賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

9歳のキリスト教徒はあやまって井戸に落ちた後、どのようにして生き延びたのでしょう?

2019-06-06 21:18:53 | 癒やしと恵みの証し

   私は幼かった頃、母を模範として主を信仰しました。これ故に、私は主の御加護の下で育った子供でした。聖書に書かれている:「あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。」(詩篇91:9-12)。という言葉を目にする度に、私は子供の頃に井戸に落ちた後、主に救っていただいた時のことを思いだします⋯

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   私が9歳だった時、雨が降ったばかりのある秋の夜、私は野菜を摘みに一人で野菜畑まで行きました。野菜畑は離れた所にありました。暗闇が怖かった私は暗くなる前に戻りたいと思っていました。こうして、私は雨靴を履いて細くぬかるんだ小道を足早に歩きました⋯

   私は歩いていた時に突然何かを踏みつけてしまい、それは柔らかくてまだ動いているように感じました。それがヘビであったのを見た私は叫び声を上げて駆け出しました。しかし、道はとても滑りやすくなっていたので、私は全く走ることができず、野菜畑に向って早歩きをすることしかできませんでした。しかし、私はその入り口に着いた時、足を滑らして、思いがけず井戸に落ちてしまったのです。

   井戸の中の水は深さが2メートル以上もありました。私は井戸に落ちたとたんに底まで沈み、水が続けて口の中に入り込んできました。私は泳げなかったので、水の底でもがきました。私はとても無力に感じてこう思いました:「回りには誰もいない。私は今日井戸で溺れてしまうのか。」

   その時、私は力強い主イエス様のことを思い出しました。私を救えるのは主のみだと思いました。従って、私は主に助けを請い続けました。突然、私はもう口を開けていられないことに気が付きました。口を開けていたら私は水で窒息してしまうところだったのです。私は慌てて唇をしっかりと固めて息を止めました。それと同時に、私は水から抜け出そうと必至になって井戸の壁にある石につかまろうとしました。しかし、コケで覆われていた石はとても滑りやすかったのでつかまることができませんでした。それに加えて、水は波を打っていたので、私の体は左右に揺さぶられ、石につかまるのは更に困難でした。その後、私は何とかして石につかまり、そして上に這いあがろうとしましたが、滑ってしまい又しても井戸の底へと沈んでしまいました。この瞬間、私は更に怖くなり、もう息を止めていられなかったので水がどんどん口に中に入り込み、窒息してしまうかと思うほど息をするのが困難になりました。

   しかし、私は井戸の中で生き延びることを諦めませんでした。よって、私はさらにはやる思いで主に助けを求め、もっと力をくださるようお願いしました。私は祈りを捧げた後、また自信がつきました。そして、私は息を止め、もう一度壁の石をつかみ、上に登り続けました。しかし、石にはコケがつき過ぎており、私は石につかまっていないとまた井戸の底まで沈んでしまうことを恐れたので、必至になって横にあった石に足をかけようとしました。突然、私はしっかりとした石の上に乗り上がることができました。そして、私は石に足をかけて井戸の壁に沿りながら上に登っていきました。

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   私はやっと一瞬だけ水からはい上がることができましたが、その時は既に暗くなっていました。息を長い間止めていたせいで、私は息を切らしてあえぎ、お腹の中は水でいっぱいで、体はぐったりしている感じがしました。私は高い所にある井戸の開口部と下にある冷たい水を見ていると、その瞬間、登っている最中に力尽きたり、コケの付いた石を掴んだりして水に滑り落ちてしまうのではないかと本当に怖くなりました。これを何度も繰り返していたら、私は力を使い果たして溺れてしまうでしょう。この瞬間、私は主イエス様のみが自分を救うことができると分かっていたので、井戸の開口部まで這いあがるために、もっと信念と力を与えてくださるようもう一度主に助けを求めました。

   そして、私は少し休憩しました。少し力が回復した後、私はまた登り始めました。しかし、もう夜遅かったので井戸の中は暗くなっていました。このため、私は石がどこにあるのかがよく見えませんでした。こうして、私は足を乗せられる石を見つけようと、蹴ったりしながらゆっくりと登っていきました。私は主に助けを求めながら慎重に足を乗せていきました。

   ついに、私は主の優しさと御加護の下で井戸の縁まで到着し、精一杯の力で自分を地面に引き上げました。水でびしょ濡れだった私は壁の側に座ってゆっくりと元気を回復させました。私は回りを見渡してみました。そこは真っ暗で誰もいませんでした。秋風が吹いていたので、私は寒く感じました。しかし、私は心の中は全く怖くありませんでした。むしろ、私は主イエス様が側にいておられると心の中ではっきりと分かっていたので、とても穏やかな気分がしていました。私は主の優しさと御加護のおかげで脱出に成功したのです。私は主に救ってくださったことを感謝しました。私が井戸の底から安全に登り出ることができたのは、紛れもなく主からいただいた信念と耐久力のおかげだったのです。

   私はこの体験を思い起こしました:井戸に落下した後、私は死の瀬戸際では主のみが唯一の頼みの綱であることを体験しました。これについて聖書にはこう記されています:「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」(詩篇18:2)。 救い主であられる主イエス様がお与え下さった救いの恵みに感謝します!私は主の優しさと御加護のおかげで無事に切り抜けることができました。全ての栄光、主にあれ!

