賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

迫害と逆境によって得た成長

2019-11-29 22:41:39 | 信仰生活

   かつて、私は「神様の知恵はサタンの策略を伴って実践され、神様は賢い方で、サタンは神様に敗北した敵である」ということを理論として知っているだけで、実際の認識や体得はありませんでした。その後、神様が用意して下さった環境を通して、私は真理のこの側面に対する実体験を得ることができました。


   

   ある日の午後、集会に参加していると、地区指導者が突然私に駆け寄ってきて、「あなたのお母さんが赤い大きな竜に連れ去られた。しばらくの間、自宅に帰らない方がいい。教会があなたにホストファミリーを用意するから。」と言いました。青天のへきれいのようなこの知らせにびっくりしてしまい、呆然としてしまいました。「お母さんが赤い大きな竜に連れ去られたですって?赤い大きな竜はお母さんにどんな拷問を与えるつもりだろう?お母さんは耐えられるのかしら。もう二度とお母さんに会えないかもしれない。どうしよう。」そんなことを考えると私の心は痛み、涙が止まりませんでした。集会が終わった後、私は教会が用意してくれたホストファミリーの家に案内されました。そこでの生活が落ち着くと、また母のことを考え始めました。私が家族の中で最も母に近い存在でした。未信者の父は私に信仰を捨てさせようとし、姉は私が神を信じたからと私を無視し、親戚もみな私と縁を切りました。それでも私が寂しくならなかったのは、同じ神様を信じる母がいたたからです。霊的にも肉体的にも、母は常に私を助け、愛情を注いでくれました。何か問題があれば、いつでも母に相談することができました。心の支えだったと言えます。その唯一の支えだった母が、赤い大きな竜に連れ去られたのです。私は突如として孤児になったかのように感じ、これからどう歩んでいけば良いのか、困難に直面したら誰に相談すれば良いのか分かりませんでした。その後数日間、私は泣き続け、苦しみと落胆の中にいました。その状態から抜け出すことができずにいると、自分の中で導きがありました。「そのように闇の中を歩き続け、サタンに笑いものにされるままになっていたいのですか。神の働きの中で神を認識し、光の中で生きていきたいと思わないのですか。」この言葉により、私はすぐに目覚めました。その通りだと思いました。こんな風に闇の中を生きてサタンの笑いものにされたいのか。いいえ、そんなのは絶対に嫌です!私に降り掛かったこの状況は、神様のご好意に違いない。その後、私は何度も神様の前に出て祈り求め、私を啓き、神様の御心が理解できるようにと願いました。

   しばらくして、私は、それまで理解しておらず、実践することができなかった真理の一部において成長した自分に気が付きました。かつて私は家庭で甘やかされ、食事やファッション、そして遊びが私の時間のほとんどを占めていました。私の肉は自分の考えと異なる扱いや僅かな困難にも耐えられませんでした。私が家を離れてホストファミリーと暮らすようになって数日もすると、私は、家にいた時のように、したいこともできなくなり、好き勝手はできなくなりました。徐々に、私の甘やかされた性格や悪い癖は減り、食べ物と着る物がある生活に満足すべきであると理解するようになりました。また、肉の本質を見抜けるようになり、二度と肉の満足を追い求めなくなり、被造物にとって神様を満足させることを追い求めることが最も重要だと知るようになりました。かつて、母がまだ家にいた頃は、肉体にまつわる問題であれいのちの問題であれ、常に母に頼り、解決してもらいました。問題が起きた時には、神様に祈ることも真理を求めることもせず、神様とも正常な関係を築いていませんでした。母が連れ去られてからは、私は困難に遭遇した時に頼れる人がいなくなってしまいました。今まで以上に神様の前に祈り、神様の言葉を飲食し、御心を求める他ありませんでした。徐々に、私の心の中に占める母の場所は小さくなり、神様の場所が大きくなっていきました。必要であればいつでも神様は私を助けることができ、一瞬たりとも神様の側を離れることができないと感じました。さらに、私は、問題を解決するために、祈りに頼り、真理を追求することに頼ることも学びました。神様の側にいることによって得る平和、確信、信頼感を味わうことができました。家にいた頃は、神様を信じる人と信じない人は互いに相容れない二つの異なるグループであることは知っていましたが、自分の両親と姉だけが私の家族で、教会の兄弟姉妹は部外者のように距離を感じていました。神様は私が家から“追い出される”経験を用い、私が朝から晩までずっとホストファミリーの兄弟姉妹と過ごすようになったことで、兄弟姉妹の私に対する思いやりと配慮、忍耐と理解を感じることができました。私たちは同じ言葉を話し、同じ志を抱いて、助け合って生活しました。この人達こそ私の本当の家族で、教会の兄弟姉妹こそ私の父、母、兄弟だと、心から感じました。兄弟姉妹との間に距離を感じることはなくなり、大家族の中にいる温かさを感じるようになりました。兄弟姉妹と過ごす環境の中で、互いに愛し合い、赦し合い、支え合って生活することを学び、私は正常な人間性を取り戻していきました。家で生活し、集会と説教に頼って生活していた時には実践できなかった真理でした。母が赤い大きな竜に連れ去られて私が家を出なければならないという特異な環境の中、知らないうちに神様は私にこの真理をもたらし、理解を深めるようにしてくれました。この真理に入ってからは、神様を愛し、満足してもらう心がかつてないほど強くなり、人生の全てを神様のために生きるという思いが確固たるものになりました。かつての自分、つまり、神様を信じてはいるけれど、目的もなく、問題があればすぐに弱ってしまうような自分が、徐々に変化していきました。神様が私に授けてくださったものは、私が想像できないほど素晴らしいものでした。私の心に神様に対する感謝と称賛が溢れました。

