賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

お茶とは沸騰させた水よりもわずかに苦いものにすぎないのでしょうか?

2019-05-24 08:32:44 | 人生の奧義

   私は茶店の見習いです。私は茶道を学ぶ前、お茶は沸騰させた水や他のドリンクと比べて少しにがいだけのものに過ぎないと思っていました。しかし、私は茶店で働き始めると、お茶には沢山学ぶことがあり、思っていたほど単純ではないことを知りました。

   例えば、紅茶、緑茶、黒茶、白茶、黄茶、ウーロン茶、菊花茶、そしてプーアル茶等があります。このそれぞれに独自の特別な味と効能があります。これ故に、人間は長い間お茶を飲んでいると、健康に良い異なる効果が得られます。黒茶は本質的に温かいものなので、体を温めたり、お腹の状態を整えてくれますので、冬に飲むのが適しており、お年寄りや冷え性の方に最も効果的です。緑茶は本質的に冷たく、涼しいものです。炎症を抑えることができ、リフレッシュするのに効果を発揮します。これ故、それを飲むのは夏が最適な時期です。ウーロン茶は本質的に温かく、体を温めたりお腹の調子を整える効果があるので、大抵の人が飲むのに適しています。さらに、このお茶は香りが豊かで、呑んだ後も口の中に香りが残るのでいつまでも後味が続きます。プーアル茶は黒茶の一種です。脂っこい物を食べた後は、これを飲んでお腹の中をきれいにすることができ、脂質を分解してくれるのでダイエットに効果的な特性があります。しかし、このお茶は、生茶および熟茶、といった2種類に分かれます。生茶は発酵されていないので、脂質を効果的に分解することができます。しかし、飲み過ぎるとお腹が痛くなることがあります。それに加え、味は熟茶より劣ります。従って、大抵の人は本質的に温かくてお腹の調子を整えてくれる熟茶を選んで飲まれます。

神の権威,神の主宰,創造

   私が先生の下で茶道を学び始めた時、彼女はこう仰りました:「山の湧き水は都市の汚染からかなり離れています。それは最も自然な水であり、普通の湧き水の中でも最高のものであるから、それに浸したお茶は自然と普通の湧き水に浸したものよりも美味しいのです。私たちは精製水を使ってお茶を浸しますが、山の湧き水の甘い味は出ないんです。」これを聞いた後、私はお茶を飲むことについて学ぶことが沢山あることを知りました。私の先生は私に笑顔を見せてこう言いました、「ほら、私の健康状態はどう?」健康でみなぎっている彼女を見た私は、「とても健康的です」と答えました。そして彼女は言いました、「私は以前仕事で忙しくて、お腹の調子が悪かったのよ。しかも、私生活におけるプレッシャーもあってよく不眠症になっていたの。でも、静かにお茶を味わったら、不安だった心が次第に落ち着いていったのよ。しかも、夏には緑茶を飲んで熱を解消して炎症を抑え、冬には黒茶を飲んで寒さ対策をしてお腹を温めるといった感じで季節に合わせてお茶を定期的に飲むようになったら、次第に健康を取り戻すことができたの。でも覚えておいて、お茶は夜には飲まない方がいいのよ。どうしてかって言うと、夜は私たちが寝る時間だし、お茶は頭をすっきりさせてしまうから、お茶を飲むのは逆効果なの。」この言葉を聞いて、私はお茶の葉の小片の効能と価値は本当にそれぞれの期待に応えていることを知りました。

   後に、私は友人と知り合いました。彼女はよく私たちの茶店にお茶を飲みに来ました。最初、彼女は血色が悪く、不眠症と便秘に困っていました。彼女は自分が飲むに適したお茶を選び、それをしばらく飲んだ後、血色がどんどん良くなり、彼女の容態も大幅に改善しました。その後、私もお茶を飲んでみたくなりました。私は冷え性で、指とつま先が冷たかったので、黒茶を飲むことにしました。それは私の予想以上で、しばらく経った後、私の体は以前ほど冷たくなくなり、手と足もそれほど冷たくなくなったのです。一時の間、私は頻繁に夜更かしをしていたので、道を歩いていると視界が全てぼやけてしまうことがありました。私はその時、菊花茶が視力を改善できると聞いたのでそれを飲み続けて、少しずつ就寝時間を調整しました。しばらくした後、私の視界はそれほどぼやけなくなりました。私は自らお茶の素晴らしい効能を体験したのでした。私はこういった種のお茶は薬の代わりにはならないものの、軽度の病気や慢性疾患なら適切なお茶を飲めば予防したり、治すことができると感じました。これは本当に素晴らしいことです!感嘆の吐息をもらした後、私はお茶の効能はどこから来ているのかを知りたくなりました。

   その後、私はこの御言葉を目にしました:「さらに、動物であるか植物であるか草であるかを問わず、万物の中には、神が造った、人体の負傷や疾病を癒やすために必要とされる植物もある。…血行を促進して血行不良を改善する植物、痛みを緩和する植物、止血する植物、麻酔効果のある植物、正常な皮膚の回復を促進する植物、鬱血を解消する植物、解毒する植物などもある。要するに、これら全ての植物を日常生活で使用できる。これらの植物は人間にとって利便性があり、人体に必要な場合のために神が用意したものである。神により人間が偶然発見できるようにされた植物もあれば、特殊な現象により発見された植物もあり、神が用意した特定の人間により発見された植物もある。そうした発見の後、人間はそれを伝えて多くの人々がそのことを知るようになる。このように、神によるこうした植物の創造には、価値と意義がある。…神は隠れて業を行った。この世界に人間が現れる前、神が人類と接する前に、神は既にこれら全てを造り終えていた。神が行った業は、全て人間と、人間の生存のためのものであり、また人間の存在のために配慮されたものであるので、人類は、神が人類のために造った、このような豊富で潤沢な物質世界で生活することができ、食料や衣料に懸念すること無く、不自由無く幸せに生活することができる。」

