賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

私は主の再来を歓迎した

2020-07-02 23:11:51 | 天の国の福音

チンシン (ミャンマー)

   私の両親は中国人で、私は幼い頃から連れられて教会の礼拝に出席しました。12歳でミャンマー国内の大規模なキリスト教キャンプに参加した時、私は牧師に「死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」と言われ、天国に入れるようキャンプ中に洗礼を受けました。その時から、私は本当のキリスト教徒となりました。

   大人になり、私は教会の青年部会長を長年務め、伝道師が留守の時は、祈祷でも、聖書研究でも、讃美歌でも、証を述べる時でも、兄弟姉妹をリードしました。結婚後は日曜日の献金や十分の一献金を集める係となりました。私の教会は、当初は聖霊の働きがありました。牧師は滑らかに雄弁をふるい、兄弟姉妹は説教によく聞き入り、啓きを受けたように感じていました。誰もが自信に満ち溢れ、毎回の礼拝に出席して、非常な熱意をもって福音を広めました。しかし次第に牧師の説教は繰り返しの多い、精彩を欠いたものとなり、私たちが求めるものが得られなくなってしまいました。そして兄弟姉妹の持っていた自信も薄れ始め、金銭や肉体的な享楽に興味が移ってしまいました。信徒の数も減り始め、やがては全員が必ず出席するよう毎週土曜日になると牧師が電話をかけてくる始末でした。兄弟姉妹は、出席したとしても力も熱意もなく讃美歌を歌い、説教の最中は居眠りし、礼拝が終わると仕事の話をし始めました。礼拝は形だけのものとはり、中身が全くなくなりました。そこで私は非常に悩み、「どうして私たちの教会はこんなに荒廃した牧場となってしまったのだろう?」と思いましたが、その時過去30年間様々な牧師がよく同じ事を言っていたのを思い出しました。「私たちは主なるイエス様を信じているので、私たちの罪はすべて赦されている。」「私たちは信仰のゆえに神の恵みにより救いを得る。」「主なるイエス様は既に一度救いの働きを終えられたのだから、我々主の信者は既に救われており、天国に入る。」と。そこで「私は既に救われている、私は天国に入るのだ。」というのが、私の神への信仰の基本的な教義となりました。教会がいかにさびれていても、信者がいかに弱く受動的であっても、私は常に「私は主の道を歩まなければならない。主から離れない限り私をお見捨てになることはないだろう。主がお戻りになる時、私を天国に連れて行って下さるだろう。」と自分に言い聞かせていました。そう自分に言い聞かせてはいたものの、私は主の道を歩み続けられませんでした。昼には罪を犯し、夜にはその罪を告白しましたが、いつ祈っても側に主を感じることができませんでした。まるで主に見捨てられたかのように、私の霊は暗黒と空白を感じ、私は神からどんどん遠ざかるのを感じました。私はそのために非常に悩みましたが、問題の根源が見つからずにいました…。

   2016年2月、私はインターネットでジャン兄とリーフイ姉に出会いました。主への信仰についての経験を語り合った後、私は二人に自分の教会が荒涼たる牧場になってしまった、という悩みを打ち明けました。するとジャン兄はこう言いました。「荒廃してさびれているのはあなたの教会だけではありませんよ。今は宗教界全体が荒廃しています。それは、主なるイエス様が働きをなさっていた頃、荒廃した寺院が盗賊の巣窟になっていたのと同じです。そこで、まず寺院がどうして荒廃したかを理解すれば、今の宗教界がこんなにさびれて荒廃している理由もわかるでしょう。主なるイエス様が律法の時代を終えて恵みの時代を始められた時、聖霊は寺院では働きを行わず、代わりに主なるイエス様を受け入れ、イエス様に従った人々に働きかけました。ヤーウェを崇拝した人々は、神の働きのペースに追いついていけず、聖霊の働きを受けられませんでした。自らの寺院が牛や羊は鳩を売り両替をする場所となってしまったことからもわかるように、神の加護と配慮を失った彼らは、罪に生きていました。元はヤーウェの栄光に輝いていた寺院は盗賊の巣窟になり、そのために神の性情を怒らせ、神の憤慨のうちに見捨てられたのです。それが、寺院が元々荒廃した理由の一つです。」そして私たちは聖書からアモス書の次の2個所を読みました。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに,雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書 4:7)「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」(アモス書 8:11)ジャン兄はまた、私に全能の神の御言葉から次の2個所を送ってくれました。「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真理の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より)「実際は、そうした者に対する神の業は遠い昔に既に停止しており、そうした者には聖霊の業が存在しない。神の業が、それとは別の人間の集団、すなわち神が新たな業を完遂させる意向の人間の集団に移転して久しい。なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。」(『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より)そしてジャン兄はこう言いました。「現在の教会もこの寺院のように荒廃していますが、それも神が新たな働きをなさっているからです。私たちが非常に待ち望んでいた主なるイエス様は、今や人間の形に受肉され、私たちの間に戻っていらっしゃいました。イエス様は、終わりの日に真実を表し人間を裁き、清め、救われるため、全能の神と名乗られています。イエス様は、恵みの時代を終わらせ神の国の時代を始められるためにいらっしゃいました。聖霊は既に恵みの時代の教会を離れ、今や終わりの日の全能の神の働きを受け入れる人々にその働きを行っています。単に主なるイエス様の御名を守るだけで、神の新たな働きに追いついていない人々は皆、もはや側に神がいらっしゃらず、もはや聖霊の働きがなく、命の生ける水を与えられることが決してないでしょう。そこで当然、そうした教会はどんどん荒廃していくのです…。」

