい物事を受け入れるのに困難を覚える。このような人々を聖霊が完全にする見込みはない。もし人が服従の決心をせず、神の言葉を渇望していないのならば、新しい物事を受け取ることはできない。そのような人々はますます反抗的に、ますます狡猾になり、最終的には悪い軌道に乗ってしまう。神は現在その働きを行ないながら、神を真に愛し、新しい光を受け入れることのできるさらに多くの人々を引き上げる。そして自分の経歴の長さゆえに尊大に振る舞う宗教官僚たちを、神は完全に切り捨てる。変化を頑固に拒む人々も、神は一人として欲しない。このような人になりたいのか。あなたは自分の好みに従って神に仕えるのか。それとも神が求めることを行なうのか。これはあなたが自分自身で知っておくべきことである。あなたは宗教官僚の一人なのか。それとも神に完全にされる生まれたばかりの赤子なのか。あなたの奉仕のどれほどが聖霊に褒められるのか。神がわざわざ記憶するほどでもないものがどれほどあるのか。長年の奉仕の後、いのちのどれほどが変化したのか。あなたはこれらのことをよくわかっているのか。もし真の信仰があるのなら、以前からの古い宗教的観念を脇へやって、新しいやり方で神にさらによく仕えるであろう。今、立ち上がるのは遅すぎない。古い宗教的観念は、人のいのちを抑えつけてしまう。人が得る経験は、人を神から遠ざけ、独自のやり方で物事を行なうようにしてしまう。もしそれらを捨てないのならば、それはいのちの成長のつまずきの石となる。神に仕える人々を神は常に完全にしてきた。神はそのような人々を軽々しく追放することはない。もし神の言葉による裁きと刑罰を真に受け入れるならば、もし古い宗教的実践と規則を脇へやることができ、古い宗教的観念を今日の神の言葉を判断する基準として用いるのをやめるならば、そのとき初めてあなたには未来がある。しかし、もし古い物事に執着し、いまだにそれらを大切にするならば、救われることはない。神はこのような人々には一切気を留めない。もし本当に完全にされたいと望んでいるのならば、以前からのあらゆるものを完全に捨て去る決心をしなければならない。たとえ以前になされたことが正しかったとしても、たとえそれが神の働きであったとしても、それを脇へやり、それに執着することをやめることができなければならない。たとえそれが明らかに聖霊の働きであり、聖霊により直接に行なわれたことであったとしても、今日はそれを脇へやらなくてはならない。それにしがみついてはならない。これが神が要求することである。すべては刷新されなければならない。神の働きと神の言葉において、神は以前にあった古い事柄に言及することはなく、神は昔の歴史を追究することはない。神は常に新しく、決して古いことがない神である。神は過去の神自身の言葉にさえ執着することはなく、このことから、神はいかなる規則にも従わないことが明らかである。この場合、もし、人間であるがゆえに、あなたが常に過去の物事にしがみつき、捨て去ることを拒否し、それらを形式的なやり方で堅苦しく適用するものの、神はもはや以前のやり方では働いていないのであれば、あなたの言動は破壊的ではないであろうか。あなたは神の敵になってしまったのではないであろうか。あなたはそれらの古い物事のせいで自分の全生涯を破滅させてしまうつもりなのか。それらの古い物事のために、あなたは神の働きを妨害する人となる。あなたがなりたいのは、このような人なのか。こうなるのを本当に望まないのであれば、今していることを直ちに止めて、向きを変えなさい。そして、初めからやり直しなさい。神はあなたの過去の奉仕を覚えていることはない。


適切な牧者が備えておくべきもの

2020-10-02 19:36:06 | デボーション

   あなたは、聖霊が人々に働きかける時に人々が置かれる多くの状況を理解しなければならない。特に、協調して神に仕える者たちは、聖霊が人々に働きかけることによってもたらされる様々な状況をよりしっかりと把握していなければならない。あなたが語るのが、単に多くの経験と成長する手段についてであるならば、その経験はあまりにも一方的である。自分の真の状態を知らず、あるいは真理の原則を把握していないならば、性質の変化を成し遂げることはできない。聖霊の働きの原則を知らず、あるいはそこから生まれる果実を理解していないならば、悪霊の業を見分けることは難しい。あなたは悪霊の業と人々の観念を明らかにし、単刀直入に問題の核心に触れなければならない。あなたは神を信じる上での、人々の実践における様々な逸脱や問題を指摘し、彼らがそれを認識できるようにしなければならない。少なくともあなたは、彼らに否定的で消極的な感情を持たせてはならない。しかし、あなたは大半の人々に客観的に存在する困難を理解する必要があり、あなたは不合理になってはならないし、「豚に歌を教えようと」してはならない。それは愚かな行為である。人々の様々な困難を解決するには、あなたは聖霊の働きの原動力を理解し、聖霊が様々な人にどのように働きかけるのかを理解し、人々の困難や欠点を理解し、その問題の重要課題を見抜き、問題の原因に触れなければならず、逸脱や誤りがあってはならない。このような人間こそ、神に仕えるための調整役となる資格がある。

 


