賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

毎日の聖書への信仰心:あなたの心の中で神様と神殿はどちらのほうが偉大な存在ですか

2019-10-21 22:37:28 | 聖書の言葉

   聖書には次のように記載されています:「 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」(マタ12:6-8)。私が神様を信仰し始めた頃にこれらの聖句を読みました。当時、私が分かっていたのは、主イエス様は、律法のもとで生きていた人々に、神様は神殿よりも偉大な存在で、神様は安息日の主であることを思い出させるためにこの言葉を言ったということだけでした。それにより、イエス様はその日に病人を癒すことができました。また、休息日にトウモロコシ畑を通る際に、トウモロコシを引き抜いて食べた弟子達を非難することもありませんでした。昨日、私はこの聖句を再び読みました。イエス様が休息日に働かれたという事実から、私は、律法のもとで生きていた人々に、イエス様は神殿の外で新たな働きを行われたこと、誰もが神殿から離れ、神様の新たな働きを受け入れるべきであることを思い出させていらしたのだと、明確に悟りました。

   しかし、その頃、律法と規則に闇雲に従って生きていたパリサイ人は、神殿を神様よりも偉大な存在とみなしていました。どうやら、彼らは神殿にいる神に仕え、律法について人々に説明するものの、律法や規則、制約についてただ話しているだけのようで、彼ら自身が律法を遵守することは決してありませんでした。さらに悪いことに、彼らは神様の律法を否定し、預言者を殺害し、未亡人の家から金銭を巻き上げていました。従って、神様の御目には、彼らがしていることはすべて、神様の御心や御要件とは一切無関係で、彼らの奉仕は単に犠牲の儀式を行い、偶像を崇拝しているだけと映りました。彼らは神殿、自身のステータス、生活を神様や神様が表された真理よりも評価していたため、彼らの心には神様のための場所はありませんでした。そのため、主イエス様の御説教を聞き、イエス様が表された数々の御印や奇跡を目の当たりにし、イエス様の御力と御権威、そして驚異に満ちた御偉業を認識しても、真理を追求したり、神様の御意図に従うための方法を探したりする心を誰も持ち合わせていませんでした。その上、彼らは、主イエス様を普通の人であると言って、イエス様を裁き、非難し、イエス様が悪魔の王子を使って悪魔を祓ったと冒涜したのです。彼らはローマ政府と手を携え、主イエス様を十字架に磔にすることさえしました。最終的に、彼らは神様の性情に反し、神様の義なる懲罰と呪いを受け、地獄の中で壊滅させられました。

   次に、パリサイ人達に欺かれたユダヤ教信者についてお話します。彼らも“神殿”を神様よりも偉大な存在と見ていました。たとえば、彼らは祭司や律法学者、パリサイ人を神様よりも偉大とみなしてたのです。そのため、祭司に欺かれ、煽られると、理性を失い、神様の信者が持っているべき基盤を失いました。彼らは主の側に立つことができなかったばかりか、盲目的に祭司に従い、主イエス様を十字架に磔にせよと叫んだのです。彼らは祭司や律法学者、パリサイ人の偽善の真実を見破ることができず、神様に仕えるこれらの人々が主よりも自身のステータスや聖書の言葉を偉大とみなしていたことを知りませんでした。彼らは、いわゆる“神の従者”で、“真理の道を守ること”をカモフラージュとして使い、人々を欺くためにさまざまな噂を捏造し、嘘をでっち上げていました。彼らは自身の手中で人々を厳しくコントロールし、神様の御働きを必死になり妨げ、損なわせ、人々を支配しようと神様と競っていました。従って、彼らに従ったユダヤ人も最終的に滅び、壊滅させられました。それでは、どのような人々が神様を偉大として称賛しているでしょうか?私はヨブのことを考えました。彼のすべての子供が死に、全財産が奪われ、深い悲しみに沈んでもなお、神様を冒涜する罪を犯さず、神様の名前を賛美し続けました。ヨブは次のように言いました。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)。ヨブの心には神様のための場所がありました。ヨブにとって、神様は心の中で唯一の存在で、彼の羊も、牛も、財産も、子供たちも神様と比ぶべくもありませんでした。ヨブは心の中で神様を偉大な存在として称賛することができたため、試練を乗り越えた後、神様から素晴らしい御祝福を受けました。別の例ではペテロがいます。ペテロが主イエス様に従っていたとき、主の声に注意深く従い、主の御指示に沿って行動しました。兵士が主イエス様を捕まえようとしている重大な局面では、ペテロは自分の命も顧みず、主イエス様を救うために、走っていき兵士の耳を切り落としました。このことから、ペテロが自分自身よりも主を愛していたことが分かります。このような行為は普通の人にできることではありません。主はペテロの行為に満足されました。そのため、主イエス様は神様の国への鍵をペテロにお預けになり、教会を率いていく重い責任をペテロに委ねられました。

