賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

天国に行く条件とは何ですか

2020-11-06 23:11:18 | 天の国の福音

天国に行く条件とは何ですか

苦労して働いて天国に入れるのか
    「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)

    多くの人はパウロのこの言葉によって、主のために説教をして、労力を費やすことでパウロを見習いながら、休むことなく働いていれば、主が再臨される時に直接天国に引き上げられると考えています。人の目にはこのように実践することは正しく映り、誰もそれには反対しません。しかし、これは神の御心には適っているのでしょうか?

    「主イエス様はこう仰りました:『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)主の御言葉から、主イエス様は「ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」としか仰っておられないことが分かります。主は主のために懸命に働く者全てが祝福され、天国に入るとは仰っておられません。パリサイ人が福音を伝導するために地と海を渡り、骨折って働いていた時のことを思い出してください。彼らは神のために懸命に働くことを投資とし、人々に自分たちを崇拝させ、自分たちに従わせていました。主イエス様が働きをしに来られた時、彼らはユダヤの民の多くが主イエス様に従っていることを知りました。自分たちの地位や生活を失うことを恐れた彼らは狂信的に主イエス様に逆らい、主イエス様を非難し、ついにはローマ政府と共謀して主を十字架に釘付けにしたのです。なので、彼らは神のためにどれだけ一生懸命に働いていても、結局は神に逆らい、悪事を働いていただけなのです。それで天国に入れるわけがないのです。現在、存在する各宗派と分派に属する人々を見てください。その多くは苦しみ、代償を払い、主のために休みなく働いても、決して主の御言葉を実践することがなければ、各々の業務や説教を行う中で神を称賛したり、神の証言をすることもありません。代わりに、彼らは頻繁に自らの地位を確立して他人に自分のことを尊敬させ、従わせています。彼らのやること全てが自分の地位と収入を維持するためであり、それ以上に天国に入るためにやっていることなのです。このような代償を払っても神と取引をしているようなものです。なので、彼らが神の御心通りに実践する人々であるはずがないのです。一生懸命に働くだけでは天国には入れないし、そうすることが天国に入るための条件でもないことは明らかです。」

天の父の御旨を行うこととは何か
    それでは、いったい天の父の御旨を行うこととは何でしょうか。天の父の御旨を行うことは主に人の心には神様を愛し、神様を崇め、神様を畏れ悪を避け、主の御言葉を実践し、主の戒めを守り、常に神様を高く掲げ、神様を証しし、真心で主のために費やし、取引がなく、要求することもなく、試練の中で神様のために証しに立ち、神様の支配と采配に従うことを指しているのです。これこそ神様の旨を行うことです。まさに主イエスが言われた通りです。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22:37−39)そのため、神様の旨を行う人は皆罪から抜け出して聖さを得る人であり、真理を実践し、本当に神様に従う人であり、常に主の御言葉を実践し、主の戒めを守る人であり、心には神様を愛し、主の御言葉によって生きる人です。もし人の心には神様を愛さず、働きや伝道すると同時に神様と取り引きし、常に神様に抵抗し、神様に逆らい、神様の言葉を実践せず、これはどうして神様の旨を行うことと言えようか。どうして罪から抜け出して清くなったと言えようか。私たちは皆このような事実を見ました。多くの人は主を信じて主の御名によって働き、伝道し、十字架の苦しみを背負い、牢屋に入れられ、殉道さえできますが、これは人が主への信仰心と熱心を持っていることだけを表します。しかし、否認できないのは、人が苦労して働くと同時に、常に神様に逆らい、神様に抵抗し、自分の好みによって物事を勝手気ままに行い、分派を引き起こし、独立王国さえを建て上げます。また多くの人は働いて苦しみを受けるのは神様を愛し、神様を満足させるためではなく、報酬や冠だけを求め、それによって少しの働きをし、少しの苦しみを受けた後、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりし、全く確信を持って神様に天国の祝福を求めます。これらの事実は次のことを十分に説明できます。人は主の御名によって多くを放棄し、自らを費やし、苦労して働くことができるのは、神様の旨を行うことを証明できず、さらに神様に称賛され、天国に入って見返りを得る資格があることも証明できません。なぜなら、人のうちにはサタン的本性はまだ解決しておらず、罪の束縛から抜け出せず、働きをすると同時にまた悪を行い、神様に抵抗し、神様にさえ敵対し、これはどうして神様の旨を行う人だと言えようか。どうして天国に入る資格があり得ようか。

