賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

堕落した人類は受肉した神による救いをさらに必要としている

2019-12-08 22:39:24 | いのちのパン

   神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救いの働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。受肉した神の本質と存在は人間の本質や存在とは全く異なるものなのだが、神の外見は人間と変わらず、通常の人間と同じように見える。神は普通の人間のように生活し、神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性とは、普通の人間として神がその神性の働きをするには十分である。神の受肉は普通の人間として働くことを可能にし、人々の間での働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は人々の間で救いの働きを進めることの役に立つ。神の普通の人間性は人間の間に多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、神の普通の肉体の働きは人間に素晴らしく有益なのである。たいていの人は神が普通の人間であることを受け入れないが、それでも神の働きは効果的であることができ、そうした効果は神が普通の人間であることで達成される。この点に疑問の余地はない。神の肉体における働きから、人間は、神の普通の人間性について人間の間に存在する観念から受けるよりも十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念はいずれ、すべて神の働きに飲み込まれることだろう。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間がもつ神についての認識は、人間が神についてもっている観念をはるかに超える。神の肉体における働きは想像もできないし、測りようもない。神の体はどの人間の肉体とも異なっているからだ。外見は同じでも、本質は異なっている。神の肉体は、神について、人間の間に多くの観念を生み出す。しかし、神の肉体はまた、人間が多くの認識を得ることを可能にする。そして、似たような外見をもつどの人間をも征服できる。神は単なる人間ではなく、人間の外見をもつ神であり、誰も神を完全に理解することはできないからである。目に見えず、触れることもできない神を誰もが愛し、歓迎する。もし神が人間の目には見えない、ただの霊であるならば、人間が神を信じることは容易である。人間は自分の想像力を自由に働かせることができる。神の姿として、どんな姿でも好きなものを選び、それで喜んで満足していられる。このように、人間は自分の神が最も好むこと、この神が人に望むとおりのことなら何でも、何のとがめもなく行うことができる。さらに、人間は、自分よりも神に忠実で信心深い者は誰もいない、他の人はみな異邦の犬で、神に背いていると信じている。これが、神について漠然と教義に基づいた信仰をもつ人々が求めているものであると言える。彼らの求めているのは、どれも同じようなもので、ほとんど違いがない。これは単に、人々の想像している神の姿が異なっているというだけで、その本質は、実際のところ、同じなのだ。



   人間は自分の信仰がいいかげんなものであっても気にとめない。そして、好きなように神を信じている。これは誰も妨げることのできない「人間の権利と自由」の一つなのだ。なぜなら人間は他の誰のものでもない、自分の独自の神を信じているからである。これは私有財産であって、ほとんど誰でも、こうした私有財産をもっている。人間はこれを自分の貴い宝だとみなしているが、神にとっては、これ以上卑しく無価値なものはない。この人間の私有財産以上にはっきりと神に敵対するものはないからである。なぜなら、神が受肉してその働きを行うため、神は触れることのできる形を持ち、人が見、触れることのできる肉体になるからである。神は形のない霊ではなく、人間がさわり、見ることのできる肉体である。しかしながら、人々の信じる神々のほとんどは、生身の体をもたず、形がなく、不定形である。このように、受肉した神は、神を信じる者ほとんどの敵となり、同様に、受肉した神という事実を受け入れることのできない人々も、神の敵となった。人間は考え方や反抗心からではなく、この私有財産のために観念にとらわれているのだ。この私有財産のせいで、たいていの人は死に、この漠然とした、触れることができず、目にも見えない、実際に存在しない神のために、人間のいのちは損なわれている。人間のいのちが失われるのは、受肉した神のためではなく、まして、天の神のせいでもなく、人間が思い描いている神のせいなのである。神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは感動あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。大方の人は、肉のために神の敵になっているが、神がその働きを完了するとき、神に敵対する者たちは敵であることをやめるだけではなく、それどころか神の証人になるだろう。そうした人たちは神に征服された証人、神の心にかない、神と分かちがたい証人になる。神はその肉体における働きの重要性を人間に知らせる。そして人間は、人間存在の意味にとってのこの肉体がどれほど重要であるかを知り、人間のいのちの成長のために神の肉体がどれほど価値あるものであるを知り、そのうえ、この肉体が、離れることが到底できない、生きるいのちの泉となることを知るだろう。受肉した神は、本来の神の身分と地位には遠く及ばないし、人間からすると神の本来の地位と相容れないものと思われるだろうが、この肉体、すなわち神の真の姿や身分をもたないこの存在は、神の霊には直接できない働きができるのである。それが神の受肉の真の意味と価値であり、そしてこの意味と価値を人間は理解し、受け入れることができない。すべての人間は神の霊を仰ぎ、受肉した神を見下すが、彼らがどう判断し、どう考えるかに関わりなく、この肉体の真の意味と価値とは霊にはるかに優る。もちろん、これは堕落した人間との関連においてのみ言えることだ。真理を求め、神の現れを待ち望む者すべてにとって、霊の働きは感動と啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、偉大で超越的で崇めるべきものであるが誰にも達成できず手に入れることのできないものという感覚だけを与える。人間と神の霊とは、遠くから互いを見ることしかできない。まるで両者の間に遠い隔たりがあるように。そして、けっして似ることがない。まるで、目に見えない境界で隔てられているかのように。実は、これは霊が人間に与えた幻影である。なぜならば、霊と人間とは種類を異にするものであり、霊と人間はけっして同じ世界で共存できず、霊には人間的な要素は何もないからである。だから、人間には霊は必要ではない。霊には、人間に最も必要な働きを直接することができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的かつ正常で謙虚で普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を恐れはするだろうが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすいように思われる。遠くの不可思議な存在ではなく、目に見え、触れられるのだ。この肉体は人間と同じ世界にあるのだから。

   肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿だけが、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替わり、徐々に人々に教え、そうした方法によってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、生身の体を必要とする働きは霊には直接できないもので、受肉した神だけが可能なのだ。これがこの働きに必要なものであり、また、堕落した人間に必要なものなのだ。神の働きの三つの段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接働くことはない。霊が行った律法の時代の働きは、堕落した人間の性質を変えることを伴わず、神について人間が知ることと何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代の受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救いの働きにおける重要かつ不可欠な部分である。だから、堕落した人間は受肉した神による救いを、受肉した神の直接的な働きをさらに必要とする。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。

   人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救いが必要だ。神の救いの対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救いと、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において行う。人間とよりよく交わり、よりよく征服するためである。この神の最後の受肉において、世の終わりの神の働きは肉において完了する。神は受肉したままですべての人間を種類によって分け、すべての経営(救い)の働きを終え、また、肉における働きをもみな終える。地上での働きがすべて終わると、神は完全な勝利者となる。受肉して働いた神は完全に人間を征服し、人間をすべて自分のものとしている。これは、神による救いの計画がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利するので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しであった。次の働きでは、人間を征服し、完全に自分のものとし、サタンがもはや働けないようになって完全に敗れ、神が完全な勝利者となる。これが肉の働きであり、神自身が行う働きなのだ。神の三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったもので、肉によるものではなかった。しかしながら、神の三段階の働きの最後のものは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。全経営(救い)の計画を通して、最も重要な働きは人間をサタンの影響から救う働きである。重要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への崇敬の念を回復し、正常な生き方ができるようにする、つまり、神の被造物として正常な生き方ができるようにするのだ。この働きは最も重要なもので、経営(救い)の働きの核心である。救いの三段階の働きのうち、最初の段階の律法の時代の働きは、救いの働きの核心から遠いものだった。ただ救いの働きをわずかに現したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは、霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったからであり、律法の時代の働きは、人間の性質の変化はほとんど伴っておらず、どのようにして人間をサタンの領域から救うかという働きとは、さらに関わりがなかったからだ。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関わらない段階の働きを終えた。この段階の働きは、経営(救い)の核心にほとんど関係がなく、人間の救いという正式の働きとはあまり関係がなかった。だから、神が自ら受肉して働く必要がなかった。霊の行った働きは隠された、測り難いものであり、人間には恐ろしくて近寄りがたいものであった。霊は直接救いの働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営(救いの)計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営(救い)の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう──神の二回の受肉の働きがなければ、経営(救い)の計画全体は停止し、人類の救いの働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。人間の行う働きは一般的な原則によるもので、それは人間には極めて満足のいくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは規模が壮大であるが、その陰には人間には想像もできないような多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階までもが原則に則っているだけではなく、人間の言語では表現できないようなことが数多く含まれている。そして、そうしたものは、人間には見えないものなのだ。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働く時、神の目的を伴っている。神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変える時)は、それ以上に目的があってのことである。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなくて、どうして進んで卑しくみなされ迫害される人になるのか。