 


素晴らしい救い-危険かつ恐ろしい火災の中で受けた神の驚くべき御加護

2019-06-05 21:46:21 | 癒やしと恵みの証し

   2008年5月のある日、1つの小さな火の粉が激しい火災を引き起こし、私は未だにその驚きと精神的ショックから立ち直れていません。しかし、私はこの火災のおかげで、全能神の驚くべき御業を実際に目撃することができたのです。その記憶は未だ新鮮に残っています。

   あの日、私は昼食を取った後すぐ、いつもの様に神の御言葉を読み始めました。ちょうど読み始めた時でした、外で消防車のサイレンが鳴っているのが聞こえたのです。サイレンの音で心配になった私は急いで窓の外を見ました。私の自宅から200メートル離れた所にある家々からもうもうとした大きな煙がうねり出て、炎が家よりも高く舞い上がっているのが見えました。私は弱気になり、力が抜けてこう思いました:「なんとまあ!何て大きな火事なの。あんなに近いから今にも火が私の家に移ってしまうわ。」私は心の中で神に祈り続けました、「ああ、神様!大きな火事が発生して私の家の方に向っています。私はどうしたら良いのでしょう?」私は祈りを捧げながら聖書をベッドの上に置きました。そして、私は庭へと急ぎました。私は消防車が何台も来ており、沢山の消防員たちが炎に水をかけている様子が見えました。しかし、炎は消えるどころか増々高く舞い上がって行きました。あの日は少なくても5級から6級の強風が吹いており、私たちは家屋のつながった農家で暮らしていました。そして突然、火の粉が空中で渦を巻き、火の粉が落ちた所に火がつつきました。炎は勢いを増しながら燃えました。すぐに、前列の家屋が相次いで崩壊していきました。風は音を立て、火の粉は風に吹かれ、あちこちに落ちました。路上の騒音はとても大きくなり、人々は皆パニックになりました。すると誰かがこう叫びました、「消防車がたくさん来ているのに、それでも炎を抑えることができない。この火事は何て恐ろしいんだ!」

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   その時、風は北西に向って吹いていました。大きくうねる煙と共に、炎は勢いを増しながら燃え、私の家に襲い掛かり、私はひどく動揺しました。火の粉がいくつか牛糞の上に落ち、そして突然、糞の山全体が燃え始めました。炎は私の家からわずか数十メートルの所にありました。自分の家に迫る炎を見て、私は心臓が喉に詰まりそうになってこう思いました:「今回は全部無くなってしまう。私たちが培ったもの全てが燃え尽きてしまう。」私は数人の者たちが私たちの家から私たちの所有物を取り出しているのが見えましたが、私の夫と子供は家にはいませんでした。私は心配になりましたが、私にできることは何もありませんでした。そして、私は神に祈り続けました。祈りを捧げていた最中、私はヨブの受けた試練について思い出しました。彼は所有していた全てのものを失い、彼の子供たちには災難が降りかかりました。それにもかかわらず、ヨブは神に文句を言わずにこう言ったのです:「… 主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21)。「… われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)。 神の御啓示と御指導は私に神の御心を理解させてくださりました。私はヨブの例に倣うべきです。試練に直面しても、私は神に従い、文句は言わないようにします。そして、私は心の中で神にこう祈りました、「ああ、神様。私の所有するものは全てあなたから頂いております。この火災もあなたの手中に御座います。私はどのような環境に置かれようとも、あなたの御采配に従います。」

   私は自分の家と所有物の全てを神に託した時、心の中で平安を感じました。ちょうどその時、消防員数人が私の家の庭にやってきました。彼らは庭の回りのボードを取り壊して私の家を燃えているものから切り離してくれました。牛糞はまだ燃えており、その炎が私の家を飛び越えて、私の家の後ろの列の家屋に向って飛んでいきました。すぐに、そこで山積みになっていたまきに火がつきました。燃える2つの物に挟まれた私の家はすぐにでも火がつきそうな状態でした。私は急いで家の中に駆け込み聖書と預金通帳をつかみました。パニックの中、私はいくつか洋服もつかみ、それで聖書を包んでこう思いました:「神の御言葉は何よりも貴重なもの。それは私の活動源。絶対に火災から守る必要があるわ。」私はドアの入口からふり返って部屋の中にある物を見ながら心の中でこう神に祈りました:「ああ、神様!私は家の中のもの全てをあなたに託します!」もうもうたる煙の中、私は火災から脱出し、火災から脱出したほとんどの村民たちがいた村の外の森林へと走りました。路上にいた人々は全員がパニックに陥っていました。彼らはどうすることもできず、それぞれの家と他の所有物が火に飲みこまれ、灰と化していく様子を見ながらしきりにすすり泣きました。この風景はあまりにもむごく見ていられませんでした。私は人々が私たちの貴重品を取って行くのを目撃したことを未だに悲しく思いました。しかし、夫は仕事でおらず、息子も勉強でそこんはいませんでした。私は村に襲い掛かる火災を見ながら心の中で神にこう祈ることしかできませんでした:「ああ、神様!今日、私はあなたに全てを託します。それは、あなたが人間の生と死、祝福、災害、全世界をも支配されておられるからで、私に何が起こるかもあなたの定めだからです。私は家が燃えてしまっても、あなたに従い、文句は言いません。」