   ジャン兄の話を聞いて、私は今日の教会の状況が本当に主なるイエス様がその働きを始められた頃の寺院と変わらないのを知りました。そして、ジャン兄の話に主の新たな光と導きがあるのが感じられました。しかし、主なるイエス様がお戻りになって人間を裁き清める新たな働きをなさっている、と言ったことには少し困惑して、こう思いました。「確かに主なるイエス様は戻っていらしたかもしれない。しかし、私たち信者はもう救われているのだから、主がお戻りになられた時は、裁きと清めの別の段階の働きをなさらずに、私たちをそのまま天国に連れて行ってくださるはずだ!だが、主の再来は重要な事なのだから、まずそれについて一生懸命に答えを見つけるべきだ。」

   そこでジャン兄に混乱した気持ちを伝えると、ジャン兄はこう言いました。「主の兄弟姉妹の多くがあなたと同じ意見です。また、そういう人々は、私たちは既に主なるイエス様を救い主として受け入れているので、自分たちの罪は赦され、イエス様の恵みを通じて救いを得、イエス様が戻っていらした時にはそのまま天国に連れて行ってもらえるのだとも思っています。そこで、そういう人たちは終わりの日における神の救いを受け入れようとしません。その主な理由は、主なるイエス様の働きがもたらした良い結果を理解せず、神の働きを知らないからです。全能の神はこうおっしゃいました。『当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。』(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)『イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)神の御言葉から、私たちは恵みの時代の主なるイエス様の働きは人類の救済だったことがわかります。主なるイエス様は、私たちの罪の生贄となられ、律法による罪の宣告から私たちを救われるために十字架に掛けられました。主の御前に来たり、自らの罪を認めて悔い改めることで、私たちはその罪を赦されます。それが救われるということです。つまり、救われるということは赦されるということであり、律法の下には罪の宣告はありません。しかしそれは、私たちがサタンの汚れた性情や私たち自身のサタンのような本質から逃れ、二度と罪を犯さないということではありません。傲慢、欺瞞、身勝手さ、貪欲さなどの、私たちのサタンのような本質は未だに存在します。私たちはサタンのような本質とサタンの性情に支配されているため、未だによく嘘をつき、騙し、傲慢でうぬぼれた行動をし、善良な振りをして神を欺きます。私たちは、特に自分の観念とそぐわない時は常に神の働きを故意に批判し、神を非難し、神に背きます。このように深く堕落し神に背く私たちのような人類が、どうして神の賞賛を得られましょうか?私たちは天国に入る資格があるでしょうか?神に背きサタンに属する堕落した人類の私たちを、もし神が御国に招き入れられるならば、神の義と神聖さに対する説明が付かなくなってしまいます。そこで、私たちが御国に入る資格を得るためには、神に裁きと清めの段階の働きを行っていただき、私たちの汚れた性情を変えていただき、私たちの罪深い本質という足かせを完全に振り払っていただかなければなりません。一たび私たちの命の性情が変われば、もはや神に反抗したり背いたりせず、真に神に従い、神により完全に得られ、完全に救われて天国に入り、神が約束なさったものを受けることができるでしょう。それが終わりの日における神の裁きの働きの結果であり、主なるイエス様の救いの働きは、終わりの日における人間の裁きと清めへの道を開くためのものであったことがわかります。つまり、主への信仰により私たちの罪は赦されても、私たちは罪から完全に逃れることも、天国に入ることもできないのです。罪から完全に救われるためには、裁きと清めの働きという別の段階を経なければならないのです。終わりの日における神の裁きの働きにより、聖書の『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。(ペテロの第一の手紙 1:5)』という言葉が正に成就するのです。」

   全能の神の御言葉とジャン兄の話を聞いて、私は主なるイエス様がなさったのは救いの働きであり、完全に罪を拭い去ったのではなかったことがわかりました。罪を犯した人は、法の下で非難され、刑罰を受けるべきですが、私たちが主なるイエス様の御前に来てその罪を認めるならば、罪は赦されます。神は私たちに罪があるとは見なさず、刑罰を受けなくて済むようにしてくださいます。それが救いです。しかし、この救いは、私たちが清められ、完全に救われたことを意味してはいません。どうも人々は真実を理解せず、真の救いが何かを誤解しているようです。私は、私たちが毎日罪を犯してはそれを認めるという未だに罪深い生活を送っており、それで裁きと清めという別の段階の神の働きを必要としていることを思いました。そして、キャンプで牧師が言った「クリスチャンが死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」という言葉を思った時、その考え方が本当に余りに非現実的であるのを悟りました。子供じみていて荒唐無稽だとさえ言えるでしょう。その後ジャン兄やリーフイ姉と長いおしゃべりができ、二人の話をよく考えてみた時、私は全能の神の御言葉には求めるべき真実があり、その御言葉は非常に実践的で、とても私のためになり、助けとなると感じました。しかし、主の再来は重大な事であり、その事をじっくり考えるため、私は終わりの日の全能の神の働きを徹底的に追求することにしました。

   そこで、それからの数週間、私は全能の神の終わりの日の働きについてインターネットで情報を探し始めました。インターネットを使う前に、私は「主よ、東方閃電が本当に渡した信じる主であるならば、私の心を動かし、あなたの御声をお聞かせください。」と主に祈りました。そして、それとは気づかずにあるウェブサイトをクリックすると、驚いたことに、そこには全能神教会に対する宗教界や中国共産党からのあらゆる批判、攻撃、非難の言葉が書かれていたのです。私は非常にショックを受け、危険な道に足を踏み入れてしまったかと怖くなりました。そこで、ジャン兄とリーフイ姉にそのサイトのリンクを送り、「こうしたことを全部どう説明してくださいますか?」と尋ねました。最初、ジャン兄らは私が送った情報に対し何の返信も寄こさないだろうと思っていたので、二人が落ち着いてしっかりと返答した時はびっくりしました。「全能の神は真の神であり、主なるイエス様の再来です。宗教界や中国共産党がインターネット上で広めているものは、人々を混乱させるために作った噂や出鱈目です。人々を神に従わせないようにするたくらみの一部なのです…。」