   このことについて考え、私は神様に祈りを捧げると、「私の心の中では、『神殿』と神様とどちらのほうが偉大だろうか?」と自問しました。パリサイ人が神様に抵抗していたという事実は、私に1つの警告を与えました。つまり、もし私が神様を信じながら、心の中では偉大なる存在として称賛せず、受肉したキリスト様を知らず、崇拝せず、またキリスト様に従っていなければ、私がどれほど神様を信じており、神様に従っており、神様のために犠牲を払い、努力したところで、キリスト様の目には私がすべきことすべてが無意味となるでしょう。私はヨブやペテロを見倣うべきです。どのような試練に遭遇しようとも、神様の統治を信じ、神様に真の信仰を持つべきです。神様の御働きや御言葉がどれほど私自身の観念や想像と一致していなかったとしても、自分自身を脇へ置き、神様に従う必要があります。このようにしてのみ、私は真に神様に従い、心の中で神様を称賛する人になれます。兄弟姉妹の皆さん、あらゆることにおいて、心の中で神様を偉大な存在として称賛しましょう。そうすれば、神様の御祝福と愛は確実に私達と共にあるでしょう!


毎日の聖書への信仰心:あなたの心の中で神様と神殿はどちらのほうが偉大な存在ですか

2019-10-21 22:37:28 | 聖書の言葉

   聖書には次のように記載されています:「 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」(マタ12:6-8)。私が神様を信仰し始めた頃にこれらの聖句を読みました。当時、私が分かっていたのは、主イエス様は、律法のもとで生きていた人々に、神様は神殿よりも偉大な存在で、神様は安息日の主であることを思い出させるためにこの言葉を言ったということだけでした。それにより、イエス様はその日に病人を癒すことができました。また、休息日にトウモロコシ畑を通る際に、トウモロコシを引き抜いて食べた弟子達を非難することもありませんでした。昨日、私はこの聖句を再び読みました。イエス様が休息日に働かれたという事実から、私は、律法のもとで生きていた人々に、イエス様は神殿の外で新たな働きを行われたこと、誰もが神殿から離れ、神様の新たな働きを受け入れるべきであることを思い出させていらしたのだと、明確に悟りました。

   しかし、その頃、律法と規則に闇雲に従って生きていたパリサイ人は、神殿を神様よりも偉大な存在とみなしていました。どうやら、彼らは神殿にいる神に仕え、律法について人々に説明するものの、律法や規則、制約についてただ話しているだけのようで、彼ら自身が律法を遵守することは決してありませんでした。さらに悪いことに、彼らは神様の律法を否定し、預言者を殺害し、未亡人の家から金銭を巻き上げていました。従って、神様の御目には、彼らがしていることはすべて、神様の御心や御要件とは一切無関係で、彼らの奉仕は単に犠牲の儀式を行い、偶像を崇拝しているだけと映りました。彼らは神殿、自身のステータス、生活を神様や神様が表された真理よりも評価していたため、彼らの心には神様のための場所はありませんでした。そのため、主イエス様の御説教を聞き、イエス様が表された数々の御印や奇跡を目の当たりにし、イエス様の御力と御権威、そして驚異に満ちた御偉業を認識しても、真理を追求したり、神様の御意図に従うための方法を探したりする心を誰も持ち合わせていませんでした。その上、彼らは、主イエス様を普通の人であると言って、イエス様を裁き、非難し、イエス様が悪魔の王子を使って悪魔を祓ったと冒涜したのです。彼らはローマ政府と手を携え、主イエス様を十字架に磔にすることさえしました。最終的に、彼らは神様の性情に反し、神様の義なる懲罰と呪いを受け、地獄の中で壊滅させられました。