   あなたに重要課題が把握でき、様々な物事をはっきり見ることができるかどうかはあなたの個人的な経験次第である。あなたがどう経験したかは、他の人々をどのように導くかに影響を及ぼす。あなたが書簡や競技を理解できれば、他の人々が書簡や教義を理解できるように導くことができる。あなたは自分が神の言葉の現実性を経験したように、他の人々が神の言葉の現実性において成長するよう導く。もしあなたに多くの真理を理解することができ、神の言葉にある様々な物事をはっきり見ることができるなら、あなたは様々な真理を理解するように他の人々を導くことができ、あなたが導いた人々はビジョンを明確に理解できるだろう。もしあなたが超自然的な感覚を把握することに重点をおくなら、あなたの導く人もまた、超自然的な感覚に重点を置くだろう。もしあなたが実践を怠り、語ることを重視するなら、あなたが導く人もまた、実践や性質の変化もなく、話すことに重点を置くだろう。そして真理の実践もないまま外側にばかり熱心になるだろう。他の人々に提供できるものは全て、自分自身が持っているものである。どのような人であるかによって、他人をどう導くかが決まり、どのようなタイプの人々を導くかが決まる。神に用いられる者として真に相応しい者となるには、強い願望だけではなく、神からの多くの啓き、神の言葉による導き、神による取り扱い、そして神の言葉による精錬が必要である。それを土台として、あなた方の普段の見解、考え、思案、結論、吸収または排除に注意を払うべきである。それらは全てあなた方が現実において成長する為の道であり、そのどれ一つとして欠かすことはできない-神はこのように業を行なう。もしあなたが、神が業を行うこの方法において成長するならば、あなたには日々神によって完全にされる機会が与えられるのである。そしてどんな時であろうと、厳しい環境であるか好ましい環境であるか、試練にあっているか誘惑を受けているのか、働きをしているかしていないのか、個人で生活しているか集団で生活しているのかを問わず、あなたは常に神によって完全にされる機会をひとつも逃さず見出すであろう。あなたはその機会全てを見出すことができ、またこのようにして神の言葉を体験する極意を見出すであろう。


キリストの本質は父なる神の心への従順

2020-10-01 23:01:55 | デボーション

  受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きは人を救い、神の心を行うためのものである。神が肉となったため、キリストは自身の肉において神の本質を実現し、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分になる。神の霊の働きはすべて受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心となるのがキリストの働きである。そこにほかのどの時代の働きが混ざり合うこともない。そして神が肉となるのであるから、神は肉としての働きをする。神は肉の形をとって来るので、自身のなすべき働きを肉となった姿で成し遂げる。神の霊も、キリストも神自身であり、神はしかるべき働きをし、しかるべき職分を果たす。

 


   神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神から来る権威に完全に服従することができる。霊の働きも、肉の働きも、互いに相反することはない。すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質のある肉も権威を有すが、肉となった神は父なる神の心に沿った働きをすべて行える。こうしたことは人には実現も想像もできない。神自身が権威であるが、神の肉は神の権威に服従することができる。これが「キリストは父なる神の心に服従する」という言葉に秘められた意味である。神は霊であり、救いの働きができるように、受肉した神も救いの働きをなすことができる。いずれにしても、神自身が神自身の働きをする。神は阻止することも、干渉することもせず、まして互いに対立する働きをすることはない。霊と肉は働きの本質が似ているからである。霊も肉も一つの心を行い、同じ働きを管理するために働くからである。両者は性質が異なるが、本質は同じである。どちらも神自身の本質と、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善と、すべての愛の現れである。肉の姿であっても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてでも、神は心底から父なる神に従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た性質を持っている理由は、サタンが人に影響を与え堕落させたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。どんなに働きが困難で、肉が弱くても、キリストは肉のうちに生きながら、神自身の働きを阻止するようなことは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の心を無視するようなことない。キリストは父なる神の心に逆らうくらいなら肉の痛みを受けることを選ぶだろう。イエスが「父よ、もしできることならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と祈ったようにである。人は選択をするが、キリストはそうしない。彼は神自身の身分を持っているが、肉ある神として、なお父なる神の心を求め、父なる神から委ねられた任務を果たす。これは人には不可能なことである。サタンから発生するものが持ち得る本質は神に逆らい、抵抗するものでしかなく、神の本質ではない。その本質は完全に神に服従することができず、ましてや神の心に進んで従うことなどできない。キリスト以外の人間はみな神に反する行いをすることができ、神に委ねられた働きを直接引き受けられる者はひとりもおらず、神の経営を自分自身がなすべき本分と考えられる者もひとりもいない。父なる神の心に服従することはキリストの本質である。そして神への不従順はサタンの特性である。この二つの性質は相いれないものであり、サタンの特質を持つ者はキリストと呼ばれ得ない。人がキリストに代わって神の働きを行えないのは、神の本質がまったく備わっていないからである。人は自己の利益と将来の前途のために神に尽くすが、キリストは父なる神の心を行うために働く。

   キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉の姿をしているが、その人間性は肉を持った人間とまったく同じものではない。キリストは特有の性格を持っており、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たない。キリストの弱さはキリストの人間性に起因する。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような制限は一定の範囲と時間内のものであり、無限大ではない。キリストが神性による働きをする時が来ると、それはキリストの人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性は完全にその神性の指示を受ける。キリストの人間性による普通の生活の他に、人間性によるほかの行動もすべて、キリストの神性の影響、働きかけ、指示を受ける。キリストは人間性を持っているが、それは神性による働きを邪魔するものではない。キリストの人間性がキリストの神性の指示を受けているからこそである。キリストの人間性は、ほかの人々の前ではその行いにおいて成熟していないが、それはキリストの神性のなす普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性はその神性に直接指示され、普通の人のそれよりも理知が高度であるということである。彼の人間性は働きにおいて神性によって指示されることに最も適している。キリストの人間性は神性による働きを現し、神性による働きに服従する能力が何よりも高い。神が肉の姿で働きをなす時、神は肉を持つ人が果たすべき本分を決して見失わない。彼は天にいる神を真心で礼拝することができる。彼は神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、彼がこの地上に来て、人の外観を持つ被造物となり、かつては持っていなかった人間性を持つようになったことにほかならない。天にいる神を崇拝することができるということだ。これはキリストが神自身であるということで、人にはまねのできないことである。彼の身分は神自身である。彼キリストが神を崇拝するのは、肉の観点からである。ゆえに、「キリストは天にある神を崇拝する」という言葉は間違いではない。彼が人に要求するものはまさに神自身の存在である。彼が人間に要求する事柄は、自身も既に成し遂げている。彼は人間に要求しておきながら自らはそれらから免れるようなことはしない。そのことがすべて彼の存在を成しているからである。彼はどのように働いても、神に敵対するような行為はしない。人に何を要求しても、人がなしえる以上の要求はしない。彼のすることはひたすら神の心を行うことであり、神の経営(救い)のためである。キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえに彼はあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それは彼の身分を決定する。よって彼の人間性がいかに普通であっても、神自身の身分を持っていることは否定できない。彼がどのような観点から語り、どのように神の心に従っても、神自身ではないと言うことはできない。愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠陥と見なす。人はどれほど自身の神性を現して明らかにしたキリストをも、キリストと認めることができない。そしてキリストが服従と謙遜を示せば示すほど、愚かな人間は益々キリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で尊大な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。人の神に対する抵抗と不従順は、肉となった神の本質が神の心に従うという事実と、キリストの普通の人間性とから来る。ここに人の神に対する抵抗と不従順の根源がある。もしキリストが人間としての外観を持たず、被造物としての観点から父なる神の心を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、不従順になる人間はおそらくいないだろう。人が常に天にいる目に見えない神の存在を信じようとする理由は、天にいる神は人間性を持たず、被造物としての性質を一つも持たないからである。そのため人は常に天にいる神には最大の畏敬を抱き、キリストには侮蔑的な態度をとる。

   キリストは地上で神自身の代わりに働くが、肉となった姿を人々に見せようと来るのではない。すべての人が彼を見るために来るのではない。自身の手によって人が導かれ、新たな時代へ入ることができるように来るのである。キリストの肉の役割は、神自身、つまり肉における神の働きを果たすことであり、人にキリストの肉の本質を十分理解させることではない。キリストがいかに働いても、それは肉に実現可能なことを超えるものではない。キリストがいかに働いても、普通の人間性を持つ肉において働くのであり、神の真の姿を人に全て明らかにしてはいない。それに加えて、キリストの働きは、人間が思うような超自然的なものでも、計り知れないものでもない。キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを自ら遂行するけれども、天の神の存在を否定したり、自身の業を大々的に公表したりしない。むしろ、謙虚に自身の肉のうちに隠れたままでいる。キリスト自身以外でキリストを偽って名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストの高慢で自画自賛的な性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自分自身を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の属性を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、単に人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、彼は働きを通して彼の身分を明確にし、彼の現すものによって彼の本質を証明する。彼の本質は根拠のないものではない。彼の身分は自身の手によって握られてはいなかった。それは彼の働きと本質によって決定される。彼は神自身の本質を持っており、神自身の働きをすることができるが、やはり彼は霊とは違って、肉である。キリストは霊の属性を持つ神ではない。肉の外殻を持った神である。したがって、いかに普通で弱くとも、どのように父なる神の心を求めても、彼の神性は否定できない。肉となった神のうちにあるものは、普通の人間性とその弱さだけではない。そこにはキリストの肉における行いとともに、その神性の素晴らしさと不可思議性も存在する。ゆえに人間性と神性の両方が実際に、具体的にキリストのうちに存在する。これは無意味でも超自然的でも全くない。彼は働きを遂行するという第一の目的を持って地上に来る。地上での働きを遂行するためには普通の人間性を持っていることは必須である。そうでなければ、いかにキリストの神性の力が大きくても、その本来の機能を有効に使うことができない。キリストの人間性は非常に重要であるが、それは彼の本質ではない。キリストの本質は神性である。ゆえに、彼が地上で職分を始める瞬間は彼がその神性の存在を現し始める瞬間である。彼の人間性はその肉の普通の生活を維持するためだけにあり、それにより、キリストの神性が肉において普通に働きを行うことができるのである。キリストの働き全体を指示するのはキリストの神性なのである。彼が働きを完了する時は、彼の職分の働きを全うした時である。人が知るべきことは彼の働き全体であり、キリストはその働きを通して人が彼を知ることを可能にする。働きを行う過程で、彼は自身の神性の存在を充分に現す。それは人間性によって汚された性質でもなければ、人間の考えや振る舞いで汚された存在でもいない。彼の職分が終わりを迎えるまでには、彼は現すべきその性質を全て現すであろう。彼の働きは人によって指示されない。彼キリストの性質の現れもいたって自由であり、知性で支配されることも、思考で処理されることもなく、自然に明らかになる。これは人には成し遂げることができない。環境が厳しかったり、条件が合わなかったりしても、彼は適切な時にその性質を現すことができる。キリストである者がキリストの存在を現し、一方キリストでない者たちはキリストの性質を持たない。ゆえに、たとえすべての人たちが彼に抵抗したり、彼に対する観念を持ったりしたとしても、キリストによって現わされた性質が神の性質であるということを、人間の観念に基づいて否定できる者はいない。真心でキリストを求め、意志を持って神を求めるすべての者は、キリストの神性の現れに基づいて彼はキリストであると認めるであろう。キリストに人の観念と一致しない側面があっても、彼らがそれに基づいてキリストを否定することはない。人はとても愚かであるが、すべての人は、何が人の意志によるもので、何が神から出たものかをはっきりと知っている。多くの人々は自分の目的に基づいて、意図的にキリストに反抗しているだけなのである。そうでなければ、キリストの存在を否定する理由など誰にもない。というのはキリストによって現わされた神性は確かに存在し、彼の働きはすべての人が肉眼で確認できるものだからである。

   キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天の神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの現れが模倣でも、人による教育の結果でも、人による長年の育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来備わっているものである。人はキリストの働き、現れ、人間性、そして普通の人間性を持った生活を否定するかもしれないが、キリストが真心で天の神を崇拝することを否定できるものは一人もいない。キリストが父なる神の心を果たすために来たことを否定できる者はおらず、キリストが父なる神を求める心の切実さを否定できる者もいない。キリストの姿は感覚にとって快いわけでも、その話に特別な重みがあるわけでもなく、その働きに人が想像するような地を揺るがし、天を揺さぶるものでもないが、彼は確かにキリストであり、真心で天の父の心を全うし、天の父に完全に服従し、死ぬまで従う者である。これは彼の本質がキリストの本質だからである。この事実は人には信じがたいものだが、確かに存在する。キリストの職分が全うされた時、キリストの働きを通して、キリストの性質と存在は天の神の性質と存在を現すことを、人は知るであろう。その時、キリストの全ての働きの総和から、この者はまことにことばが肉となった者であり、血と肉による人間とは異なることが分かるであろう。キリストの地上での働きの各段階はそれぞれ代表的な意味を持つが、それぞれの段階における実際の働きを経験する人間は、彼の働きの意味を把握することができない。第二の受肉した神による数段階での働きに関してはとりわけそうである。キリストの言葉を見聞きしただけで、キリストに出会ったことのない者たちのほとんどは、キリストの働きについていかなる観念も持っていない。キリストに出会い、言葉を聞き、働きを経験した者たちにとっては、働きを受け入れることが難しい。これはキリストの外見と普通の人間性が人の好みに合わないせいではないのか。キリストが去ってからその働きを受け入れる者たちはそのような困難に出遭うことはないだろう。彼らはキリストの働きを単に受け入れ、キリストの普通の人間性に接することがないからだ。人は神に対する己の観念を捨てることができず、キリストをあれこれと入念に調べる。これは人がキリストの外見だけに注目し、キリストの働きと言葉に基づいた本質を認識できないことが原因だ。もし人がキリストの外見に目を向けず、キリストの人間性を論じるのを避け、その神性、──人には成しえない働きと言葉の主である神性──についてのみ語るのなら、人の観念は半分に減り、人の困難がすべて解決することさえあり得るだろう。肉となった神が働きをする間、人はキリストを許容できず、キリストについてさまざまな観念を抱き、しばしば抵抗し、不従順になる。人は神の存在を許容できず、キリストの謙遜と隠れた性質に寛容を示すことができず、父なる神に従うキリストの本質を赦すことができない。したがって、キリストは働きを終えた後、永遠に人と共に留まることができない。人はキリストが人と共に暮らすことを許そうとしないからである。キリストが働きをする間、人が寛容を示すことができなければ、キリストが職分を全うした後、彼らと共に暮らし続け、彼らがキリストの言葉を徐々に経験していくのを見るなど、許容できるだろうか。そうなれば、多くの者がキリストのために躓くのではないだろうか。人はキリストが地上で働くことだけを許す。これが人の寛容の限界である。キリストの働きがなければ、人はとっくにキリストを地上から追放しているだろう。ということは、働きが終わればどれだけ人は寛容を示さなくなるだろうか。人はキリストを処刑し、死に至るまで拷問するのではないだろうか。もし彼はキリストと呼ばれなければ、人間の中で働きをすることは出来なかった。もしキリストが神自身の身分を持って働きをせず、普通の人間としてのみ働いたなら、人はキリストが発する言葉をひとつも許容せず、ましてや働きなど少しも許容しなかっただろう。そのため、キリストは働きにおいてはこの身分しか持てない。このようにして、キリストの働きは、そうしなかった場合よりも強力である。それは、人はみな立派な身分や地位のある者に従おうとするからである。キリストが神自身の身分を持って働かず、神自身として現れなかったなら、キリストが働く機会は全くなかったであろう。キリストが神の本質とキリストの存在を持っているのにもかかわらず、人は態度を和らげてキリストが人間の中で容易に働けるようにはしない。キリストは神自身の身分を持って働く。そのような働きは、身分を持たずになされる働きよりも何十倍も強力だが、それでも人はキリストに完全に従順ではない。人はキリストの地位にのみ従い、キリストの本質には従わないからである。そうであれば、キリストがその地位から身を引く時がくるならば、人は一日たりともキリストが生き長らえることを許せるだろうか。神は人と共に地上に生き、自身の手による働きが後年もたらす効果を見たいと考える。しかしながら、人はキリストがたった一日でも留まることを許容できないため、キリストは諦めるしかなかった。神が人間の中でするべき働きをなし、職分を全うすることを許すのが人の寛容と寛大さの限界である。キリストに直接征服された者たちはそのような寛大さを示すが、彼らでもキリストが働きを終えるまで留まることを許すだけで、その後はたった一瞬でも留まることを許さない。そうであれば、キリストに征服されていない者たちはどうだろう。人が肉となった神をこのように扱うのは、彼が普通の人間性の外殻を持ったキリストであるからなのではないのだろうか。もし彼が神性だけを持ち、普通の人間性を持たなかったならば、人にとっての困難はいとも容易に解決されるのではないのだろうか。彼の本質はまさに天の父の心に従うキリストの本質であるにもかかわらず、人は彼の神性をしぶしぶ認めるだけで、普通の人としての彼の外殻には興味を示さない。そのようなわけで、キリストは人間の中で喜びも悲しみも分かち合うために人の間に住まうという働きを取り消すしかなかった。人はもはやキリストの存在を許容できなかったからである。