   祈りを捧げた後、私はとても落ち着き、平安を感じました。私は遠くから家を見ると、突然煙の量が減っているのが見えました。私は火が静まっているのかと思いながらも、全く自分の目を信じようとはしませんでした。その時、人混みの中で誰かがこう叫びました、「見ろ、風の向きが変わった。東に向かって吹いてるぞ。」皆はこれを聞いて驚きました。そして皆は一斉に村の方に目をやりました。私はもう一度、注意深く見てみました。それは本当だったのです。風の向きは本当に変わり、火は風と共に東に向かっていました。東方にあった家の列が燃え始めました。炎はうなり、家々は炎に包まれ倒壊し始め、パチパチと音だけが鳴っていました。村民全員は家に何が残っているかを見ようと村に向かって走りました。私は、「私の家は倒壊したに違いないわ」、と思いました。しかし、私が家に戻ると、家と物置は全く燃えておらず、庭にあった牛糞から煙が上がっているだけだったのです。私の家の左側の家屋は多かれ少なかれ燃えていましたが、右側の家屋は全く燃えていませんでした。私は神に心の底から正直な感謝の気持ちと称賛を伝えました:「神様、本当にありがとうございます。私の家が無事に残るとは思ってもいませんでした。」私が家の中に急いで入ると、ミシンとテレビが無くなっているのに気が付きました。その時、私は混乱の中で盗まれたに違いないと思いました。そして、よく考えた結果、もう盗まれているのだから、放っておこうと思いました。神が私の家を守ってくださったのだから、それ以上欲張ることはできませんでした。その時、近所の人が来て私にこう言いました、「危ないですねえ!お宅の物置の屋根はタールを塗った茶色の紙で覆われているじゃないですか。火でもついたら跡形もないです。本当に危険ですよ!」私は彼女の言葉を聞きながら心の中で神に感謝し続けました。私の家が残ったのは神の御加護のおかげだったのです。

   その後、私はある老人が燃え殻を倒して火事を起こしていたことを知りました。火事は正午ごろに始まり、その火の夕方5時まで消し止められませんでした。村全体が混乱状態でした。30以上の家族が火事で所有物を失い、およそ300軒の家が多かれ少なかれ被害を受けました。この火災は人々を貧困に追いやったのです。私の家族も神の御加護がなければこれら家族と同じ目に遭っていたことでしょう。驚いたことに、私が外出しようとしていた時、私の同僚たちはミシンとテレビを運び出していました。そして、彼らは火災の後、私にこれらを返してくれたのです。私は心の中で神に感謝し続けました。私は人々、出来事、そして物事は神の御計画の下にあり、神の全能さと権威は全ての場所で常時宿っていることを実際に体験しました。

   火災の最中、私に起きた唯一の被害は牛糞が燃えたことでした。私の家と他の所有物には何の被害もありませんでした。私の村には最近改宗した新しい信者がいて、彼女は私の家の後ろに住んでいました。彼女の所有物も火災の被害は受けておらず、それによってこの新しい信者は神の働きを確信しました。彼女の夫も、「彼女が信じている神は真の神のようだ。炎がドアの所に到達したとたん風の方向が変わるなんて本当に驚きだ」、と言いました。他にも病弱な年配の姉妹がいました。彼女の家にはいくつか豆の木がありましたが、炎は彼女の豆の木の回りを通って周辺にあったまきを全て燃やしていたのです。誰かがこう言いました、「不思議だな。どうして彼女のまきは燃えなかったんだろう。」村にいた10人以上の全能神の信者たちも御加護を受けました。彼らの家と所有物は全く被害を受けませんでした。彼らもまた、神の驚くべき御業を目にしたのです。