   受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が目撃する受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きであるが、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。人間がそれをどう評価するかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上に相応しいものはおらず、受肉した神以上に資格のあるものもいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の刑罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。人間の甚だしい堕落は、受肉した神にとって大きな障害である。とりわけ、世の終わりの人々に対する働きは極めて困難で、敵意に満ちた環境で、どの種類の人々の素質もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、とどこおりなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神の働きの三つの段階は、肉において終結するだろう。そしてそれは受肉した神によって完結しなければならないのだ。最も重要かつ肝要な働きは肉において為され、人間の救いは神が受肉して自ら行わなければならない。人間はみな、受肉した神が人間と関わりがないと感じるだろうが、実際は、この肉体が、全人類の運命と存在に関わっているのだ。

   神の働きのどの段階も、人間のために行われるもので、それはすべての人間のためなのだ。それは受肉した神の働きであるが、それでもすべての人間を対象とする。神はすべての人間の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは限られた範囲のものであるし、この働きの目的もまた限られているが、神が働きのために受肉するたびに、神は、その働きの対象として究極的な代表を選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉の働きの代表となるだけの能力ある集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神が受肉して行う働きの範囲が限られているためで、受肉した神のために特に用意され、受肉した神の働きのために特に選ばれるのである。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則による。働きの対象は、受肉した神の働きに有益なものでなければならず、また、すべての人間を代表する者でなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自らによる贖罪を受け容れることで全人類を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け容れることで全人類を代表できる。ユダヤ人が全人類を代表したことには根拠がある。また中国人が、神自らによる征服を受け容れることで全人類を代表することにも根拠がある。ユダヤ人の間で行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人の間での征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の集団にだけ向けられているもののように見えるが、実際は、この小集団のもとでの神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものなのだ。受肉しての神の働きが終わった後、神に従う人々は、自分たちの間で神が行った働きを広めることとなる。受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救いの働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉における働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての宗教、すべての宗派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には触れることのできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。神はこの段階まで働きを実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神が受肉して直接行った働きは、すでに彼の経営(救い)全体の働きの90%を完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。

   肉となった神の働きの各段階は、その時代全体の働きを代表するもので、人間の働きのように特定の期間を代表するものではない。だから、神の最後の受肉の働きの終わりは、神の働きが完了したということではない。受肉しての神の働きは、時代全体を代表するもので、神が人間として働いた期間だけを代表するものではないからだ。これは、神は受肉している期間に、その時代のすべての働きを終えるというだけで、そのあとは、その働きはあらゆるところに広まる。受肉した神はその任務を終えた後、将来の働きを神に従う人々に託す。このようにして、その時代全体の神の働きが途絶えることなく続けられる。受肉した時代全体の働きは、それが全宇宙に広まってはじめて完了したとみなされる。受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。この受肉した神は、人間の観念に合致しない段階の働きを行い、その後、神はさらに別の、人間の観念に合致しない働きをする。働きの目的は人間を征服することである。ある意味で、神の受肉は人間の観念に合致しない。さらに、神は人間の観念に合致しない働きをするので、人間は神についてますます批判的な意見をもつようになる。神はただ、神についてさまざまな観念を持っている人間の間で、人間を征服する仕事をする。人間がどのように神を扱おうと、神はその務めを果たし、人間はみな、神の支配下に入っていることだろう。この働きの事実は、中国人の間に反映されるだけではなく、すべての人間がいかに征服されるかをも表している。こうした人々になされた成果は、すべての人間になされる働きの成果を予め告げるものであり、神が将来行う働きの成果は、こうした人々に対する成果を上回るだろう。受肉した神の働きは鳴り物入りで宣伝されるようなものではないし、神秘の霧に包まれているものでもない。それは具体的な事実であって、一足す一が二である働きなのである。それはすべての人から隠されているものではなく、また、誰をも欺くものではない。人々が見るのは事実であり、現実的なものであって、人間が得るものは、本当の真理と認識である。働きが終わると、人間は神について新たな認識を得、真に神を求める者は、もはや神に関して何の観念ももたない。これは、神の働きの中国人に対する影響だけではなくて、人類全体を征服する神の働きの効果を表すものだ。人類全体を征服する働きにとって、この肉体、この肉体の働き、肉体のすべて以上役立つものはない。それらは今日の神の働きに有益で、将来の神の働きにも役立つ。この肉体はすべての人々を征服し、すべての人々を自分のものとする。人類全体が神を見、神に従い、神を知るためにこれより優れた働きはない。人間のする働きは単に限られた範囲のものであるが、神がその働きを行うときは、特定の人にだけ語りかけるのではなく、全人類、神の言葉を受け入れる者すべてに語りかけるのである。神の告げる終わりはすべての人間の終わりであって、特定の人だけの終わりではない。神は誰かを特別扱いしないし、誰かを不当に罰することもない。そして、神は人類全体のために働き、話しかける。だから、この受肉した神は、すでに全人類をその種類によって分け、すでにすべての人々を裁き、全人類に相応の終着点を定めている。神はその働きを中国でだけ行っているが、実際は、すでに全宇宙の働きを定めている。神は、言葉を発して計画を一歩一歩進める前に、自分の働きがすべての人間に広まるのを待つわけにはいかない。それでは遅すぎるのではないか。今、神は将来の働きを予め終えることが完全に可能だ。働いているのは受肉した神なのだから、無限の働きを限られた範囲で行い、その後で、人間がするべき務めを人間が果たすようする。これが、神の働きの方針である。神は一時的に人間とともに生活できるだけで、時代全部の働きが完了するまで人間と共にいることはできない。それは、神が予め自分の働きを予言する神だからである。後に、神は言葉によってすべての人類をその種類にしたがって分け、人類は言葉にしたがって、神の順を追った働きに入る。誰一人免れない。誰もがその通りに行わなければいけない。だから、将来、時代は言葉によって導かれるのであって、霊によって導かれるのではない。

   受肉した神の働きは、肉において行われなければいけない。もし霊が直接行ったとしても、それは何の成果も得られないだろう。たとえ霊が行ったとしても、その働きはこれといった意味をもたず、結局は説得力を欠くであろう。被造物はみな、創造主の働きが有意義なものであるかどうか、それは何を示すのか、それは何が目的なのか、神の働きは権威と知恵に満ちたものなのかどうか、また、それが最高の価値と意義のあるものなのかを知りたいと願う。神が行う働きはすべての人間の救いのためであり、サタンを打ち破るためであり、そして万物のもとで自身の証をするためである。だから、神の行う働きにはまことに重要な意味があるはずだ。人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救いの対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救いの対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救いの対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は単に人間である肉体なのではなく、人間と神の両方ある肉体なのだ。これは神と人間との違いであり、これが神の身分のしるしなのだ。このような肉体にだけ、神の意図する働きができ、肉における神の務めを果たし、人間たちの間での働きを完了できる。そうでなければ、神の人間たちの間での働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利者となることができても、それでは堕落した人間の古い本性はけっして直せないし、神に不服従で敵対する者たちは、けっして真に神の支配に服従することもできない。つまり、神はけっして人類を征服することができず、けっして人類全体を得られないということだ。神の地上での働きが完了しなければ、神の経営(救い)はけっして終わらず、全人類は安息に入ることができない。もし神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営(救い)の成果はなく、神の栄光はその結果消える。神の肉体には何の権威もないが、神の行う働きは成果を達成していることだろう。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神としての働きを遂行できるならば、それは神そのものだ。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。


