賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

主は違う御姿で再臨されるのでしょうか

2020-06-15 22:56:17 | 信仰Q&A

   信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

   お尋ねしたいことがあります。聖書には「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(使徒行伝 1:11)、という記述がありますが、主イエス様はユダヤ人の姿でユダヤ人の服装をまといながら天に上られたのだから、再臨される時もユダヤ人の姿で降臨されるものだと私はいつも思っていました。しかし、ある集会の時、説教師はこの預言は主がユダヤ人男性の姿で降臨されるといっているのではなく、私たち人間は預言の奥義を理解することができないため、自分たちの想像を基に再臨される主の御姿がユダヤ人の姿になると決めつけることはできないし、そうしてしまうと私たちは恐らく主をお迎えする機会を逃してしまうと言われたのです。なので、私は今とても困惑しています。主はお戻りになる際はユダヤ人男性の姿で私たちの前に現われるのでしょうか?もし御姿を変えられたら、私たちはどうやって主に気が付いて主の再臨をお迎えすればいいのでしょう?この質問に関して、ご教示いただければ幸いです。

   シーイン

 

 

   姉妹イーシン、こんにちわ

   私も以前、主イエス様は再臨される時、以前と変わらずユダヤ人の御姿になられると信じていました。しかし、後に、私は聖書とその他の情報を細かく研究してみると、自分の理解は擁護できるものではないことを知りました。なぜなら、神の御姿は私たちが定義できるものではないからです。誰もが知っての通り、神は律法の時代にしばの中で炎に身を包みながらモーセの前に現われ(出エジプト記3:1-4参照)、主イエス様は、恵みの時代に働きをされていた時、弟子たちの前でその御姿を変えられました。そのことはマタイ17:1-2にこう記されています、「六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。」これより、神の御姿は変わることがあり、私たち人間が定義できるものではないことが分かります。

   聖書にこういう記述があります、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」(ヨハネによる福音書 4:24)。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」(ピリピ人への手紙 2:5-7)。これらの節より、神は霊であり、形を持たず、無定形であることが分かります。神は働きの必要性に応じて、ユダヤの地で人類の罪を贖う段階の働きを行う必要がありました。従って、神は十字架に磔にされる働きをより好適に成就するために、ユダヤの地でユダヤ人のかたちで受肉されました。しかし、私たちは主イエス様の御姿をもって神の御姿を定義して、主イエス様は再臨される時、ユダヤの地におられた時と同じ御姿で来られるという確信に至ってはなりません。もしも、主が再臨される時にその御姿を変えられる場合、ユダヤ人のかたちでないことを理由に主を受け入れることを拒否してしまうと、私たちは携挙される機会を逃してしまいます。こうすることは、聖句の預言を基に、来臨されるメシアが宮殿の中で特別な魅力と、崇高なかたちでお生まれになると決めつけていた過去のパリサイ人と同じです。しかし、主イエス様はその御姿をお見せになり、働きをされた時、普通の人間のかたちをとられました。さらに、主は彼らの観念および想像とは異なる働きをされました。従って、パリサイ人は主イエス様のことをメシアではないと決めつけ、最終的には主を十字架に釘付けにして神を怒らせてしまったのです。パリサイ人の犯した失敗を知る私たちは、自分たちの観念と想像によって再臨される主のかたちを定義してはいけないのです。