   村全体がこの火災の中で驚くべき出来事を目撃した時、彼らから沢山の意見が出ました。「あなたが神を信仰しているから、あなたを通じて近所の人たちまで恵みを授かったんだ。だから彼らの家は燃えなかっただんだ」、と言う人がいたり、「天の老人の御加護のおかげで、彼らの家は燃えずに済んだんだ!」と言う人もいました。私は彼らの言葉を聞きながら、心の中で神に感謝し、神を称賛し続けました。その時、モーセが紅海を通ってイスラエルの民を導いたとする聖書の記録を思い出しました。イスラエルの民はエジプトの王ファラオの追跡をうけ、彼らはエジプト人たちによって紅海まで追い詰められました。彼らが逃げ道を見つけられなかった時、ヤ―ウェ神が紅海を開いたのです。以前、私はこれらの記録を読む度に、それは単なるストーリーだと思っていました。私はこのストーリーを信じていると断言していましたが、心の中では確信していませんでした。火災の日、私は神の全能さと権威はありとあらゆる所に宿っていることを実際に体験し、それを知り、それは私の視野を広めてくれました。私は神に対する感謝の気持ちを言葉で表すことができませんでした。これについて全能神はこう仰っておられます:「神の業はあらゆるところにあり、その力はいたるところにあり、その知恵はすべてに満ち、その権威はすべてに及ぶ。」(「神の経営の中でだけ人は救われる」より)。「人の心と霊は神の手の中に掌握され、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。」(「神は人のいのちの源である」より)。この火災の経験を通じ、私は全ての物と出来事は神に定められているということを実際に体験しました。いのちの有無は神の御手にあるのです。人間は災害に直面するとなんてちっぽけで、無力なのでしょう!神の御加護なくして、自然災害および人為災害を逃れられる人はいないのです。

   この体験後、私は神から離れたくなくなり、神を信仰する道において更なる確信を持つようになりました。私の神に対する理解は漠然としたものではなく、真のものとなったのです。私は神の働きに協力し、神の愛に報いるために自分の本分を尽くしたいと思います。全ての栄光、全能神にあれ!


80歳のクリスチャンが洪水の中で神様に守れた奇妙な経験

2019-06-04 21:22:32 | 癒やしと恵みの証し

   私の妻と私は今年で共に80歳を超え、山の中腹で暮らしております。神への信仰を初めて以来、私たち年寄りは神の御恵みと御加護を受けながら健康に過ごせています。私たちは神の愛にお応えするために、聖書を保護するという本分を尽くしています。聖書が湿らないよう、地面から150センチの高さで厚板の上に置いています。

   2014年7月の末、小雨がもう10日以上も続けて降っていました。最初は地面に水たまりができない程度にパラパラと降っていただけでしたが、8月7日の午前9時頃、土砂降りの雨が降り始めたのです。その僅か30分後には地面に水たまりができていたように見えました。その時でした、雨水が我が家の壁の角にあった隙間から家の中へと流れ込んできたのです。その瞬間、私は不安になりこう考えました、「一体どうしたらいいのだ?このまま続いたら家が危なくなってしまう。」動揺して落ち着きを失った私は部屋の中で右往左往しました。「私の命などどうでもよい。しかし、聖書は傷つけるわけにはいかん。一体どうすればいいんだ?」私は聖書を見つめながら、どうしてよいのか分からず途方に暮れてしまいました。後に、私は洗面器とバケツを見つけて妻と一緒に雨水をかき出すしかありませんでした。そしてその時、私の甥が私たちを助けにやってきました(しつこい雨で屋根が雨漏りしていたので、彼は修理しに来てくれたのです)。しかし、外の水は我が家の中に入り続け、しばらくすると家の中で溜まっていた水は深さが既に10センチほどになっていました。このような状況の中で、私は更に心配になり、どうすればよいのか分かりませんでした。その時、この神の御言葉が突然私の頭に浮かんだのです、「わたしはあなたの強固な岩である。わたしに拠り頼みなさい。」「その通りだ!神は私たちの頑丈な岩であり、唯一なる避け所なのだ。神の存在を忘れてはならない」神の御言葉が気持を落ち着かせてくださったので、私は静かに神に祈りを捧げました、「ああ、神よ!外は土砂降りで、家の中では水位がどんどん上がってきています。我が家には聖書が沢山ありますが、私たち年寄り二人では対応できませんし、それらを保管する場所を見つけることもできません。聖書はあなたに託すしかありません。どうかこれらの聖書をお守りください。」30分以上経った後、部屋の中の水はおよそ20センチまで深くなっていました。午前11時頃、空は灰色になり、雨が激しく降り始め、その様子はとても恐ろしいものでした。その後すぐ、前後の山から雨水が我が家に向って流れ落ちてきたのです。この状況に直面した私は非常に不安になりこう考えました、「雨がこのまま振り続けたら、私の泥壁の家は確実に倒壊してしまう。そうなったら、聖書は間違いなく損傷してしまう。」私はこう考えるのを止め、心の中で切羽詰まった私は神に助けを請い、これらの聖書を神に託すしかありませんでした。