真理を実践しない者に対する警告

2019-09-01 23:19:50 | いのちのパン

   否定的な部分を常に発散している兄弟姉妹は、サタンの僕であり、教会を乱す。そうした者は、いつか追放され、排除されなければならない。人間は、自分の中に神を崇める心、そして神に対して従順な心を持っていなかった場合、神のために働くことが出来ないだけでなく、その反対に神の業を阻害し、神に反抗する者となるであろう。神を信じる者が神に従う事も、神を崇めることも無く、神に反抗した場合、それは信者にとって最大の恥辱である。信者の言動が常に信者以外の者と同様に粗略で節操が無いものであるならば、その信者は、信者以外の者にも増して邪悪であり、典型的な悪魔である。教会に居て、毒々しい言葉を放ち、兄弟姉妹の間で噂を立て、混乱を助長し、派閥を組もうとする者は、教会から追放されなければならない。しかし、現在は神の業の異なる時代であり、排除の対象となる運命にあるので、そうした人々は既に制限されている。サタンにより腐敗させられた人間には、皆腐敗した性質がある。しかし、一部の者には腐敗した性質のみがあるのに対し、腐敗した性質だけでは無いものも居る。腐敗したサタンのような性質があるのみならず、本性もまた悪意を極めているのである。この種の人々の言動が全て腐敗したサタンのような性質を示すのみならず、そうした人々自身が真の邪悪なサタンである。そうした者の行動はすべて、神の業を阻害し、混乱させ、兄弟姉妹がいのちを享受するのを阻害し、教会における正常な生活を破壊する。こうした羊の皮を被った狼のような者は、遅かれ早かれ一掃されなければならず、こうしたサタンの僕に対しては、全く礼儀正しくない、見放す姿勢で臨む必要がある。神の味方となるには、そのように臨むことによるほか無く、そのように臨むことが出来ない者は、サタンと共謀している。常に神は神を真に信じる者の心にあり、そうした者の内部には、常に神を崇め愛する心がある。神を信じる者は、注意深く慎重な心持ちで行動し、自分の行動全てが神の要求に従い、神の心を満たすことが出来るものである必要がある。そうした者は、強情であってはならず、自分が望むままに行動してはならない。そうした事柄は聖なる礼節に不適である。人間は神の旗印を誇示して暴れ回ったり、威勢を張ったり、詐欺を働いたりしてはならない。そうした行いは最も反逆的な行為である。家族の間には規則があり、国には法があるのだから、神の家族には、どれほど厳格な基準があるだろうか。当然行政命令があるのではなかろうか。人間は、何でも望むままを行うことが出来るが、神の行政命令を思うままに変えることはできない。神は人々に自身を侵害させることを許さず、人間を死に至らしめる神であることを、本当にわきまえているだろうか。



   どの教会にも、教会を混乱させ、神の業を阻害する者が居る。こうした人々は、すべて神の家族に身を隠したサタンである。こうした者は特に演技力に優れ、自らの目的を果たすため、敬意を持ってわたしの前に来て頭を下げ、みすぼらしい犬のように振る舞い、「すべて」を献じているが、兄弟姉妹の前では醜悪な素性を露わにする。こうした者が真理を実践している人を見ると、攻撃して排除し、自分自身よりも手に負えない人を見ると、その人にお世辞を言って機嫌を取り、教会の中では暴君のように振る舞う。この種の「地域の下劣なへび」、あるいは「愛玩犬」は、殆どの教会の中に居ると言えるであろう。この種の者は集まってこそこそと歩き回り、ウインクや秘密の合図を送り合う。この種の者の中に真理を実践する者は皆無である。最も強い毒を持つ者が「悪魔の頭」であり、最も評判の高い者が他の者を従え、一味の旗を高く掲げる。この種の人々は教会内を荒らし回り、否定性を広め、死をもたらし、したい放題、言いたい放題に振る舞い、誰もそれを止める者は居らず、サタンの性質に満ちあふれている。この種の者が妨害し始めるとすぐに、教会内に死の空気が入る。教会内で真理を実践する者は見捨てられ、その者は潜在能力を発揮できない一方、教会を妨害し、死を広める者は、教会内で放縦に行動する。さらに、殆どの人々がこうした者に従う。こうした教会は、明らかにサタンの支配下にあり、そこでは悪魔が教会の王である。教会の人々が立ち上がってこうした悪魔の頭を追放しなかった場合、教会の人々もまた、遅かれ早かれ破滅するであろう。今後は、こうした教会への対策を実施する必要がある。多少の真理を実践できる者が追求していない場合、その教会は追放されるであろう。真理を実践することを望む者や、神の証しに立つことが出来る者が教会内に不在の場合、その教会は完全に追放される必要があり、その教会と他の教会との関係は断絶される必要がある。これを、死を葬り、サタンを追い払う、と呼ぶ。教会に、地域の下劣なへびのような者と、そのへびに従う、分別の無い小ばえのような者が居て、教会に居る者が、真理を理解してなお、そうしたへびのような者の呪縛と操作を駆逐できなかった場合、そうした愚か者は最終的に排除されるであろう。そうした小ばえのような者は、何ら劣悪な事をしていないかもしれないが、ことさら狡猾でずる賢く、そうした者も全て排除されるであろう。そうした者はひとり残らず消し去られるのだ。サタンに属す者はサタンへと戻されるが、神に従う者は間違い無く真理を探し求めるであろう。これは、そうした者の本性により決められる。サタンに従う者を全て滅ぼすことである。こうした者は決して憐れまれることが無いであろう。真理を探し求める者に糧を得させ、心ゆくまで神の言葉を堪能させることである。神は義であり、人間を不公平に扱うことは無い。あなたは、自分が悪魔であれば、真理を実践出来ないであろう。あなたが真理を探し求める者であれば、あなたがサタンの虜にならないことは確実であり、それについて全く疑う余地は無い。

   進歩を求めない者は、常に他の者が自分自身と同様に悲観的であり怠惰であることを望み、真理を実践しない者は、真理を実践する者に嫉妬する。真理を実践しない者は、常に混迷している者や分別が無い者を欺くことを求める。こうした者が放つ物事は、あなたを退化させ、引きずり落とし、異常を引き起こし、内面を闇で満たすおそれがあり、またあなたを神から遠ざけ、あなたに肉を愛させ、自らの欲望を満たすようにさせる。真理を愛さず、常にうわべだけで神に接する者は、己を知らず、そうした者の性質により、人々は誘惑されて罪を犯し、神に反抗する。こうした者は真理を実践せず、また他人が真理を実践することを許さない。こうした者は罪を愛し、自分自身を忌み嫌うことは全く無い。こうした者は己を知らず、また他人が己を知ることや、真理を求めることを阻む。こうした者が欺く人々は、光を見ることができずに闇に落ち、己を知らず、真理を明瞭に理解しておらず、神から遠ざかってゆく。こうした者は真理を実践せず、また他人が真理を実践することを阻み、愚かな人々を自らの前に来させる。こうした者は、神を信じるというよりも、自らの祖先を信じている、こうした者が信じているのは、自らの心の中の偶像である、と言った方が良い。神に付き従っていると言う者にとって、自らの目を開き、自分が信じているのが誰かを良く見るのが最善であろう。あなたが信じているのは、本当に神であるか、それともサタンであるか。あなたは、自分が信じているのが神ではなく、自分にとっての偶像であることを知っている場合、自分は信者であると述べずにいるのが最善であろう。あなたは、自分が誰を信じているのか知らないならば、同様に、自分は信者であるとは言わないのが最善であろう。そうであると言うのは、冒涜である。あなたに、神を信じることを無理強いしている者は居ない。わたしを信じている、という言葉は、とうの昔に聞き飽きており、二度と聞きたいとは思わないので、そうした言葉を言わないで欲しい。なぜなら、あなたがたが信じているのは、あなたがたの心の中の偶像であり、あなたがたの中にいる地域の下劣なへびだからである。真理を聞いた時に首を横に振り、死の言葉を聞いた時に満面の笑みを浮かべる者は、サタンの子孫であり、そうした者は全て排除対象となる。教会には識見の無い者が多数居て、何かしら偽りの出来事があると、そうした者はサタンに味方をする。こうした者は、自分がサタンの僕と呼ばれると、不当な扱いを受けたと感じる。こうした者は全く識見が無いと言う者もいるが、こうした者は常に真理の無い側に味方する。重要な時期に、こうした者が真理の味方をしたことや、真理のために立ち上がって議論をしたことは一度も無いが、こうした者は本当に識見が無いのであろうか。こうした者が常にサタンの味方をするのは、何故だろうか。何故、こうした者は真理について正当な言葉も合理的な言葉も決して述べないのだろうか。こうした状況は、本当に一時的な混乱から生まれるのだろうか。ある者の識見が少なければ少ないほど、その者が真理の味方をする能力も低くなる。それは何を示すであろうか。それは、識見の無い者が邪悪を愛していることを示して居るのではなかろうか。それは、識見の無い者がサタンの忠実な子孫であることを示して居るのではなかろうか。こうした者が常にサタンの味方をし、サタンと同じ言葉を述べることが出来るのは何故だろうか。こうした者のあらゆる行動、言動、表現は、こうした者が決して真理を愛する者ではなく、むしろ真理を忌み嫌う者であることを十分に示している。こうした者がサタンの味方をすることが出来ることは、こうしたサタンのために一生涯を通して戦う小悪魔をサタンが真に愛していることを十分に示している。こうした事実は、全て十分に明白ではなかろうか。あなたが本当に真理を愛する者であるならば、真理を実践する者を全く認めることが出来ず、真理を実践しない者が僅かに表情を変えた時、その者に直ちに従うのは、何故だろうか。これはどのような問題であろうか。わたしは、あなたに識見があるかどうかや、あなたがどれほど甚大な代償を払ったか、あなたの勢力がどれほど強いか、あなたが地域の卑劣なへびであるか、旗を掲げる主導者であるかを問題とはしない。あなたの勢力が強いのであれば、それは単にサタンの支援を得ているということであり、あなたが高位にあるのであれば、それは単にあなたの周囲に真理を実践しない者が多すぎるということであり、あなたがまだ排除されていないのであれば、それは今が追放の業の時ではなく、むしろ排除の業の時期だからである。今あなたを追放する喫緊性は無い。わたしは、単にあなたが排除された後の罰を与える日の到来を待つのみである。真理を実践しない者は、全て排除されるであろう。