神を知る者だけが神に証しを立てることができる

2020-09-29 23:00:32 | デボーション

   神を信じ、神を知ることは、天の法則であり地上の原則である。そして、今日、つまり受肉した神がその働きを自ら行なっている時代は、神を知るのに特に良い時である。神を満足させることは、神の心についての理解という基盤の上に築くことにより達成されるものである。そして、神の心を理解するためには、神についての何らかの認識をもつことが必要である。この神に関する認識とは、神を信じる者がもつべきビジョンである。それは人間の神への信仰の基礎である。この認識の不在においては、人間の神への信仰は曖昧な状態に、空っぽの理論の只中に存在するであろう。神に従うことが、たとえこのような人々の決心であっても、彼らは何も獲得しない。この流れのにおいて何も得ることのない人々は皆、排除される者である。彼らは皆、たかり屋である。神の働きのどの歩みを経験するのであろうと、強力なビジョンを携えていなくてはならない。さもなければ、新しい働きのそれぞれの歩みを受け入れることは困難となるであろう。神の新しい働きは人間の想像力を超えて存在し、人間の観念の範囲外にあるからである。だから、人間の世話をする羊飼いなしには、ビジョンについての話し合いに関わる羊飼いなしには、人はこの新しい働きを受け入れることはできない。もし人がビジョンを受けることができなければ、神の新しい働きを受けることはできず、また人が神の新しい働きに従うことができなければ、神の心を理解することはできず、そうなれば、人の神についての認識は結果的に無となるであろう。神の言葉を実行する前に、人は神の言葉を知らなければならない。つまり神の心を理解しなければならない。こうしてのみ、神の言葉は正確に、神の心にかなって実行されることができる。これは真理を求める者が皆、所有するべきものであり、それはまた神を知ろうとする者が皆、経なければならない過程でもある。神の言葉を知るようになる過程は、神を知るようになる過程であり、神の働きを知るようになる過程でもある。だから、ビジョンを知ることは、受肉した神の人間性を知るだけではなく、神の言葉と働きを知ることも含んでいる。神の言葉から人々は神の心を理解するようになり、神の働きから人々は神の性質を知り、神であるものを知るようになる。神への信仰とは神を知ることへの第一歩である。この初期の神への信仰から最深の信仰へと前進する過程は、神を知るようになる過程であり、神の働きを経験する過程である。もし神を信じるためだけに神を信じ、神を知るようになるためでないのであれば、あなたの信仰には現実性がなく、その信仰が純粋であることはあり得ない。このことに疑いはない。もし神の働きを経験する過程において、人が徐々に神を知るようになると、人の性質は次第に変化し、その信仰はますます真実なものになる。このようにして、神への信仰において成功するとき、人は完全に神を得ている。神が自らその働きを行なうために、これほどの大変な苦労をして再び肉となった理由は、人間が神を知ることができ、神を見ることができるようになるためであった。神を知ること[a]は、神の働きの結末において達成される最後の成果である。それは神の人類への最後の要求である。神がこれを行なう理由は、神の最終的な証のためである。神がこの働きを行なうのは、人がついに完全に神に向かうようにである。神を知ることによってのみ、人は神を愛するようになることができ、神を愛するためには人は神を知らなければならない。人がどのように求めようと、何を得ようと求めようと、人は神についての認識を達成できなければならない。こうしてのみ、人は神の心を満足させることができる。神を知ることによってのみ、人は神への真の信仰をもつことができ、そして神を知ることによってのみ、神を真に畏れ神に従うことができる。神を知らない人々は、神への真の服従と畏敬に決して到達することはない。神を知ることには、神の性質を知り、神の心を理解し、神であるものを理解することが含まれる。しかし、どの側面を知るようになるにせよ、それぞれが人に代価を払うこと、従う意思を要求する。それなしには誰も最後まで従い続けることはできないであろう。神の働きは、人の観念とはあまりにも相容れないものであり、神の性質と神であるものは、人が知るには難解過ぎ、神が言い行うこともすべて、人には理解不可能である。もし人が神に従いたいと思いながらも、神に服従しようとしないならば、人は何も得ることはない。天地創造から今日に至るまで、神は人には理解不可能で、受け入れ難いたくさんの働きを行い、人の観念がおさまりにくくなるほど多くを語ってきた。しかし、人が多すぎる困難をかかえているからといって、神はその働きを中断したことはない。それどころか、神は働き語り続け、多数の「戦士たち」が道端に倒れてしまっても、神は働きをまだ行っており、神の新しい働きに服従する覚悟のある人々の集団を次から次へと中断せずに選び続けている。神は倒れた「英雄たち」への憐れみはもたず、その代わりに神の新しい働きと言葉を受け入れる人々を大切にしている。しかし神は何の目的に向かってこのように段階的に働くのだろうか。なぜ神は常に何人かを排除しては別の何人かを選別しているのだろうか。神が常にこのような方法を用いるのはなぜだろうか。神の働きの目的は、人が神を知り、それゆえ神に得られることができるようにすることである。神の働きの原則は、神が現在行なう働きに従うことのできる人々に対して働くことであり、神が今日行なう働きに反対しつつ過去に行なった働きに従う人々に対して働くことではない。ここに神が多数の人々を排除してきた理由がある。

 