どのようにして天国に入ることができるのか
    それでは、どのようにして父の御旨を行って神様の国に入ることができるでしょうか。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47−48)主イエスの言葉が明示されています。主イエスは恵みの時代で堕落した人類が救われることで必要とするすべての真理を皆人類に与えられていなく、また多くのより深く、より高い真理、つまり人類をサタンの堕落した性質から抜け出して清くさせられ、及び神様に従い、神様を認識する多くの側面の真理を人類に教えられていませんでした。そのため、主が再来されて人類を救うすべての真理を発表し、あらゆる主の終わりの日の救いを受け入れる人を裁き、刑罰し、清め、完全にし、最終的にこれらの人を神様の旨を行う人を作られ、神様の国に導き入れ、こうしてこそ神様の人類を救う経営計画が徹底的に完成されるのです。主の終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、真理を得られて性質の変化を実現することに達し、神様の旨を行う人になって神様の国に入るのです。

    ヨハネの黙示録もこう預言されています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)また多くの箇所にこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)したがって、私たちは主が再来されて真理を発表して裁きの働きをなさるとの証しを聞いた時、謙虚で尋ね求めてこそ、主の出現を迎えられ、主の再来の救いを受け入れられ、天の父の御旨を行う人になって天国に引き上げられる機会を得られるのです。


天国に行く条件とは何ですか

2020-11-06 23:11:18 | 天の国の福音

天国に行く条件とは何ですか

苦労して働いて天国に入れるのか
   

    「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)

    多くの人はパウロのこの言葉によって、主のために説教をして、労力を費やすことでパウロを見習いながら、休むことなく働いていれば、主が再臨される時に直接天国に引き上げられると考えています。人の目にはこのように実践することは正しく映り、誰もそれには反対しません。しかし、これは神の御心には適っているのでしょうか?

    「主イエス様はこう仰りました:『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)主の御言葉から、主イエス様は「ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」としか仰っておられないことが分かります。主は主のために懸命に働く者全てが祝福され、天国に入るとは仰っておられません。パリサイ人が福音を伝導するために地と海を渡り、骨折って働いていた時のことを思い出してください。彼らは神のために懸命に働くことを投資とし、人々に自分たちを崇拝させ、自分たちに従わせていました。主イエス様が働きをしに来られた時、彼らはユダヤの民の多くが主イエス様に従っていることを知りました。自分たちの地位や生活を失うことを恐れた彼らは狂信的に主イエス様に逆らい、主イエス様を非難し、ついにはローマ政府と共謀して主を十字架に釘付けにしたのです。なので、彼らは神のためにどれだけ一生懸命に働いていても、結局は神に逆らい、悪事を働いていただけなのです。それで天国に入れるわけがないのです。現在、存在する各宗派と分派に属する人々を見てください。その多くは苦しみ、代償を払い、主のために休みなく働いても、決して主の御言葉を実践することがなければ、各々の業務や説教を行う中で神を称賛したり、神の証言をすることもありません。代わりに、彼らは頻繁に自らの地位を確立して他人に自分のことを尊敬させ、従わせています。彼らのやること全てが自分の地位と収入を維持するためであり、それ以上に天国に入るためにやっていることなのです。このような代償を払っても神と取引をしているようなものです。なので、彼らが神の御心通りに実践する人々であるはずがないのです。一生懸命に働くだけでは天国には入れないし、そうすることが天国に入るための条件でもないことは明らかです。」