   神を真に信じる者は、神の言葉を実践することを望み、真理を実践することを望む者である。本当に神の証しに立てる者は、神の言葉を実践する意志のある者でもあり、こうした者は本当に真理の味方となることが出来る者である。謀る者や不正を行う者は、すべて真理の無い者であり、そうした者は皆、神に恥辱をもたらす。教会に居る者のうち、論争する者はサタンの僕であり、サタンの化身である。こうした者は悪意が過ぎる。識見が無く、真理に味方出来ない者には、すべて邪悪な意図を抱き、真理を汚す。こうした者は、より典型的にサタンを代表する者であり、こうした者に贖いの業は及ばず、全員が間違い無く排除対象となる。真理を実践しない者も、意図的に教会を崩壊させる者も、神の家族として居残ることを許されてはならない。しかしわたしが追放の業を行うのは今ではない。こうした者は、単にあばかれ、最終的に排除されるのみである。こうした者には、これ以上無意味な業はなされない。サタンに属する者は真理に味方出来ない者であるが、真理を探し求める者は真理に味方出来る。真理を実践しない者は、真理の道を聞く価値も、真理の証しに立つ価値も無い者である。基本的に、真理はそうした者が聞くための物ではなく、むしろ真理を実践する者のために述べられる。教会を混乱させ、業を阻害する者は、各人の結末が明示される前に、まず片方によけられる。業が完了した後、こうした者は順番に暴き出されてから排除される。真理を与える時、こうした者はしばらく無視される。人間に対して全ての真理が明示された後、こうした者が排除される。なぜなら、その時は全ての人々が、その種類により分別される時でもあるからである。見識の無い者は、賢明さに劣っているがために、邪悪な者の手により滅ぼされ、惑わされて、戻ることが出来ない。こうした者を、そのように扱う必要があるのは、こうした者が真理を愛さず、真理の味方になることが出来ず、邪悪な者に付き従い、邪悪な者の味方となり、結託して神に反抗するからである。こうした人々は、邪悪な人々が邪悪さを放っていることを完全に知っているが、決心を固めてそうした邪悪な者に付き従い、真理と反対方向へと進む。こうした、真理を実行せず、しかし破壊的で忌まわしい行動を行う人々は、すべて邪悪ではなかろうか。そうした者の中には、自らを「王」のように装う者と、それに追随する者が居るが、両者の神に反逆する性質は全く同じではなかろうか。こうした者は、神は自分達を救わないと言うが、どうして弁解できようか。また、こうした者は、神は義ではないと言うが、どうして弁解できようか。こうした者を滅ぼすのは、自らの邪悪ではなかろうか。こうした者を地獄へ落とすのは、自らの反逆心ではなかろうか。真理を実践する者は、最終的に救われ、真理により完全にされるであろう。真理を実践しない者は、最終的に真理により滅びを得る。これらが、真理を実践するものと、実践しない者を待ち受ける最後である。真理を実践する予定ではない者に対し、それ以上罪を重ねないよう、出来るだけ早く教会を去るよう勧告する。さもなければ、後悔するのも手遅れとなる時が来るであろう。また特に教会内の徒党を組む者や分裂を招く者、地域の下劣なへびは、なおさら直ちに教会を去る必要がある。こうした邪悪な狼のような本性の者は、変わることが出来ないので、兄弟姉妹の正しい生活を二度と阻害することのないよう、そして神の罰を避けるため、出来るだけ早く教会を去った方がよい。こうした者と親しくしている人々は、その機会を活用して反省するのがよい。あなたがたは、邪悪な者に付き従って教会から去るであろうか、それとも教会に残り、従順に従うであろうか。このことを十分検討する必要がある。あなたがたに、もう一度選択の機会を与えよう。あなたがたの答えを待っている。

 

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千年神の国は訪れた

2019-08-30 08:37:50 | いのちのパン

   この一団に神が行おうとしている働きが何かを見ただろうか。千年神の国にあってもなお、人々は神の言葉に従い続けなければならず、将来も神の言葉はカナンの良き地で人々の生活を直接導くであろうと神は言った。モーセが荒野にいたとき、神は直接彼に指示を与え、語った。神は天から人々に食べ物と水とマナを送り与えた。今日も神は人々を楽しませるため自ら食べ物と飲み物を送り与え、人々を罰するため自ら呪いをかけてきた。このように、神の仕事のすべての段階は神によって自ら行われる。今日、人々は事が発生するのを待ち望み、しるしや奇跡を見ようとするが、そのような人々はすべて打ち捨てられる可能性がある。神の働きは益々現実となっているからである。神が天から降りてきたことを知る人は誰もおらず、神が天から食べ物や栄養となるものを与えてきたことに人々はまだ気づいていないが、神は実際に存在するのであり、人々が思い描く千年神の国の熱い場面にも、神が自ら言葉を発する。これは事実であり、これだけが神とともに地上において支配することである。地上における神との支配は肉を意味する。肉でないものは地上にはないので、第三の天に至ろうとする人々の努力は無駄になる。いつか全宇宙が神に戻るとき、全宇宙における神の働きの中心は神の発する言葉に従うだろう。他の場所では、ある人は電話で、ある人は飛行機に乗って、ある人は船で海を渡って、またある人はレーザーを使って、神の発する言葉を受け取るだろう。誰もがあこがれ、渇望し、神に近づき、神の前に集い、そして神を礼拝する。これらすべてが神の業なのである。覚えておきなさい。神がどこかよそで新しく始めることは決してない。神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。その時神の業は明らかにされ、神は栄光を受けるだろう。宇宙の至るところにいるすべての人々が、この目立つ訳でもない「人」を礼拝するだろう。これは神の栄光の日ではないだろうか。いつか、老牧師たちは生ける水の泉から、水を求めて電報を送ることだろう。彼らは年老いているが、彼らが軽蔑しているこの人に礼拝をしにやってくるだろう。彼らは口々に認め、心の中で信頼するだろう。これはしるしと不思議ではないだろうか。神の国全体が喜ぶ時は、神の栄光の日であり、あなたがたのもとに来て神のよい知らせを受ける者は皆神によって祝福され、これらの国々とこれらの民は神によって祝福され、顧みられるだろう。将来の方向性は次のようになる。神の口から言葉を得る者は、地上で歩むべき道を知っており、ビジネスマンや科学者であれ、あるいは教育者や実業家であれ、神の言葉のない人には、一歩進むことさえ難しく、彼らは真理の道を求めることを余儀なくされるだろう。「真理とともに世界中を歩む。真理なくしては、どこへも至ることができない。」とはこのことを言うのである。事実はこうである。神は道(つまり神の言葉全て)で全宇宙を支配し、人を治め征服する。人は常に、神が仕事を行う方法に大きな変化が起きることを望んでいる。率直に表現すれば、神が人を支配するのは言葉を通してであり、あなたは望むと望まざるとを問わず、神の言うこと[a]をしなければならない。これは客観的な事実であり、すべてのものはこれに従わなければならず、避けることのできない、全ての者に知られた事実である。