   神を知るようになる課業の成果は、一日や二日で達成できるものではない。人は経験を重ね、苦しみを経て、そして真の服従を達成しなければならない。まず、神の働きと神の言葉から始めなさい。神についての認識には何が含まれており、その認識にいかに到達するのか、そして自分の経験の中にいかに神を見るべきかを理解することが必須である。これは神を知ろうとする人が皆しなければならないことである。誰も神の働きと言葉を一挙に把握できないし、誰も短期間に神の全体についての認識を得ることはできない。経験という必要な過程があり、それなしには誰も神を知ることも、神に真摯に従うこともできない。神が働きをすればするほど、人は神についてさらに知ることになる。神の働きが人の観念と異なれば異なるほど、人の神についての認識はさらに新しく、深くなる。もし神の働きが永遠に固定され不変であれば、人の神についての認識はあまりないことであろう。天地創造から現在まで、神が律法の時代に行ったこと、恵みの時代に行ったこと、神の国の時代に行うことについて、あなたがたはこれらのビジョンについてこの上なくはっきりしていなくてはならない。あなたがたは神の働きを知っていなくてはならない。ペテロはイエスに従った後ではじめて、霊がイエスの中で行なった働きの多くについて徐々に知るようになった。ペテロは「完全な認識に到達するには、人間の経験に頼ることは不十分である。わたしたちが神を知るようにしてくれる神の働きから来る多くの新しいものがなくてはならない」と言った。当初、ペテロはイエスのことを使徒のように神から遣わされた人だと思い、イエスをキリストとして見なかった。ペテロがイエスに従い始めたとき、イエスはペテロに「ヨナの息子シモンよ。わたしについて来るか」と尋ねた。ペテロは「私は天の父から遣わされたお方に従わなくてはなりません。私は聖霊によって選ばれたお方を認めなければなりません。私はあなたに従います」と言った。ペテロの言葉から、ペテロがイエスに関して何も知らなかったことが分かる。ペテロは神の言葉を経験し、自らを取り扱い、神のために苦労をしたが、それでもペテロは神の働きについて何も知らなかった。一時期の経験の後、ペテロはイエスに神の業の多くを見、神の美しさを見、神であるものの多くをイエスに見た。ペテロはまたイエスの話した言葉は人には話せるはずのないものであると知り、イエスが行なった働きは人には行えるはずのないものであると知った。さらに、イエスの言葉と働きの中に、ペテロは神の知恵と、神性の働きの多くを見た。これら経験のあいだ、ペテロはただ自らを知るようになっただけでなく、イエスの行動のすべてに注目し、そこに多くの新しいことを発見した。すなわち、イエスを通して神が行った働きの中に実際の神の多くの表現があるということ、イエスは話した言葉や取った行動において、また教会を牧した方法や実行した働きにおいて、普通の人とは異るということである。それでペテロは学ぶべき多くの課業をイエスから学び、まさにイエスが十字架に釘打たれそうになる時には、イエスについてのある程度の認識を獲得していた。この認識はペテロのイエスへの生涯を通しての忠実と、主のための逆十字架刑の基盤となった。当初ペテロはいくつかの観念にとりつかれ、イエスについての明確な認識はなかったものの、これは堕落した人間の一部として避けられないことである。イエスは今にも去らんという時、十字架にかけられることが自分が行なうために来た働きであり、時代にイエスが見捨てられなくてはならず、この不純で古い時代はイエスを十字架に釘付けにせねばならず、イエスは贖いの働きを完するために来たのであり、その働きを終えたので自分の職分は終わりにある、とペテロに告げた。これを聞くとペテロは悲しみに襲われ、ますますイエスに傾倒するようになった。イエスが十字架に釘付けにされたとき、ペテロは密かにひどく泣いた。この前に、ペテロはイエスに、「主よ。あなたは、ご自分が十字架に付けられるとおっしゃいます。あなたが去られた後、私たちはいつあなたに再びお会いできますか」と尋ねていた。ペテロが語った言葉には不純な要素がなかったであろうか。それらには観念が混ざっていなかったであろうか。心の中では、ペテロはイエスが神の働きの一部を完成させるために来たのであり、イエスが去った後は霊が自分と共にあるであろうこと、たとえイエスが十字架に付けられ天に昇ったとしても、神の霊が自分と共にあるであろうことを知っていた。当時、ペテロにはイエスについてのある程度の認識があった。すなわち、ペテロはイエスが神の霊により遣わされたこと、神の霊がイエスの中にあること、イエスは神そのものであること、イエスはキリストであることを知っていた。しかし、ペテロのイエスへの愛ゆえに、人間としての弱さゆえに、ペテロはこのような言葉を語ったのである。もし、神の働きの歩みの一つひとつにおいて、人が観察し労を惜しまず経験することができるならば、神の美しさを発見することが徐々にできるようになる。ではパウロは何を自分のビジョンとしたであろうか。イエスがパウロに現れたとき、パウロは「主よ、あなたはどなたですか」と言った。イエスは「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えた。これがパウロのビジョンであった。ペテロはイエスの復活、四十日間にわたり現れたこと、イエスの生涯にわたる教えを、その旅路の終わりまで自分のビジョンとした。