天の父の御旨を行うこととは何か


    それでは、いったい天の父の御旨を行うこととは何でしょうか。天の父の御旨を行うことは主に人の心には神様を愛し、神様を崇め、神様を畏れ悪を避け、主の御言葉を実践し、主の戒めを守り、常に神様を高く掲げ、神様を証しし、真心で主のために費やし、取引がなく、要求することもなく、試練の中で神様のために証しに立ち、神様の支配と采配に従うことを指しているのです。これこそ神様の旨を行うことです。まさに主イエスが言われた通りです。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22:37−39)そのため、神様の旨を行う人は皆罪から抜け出して聖さを得る人であり、真理を実践し、本当に神様に従う人であり、常に主の御言葉を実践し、主の戒めを守る人であり、心には神様を愛し、主の御言葉によって生きる人です。もし人の心には神様を愛さず、働きや伝道すると同時に神様と取り引きし、常に神様に抵抗し、神様に逆らい、神様の言葉を実践せず、これはどうして神様の旨を行うことと言えようか。どうして罪から抜け出して清くなったと言えようか。私たちは皆このような事実を見ました。多くの人は主を信じて主の御名によって働き、伝道し、十字架の苦しみを背負い、牢屋に入れられ、殉道さえできますが、これは人が主への信仰心と熱心を持っていることだけを表します。しかし、否認できないのは、人が苦労して働くと同時に、常に神様に逆らい、神様に抵抗し、自分の好みによって物事を勝手気ままに行い、分派を引き起こし、独立王国さえを建て上げます。また多くの人は働いて苦しみを受けるのは神様を愛し、神様を満足させるためではなく、報酬や冠だけを求め、それによって少しの働きをし、少しの苦しみを受けた後、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりし、全く確信を持って神様に天国の祝福を求めます。これらの事実は次のことを十分に説明できます。人は主の御名によって多くを放棄し、自らを費やし、苦労して働くことができるのは、神様の旨を行うことを証明できず、さらに神様に称賛され、天国に入って見返りを得る資格があることも証明できません。なぜなら、人のうちにはサタン的本性はまだ解決しておらず、罪の束縛から抜け出せず、働きをすると同時にまた悪を行い、神様に抵抗し、神様にさえ敵対し、これはどうして神様の旨を行う人だと言えようか。どうして天国に入る資格があり得ようか。

どのようにして天国に入ることができるのか


    それでは、どのようにして父の御旨を行って神様の国に入ることができるでしょうか。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47−48)主イエスの言葉が明示されています。主イエスは恵みの時代で堕落した人類が救われることで必要とするすべての真理を皆人類に与えられていなく、また多くのより深く、より高い真理、つまり人類をサタンの堕落した性質から抜け出して清くさせられ、及び神様に従い、神様を認識する多くの側面の真理を人類に教えられていませんでした。そのため、主が再来されて人類を救うすべての真理を発表し、あらゆる主の終わりの日の救いを受け入れる人を裁き、刑罰し、清め、完全にし、最終的にこれらの人を神様の旨を行う人を作られ、神様の国に導き入れ、こうしてこそ神様の人類を救う経営計画が徹底的に完成されるのです。主の終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、真理を得られて性質の変化を実現することに達し、神様の旨を行う人になって神様の国に入るのです。

    ヨハネの黙示録もこう預言されています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)また多くの箇所にこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)したがって、私たちは主が再来されて真理を発表して裁きの働きをなさるとの証しを聞いた時、謙虚で尋ね求めてこそ、主の出現を迎えられ、主の再来の救いを受け入れられ、天の父の御旨を行う人になって天国に引き上げられる機会を得られるのです。


キリストの再来についての七つの預言

2020-10-29 21:13:28 | 天の国の福音

キリストの再来についての七つの預言

    今はもう世の終わりの末期です。ヨハネの黙示録第22章12節では、主イエスは『見よ、わたしはすぐに来る』と言われました。主はわたしたちに、彼がまた来ると約束されましたが、主はすでに来られましたか。わたしたちはどうすれば主が再来したかどうかを知ることができますか。真心から主を信じて、主の到来を待ち望む兄弟姉妹たちはきっとこのような疑問を抱いているでしょう。

1.信徒の愛が冷えた
    マタイによる福音書第24章12節でこう書かれています。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。今、各宗派の信徒たちはおしなべて世をむさぼります。ある者は商売をし、ある者は工場を開設して、金を稼ぐのに忙しく、主のために働く気持ちがなくなります。牧師、長老たちも互いに腹を探り合って暗闘し、互いにねたみ、争います。中には、徒党を組み、いけにえを盗み食いし、ふしだらな行いをする者さえもいます。人の信仰がますます薄くなり、人の愛がますます冷えてきます。今、教会の荒廃状態がますますひどくなります。