   全ては神に創造され、制御されていることが分かりました。神は人間を創造なさる前に、既に私たちが必要とするもの全てを用意されていたのです。神は私たちが実生活において病気に罹ることをご存知であられたので、各植物に異なる効能をお与えになり、それぞれが異なる用途および価値を持つようにされました。そうすることで、私たちの病気は様々な薬草で治療することができるのです。例えば、人によっては痰を治して咳を和らげることができたり、人によってはお腹を温めて下痢を緩和することができたり、また他の人は熱を下げて毒素を取り除くことができたり、さらにまた他の人は食物の停滞を解消して脂質を分解することができます。それらの有する効能が何であれ、私たち人間が最大の受益者なのです。これは、神の創造された植物は、大きなものであれ、小さなものあれ、それぞれが独自の価値と存在の意味を有していることを意味しています。

   実際に、植物の中に神の全能さと御知恵が込められているだけでなく、空気、光、適切な温度など私たちが存続するための環境は神によって適切な形で用意されており、私たちが好ましい環境で暮らせるようになっているのです。さらに、神が各季節に備えてくださる様々な食物や果物はやがて私たちが必要な様々な栄養素を提供してくれます。これより、私たちに対する神の愛は包括的であることが分かります:私たちの生活環境から日常の食べ物まで、神は私たちに豊富にお与えくださっています。これを受けて、私は本当に神の善良な御旨と奇跡的な創造を讃えます。私たちの回りにある木、花、魚、虫、そして鳥を注意して観測してみれば、創造主は全てのものを養っておられ、絶えず私たちに備えてくださっておられることが容易に分かります。神様、有難うございます!全ての栄光、神にあれ!

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クリスチャンの証し-成功を収めた後の喜びと悲しみ

2019-05-04 23:14:13 | 人生の奧義

   私が小学生だった頃、毎年夏休みや冬休みになると私のいとこたちが車で家にやってきて沢山のプレゼントを持ってきてくれました。そして、家の中は親戚、友達、そして近所の人たちでいっぱいになりました。皆が自分のいとこたちを尊敬する目で見つめる様子を見て、私はとても羨望しました。その時、私は、「いとこみたいな立派な人になって、先祖に名誉と栄光をもたらし、貴族みたいな生活ができるように、一生懸命に努力して将来何かを実現してみせる」、と決心しました。

懸命な努力

   私は専門学校を卒業した後、運よく外資系企業で事務員の仕事に就くことができました。当初私は心の中で、「まあ事務所勤務だから、一応は知的労働者ってことになるわ」、と秘かに喜んでいました。しかし、地位と能力の低い私は事務所内で他の皆にこき使われることになるとは思っていませんでした。私は自尊心が傷つけられたと感じましたが、同時に私の中で野心が芽生えました。私は努力して人が私を見る目を変えてやろうと決意しました。従って、私は懸命に働き、空いている時間も全て社内規定と製品の専門知識を学ぶこと、そして専門的な能力を修得することに注ぎ込みました。毎日、私は朝から夜まで働き、年間を通して休みはほとんど取りませんでした。5年の間、私は寮、食堂、そして事務所以外は何処にも行きませんでした。そしてついに私の長年の努力は報われたのです。私は普通の事務員から営業員、製造部の役員、購買部のスーパーバイザー、輸出業務のスーパーバイザー、そしてついには社員から尊敬される社内マネージャへと昇格していったのです。以前私を見下していた社員は私の前で頭を下げてお辞儀をするようになりました。このような成功は栄光と誇りを感じさせてくれました。

   しかし、より多くの人々と関わるにつれ、私は自分よりも裕福で権力を持つ成功者たちが大勢いたことを知りました。こうして、私の満足感は次第にしぼんでいきました。私はこう思いました:「社内で高い地位と社員からの支持および尊敬を得たとはいえ、私は未だ人の下で働いている身だわ。’大きく成功するには夢中でないといけない’ と世間では一般的に言われているし、私はまだ若い、自分でビジネスを立ち上げるべきだわ。’人は高い所を目ざし,水は低い所に流れる’ という古い諺もあるくらいだから、現状に満足しないで進歩していくことを求めるべきだわ」何年にも渡って培った経験は私に信念と勇気を与えてくれたので、私はマネージャとしての高給な仕事を辞めて、自分のビジネスを立ち上げました。

クリスチャンの証し,成功を収めた後,喜びと悲しみ

   その後、私は有名化粧品ブランドのエージェントとして働きました。会社に設定した高い業績目標を毎月達成していくために、私は店の対応をする以外にも様々なマーケティングプランを立てる必要がありました。私は日中の間は客がいるいないに関わらず常に店の中にいて、夜遅くまで帰宅しませんでした。私には祝日すらありませんでした。時に、私は疲労を感じることはありましたが、成功は手の届く所まできていると思い、全力を振り絞って耐え凌ぎました。その数年後、私はかなりの成功を収め、ある程度の収入を得ました。そして、私は店を拡大し、車と家も購入しました。私の親戚、同級生、そして近所の人たち全員が私のことを感心の目で見つめ、私の両親も私のことを誇らしく思ってくれました。