   ある日、私がディボーションをしていると、神様の次のような言葉を目にしました。「この働きを行うに際して、神は、サタンによって堕落させられた人間が自身の素晴らしい救いを受けられるようにしただけでなく、自身の英知、全能性、および権威を人々が知るようにもした。そして最後に神は、人が自身の義の性質を見るようにする。つまり、邪悪な者を罰し、正しい者を報いる。神は今日まで戦ってきて、一度も負かされたことはない。それは神が知恵に満ちており、神の英知はサタンの策略に基づいて行使されるからだ。……神は今日、依然として同じ現実的方法で自身の働きを実行している。さらに神は、自身の働きを実行するとき、自身の英知と全能性を示す。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より)神様の言葉は突然私の心を照らしました。私は心の奥底からの感嘆の言葉を漏らしました。神様は本当に賢いお方!神様は本当に素晴らしい、人間には予測できない働きをされる。私の今の状況は一見、唯一頼ることのできた母が赤い大きな竜に連れ去られたために私は家に帰ることが困難になり、神様への信仰が妨げられ、サタンに屈服し、信仰的に弱り、信仰を手放すように赤い大きな竜に脅されているようなものと映るかもしれませんが、神様の知恵はサタンの策略の上に働いており、サタンの策略を大いに利用しているのです。神様は、私が自分の快適な巣から離れてこの環境にいることで私の意志を鍛え、試練を通る決意を完全なものとし、自立して生活できるように訓練し、正常な人間性を生きることを教え、真の人間になることを教えられました。楽で心地よい環境では理解することのできない、得ることのできない真理でした。この環境を通して、神様は私の人生において真理と神様そのものを教え、そうすることによって、赤い大きな竜による迫害に屈しないばかりか、神様からの真理を得て、神様の救いに導かれたのです。それだけでなく、赤い大きな竜の迫害により、神に抵抗する竜の残忍さと残酷さを更にはっきりと知りました。今まで以上に赤い大きな竜を嫌うようになり、神様を愛する気持ちが益々強くなりました。

   神様に感謝します!このような経験をしたことで神様の全能性と支配を実際に理解し、また、神様の知恵がサタンの策略の上に働くことを経験することができました。私に降りかかることで人間の観念にそぐわないものには全て、神様のご好意が含まれているのだと分かりました。サタンがどれほど策を講じても、神様は常に賢いお方であり、神様の敵であるサタンは敗北するのです。それを理解した私の神様に従う意志は更に固いものとなったので、これからも信仰に満たされて前進していきます。


神様に聞いていただく3つの祈り方

2019-07-23 21:15:54 | 信仰生活

 兄弟姉妹の皆さん:


 主にある平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じてしまいます。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。


 実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。


 第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです。


 主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなくてはならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中では、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

神様に聞いていただく祈り方


 第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです。


 私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を与えて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)