   ジャン兄の言葉は私を本当に揺れ動かし、私はその意味を把握しようと心の中でもがき始めました。私はインターネットの接続を切り、主にこう祈りました。「主よ、全能の神が本当にあなたの再来であるのなら、あなたの道を理解し、あなたの再来をこの目で見る機会を逃さないよう、どうぞ啓示をお与えください。インターネット上のああいう事柄が、すべて宗教界や中国共産党の流す噂に過ぎないのならば、私がそれに耳を貸さないようにしてください。サタンに誘惑されるのは恐ろしいことですから。」祈ると私は少し落ち着き、私も間違って非難された時のことや、玉石製品を売って商売がうまくいっていた知り合いの店主が、それを妬ましく思った競争相手に噂を流されて信用を失ってしまった時のことを思い出しました。そして私の心にはいくらかの光が差し始め、この世がいかに暗黒と悪に満ちており、インターネット上の多くのものは、良きにせよ悪しきにせよ、人の話に過ぎないと思い至りました。そして、全能の神とその教会に対し宗教界と中国共産党がインターネット上で流している非難についてよく考えてみました。そこには何の証拠も挙げられておらず、どれも信じ難いことでした。しかも、私は全能の神の御言葉を読み、全能神教会の兄弟姉妹と交流していました。兄弟姉妹が言ったことはインターネットで広まっている噂とは何の関係もなく、二人が私を無理に全能神教会に入らせようとしたこともありませんでした。交流している数か月間、聖書を探求し、全能の神の御言葉を読み、神の御言葉を語り合う他には、何の話題も上ったことはありませんでした。話し方からしても、二人が敬虔で立派な人たちだというのが伝わりました。二人の話は光に満ちていて、私にはとてもためになるように感じられ、彼らの教会は本当に聖霊の働きがある教会でした。私はそう考えたところで、聖霊の働きのある教会は神の教会であるのだから、もちろんサタンはそれを攻撃・非難して、否定的なプロパガンダで取り巻くことだろうと思い至りました。

   後日、私はインターネットで中国共産党の悪意に満ちた様々な行為について読みました。共産党がいかに外国人伝道師を中国から締め出し、聖書を焼きはらい、教会を破壊し、クリスチャンを拘束して殺害したか…。私の心には、中国共産党に対する憎しみと怒りが沸き起こりました。無実で無抵抗のクリスチャンを迫害するとは、何と悪意に満ちていることか。中国共産党は無神論を広めて常に神に反対し、人間性や理由を微塵も示さずにキリスト教徒を捉えて迫害してきたのだから、彼らが言ったことが真実かどうかは知りようがありません。そこで、私はジャン兄らにまた連絡を取り始め、終わりの日における神の働きについて、そしてサタンの狡猾なたくらみをどう見抜くかについて、多くの真実を語ってもらいました…。彼らの話を聞いて、私は終わりの日の神の働きについて多少理解し、宗教界や中国共産党がインターネット上で広めている出鱈目が、いかにすべて根も葉もない噂や荒唐無稽な意見であり、全能の神の働きを人々に受け入れさせないようにするためのサタンの狡猾なたくらみの一部となっているかがわかりました。そして私は、もう二度と宗教界や中国共産党が言う事を聞かないことにしました。すると心の中にあった心配や恐怖は消え、同時に、全能の神の働きと主なるイエス様の働きは同じであり、両方がサタンのような政権や宗教界から抵抗や避難を受けたことに思い至りました。私はそれにより全能の神の働きが真実の道だと確信したのです!

   ある日、私はFacebookで神をほめ讃える讃美歌を聞き、非常に感動しました。実際、賞讃に値し、讃美する価値があるのは神のみです。その讃美歌には聖霊の導きがありました。そして出典を調べてみると、その讃美歌は全能神教会のものでした。私はその讃美歌に感動するあまりただただ涙を流し、嬉しさのあまり兄弟姉妹に連絡して、神が私の心を突き動かし、私を導いてくださったことを告げました…。今や私は、全能の神が主なるイエス様の再来であると完全に信じており、この道の終わりまで全能の神に喜んで従っていこうと思っています。

   現在私は全能神教会に出席し、玉座から流れる生ける命の水を享受しているとともに、自信と愛も回復しました。そして、さらに大切なことに、今では正しいことと誤ったこと、暗黒と光を見分けられるようになりました。私には何が真実で何が噂かがわかります。真実は神から来るもので、噂はサタンから来るものです。そして噂を聞いてもただ盲目的にそれに従うのではなく、慎重に真実と偽りを見分け、熱心に祈り、真実を謙虚に追求し調べるべきです。そうすることでのみ、私たちは噂から逃れて神の御前に戻れるのです。


傲慢な性質を変える方法があります

2020-06-06 23:49:17 | 天の国の福音

   私の致命的な欠点は傲慢であることです。常に、自分のほうが他人よりも秀でていると考え、傲慢な性質が頻繁に現れることがありました。特に、私が記事を修正している時や、パートナーと働きについて伝えている時、自分の意見に常に固執し、他者の意見を謙虚に聞き入れることはありませんでした。パートナーと調和的に協力できないことで、働きにおいてよく問題が起きていました。兄弟姉妹は、何度も私にこの問題について指摘し、神が人間の傲慢な性質を暴くことについての文章を何度も読みました。それでも、自分自身の本性と本質について真に理解することはなく、傲慢さを発揮できる場所に来ると、いつでも自分を自制できなくなっていました。その後、自分でもほとほと嫌になりましたが、既にしてしまったことは取り返しがつかず、わたしにできることは、これについて理解しようと努力し続けることだけでした。そして、傲慢な性質が繰り返し露呈されていました。私は本当に恥ずかしく、また、絶望的な気持ちになりました。