   今は主イエス様の来臨をお迎えする重大な時です。主が再臨される時にそのかたちを変えられるとしたら、私たちはどうやって主に気が付いて、主をお迎えすればよいのでしょうか?主イエス様が以前働きをするために来臨された時、主に従っていた弟子と信者たちは、主の御言葉と働きによって主がメシアの再臨、キリスト様であられることに気が付いたのです。それはヨハネによる福音書1:47-49にこう書かれています、「イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、『見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない』。ナタナエルは言った、『どうしてわたしをご存じなのですか』。イエスは答えて言われた、『ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た』。ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』。」 最初、ナタナエルは主イエス様がメシアだとは信じていませんでしたが、主イエス様がいちじくの木の下で彼が言ったことを知っていると言った時、彼は主イエス様がメシアの来臨であることに気が付き、主に従うようになりました。他の例としてサマリア人の女を挙げましょう。彼女も最初は主イエス様がメシアの来臨だとは知りませんでした。しかし、夫が五人もいるという彼女の秘密を主が暴露された時、人間の心の一番奥深い所までお調べになるのは神だけだということを知っていた彼女は、すかさず主イエス様がメシアだということに気が付きました。ペテロ、ヨハネ、マタイ、そしてマルコといった人たち全員が主イエス様はメシアであるということを主の教えの内容から気が付き、その結果、主に従うようになり、主の救いを得ることができたのです。

   主の再臨について、聖書には以下のような預言がたくさん書かれています、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書 10:27)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これに加え、ヨハネの黙示録にはこの預言もあります、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:29)。 これらの預言から、神は終わりの日に現れて働きをされる時、御言葉を話されるということが分かります。神の羊は神の御声を聞き、主をお迎えに出ることができるので、神の御前に引き上げられていきます。主イエス様はかつてこう仰りました、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)。私たちは主が再臨される時、どのようにして私たちの戸を叩かれるかは分かりません。私たちは神の御声を教会の兄弟姉妹たちから、または福音を宣教しに来る親戚や友人たちから、またはインターネットやその他の場所から聞いて、全ての教会に向けられる神の御言葉を知ることになるのかもしれません。しかし、主がどのような形で私たちの戸を叩かれようと、それが私たちの観念と想像に合っていてもいなくても、私たちは賢い乙女となり、虚心に神の御言葉を求め、調べ、それに耳を傾けなければなりません。神は間違いなく、私たちが神の御言葉から神の御声を認識し、そして主の再臨をお迎えできるように私たちをお導きくださると、私は信じています。

   信仰ステーション


3つの方法であなたに真の道と偽の道を判別すること教えます

2020-06-14 20:12:24 | 信仰Q&A

   信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さん、こんにちは:

   ここ数年の間、牧師と長老たちは私たちにこう言っています。「私たちは今、終わりの日後期に突入しました。ありとあらゆる災害がより頻繁に発生し、その勢力もどんどん増しています。そして、主が再臨されるという預言は既に基本的に成就しています。これは主が近々再臨されることを示唆しています。しかしながら、異端と偽の道もどんどん出てきます。なので、私たちは警戒し、祈り、主の道に従う必要があります。主が再臨されたと宣教する人がいても、私たちはそれに惑わされて神に捨てられてしまわないよう、その人の宣教を聞いたり、読んだり、その人と接触してはなりません。」しかし、兄弟姉妹の多くは困惑しています。「惑わされるのを恐れて主の再臨の知らせを聞くことも、読むことも、それを宣教する人と接触することも拒否していたら、私たちは扉を閉ざして、主をお迎えするのを拒否していることにならないでしょうか?私たちはこのように惑わされるのを恐れて心を閉ざしていても、主の再臨をお迎えすることができるのでしょうか?」そこで、私からの質問は「惑わされるのを恐れて心を閉ざし、独りで待機するというのは正しいことなのですか?」ということです。この質問に対する皆さんの見解を聞かせていただけないでしょうか?どうぞ、宜しくお願いします。

   敬具、

   グアンミン

   2019年2月1日

 

 

   グアンミン兄弟、こんにちは:

   あなたからのメールを受け取りました。あなたが提起されたご質問はとても重大なものです。その理由は、私たちが主の再臨をお迎えできるかどうかにそれが直接つながっているからです。実は、主を信仰する兄弟姉妹の多くもこれについて困惑しています。では、これについて交流していきましょう。

