賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

9か月も続いた霊的戦いの中で、彼女が神の証を立てた方法とは

2019-05-19 22:46:44 | 霊的戦い

   2017年の初め、私はインターネットで数人の兄弟姉妹と知り合いになりました。時間がある時、私たちは一緒に聖書を読みました。

   聖書の勉強会の時、ある兄弟が私たちに終わりの日の全能神の働きを証言してくれました。全能神に関する集会や兄弟姉妹たちによる交流を通じて私は、「全能神はイエス様の贖いの働きを土台として人間を罰し、裁き、清め、罪の束縛から完全に開放するという次の段階の働きをなされた」、ということを知りました。その後すぐに、私は全能神が主イエス様の再臨であると確信しました。その後、私は毎日午後にインターネットで全能神教会の兄弟姉妹たちとの集会に参加しました。私はいつも時間があれば神の御言葉を読みました。こうして、私の干からびた魂は心の支えを得たのです。

私は噂を見抜き、見識を得ました。

   その後、私は溢れるほどの喜びを胸に、この良い知らせを娘に話しました。しかし、彼女は私にインターネット上で全能神教会を非難する数々の否定的な情報と動画を見せてきて、私の信仰は間違っていると言いました。この否定的な内容を目にした後、私は疑念を胸にこう考えました、「神から来るものは裕福に違いない。」神の働きなくして、東方閃電がここまで迅速に拡大し得たはずがありません。さらに、全能神の御言葉は聖書の奥義を明かしているだけでなく、私たち人間の堕落した性質と誤った動機をも明らかにしています。神の仰る御言葉のみがそのような効果をもたらすことができるのです。しかし、どうしてインターネット上にはこのような否定的な宣伝活動や動画が存在しているのでしょうか?これらの噂は真実なのでしょうか、それとも虚偽なのでしょうか?」私はこういった困惑を胸に抱きながら、全能神教会の兄弟に相談しました。

   兄弟はこう話しました、「姉妹、思い出してください、主イエス様が働きをされた時、ユダヤの民は皆、祭司長、律法学者、そしてパリサイ人に従って主イエス様に抵抗し、主イエス様を非難しました。過去の宗教指導者たちはローマ政府と力を合わせて主イエス様を捕らえ、ついには主を十字架に釘付けにしました。これらの事実から、この世界は暗く、邪悪であり、完全にサタンの力の中にあることが分かります。真理を愛する人はほんのごく僅かしかいません。これはまさに主イエス様がこう仰った通りです、『そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。』『そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。』(ヨハネによる福音書3:19)。『この時代は邪悪な時代である。』(ルカによる福音書11:29)。それに加えて、ヨハネの第一の手紙5:19には、’全世界は悪しき者の配下にある’ とも記されています。全能神が来られて働きをされて以来、人々が全能神に従うのを妨げようとする中国共産党政府と宗教指導者たち数人が全能神教会を攻撃して中傷するために、そして理知を欠き識別力のない人々を騙すために、メディアを利用して嘘のニュースを捏造しているのです。昔から、真の道は常に迫害を受けてきました。それ故に、私たちは見識力を持つ必要があります。そうしないと、私たちは騙されてしまいます。」

   彼の交流を聞いた後、私はこのように理解しました:「否定的な噂はどうやら中国共産党と宗教界の仕業のようだわ。彼らがこういった噂を広めるのは、人々が全能神を頼りにするのを妨げて、私たちが救いを受ける機会を逃すようにして、そして最終的には彼らと一緒に滅びるようにすることを目的としているのよ。真理を求めず、むやみに人間の言葉に耳を傾けていたら、私たちはいとも簡単に騙されてしまうようだわ。」その瞬間、私の心の中で、「何があっても、神の証を立てみせるわ」、と思い、神を満足させたくなりました。

牧師の口にする出る虚偽を聞き分けるために真理を求めました。

霊的戦い,神の証を立てた方法とは,9か月

   ある時、私は神を礼拝するために教会に足を運びました。私がドアの中に入ろうとした時、牧師は無表情な顔で「礼拝が終わったらここに残ってください。あなたに言いたいことがあります」、と私に言ってきたのです。私はこう思いました、「彼は私が全能神を信仰するのを邪魔するつもりなのかしら?もしそうだったら、どうしよう?」私たちが讃美歌を歌い、交流を聞いていた時、私は心の中で神に祈り続けました、「ああ、全能神!牧師は礼拝の後に私と話しをするつもりでいます。どうか私をお導きください、そして彼に話すべき言葉をお与えください。」
   

   私たちが礼拝を終えると、牧師は私にこう言ってきました、「私はあなたがインターネット上で他の者たちと集会を行っていると耳にしました。私たちは主イエス様を信仰しているのですよ、他の神を信じてはなりません。今すぐお止めになりなさい。」