   人は神の働きを経験し、自らを知るようになり、自分の堕落した性質を取り除き、いのちにおける成長を求める。これらはすべて神を知るためである。もし自らを知り、自らの堕落した性質を取り扱うことだけを求めるが、神が人に行なう働きが何であるか、神の救いがいかに偉大であるか、あるいはいかに神の働きを経験し、神の業を目撃するのかを一切知らないのであれば、この経験は実体のないものである。真理を実践でき忍耐できるのだから、いのちが成熟したと考えるのであれば、これはいのちの真の意味、あるいは神が人に対して働くことの目的をまだ把握していないということである。ある日、あなたが宗教的な教会で悔い改めの教会やいのちの教会のメンバーと一緒にいると、多くの敬虔な人々に出会うことであろう。彼らの祈りには「ビジョン」が含まれており、彼らはいのちを求める過程において感動し言葉によって導かれているように感じる。さらに、彼らは多くのことにおいて忍耐し、自分を捨て、肉に操られないでいることができる。その時、あなたには違いが分からないであろう。あなたは彼らがすることはすべて正しく、それがいのちの自然な表出であり、彼らが信じるものの名前が間違っているのはなんと残念なことだと思うであろう。このような見方は愚かではないであろうか。なぜ多くの人にはいのちがないと言われるのであろうか。それは彼らが神を知らず、従って彼らの心には神はなく、いのちがないと言われるのである。もしあなたの神への信仰がある点に到達し、神の業、神の現実性、神の働きの各段階を周到に知ることができるようになれば、あなたは真理を備えているのである。もしあなたが神の働きと性質を知らなければ、あなたの経験にはいまだに不適切な何かがある。イエスがその働きの段階をいかに行ったのか、この段階がいかに実行されているのか、神が恵みの時代にその働きをいかに行い、何の働きがなされたのか、この段階では何がなされているのか、これらのことについて周到な認識がないのであれば、あなたは決して確信することはなく、いつも不安定に感じるであろう。もし、ある期間の経験の後、神による働きと神の働きの各段階を知ることができ、そして神がその言葉を語る目的を、またなぜ神の語った言葉のこれほど多くが成就していないのかについて完全な認識を得たならば、あなたは心配や鍛錬から自由になり、大胆に、またためらうことなく目の前の道を進むことができる。あなたがたは、神がどのような手段によりそれほど多くの働きを達成するのかを知るべきである。神は自身が語る言葉を用い、多くのさまざまな言葉を手段として、人を鍛錬し人の観念を変革する。あなたがたが耐えてきた苦難のすべて、経験してきた鍛錬のすべて、内面において受け入れてきた取り扱い、経験してきた啓発、それらはすべて神が語った言葉という手段により達成されてきた。人は何ゆえに神に従うのであろうか。それは神の言葉ゆえである。神の言葉は非常に神秘的であり、さらに人の心を動かし、人の心の奥深くに潜んでいることがらを明らかにし、過去に起きたことを人に知らしめ、人に未来を洞察させることができる。だから人は神の言葉ゆえに苦難に耐え、また神の言葉ゆえに完全にされる。このときに初めて人は神に従うのである。この段階において人がすべきことは、神の言葉を受け入れることであり、人が完全にされているか否か、あるいは鍛錬を受けているか否かに関わらず、神の言葉が鍵である。これが神の働きであり、人が今日知るべきビジョンである。

   いかにして神は人を完全にするのか。神の性質とは何であろうか。そして神の性質の内部には何が含まれているのか。これら全てのことを明確に述べることは、神の名を広めることであり、神を証することであり、また神を高めることである。神を知るという基盤の上に、人は最終的にいのちの性質において変革される。人は取り扱いと鍛錬を受ければ受けるほど、活気を得、神の働きの歩みが多ければ多いほど、人はますます完全にされる。今日、人の経験において、神の働きの歩みの一つひとつが人の観念に反撃し、すべての歩みは、人の知性を超越し、人の予想の枠外にある。神は人が必要とするすべてを与えるが、それはあらゆる点で人の観念と食い違う。神はあなたの弱い時に言葉を発する。こうすることによってのみ、神はあなたにいのちを与える。神はあなたの観念に反撃すること、神による取り扱いをあなたに受け入れさせ、こうすることによってのみ、あなたは自己の堕落を排除することができる。受肉した神は今日、ある面においては神性の状態において働くが、別の面では普通の人間性の状態において働く。あなたがいかなる神の働きも否定することができなくなるとき、神が正常な人間性の状態において何を言おうと何をしようと、それに服従することができるようになるとき、神がどのような正常性を表明しようと服従し理解できるようになるとき、実際の経験を得たとき、そのとき初めてあなたはその方が神であると確信でき、そのとき初めて観念を作り出すことを止め、そのとき初めて最後まで神に従うことができるようになるのである。神の働きには知恵があり、神は人間がいかに神の証人として確固としていられるかを知っている。また人の急所がどこにあるかを知っており、神が語る言葉はあなたの急所を攻撃することができるが、神はまたその威厳と知恵に満ちた言葉を用いてあなたを神の証人として確固と立たせる。これは神の奇跡的な業である。神が行なう働きは人の知性には想像不可能である。肉である人間がいかなる種類の堕落にとりつかれているか、そして何が人間の本質を形成しているか、これらのことはすべて神の裁きを通して明らかにされ、それにより人間には自分の恥から隠れる場所はどこにも残されなくなる。

   神は裁きと刑罰の働きを行うが、それは人が神についての認識を得られるようにであり、また神の証しのためである。人の堕落した性質を神が裁くことなしには、犯すことを許さない神の義なる性質を人は知ることはできず、神についての古い認識を新しいものに変えることもできない。神の証しのため、そして神の経営(救い)のため、神はそのすべてを公けにし、そうすることで、神の公的な出現を通して、人は神についての認識に到達することができ、その性質において変えられ、神のはっきりとした証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、さまざまな種類の神の働きを通して成し遂げられる。このような性質の変化なしには、人は神の証しを立てることはできず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化とは、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本であり標本、神の証人、神の心にかなう者になったことを意味する。今日、受肉した神がその働きを地上で行なうために来たが、神は人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなること、すなわち、神の実際的で正常な働きを知り、人の観念とは合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと、また神が人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをたてること、を要求している。神を証す人々は神の認識をもたなければならない。この種の証しのみが正確であり現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入りらせることができる。神の裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を、神はその証人として用いる。神はサタンにより堕落させられた人々をその証人として用い、また性質が変わり、それにより神の祝福を得た人々をその証人として用いる。神は口先で賞賛するための人を必要とせず、神に救われていないサタンの種類の称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しを立てる資格があり、性質において変革させられた人々だけが神への証しとなる資格がある。神は人が意図的に神の名に恥をもたらすことを許さない。