洪水の中,80歳のクリスチャン,神様に守れた奇妙

   この暴風雨は続けてその激しい猛威を振るい、雨水も我が家に入り続け、室内の水位は増々高くなり、その深さはすぐに40センチを超えました。靴、洗面器、テーブル、そして椅子等、これら全てが家の中で水に浮かんだ状態となり、水位はすぐに私たちの膝を超えました。その瞬間、私の妻と私は聖書を見たまま、パニックと恐怖のあまり体全体が震えました。その時、私の甥が私たちにこう言いました、「もうこれ以上家の中にいては駄目だ。泥壁の家はいつ崩れる分からない。そうなったら、死んでしまう。急いで!お金と貴重品を持って山を上がるんだ。」甥の言葉を聞いた私は混乱しながら増々動揺してこう考えました、「家が本当に倒壊したらどうしよう?妻と私は共に80歳、逃げたくても逃げられない。それに、聖書はまだ家の中にあるのに、置いて逃げるわけにはいかない。」その時、神のこの御言葉が頭に浮かびました、「世界で起こるすべてのことの中で、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にない存在などあるだろうか。わたしの言うことはすべてその通りに進み⋯」「そうだ!全世界にあるもの全てが神の御手の中にあるはずだ。家が崩れるかどうかもまた神の御手の中にあって、神がお決めになることだ。」こう考えた私は甥に言いました、「他に行ける場所はあるか?私たちはもう走れるような年じゃない、だからここに残る。」これを聞いた甥はびっくりして、脱出するのを止めました。私たちが中に残っているのを見た彼は私たちを置いて逃げようとはしませんでした。しかし、今にでも家が倒壊することを恐れた彼は軒の下に立って私たちを見守っていました。

   その後、豪雨は更に激しさを増し、我が家の中の水かさはどんどん上がっていきました。これを見た私は又しても不安になり、心の中で神の助けを求め続けることしかできませんでした。その時、私は神のこの御言葉を思い出したのです、信仰とは一本の丸太橋のようものである。卑屈になって命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが…」神の御言葉は私に力を与えてくださりました。神は私の神への信仰を完全なものにするために、この状況を使われたのだと私は理解しました。私の生死は神の御手の中にあり、それ故に私は命を捨てる覚悟で神に頼るべきなのです。こう考えた私は、危険を顧みず、家から20メートル離れた脱穀上まで水の中をやっとの思いで進み、そこで地面に跪き、大声で神に祈りを捧げました、「ああ、神様!この事態にはあなたの善良な御旨が込められています。私が生きるか死ぬかはあなた次第です。あなたが何をなさろうと、私はあなたに従います。しかし、聖書はまだ私の家の中にあり、傷がつくことがとても心配です。ああ、神様、私は今これらの聖書をあなたに託すこと以外は何もできません。」

   私が地面に跪き、続けて神に助けを求めていると、私の甥がこう叫びました、「伯父さん、戻ってきて!どうしてそこで跪いてるの?大雨の中で風邪を引くよ!」その時、私は甥の言うことは気にせず、続けて神に祈りを捧げました。その間、私の妻も軒の下の水の中で跪いて神に祈りを捧げていました。30分以上祈りを捧げた後、突然、連続で雷が鳴るのが聞こえ、その後に家の裏でドスンと何かが倒れる音がしました。私が様子を見に行ってみると、我が家から6メートル離れた所に直径が大きなどんぶりの厚さほどある油桐が山から流れ落ちてきた雨水によって倒されており、そこの地面には直径160センチの穴ができていました。これ故に、雨水が全てその穴に流れ込み始めていたのです。これは神が私の祈りを聞いてくださった故のことだと、私は明確に分かりました。私は心の中で神に感謝し続けました:「神は本当に全能であられる!雨水が絶えず家の中に流れ込んでいたら、間違いなく倒壊していたことでしょう。しかも、我が家の前には幅10フィートほどの溝ができており、雨水がその溝を通って山のふもとに流れ出ていたことも私は発見しました。

   私はこの様子を見て、神はずっと私の側にいてくださったのだと感じて興奮しました。私たちが絶望に陥り、行き場を失った時、神は逃げ道を開いてくださりました、すなわち、雨水が流れ出る場所を設けてくださったのです。これは神から私への憐みだったのです。以前、私はとても無知でした。私は神の御言葉を文字通りに、そして教義上の意味で理解しているだけで満足し、神の御言葉を真理として実践してはいませんでした。これ故に、何らか出来事に直面すると、それが自分の個人的な生活に関するものであれ、または教会での本分に関するものであれ、私は自らの手段で対応していたのです。しかし、今回私は物事と出来事はその全てが神の御手の中になり、災害は神によってより一層細かく計画されているということを自ら知りました。神は正に真なる、そして生気に満ちた神であります。私は誠実な心で神を頼りにした時、神の御業を目撃し、この世界にある全ては神の御旨に従って動くということを実際に体験したのです。これについて神はこう仰りました、「人の心と霊は神の手の中に掌握され、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。」