   私は言いました、「牧師、ご存知ですか?主イエス・キリストが戻られたんですよ。主は全能神として受肉なさったんです。」

   意外にも、彼はすかさずこう言い返してきました、「そんなことはあり得ない!そんなものは存在しません。聖書には、『そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。』(マタイによる福音書 24:30) 、と予想されています。これ故に、主が再臨される時は主御自身が白い雲に乗って降臨されるのです。私はまだ主が雲に乗って降臨されるお姿を見ていません。従って、全能神が主イエス様の再臨だなんてことはあり得ないのです。」

   彼の言葉を聞いた後、主は再臨される時は秘かに降臨され、それから雲に乗って公然と降臨されると聖書には預言されているということを、全能神教会の兄弟姉妹たちが言っていたことを私は思い出しました。なので、私は牧師に言いました、「聖書にはその以外にも、主の再臨を予想する預言が他にもたくさんあります。例えばこれです、『見よ、わたしは盗人のように来る。』(ヨハネの黙示録16:15)。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした。』(マタイによる福音書 25:6)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。』ヨハネの黙示録3:20)。この預言は全て、神は人の子として受肉され、秘かに来臨されると言っているのです。1つの聖句だけを基に主が再臨される方法を定義することはできません。全能神教会の兄弟姉妹たちはこの点をとても明確にしていました。主はまず肉となられてから、人間を裁き、清め、救う働きをするために秘かに来臨され、勝利者からなる集団を作った後、雲に乗って地上の各国の前で公然とそのお姿をお見せになると、彼らは言っていたのです。」

   私の言葉を聞いた牧師は傲慢さをむき出しにしてこう言いました、「そんなことは不可能だ!全能神が主イエス様の再臨だなんてことはあり得ない。全能神教会の人々は主が再臨され、女として受肉されたと主張している。しかし、主イエス様は明らかに男だ。キリストが女である訳がない!」

   私は彼がこう言ったのを聞いて、何も言わずにこう思いました、「神が女として受肉されたなんて兄弟姉妹たちが言っているのは聞いたことがないわ。そんなことがあり得るのか、彼らに聞いてみる必要があるわ。」私が黙っているのを見た牧師は、後ろを振り返って東方閃電への警戒を働きかける小さなパンフレットを手に取りました。彼はそれを私に手渡し、持って帰ってじっくり読むようにと言いました。

   帰宅した後、私はすぐに全能神教会の姉妹に連絡しました。すると、彼女は全能神のこの御言葉を私に読んでくれました、「神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。」「もしも神が男性としてだけ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として見定め、神を女たちの神だとは決して信じないであろう。⋯神が人類を創造したとき、神はアダムを造り、そしてエバを造った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を造った。神は男たちだけの神ではない。神はまた女たちの神でもあるのだ。」

   そして、彼女はこう言って交流しました、「神の本質は霊です。神に性別はありません。神は働きの必要性に応じて受肉されます。しかし、神が男として、または女として受肉されたとしても、神の本質が変わることはありません。神は変わらず神のままで、神は霊でもあるのです。神は人類を創造された時、男と女を自分のかたちに創造されました。これ故に、神は肉となられる時、男としても、女としても受肉することがおできになるのです。世の終わりに受肉された全能神が女として働きをなさるのは、私たちの観念を覆すためなのです。神は2回受肉されましが、ともに男としてその姿をお見せになられたので、私たちは神が男であると決めつけて、神は男だけの神であり、女の神ではないと信じ込んでいます。ご存知の通り、今回神は女として受肉されました、これには意味があるのです。」

   神の御導きに感謝します。姉妹の交流を聞いていなかったら、私は牧師が口にした虚偽に騙されていたことでしょう。それ以降、私はもう教会に行くのは止めて、自宅で1人で全能神の御言葉を読み、インターネットで全能神教会の様々な映画や動画を見るようにしました。私はこれにより、教会で説教を聞いていた時よりもはるかに有益な恩恵を得ました。

神は否定的で弱気になっていた私に信仰を与えてくださりました

   5月2日の午後、私の娘と娘の夫がまず最初に私の家にやってきて、その後すぐに牧師もやってきました。彼らは皆、インターネット上で全能神教会の兄弟姉妹たちと集会をしていたことについて私を咎めました。牧師は、「私たちの教会の兄弟姉妹たちと集まって聖書を勉強すればいいじゃないですか」、と言いました。

   私は言いました、「私は長い間教会で集会に参加してきましたが、私の霊的生活に大して役立っていないように感じるんです。全能神が表す御言葉はとても豊かです。その御言葉は私が神を信仰する中で遭遇する問題を解決してくださるし、私が実際に歩むべき道を指し示してもくれるんです。私はその御言葉から本当に心の支えを得たんです。あなたも読んでみれば分かりますよ。」

   従って、私は神の御言葉の書籍を取り出して、彼らに読んでもらおうと思いました。しかし、意外にも彼らはそれを手にした瞬間どこの出版社がそれを出版しているのかを確認し始めたのです。彼らにはその内容を調べる気など全くなく、私に教会に戻るよう説得し続けてきました。私には教会に戻る気が全くないことを悟った3人はお互い心得顔に目くばせをした後、私の義理の息子が机の中から私の携帯電話、神の御言葉の書籍、そして聖書勉強用のメモ張を取り出してそこを飛び出して行きました。私が取り返そうと思って足を前に運ぼうとした時、横にいた娘が突然私をぐっと捕まえてきたのです。身動きが取れなかった私は、彼らに奪われた書籍を見詰めながら、ただそこに呆然と立ち尽くすことを余儀なくされてしまったのです。