突然の病に見舞われ、私は耐え難く辛い思いをしました

   自分のキャリアの達成感を楽しみながら、休むことなくビジネスで多忙にしていた時、私は健康の問題を抱え始めました。私は頻繁に目眩がし、両手が麻痺していたのです。病院で検査を受けると、私は信じられないことに頸椎症と関節周囲炎を患っていたのです。医者は真剣な口調で私にこう言いました:「これらの病気は根絶することはできないんです。治療は痛みを緩和することしかできません。体を大事にして、もっと休んで働き過ぎないようにする必要があります。そうしないと、あなたの病気は増々悪化していきますよ。これらの病気は致命的なものではありませんが、悪化したらあなたの将来の生活に悪影響を及ぼします。あなたは未だお若いし、健康にはもっと注意する必要があります。このままの状況が続くと、筋萎縮症、それに四肢麻痺まで起こす可能性があります。」医者の言葉を聞いて、私は頸椎症と腰椎疾患に苦しむ人たちのことを思い出しました。彼らの仕事と生活はひどく影響を受けていました。体が麻痺しているようで何も出来ない人もいました。こう考えていると、私はひどく落胆しました。私は30歳にすらなっていない自分が50代や60代の人たちが患うような病気に罹るとは思ってもいませんでした。

   私は自宅に向かって運転している時、涙が顔を流れ落ちるのを抑えることができませんでした。この数年を振り返ると、私は自分が止まれなくてカチカチと回り続ける壊れた時計になっていたような気になりました。

その後、私は定期的に病院へ治療を受けに行きました。私は頸椎症と関節周囲炎を治そうと、理学療法、マッサージ、吸い玉放血法、鍼治療、牽引、そして小針-メス治療を始めとするありとあらゆる治療法を試しました。これらの治療には沢山の費用がかかりましたが、何の効果もありませんでした。それどころか、これらは私の頭の中に暗い影を残していきました:治療の最中に聞こえた針治療の音が頭の中で響き続けるのです。病院に行く度に、私の心臓は激しく鼓動し、牽引と鍼治療の痛みを考えると、足に力が入りませんでした。私は何度もこう思いました:「私は一生懸命に働いてキャリアを築き、お金を稼ぎ、良い評判を上げてきたのに、健康な体を失ってしまうなんて。輝かしいキャリアを築くという野心のために人生のほぼ半分を注いできたのに、どうしてこの懸命な努力の結果がこうなってしまうの?」私は極度の落胆と悲しみの中を生きましたが、それからどうやって抜け出せばよいのか分かりませんでした。

神への信仰を開始した後、私は自らの人生を振り返りました

   私はひどく苦しんでいた時に神の御国の福音と出会いました。私は神のこの御言葉を目にしたのです:「ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、『高等教育機関』で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。⋯⋯」

   私は神の御言葉を読み、そして兄弟姉妹たちと交流することで、自分の苦しみの根源を知りました。私は、幼かった頃に、いとこたちが各々のキャリアで成功を収め、そして親戚と友達全員が彼らを尊敬しているのを見て、自分も立派な人になろうと心の中で秘かに決心したのを思い出しました。社会に足を踏み入れた後、「他人を超える」、「先祖に名誉をもたらす」、「人は高い所を目ざし,水は低い所に流れる」といった人生観に囚われていた私は普通の知的労働者であることに満足できなかったのです。立派な人になり、人から尊敬されるという望みを叶えるため、私は気が狂ったように働き、食べることも、寝ることも忘れてしまうほど学ぶことに没頭しました。外資系企業でマネージャになった後、それに満足できなかった私は、自分のビジネスを立ち上げようと懸命に努力しました。私は健康を損なうまで名利を追い求め続けたのです。現代社会では、大多数の人々が裕福で権力のある人々を尊敬し、その仲間入りをすることに熱心です。彼らは名利を求めて最善を尽くしますが、それはサタンが人間を誘惑し傷つけるために使う策略であるということを知りません。サタンは虚偽の考え方を用いて私たちを操り、私たちが神から離れるようにします。名誉、富、そして地位に囚われた私たちは苦しみの中を生きるのです。沢山の人々は成功を収め、存在を認められ、莫大な富を手にしますが、実際はとても虚しく憂鬱な気分に駆られているのです。中には相当な精神的苦痛によってうつ病になる人もいます。その中には快楽と肉欲を求める生活にふけたり、自らを麻痺させて苦しみを和らげるために麻薬中毒になってしまう人さえいます。自らの命を絶つために自殺を選択する人もいるのです。私は神の御言葉の啓示とこういった事実を通じて、立派な人になることは真の幸せではないこと、そして成功と名誉は真の満足感と確信をもたらしてはくれないことに気が付きました。

   聖書の伝道の書1:14には、「私は日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕らえるようである」と記されています。マタイ16:26で、イエス様はこう仰りました:「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」そうです。私たちはこの世で何を手に入れようと、この世を去る時には何も持って行けないのです、そして最終的にすべては空っぽになるのです。お金、名誉、そして地位のために苦労していては、私たちは極めて無知で愚かということになってしまいます。あの頃、私は立派な人になって貴族のような生活をしようと懸命に努力しましたが、今現在、私は健康を損ない、病気の苦しみの中で生活を送っています。こう考えると、自分はとても無知であったことが分かります。