   ある時、私は強い信仰心でお勤めしていると、神の次のような言葉を見つけました:「自分の本性の問題を解決するには、どうすればよいだろうか。まず、自分の本性を知り、また神の言葉と旨を知る必要がある。そうした後に、誤った行動を最大限に回避し、真理に則した行動のみを執るようにするには、どうすればよいだろうか。変化させることを望むならば、このことを熟考する必要がある。あなたがたの欠陥のある本性に関しては、その本性がどのような堕落により構成されているか、その本性がどのような作用を及ぼし得るか、それを律するためには、どのような方策を適用し、実施できるか、といった問題が極めて重要である。…林則徐は短気であった。林則徐は、自分の弱みの故に、自室に次のようなモットーを記した。『己の気性を律せよ。』これは人間の手段であるが、実に有効的である。人間には、人それぞれ、従うべき独自の原則がある。それ故あなたも、自分の本性に関して、原則を定めるべきである。これらの原則は必須であり、原則を持たないことは問題外である。これもまた、神を信じるためのあなたのモットーとし、行動規範とすべきである。」(『キリストの言葉の記録』の「本性の問題解消と真理の実践」より)神の言葉は、私が取ることができる道を瞬時に与えてくれました。次のように理解したのです。反抗的な性質を変えるには、神が人間の腐敗した本質を暴くことについての言葉を頻繁に飲食しつつ、自身の反抗的な本質を意識的に自制し、真理を実践するために自分自身を捨てられるよう、自分の本性を自制するというモットーにフォーカスする必要があります。そのため、傲慢な本性、独り善がり、パートナーの意見を聞き入れたがらないなど、私の腐敗した側面に応じて、私は次のようなモットーを打ち立てました。「少しばかりの悪臭を除いて、糞には傲慢になれる根拠がない。」パートナーの質問に答える時は、必ず、最初にこのモットーで自戒し、私の本質は糞のようなものであり、全身は悪臭に満たされていることをしっかりと思い出すようにしました。また、私の傲慢さとエゴにより、これまであまりにも多くの問題を働きの中で引き起こしてきたこと、そして、私には傲慢になる根拠が無いことを思い出すようにしました。これにより、私が常に100%正しいという考えに固執することはなくなり、同時に、神を求める心をもたらし、自分自身を謙虚にし、他者の意見に進んで耳を傾けられるようになりました。今でも他人の意見に反論したくなる時がありますが、モットーを思い出し、意識的に自分自身を捨て、調和的に協力することの真理を実践しています。

   しばらくして、私は驚くべきことを発見しました。私が自分自身を謙虚に自制することで、パートナーの話から聖霊の啓示を受け、光に照らされるようになり、真理を受け取るという全く考えてもみなかった側面を目の当たりにしたのです。同時に、他者の長所についても発見し、私に足りないところを補うために、彼らの長所を進んで引き出すようになりました。また、全てにおいて私のほうが他人よりも優れているとは考えなくなり、私の思い上がった頭を垂れるようになりました。自分自身の本心を表すことは、前ほど辛いものではなくなり、私は心から、自分自身を謙虚に自制し、パートナーの意見を謙虚に聞き入れることは、私の人生を前進させるのに有益であるだけではなく、各自の足りないところを補い合い、一丸となって作業することで結果が良くなるため、これはかなり良いものであると感じるようになりました。

   この経験を通して、モットーを打ち立てることで私の腐敗した性質が露呈されるのを意識的に自制することができるようになり、罪を軽減するだけではなく、さらに真理を理解する機会が与えられるようになり、私は真理を実践することの良さを実感しました。同時に、これまで私が露呈してきた傲慢な本性がいかに醜く、不快なものであったかを自覚しました。これらのことに気付かさせてくださり、神様、本当にありがとうございます。これから、私は自身の腐敗したさまざまな側面に対してモットーを打ち立て、真理を実践できるよう自制していきます。また、私の本性の本質について理解できるよう神の言葉を何度も読み返し、私自身を心から嫌になり、できるだけ早く腐敗したところを取り除き、神に満足していただけるようにしていきます。


受肉とは何か。受肉の本質は何か。

2020-05-25 23:16:55 | 天の国の福音

   「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書 1:1)

   「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネによる福音書 1:14)

   「わたしは道であり、真理であり、命である。…」(ヨハネによる福音書 14:6)

   「イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。』」(ヨハネによる福音書 14:9-11)

   「わたしと父とは一つである。」(ヨハネによる福音書 10:30)

 

 

関連する神の言葉

   受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

   受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、受肉した神の肉だけが、他の誰でもなくこの普通の人間だけが、神の働きを示せるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

   普通の人間性をもつキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間的思考をもっている。「顕現」とは神が人間となること、霊が肉となることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性をもつ肉に宿るということで、それによって神性の働きを表す──これが顕現、または受肉の意味である。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