 第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです。


 恵みの時代の最初の段階で、神殿に聖霊の働きがあった頃を思い出してください。人々が罪を犯した時、彼らは聖霊による鍛錬を受けました。神様に仕える祭司が律法を守らなかったならば、天からまっすぐに火が降りてきて彼らを焼き殺しました。人々は非常に恐れ、神様を敬う心を持ったのです。けれども恵みの時代の後半になり、イエスが現れて業を成されるようになると、ユダヤの人々は律法を守ることができず、神殿を両替や生活用品を売る場所として使ったのです。彼らは神殿を強盗の巣にしたのです。そこには聖霊の鍛錬はもはやありませんでした。聖霊はイエス様の働きを守るため、すでに神殿から離れていたので、神殿に残ってイエス様の救いを拒否した人々は神様の働きから排除され、闇に落ちました。たとえエホバの名で彼らが祈っても、神様は聞かれませんでした。彼らが聖霊の働きを得ることなど尚更ありませんでした。


 今日の教会に目を向けてみましょう。牧師や長老の説教は退屈です。新たな光などありません。兄弟姉妹はいのちを養われることはなく、彼らの霊は萎えて暗くなり、聖霊の存在を感じることができません。彼らは肉の欲と人生の楽しみとともに、地位と権力さえ欲し始めます。同僚の間には摩擦が起こります。彼らの罪は彼らに対して勝利を宣言し、彼らは主に負い目を感じることもなくなります。 神様の言葉に従うことはなく、神様の命令を守ることもしません。神様の旨を完全に損ない、神様を拒絶する者たちとなりました・・・このような教会と、律法の時代後期に存在した神殿との違いは何でしょうか? これは聖書の次の預言の完全なる成就です。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。 そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」事実、神様は恵みの時代の教会を去られました。多くの兄弟姉妹が、教会には既に聖霊の働きはなく、神様は御顔を隠されてしまったと感じているのです。それならばどうして私たちの霊が萎えずにいることができるでしょうか。それでどうして神様が私たちの祈りを聞くことができるでしょうか。


 これまで説明してきた3つの状況が、主が祈りを聞かれない主な理由です。私たちは主の前に出て主の意図を求め、これらの問題を振り返ってみるしかありません。また私たちは、主に聞いていただけるような祈りはどのようなものかを追求しなくてはなりません。これは私たちが学んで成長する必要のある真実です。それではここで、みなさんが神様の意図に沿って祈るにはどう祈ったら良いかを知るために三つの方法をご紹介します。私たちが毎日心から実行し、実践することができるのであれば、主は私たちの祈りを聞いて下さると私は信じています。


 第1に、霊によって祈り、心から、真実の言葉をもって祈らなければならないということです。


 私たちはみな神様が忠実なお方だと知っています。神様には不実も、偽善も嘘もありません。神様は私たちひとりひとりに誠実です。神様は私たちが誠実で正直な祈りをささげることを願っておられます。イエス様が次のように言われた通りです。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37) 従って、祈るときには、神様にありのままを話さなければなりません。私たちが弱ければ、弱いと素直に言うべきです。神様の意図に沿わないどんな考え、発想、痛み、困難、物事も、完全に心を開いて神様に話すべきです。他人に話すのは恥ずかしいような言葉や内容もありますが、それらを神様から隠すことはできません。私たちは神様に心を開いて正直に話すべきなのです。私たちが心を大きく開いて何も隠さず、心のままを率直に神様に話していることを神様が知るならば、神様は私たちが神様の意図と真理の全ての側面を理解するように導いて下さいます。そうすれば私たちは進むべき道を得るのです。


 加えて、祈るときには静まらなくてはなりません。私たちは心を集中させて祈らなければなりません。気持ち半分であったり、上の空で祈ったりしてはなりません。私たちは、親と話す時には、親を尊敬できます。親に対する態度は誠実です。親は私たちより年長で、育ててくれたからではないでしょうか。神様は私たちを造られ、いのちを与えられ、生活に必要な全てを与え、真理を与えて下さいました。そうであれば、神様を敬う気持ちで祈ることは尚更大切ではないでしょうか。何を祈るかに関わらず、私たちは熱心に神様の意図を求め、正直に思いと困難を伝え、神様の時を忍耐を持って待たなくてはなりません。そうして初めて、私たちは神様の啓きと導きを得、神様の意図を理解することができるのです。そうする時に、私たちの困難は、必要な時に解決されるのです。