   脚注

   a.原文では「神を知る働き」。


今日のみことばー神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道(抜粋2)

2020-09-27 23:16:47 | デボーション

   神であるすべて、神が持っているすべて、神の本質、神の性質は、全て神の言葉の中で人間に知らしめられている。神の言葉を体験する時、人間が神の言葉を実行する過程において、神が述べている言葉の根底にある目的、神の言葉の根源と背景を理解し、意図されている効果を理解するようになる。こうした事柄は全て人類にとって、真理といのちを得て、神の心を認識し、性質が変えられ、神の支配と定めに従うようになるために、経験し、認識し、把握する必要があるものである。人間がこうしたことを経験し、認識し、把握すると、人間は同時に神を徐々に理解し、その時様々な程度で神に関する認識を獲得するようになる。この理解と認識は人間が想像したり構築したりした物事からではなく、むしろ人間が自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた物事から生まれる。人間がこうした物事を自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた後、初めて人間の神に関する認識が中身のあるものとなる。この時人間が得る認識が初めて現実的なものとなり、本物となり、正確なものとなる。そして神の言葉を体得し、経験し、感じ、確かめることにより神に関する真の理解と認識を得る過程が、まさしく人間と神との真の交わりとなるのである。こうした交わりのなかで、人間は神の心を真に理解し、深く知り、神であるすべてと神の持っているものすべてを理解し、知り、神の本質を真に理解し、知り、神の性質を徐々に理解し、知り、あらゆる創造物に対する神の支配という事実に対する真の確信と正しい定義に達し、神の身分と地位に対する本質的な理解と認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の神に関する考え方が徐々に変化し、何の根拠も無く神のことを想像しなくなり、すなわち神への疑念を勝手に膨らませたり、誤解したり、非難したりしなくなり、あるいは神を評価したり、疑ったりもしなくなる。結果として、人間の神との議論、神との抵触が減り、神に反抗することが減る。それとは逆に、人間が神を思い、神に従うことが大いに増え、神に対する畏敬は、より実際的で深遠なものとなる。こうした交わりのなかで、人間は真理の備えといのちのバプテスマを得るだけでなく、同時に神に関する真の認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の性質が変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物の神を畏敬し礼拝する念が強くなる。こうした交わりの後、人間の神に対する信仰は、何も記されていない白紙の状態、あるいは甘い言葉だけの約束、盲目な追求や偶像化の形態では無くなる。またこうした交わりのみにより、人間のいのちが成熟に向かって日々成長し、人間の性質が次第に変えられ、神への信仰が段階的に漠然とした不確実なものから真に従い、神の心を思い、真に畏敬するものへと変化する。また人間は神を求める上で消極的立場から積極的立場へ、受け身の立場から能動的立場へと移行する。こうした交わりのみにより、人間は神に関して真の理解と把握、真の認識に達する。大部分の者が神と真に交わることが無いので、大部分の者にとって神に関する認識は理論的段階、文字の教理の段階に留まる。つまり、大部分の者は、神を信じてきた年月の長さを問わず、神を知ることに関する限り、初歩的段階から進歩せず、伝統的色合いと封建的迷信を伴う伝統的な形で敬意を表するに留まる。こうした者の神に関する認識が初歩段階に留まっているということは、神に関する認識が事実上不在であるということに等しい。人間による神の身分と地位の肯定とは別に、人間の神に対する信仰は未だに漠然とした不確実な状態にある。こうした状況において、人間は神に対する真の畏敬の念をどれほど持ち得ようか。

   神の存在をどれほど確信していようと、その確信は神に関する認識や神に対する畏敬の念に代わるものとはなり得ない。どれほど多く神の祝福と恵みを享受してきたとしても、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。どれほど喜んで神のために全てを捧げて費やしていようと、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神の言葉に精通し、暗記していて反対から読み上げることさえ出来るかもしれないが、そうであったとしても、それが神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神に付き従う意向がいかに強かったとしても、神との真の交わりや神の言葉を真に経験することが無かったとしたら、神に関する認識は皆無であるか、終わりのない幻想に過ぎない。たとえどこかで神とすれ違ったとしても、神と直接対面したとしても、神に関する認識は皆無であり、神への畏敬は実質の無い標語や理想に過ぎない。

   『言葉は肉において現れる』より


   御言葉讃美歌

   神の権威を知るための道

   神の権威と力、神に固有の身分と本質についての認識は、あなたの想像力によって得られるものではない。「想像するな」ということは、「何もせずただ座って破滅を待て」という意味ではなく、「論理を用いて推測せず知識や科学を通して研究するな」という意味である。神の言葉を食べ、飲み、体験する中であなたは神の権威を体験し、確証して、徐々に理解と認識を得るだろう。これが唯一の道であり、近道はない。

   神の言葉と真理、あなたの生活を通して神には権威と運命を左右する主権があることを理解し、検証し、確認しなさい。そしてあなたは常に神の力は神が真の神自身であることを証ししていると知りなさい。これこそ神を認識する唯一の道、唯一の道である。神の言葉を食べ、飲み、体験する中であなたは神の権威を体験し、確証して、徐々に理解と認識を得るだろう。これが唯一の道であり、近道はない。神の言葉を食べ、飲み、体験する中であなたは神の権威を体験し、確証して、徐々に理解と認識を得るだろう。これが唯一の道であり、近道はない。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より