   神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

   神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。神の受肉した生活と働きは二つの段階に分けられる。第一は職分を始める前の生活。神は普通の人間の家族として暮らし、ごく普通の人間性をもち、人間生活の通常の道徳や法に従い、普通の人間の必要(食物、衣服、住まい、睡眠)をもち、普通の人間の弱さ、普通の人間の感情をもって暮らす。つまり、この最初の段階で、神は神ではなく完全に普通の人間として、あらゆる普通の人間的な活動を行いながら生きる。第二の段階は、職分を果たし始めた後の生活である。神はまだ普通の人間の外形で通常の人間性において暮らし、表向きには超常的なしるしは何も現さない。しかし、神は純粋にその職分のために生き、この期間の普通の人間性は、ひたすら神として普通の働きのために存在する。そのころには、普通の人間性は職分を果たせるほどに成熟していたのだから。そこで、第二の段階では普通の人間性において職分を果たすこととなり、それは通常の人間性と完全な神性を兼ね合わせる生活である。前半生で神がまったく普通の人間的な生活をする理由は、まだその人間性が神性の働きの全体と同等でないから、まだ成熟していないからである。人間性が成熟して、その職分を背負えるようになってはじめて、職分を果たし始めることができるのである。肉体をもつ者として神は成長し、成熟する必要があるので、その生涯の最初の段階は普通の人間のものである。第二段階に入ると、その人間性が働きに着手し、職分を果たせるようになっているので、職分を果たす間の受肉した神の生活は、人間性と完全な神性の二つを併せもつものである。もし受肉した神が生まれた瞬間から本格的に職分を果たし、超自然のしるしや不思議を示し始めたなら、その肉体の本質は何もないであろう。だから、受肉した神の人間性は、肉体的な本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉のなくてはならない性質である。「神が人間になった時、神は完全な神で、まったく人間ではない」と言うのは瀆神行為である。なぜなら、このような発言はまったく存在せず、受肉の原理に反しているからである。神はその職分を始めた後も、働きを行なうときは人間の外皮をまといつつ、依然として神性のうちに宿っている。ただその時、神の人間性は神性が通常の肉の体で働きを行えるようにするという目的だけを果たすのである。だから、働きをする者は、人間性に宿る神性である。働いているのは神の人間性ではなく神性だが、それは人間性の中に隠れた神性である。神の働きは、つまるところ、完全な神性が行うのであって、人間性によるのではない。しかし、働きを実践するのは神の肉である。このような神は、人間でありかつ神であると言えるだろう。神は肉の体で生きる神となり、人間の姿と人間の本質をもつが、また神の本質をも備えているからである。神の本質を備えた人間だから、被造物であるどの人間、神の働きを行うことのできるどの人間よりも上位に位置する。そこで、このような人間の姿をした者たちの中で、人間性をもつすべての者の中で、神だけが受肉した神そのものである。他はみな、被造物である人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるが、被造物である人間には人間性以外には何もない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なことに神性をも備えている。神の人間性は肉の体の外見や毎日の生活に見られる。しかしその神性は感知しにくい。神の神性は人間性があってはじめて現れるのだから、また、人々が想像するほど超自然なものではないから、人々がそれを見るのは極めて難しい。今日でも受肉した神の本質を理解するのは極めて難しい。実際、わたしがこれほど長い間話してきても、あなたがたの大半にとってはいまだに謎であることであろう。これはとても単純なことなのである。神が人間になると、その本質は人間性と神性の合わさったものである。この組み合わせが神そのものと呼ばれる、地上における神そのものなのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

  イエスが地上で生きた生活は、肉体をもつ人間の通常の生活であった。イエスはその肉体の正常な人間性において生きた。イエスの権威──彼の働きをし、彼の言葉を話し、病者を癒やし、悪霊を祓うといった、驚くべきことを行うためのもの──は、大方、職分を果たし始めるまでは示されなかった。二十九歳までの生活、教えを説く前は、イエスがただ普通の肉体をもった人間であったことの十分な証拠であった。そのため、そして、イエスがまだ職分を果たし始めていなかったため、人々はイエスに何の神性も見出さなかった。普通の人間、平凡な人間しか見なかった――ちょうど当時の人々がイエスはヨセフの息子だと信じていたように。人々は、イエスは普通の人間の息子だと思い、神の受肉したものであるとは知りようもなかった。職分を果たしながら、多くの奇跡を行ったときでさえも、たいていの人々はあれはヨセフの息子だと言った。イエスは普通の人間の外形をしたキリストだったからである。イエスの普通の人間性とその働きは、神が完全に受肉し、全く普通の人間になるという、最初の受肉の意味を満たすために存在した。働きを始める前のイエスが普通の人間性をもっていたことは、イエスが普通の肉体をもつ人間であった証拠である。そして、その後、イエスが働きをしたことも、通常の人間であることを示していた。イエスは普通の人間性をもつ肉体において、しるしや不思議を行い、病む者を癒やし、悪霊を祓ったのだから。イエスが奇跡を行うことができたのは、その肉に神の権威を帯びており、神の霊が人間の姿をしていたものだからである。イエスにこの権威があったのは、神の霊のためであり、イエスが人間ではなかったということではない。病む者を癒やし、悪霊を祓うことは、イエスがその職分において行う必要のある働きであり、人間性に隠された神性の表明であった。どのようなしるしを示そうと、どのようにその権威を示そうと、イエスはやはり普通の人間性において生き、普通の肉体をもつ人間であった。十字架上で死んで蘇るまで、イエスは普通の肉の中に宿っていた。恵みを与え、病人を癒し、悪霊を祓うことは、その働きの一部であり、すべて普通の人間の体で行われた働きである。イエスは十字架に行く前には、何をしているときであっても、けっして普通の人間の体を離れなかった。イエスは神そのものであり、神の働きをしたが、受肉した神であったため、食物を食べ、衣服を着、普通の人間と同じものを必要とし、普通の人間の理性と普通の人間の心をもっていた。これはみな、イエスが普通の人間であったことの証拠であり、受肉した神の体は普通の人間性をもつ肉体であって、超自然のものではないということを示している。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

   受肉した神の人間性は、肉において普通の神性の働きを維持するためにある。神の普通の人間としての考え方が、その普通の人間性とあらゆる普通の身体的活動を維持する。神が普通の人間的思考をするのは、神が肉においてする働きをすべて支えるためなのだと言えるだろう。この肉が普通の人間の心をもたないのなら、神は肉における働きができず、肉においてするべきことを成就できない。受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。だから、受肉した神は普通の人間の心をもたなければいけない。普通の人間性をもたなければいけない。なぜなら、普通の心をもった人間性の内にあって働かなければいけないからである。これが受肉した神の働きの本質、受肉した神の本質そのものである。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