   私はこう思いました、「手元に神の御言葉がないし、携帯電話も奪われてしまったわ。これじゃあインターネットで兄弟姉妹たちと集会ができないじゃない。どうやって神に従って神の働きを体験すればいいのよ?」こう考えると、私はとても不安になって動揺しました。そして私はこう思いました、「神は私が神の御言葉を読む機会を与えてくださったのに、どうしてあの書籍が彼らに奪われることになってしまうの?神は私との交わりを求めておられないのかしら?」こう考えれば考えるほど、私は増々悲しくなって行きました。私は神に祈ることしかできませんでした。神に数回祈りを捧げた後、私はヨブのした体験を思いだしました:「ヨブは一晩で全てを失ったけど、神は彼と交わることを拒んでおられたわけではないわ。むしろ、それは霊的戦いであって、サタンが神と賭けをしていたんだわ。サタンはヨブが試練の中で神の証を立てられるかどうかを試そうとしていたのよ。今、私もヨブと似た状況に置かれている。でも、これは神が私を見捨てようとしているのではなくて、むしろ私の信仰を完全にしようとしてくださっているんだわ。私はヨブを見習って、神の証言をして、サタンを辱めるべきなのよ。」こう考えた時、私は落ち着きを取り戻し、神への信仰を胸に抱きました。

牧師は聖書の勉強会で私の指導をしてくれましたが、それには隠された動機があったのです。

   5日目の午後、牧師は勉強用の聖書を購入し、ある姉妹を私の家に連れてきました。彼は、これから私のために毎日月曜日から金曜日の午後に聖書の学習指導をしに来ると言ったのです。一度、私たちが聖書の学習をしていた時、牧師がノアに箱舟について触れたことがありました。私はその機会を利用してもう一度終わりの日の神の働きの証言をしました。私はこう言いました、「ノアの生きた時代、全人類は邪悪で、放縦で、極めて堕落していました。神はノアを送って福音を宣教させました。しかし、その当時はそれを受け入れようとする人は誰一人としていませんでした。最終的に、ノアの8人家族を除いて、全人類が洪水に飲み込まれてしまったのです。現代人もノアの時代の人間と同じように堕落して、罪の中を生き、そこから抜け出す術がありません。世の終わりに受肉された全能神は真理を表し、裁きと清めの働きを実行され、人間を罪から完全に救ってくださりました。世の終わりの神の働きを受け入れず、絶えず罪の中に生き、清めていただいて改心することができなければ、神の働きが成就する時、私たちもノアの時代の人間と同じように滅ぼされてしまいます。なぜなら、神の性質は義で神聖であるからです。」牧師はこう言って反論しました、「神は慈しみと憐みの深い御方です。私たちは主イエスキリストの名に誠実でありさえすれば、永遠のいのちを授かり、滅ぼされることはありません。」

9か月,霊的戦い,神の証を立てた方法

   私の意見を聞く気がなく、頑固な姿勢を貫く牧師を見た私は途方にくれて悩みました。私はこう思いました:「彼は普段とても熱心な人で、教会の中で自分の職務を尽くすだけじゃなくて、外に出て宣教もしているわ。でも、どうして彼は神の新たな働きを無視しているのかしら?それにどうして彼には謙そんして探求する心が全くないのかしら?」

私が苦しかった時、神の愛が付き添ってくれました。

   牧師は頻繁に私の家にやってきて、虚偽を広めようとしたり、私に全能神への信仰を止めることを働きかけてきました。時に、私にも判断がつかないことがあったので、心の状態がとても乱れてしまうことがありました。何度か、教会に戻って集会に参加しそうになったこともありました。しかし、私はこう考えました:「全能神は主イエス様の再臨なんだから、逆戻りするわけにはいかないわ。」当時、私は、神に自分を御導きくださるようにと助けを求めることしかできませんでした。

   その後の数日間、私は聖書を読んで霊的献身に専念しました。一度、私は偶然にも聖書のこの御言葉を目にしました、「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。」(ヘブル人への手紙 3:14)。私は、この説を読むようにと、神が私をお導きくださったのだと思いました。私は、諦めずに待って、根気よく最後まで努力をし続けてさえいれば、神は必ず全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡が取れるように私をお導きくださると思いました。教会に戻らないと言い張る私を見た牧師は、次第に、私の家に週2回も聖書の勉強会をしに来るようになりました。これは4か月以上も続きました。私が全能神への信仰を曲げる気がないことを悟った牧師はもう私の家に来なくなりました。