   後に、私は神のこの御言葉を目にしました:「あなたが泣き声を上げてこの世にやって来るその瞬間から、あなたはあなたの本分を果たし始める。あなたは、神の計画と神の定めにおいてあなたの役割を担う。あなたは人生の旅路を始めるのである。あなたのこれまでの背景がどうであろうと、あなたのこれからの旅路がどのようなものであろうと、天が備えた指揮と采配を逃れることができる者はひとりもおらず、自分の運命を支配できるものはいない。万物を支配する神のみが、そのような働きを行うことができるからである。人が誕生した日から、神は一貫して自分の働きを及ぼしてきた。そしてこの宇宙を経営し、万物の変化と動きを方向づけてきた。万物と同様に、人は神から甘美さや雨露という滋養物を、そっと、知らないうちに、受け取っている。万物と同様に、人は知ることもなく神の手による采配の下で生きるのである。」「それよりは神を満足させる最も簡明な方法を見出すこと、すなわち神の采配の全てに従うことが最善であるとわたしは考える。そして、真にこれを実現できるならば、あなたは完全にされるであろう。これは平易で楽しい事ではなかろうか。他人の言葉を気にせず、考えすぎずに、自分の歩むべき道を進みなさい。自分の将来や運命を自ら掌握しているのであろうか。」

   神の御言葉の御導きを通じ、私はこう気が付きました:「私たちの運命は神の御手の中にあります。神のなさる調整と采配に従ってのみ、私たちは神の祝福を授かり、真の幸せと安楽を手にすることができます。」しかし、私は神の主権を知らず、どれだけ辛く疲れていようとも、サタンの哲学に従いながら頑固なまでに追い求め続けていました。私は病気になるまでは、止まって内省することはありませんでした。私は自分が追い求めてみたものは全て苦しみしか生み出さなかったことに気が付きました。私たちは神の前に行って神の主権と采配に従い、名誉と地位へのこだわりを手放し、それらを求めて駆け回るのを止めた場合に限って、サタンの誘惑と害から距離を保ち、自由に抑制なく生きれるようになります。こう考えた私は今度の道を歩む方法を知ったのです。

自分の観点を改め正し、自由を取り戻しました

   後に、会社はマーケティング戦略の変更に伴い、幾つかの店舗をモデル店舗として選定することにしました。モデル店舗はロケーションが良く、安定した客足があり、高い売上を挙げることが求められました。会社の幹部からこのプログラムの詳細を聞いた時、私は誘惑に駆られてこう考えました:「私の店舗がモデル店舗の最初のグループの1つになったら、会社から色んなサポートや高額ディスカウントが付与されるだけでなく、店舗を改装したら客が次々と来店してくるようになるわ。そうすれば、売上は右肩上がりだわ。」頭の中で見事な構想を思い描いていた時、この神の御言葉が私の頭をよぎりました:「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」(マルコによる福音書 8:36)。「もし再び選択を迫られるなら、あなたがたの立場はどうだろうか。依然として前と同じだろうか。」神の御言葉を熟考しながら、私はこのように内省し始めました:「一体私は何を選ぶべきなの?お金、名誉、地位、それとも私のいのち?今日、会社の新たな戦略を聞いた私はまだ自らの健康を無視してまでこの機会を利用してお金、名誉、そして地位を手にしたがっているわ。以前と同じ過ちを犯してしまうのに。体が麻痺してベッドに転がっていたら、どれだけ富があって、どれだけ人から尊敬されていても、全く何の意味もないわ。一番大切なのは自分のいのちなのよ。」神に感謝します。私は神の御啓示と御導きの下で自分の歩むべき道の選び方を知りました。その後、私は幹部の所に行って彼女にこう伝えました:「今私は体調が良くないので、店舗を拡大したら健康を完全に損なってしまいます。なので、モデル店舗は諦めることにしました。」こう決断したとたん、私は長い間掛けられていた足鎖から開放された気分になり、以前感じたことのないゆとり、自由、そして安堵を感じたのです。

   その後、私は店の経営に自分の時間全てを充てることはなくなりました。私は教会で自分の本分を尽くすことに最善を尽くしました。私は集会の時間には集会に参加し、仕事の時間になると自分の店舗に行きました。驚いたことに、私が集会に参加したり、本分を尽くすようになったにもかかわらず、店の売上は落ちなかったのです。これより、この全ては私自身の努力によって決まるものではなく、万物が神の御手の中にあるように、これもまた神の祝福と支配によって決まっていたということを私は明確に知りました。

   神の選定と救いに感謝します。教会生活を送り、兄弟姉妹と共に神の御言葉を読み、それぞれの個人的な体験を共有し合うことを通じ、私の憂鬱な心は次第に晴れていき、私の状態も好転しました。神に感謝します。私は神が私の内に指し示してくださった方向に向かって真理を追い求め、いのちの正しい道を歩み、神に従い、神を崇めていきたいと思います。全ての栄光、神にあれ。


人生の意味ー命をお金と引き換えにする人生に別れを告げる

2019-05-03 22:42:19 | 人生の奧義

   「お金のために生き、お金のために死に、一生のあいだお金を追い求める。お金のために負け、お金のためにだまされ、お金のために生き、そして死ぬ」。この言葉は、今の時代に多くの人が一生涯、追い求めているものであり、この記事の筆者もその例外ではありません。かつて彼は、自分の命をお金と引き換えにし、お金で命を買い戻し、大きな痛みの只中に生きていました。そんな彼が神を信じ始め、神の言葉を読むことよって初めて人生の真の意味を理解するようになり、お金と引き換えの人生に背を向けて新しい人生を始めることができるようになったのです。

寄稿家:赵真(米国)