   次に、パリサイ人達に欺かれたユダヤ教信者についてお話します。彼らも“神殿”を神様よりも偉大な存在と見ていました。たとえば、彼らは祭司や律法学者、パリサイ人を神様よりも偉大とみなしてたのです。そのため、祭司に欺かれ、煽られると、理性を失い、神様の信者が持っているべき基盤を失いました。彼らは主の側に立つことができなかったばかりか、盲目的に祭司に従い、主イエス様を十字架に磔にせよと叫んだのです。彼らは祭司や律法学者、パリサイ人の偽善の真実を見破ることができず、神様に仕えるこれらの人々が主よりも自身のステータスや聖書の言葉を偉大とみなしていたことを知りませんでした。彼らは、いわゆる“神の従者”で、“真理の道を守ること”をカモフラージュとして使い、人々を欺くためにさまざまな噂を捏造し、嘘をでっち上げていました。彼らは自身の手中で人々を厳しくコントロールし、神様の御働きを必死になり妨げ、損なわせ、人々を支配しようと神様と競っていました。従って、彼らに従ったユダヤ人も最終的に滅び、壊滅させられました。それでは、どのような人々が神様を偉大として称賛しているでしょうか?私はヨブのことを考えました。彼のすべての子供が死に、全財産が奪われ、深い悲しみに沈んでもなお、神様を冒涜する罪を犯さず、神様の名前を賛美し続けました。ヨブは次のように言いました。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)。ヨブの心には神様のための場所がありました。ヨブにとって、神様は心の中で唯一の存在で、彼の羊も、牛も、財産も、子供たちも神様と比ぶべくもありませんでした。ヨブは心の中で神様を偉大な存在として称賛することができたため、試練を乗り越えた後、神様から素晴らしい御祝福を受けました。別の例ではペテロがいます。ペテロが主イエス様に従っていたとき、主の声に注意深く従い、主の御指示に沿って行動しました。兵士が主イエス様を捕まえようとしている重大な局面では、ペテロは自分の命も顧みず、主イエス様を救うために、走っていき兵士の耳を切り落としました。このことから、ペテロが自分自身よりも主を愛していたことが分かります。このような行為は普通の人にできることではありません。主はペテロの行為に満足されました。そのため、主イエス様は神様の国への鍵をペテロにお預けになり、教会を率いていく重い責任をペテロに委ねられました。

   このことについて考え、私は神様に祈りを捧げると、「私の心の中では、『神殿』と神様とどちらのほうが偉大だろうか?」と自問しました。パリサイ人が神様に抵抗していたという事実は、私に1つの警告を与えました。つまり、もし私が神様を信じながら、心の中では偉大なる存在として称賛せず、受肉したキリスト様を知らず、崇拝せず、またキリスト様に従っていなければ、私がどれほど神様を信じており、神様に従っており、神様のために犠牲を払い、努力したところで、キリスト様の目には私がすべきことすべてが無意味となるでしょう。私はヨブやペテロを見倣うべきです。どのような試練に遭遇しようとも、神様の統治を信じ、神様に真の信仰を持つべきです。神様の御働きや御言葉がどれほど私自身の観念や想像と一致していなかったとしても、自分自身を脇へ置き、神様に従う必要があります。このようにしてのみ、私は真に神様に従い、心の中で神様を称賛する人になれます。兄弟姉妹の皆さん、あらゆることにおいて、心の中で神様を偉大な存在として称賛しましょう。そうすれば、神様の御祝福と愛は確実に私達と共にあるでしょう!