   9月になった時、非常に気掛かりだった私は自分の携帯電話を取り返そうと娘を見つけました。苦労の末、私はついに取り返しました。ある朝、私は家族が全員寝ている間にインターネットにアクセスして全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取りました。その瞬間、私はとても興奮しました。私は、彼らにこの電話は家族にチェックされるから連絡を取り合うためだけのもので、集会には使うことができないと伝えました。私がこう言ったのを聞いた彼らは一緒に集会をするため専用の携帯電話を私に送ってくれると言ったのです。これを聞いた私は感動して涙しました。そして、すぐに私は教会生活を始めました。私がまた教会に戻れるようにしてくださった全能神に感謝します。私は真理を適切に追い求め、神の熱心な御旨を裏切らない決意をしました。

私は真理を明確に知り、神の御恵みに感謝しました。

   ある日、私は神のこの御言葉を目にしました、「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と呼びはするが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」神の御言葉の御啓示は、私が牧師と長老たちの本性をはっきりと見抜けるようにしてくださりました。彼らは神学を学び、宗教の知識を豊富に持っていると考えるがため、それを利用して、傲慢で、思い上がり、強情な姿勢を取ります。そして、彼らは真理を全く愛していなければ、神のことも知りません。私は、一番初めに通っていた宗派の牧師に終わりの日の全能神の働きを証言した時、彼は探求する心を全く持っていなかったことをあらためて考えました。彼は真理に即した交流を聞いても関心を見せませんでした。その時、私は思わず過去のパリサイ人、律法学者、そして祭司長のことを考えました。彼らは、主イエス様が宣教し、働きをされた時にたくさんの奇跡を起こされているのを目撃していましたが、探求する心を全く持っていませんでした。それどころか、彼らは地位と生活を維持するために、出来る限りのことをして主イエス様の噂を捏造し、主イエス様を非難し、悪人に仕立て上げ、ついにはローマ政府と共謀までして主を十字架に磔にしたのです。現代の牧師と長老たちもまた彼らと同じなのです。彼らは信者たちを永遠に操るという陰謀を実現するためにインターネット上で噂を広めて全能神を批評し、攻撃し、冒涜しています。教会は東方閃電に抵抗するパンフレットや冊子を発行して、それを兄弟姉妹全員に配布しています。牧師と長老たちは信者たちが真の道を求めて調査するのを全力で妨げようとします。彼らの本質は真理を嫌い、神に抵抗するものであり、彼らは真の道を受け入れる人々に立ちはだかる障害物であり、人間の魂を貪る生きた悪魔であると、私はやっと明確に知ったのです。

   私は、全能神がいつも私にお啓きくださり、私を導き、そしてお守りくださり、私が牧師に騙されず真の道にしがみついていられるようにしてくださったことを感謝しています。私は、全能神が私の主であり、私の神であることを今まで以上に確信しました。私は必ず全能神に従い、真理を追い求める道を歩み、完全なる救いを手にいれたいと思います。


ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(I)

2019-04-30 23:25:26 | 霊的戦い

   【編集者注記】今日、ネットワーク情報が発達したこの時代、多くの人々はインターネットのプラットフォームを信頼し、そこからの情報を物事の善悪を測る基準とみなしています。しかし、ウェブやプラットフォーム上の情報が本物で客観的かどうかを見分けることは滅多にありません。真の道を探究することに関して、この記事の著者はインターネット上のあらゆる報道や情報の真偽を見分けることができなかったために主をお迎えするチャンスを危うく逃しそうになりました。以下はウィリアムの体験談です。

   高校を卒業後、私は生活費を稼ぐために就職しましたが、いつも壁に突き当りました。その後、友人に騙されてネズミ講にはまり、抜けられずにいました。絶望に陥りそうだったとき、寝室の隅にある聖書が目に留まったのです。聖書を読み進めることで、目に見えない創造主の存在を信じるようになりました。そこで、天地万物の創造主に静かに祈り、「どうか苦しみから救ってください。自由に神を崇拝できる、希望に満ちた場所に導いてください」とお願いしました。まさかそれから1カ月も経たないうちに、渡米する機会を得るとは思いませんでした。神が助けてくださったのだとわかり、心からとても感謝しました。

   2016年10月、私は米国のニューヨーク市に来て、比較的良いと思った中国系の教会で洗礼を受けてキリスト教徒になりました。しかし、一年以上にわたって教会の集会に参加しても、宗教儀礼をいくつか学んだだけで、神と聖書に対する知識は文字通りの意味を超えることはなく、私の霊のいのちも全く成長しませんでした。それでも教会はキリスト教徒の家だと思っていたので、教会に通って集会に参加し、一度も欠席することはなかったのです。