2.戦争、飢饉、地震が現れた
    マタイによる福音書第24章6節から8節でこう書かれています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて生みの苦しみの始まりである」。ここ数年来、世界各地の災難はますます大きくなります。地震、水害、干害、火災、飢饉、疫病はしばしば発生し、しかもますます多くの地域が被災します。被災地区の悲惨な光景は人の心を痛めます。国際情勢は不安定で複雑でその変化が甚しいです。戦争や暴力事件やテロ襲撃はしばしば起き、しかもどんどんとエスカレートします。例えば、2016年4月、インドが40年来の最もひどい旱害に見舞われました。そのため、3億人以上の人の飲料水が不足してしまいました。2015年から2016年までに、ヨーロッパ、アフリカ、中東などに多くのテロ襲撃が起き、数えきれない死傷者が出ました。2008年、中国の四川省汶川県でマグニチュード8の大地震が起こり、7万人近くの死亡者が出、1.8万近くの人が行方不明になりました。本来ならば、地殻層が厚くなった後、地震がますます少なくなるはずですが、今は地震がますます多くなります。これは科学者たちを困惑させています。

3.イスラエル国家が復興した
    聖書にこう書かれています。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マタ24:32-33)。「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない』。」(ルカ21:29-32)。1948年5月、イスラエル国家が復興しました。1948年5月15日、ベン・グリオンがテルアビブでイスラエル独立を宣言した後、ソ連はすぐそれを承認し、しかも5月26日、イスラエルに大使館を開設しました。それ以後、ソ連は多くの面でイスラエルを支持しました。1949年5月11日、米ソ両国の支持の下に、イスラエルが国連加盟国として正式に承認されました。

4.天体が変わった
    マタイによる福音第24章29節でこう書かれています。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。天文学者たちは頻繁に天文情報を公表します。天文学者たちの話によれば、多くの星がいま落ちつつあり、多くの新しい星がすでに現れたということです。隕石落下の事件がしばしば起こります。2016年5月17日の明け方、アメリカのニューイングランド地方に巨大な隕石が落下しました。隕石が落ちている時に発する強い光によって、夜は昼間のようになりました。2013年2月15日午前9時15分、ロシアのウラル連邦管区のチェリアビンスク市は小惑星に衝突されました。その強力な衝撃波と爆発によって、1491人の負傷者が出、数えきれないほど多くのガラスが割れました。科学者の話によれば、その小惑星は直径が約15メートルで、質量が約7千トンだったそうです。これらは、「星は空から落ちる」という預言を成就しました。

5.福音は地の果てまで宣べ伝えられた
    マタイによる福音書第24章14節で「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と書かれています。ここの「福音は……全世界に宣べ伝えられる」は、世界各地の人が主の福音を聞いた後、キリストが再来することを示しています (これは、あらゆる人が福音を聞くこと、或いはあらゆる人がキリストを信じることを指すのではない)。主イエスが十字架につけられて贖いの仕事を成し遂げた後、聖霊は神の選民が主イエスを証しするのを導き始めました。ラジオ放送局、インターネット、書籍、福音の宣伝ビラ、宣教などによって、主の福音がますます広く宣べ伝えられてきました。今はクリスチャンは世界の至る所にいて、主イエスの福音はもう全人類に行き渡りました。無神論の政党によって統治されている中国でも、主イエスの福音を受け入れた人がたくさんいます。だから、主イエスが人類を贖ったという福音は世界の果てまで宣べ伝えられました。愛する兄弟姉妹たちよ、考えてみましょう。世界のどの国や地域の人がイエスの福音を聞いたことがないのですか。

6.異端者の出現
    マタイによる福音書第24章4節から5節でこう書かれています。「イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう』」。今、世界各国の宗教界にも、多くの異端者、邪教が現れました。これらの異端者、邪教は少しの真理も持たず、また人に真理、命を供給できず、全然人を築き上げ、人に益を得させることができません。