   近頃広まっている二つのフレーズを最近ネット上で見かけました。「お金のために生き、お金のために死に、一生のあいだお金を追い求める。お金のために負け、お金のためにだまされ、お金のために生き、そして死ぬ」と「何においてもお金を稼げるかを考え、札束を分厚くしよう。」今日のお金中心の社会では、多くの紙幣を持つことが皆の目標になっています。そして「お金は全てに勝る」「地獄の沙汰も金次第」「金なしでは何もできない」という考え方は強まり、人生を導く道しるべになっています。私たちはこういった格言を疑わず、それを見放すこともありません。そしてもちろん、私も例外ではありませんでした。

命をお金に換えていた私の以前の人生

   私が19歳の頃、熱意に満ちていたことをぼんやりと覚えています。なるべく手早くたくさんお金を稼ぐため、電気設備チームでの実習期間中は技術を習得しようと必死に勉強しました。自分の家族ができると、さらにエネルギーのすべてを仕事に注ぎ込み、毎月、全実習生のうちで最高額の賃金を家に持ち帰っていました。後に、1日400元の賃金を稼ぐため、昼も夜も働くようになりました。夜中に電話を受けることもしばしばで、暖まってきたばかりのベッドを抜け、出かけたものです。私は日本で働いていた時の悲しい体験を忘れたことはありません。私は、休日も休憩時間もとらず、最低でも1日12時間働いていました。とても厳しく、大きなプレッシャーを伴う仕事で、その結果私は心疾患を発症し、髪もほとんど抜け落ちてしまいました。それでもなお、私はこういった苦労に耐える覚悟でした。お金を稼ぐためです。ぜんまい仕掛けの機械のように、私はお金儲けの最前線で死に物ぐるいになって働き続けました。2年後、もっとお金を稼ぐために、米国へ行きました。数年間、さまざまな雑役を引き受けたりレストランの料理人になったりして必死に働きました。私が経験した辛苦すべてを事細かくお話する必要はありません。でも、自分が手に入れた札束が分厚くなっていくのを見ると、そのお金を稼ぐのに費やした厳しい労働のことは一切忘れていました。

   その後、長期間にわたって度を越えた働き方をしてきたために私の体は危険信号を発しました。重度の胃腸障害、頸椎症、腰椎椎間板ヘルニアおよび肩関節の関節炎を発症したのです。胃が痛くなり始めると、体中に冷汗が流れ、完全な無気力状態になりました。頸椎症が再発すると、脳に十分な血液が行き渡らず、しばしば気分が悪くなったりめまいを感じたりしました。そのためしょっちゅう病院に駆け込まなければなりませんでした。私の疲労困憊した体と稼いだドル紙幣とは等価になり、突如、私はとても悲しい気持ちになりました。10年を超える厳しい労働の中で、ひたすら働くことだけを求めて全く人生を生きておらず、財布には分厚い札束を貯めこんだものの、健康を損ねてしまったのです。私は今まで何のためにあがいてきたのでしょうか?命をお金に換えることに人生の半分を無駄にし、それからまた命を買い戻すためにお金を使っていたのです。一体それだけの価値があったのでしょうか?

   不意に過去を振り返ってみて、それまで道中の風景を楽しむ時間もなく、私の半生は静かにすり抜けていったように感じました。お金のために労働に費やした日々を意識して数えてみるうちに、私の心は無力感でいっぱいになりました。人間の生涯とは、自らを消費し尽くす機械のようなものでしかないのか。お金を稼ぐために生き、お金を稼ぐために死んでいくものなのか?なぜ人生はこれほど苦しみに満ちているのだろうか?

人生が苦しみに満ちている理由

   ある日、幸いにも私は神の言葉を読み、探し求めていた答えを見つけました。

   神は言われます。「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。…サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。…サタンはあらゆる時にあらゆる場所で人間を堕落させます。サタンは人間がこの堕落に対して防御することを不可能にし、それに対して人間を無力にさせます。うっかりしていたり、自分に何が起きているかを認識していない状況において、サタンはその思想、観点、サタンから来る邪悪な物事をあなたに受け入れさせます。人はそれらをすっかり受け入れ、それに苦情を言うこともありません。それらを宝のように大切に抱えて、それらが自分を操り、もてあそぶままにします。このようにしてサタンによる人間の堕落はますます深まるのです。」

   神の言葉によって、「お金は全てに勝る」「地獄の沙汰も金次第」「金なしでは何もできない」といった思想や見解はサタンから来ていることを理解しました。サタンはそういった格言で私たちをだまし縛りつけ、お金を持つとはすべてを手に入れることである、お金を持つとは他人から尊敬され賞賛されることである、お金を持つとは素晴らしい華やかな人生を送ることである、そしてこのようなことが価値と意味のある人生である、と考えるように仕向けます。このようなばかげたサタンの思想が私たちのいのちになり、私たちは最後には富を得るためならどのような対価もいとわないようになってしまいます。このようなサタンの思想や見解に自分がいかに支配されてきたかを振り返ると、私はお金を稼ぐために昼も夜も必死に働き、不規則な時間に食べたり飲んだりし、夜に安らかに眠ることはできず、体質はどんどん衰えていったのに、気にも留めていなかったのです。後にはお金が命と考えて、家族を残して日本と米国へ行き、さらにお金を稼ぐために何年間も働きました。確かに私はさらにお金を稼ぎ出していましたが、心疾患、胃腸障害、頸椎症などの病気に次々と悩まされ、ついにはあまりに両腕が衰えて真っ直ぐ伸ばすこともできないほどになって、ひどい痛みを抱え生活していました。神の言葉を通して初めて、すべては自分がサタンの悪い思想と考えにだまされてきたせいであることが分かるようになりました。私は不本意にもお金への欲求に制御され、操られ、ついにはお金の奴隷、いけにえになり下がっていたのです。このことに気づいてからは、私は神の前に戻るべきであり、これ以上サタンの思想と見解によって生きてはならない、そして二度とお金の奴隷になってはならないと思いました。その後、私は普通の勤務時間を守り、終わりのない残業をやめました。