神からくるものは私たちを勇ましく、毅然としてくださります。恐れはサタンからくるものです。

   終わりの日には、主がまた来臨され、ありとあらゆる異端と偽の道も出てきます。これらは事実です。主の再臨をお迎えするというこの重大な節目において、私たちは惑わされることを恐れて、主の再臨に関する知らせを聞くことも、読むことも、それを宣教する人と接触することも拒否しています。こうすると、私たちは偽の道に惑わされることはありませんが、真の神に対して簡単に扉を閉ざしてしまうことになります。一見、安全な対応のように見えますが、それにはサタンの企みが込められているのです。サタンは私たちが積極的に神の歩みを求め、神に立ち返ることを恐れています。それ故に、サタンは私たちを惑わして、抑制するために、私たちにその思考を送りつけたり、異端や虚偽を広めます。この結果、私たちは消極的に自分たちを守る姿勢をとり、誰かが主イエス様の再臨を証言しているのを耳にしても、それを探求したり、調査しようとしなくなってしまいます。こんなことをしていて、どうしたら主の再臨をお迎えできるというのでしょうか?主の再臨をお迎えするにあたり、異端と誤った教義から自らを守るということを主な行いとし、真の道を探求し調査することを重要視していなければ、それは ‘一文惜しみの百知らず’ ということに陥ってしまわないでしょうか?実際、私たちは異端と誤った教義からどのように自分たちを守っていようとも、主の再臨をお迎えして神の御座の前に行くことができなければ、最終的には神に排除され、捨てられる愚かな処女ということになります。神は全能であり、この世の全てが神の御手の中にあるということは誰もが知っています。ヤーウェ神はかつてこう仰りました。「心を弱くしてはならない、この地で聞くうわさを恐れてはならない」(エレミヤ書51章46節)。そして、テモテへの第2の手紙1章7節にもこう記されています。「 というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」 これらの節から、神が私たちにお与えくださるものは力と勇気であり、恐れのもとはサタンにあるということが分かります。私たちには神の気遣いと加護、それに聖霊の存在と導きがあります。惑わされることを心配したり、恐れる必要があるのでしょうか?神の羊は神の御声を聞くことができます。本当に知力と裁量を持つ人なら異端と偽の道に惑わされることはないでしょう。困惑して知力を欠く人たちのみが異端と偽の道に惑わされてしまうのです。私たちは主の再臨を探求して調べる時、誠実な気持ちで神を頼り、仰ぎ見て、真理を求めてさえいれば、神の導きと指導を受け、神の御言葉通りに真の道と偽の道を見極めることができ、偽の道に惑わされずに済むと、私は信じています。しかしながら、牧師と長老たちは主の再臨に関する福音を聞いたり、読んだり、それと接触することはないようにと私たちに言われます。これは明らかに主の御心に完全に反しています。彼らは私たちが真の道を調査するのを妨げており、私たちが主の再臨をお迎えする機会を台無しにしているのです。私たちはこれを明確に理解しておく必要があります。

信仰は聞くことによるのであり、真の道は探求し調査してのみ得ることができます。

  聖書にはこう書かれています。「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ人への手紙10章17節)。これ故に、私たちは信仰を始める前に、先ずは道を聞く必要があります。その道を聞いてのみ、私たちはそれが真の道であるのかどうか、そして神の顕現と働きについて判断することができるのです。主イエス様が働きをされた時のことを振り返ると、当時のパリサイ人は主をはなはだしく中傷し、非難し、主の働きが真の道であることを否定し、さらに彼らはユダヤの民を騙して探求も調査もしないように仕向けていました。彼らの本性を見極められなかったユダヤの民はむやみに彼らの言葉を信じ、主イエス様の説教を聞くことを拒否してしまい、彼らに従いながら主イエス様を十字架に釘付けにするという最大の罪を犯してしまったのです。しかし、ペテロ、マタイ、マルコ、ヨハネといった人たちはパリサイ人の広めた噂を信じなければ、それに惑わされることを恐れて主の福音に耳を傾けないということもありませんでした。むしろ、彼らは切に探求する心をもって主イエス様の説教を聞き、主がどこで説教されていても、主イエス様の説教に耳を傾けたのです。彼らは探求して切望する心を持っていたために、主イエス様の御言葉には権威があり、それは神の御声であることに気が付き、最終的に主がメシアであったことを確認することができたのです。彼らは神の救いと祝福を授かりました。これは全て彼らが真理を求める心を持って主の説教を聞きに行っていた故に実現したことだったのではないでしょうか?