   聖霊は人々に感覚を与える。神の言葉を読んだ後、人々の心は揺るがず、安らかであり、一方で神の言葉を得ない人は虚しさを感じる。これは神の言葉の力である。人々はそれらを読まねばならない。読後には豊かになり、それなしにはいられなくなる。それはアヘンを摂取するようなものである。それは人々に力を与え、それなしではどうしようもなくなり、力を失う。これは今日の人々の傾向である。神の言葉を読むことは人々に力を与える。それらを読まなければ、物憂げになるが、読後は直ちに「病床」から立ち上がる。これが、神の言葉が地上で力をふるい、神が地上で支配するということである。一部の人は立ち去りたがるか、神の仕事にうんざりしている。それでも彼らが神の言葉から離れることはできない。人々がどれほど弱いものであっても、神の言葉に頼って生きなくてはならず、どんなに反抗的であっても、あえて神の言葉から離れようとはしない。神の言葉が真にその力を示すときは、神が支配し、権力を行使するときであり、このように神は働く。結局のところこれが、神が仕事を行う手段であり、誰もそれを離れることはできない。神の言葉は無数の家に広がり、すべてのものに知られるようになり、このようにしてのみ、神の仕事は全宇宙に広まる。つまり、神の仕事を全宇宙に広げるには、神の言葉が広められなければならない。神の栄光の日に、神の言葉はその力と権威を示すだろう。大昔から今日まで神が語ってきたすべての言葉が成就し、現実となるだろう。このようにして、栄光は地上で神のものとなる。つまり、神の言葉が地上で全てを支配するようになる。悪者はすべて神の口から語られる言葉によって罰せられ、義人はすべて神の口から語られる言葉によって祝福され、すべては神の口から語られる言葉によって確立され成就される。また、いかなるしるしや不思議も神は示さない。すべてが言葉によって成就され、言葉は事実を生み出すだろう。老若男女問わず、地上にいるすべての人は神の言葉を称え、神の言葉の下にすべての人々は服従する。神の言葉は肉に現れ、人々が地上でそれらを鮮明にかつ真実味を持って見るようにさせる。これが、言葉が肉になるということである。神は主に、「言葉が肉になる」という事実を成し遂げるために地上に来た。つまり神は、言葉が肉から発されるよう来たのである(神が直接天から語った旧約のモーセの時代とは異なる)。その後、千年神の国時代にはそれぞれの言葉が成就し、人々の目に見える事実になり、少しの誤りもなく、おのおのの目で見ることになるだろう。これが、神の受肉の最高の意味である。つまり霊の働きは、肉体を通し、言葉を通して達成される。これは「言葉が肉になる」および「言葉の肉における出現」の真の意味である。神だけが霊の意志を語ることができ、肉における神のみが霊に代わって語ることができる。神の言葉は受肉した神の中に明らかにされ、他のすべての人はそれらによって導かれる。誰もそこから外れることはなく、みなこの範囲内にいる。これらの言葉からのみ、人々は知ることができる。このようにして得ない者たちは、天から発せられた言葉を得られると夢みている。これが、受肉した神に示された権威であり、全ての人を信服させるのである。最も優れた専門家や牧師でさえ、これらの言葉を話すことはできない。彼らはこれらに従わねばならず、誰も新しく始めることはできない。神は言葉によって全宇宙を征服する。肉体によってではなく、受肉した神の口から発せられた言葉によって、全宇宙にいるすべての人を征服する。これこそ、言葉は肉となるということであり、これこそ、肉における言葉の出現である。人々には、神がさほど多くの仕事をなしていないように見えるかもしれないが、神が言葉を発するだけで、人々は完全に納得し、圧倒される。事実がなければ、人々は喚き散らし、神の言葉があれば、彼らは沈黙する。神はこの事を必ず成し遂げるだろう。地上への言葉の到来を達成することは、神の長年に亘る計画だからである。実際、わたしが説明する必要はない。地上に千年神の国が到来したということは、地上に神の言葉が到来したということである。天国から新しいエルサレムが降るのは神の言葉の到来であり、神の言葉が人の中で生き、人間の全ての行動や内なる考えの全てに伴うことである。これはまた、神が成し遂げる事実であり、千年神の国の素晴らしい光景である。これは神によって定められた計画である。言葉は千年の間地上に現れ、それらは神のすべての業を明らかにし、地上での神のすべての仕事を完了させ、それにより人類のこの段階は終わりを迎える。


 脚注

 a. 原文に「神の言うこと」という語句は含まれていない。

 