   その後、豪風雨は徐々に勢いが収まり、家の外の水は中に流れ込んでこなくなりました。しかし、まだ深さ2フィート近くの水が家の中に残っていたのを見た時、私はまたとても心配になりました、なぜなら泥壁の家が長い間水に浸っていたら、そこにいるのは危険だからです。こうして、私の妻と私は慌てて洗面器で水をかき出しました。しかし、水位はとても高く、いつになったら全部流しだせるのか全く分かりませんでした。心配で動揺しながら、私は休まず心の中から神に助けを求めました、「ああ、神様、室内の水を早く流し出さないと、長時間水に浸っているこの泥壁の家はすぐにでも倒壊してしまいます。神様、雨は収まりましたが、聖書は依然として損傷する危険性があります。どうか私たちに解決策をお与えください。」こう祈りを捧げると、すぐに水が流れる音が聞こえてきました。様子を見に行ってみると、奔流により横の部屋にある地下貯蔵庫に洗面器ほどの大きさの穴ができていたのです(貯蔵庫の外は急なスロープになっており、貯蔵庫は石材の破片で舗装されていました)。これにより、雨水は貯蔵庫を抜けて流れ出ていたのです。この時、私は角に穴を開ければ水がもっと速く流れ出るとひらめきました。こう思った私は急いで鉄棒を見つけてきて、石材を2つこじり出しました(家の礎は石材でてきていました)。すると水はすぐさま穴を通って流れ出てゆき、地面が見えてきました。これを見た私はやっと安堵を感じ、心の中で神に感謝し続けました。これは全て神の驚くべき御業であったのです。すると、私の甥が私にこう言いました、「伯父さんと叔母さんが信じている神は本当に善良ですね。さっきは外が大雨で、水が家の中に入り続けたから、深さがすぐに20フィートにもなって。そんな状況だったから、僕は凄く怖かったんだ。でも、2人が逃げないから、僕も一緒に残ることにしたよ。家が崩れて圧死するのが怖かったから、僕は外に出て軒の下で立っていることにしたけどね。その時、2人は水の中で跪いて、空を見上げながら祈りを捧げていたよね。しばらくしたら暴風雨が次第に収まっていくからビックリしたよ。裏の山から押し寄せてきた雨水が油桐を押し倒して、それで穴ができたから、水が家の代わりにその穴の中に流れていくなんて。もう50年以上も生きてるけど、こんな奇跡は見たことがないよ。しかも、さらにビックリしたのは2人とも80歳で、1時間以上も水の中で跪いていたのに、風邪は引いてないし、まだ水をかけ出す元気があるなんて。これは本当に素晴らしいよ。」彼の言葉を聞いた私の妻と私は共に笑顔でこう言いました、「その通り!これは全て神の御加護のおかげなんだ。神に感謝します!」

   その時、誰かが外で私の家の隣の2軒が倒壊したと大声で叫び、その後に近所の人たちの泣き声が聞こえてきました。これを聞いた私はこう思いました、「私は幼い頃からこの泥壁の家に住んできて、今はもうかなり古くなっている。隣の家はここよりも高い立地に建っているから、雨水はいつも私の家に向かって流れてくる。にもかかわらず、彼らの家が倒壊して、私の家は無事だなんて。これは正に神の偉大な御力だ。」

   豪風雨が去った後、村の幹事とリーダーが我が家にやってきました。私たちと我が家が無事であるのを見た彼らは笑顔でこう言いました、あなた方2人は本当に運がいい。天が助けてくださったのですよ!」そして、彼らは我が家の裏に行き、そこにあった穴を見てこう言いました、あなたの家の裏にある溝は山から押し寄せてきた泥と砂で詰まっている。しかも、雨水は上に建っている家々からあなたの家に向かって流れている。この穴のおかげで、雨水は流れ出ることができたんです。これがなかったら、あなたの家は間違いなく倒壊していたでしょう。」その後、彼らはドアの所に行き、幅10フィートの溝があるのを見て驚きました。幹事は驚きのあまりこう言いました、「天は本当にあなたを助けておられる。私の家々は高い位置にあるから浸水しなかったけど、新しいれんが造りの家2軒は吹き倒された木がぶつかってで損傷したんですよ。なのに、あなたの泥壁の家は全く損傷していないとは。天があなたをお守りくださったんですよ。」彼の言葉を聞いた私は心の中で神に感謝し続けました。私たちは神を信仰しているがために、拠り所を持つことができ、私たち2人と我が家は神の御加護を授かりました。未信者たちには拠り所がなく、災害を前に何もすることができなかったのです。これにより、私は神のこの御言葉の内容をより強く確信しました、「わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。」

   神は存在する全てのものの主権者であり、万物のいのちは神から生まれます。神は私たち人間を育て、私たちに備えてくださります。神は常時私たち人間に気を配り、私たちをお守りくださります。私たち人間は、神から離れると大災害の被害に見舞われてしまいます。私たちは誠実な心を持って神の前に行き、神に頼り、そして神を崇拝する場合に限り、良い運命と終着点に至ることができるのです。私は今回の暴風雨を経験し、私たち人間は災害の前ではとても小さく、そして僅かな強風にすら耐えられないと心から感じました。政府官僚は私たちを救うことはできませんし、私たちの親戚や友人たちもそれはできません。神のみが私たちの贖い主であり、私たちの避け所なのです。神は災害を通じて人間の義なる行動を大切にされていること、そして人間の悪行はお嫌いであることを私たちに警告されます。ロトを例に考えてみましょう。彼は2人の天使を守るために自分の2人の娘を指し出そうとしました。この彼の義なる行動のおかげで、彼の家族は神がソドムの街を破滅させた時に神の救いを受けることができました。同様に、私たちは災害が頻繁に起こる終わりの日には、神を信仰するだけでなく、ありとあらゆる善行を行うべきです。私たちはこうしてのみ災害の中で神の御加護を授かることができるのです。

   従って、私は、「今後神を信仰していく上で、もっと神を頼りにし、自らを神の御手に委ね、神に私を管理そして支配いただくようにします。私はもっと神の御言葉を読み、神の御心を和められるようにしっかりと自分の本分を尽くしていきます」、と決心しました。全ての栄光、神にあれ!