7.偽キリスト、反キリストの出現
    マタイによる福音書第24章23節から26節でこう書かれています。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない」。今、どの国の宗教界にも、偽キリストが人を惑わすようなことが起こりました。韓国では、多くの人は弁別力がないので、偽キリストに惑わされて、偽キリストの追従者になりました。偽キリストはいくらかの簡単なしるしや奇跡を行い、もっともらしい謬論を話して人を惑わすことしかできず、全然真理を発表して、人類が絶えず罪を犯すという問題を解決することができず、また人類を腐敗から救い出すことができません。聖書の預言から分かるように、主イエスが再来して働かれる時、きっと多くの偽キリストや人を惑わす者は現れて神の働きを妨げます。だから、偽キリストが現れる時、神はすでにひそかに来られました。ただ人がそれを知らないだけです。このような時、わたしたちは進んで神の世の終わりの働きを探求し、調べるべきです。兄弟姉妹たちよ、主イエスの再来を迎える上で最も重要なのは、真のキリストと偽キリストを見分けることです。これは、わたしたちが神の御座に携え上げられることができるかどうかにかかわります。だから、どのように真のキリストと偽キリストを見分けるかについての真理を装備することは、わたしたちの当面の急務です。今、あなたは真のキリストと偽キリストを見分けることができますか。

    x以上の事実からは、主の再来についての預言がすでに成就したことがうかがえます。これらの預言の成就から見て、主がすでに戻られました。しかし多くの人はきっと「主が戻られたなら、なぜわたしたちが主を見ていないのですか」と聞きます。彼らは考えたことがないでしょう。自分たちが主を迎える上で間違いを犯したかを。今、多くの人は主の再来についての知らせを聞く時、偽キリストを警戒することを最も重要なことだと見なして、どのように賢い乙女のように神の声を聞くべきか、どのように主の再来を迎えるべきかを重視せず、自分の観念、想像を固守して、主イエスの再来を証しする者たちの証しがすべて偽りのものだと思っています。そのため、彼らは探求し、調べることはしません。こうして、彼らは主の再来を見る機会を逸しました。

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クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

2020-10-28 19:25:17 | 天の国の福音

クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

    1つの投稿記事をここで転送します:

    こんにちは!兄弟姉妹の皆さん、私は1つ質問があり、皆さんのそれに関する理解を求めて、今日、ここに投稿します。どうぞ、積極的に参加してください。

    今日、私が強い信仰心でお勤めをしていると、マタイによる福音書第25章に10名の乙女に関する寓話があるのを読みました。5名の思慮深い乙女は誰かが「花婿がやって来た」と叫ぶのを聞いて、躊躇せずに彼を迎えに出ました。そのため、彼女達は主と共に夕食を取り、ごちそうを楽しみました。なんと栄光あることでしょう。一方、残りの思慮が浅い乙女5名は主を迎え出なかったため、神の国の門の外に閉め出されてしまいました。なんと愚かなことでしょう!そこで、私は、「誰かが『花婿がやって来た。外へ出て、彼を迎えよう』」と叫ぶのを聞いたら、私が生きている間は思慮深い乙女となり、躊躇せずに主を迎え出なければならない」と考えました。そこで、また、「主の再来は私が考えるほど単純なものではないはずだ。そうでなければ、どうして思慮が浅い乙女が主により閉め出されるなんてことがあろうか?」と考えました。そこで、思慮深い乙女となるにはどうすればよいかを知りたいと思います。

    投稿者:松本愛

    回答:

    姉妹岡田:

松本愛、私にはこれが分かります。数日前に行われた聖書の勉強会で、リュー牧師は「現在は、終わりの日で、主イエス様が間もなく再来されます。私達は主をお迎えできるよう思慮深い乙女となり、主に見放され、神の国の門の外で泣いて、歯ぎしりをすることになる思慮が浅い乙女とならないようにしなければなりません。思慮深い乙女となるには、私達はもっと聖書を読み、注意深く祈り、主のためにもっと働く必要があります。これらのことを常日頃から行う者だけが思慮深い乙女であり、神の国に入り、主と共に夕食を取ることができるのです」と言いました。牧師のこの説教を聞いて、私はとても興奮しました。それから私は、毎日、注意深く御祈りをし、聖書を読むようになりました。思慮深い乙女となり、神の国の晩餐会に主と共に参加できるよう、時間がある限り、親戚や友人、仲間に福音を説き、主の証を立てています。

    ムイ:

    こんにちは!少しお話させていただきたく思います。姉妹岡田の言葉をたった今聞きました。過去10年間、私の牧師もそう言っており、私はそのようにいつも実践してきました。しかし、その後、何かがおかしいと感じるようになりました。私達はこれらのことをするだけで思慮深い乙女となれるのでしょうか?思慮深い乙女とは、主が再来されたときに、積極的に外へ出て、主を迎えることができることを意味するのではないでしょうか?10年はまたたく間に過ぎていきました。主の再来に関する預言が基本的に現実化し、大災害が次から次へと起きており、それは主がいつ何時でも再来し、私達を神の国に連れて行ってくださることを示しており、とても心配しています。そこで、イエス様が再来した際にお迎えできるよう、思慮深い乙女の基準を満たせるよう、どのようにそれを追求できるかについてぜひとも知りたいと思います。

    松本愛:

    さて、回答がありますか?

    ムイ:

    主よ、ありがとうございます!その後、兄弟姉妹との交流を求める中で、私はそのことを理解しました。主イエス様は次のように預言されました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 」(マタイによる福音書 25:6)。このことから、主イエス様が再来されたとき、主の御声を聞くことができ、外へ出て主をお迎えできる者だけが思慮深い乙女だということが分かります。従って、思慮深い乙女の主な現れは、その者たちが主の御声を認識できるということです。主イエス様がユダヤで働くために受肉されたとき、主は数多くの真理を明らかにされました。真理を本当に求め、神様の出現を切望する者は、救世主の到来を歓迎しました。これらの者は主イエス様の御言葉から神様の御声を認識し、主こそ到来が預言されていた救世主であると悟ったのです。

    佐藤恵和:

    ちょうどサイトに入ったばかりです。上のメッセージを読み、私も皆さんにお話したいことがあります。

    松本愛:

    ようこそ。

    ムイ:

まるで、かつて収税人であった当時のマタイのように、主イエス様が「わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書 9:9),と彼に言われるのを聞いて、彼は立ち上がり、そのまま主についていきました。また、聖書には次も記録されています。主イエス様との短い会話を交わした後、ナタナエルは「ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(ヨハネによる福音書 1:49)と言い、主についていきました。また、ペテロは、イエス様が船の中で人々に説いていた説教を聞いて、網と船を捨て、主についていきました。

    佐藤恵和:

    少しお話させていただきたく思います。ペテロ、ナタナエル、マタイなどの人々はすべて、主の御言葉と御発言から主イエス様が救世主であると認識し、主についていきました。同様に、サマリア人の女性は主イエス様と話しているとき、主が 「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。』」(ヨハネによる福音書 4:13-14)と話されるのを聞き、彼女の心の中に隠していた秘密が主によって明らかにされました。そして、真理の謎について話し、彼女の秘密を明らかにすることができるこのような人は、明らかに、普通の人や預言者ではないと悟りました。彼女は、主の御言葉から、主イエス様が救世主、キリスト様であると確信を持ちました。

    ムイ:

    そう、佐藤さんの言う通りです。これにより、私達は、彼らが神様の御声を聞くことに意識を集中しており、そのため、主の出現を歓迎できたことが彼らの知恵であり、それが思慮深い乙女の表れであることが分かります。

    佐藤恵和:

    少し付け加えたいと思います。思慮深い乙女には、自分自身の意見と根拠がありました。主の御言葉を聞いたとき、彼女達は外に主を迎え出ました。彼女達が主についていっている間、彼女達の周りでどれだけ中傷、冒涜、非難の声を聞こうとも、彼女達は変わらず、主イエス様が救世主であることを受け入れていました。弟子達が主についていったときと同様、彼女達は、多くの祭司、律法学者、パリサイ人から、主に抵抗し、主を中傷する多くの声を耳にしましたが、主への信仰に影響することはありませんでした。

    松本愛:

    はい。その通りです。

    ムイ:

    これらの祭司、律法学者、パリサイ人、そして彼らに従うユダヤ人はすべて、律法と規則に従う限り、確実に救世主の到来をお迎えすることになるだろうと信じていました。主の御言葉と御働きにどれほどの力と権威があろうと、彼らは自分の観念と想像に固執し、主イエス様の御言葉と御働きを調査することを拒みました。彼らは主イエス様を普通の人、神様の御発言を人の言葉とみなし、主を裁き、冒涜さえしました。最終的に、彼らは待ち望んでいた救世主を十字架に磔にし、神様を信じながら神様に抵抗する者となったのでした。彼らには神様の御声を認識することができず、真理を求める心を持っていませんでした。その代りに、神様の御出現と御働きを盲目的に拒否し、非難しました。そのため、彼らは神様からの御救いを失い、最終的に、神様の御怒りと御懲罰が下りました。これは、思慮が浅い乙女の表れで、彼らの結末でした。

    松本愛:

    皆さんの言葉を読み、私はとても恥ずかしくなりました。私はこれまで何度も聖書でこれらの寓話について読んでいながら、この光を得ていませんでした。

    主よ、ありがとうございます。たった今行われた皆さんによる思慮深い乙女と思慮が浅い乙女の表れについての交流はとても明確で、思慮深い乙女とは主イエス様の御働きについていく者のことで、主の御声を聞くことができる者で、主の御声を認識したら躊躇せずに最後まで主の後についていく者のことを言うのだと理解することができました。

    佐藤恵和:

    そうです!思慮が浅い乙女が門の外に放っておかれた理由は、彼女達には謙虚な気持ちで求める心がなかったからです。主イエス様の福音に直面して、彼女達は思慮深い乙女達と共に表に出ていって、これを受け入れることを嫌がり、自分の意見を持たずに、彼女達が尊敬し、崇拝するパリサイ人に助言を求めました。そのため、彼女達は主の救済を失いました。

    ムイ:

    その通りです!そのことは、現在にも同様に当てはまります。主イエス様の再来に関する預言は、基本的に現実化しています。今こそ主が再来される重大な瞬間です。イエス様の再来をお迎えするために、私達はどのような環境を整えておくべきでしょうか?

    松本愛:

    もっと教えてください。

    ムイ:

    分かりました。主イエス様は次のように仰っています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これらの預言によると、主が再来されたときは、確かに御言葉を発することが分かります。主イエス様が次のように仰っているため、これは疑う余地がありません。 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)。従って、主の再来のお迎えに関して、主の御発言と御言葉に注意する必要があります。神様の羊は神様の御声を聞くものです。「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」(ヨハネの黙示録 14:4)。主が再来される終わりの日に、私達が主をお迎えできるか否かは、私達が主の御声を認識でき、主の後についていけるか否かにかかっています。この点で、思慮深い乙女は思慮が浅い乙女とは異なっています。今日、誰かが主の再来の福音を説いているのを聞いたら、私達は思慮深い乙女の例に倣い、自分の観念と神様が御働きになった過去から出て、新時代の神様の御発言と御言葉に耳を傾けなければなりません。このような人のみが神様によりお認めいただき、聖霊の働き、啓示、光を得ることができます。同時に、私達は終わりの日の主の御言葉と御働きを求める際に、思慮深い乙女達のように自信と勇気を持つべきです。他人が何を言おうと、私達は見定める力と自分自身の意見を持つ必要があります。私達が神様の御声を認識する限り、私達は躊躇せずに調査すべきです。それが神様の御働きであることが確認できたら、神様の後にぴったりとついていき、迷ったり、後退りしてはなりません。真理を渇望し、真理を求める心がある限り、私達はイエス様の再来を確実にお迎えできるでしょう。

    松本愛:

    主よ、ありがとうございます!ようやく、思慮深い乙女となる道が理解できました。つまり、誰かが外で「花婿がやって来た」と叫んでいたら、私達はその人を迎え入れ、調査するために外へ出る必要があります。これこそ主の御声であると確信を持ったら、その人を受け入れ、ついていく必要があります。

    ムイ:

    その通りです。主よ、感謝します。最後に、皆さんと御言葉の次の聖句を共有したいと思います。「私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」栄光は全能の神様のものです。アーメン!


救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た(オーディオブック)

2020-10-11 22:50:05 | 天の国の福音

救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た(オーディオブック)

    数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

    「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はエマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれたし、人々はわたしを愛し、尊敬したので、ある時は救い主イエスと呼んだ。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の本当の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

    終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。