   ヨハネの黙示録には、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2章、3章)、という預言が何度も出てきます。主イエス様はこうとも仰せられました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書25章6節)。 主イエス様は、終わりの日に再臨される時にはもう一度御言葉を語られ、そして誰かの「呼ぶ声」を通して私たちに再臨のことを伝えられると明確に私たちに仰りました。これ故に、私たちは主の再臨をお迎えすることについて、探求心を持つ必要があります。主の再臨を誰かが宣教しているのが聞こえる時、それは主が私たちの扉を叩いておられるのです。私たちは賢明な処女になり、積極的に求め、調査し、神の御声を聞くことに注意を払い、そしてその道には真理があり、聖霊の働きが宿っているのかどうかを確認しなくてはなりません。そうすることでのみ、私たちは主の再臨をお迎えすることができるのです。

大切なことは真の道と偽の道を見極める方法を学ぶことです

   これで、主の再臨をお迎えしたければ、消極的に守りの姿勢に入るのではなく、積極的に探究する必要があるということが分かりました。加えて、その最も重要な部分として、私たちは真の道と偽の道を見極める原則を学ぶ必要があります。それができてのみ、私たちは惑わされるのを避けることができます。ならば、どのようにしてそれらを見極めればよいのでしょうか?先ず初めに、次の御言葉を読んでみましょう。「真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる。」「もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。」

   この御言葉より、真の道には聖霊の働きが宿っているということが分かります。これが真の道と偽の道を見極めるための鍵となります。真の道であれば、それは間違いなく神御自身の働きであり、聖霊に支持されているに違いありません。例えば、主イエス様が働きに来られた時、主は律法の時代の幕を閉じ、恵みの時代を開かれ、悔い改めの道をもたらされました。主イエス様に従っていた人たちは全員が、主に呼び掛けてさえいれば、聖霊の働きを受けて主がお与えくださる豊かな恵みを授かることができました。人々は罪を犯しても、誠実な心をもって主に祈りを捧げてさえいれば、その人々の罪は許され、心は平安と幸せで満たされました。人々はどのような困難や問題に遭遇しても、主の御言葉通りに実践してさえいれば、その人々の魂は自由と解放感を得ることができました。そうしないと、彼らは罪悪感で満たされ、心の中では主に対する恩義の念に駆られました。人々は主の御言葉と働きを断続的に体験するにつれて、主への信仰が増々厚くなり、主への愛も次第により深くなり、彼らは主のために全てを脇に置いて、主の福音を伝導することによって自分たちの存在そのものを主イエス様に捧げる意思を持つようになりました。主イエス様の働きはローマ政府とユダヤの宗教界による見境のない非難と迫害を強いられましたが、主の福音はそれでも見事にユダヤの地全体に広まって行きました。心から神を信仰し、神の顕現を切望した人々は全員が主イエス様の救いを受け入れて、神の御前に立ち返りました。そして2千年が経った今、主イエス様の福音は世界の隅々まで宣べ伝えられ、キリスト教は多くの国々で正式に国教とされています。そして、この全ては聖霊の働きの結実なのです。その一方で、偽の道には聖霊の働きによる導きも加護もありません。なので、その信者が神への真の信仰や真の愛を持つことはありません。さらに、彼らは、初めはどれだけ熱心に見えても、すぐに去って行ってしまいます。私たちがよく言う「神からのものは栄え、人からのものは滅びる」、というのは正にこういうことなのです。このようにして、私たちは聖霊の働きが宿っているかどうかによって、それが真の道であるかどうかを見極めることができるのです。