13歳のクリスチャンが体験した病気からの回復

2019-06-03 22:16:46 | 癒やしと恵みの証し

   私は13歳のクリスチャンです。私は幼いころから両親と同じように主を信仰しています。当時、私は讃美歌を歌って主を讃えるために毎週教会に通っていました。2018年2月、私の母は終わりの日の全能神の働きを受け入れて、私の家族に福音を説きました。こうして、私は全能神教会でも集会に参加するようになったのです。

13歳のクリスチャンが体験した病からの回復

   6月のある日、私は突然病気になって熱を出しました。その4日後、母は私を病院に連れて行き、私はデング熱だと診断されたのです。4日入院した後、私は病気から回復しました。しかし、7月3日、病気が再発したのです。最初、私は軽い熱と咳が出ていただけだったので、母は注射を受けに私をクリニックに連れて行きました。しかし、4日間続けて注射を受けた後、私は回復しなかったどころか、どんどん悪化していったのです。ついに、母はまた私を大きな病院に連れて行きました。私は前回と同じように数日経てば回復すると思っていました。しかし、予測に反して体温は初日に42度まで上がり、咳も増々悪化していったのです。体の表面は触って感じるほどに熱を帯び、母が私の側にいるのを不快に感じるほどでした。しかし、私はひどく寒気がし、手足は氷のように冷たくなっていました。しかも、体中が震えて止まりませんでした。私は絶え間ない熱と咳に苦しみ、時には悲しさのあまり涙を抑えられないこともありました。

   私の容態が全く改善せず、増々深刻になっていく様子を見た医者は血液検査をするために私から採血をして、レントゲンも撮りました。ついに、私は肺が炎症を起こしていて、とても悪い状態にあると医者は言いました。私の両親が私の診断結果を知った時、二人は私のことをとても心配して、私をタイの病院に移す決断をしました。私は「そこの病院に行けばすぐに良くなるのかしら?良くならなかったらどうなるのかしら?」、と思いました。私はとても怖くなりました。その時、母が私に神の御言葉を幾つか読んでくれました:「万物の長である全能神は、玉座から王としての権力を振るう。神は宇宙と万物を支配し、全地で私たちを導いている。…病を患うとき、それは神の愛によるもので、神の善意が必ずその背後にあるのだ。たとえあなたの体が苦しみに耐えている時でも、サタンによる思いを受け入れてはならない。病気の只中で神を賛美し、あなたの賛美の只中で神を楽しみなさい。病気に直面しても心を失ってはならない。求め続けなさい。決してあきらめてはならない。そうすれば、神はあなたの上に光を輝かせるだろう。ヨブはどれほど忠実だっただろうか。全能神は全能の医者である。病の中に留まれば、病気になる。しかし霊の中に留まれば、健やかになるのだ。あなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない。」

   母はこの神の御言葉を読んだ後、こう話してくれました、「神は全能な御方なの。全てが神の御手の中にあって、私たちのいのち、死、幸運、そして不幸はすべて神が支配しているの。だから、私たちが生きることや、死ぬことは、私たちが決めることじゃないし、医者や科学が左右することでもないの。私たちの病は神の御手にあるの。神が許可されない限り、私たちはたとえ死の扉の前にいたとしても死ぬことはないわ。どの病においても、神の善良な御旨は私たちの信仰を完全にすることなの。私たちは神を頼りにして、いつも心配したり、怖がらないようにすることを学ぶ必要があるわ。それはなぜかと言うと、怖いという気持はサタンが送りつけてくるもので、それは私たちに神への信仰を失わせようとしているのよ。」神の御言葉、そして母の話と励みを受けて、私はそれでも動揺することはありました が、以前ほど怖くはなくなりました。なぜなら、私は神が側にいてくださることを知っていたからです。

   その後、私はタイの病院に入院しました。そこの医者はもっと慎重で、かつ信頼の置ける人で、看護士たちは2時間おきに私の様子を確認しに来てくれました。私はこう思いました:「これは病気がすぐに治るってことかしら。そうだとしたら、期末試験に間に合うように帰国できるわ。」その後、一日3回、看護士たちは決められた時間に私に水を渡し 、薬を飲むように言いました。