賢いクリスチャンは果実によって彼らを見分ける

2019-10-20 22:47:17 | 聖書の言葉

   「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない」(マタ7:17-18)。

   今日は、皆さんとあることを分かち合いたいと思います。誰かが主は戻られたと説教するのを聞くとき、彼らが伝道する福音が主の再来の福音であるかをどのように見定めるべきでしょうか?そして、どのようにしたら、ユダと同じ道を歩んだり、パリサイ人やサドカイ派の口八丁に騙されたりしないで、賢いクリスチャンとなることができるでしょうか?

   聖書には次のように書いてあります。「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」(マタ7:16-20)。



   主イエス様のこれらの御言葉から、私達は主イエス様が見定めるための方法を示してくださったことが分かります。つまり、彼らの成果を見れば、見定めることができるのです。これらの御言葉と私の長年の信仰を照らし合わせ、私は常に聖書を読み、祈り、説教をし、主のために犠牲を払ってきました。そして、たくさんのよい振る舞いをしているため、自分は神様を信仰し、神様について知っていると思っていました。しかし、何か気に入らないことに遭遇すると、未だに神様への信仰を失い、神様のせいにし、神様を誤解し、そのため神様から距離を置き、知らず知らずのうちに心の中で神様から遠ざかってしまうことがあります。特に、近年、多くの兄弟姉妹は私と同様に、聖霊の導きを感じず、啓示を受けることができず、または聖書を読んでも新しい光を得ることができません。まして、私達の生活において、主の御言葉を実践・経験できておらず、頻繁に罪を犯し、罪にまみれて絶望的な状態で暮らしています。夜の静寂の中で、私はいつも心の中で次のように考えます。私達は全員本当に神様を信じている。しかし、間もなく主の時代が到来するというのに、なぜ、私達はこんな状態で暮らし、聖霊の働きや神様の御導きを感じないのだろうか?

   最近、私はある本の中で次の一節を読みました。「もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。」この節について反芻していると、主イエス様が再来され、天の国へ昇天された後に、主の弟子や使徒が主の名前の下、至るところで贖罪の福音を説き始める一方で、ローマ政府とユダヤ教の指導者達が彼らに強く反対したことを思わずにいられませんでした。彼らはイエス様についてあらゆる噂を捏造しただけではなく、イエス様の弟子達を拘束もせずに直接逮捕しました。私達は、自分自身の概念と想像により、ローマ政府とユダヤ教による主イエス様への強い反発の下で、主イエス様の福音が妨げられたと考えました。しかし、神様から来たものは最終的には繁栄し、敵対勢力は主イエス様がその御心を実行するのを妨げることができませんでした。聖霊の導きにより、弟子達は暴力を恐れることなく、断固として神様の御言葉に耳を傾けただけではなく、あらゆる困難に苦しもうとも、主イエス様の福音を広めるために自身を捧げました。私達は、彼らがそれを行ったという事実を見ました。神様の御導きにより、彼らは主イエス様の福音を広めるというその使命をやり遂げました。