   これに加え、それが真の道であれば、真理といのちが見られるはずです。主イエス様は仰りました。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)。 神はいのちの源です。神のみが真理を表し、私たちにいのちを与え、私たちが現在必要とすることを備えることがおできになります。そして、神のみが、私たちに現実的な道を指し示し、私たちの抱える問題、当惑、そして困難の全てを解決することがおできになります。例えば、律法の時代末期には、神の律法と戒めを守れる人はいなくなり、自分たちの罪を償うのに十分な罪の捧げものを持っている人はいませんでした。それ故に、当時の人々は律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。こうして、当時の人々の欠乏を補うため、神は人類の罪を贖う働きに着手されました。主イエス様は、多くの真理を仰せられ、私たちに人間にお互いを愛し合うこと、寛容で寛大な心を持つこと、敵を愛すること、他人を幾度でも許すことを教えてくださりました。主はまた、義に飢えかわき、義のために迫害されてきた人々は幸いであり、その人々は神に認められた人々であること、そしてその一方で、偽善的で、他人を欺き、真理を嫌う人々は神によって忌嫌われ、非難されてしまうということも私たちに仰せられました。加えて、主イエス様は、苦難に耐えながら主に従うこと、霊と真をもって神を礼拝すること、心と精神をつくして神を愛すること、神の御心に従うこと、正直な人になること等、私たちに対して様々な要求をされました。主イエス様の御言葉から、神の御心と要求が理解できると同時に、神がどのような人を好み、嫌われ、どのような人が天国に入れるか、人々はどのように神を愛し、どのように他人を扱うべきか等が分かります。主の御言葉に従って実践すれば、私たちの抱える困難、問題、そして当惑は解消され、私たちは成長して増々真理を理解できるようになり、私たちの人間性は増々正常になり、私たちの神との関係はより親密になるのです。この全てが主の御言葉が私たちにもたらす効果なのです。これより、真の道には真理といのちが見られ、それは人々が必要とすることを備え、人々に実践の新たな道をもたらしてくれるということが分かります。その道が人々に真理をもたらさず、実践の新たな道を示すこともなく、神が以前なさった働きや、仰せられた御言葉を繰り返す、または真に見えても実は偽であるといった教義を人々に幾つか理解させる、または人々に古い規則を幾つか守らせるだけのものであるとしたら、それは真の道ではありません。それは、おそらく、古い道であるか、偽の道、あるいは神が過去になさった働きを真似る悪霊とサタンが人々を惑わすために行っている働きである可能性があります。

   真の道を見極める上で考慮する必要がある3つ目の原則は、その道が人々に神の更なる認識を与えてくれるかどうか、そしてそれが人々の内に神への愛を芽生えさせるかどうかを確認するということです。神は働きをしに来られるため、必然的にその性質、ならびに神が有する全てと神そのものを示されるということを、私たちは誰もが知っています。人々は神の働きを体験する時、自然と神の真の理解に至ります。これは、律法の時代に、ヤーウェ神が地上で人々の生活を導くために律法を発布されたのと同じです。人々は、神に仕えた祭司であろうと、一般の民であろうと、律法と戒めに従い、神の要求通りに振る舞ってさえいれば、神の祝福と承認を得ることができました。対照的に、祭司たちは律法と戒めに従わなかった時、天から降る炎によって焼き殺されました。一般の民が律法と戒めを破った時、彼らは石で撃ち殺されてしまいました。神の働きを体験したことにより、彼らは神が御霊であり、至る所におられること、神は全地を見ておられ、人々の心の奥底を覗かれること、神の性質は威厳、怒り、呪い、焼き尽くしであり、それはいかなる人でも害することができないものであると認識しました。これ故に、彼らは神を恐れる心を持つようになりました。恵みの時代に、受肉された神は人類の罪を贖う段階の働きをするために地上に来られました。主イエス様は病人を癒し、悪霊を追い出し、私たち人間に豊かな恵みをお与えくださり、寛大で寛容な心を持ち、敵を愛し、他人を幾度となく許すこと等を教えてくださりました。そして、主は人間のために自らが模範にもなってくださりました。主イエス様の働きを体験したことにより、神の性質は怒り、呪い、そして焼き尽くし以外に、憐れみと慈しみでもあるということを認識しました。私たちはまた、神は御霊として働きをなさるだけでなく、人間の姿をとって、私たちと直接話しをすることがおできになるということも知りました。神は人間に対する愛で満ちておられ、寛大な心でも満ちておられます。そして、この全てにより、私たちは神の新たな理解に至り、神の謙虚さと魅了的な性質を知ることができました。私たちは神の働きを体験すればするほど、増々神の至高と偉大さを実感し、自分たちが小さいことを感じとり、更には、不可侵の神の聖なる、かつ義なる性質の真の理解を得ることができると感じるようにもなるのです。これ故に、神の性質、および神が有する全てと神そのものは人間の愛を受けるに極めてふさわしいと、私たちは心の内で確信しています。そして、私たちは神に対して純粋な崇敬、敬虔、そして従順の心を持たずにはいられなくなり、真理を貫いて神と同じ心を持つ人になることを増々切望するようになります。従い、それが真の道であれば、それは人々がもっと神を理解できるようにしてくれると同時に神の性質に関するより深い理解を与えてくれます。それを受けて、人々は神に対して真の愛と畏敬の念を持つようになります。しかし、偽の道は神の働きではありません。それは神の性質や神が有する全てと神そのものがほんの僅かもなければ、人々が神に関する真のまたは現実的な理解を持てるようにもしてくれませんし、まして人々に何らかの建設的な結実をもたらすことや、神を愛するように人々を刺激することなど到底できません。