 第2に、私たちは被造物の立場に立ち、神様に要求をしないということです。これは、神様への服従心を持って祈るということです。


 祈るときには、私たちは被造物であり、神様が創造主であることを明確に知っていなければなりません。神様は全てのことと全てのものを御手に握っておられます。私たちの全ては主の御手に支配されています。私たちが日々直面することは、事の大小を問わず、全て神様の采配によるのです。私たちが神様に祈る時には、被造物としての立場にしっかり立ち、熱心で従順な態度で神様の御心を求めなければなりません。神様に何ら要求をしてはなりません。例えば、困難に直面してどうして良いか分からない時、次のように祈ることができます。「神様。この事に関して、一体何が真実なのか分かりません。あなたの意図に沿うにはどうすべきなのか分かりません。けれども、わたしはあなたの言葉を求め、あなたの求めに応じて物事を行い、あなたの意図を満足させたいと願っています。どうか私を啓き導いてください。アーメン。」私たちの心に神様の場所があり、被造物としての立場に立って祈り、ひれ伏し、創造主に礼拝を捧げる時、そして神の働きに従ってその御言葉を実践する時に初めて、神様との正常な関係を築くことができ、聖霊の働きを得ることができるのです。ヨブが神を畏れて悪を避ける人であったことはみな良く知っています。ヨブが自分の家畜、息子、娘達をすべて失った時、そして体中が腫れ物に覆われて激しい痛みに耐えていた時、ヨブは神様が万物の支配者であり、神様の許しなしにはそのような事が自分に降りかかることはないと信じました。それだけではなく、自分の命も含めて、所有物のすべてが神様によって与えられたものだということを知っていました。神様がいつそれを取り上げても、自然で正しいことだと知っていました。ですから、ヨブは神様に不平を言うことも神様に何かを要求することもありませんでした。それ故ヨブは、膝をかがめ、服従の心を持って神様を礼拝し、次のように祈ったのです。 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。(ヨブ記 2:10)ヨブは堅く立って、神様に対する証しとなりました。ヨブの理性と神様への服従は神様からの称賛を得ました。私たちもヨブと同じような姿勢で神様に向かうことができたならば、心に神様の居場所があり、どのような困難に出会おうとも神様への服従心によって祈ることが出来たならば、神様は私たちを導き、啓き、真理を理解できるようにして下さいます。私たちの霊は研ぎ澄まされ、思考がはっきりとしてきます。私たちが何らかの堕落を現わしたり、良くない状況になったりした時、それを自覚して適切に対処することが容易になります。そうなれば、神様は更に私たちに近づいてくださり、いのちの成長は更に速くなります。


 第3に、私たちの教会に聖霊の働きがないのであれば、それを求める祈りを捧げなければならないということです。


 律法の時代の後期、サタンにより人間は益々堕落したことを私たちは知っています。人は罪の中に生き、律法によって罪に定められて死に追いやられる危機に直面しました。しかしその後神様は、イエスの名によって律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始められ、人類を贖う働きをされました。以降、ユダヤ教は完全に神の栄光の存在を失いました。主イエス様の名と業を受け入れなかった者はみな、たとえどのような状況にあったとしても、どのような祈りを捧げ、ヤーウェである神様に訴えたとしても、神様はその祈りを聞かれることはなく、そのような者たちが聖霊の働きを得ることはありません。けれども、イエス様の新しい働きを受け入れてイエス様の名によって祈る者はみな、神様の泉からの生ける水による養いを楽しみます。彼らが主に呼ぶならば、神様の業を見ることができ、聖霊の業が彼らに伴うでしょう。


 今日、主イエス様の御名によって私たちがどう祈ろうとも、私たちが聖霊の働きを感じることはなく、神様の存在を感じることはできません。いのちを養っていただくことはできず、罪を犯しても鍛錬を受けることもありません。聖霊の働きがまたしても離れてしまった可能性が大いにあります。聖書は次のように言っています。 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48) 「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)これらの聖句から、終わりの日に神様が再び戻られ、裁きの業の段階を実施されることが分かります。主は忠実なお方です。主が成就すると言われることは成就します。私たちは神様に求めて祈り、いのちの泉へと導いて下さるように願い、神様によって潤され養われ、そして主の足跡を辿るようにしなければなりません。私たちが心に飢え渇きを覚えて求めるならば、神様の導きを得ると私は信じます。神様は次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)


 主の導きに感謝します。本日皆さんと分かち合った、祈り方に関する内容が一人ひとりにとって益となることを願います。祈りは神様との正常な関係を築く上で重要なステップです。それはまた、聖霊の働きを得る上で要となる道でもあります。主からの応答を受け取るにはどう祈れば良いかを理解し、従うべき実践の道を得て頻繁に実践するときに初めて、主は私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちの祈りが早く神様の意図と一致することを願います。


 すべての栄光が神様にありますように。




3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2019-06-13 22:28:36 | 信仰生活

ケム姉妹へ:

こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ


こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

   あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

   今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。

   では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

   神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

   そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう

   賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです

   私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

   例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう

   通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

   私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより

 

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3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2019-06-13 22:28:36 | 信仰生活

ケム姉妹へ:

こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ


こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

   あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

   今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。

   では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

   神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

   そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう

   賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです

   私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

   例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう

   通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

   私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより

 

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どう用意すれば主の再臨を迎えられるか

2019-04-23 08:51:47 | 信仰生活

寄稿家:ダ・ヂャオ

  今日、世界中では様々な災害が勢力を増し、主の再臨をうたう預言の多くが基本的に成就しています。私たちクリスチャンは、主が来臨して私たちを携挙してくださることを早る思いで心待ちにしています。私は主イエス様のこの御言葉を考えることがあります、「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音 24:44)。主はこう言って、私たちが主の再臨をお迎えできるよう、冷静に準備をしておく必要があることを喚起してくださっているのです。しかし、それは実際どのように行えばいいのでしょうか?

1.霊的耳で聞く準備をして、主の御声を聞くことを学びましょう

  ヨハネの黙示録にはこの預言が何度も出てきます、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:7)。 そして、主イエス様はこう仰りました、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。 聖霊が教会に語られる御言葉を聞けるよう、私たちは注意を集中させる必要があることをこの2節は喚起してくれています。主が「戸を叩かれる」時、私たちは主の御声を聞くことに注意を集中させる必要があり、主の御声とは神の御言葉を意味しています。主イエス様はかつてこう預言されました、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。この御言葉から、主は再臨される時に御言葉を仰せられ、働きをなされ、奥義を全て明らかにされ、私たちが理解していない真理を全て語られ、私たちが真理を全て理解して、その全ての真理に入れるようにしてくださるということが分かります。主イエス様はかつて「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書 14:6)、と仰りました。真理は神から出るものであるため、主の再臨は必ず人々に真理をもたらし、人々にいのちを与え、人々に道を示してくださるということが分かります。従い、主の再臨を待つにあたり、私たちは「霊的耳」を使う準備をする必要があり、神の御声を認識できるということが特に重要になります。

どう用意すれば主の再臨を迎えられるか

  聖書には主イエス様が弟子たちに語られたたとえ話も書かれています、天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。」(マタイによる福音書 22:2-3)。そしてヨハネの黙示録にはこう記されています、「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて」(ヨハネの黙示録 14:6)。神は終わりの日に神の僕をつかわして、私たちを宴にお招きくださると、主は私たちに伝えておられます。すなわち、神は神の御使いをつかわして、主の再臨の知らせを告げ、私たちに永遠の福音を説いてくださるのです。私たちは謙虚に探求して調査することができれば、彼らの証言することが神の御言葉であり、主の御声であることを受け入れ、それに従うことができれば、再臨される主をお迎えすることができるでしょう。

2.虚心に真理を求める心を持ちましょう

  主イエス様は仰りました、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書 5:3)。「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」(マタイによる福音書 5:6)。「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイによる福音書 5:8)。「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(ルカによる福音書14:11)。ここでは、神を喜ばせるのは謙虚な人間であり、謙虚に真理を求め、神に従う人であるということが分かります。特に、主の再臨という重大な事柄において、主が再臨されたと誰かが私たちに証言する時、そしてその人が主の御声を聞いたと証言する時、私たちはその人に対して謙虚な姿勢をとる必要があります。私たちは好奇心のある、謙虚な心で調査して、「霊的耳」を使ってそれが主の御言葉であるのかどうかを聞き分ける必要があります。「冷静に準備する」とは正にこういうことです。神は私たちをお導きくださり、私たちが神の御声に気が付き、神の再臨をお迎えできるようにしてくださると、私は信じています。宦官であるエチオピア人は地位が高く、名声もありましたが、謙そんしてピリピに助けを求めることができました。彼はピリピの交流と証言の中で、神の御声に気付くことができ、その結果、主イエス様をお迎えすることができました。ニコデモもまた、主イエス様に関する話しを耳にして、主イエス様から真理を求めることができました。彼は主の御言葉から再生に関する奥義を理解しました。このような例は数多く存在しています。

  従って、主の再臨をお迎えするには、虚心に真理を求める心を持ち、神の御声を聞くことを学び、神の御言葉にある神の御声を認識し、子羊の歩みについて行く必要があるのです。私は神を心から信仰し、神の来臨を切望する兄弟姉妹全員が近い将来に主の再臨をお迎えできることを願っています。