   昨今、全宗教界で深刻な飢饉が起こっています。さまざまな宗派がすべて、聖霊の働きを失っています。しかし、Facebookで、終わりの日の神様の福音をワクワクとした強い気持ちを持って熱心に伝道している人々を見ました。彼らが説教している様子を聞いたことはありませんが、1つ、確かなことがあります。つまり、彼らには聖霊の働きがあるということです。なぜ、私はそう言えるのでしょうか?それには1つの理由があります。宗教界の最高指導者達からの中傷、裁き、非難に直面しても、彼らは、悪意に悪意で報復せず、これらの宗教界の人々にただ真理を話しているからです。過剰な抵抗を受けたとしても、これらの人々は大騒ぎせず、他人の影響を受けずに、神様の福音を広めているからです。彼らと話したことがある同僚は、「これらの人々は全員、神様、そして神様の御言葉に照らして自分自身を理解しようとしています。彼らと何度も話し合ったことがあります。彼らは、常に、真理と神様の御心について私に辛抱強く話してくれました。彼らと話すことにより、大きな報いを本当に得ました。彼らには聖霊の働きと愛があり、私達に福音を伝導するときには、どんなに数多くの困難に直面しようとも、誰かからの冷笑や中傷を恐れずに、愛の心から私達を助けてくれるでしょう。その点において、本当に彼らを尊敬しています。今日の宗教界では非常に多くの宗派がありますが、聖霊の働きがあるのはこれらの人々だけだと思います」と私に言いました。同僚がこう言うのを聞いて、この教会についてよい印象を持ちました。主イエス様が成果により他者を認識するよう教えてくださったのを思い出しました。よい木はよい果実を実らせます。腐敗した木ではこれを行うことはできません。彼らは、まるでよい木がよい果実を実らせるように、優れた行ないをその生き方を通して実践しているため、彼らが説教をする様子を調べ、調査して見る価値があります。

   教会の牧師や長老は、今こそ終わりの日であり、偽のキリストが人々を騙すために現れるだろうといつも私達に言っています。彼らは盲目的にガードを固くし、誰かが主イエス様の再来について説いてきたら、それを求めることも調査することもしてはならないと指示します。このような行為は間違っていると思います。なぜなら、主イエス様は次のように仰っているからです:「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」(マタ25:6)。主イエス様は私達に新しい神様の働きについて説く人々を求め、調査する姿勢を保つように仰っています。私達が盲目的にガードを固くし、彼らを排除したら、主イエス様の御教えを裏切ることにならないでしょうか?そのため、誰かが主イエス様の再来について説くときは、私達は主イエス様の御言葉に従いこれらを求め、調査し、彼らが実現した成果が善良なものか邪悪なものかを見極める必要があります。このようにして、私達は彼らの説いている内容が真の方法であるか否かを知ることができます。私達に物事を見定める原則がなければ、他者が言ったことに従い、断固として自分の立場を固守することができないイスラエル人のようになり、神様に簡単に抵抗し、拒否するようになるでしょう。

   従って、主イエス様の再来という主題に関しては、賢いクリスチャンになり、さまざまな人々をその成果により見定める方法を学ぶことがとても大切です。


神様を崇拝することと偶像を崇拝することの違い

2019-10-19 21:03:58 | 聖書の言葉

   インターネット上に主イエス様のイラストを掲載したり、これを兄弟姉妹と共有したりすることは偶像崇拝に当たり、神様を崇拝することにならないという旨のステートメントがオンライン上で出回っています。それは本当でしょうか?神様を崇拝することと偶像を崇拝することを私達はどのように区別することができるでしょうか?

   主イエス様は次のように仰っています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである」(ヨハ4:23)。主イエス様の上の言葉に基づき、多くの思慮深く賢い人々は次の事実に同意するでしょう:誰かが神様を本当に崇拝しているか否かは、その人の表面的な態度だけではなく、その人が本当に神様を信じ、真理を渇望しているか否か、その人が神様の御前で自分自身の本当の姿をさらけ出す正直な人であるか否かにより判断すべきです。つまり、表面的に敬虔そうに見える人が必ずしも神様の真の崇拝者とは限りません。神様の真の崇拝者は、霊そして真理で神様を崇拝することにフォーカスしており、対外的な実践にフォーカスしていません。そのため、私と兄弟姉妹達はすべて、主イエス様のイラストは神様が私達と共にあることを示す単なるシンボルやメタファーであると信じています。私達はこれらのイラストを使って偶像を崇拝しているわけではありません。


   