   これらが真の道と偽の道を見極める3つの原則です。主イエス様はこう仰せられました。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイによる福音書7章7節)。 私たちは、誰かが主の再臨を宣教するのを耳にする時、誠実な心をもって真理を求め、それを積極的に調査し、これら3つの原則を基に熟考して見極めてさえいれば、神の導きと啓示を受け、神の御声を聞いて、主の再臨をお迎えすることができると私は信じています。反対に、偽の道に惑わされることを恐れて聞かない、読まない、接触もしないというアプローチをむやみにとり、扉を閉ざして自らを隔離していたのでは、惑わされることを恐れて心を閉ざしているということになるため、決して主の再臨をお迎えすることはできないでしょう。

   グアンミン兄弟、私はこの交流があなたのお役に立つことを願っています。他にも何か問題がございましたら、どうぞ返信ください。

   拝啓と敬具

   信仰ステーション

   2019年2月19日


イエスはご自身の再来の方法が二つあると預言された

2020-06-13 19:48:20 | 信仰Q&A

   全能神教会では、主イエスの再来についてすでに証しをされている。そうですね。全能神は主だと。全能神は終わりの日に裁きを行われる。しかし多くの信者は信じています。主は雲に乗って来られると。主イエスが言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)黙示録にもあります。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7) 私もまた、主が雲に乗って再臨されることと信じています。雲に乗って来られない主イエスは受け入れられません。主の再臨は受肉されひそかになされると言っていますね。でも誰もそれを知りません。主が雲に乗って戻られるのは間違いありません。そのため、私達は主が雲に乗って現れ天国にお連れくださるのを待っています。我々の理解は正しいのでしょうか?

 

 