   しかし、私は3日経っても全く改善しなかったのです。熱は朝から晩まで続き、咳もよく出ました。咳をする最中には鼻血も出ました。医者は私の容態をもう一度確認した後、母にこう言いました、「あなたの娘さんはデング熱だけであれば、3日治療すれば熱が下がるはずなのですが、彼女の熱は全く下がっていなんです。こんなケースは滅多にありません。」これを聞いた母はこう言いました、「どうか全力で出来る限りのことをしてください。お医者様、お願いです。この熱が続いたら、彼女の脳と臓器へのダメージが心配です。」そして、医者は私を徹底的に検査した結果、私は結核を患っているかもしれないと言ったのです。

   これを聞いた私はこう思いました:「私は結核を患っているに違いないわ。じゃないと、こんなに長い間入院しているのに病気が治らないわけがないわ」この若さでそのような病気に罹っているかと考えると、私はさらに悲しくなり、動揺し 、大声で涙を流しました。私は、「神はどうして私を守ってくださらないの?どうして神は私がこんな病気になることを許しておられるの?」と思いました。私は涙を流した後、母にこう聞きました、「お母さん、私が結核に罹っているのが本当だとしたら、私は死んじゃうの?」母はこう言いました、「あなたは死なないわよ。私たちは全能なる神を信仰しているんだし、神は私たちの生活の全側面を支配しておられるのよ。だからこそ、私たちは全てを神に委ねるべきなの。」母がこう言ったのを聞いて、私の恐怖感は少し和らぎました。

   そして、母は神の御言葉のこの節を読んでくれました:「神は業を行い、人間を慈しみ、見守るが、サタンは常に神の働きの邪魔をする。神が大事にする人間を、サタンも見ていてつけ回す。神がその人間を求めると、サタンは持てる力の全てでどんなことでもして神の行うことを阻もうとし、隠された目的を達成するため、あらゆる邪悪な方法で神の業を試し、邪魔し、挫折させようとする。サタンの目的は何であろうか。サタンは神が人間を得られなくなることを求めている。サタンは神が求める人間を求め、その者を自分のものとして支配し、掌握してサタンを崇拝させ、サタンと共に邪悪なことを行わせることを求めている。これはサタンの悪意に満ちた動機ではないか。」

   母はこれを読み終えると、私にこう話してくれました、「病の発症は霊的戦いで、サタンからの試みでもあるの。サタンは今、私たちが神の前に行ったことを知ったから、出来ること全てをして私たちが真理を追い求めて神を礼拝するのを妨害しようとしているの。その目的は、私たちが神を誤解して、疑って、神への信仰を失って、結果的に神に背いてしまうようにすることなの。サタンの策略を見抜くには、神に頼る必要があるのよ。ヨブが色んな災難に遭遇した時のことを振り返ってみましょう。彼は山一面を覆えるほどの羊と牛と所有物を全て失い、体中に腫物ができても一度も何の不平もこぼさなかったの。彼は祝福を受けても、不運に遭っても、神の御名を褒め称えることができたの。なぜなら、彼は神が全てを支配しておられると信じて、神と取引をせず、神を信仰するにあたって神に何の要求もしなかったからなの。彼は何に遭遇しても神を褒め讃え、神に従ったのよ。最終的に、彼の信仰は神への証しとなって、ヨブは祝福を授かることができたわけ。だからこそ、私たちも神を信仰するべきなの。あなたが悲しいことは分かっているわ、でも今は強くならないとだめよ。動揺する ことがあったら、神に祈りを捧げて、信仰する心を与えてくださるようお願いしなさい。」

   母の話しを聞いて、神は私が病と戦いながら断固たる姿勢で神の証言をし、神への信仰を失わないことを私に求めているのだと、私は理解しました。病の発症はサタンの仕業なのだから、私は神の文句を言ったり、神を傷つけることは止めて、サタンを嫌い、サタンに背くべきなのです。従って、私は心の中で静かに神に祈りを捧げました、「ああ、全能神、私はサタンの狡猾な策略を見抜いて、サタンに付くことや、あなたの文句を言わないようになる必要があります。どうか私に信仰する心をお与えください。」後に、私は度々神の御言葉のこの節を思い出しました:「信仰とは一本の丸太橋のようものである。卑屈になって命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを進んで犠牲にする者には不安なく渡ることができる。臆病と恐怖を抱いている者はサタンに騙されているのだ。サタンは私たちが信仰の橋を渡って神の中に入ることを恐れている。」 私も気が付かぬうちに、神を少し信仰するようになったのです。

   驚いたことに、医者が水薬を変更して、一日かけて点滴を施してくれると熱が下がったのです。咳だけがまだ完全には治っていない状態でした。点滴を始めて3日目に、熱は完全になくなりました。4日目になると、医者は私を検査した後にこう言いました、肺の炎症が下がったので、結核の可能性はなくなりました。7日間しっかりと点滴を受ければ退院できますよ。」私はこれを聞いてとても嬉しくなり、心の中で神を讃え続けました。私はこの全てが神の不思議な御業であることを知ったのです。神に感謝します。全ての栄光、全能神にあれ!