   主イエスが業を行っている間、人々は、神が多くの人間的な表現を持っていることを知った。たとえば、神は踊ったり、婚礼に列席したり、人間と親交したり、人間と会話し、様々な事柄を話し合ったりすることが可能であった。さらに、主イエスは神の神性を示す多くの業を遂行し、当然ながらそうした業はすべて神の性質を表出し、啓示するものであった。この時期においては、神の神性が、人間が見たり触れたりできる通常の身体により具現化された時、人間は神が出現と消滅を繰り返されている存在、人間の近づくことが出来ない存在であるとは感じなくなった。これに対し、人間は、人の子のあらゆる動作や言葉、業により、神の旨や神の神性を理解しようと試みることが出来るようになった。受肉した人の子は、神の人間性により神の神性を表現し、神の旨を人間に伝えた。また、神は、旨と性質を表出することにより、霊的領域では見ることも触れることもできない神を人間に啓示した。人々が見たのは、肉と骨を持ち、姿形のある神自身であった。そうして受肉した人の子により、神の正体、地位、像、性質、神の中にある物事や神の存在が、具体的かつ人間的なものとされた。人の子の外観は、神の像に関してある程度の制約があったものの、人の子の本質と人の子の中にある物事や人の子の存在は、神自身の正体と地位を完全に示すことが可能であり、表出の仕方に僅かな相違があるのみであった。それが人の子の人間性であるか、人の子の神性であるかを問わず、人の子が神自身の正体と地位を示していたことを否定することはできない。しかし、この時期、神は肉により業を行い、肉の見地から言葉を述べ、人の子という正体と地位により人間の前に姿を見せたので、それによって人間の中にある神の真の言葉と業に遭遇し、体験する機会が人々に与えられた。また、それにより神の神性と、謙遜の中にある神の偉大さについて、人間が知見を得ることが可能となり、また神の真正さと実在に関する暫定的な知識と定義を得ることも可能となった。主イエスにより遂行された業や、イエスが業を行う方法、言葉を述べる観点は、霊的領域にある神の真の姿とは異なるものであったが、それでもなお主に関する全てが、それまで人間が見たことのない神自身を真に示しており、またその事実は決して否定できない。すなわち、神がどのような姿であるかによらず、また神がどの観点から言葉を述べるかによらず、あるいは神の人間に対する像がどのようなものであるかによらず、神は他ならぬ神自身を示す。神が人間を示すこと、腐敗した人間を示すことは不可能である。神は神自身であり、それを否定することはできない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

   受肉した神の外観は人間と全く同じであり、人間の知識を学び、人間の言葉で話し、時には人間と同じ方法や表現で考えを表現されるものの、人間に対する見方や物事の本質に対する考え方は、受肉した神と腐敗した人間では、決して同じということはない。受肉した神の視点と、その立場の高さは、腐敗した人間が得ることの出来ないものである。なぜなら、神は真理であり、肉となった身体にも神の本質が存在し、その考えや、その人間性で表出されるものもまた真理であるからである。腐敗した人間にとって、彼が肉にあって表出する事柄は、真理といのちの提供である。これらのものは、ひとりだけではなく、人間全体に与えられているものである。腐敗した人間にとって、心の中で自分に関連する人々の数は僅かであり、心にかけて気遣う他の人の数は僅かである。大災害が発生したとき、人間が最初に心配するのは自分の子供、配偶者、両親のことであり、比較的博愛的な者でも、せいぜい親戚や親友だけであり、それ以外の者のことは決して心配しない。人間は、つまるところ人間であって、人間の目線の高さからしか物を見ることが出来ない。しかし、受肉した神は、腐敗した人間とは全く異なる。受肉した神の身体がいかに普通で慎み深いものだったとしても、あるいはいかに多くの人間に見下されたとしても、人間に対する受肉した神の旨と態度は人間が抱くことの出来ないものであり、だれも真似することの出来ないものである。受肉した神は、常に神性の視点で、創造主の立場から人間を見る。受肉した神は神の本質と心によって人間を見る。通常の人間の立場で、腐敗した人間の目線で人間を見ることは決して出来ない。人間が人類について考える時、人間は人間の視点で見て、人間の知恵や規則、理論を基準として用いる。これは人間が人間の目で見ることが出来る物事の範囲内であり、腐敗した人間が成し得る範囲内である。神が人類について考える時、神は神の視点で見、神の本質と神の持っているものとその存在を用いて人間を見る。この範囲には、人々が見ることの出来ないものも含まれているという点が、受肉した神と腐敗した人間では全く異なる。この相違は人間と神の異なる本質により決定され、人間と神の身分や立場、そして物を見る視点を決定するのは、この本質の相違である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

   受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きは人を救い、神の心を行うためのものである。神が肉となったため、キリストは自身の肉において神の本質を実現し、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分になる。神の霊の働きはすべて受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心となるのがキリストの働きである。そこにほかのどの時代の働きが混ざり合うこともない。そして神が肉となるのであるから、神は肉としての働きをする。神は肉の形をとって来るので、自身のなすべき働きを肉となった姿で成し遂げる。神の霊も、キリストも神自身であり、神はしかるべき働きをし、しかるべき職分を果たす。