   2018年3月のある日、ある姉妹の家で終わりの日の神の働きを説いた刘兄弟に出会いました。何度か彼の話に耳を傾けるうちに、これまで聖書では理解できなかった多くの真理や奥義を理解しました。たとえば聖書の創造や、受肉とは何か、救われるとはどういうことか、救いとは何か、終わりの日の主の再臨への対応の仕方、真のキリストと偽キリストの違い、神の働きと人間の働きの違いなどです。それまで聞いたことのないこのような側面の真理を聞いたおかげで、実に視野が広がり、集会からはいつも多くのことを得ました。あるとき、交流中に、刘さんが聖書に書かれていないたくさんの言葉を読みました。私はその出所を知りたかったので、彼に尋ねると、「これらの言葉は終わりの日のキリストである全能神の発言だ」と答えました。全能神の御名を聞くなり、私は少しそわそわし始めました。それまでに聞いたことがある批判的なプロパガンダが何度も心に浮かんだためです。その集会の間は話を聞くことにほとんど集中できず、途中で「用事がある」という口実でその場を去りました。

   アパートに戻った後、私は落ち着けず何度もベッドの中で寝返りを打ちました。全能神教会の兄弟姉妹との集会の場面が心に浮かぶ一方で、牧師や長老の言葉、テレビのニュースで放送された噂も耳に鳴り響きました。ひどく狼狽し、誰が正しく、誰が間違っているのか、誰の言葉に耳を傾けるべきかわかりませんでした。

   その後、スマホを付けて、非常に信頼していたサイトであるウィキペディアで検索をしました。そこで全能神教会に関する人騒がせな記述を読んだ時、ネジみ講から抜け出せなかった失意の日々を思い出さずにいられませんでした。刘さんと連絡を取り続ければ、騙されるかもしれないと心配になりました。そこで、真理を探究するチャンスを捨て去り、全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す準備をしました。しかし彼らとの付き合いを全て思い起こしてみると、「彼らの品行、生き方、雄弁さはどれを取っても立派で、悪い印象を残したことはなかったな」と感じ、躊躇しました。その時期、刘さんからたくさんのメッセージやいくつかの映画や動画が送られてきましたが、私はどれも見ませんでした。礼儀として、「刘さん、もう何も送らないでくれませんか」というメッセージを送ると、すぐに返信が来ました、「ウィリアムさん、送ることに別に意味はありません。ただじっくり吟味してから、決断してくれるように願っているだけです。神は、神の働きを受け入れることを誰にも強制されません。私は自分の尽くすべき本分を尽くしたいだけです。そうしないと良心が落ち着きませんし、兄弟姉妹のいのちに責任を持たないことになります。」彼の言葉はとても誠実でしたが、噂に騙されていた私の心はそれでも動きませんでした。以後、二度と彼のメッセージに返信することはなく、尚も全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す気でいました。私と共に学んでいた姉妹のエラにこの決意を伝え、彼女は私の話を聞くと、「主の再臨を迎えることは大変なことだから、真剣に受け止めるべきだわ」と、自身の考えを話してくれました。また、「結論を急いだり、簡単に諦めたりしないで、主にもっとお祈りして、神のお導きを求めるのよ」としきりに勧められましたが、彼女の言葉を聞いて、途方に暮れてしまいました。

   このような経緯で、私は跪いて神に祈り、このように求めました、「主よ!私は今、非常に当惑しています。東方閃電の道に耳を傾けた後、私は確かに多くの真理や奥義を理解し、彼らがいい人たちだと感じました。しかしどうして世界で最も権威あるウィキペディアに、東方閃電に対して批判的なプロパガンダが書かれているのでしょうか。全能神教会は神の教会ではなく人間の組織であると書かれています。ああ、神よ!間違った道を歩んでしまうのではないかと不安です。サタンの罠にかからないよう私を導き、お守りください。」お祈りをして大分心が落ち着きましたが、よくよく考えてからもまだ心配でした。そこで、昔通っていた教会の、仲が良い年長の姉妹に自分の考えを伝えました。私の話を聞いて、彼女はこのように話してくれました。「ウィリアムさん、どんなことになっても、神の御前では心を静めて、何度も祈りましょう。そうすれば聖霊があなたを啓いて、人や出来事や物事を通して語りかけ、導いてくださいます。」翌日、教会に行く途中で姉妹は次のような話を聞かせてくれました、「主の信仰者の1人が危機に遭った時、神に救いをお願いしました。神は救いのチャンスを三度与えられましたが、彼はその内どれも掴まず、毎回、『結構です。私は主に祈ってきました。主が私を救ってくださいます』と言いました。死に際になってようやく、これら三度のチャンスは神が彼を救わんとして与えられたものだったのだと悟りました。自分でチャンスを掴まなかったために、死んでしまったのです。」この話に私は深く心を動かされ、「そうだな。主がチャンスを与えてくださったときは、注意して、掴み取らないと」と思いました。教会に到着した後で再び主にお祈りし、「どうすべきか教えてください」と懇願しました。説教を聞いたとき、道中で姉妹から聞いたものと同じ話を牧師が不意に語りました。その瞬間、私は心底驚きました。「すごいな。一日に二人から同じ話を聞くなんて。主がこのような状況を通して俺にどうするべきか教えてくれているのか。」主に大変感謝いたします。私は東方閃電を求め、調べ続けることを決意しました。