   偶像崇拝とは、実際、何を意味しているのでしょうか?それは、イラストや聖書を神様とみなし、それらの前にひれ伏したり、ひざまずいたりすることを意味します。それが本当の偶像崇拝です。いくつかの例を紹介します。お祈りをする際には聖書を目の前に置かなければならない人がいます。また、外出の際には聖書を必ず携帯したり、就寝時には聖書を抱いて寝たりする人さえいます。また、お祈りをする際には必ず主イエス様のイラストを見る人もいます。他には、聖書に手を置いて長い時間お祈りをする人もいます。これらの人はすべて、自分たちは神様を崇拝していると信じています。しかし、実際は、彼らは主の存在や聖霊の働きをだいぶ前に感じられなくなっています。教会の牧師の中には、神様に関する真実の知識を話したり、信者が真理を実践し、神様の御心に従うための本物の道を明らかにしたりすることができない人もいます。混乱した方法でメッセージを聞く人達は、聖霊の働きの足跡を積極的にどう探せばよいのかが分からず、いのちの供給を得ることができなくても、さまざまな宗教的儀式にしがみついています。この種の信仰は、本当に神様を崇拝することになるでしょうか?もし誰かが聖霊の働きを得ることができず、イラストや聖書を神として崇拝するならば、崇拝の対象は、実際には空気または、その人の観念や想像の中にあるぼんやりとした神様であり、本質的に、その人は偶像を崇拝していることになります。一方、主イエス様のイラストを自宅の壁に飾り、神様にお祈りを捧げる際にはとても敬虔な気持ちになり、お祈りの中で、心からの言葉を口にし、主の愛について考え、感動に涙が溢れることがよくある人達もいます。この人達は、通常、神様の御言葉を実践し、経験することにフォーカスしており、聖霊から頻繁に啓示を受け取り、真理の現実に関する知識を得ています。これは、聖霊の働きにより達成される結果です。これらの人々に対して、偶像崇拝だと言うことができるでしょうか?

   次に、神様を信じているのに、神様を偉大なる存在として称賛せず、盲目的に牧師や長老を崇拝している人達がいます。彼らは牧師や長老が言うことを何でも鵜呑みにし、その言葉に従うため、神様の御言葉に頼って、彼らの言葉が真理と即しているか、彼らの行いが神様の御心に従っているかを見定めることはありません。再来される主をお迎えすることに関して、多くの人々は牧師や長老に特に従順です。もし彼らの牧師や長老が何かを非難し、反対すると、それの真意を見定めずに従います。牧師や長老が主は再来されていませんと主張したり、主が来られる方法を明示したりすると、彼らは、神様の御言葉に従い見定めたり、神様の御言葉に記載される御心に従い実践する方法を求めるのではなく、牧師や長老の言うことに盲目的な信仰を置きます。彼らの目には、神様を信仰するとは、すべてのことにおいて牧師や長老の言うことを聞くことを意味しています。彼らはあまりにも人を崇拝し、盲目的に信仰しているため、神様を人としてとらえて、従うことさえしています。これこそ真の偶像崇拝で、彼らが崇拝している人間こそ彼らの偶像です。

   主イエス様は次のように仰っています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタ7:21-23)。私達が神様を信じる中で、私達は心の中に神様の場所を作り、頻繁に神様を崇め、神様の証を立て、あらゆることにおいて真理を追求し、神様の御言葉に従い、それを実践に取り入れていく必要があります。これは、神様の御心に従うもので、こうすることで、私達は確実に聖霊の働きを得ることができます。こうすることで、主イエス様のイラストを何枚自宅や教会に飾ろうが、またはウェブサイトに掲載しようが、それは完全に正しいことになります。なぜなら、これらは福音を広め、神様の証を立てることが目的で、それは疑う余地がなく神様から命じられたポジティブなこととみなされるからです。逆に、神様への信仰が名ばかりで、実際にはステータスや権力を崇拝する人は、牧師や長老を盲目的に信じ、彼らに従い、人を神様として扱い、手紙や教義を真理としてしがみつきます。これらの人々が聖霊の働きを得ることは決してありません。彼らがどれほどの宗教的儀式を行おうと、神様はこれらの人々をお好きではなく、むしろ嫌い捨てられます。それは、これらの人々が、その本分である神様を崇拝することや神様の証を立てることを行わず、または神様の御言葉を重要なものとして取り入れたり経験したりすることを考慮することがないためです。これらの人々はいのちのないもみ殻であり、偽の信者です。彼らの信仰こそ、正真正銘の偶像崇拝です。