陥りがちな罠にはまって初めて本当の人生の意味を知った

   とはいえ、私はあまりに深くサタンに惑わされてきたため、お金、名誉、富は既に私の心に根を張り巡らしており、それらを取り除くのは並大抵のことではないと思われました。会社を15年運営してきた私の上司が500万ドルを稼ぎ出し、最近豪華な別荘を買ったと言うのを耳にし、私の心はその後しばらくざわついていました。確かに人生は生きるためにあるとは思いました。本当に何も成し遂げずに自分の人生を生きていていいのだろうか?自分のレストランを開くのが私の夢であり、自分のレストランが持てたら二度と誰からも見くびられることはないはずです。気づいた時には、私はまたお金を稼ぐために必死に働き、命をお金と引き換えにする以前と同じ人生を再び生きるようになっていました。教会の集会に出席する代わりに、私は職場で残業をしました。ほどなくして、私は流行性の風邪にやられ、心疾患は再び悪化し、それはひどい苦痛をともないました。

   ちょうど私が痛みに苦しんでいたとき、神は再び救いの手を差し伸べてくださいました。教会の姉妹の1人が映画『福と禍』を送ってくれたのです。主人公がお金を追い求めて働くために日本へ行き、自らの健康を顧みず、ついには全くお金を稼げず、入院しなければならなくなるのを見た私はため息をつき、これはまさに私の人生そのものではないか、と思いました。この映画の中の神の言葉の一節がちょうど次のように言っています。「人間は、金銭と名声を求めて人生を過ごし、そうしたわらしべを握りしめて、あたかもそれがあれば生き長らえて死から免れられるかのように、それが唯一の助けであると考える。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独であり、誰にも頼ることができず絶望的であるかを知る。人間は、いのちを金銭や名声で買うことが出来ないこと、いかに裕福であっても、いかに高い地位であっても、死に対して人間は皆同様に貧しく些細な存在であることを知る。人間は、金銭で命を買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭も名声も、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを知る。」


命をお金と引き換えにする人生に別れを告げる

   主人公が得た理解は、まるでそれが私自身の個人的な体験であるかのようで、深く心を動かされました。「サタンがお金と名誉で人を支配しています。でもサタンの策略が見破れず、お金と名誉で人間を毒するということもわかりません。このため、私達は渦巻きから抜け出せないのです。サタンに惑わされ、害を与えられているのに。」そのとおりです。サタンの狡猾な悪だくみと卑劣な手段を完全には見抜けないので、不本意にもサタンに弄ばれ、傷つけられてしまうしかないのだ、と私は思いました。全身全霊でお金を追い求め、もっと稼ぐために自分の健康を喜んで犠牲にし、サタンにだまされて費やした自分の半生を思い出しました。働き盛りにあったはずの私は、絶えず病気をし、いつも薬を飲んでひどい痛みの中に生きていたのです。これは何を意味していたのでしょうか?お金と命、どちらのほうが大切でしょうか?私は突然、8年間米国で働き、末期がんの診断を受けた旧友のことを思い出しました。彼はその後、わずか3か月で亡くなりました。米国で10年以上のあいだ働き、大金を稼いだ別の人も不治の病にかかり、家族みんなを残して亡くなりました。このような恐ろしい話はひとつの事実を告げています。地位がどれほど高かろうと、どれだけ裕福だろうと、自らの命を延ばす機会を買うことはできませんし、死ぬときには何も持って行けないのです。主イエスが仰っていたとおりです。「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」サタンの狡猾な悪だくみを見抜けず、以前からの間違った道を進み続け、お金を追い求め、さらに分厚い札束を手に入れることを望み、自分の命をお金と引き換えにしていたなら、私を待っているのは悲しい結末だけです。

過去に別れを告げ、新しいいのちを迎え入れる

   私はさらに神の言葉を読みました。「こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法があります。それは、自分の以前の生活様式や人生の目標と訣別し、以前の生活様式、人生観、追求、願望、理想を概括し、分析し、それを神の旨や人間への要求と比較し、それらのいずれかが、神の旨や要求と一致しているか、人生の正しい価値をもたらすか、一層深い真理の理解へと導くか、人間性と人間らしさとともに生きることを可能にするかを確認することです。…このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による采配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」

   神の言葉は実践の方法をはっきりと示してくれました。サタンの邪悪な誘惑を避け、命とお金と引き換えにする古い人生に別れを告げたいなら、誤ったことを人生の目標に掲げるのをやめ、二度とサタンの悪い考えによって生きることのないようにしなければなりませんでした。そして1人の人間として行動をし、神の言葉の光の道を先へ歩んでいかなくてはいけません。個人的な体験を通し、かつての私の人生の見方、お金が人生そのものだという考えが、実際には私を弄び、傷つけるサタンから来ていたのだと気づきました。その価値観はサタンが私にかけた鎖であり、瞬く間に消え得る無価値なものでした。私に残された時間の中で、二度とサタンの狡猾な悪だくみに陥ってはいけないと思いました。私は神によって創られたのであり、神を崇拝し、神に従い、神の権威と導きの下で生きていくべきです。それは唯一、本物の未来と真の価値を伴う人生なのです。

   それから間もなくして、ある日、私の上司の夫人から電話があり、レストランへ行って手伝うようにと言われました。しかし、これまでお金のために徹底して働いてきた時期について思いめぐらし、彼女の依頼を断りました。私は残りの人生の新しい計画を既に持っていたからです。それはもっと休息をとり、健康に気を配り、集会や本分を尽くすことに決して遅れないという前提の下、自分の最善を尽くせる仕事を見つけることでした。これから残りの人生、私の主権者は神です!