   神の本質そのものが権威を行使するが、キリストは神から来る権威に完全に服従することができる。霊の働きも、肉の働きも、互いに相反することはない。すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質のある肉も権威を有すが、肉となった神は父なる神の心に沿った働きをすべて行える。こうしたことは人には実現も想像もできない。神自身が権威であるが、神の肉は神の権威に服従することができる。これが「キリストは父なる神の心に服従する」という言葉に秘められた意味である。神は霊であり、救いの働きができるように、受肉した神も救いの働きをなすことができる。いずれにしても、神自身が神自身の働きをする。神は阻止することも、干渉することもせず、まして互いに対立する働きをすることはない。霊と肉は働きの本質が似ているからである。霊も肉も一つの心を行い、同じ働きを管理するために働くからである。両者は性質が異なるが、本質は同じである。どちらも神自身の本質と、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善と、すべての愛の現れである。肉の姿であっても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてでも、神は心底から父なる神に従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンに似た性質を持っている理由は、サタンが人に影響を与え堕落させたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。どんなに働きが困難で、肉が弱くても、キリストは肉のうちに生きながら、神自身の働きを阻止するようなことは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の心を無視するようなことない。キリストは父なる神の心に逆らうくらいなら肉の痛みを受けることを選ぶだろう。イエスが「父よ、もしできることならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と祈ったようにである。人は選択をするが、キリストはそうしない。彼は神自身の身分を持っているが、肉ある神として、なお父なる神の心を求め、父なる神から委ねられた任務を果たす。これは人には不可能なことである。サタンから発生するものが持ち得る本質は神に逆らい、抵抗するものでしかなく、神の本質ではない。その本質は完全に神に服従することができず、ましてや神の心に進んで従うことなどできない。キリスト以外の人間はみな神に反する行いをすることができ、神に委ねられた働きを直接引き受けられる者はひとりもおらず、神の経営を自分自身がなすべき本分と考えられる者もひとりもいない。父なる神の心に服従することはキリストの本質である。そして神への不従順はサタンの特性である。この二つの性質は相いれないものであり、サタンの特質を持つ者はキリストと呼ばれ得ない。人がキリストに代わって神の働きを行えないのは、神の本質がまったく備わっていないからである。人は自己の利益と将来の前途のために神に尽くすが、キリストは父なる神の心を行うために働く。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

   キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉の姿をしているが、その人間性は肉を持った人間とまったく同じものではない。キリストは特有の性格を持っており、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たない。キリストの弱さはキリストの人間性に起因する。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような制限は一定の範囲と時間内のものであり、無限大ではない。キリストが神性による働きをする時が来ると、それはキリストの人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性は完全にその神性の指示を受ける。キリストの人間性による普通の生活の他に、人間性によるほかの行動もすべて、キリストの神性の影響、働きかけ、指示を受ける。キリストは人間性を持っているが、それは神性による働きを邪魔するものではない。キリストの人間性がキリストの神性の指示を受けているからこそである。キリストの人間性は、ほかの人々の前ではその行いにおいて成熟していないが、それはキリストの神性のなす普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性はその神性に直接指示され、普通の人のそれよりも理知が高度であるということである。彼の人間性は働きにおいて神性によって指示されることに最も適している。キリストの人間性は神性による働きを現し、神性による働きに服従する能力が何よりも高い。神が肉の姿で働きをなす時、神は肉を持つ人が果たすべき本分を決して見失わない。彼は天にいる神を真心で礼拝することができる。彼は神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、彼がこの地上に来て、人の外観を持つ被造物となり、かつては持っていなかった人間性を持つようになったことにほかならない。天にいる神を崇拝することができるということだ。これはキリストが神自身であるということで、人にはまねのできないことである。彼の身分は神自身である。彼キリストが神を崇拝するのは、肉の観点からである。ゆえに、「キリストは天にある神を崇拝する」という言葉は間違いではない。彼が人に要求するものはまさに神自身の存在である。彼が人間に要求する事柄は、自身も既に成し遂げている。彼は人間に要求しておきながら自らはそれらから免れるようなことはしない。そのことがすべて彼の存在を成しているからである。彼はどのように働いても、神に敵対するような行為はしない。人に何を要求しても、人がなしえる以上の要求はしない。彼のすることはひたすら神の心を行うことであり、神の経営(救い)のためである。キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえに彼はあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それは彼の身分を決定する。よって彼の人間性がいかに普通であっても、神自身の身分を持っていることは否定できない。彼がどのような観点から語り、どのように神の心に従っても、神自身ではないと言うことはできない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心への従順」より

   神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

   神の霊が纏った肉は、神自身の肉である。神の霊は至高のものであり、神の霊は全能であり、聖であり、義である。それと同様に、神の肉も至高のものであり、全能であり、聖であり、義である。このような肉は、義であり人間に有益な物事、聖なるものであって栄光ある物事、力ある物事しか行うことが出来ず、真理や道義に反する物事を行うことが出来ず、ましてや神の霊を裏切る物事を行うことなど出来ない。神の霊は聖なるものであり、したがって神の肉は、サタンが腐敗させることの出来ないものであり、人間の肉の本質と異なる。なぜなら、サタンにより腐敗させられているのは、人間であって神では無いからである。サタンは神の肉を腐敗させることはできない。したがって、人間とキリストは同じ空間にあるにもかかわらず、サタンにより占有され、利用され、囚われているのは人間だけである。それに対し、キリストはサタンによる腐敗の影響を永久に受けない。なぜなら、サタンは最も高い場所まで昇り、神に近付くことが決して出来ないからである。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(2)」より