神はどうしてダビデは神の御心に沿っていると言われたのでしょう

2019-10-18 23:17:54 | 聖書の言葉

   ダビデはイスラエルの民から深く尊敬され支持された王でした。

   ダビデの名前を聞くと、彼の勇敢な行為が私の頭の中に沢山浮かびます:彼は石を投じて巨人ゴリアテを殺しました。彼は勇敢に戦いに挑み、各戦いに勝利しました。彼はプサルテリーとハープを奏でてヤ―ウェ神を讃えました⋯しかし、私はウリアを殺し彼の妻バテシバを力ずくで奪ったという彼の汚点も覚えています。

   私たちはダビデをどう見なすべきでしょう?彼はどのような形で見習うとためになるのでしょう?



ダビデの悔い改め

   ダビデがウリアを殺しバテシバを力ずくで奪った後、神の義なる性質が彼に降りかかりました。次の聖句に神のダビデに対する姿勢が記録されています、「あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう」サムエル記下 12:10。 神からの罰に直面したダビデはそれを進んで受け入れて神に服従し、さらに彼は慌てて神に祈りを捧げ、神の前で悔い改め、神の御慈悲を請いました。彼はこのようにヤ―ウェ神に祈りを捧げました、「主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。…夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした」詩篇 6:4-6。ダビデは自分が犯した過ちに対して深い自責の念を感じました。彼は毎日神の前で自分の罪を告白し、悔い改め、断食しながら祈りを捧げました。「夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした」という言葉がダビデの自責の度合を反映しています。これより、彼は心から悔い改めていたことが分かります。

   聖句にはこれも記録されています、「ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかったので、その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめを捜し求めて王にはべらせ、王の付添いとし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを捜し求めて、シュナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった」列王紀上1: 1-4。

   これらの聖句から、年老いたダビデは寝る時に温まることができなかったため、彼の召使がとても美しく若い女性を彼のベッドに連れてきて彼の布団の中で寝かせ、彼を温めさせていたことが分かります。しかしダビデ王は彼女を知ろうとはしませんでした。ダビデが以前犯した罪過が神の性質を害したことは明らかですが、これを理解した彼は完全に悔い改めて変化を遂げることができ、不倫は人生を通して一度しか犯しませんでした。彼の身分と地位を考慮すると、彼がそうすることは容易ではなかったと言わざるを得ません。これは、彼の神への信仰は真なるものであったこと、そして彼は神を敬けんする心を持っていたことを的確に証明しています。そして、彼は神の御言葉を嫌おうとはせず、もう二度と神の名を汚したくなかったのです。彼は神の前で心から悔い改めたおかげで神の御慈悲と容認を得ることができ、神はもう彼の罪過を覚えてはおられませんでした。

   しかし、神がダビデを是認されたことを知っていながらも、私たちの多くはそれが理解できず、彼に対する偏見を抱いています。なぜなら、私たちはダビデは一度不倫しており、他人の妻を力づくで奪い取り、彼女の夫を殺したと思っているからです。私たちはダビデの本性と本質を知らないと言わざるを得ません。ダビデは不倫を犯しはしましたが、悔い改めた後は二度と他の女性には手を出さず、美しいおとめが自分のふところで寝ていてもそれに動じませんでした。従って、ダビデはこの側面において完全に悔い改めたことが分かります。彼の本質に関して言えば、ダビデは善良の人だったのです。古代から現在まで、この点においてダビデより優れていた王は世界中に一人もいなかったと言えるでしょう。