   その後、ネット上で刘さんと連絡を取り、自分の疑問を伝えました。「刘さん、あなたがこの前話してくれたことにはある程度納得します。どこも間違っていないと思います。ただ、全能神教会に対しては中国共産党政府が非難しているだけでなく、ウィキペディアまで批判的なプロパガンダを掲載しており、趙という名前の人物が設立した人間の組織であるという記述があります。この件についてはっきりと理解できないので、この側面の真理について教えて頂ければと思います。」

 

 

   それを聞いた刘さんから「赤の家庭教育」という映画の抜粋シーンを送られ、一緒に観ました。映画の主人公であるシャオイーはこのように語りました。「なら教えてよ、キリスト教の創始者は誰?カトリックを立ち上げたのは誰だい?創始者はパウロかな?それともペテロ?ユダヤ教はどうだろう?モーセが創ったのかな?バカバカしいと思うでしょ?…キリスト教の各派が、本当に人間の手によって創られた組織だって、そう思ってるの?そんなにバカげた話はないよ。主イエスが現れなかったら、信者や従者は存在しなかった。キリスト教も生まれなかった。それが事実でしょう?使徒たちだけで教会を創るなんて無理だ。確かに人々を率いたのは使徒のペテロやヨハネだったさ。だからって、キリスト教は使徒たちが創ったことになるの?全能神教会は全能神の出現と働きで創られた。全能神が明かされた真理から、神様の声を聞いた人たちが、集まってできた教会だよ。聖霊に用いられる人が、全能神に自ら証しされ、教会の先導者となった。恵みの時代の使徒たちや、律法の時代のモーセのように、神様に用いられたんだ。神様に選ばれた人々に水を注ぎ、彼らを導くために人の本分を尽くす。…全能神が現れなければ、全能神教会は誕生しなかったはずだ。それは紛れもない事実だよ。…全能神の信者はその名において祈りを捧げる集会で語りあうのは全能神の御言葉だよ。…教会の信者が信じるのは全能神だ。そしてその御言葉のとおり、聖霊に用いられる人に従っている。それが事実だ。」次に、主人公の妹のシャオルイが全能神の御言葉と神の国の時代に全能神が発布された行政命令を読みます。神の御言葉にはこうあります。「神が用いる人が行う働きは、キリストや聖霊の働きに協力するためのものである。この人は、人間の間にあって神により立てられ、神により選ばれた者全員を率いるために存在する。また、その人は、人間が協力して行う働きをするよう神に立てられている。…しかし、神が用いる人は神により整えられた人であり、ある種の素質を備え、人間性を持ち合わせているのである。そういう人は聖霊により前もって整えられ、完全にされており、聖霊によって全てが導かれ、特にその働きについては聖霊により指導され、命じられる─そしてその結果、神に選ばれし者らを導く道からは逸れることがない。なぜなら、神は確実に自らの働きに責任を持ち、神は常に自らの働きを行うからである。」

   「教会の仕事や事柄に関し、神に従うことは別として、すべてのことについて聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。絶対的に順守するべきであり、正誤を分析してはならない。何が正しいか、間違っているかはあなたには関係がない。あなたは全面的に服従することだけを気にかけなければならない。」

   全能神の御言葉を聞き、主人公シャオイーが言ったことは正しいと思いました。神の現れと働きがなければ、私たち人間には教会を設立する術はありません。旧約の律法の時代、ユダヤの信仰者はモーセが率いていましたが、ユダヤ教がモーセによって創始されたと言える者はいません。ペテロやパウロも当時教会を指導しましたが、カトリック教やキリスト教がペテロやパウロによって創始されたと言える者はいません。今は神の国の時代です。全能神の御言葉は、聖霊に用いられる人が用意され、教会を指導すべく神によって起こされていることを明確に示しています。それはちょうど律法の時代にヤーウェが、当時のイスラエル人を導かせるためにモーセを起こしたのと同じです。全能神教会は聖霊に用いられた人によって設立されたと言う人がいれば、それは実に間違っています。


霊的戦い:子供が病気にかかったが、私は神様の特別な恵みを見ました(II)

2019-04-29 21:44:37 | 霊的戦い

娘が又しても病に陥り、祝福を求める私の動機が明らかにされました

   その数日後、私は次女の太ももの内側にしこりのような物を発見しました。私が彼女を病院に連れて行くと、それはリンパ節だと医者は言いましたが、血液検査をしても原因は分かりませんでした。娘が声をからすほどに泣くのを見て私の心臓は引き裂かれそうになりました。切羽詰まった私の夫は地元で古くから伝わる治療法を見つけてきて、塩を熱し、それを毎日彼女の腫れ上がったリンパ節に塗りました。その数日後、しこりは少し小さくなったものの、無数の赤い斑点が彼女の体中に出てきたのです。私はもう一度彼女を急いで病院に連れて行きました。すると、医者は彼女を検査して、それはウイルスが引き起こしているもので、リンパ節内のウイルスを抑制することができれば、彼女は直ぐに良くなるけれど、発疹の上に水疱が出始めたら問題である、と言ったのです。これを聞いていると私の心はとても痛み、神を非難する心が又しても頭をもたげてきたのです:「彼女が病気になってからもう相当時間が経つわ。どうして彼女は良くならないの?私は祈って、悔い改めているのに。サタンはどうしてまだ娘をこんな風に痛めつけるの?神はどうして私の子供を助けてくれないのよ?」