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「三位一体」の神に対する最新の認識ができた



神を知らない者はすべて神に反対する人々である

2019-08-29 22:19:34 | いのちのパン

   神の働きの目的と、人の中に達成されるべき成果、また、人に対する神の意志を把握すること。これこそが神に従う一人ひとりが達成しなければならないことである。今すべての人に欠けているのは、神の働きに関する認識である。人は、創世以来、神が人間において行う業、神のすべての働きおよび神の意志を正確には把握しておらず、理解もしていない。この理解不足は宗教界全体にみられるだけでなく、さらに神の信者全員に見られる。あなたが本当に神をよく見て、神の知恵を悟る日が来る時、またあなたが神のすべての業を見て、神が何であり何を持っているかを認識する時、そしてあなたが神の豊かさ、知恵、驚異、人における神のすべての働きをその目にする時、その時こそあなたは神への信仰をみごとに達成したといえるだろう。神はすべてを包みこんでおり、非常に豊かであると言われるとき、すべてを包みこんでいるということは何を意味するのか。また、豊かさとは何を意味するのか。このことを理解しなければ、あなたは神の信者とはみなされない。なぜわたしは、宗教界の人々は神の存在を信じず、悪を為す者たちで、悪魔と同じ種類に属すると言うのだろうか。彼らが悪を為す者たちだとわたしが言うのは、彼らが神の意志を理解せず、神の知恵が分からないからだ。神が、彼らに神の業を明らかにするようなことは決してない。彼らは神の行為が見えない盲人である。彼らは神に見捨てられた者たちで、彼らには神の配慮や守りはまったくなく、ましてや聖霊の働きを有することなどは絶対にない。神の働きを持たない人々は悪を為す者たちで、神に対立する者たちだ。わたしが言う、神に対立する者たちとは、神を知らない人々、神を口先だけで認めはするが、神のことを知っていない人々、神の後についていくが神に服従しない人々、神の恵みを享受するが、神の証し人として立つことのできない人々のことである。神の働きの目的と神の人の内における働きを理解しなければ、人は神の心と一致することはできないし、神の証し人として立つこともできない。人が神に逆らう理由は、一方では、人の堕落した性質に起因しており、もう一方では神を知らないこと、神の働きの原則や人に対する神の意志についての理解に欠けることが原因である。これらの二つの要因が人間の神への反抗の歴史を成している。信仰の初心者が神に反抗するのは、彼らの本性の中にそのような反感があるからである。一方、長年信仰を持つ者たちが神に反抗するのは、彼らの堕落した性質に加えて、神を知らないことから生じる結果である。神が肉となる前の時代では、人が神に反抗しているかどうかという基準は、天の神によって定められた法令をその人が守っているかどうかであった。たとえば、律法の時代においては、ヤーウェの律法を守らない者は誰でも神に反抗する者であった。ヤーウェへの貢ぎ物を盗む者、また、ヤーウェの心にかなった人々に敵対する者は誰でも神に反抗する者で、石打の刑に処される人々であった。自分の父や母を尊敬しない者、また、他人を殴ったり、罵倒したりする者は誰でも律法を守らない者とされた。そしてヤーウェの律法を守らない者たちはみな神に敵対する人々であった。恵みの時代になるとそうではなく、イエスに敵対する者が誰でも神に敵対する者であり、イエスが語った言葉に従わない者が誰でも神に敵対する者であった。この時代、神への反抗を規定することは一層明確に定義され、より現実的になった。神がまだ肉とならなかった時代では、人が神に反抗しているかどうかの基準は、人が、目で見ることのできない天の神を礼拝し、崇敬するかどうかに基づいていた。その頃、神への反抗の定義はあまり現実的ではなかった。当時、人は神を見ることができなかったし、神の姿も、神がどのように働き、話すかも知らなかったからである。人には神の観念はまったくなく、神は人の前に現れたことがなかったので、ぼんやりと神の存在を信じるだけであった。したがって、人が想像の中でどのように神の存在を信じようとも、神は人を罪に定めたり、人から多くを求めたりはしなかった。人は神を見ることがまったくできなかったからである。神が肉となり、人々の間で働くようになると、すべての人がその目で神を見、神の言葉を聞き、すべての人が肉にある神の業を見るのだ。その時、人のすべての観念は溶けて泡となる。神が肉として現れるのを見る人々についていえば、従順さを心に持つ者は皆罪に定められることがないが、意図的に神に敵対する者たちは神の敵とみなされる。このような人間は反キリストで、故意に神に対立する敵である。神に関する観念しか持っていないが、それでも喜んで神に従う人々は罪に定められることはない。神が人を罪に定めるのはその意図と行動に基づいてであって、その人の考えや意見を理由にすることは決してない。そのような根拠で罪に定められるのなら、神の怒りの手から逃れられる者は誰もいないだろう。肉となった神に意図的に敵対する者たちは不従順を理由に罰せられる。彼らの神に対する意図的な反抗は神に関する彼らの観念が原因であり、それは神の働きを混乱させる結果を生む。そのような人々は承知の上で神の働きに抵抗し、それを破壊する。彼らは単に神に関する観念を持っているだけでなく、神の働きを阻害する行動をとる。それ故このような人々は罪に定められることになる。神の働きを故意に阻害することに関わらない者たちは罪に定められることはない。何故なら彼らは進んで従うことができ、阻害や混乱は引き起こさないからである。そのような人々は罪に定められることはない。しかし、神の働きを長年経験しているのに、神について自分の観念をまだ心に抱いており、肉となった神の働きを知ることができないままでいるならば、また、長年の経験にも関わらず、神に関する多くの観念にすがり続け、なおも神を知ることができないならば、たとえ彼らが心に抱いている多くの観念によって何の問題も起こさず、そうした観念が表面に現れてこなくても、そのような人々は神の働きのためには何の役にも立たない。彼らは福音を述べ伝えることも神の証し人として立つこともできない。このような人々は役立たずの間抜けである。彼らは神を知らず、神に関する自分の観念を捨て去ることができないので、罪に定められる。また次のようにも言うことができる。信仰の初心者において未熟な者が神の観念を持ったり、神について何も知らなかったりすることは珍しいことではないが、長年信じていて、神の働きを充分に体験してきた人々がそのような観念を抱くことは異常であり、そのような人々が神について何の認識も持っていないなら、それはなおさら異常である。そのような人々が罪に定められるのはそうした異常な状態の結果である。そのような異常な人々は役立たずである。彼らは神にもっとも反抗する者たち、神の恵みを虚しく享受してきた者たちである。そのような人々はみな最終的には取り除かれてしまうことになる。



   神の働きの目的を理解しない者は誰でも神に敵対する人々であり、神の働きの目的が分かっているのに神を満足させようとしない人々はなおさら敵対する。荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。神の前で自分自身を称える人々はもっとも卑しい人間で、一方謙っている人々はもっとも高潔である。神の働きを自分たちは知っていると考え、目を神に注ぎながら、他の人々に神の働きを意気揚々と宣言する。これらの人々は最も無知な人々である。このような人々は神の証しのない人々で、傲慢でうぬぼれている。神についての実際の経験と実践的な認識があるにもかかわらず、自分には神についての認識がほとんどないと信じている人々は、神に最も愛されている人々である。本当に証しを持ち、本当に神によって完全にされるのは、このような人々である。神の意志を理解しない人々は神の敵対者である。神の意志を理解するが、真理を実行しない人々は神の敵対者である。神の言葉を飲食するが、なおも神の言葉の本質に逆らう人々は神の敵対者である。受肉した神の観念を持ち、故意に反抗する人々は神の敵対者である。神を裁く人々は神の敵対者である。神を知ることができず、神を証しすることができない者は誰でも神の敵対者である。それゆえ、わたしの忠告を聞きなさい。あなたがたが本当にこの道を歩む信念を持っているなら、その道をたどり続けなさい。神に敵対するのをやめることができないなら、手遅れにならないうちに立ち去るのが一番良い。そうでなければ、良くなるどころかかえって先が思いやられるだろう。なぜならあなたがたの本性はあまりにも堕落しているからである。あなたがたは、微塵ほどの忠誠心や服従心も、義や真理を渇望する心も持っていない。神に対する愛もほんの少しも持ち合わせていない。神を前にしたあなたがたの状態はまったくひどい有様である。あなたがたは守るべきものを守ることができず、言うべきことが言えない。実行すべきことが実行できず、果たすべき役割を果たすことができない。持つべき忠誠心、良心、服従心、あるいは決意を持っていない。耐えるべき苦しみに耐えておらず、持つべき信仰を持っていない。あなたがたはいかなる長所にも全く欠けている。あなたがたは生存していくための自尊心をもっているだろうか。あなたがたは目を閉じて永遠の眠りについた方がまだましだと、わたしは言わざるを得ない。そうすれば神はあなたがたのために心配したり、苦しみに耐えたりする必要はなくなる。あなたがたは神の存在を信じているが、神の意志を知らない。あなたがたは神の言葉を飲食するが、神の要求に応じることができない。あなたがたは神を信じているが、神を知らない。そして追い求める目的もなしに生きている。あなたがたは何の価値も目的も持っていない。あなたがたは人として生きているが、何の良心も、品位も、わずかな信頼性も持たない。どうしてあなたがたを人とみなすことができようか。あなたがたは神を信じているのに神をだます。そのうえ、あなたがたは神の金を奪い、神の捧げものから食べるが、結局、神の感情への配慮や神への良心はまったく示さない。最も些細な神の要求にさえ応じることができない。そんなあなたがたをどうして人とみなすことができようか。あなたがたが食する食べ物、呼吸する空気は神から来ており、あなたがたは神の恵みを享受しているのに、結局は、神についてほんの僅かの認識さえ持っていない。それどころか、あなたがたは神に敵対するろくでなしになってしまった。それでは、あなたがたは犬同然の獣ではないのだろうか。動物の中であなたがたよりたちの悪い動物はいるだろうか。

   高い説教壇に立ち、人を教えている牧師や長老たちは神の敵対者であり、サタンと同盟している。しかし、高い説教壇に立って、人を教えていないあなたがたは、神に対するいっそうひどい敵対者ではないだろうか。そのうえ、あなたがたはサタンと結託していないだろうか。神の働きの目的を理解しない者たちは神の心とどうしたら一致できるかわからない。神の働きの目的を理解している者たちに、そんなことがあり得ようか。神の働きは決して誤ることがない。むしろ、欠陥があるのは人間による追求の方である。故意に神に反抗するそのような堕落した者たちは牧師や長老よりも下劣で悪質ではないだろうか。神に敵対する者たちは大勢いるが、それらの多くの人々の間には神に対するさまざまな種類の反対が存在する。あらゆる種類の信者がいるように、神に反抗する者たちも様々であり、似通った者はいない。神の働きの目的をはっきり認識しない人々は一人として救われない。人が過去にどのように神に敵対していたかに関わらず、神の働きの目的を理解するようになり、神を満足させるために努力を尽くす時、その人の以前の罪は神によってきれいに拭い去られる。人が真理を探し求め、真理を実行する限り、神はその人がしてきたことには留意しない。むしろ、その人が真理を実行する故に神はその人を義と認める。これが神の義である。人が神を見る前、あるいは神の働きを経験する前なら、神に対してどのようにふるまうかに関わらず、神はそれに留意しない。しかし、人がいったん神を見て、神の働きを経験したのなら、人の行動や行為は神によって「年代記」に書き留められる。なぜなら人は神を見て、神の働きの中で生きているからである。