   ダビデと比較すると、私は自分が恥ずかしくなります。ダビデはこの過ちを一度犯しただけで、彼はそれを完全に悔い改め、もう二度とその過ちは犯しませんでした。しかし私たちはどうかというと、私たちは罪を犯したら主に祈りを捧げ、口では悔い改めます。しかし、また類似する状況に直面すると、私たちは依然として自制できずに罪を犯し神に背いてしまい、罪を犯しては告白するというサイクルの中を生きています。これは私たちの悔い改めは単なる口だけのもので、私たちは神を恐れる心を持っておらず、ダビデが行ったように悔い改めていることを実際に貫いて証明できていないことを示しています。これ故に、ダビデの真の悔い改めは私たちが本当に見習うべきものであるのです。

ダビデは神殿を建てた

   この聖句にはこう書かれています、「ダビデ王はまた全会衆に言った、『…この事業は大きい。この宮は人のためではなく、主なる神のためだからである。そこでわたしは力をつくして神の宮のために備えた。すなわち金の物を造るために金、銀の物のために銀、青銅の物のために青銅、鉄の物のために鉄、木の物のために木を備えた。その他縞めのう、はめ石、アンチモニイ、色のついた石、さまざまの宝石、大理石などおびただしい。なおわたしはわが神の宮に熱心なるがゆえに、聖なる家のために備えたすべての物に加えて、わたしの持っている金銀の財宝をわが神の宮にささげる』…そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、『われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです』」(歴代志上 29:1-3,10)。

   ダビデは神の御心に対し最も深い配慮を示し、彼の人生における願いはヤ―ウェ神のために神殿を建てることでした。人々はサタンに堕落させられた後は頻繁に罪を犯し、サタンを礼拝し、そして偶像を礼拝するということを知った彼は、より多くの人々が神の前に行って神を礼拝できるようにと、神を礼拝するための神殿を建設することを検討しました。ダビデは神を敬けんし恐れる心を持っていたのです。彼は神の御心に最善の注意を払い、神の御心配されることを心配し、神が御考えになられていることを考え、心から犠牲を払ったのです。この聖句の記録より、彼は心と努力の全てを込めながら神殿の建設に必要な物全てを揃え、自分の貯金全額を寄付したことが分かります。ダビデは生涯の間に神殿の建設を完成させることはできませんでしたが、自分の息子ソロモンに自分が人生を通して叶えられなかった志を持ち続けるよう命じ、最終的に神殿は建設されました。

   明らかに、ダビデの行いは神の御旨に対する配慮を示すこと、神を満足させること、そして神を礼拝することを目的としていました。神の御旨を配慮し、心に神を宿らせていたこの人は神の前に全ての民を導くことができました。そうなら、どうして神は御不満であられたのでしょうか?一般家庭において、分別のある子供が自分の両親が沢山辛い思いをしているのを見ると、彼は心の中でこう考えます:「僕はいつになったら大きくなれるんだ?いつになったら両親のために何かをして両親の心配を分かち合うことができるようになるんだ?」親は自分の子供が思いやりのある子だと知ると喜びを感じます。これと同様に、神は働きにおける何らかの段階をなさる度に神からの任務を担い、神と協力し合おうと神のために労力を費やす人を必要とされます。ダビデはそのような人でした。

   私は、ダビデは神の御心に沿っていると神が仰った理由が理解できました:1つの点として、彼は罪を犯した後に心から後悔の意と悔い改めを抱いたことが言えます。もう1つの点としては、彼は神の御心に対して最も深い配慮を示し、神のために心をこめて神殿を建設し、全ての民を神を礼拝するように導いたことが言えます。従って、彼は神から好まれ、神の御旨と最も一致していた人であったのです。私はダビデの例に習い、神を恐れる心を抱き、神に抵抗して神の名誉を汚すことになるような罪を意図的に犯さず、悔い改めること、変化を遂げること、そして神を讃えることに注意を払い、これらを実際に貫いていきます。さらに、私は神の御心に最善の注意を払い、神の福音を伝導し、より多くの人々を神の前に導きたいと思います。

 

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