霊的戦い,子供が病気にかかったが,私は神様の特別な恵みを見ました(II)

   集会の場で、私は自分の状態について話しました。ジン・ヤン姉妹は心配そうな口調で私にこう言ってくれました。「姉妹、母親として自分の子供が苦しむのを見ることはさぞ負担になることでしょう。でも私たちは信仰による人々です。私たちは、全てが神の御手の中にあると信じなければなりません。私たちは神の全能なる支配を認めなければならないのです。神のお許しがなければ、サタンはどれだけ暴れても私たちには何もできません。神の御言葉を一緒に読みましょう。」

   私は読みました、「神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。」

   ジン・ヤン姉妹はこのように交流してくれました。「全能神の御言葉から、全能神の権威と御力が読み取れます。また、サタンの無力さ、卑劣さ、そして害悪も理解できます。私たちの考えとして、サタンは私たちを傷つけ、病気にし、不幸にさらすことができます。サタンは私たちを苦しめ、困らせ、人間にはできないことが出来るように思えます。しかし、神からしたら、サタンは地上の蛆にすら及びません。それは単に奉仕する物であり、引き立て役に過ぎないのです。それは神の働きを妨害し、邪魔することしかできず、全く何の能力も持っていません。神のお許しがなければ、サタンは私たちに何もしようとしません。ヨブ聖書に記述されている試練を受けた時も同じでした。サタンはヨブが神を恐れ、悪を避けていたことを嫌い、ヨブを滅ぼして神が栄光を手にできないようにしようとうずうずしていたのですが、サタンはいかに獰猛であろうとも、神のお許しなしにはヨブの頭の毛1本すら傷つけようとしなかったのです。これは神の権威が定められたことだったのです。あなたの子供も神の御手の中にあります。なので、神がお許しにならない限り、サタンは彼女を傷つけようとはしません。だからこそ、私たちはこのような状況に直面する時、神への信仰を持たなければならないのです。」

   私は彼女の交流を聞いた後、心の中でこう思いました:「正にその通りだわ!神のお許しがなければ、サタンは私の娘に何もできないのよ。それは事実なんだわ!以前、神のこの御言葉を読んだことがあったのに、どうしてこの状況に直面したとたんに忘れてしまったのかしら?私の神への信仰はなんて薄いのかしら!」

   ジン・ヤン姉妹は続けてこう交流してくれました:「神は意味の無い働きは一切されません。神の優しい御旨はこのような状況が私たちに降りかかることを許すということに込められており、それによって私たちが霊的にどれだけ未熟であるのか、そして私たちが神に対して真の信仰を大して持てていないということを示す事実を明らかにしてくださるのです。それはまた、私たちの信仰に対する考え方が間違っていることも明らかにしてくださりました。私たちは信仰する中で、常に祝福を求めること、取引をすることを考えており、不純な心を持ち過ぎているのです。姉妹、神の御言葉の他の節も読んでみましょう。」

   私は熱心に読みました。「あなたがたは、神を信じる人々は神を愛すべきであり、祝福のためでなく、神の旨を満たすためだけに努力すべきであると言うが、あなたがたの生活の中に現れているものは、それとは程遠く、ひどく汚れている。ほとんどの人々が、平穏やその他の利益のために、神を信じている。あなたは、自分の利益にならなければ、神を信じず、神の恵みを受けられないのであれば不機嫌になる。これがどうしてあなたのほんとうの背丈でありえようか。家族の中で避けられない出来事(子どもが病気になる、夫が入院する、農作物が不作に見舞われる、家族の者たちからの迫害等)については、あなたは、日常生活で度々起こるこうした出来事を乗り越えることすら出来ない。このような事が起きると、あなたは当惑してどうして良いか分からなくなる――そして殆どの場合、神について不満の言葉をこぼす。神の言葉に騙された。神の業が自分を混乱させたのだと、不平を言う。あなたがたは、そのような思いを抱いたことはないだろうか。このようなことが自分に起こるのは希であると思っているだろうか。あなたがたは、こうした出来事のただ中で生活し日々過ごしている。あなたがたは、神への信仰を成功させることや、神の旨を満たす方法については、少しも考えることが無い。あなたがたの真の背丈は小さすぎる。それは、ひよこよりも小さい。」(「実践(3)」より)