   人が神の持っているものや神であるものを見、神の至高の支配権を本当に見て、本当に神の働きを知るようになったら、さらにはその人のかつての性質が変化したら、人は神に敵対する反抗的な性質を完全に捨て去ったことになるだろう。どんな人間でも一度は神に敵対し、反抗したことがあると言える。しかし、あなたが肉となった神に従う心を持ち、その時以来忠誠心を持って神の心を満足させ、なすべき真理を実行し、なすべきように本分を遂行し、守るべき規則を守るならば、その時こそあなたは、自ら進んでその反抗心を捨て去り神を満足させる者、また神によって完全にされる者となる。自分の過ちを自覚することを拒み、悔い改めの心を持たなければ、また反抗的なやり方に固執し、神とともに働き、神を満足させる心を全く持たなければ、あなたのような頑固な愚か者はかならず罰せられ、神によって完成されることは決してない。そうならば、あなたは今日も明日も神の敵であり、またその次の日も神の敵であり続けるだろう。あなたは永久に神に敵対する者、神の敵である。そんなあなたを神が大目に見たりできようか。神に反抗するのは人間の本性であるが、人が自分の本性を変えることは、到底克服することのできない課題であるため、人は故意に神に反抗する「秘訣」を探し出すことはできない。もしそうだとしたら、あなたは、あなたの将来の罰がもっと厳しくならないうちに、また、あなたの肉の体が最終的に神によって滅ぼされる時までに、あなたの野蛮な性質が露わになりその抑制が効かなくならないように、早めに立ち去る方がよい。あなたは祝福されるために神を信じている。しかし、最終的に不幸だけがあなたに降りかかるのであれば、それは何の意味もないだろう。わたしはあなたがたに別の計画を立てるのが一番良いと忠告する。他にどんなことをしたとしても、神を信じることよりましだろう。この道でなくとも、きっと別の道があるはずではないのか。あなたがたは、真理を探し求めないまま今までと同じように生き続けるではないのか。なぜこのように神と対立して生きるのか。


神を知らない者はすべて神に反対する人々である

2019-08-28 08:10:50 | いのちのパン

   神の働きの目的と、人の中に達成されるべき成果、また、人に対する神の意志を把握すること。これこそが神に従う一人ひとりが達成しなければならないことである。今すべての人に欠けているのは、神の働きに関する認識である。人は、創世以来、神が人間において行う業、神のすべての働きおよび神の意志を正確には把握しておらず、理解もしていない。この理解不足は宗教界全体にみられるだけでなく、さらに神の信者全員に見られる。あなたが本当に神をよく見て、神の知恵を悟る日が来る時、またあなたが神のすべての業を見て、神が何であり何を持っているかを認識する時、そしてあなたが神の豊かさ、知恵、驚異、人における神のすべての働きをその目にする時、その時こそあなたは神への信仰をみごとに達成したといえるだろう。神はすべてを包みこんでおり、非常に豊かであると言われるとき、すべてを包みこんでいるということは何を意味するのか。また、豊かさとは何を意味するのか。このことを理解しなければ、あなたは神の信者とはみなされない。なぜわたしは、宗教界の人々は神の存在を信じず、悪を為す者たちで、悪魔と同じ種類に属すると言うのだろうか。彼らが悪を為す者たちだとわたしが言うのは、彼らが神の意志を理解せず、神の知恵が分からないからだ。神が、彼らに神の業を明らかにするようなことは決してない。彼らは神の行為が見えない盲人である。彼らは神に見捨てられた者たちで、彼らには神の配慮や守りはまったくなく、ましてや聖霊の働きを有することなどは絶対にない。神の働きを持たない人々は悪を為す者たちで、神に対立する者たちだ。わたしが言う、神に対立する者たちとは、神を知らない人々、神を口先だけで認めはするが、神のことを知っていない人々、神の後についていくが神に服従しない人々、神の恵みを享受するが、神の証し人として立つことのできない人々のことである。神の働きの目的と神の人の内における働きを理解しなければ、人は神の心と一致することはできないし、神の証し人として立つこともできない。人が神に逆らう理由は、一方では、人の堕落した性質に起因しており、もう一方では神を知らないこと、神の働きの原則や人に対する神の意志についての理解に欠けることが原因である。これらの二つの要因が人間の神への反抗の歴史を成している。信仰の初心者が神に反抗するのは、彼らの本性の中にそのような反感があるからである。一方、長年信仰を持つ者たちが神に反抗するのは、彼らの堕落した性質に加えて、神を知らないことから生じる結果である。神が肉となる前の時代では、人が神に反抗しているかどうかという基準は、天の神によって定められた法令をその人が守っているかどうかであった。たとえば、律法の時代においては、ヤーウェの律法を守らない者は誰でも神に反抗する者であった。ヤーウェへの貢ぎ物を盗む者、また、ヤーウェの心にかなった人々に敵対する者は誰でも神に反抗する者で、石打の刑に処される人々であった。自分の父や母を尊敬しない者、また、他人を殴ったり、罵倒したりする者は誰でも律法を守らない者とされた。そしてヤーウェの律法を守らない者たちはみな神に敵対する人々であった。恵みの時代になるとそうではなく、イエスに敵対する者が誰でも神に敵対する者であり、イエスが語った言葉に従わない者が誰でも神に敵対する者であった。この時代、神への反抗を規定することは一層明確に定義され、より現実的になった。神がまだ肉とならなかった時代では、人が神に反抗しているかどうかの基準は、人が、目で見ることのできない天の神を礼拝し、崇敬するかどうかに基づいていた。その頃、神への反抗の定義はあまり現実的ではなかった。当時、人は神を見ることができなかったし、神の姿も、神がどのように働き、話すかも知らなかったからである。人には神の観念はまったくなく、神は人の前に現れたことがなかったので、ぼんやりと神の存在を信じるだけであった。したがって、人が想像の中でどのように神の存在を信じようとも、神は人を罪に定めたり、人から多くを求めたりはしなかった。人は神を見ることがまったくできなかったからである。神が肉となり、人々の間で働くようになると、すべての人がその目で神を見、神の言葉を聞き、すべての人が肉にある神の業を見るのだ。その時、人のすべての観念は溶けて泡となる。神が肉として現れるのを見る人々についていえば、従順さを心に持つ者は皆罪に定められることがないが、意図的に神に敵対する者たちは神の敵とみなされる。このような人間は反キリストで、故意に神に対立する敵である。神に関する観念しか持っていないが、それでも喜んで神に従う人々は罪に定められることはない。神が人を罪に定めるのはその意図と行動に基づいてであって、その人の考えや意見を理由にすることは決してない。そのような根拠で罪に定められるのなら、神の怒りの手から逃れられる者は誰もいないだろう。肉となった神に意図的に敵対する者たちは不従順を理由に罰せられる。彼らの神に対する意図的な反抗は神に関する彼らの観念が原因であり、それは神の働きを混乱させる結果を生む。そのような人々は承知の上で神の働きに抵抗し、それを破壊する。彼らは単に神に関する観念を持っているだけでなく、神の働きを阻害する行動をとる。それ故このような人々は罪に定められることになる。神の働きを故意に阻害することに関わらない者たちは罪に定められることはない。何故なら彼らは進んで従うことができ、阻害や混乱は引き起こさないからである。そのような人々は罪に定められることはない。しかし、神の働きを長年経験しているのに、神について自分の観念をまだ心に抱いており、肉となった神の働きを知ることができないままでいるならば、また、長年の経験にも関わらず、神に関する多くの観念にすがり続け、なおも神を知ることができないならば、たとえ彼らが心に抱いている多くの観念によって何の問題も起こさず、そうした観念が表面に現れてこなくても、そのような人々は神の働きのためには何の役にも立たない。彼らは福音を述べ伝えることも神の証し人として立つこともできない。このような人々は役立たずの間抜けである。彼らは神を知らず、神に関する自分の観念を捨て去ることができないので、罪に定められる。また次のようにも言うことができる。信仰の初心者において未熟な者が神の観念を持ったり、神について何も知らなかったりすることは珍しいことではないが、長年信じていて、神の働きを充分に体験してきた人々がそのような観念を抱くことは異常であり、そのような人々が神について何の認識も持っていないなら、それはなおさら異常である。そのような人々が罪に定められるのはそうした異常な状態の結果である。そのような異常な人々は役立たずである。彼らは神にもっとも反抗する者たち、神の恵みを虚しく享受してきた者たちである。そのような人々はみな最終的には取り除かれてしまうことになる。