   筆者は次のことを共有したいと願っています。

   私はお金の追求をやめ、神の救いを得ることを喜びます。

   人生に残された時間を大切にし、進んで神に従い、神を礼拝します。


地震後の熟考:人生において、追い求めることに価値と意味があるものとは

2019-05-02 10:17:51 | 人生の奧義

   2018年6月18日の朝8時ごろ、私はいつも通りに作業場で仕事を始めようとしていました。その瞬間、いきなり地鳴りがして、地面が揺れ始め、床が陥没し始めたのです。作業場のドアがバタンと閉まるのを見た瞬間、私たちは地震が起きていることに気が付き、同僚と私は慌てて建物から避難しようとしました。やっとの思いで空地に駆けだすと、私は恐怖感に満ちた恐ろしい現状をまざまざと目の当たりにしたのです。日本は地震の多い国だと知っていましたが、まさか実際に体験することになるとは思っていなかったのです。その瞬間、私は頭が真っ白になり、足に力が入りませんでした。神に助けを求め続ける以外、私はどうしていいのか分かりませんでした。私は祈りを通じて、徐々に落ち着いていきました。

   僅か数分の間に、100人以上の人たちが空き地に集まり、全員が狼狽している様子でした。無表情のまま怖気づいて動けなくなっている人がいたり、震えが止まらない人がいたり、そして他にはビクビクしながらまだお互いにしがみついている人たちもいました。すると私の女性の同僚が心配した口調でこう言いました。「大変だわ、数日前に買ったばかりのネックレスがあるのよ。それに、家には他にもたくさんジュエリーがあるのに、家が倒壊したら全部台無しだわ!」その隣に立っていた人も不安そうに言いました。「私のゴールドとシルバーのジュエリーも家に置いてきてるわ、一緒に持って来なかったのよ。」その時、それまで泣いていた年配の女性が誇らしげにこう言いました。「私は以前地震に遭って、死ぬほど怖い思いをしたわ。それ以降はパスポートに銀行カード、それと貴重品はすべて毎日持ち歩くことにしてるのよ。」彼女に目をやってみると、彼女は指輪を5つとブレスレットを2つつけていました。彼女がこう話している間に他の同僚たち数人が怖さのあまり泣き始めてしまいました。

   私は同僚たちの振る舞いを見た時、突然とても悲しくなり、泣きたくなりましたが涙は出ませんでした。私たちは哀れな人生を送っていると私は感じました。私たちは頻繁に運命は自分で切り開くものだと言いますが、災害が起る時は一体誰が次の瞬間起こり得ることをコントロールできるというのでしょう?しかし、これを疑問に思っている人がいるようには見えませんでした。地震で起きたパニックの中ですら、人々はお金とジュエリーのことを気にしていたのです。その瞬間、私は神の御言葉のこの節を思い出しました。「人間は神の指揮と統治を認めないので、常に反抗的な姿勢で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを望み、現状と運命を変えようとする。⋯⋯」私たちは神の主権を理解していないがために、人々の運命は神の御手の中にあることを理解しておらず、それ故に私たちは誰もが自分たちの運命を変えたがり、お金を稼ぐために多忙に働き、理想の生活を追い求めているということに私は気が付きました。実際、私たちは小さくて、些細な個人の集まりに過ぎないのです。自分の運命をコントロールして、それを変えることなど一体誰ができるというのでしょう。私はこう考えた時、神の御声を聞いて、神の主権を認識する機会を与えてくださった神の慈愛に強く感謝しました。こうして、私は心の中で静かに神に呼び掛け、私をお導きくださるように、そして地震に立ち向かう勇気を与えてくださるようにと神に請いました。少しずつ、私の恐怖感は失せて行き、私は神が私の最強の盾であることを知ったのです。

   私たちは30分ほど外にいましたが、余震が収まったことを確認すると、上司は私たちを職場に戻らせました。私たちが作業場に戻った時、同僚たちは依然として怯えたままで、全く仕事をする気になれなかったので、休暇を願い出て帰宅して行きました。最終的に、残ったのは私と2人のベトナム人だけでした。

地震後の熟考,人生において、追い求めることに価値と意味があるものとは

   あの夜、余震は4回起りましたが、神を頼りにしていた私は怖くありませんでした。翌日、職場に行くと、私は大きな荷物を運びながら出勤する同僚を数人見かけました。地震が来たらいつでも逃げられるようにと言って、食堂に食事をしに行く時ですら荷物を持って行く人がいました。その後の数日間、余震は続き、同僚たちは地震の話しばかりしていました。各々の国行きの航空券の金額を毎日チェックして、地震がまた発生する時に備えて航空券を買う準備をしている人たちもいました。私もある程度はこの状況から影響を受け、自分の安全を心配してはいましたが、神の御言葉を読むと、落ち着いて対応することができました。