   神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より

   今日言及する実践的神自身は、人間性においても神性においても働きを行う。実践的神の出現によって、神が普通の人間として行う働きと生活と同時に、完全に神性となる働きも達成される。人間性と神性は一つに結合され、両方の働きは[a]言葉を通して達成される。人間性であろうと神性であろうと、神は言葉を発する。神が人間性において働く時は、人々が神と交わり理解できるように、人間の言葉を話す。神の言葉は平易で理解しやすいので、すべての人々に供給することができる。知識があろうと、教育が不十分であろうと、彼らは皆神の言葉を受け取ることができる。神性の働きも言葉を通して行われるが、それは溢れるばかりに豊富で、いのちに満ち、人の意志に汚れておらず、人の好みを含まず、人間性の限界に縛られず、普通の人間性の範疇の外に存在する。神性における働きも肉において実行されるが、それは聖霊の直接的な表現である。もし人々が人間性における神の働きを受け入れるだけならば、彼らは一定の範囲に閉じ込められてしまうので、ごくわずかな変化を人々にもたらすだけでも、絶え間のない取り扱い、刈り込み、鍛錬が必要になるだろう。とはいえ、聖霊の働き、あるいは臨在がなければ、人々はいつも古いやり方を繰り返すだけだろう。神性の働きを通してのみ、これらの弊害や欠陥が正される。そして、その時初めて人々は完全にされるのである。絶え間のない取り扱いと剪定に代わって必要なのは、積極的ものの供給であり、人々の全ての欠点を補い、人々のあらゆる状態を露わにし、人々の生活、発言、行動の全てを支配し、その意図と動機を暴露するために言葉を使うことである。これこそが、実践的神の真の働きである。したがって、実践的神に対するあなた方の態度について言えば、あなた方は神の人間性の前におとなしく従い、神を認識し、認め、さらに神性における働きや言葉も受け入れ、それらに従うべきである。神が肉において現れることは、神の霊の働きと言葉のすべてが、神の持つ普通の人間性、および神の受肉を通して行われることを意味する。言い換えれば、神の霊は人間性の働きを指揮し、肉において神性の働きを実行する。そして受肉した神の中にあなたは人間性における神の働きと同時に、完全なる神性の働きも見ることができる。これは実際の神が肉において現れることのさらに実際的な意義である。このことをはっきり見ることができれば、あなたは神の様々な部分を全てつなぐことができ、神性の働きを重要視し過ぎることも、人間性における働きを軽視することもなくなる。また、極端に走ることも、回り道することもなくなるだろう。総括すると、実際神の意義とは、人間性の働きと神性の働きは同じ霊によって支配され、肉体を通して表されるということである。それを通して人々は、神が鮮やかで生きているようであり、現実的で、実在していることを見ることができるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「実際の神は神自身であることを知るべきである」より


神の働きの三段階の相互関係

2020-05-13 21:34:46 | 天の国の福音

   ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

 

   六千年の経営(救いの)計画は働きの上で三段階に分けられている。どの段階も一つだけで三つの時代の働きを表すことはできず、全体の一部だけを表すことができる。ヤーウェの名前は神のすべての性質を表すことはできない。神が律法の時代に働きを実行した事実は、神が律法の下でしか神であることができないと証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を造るように命じた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表す。ヤーウェが行なった働きは、神はただ人間に律法を守るようにと言う神だとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だと証明しているのではない。そのようなことを言うのは誤りであろう。律法の下の働きは一つの時代だけを表すことができる。よって、もし神が律法の時代だけの働きをしたのなら、人は神のことを「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣を着て、神殿に入らなければならない」と定義して、そこに閉じ込めてしまうだろう。もし恵みの時代の働きが決して実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神は憐み深く愛する神でもあることを人間は知らなかっただろう。もし律法の時代の働きがなされず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことができることしか人間は知らなかっただろう。神は聖なる汚れのない存在であり、神は自身を人間のために犠牲にし十字架にかけられることが出来ることしか知らなかっただろう。人はこのことしか知らず、他のことは何も理解しなかっただろう。だから、それぞれの時代は神の性質の一部だけを現すのである。神の性質のどの側面が律法の時代に、また恵みの時代に、また今の時代に表わされているかに関しては、これら三時代を一つの全体として統合して初めて、神の性質の全体を表すことができる。人がこれら三段階すべてを知って初めて、それを完全に理解することができる。この三段階の一つも排除することはできない。あなたはこれら三段階の働きを知って初めて、神の性質をその全体性において見ることができる。律法の時代における神の働きの完成は、神がただ律法の下の神であることを証明するのではなく、神の贖いの働きの完成は、神が永遠に人類を贖うことを示しているのでもない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代は終わったが、神は十字架にしか属さず、十字架だけが神の救いを象徴すると言うことはできない。もしそうするならば、神を定義していることになる。現在の段階では、神はおもに言葉の働きをしているが、神は人に対して憐れみ深くあったことなどなく、神がもたらしたものは刑罰と裁きでしかないなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを表し、人類の中で救いの全ての働きを完結するためになされる。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてに終結をもたらす。人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされなければならない。人が奥義をその深みまで知り尽くし、心の中で完全にはっきりと理解できるようにである。その時初めて人はそれぞれの種類によって区分される。六千年の経営(救いの)計画が完成して初めて、人は神の性質の全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営(救い)はその時に終わっているからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   

   現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」より

 

   働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営(救い)も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。…三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

 

   神の経営全体は、三段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求が為される。さらに、様々な時代が経過し進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求はより高くなる。このようにして、この神の経営の働きは、人間が「言葉は肉として現れる」という事実を目の当たりにするまで、段階ごとに進んで絶頂に達する。また、そのようにして人間に対する要求と、人間が証しすることへの要求はさらに高度化する。真に神と協力することが可能であればあるほど、一層人間は神に栄光を帰す。人間の協力とは、人間が行うよう要求される証しであり、人間が行う証しは、人間による実践である。ゆえに、神の働きが然るべき成果を得られるかどうか、真の証が存在し得るかどうかは、人間による協力と証と密接に結びついている。働きが終わる時、つまり神の経営が全て終わりに達する時、人間はより高い証しをするよう要求されるであろう。そして神の働きが終局に達する時、人間の実践と霊的成長は頂点に達するだろう。過去において、人間は律法と戒めに従うことを要求され、忍耐強く謙遜であることを要求された。現在、人間は神の采配の全てに従い、神への至高の愛を備えることを要求されており、最終的には患難のただ中でも神を愛することが要求されている。これら三つの段階こそが、神が自身の経営全体にわたって、段階ごとに人間に要求することである。神の働きの各段階は、その前の段階よりも一層深くなり、各段階における人間に対する要求は、その前の段階よりも一層深遠であり、神の経営全体はそのようにして次第に形成される。人間の性質が神によって要求される基準に常に近づいてゆく理由は、正確に言うと、人間に対する要求がさらに高くなってゆくからであり、その時初めて、神の働きが完了し、全人類がサタンの影響から救われるまで、人類は次第にサタンの影響から離れてゆく。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

 

   三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より