   神の働きの目的を理解しない者は誰でも神に敵対する人々であり、神の働きの目的が分かっているのに神を満足させようとしない人々はなおさら敵対する。荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊のかしら、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。神の前で自分自身を称える人々はもっとも卑しい人間で、一方謙っている人々はもっとも高潔である。神の働きを自分たちは知っていると考え、目を神に注ぎながら、他の人々に神の働きを意気揚々と宣言する。これらの人々は最も無知な人々である。このような人々は神の証しのない人々で、傲慢でうぬぼれている。神についての実際の経験と実践的な認識があるにもかかわらず、自分には神についての認識がほとんどないと信じている人々は、神に最も愛されている人々である。本当に証しを持ち、本当に神によって完全にされるのは、このような人々である。神の意志を理解しない人々は神の敵対者である。神の意志を理解するが、真理を実行しない人々は神の敵対者である。神の言葉を飲食するが、なおも神の言葉の本質に逆らう人々は神の敵対者である。受肉した神の観念を持ち、故意に反抗する人々は神の敵対者である。神を裁く人々は神の敵対者である。神を知ることができず、神を証しすることができない者は誰でも神の敵対者である。それゆえ、わたしの忠告を聞きなさい。あなたがたが本当にこの道を歩む信念を持っているなら、その道をたどり続けなさい。神に敵対するのをやめることができないなら、手遅れにならないうちに立ち去るのが一番良い。そうでなければ、良くなるどころかかえって先が思いやられるだろう。なぜならあなたがたの本性はあまりにも堕落しているからである。あなたがたは、微塵ほどの忠誠心や服従心も、義や真理を渇望する心も持っていない。神に対する愛もほんの少しも持ち合わせていない。神を前にしたあなたがたの状態はまったくひどい有様である。あなたがたは守るべきものを守ることができず、言うべきことが言えない。実行すべきことが実行できず、果たすべき役割を果たすことができない。持つべき忠誠心、良心、服従心、あるいは決意を持っていない。耐えるべき苦しみに耐えておらず、持つべき信仰を持っていない。あなたがたはいかなる長所にも全く欠けている。あなたがたは生存していくための自尊心をもっているだろうか。あなたがたは目を閉じて永遠の眠りについた方がまだましだと、わたしは言わざるを得ない。そうすれば神はあなたがたのために心配したり、苦しみに耐えたりする必要はなくなる。あなたがたは神の存在を信じているが、神の意志を知らない。あなたがたは神の言葉を飲食するが、神の要求に応じることができない。あなたがたは神を信じているが、神を知らない。そして追い求める目的もなしに生きている。あなたがたは何の価値も目的も持っていない。あなたがたは人として生きているが、何の良心も、品位も、わずかな信頼性も持たない。どうしてあなたがたを人とみなすことができようか。あなたがたは神を信じているのに神をだます。そのうえ、あなたがたは神の金を奪い、神の捧げものから食べるが、結局、神の感情への配慮や神への良心はまったく示さない。最も些細な神の要求にさえ応じることができない。そんなあなたがたをどうして人とみなすことができようか。あなたがたが食する食べ物、呼吸する空気は神から来ており、あなたがたは神の恵みを享受しているのに、結局は、神についてほんの僅かの認識さえ持っていない。それどころか、あなたがたは神に敵対するろくでなしになってしまった。それでは、あなたがたは犬同然の獣ではないのだろうか。動物の中であなたがたよりたちの悪い動物はいるだろうか。

   高い説教壇に立ち、人を教えている牧師や長老たちは神の敵対者であり、サタンと同盟している。しかし、高い説教壇に立って、人を教えていないあなたがたは、神に対するいっそうひどい敵対者ではないだろうか。そのうえ、あなたがたはサタンと結託していないだろうか。神の働きの目的を理解しない者たちは神の心とどうしたら一致できるかわからない。神の働きの目的を理解している者たちに、そんなことがあり得ようか。神の働きは決して誤ることがない。むしろ、欠陥があるのは人間による追求の方である。故意に神に反抗するそのような堕落した者たちは牧師や長老よりも下劣で悪質ではないだろうか。神に敵対する者たちは大勢いるが、それらの多くの人々の間には神に対するさまざまな種類の反対が存在する。あらゆる種類の信者がいるように、神に反抗する者たちも様々であり、似通った者はいない。神の働きの目的をはっきり認識しない人々は一人として救われない。人が過去にどのように神に敵対していたかに関わらず、神の働きの目的を理解するようになり、神を満足させるために努力を尽くす時、その人の以前の罪は神によってきれいに拭い去られる。人が真理を探し求め、真理を実行する限り、神はその人がしてきたことには留意しない。むしろ、その人が真理を実行する故に神はその人を義と認める。これが神の義である。人が神を見る前、あるいは神の働きを経験する前なら、神に対してどのようにふるまうかに関わらず、神はそれに留意しない。しかし、人がいったん神を見て、神の働きを経験したのなら、人の行動や行為は神によって「年代記」に書き留められる。なぜなら人は神を見て、神の働きの中で生きているからである。

   人が神の持っているものや神であるものを見、神の至高の支配権を本当に見て、本当に神の働きを知るようになったら、さらにはその人のかつての性質が変化したら、人は神に敵対する反抗的な性質を完全に捨て去ったことになるだろう。どんな人間でも一度は神に敵対し、反抗したことがあると言える。しかし、あなたが肉となった神に従う心を持ち、その時以来忠誠心を持って神の心を満足させ、なすべき真理を実行し、なすべきように本分を遂行し、守るべき規則を守るならば、その時こそあなたは、自ら進んでその反抗心を捨て去り神を満足させる者、また神によって完全にされる者となる。自分の過ちを自覚することを拒み、悔い改めの心を持たなければ、また反抗的なやり方に固執し、神とともに働き、神を満足させる心を全く持たなければ、あなたのような頑固な愚か者はかならず罰せられ、神によって完成されることは決してない。そうならば、あなたは今日も明日も神の敵であり、またその次の日も神の敵であり続けるだろう。あなたは永久に神に敵対する者、神の敵である。そんなあなたを神が大目に見たりできようか。神に反抗するのは人間の本性であるが、人が自分の本性を変えることは、到底克服することのできない課題であるため、人は故意に神に反抗する「秘訣」を探し出すことはできない。もしそうだとしたら、あなたは、あなたの将来の罰がもっと厳しくならないうちに、また、あなたの肉の体が最終的に神によって滅ぼされる時までに、あなたの野蛮な性質が露わになりその抑制が効かなくならないように、早めに立ち去る方がよい。あなたは祝福されるために神を信じている。しかし、最終的に不幸だけがあなたに降りかかるのであれば、それは何の意味もないだろう。わたしはあなたがたに別の計画を立てるのが一番良いと忠告する。他にどんなことをしたとしても、神を信じることよりましだろう。この道でなくとも、きっと別の道があるはずではないのか。あなたがたは、真理を探し求めないまま今までと同じように生き続けるではないのか。なぜこのように神と対立して生きるのか。