   私は神のこの御言葉を思い出しました。「人間は一生涯のエネルギーを運命に立ち向かうことに費やし、家族を養おうと必至で働き、富と地位の間を行き来して、全ての時間を費やす。人間が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、人間はこれらを人生において最も価値の高いものとみなす。あらゆる人々が自分の運命に不満であるが、人間は何故生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、という最も喫緊に検討して理解する必要のある問題を心の中で常に先送りする。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、富と名声で人間の老化を止めることが出来ず、金銭で心の空虚感を埋められないことを悟るまで、そして出生、老化、疾病、死の法則の例外となる者や、待ち受ける運命から逃れられる者はいないことを悟るまで、一生涯を通して、せわしなく富と名声を追い求めるのみである。⋯⋯財産のある者は金が自分の頼みの綱である、生涯の資産であると考える。立派な地位があれば、人間はそれにしがみついて、そのために命を賭ける。この世を去ろうとする時になって初めて、人間は自分が生涯をかけて追究してきた物事が、空を渡り行く雲のようなものであり、いずれも掴み続けることも、死後の世界に持っていくことも出来ないものであり、自分を死から免れさせる力が無いものであり、この世を去る時に持参することも、慰めを与えることも出来ないものであり、また特にそうした物事のなかに、死を超越する救済を与えることの出来るものは無いということに気付く。」 そうです、「お金は全てに勝る」「地獄の沙汰も金次第」といった考えによって、私たちはお金を唯一頼りがいのあるものとみなし、お金を持つことは全てを手にすることであると考えてしまうため、お金のために悪戦苦闘しながら人生を過ごしますが、私たちのいのちが何処から来るのか、また私たちが存在する真の価値と意味については全く考えていないのです。お金は本当に私たちの拠り所になり得るのでしょうか?私は同僚たちのこと、そしてその1人1人が沢山のお金を貯金していたことを考えましたが、地震が起きた時、そのお金は彼らに安全で安心な生活をもたらしてくれたでしょうか?地震は彼らを恐怖感と不安で満たしたのです。私は2008年に中国の汶川県で発生した地震について考えました。どれだけの裕福な人たちがあの地震から逃げ出すことができたでしょう?彼らも同じ被害を受けていたのではないでしょうか?沢山の事実が揃っているにも関わらず、私たちは神の御前に行っていないため、人生の価値と意味をしっかり考えず、私たちが愛して止まないお金が私たちの内にあるものではなく、私たちに平安をもたらしてくれたり、災害から私たちを救ってくれるものでもないことに気付かないのです。これこそが、人類にとっての本当に大きな悲劇なのです!

   私は最初日本に来た時はお金を稼ぐことしか頭になかったことを思い出しました。私の仕事は生産ラインから出て来たばかりの車の部品を磨くことで、研磨作業中には鉛を多く含んだちりがたくさん出ました。マスクを2枚着用していたにもかかわらず、一日が終わると私の鼻の下には黒く丸いあとが残っていました。それに、当時は夏だったので、作業場の温度は40度を超えていた上に、私たちは一日最低でも10時間は働いていました。一日が終わると私の服は汗でびしょぬれでした。私の体はこのような重労働に耐えられず、右腕と指が感覚を失い始めていました。幸い、私は神から時にかなった御救いを受け、神の奇跡的な御采配により製品検査部門に異動することができました。そこでの仕事は楽だったので、私の手は次第に回復していきました。しかし、神の主権を知らなかった私はいのちの価値と意味を分かっていませんでした。私は神に従ってはいたものの、お金を追いかけることは止めませんでした。残業と集会の時間が重なることがあると、私は変わらず残業することを選んでいたのです。しかし、地震の後、私はこれについて慎重に考えてみました。神の御気遣いと御加護がなければ、災害と死が迫って来る時に、どれだけお金があったとしても心の恐怖感を取り除くことはできないし、霊的な安心感を得ることも、ましてや自分のいのちを守ることなどできないのです。

   その後、私は神のこの御言葉を読みました。「ある者が生まれた時、孤独な魂は、創造主がその魂のために計画した、地上での生活経験、創造主の権威の経験を始める。その者すなわちその魂にとって、これが創造主による統治に関する認識を得て、創造主の権威を知り、それを自分で経験する格好の機会であることは言うまでも無い。⋯⋯ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。そうした者は必然的に創造主に愛されて受け入れられ、また死に対して安らかな姿勢を取る。人生の最後の節目を喜んで歓迎出来るのは、そうした者のみである。ヨブは死に対して明らかにこの姿勢を取っていた。」

   神の御言葉は創造物として生きることの価値と意味を私が理解できるようにしてくださりました。私が持つものは全て、神から授かっているものであり、神は私が神の主権と権威を理解する機会を与えてくださり、そしてまた創造物としての本分を尽くす機会も与えてくださりました。私は真理を追い求め、神の働きを体験し、神を知ることに努め、創造物としての本分を尽くすべきなのです。これらこそが、人生において追い求めるべき正しい目標なのです。その後、私は上司たちと話しをして、自分の残業量を減らして欲しいとお願いしたところ、彼らはそれを承認してくれました。私は定期的に兄弟姉妹たちと集会に参加できるようになると、それまで感じたことのない安心感を得ました。神が今回の地震を通じて、私が自分の人生をじっくりと考えるようにしてくださったこと、そして私に新たな理解をお与えくださったことを、私はとても感謝しています。これで私は、どのように生きれば、自分の霊が平安と喜びを感じられるのかということを熟知しました。