   ジン・ヤン姉妹はこのように交流してくれました:「神は私たちの信仰の誤った観念と動機を明かしてくださりました。私たちは、神を信仰しているのだから、神は私たちを守るべきで、家庭でも不幸が起るはずがない、私たちと私たちが愛する人たちは病気に罹らなくてよいはずだと思っています。物事がそうなれば、私たちは生気をもって信仰するのですが、そうでなければ否定的な姿勢の中を生きて神を非難してしまいます。時に、私たちは神に祈り、自分たちの堕落を省みて、神を頼り、このような不幸な出来事を神の御旨に委ねることもありますが、心の中では神が自分たちの要求を満たし、平安と祝福を与えてくださることを期待し続けています。神が私たちの要求を満たしてくれないと、私たちは神を非難し、状況がひどく悪化すると神を見捨ててしまう場合すらあります。これは、私たちは信仰する中でただ単に神と取引をしているだけで、それは恵みと平安を手にするためだけのものであるということを示しているのです。これはあまりにも不純過ぎます。神は創造の主であり、私たちは創造物です。神が私たちに平安と祝福を与えてくださっても、与えてくださらなくても、私たちが神を信仰し、礼拝すべきであるというのは、変わることのない天地の原則です。それは私たちの本分なのです。ならば、私たちは期待に反する状況に遭遇すると、どうして神を非難するのでしょうか?サタンは人類が堕落する全体的な原因です。サタンは常に人々を傷つけ、苦しめ、私たちの苦しみは全てそこから生まれています。神を信仰し始める前、私たちはよくサタンから傷つけられ、ありとあらゆる種の病に罹っていませんでしたか?ならば、どうしてサタンを嫌わないのでしょうか?それは良心と理知を顕著に欠いていると思いませんか?考えてみてください、信仰を持たない中で子供が病気になったら、私たちはただパニックに陥るだけです。私たちはどうしていいのか分からず、増々辛い思いをします。しかし、私たちは神を信仰しているので、私たちには拠り所があるのです。私たちは自分たちの信仰がその状況を乗り越えさせてくれると信頼できると同時に、それによって真理を理解し、人類を傷つけるサタンの邪悪な本質を見抜くこともできるのです。私たちは神の全能なる支配をもっと理解することができ、私たちの神への信仰も厚くなり、私たちの霊的背丈も次第に成長することができます。これは神から私たちへの特別な恵みと祝福であると同時に、私たちが教訓を学び、真理を得るための貴重な機会でもあるのです。」

   私は神の御言葉と姉妹の交流を受けて恥かしくなり、動揺しました。私は頷いて、自分が本当に良心、理知、そして人間性を欠いていたことを知りました。私の神への信仰は自分が恵みと祝福を得るためだけのものだったのです。神の祝福を受けた時、私の心は喜びで満ち溢れました。しかし、試練が降りかかり、自分の子供が病気になり、素早く回復しないとなると、私は神を非難し、誤解していました。サタンは私が神の救いを受けるのを妨げるために、私の子供が連続的に病気に罹るようにしていました。私はサタンを嫌うかわりに、神を非難していたのです。これは極めて理不尽なことです。当時のことを振り返ってみると、私は集会に参加したり、神の御言葉を読んでいても、自分の娘の病気のことが気掛かりでそれに情熱を傾けることができていませんでした。私はサタンの妨害を受けて取り乱していました。私は本当に霊的に未熟なのです!

   ジン・ヤン姉妹は考え込むように言いました:「姉妹、私たちは神の御言葉を読んで、神の御心を理解したじゃありませんか。まだ子供の病気のことが心配なんですか?」

   私は照れながら笑みをこぼし、首を振ってこう言いました:「もう心配はしていません。私の娘が神の御手の中にあることはもう理解できましたから。ただ、私の信仰が弱すぎるだけです。私は今回の試練を通じて神に文句を言ってしまったにもかかわらず、神は私に御慈悲を差し伸べてくださり、変わらず私を導いて、私が真理を理解できるようにしてくださりました。神に感謝です!私は真理を追い求めることに更なる努力を注ぎ、神の試練を受け入れられるよう霊的に成長する必要があります。私はもう神を非難して、サタンの餌食になるわけにはいかないのです。」

   ジン・ヤン姉妹は笑顔で頷いてこう言いました。「私たちの信仰が弱いのはまだ神の全能なる支配を正しく理解できていないからです。私たちは神の唯一なる権威と御力を認識していると口では言うことができても、実体験を欠いているのです。」彼女はそう言いながらコンピュータの電源を入れてこう言いました。「ドキュメンタリー 『万物の主権を握るお方』 を見ましょう。」

   私は嬉々として頷き、コンピュータを見つめました。私はジン・ヤン姉妹がYouTubeでそのタイトルを検索して、それを軽くタップするのを見ました。すると、音楽が鳴り始め、壮大なイメージが目の前にぱっと映った瞬間、私は強く感動しました。

後記

   太陽が沈み、夕日は空の半分に柔らかみのある真っ赤な夕焼けを残しました。公園で散歩をしている人たちがいれば、ボールで遊んでいる人たちもいました。子供たちは芝生の上でお互いを追いかけ回して遊んでいました。私は神の御言葉の讃美歌を聞きながら芝生の上に座り、よろよろと進みながら、歩こうと頑張っては、転がり、またはい上がる娘の明るい笑顔と活気にあふれる愛らしい姿を眺めてました。私は嬉しさのあまり、笑みをこぼしました。