   解答: 雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません!パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にしてしまった。これは事実ではないですか?主の到来を待つのは、我々が考えているほど単純なことでしょうか?もし主が戻られ肉の主イエスがなさったように人の間で働くが、我々が彼を認めなかったら、パリサイ人らがしたように、やはり彼を裁き、非難しもう一度磔にするでしょうか?その可能性はありますか?主イエスは再来することを予言し、それについて多くを語ったが、あなた方は、主は雲に乗って来られるという予言のみに固執し主が語った他のより大切な予言を求めたり、探究しないでいる。これでは簡単に間違った道を歩んでしまい、主に見捨てられてしまいますね。聖書には、単に「雲に乗って降臨される」という予言のみがあるのではない。他にも、主は盗人のように、ひそかに来られるといった予言が多くあります。例えば、黙示録16:15、「見よ、わたしは盗人のように来る。」マタイ25:6、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」そして、黙示録3:20:「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これらの予言はすべて、神が人の子として肉となり、ひそかに降臨されることに言及しています。「盗人のように」ということは、静かに、ひそかに、という意味です。人々は彼を見たり、聞いたりしても神であることが分からない、その昔、主イエスが現れ、その働きをなさったときのように。外からは、主イエスはただの人の子であり、誰も彼が神であること知らなかった。なので、主イエスは「盗人のように」という例えを使って、人の子としての出現と働きを説明しました。これはあまりにもふさわしい!真理を愛さない者は、肉となった神がいかに語り、働き、多くの真理を表したとしても、それを受け入れない。その代わり、受肉した神をただの人として扱い、彼を非難し、見捨てる。なので主イエスは、再臨するときについて次の予言をしました:「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」主の予言にもとづき、その再臨は「人の子の再来」となります。「人の子」とは、受肉した神を意味し、復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って霊的な体として降臨することを意味するものではない。それはなぜでしょうか?考えてみましょう。それが復活した主イエスが公に、皆の前に雲に乗って降臨する霊的な体のことであれば、非常に迫力があり、世界にショックを与えるでしょう。誰もが地にひれ伏し、抵抗しようとするものは誰もいないでしょう。その場合、再臨主イエスはそれでも多くの苦しみに耐え、その世代から退けられるでしょうか?ですから、主イエスは自分の再臨は、「人の子としての再来」であり、「盗人のよう」だと予言したのです。現実には、それは神が受肉し、ひそかに人の子として来られることを意味しているのです。

   では、人の子がひそかに降臨し、神の働きをなすことと、神が雲に乗って公に現れることとの関係とはどういうものでしょうか?この過程には何が関わっているでしょうか? これについて簡単に語ってみましょう。終わりの日には、神が受肉し、ひそかに人間の間に降臨され、語られ、神の家から始めて裁きの働きをなさいます。神の声を聴き、その王座の前に戻る者たち全員を清め、完成させます。そして彼らを、勝利者の群れとされます。それから神は、大災害をもたらし、終末に神の裁きを受け入れない者たちをよりわけ、罰します。その後、神は雲に乗り、すべての人の前に公に姿を現します。これで黙示録1:7の予言は、完全に果たされます:「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」主が雲に乗り来られるときに、彼を突き刺した者たちも彼が見えるのか?彼を突き刺した者たちとは一体誰なのか?これは主イエスを十字架に釘付けにした人たちだと言う人もいます。本当にそうなのか?主イエスを十字架につけた人たちは、ずっと前に神に呪われ、なきものにされたのでは?現実には、彼を突き刺した者たちは、終わりの日に受肉された神がひそかに降臨され、働かれているとき神の声を聴かず、全能神を非難し、抵抗した者たちです。そのとき、彼らは自分たちが抵抗し、非難した全能神がまさに長年彼らが激しく待ち望んでいた救い主イエスであることを知るのです。胸を打ち、泣いて歯ぎしりしても、その結果は懲罰しかありません。黙示録は、そのような人々が最後には生きるか死ぬかを記していないので、我々は知ることができません。神のみぞ知る。神の声が聞ける賢いおとめたちだけが、主の再臨を迎える機会をもつことができ、神の王座の前で子羊の宴に参加し神により、勝利者として完成されます。これで黙示録14:4の予言は果たされます:「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」だが、主は雲に乗ってくるという考えのみに固執し、終わりの日の神の働きを求め、探究しない者は、愚かなおとめたちと見なされます。ことに全能神に激しく抵抗し、非難するものは、終わりの日における神の働きにより正体が暴かれるパリサイ人や反キリストたちです。彼らは皆、神を再度十字架につけた人たちです。これらの人々は皆、大災害に遭遇し、懲罰を受けるでしょう。雲に乗ってくる主のみを歓迎するという人々の犯した間違い、彼らがどんな人たちであるか、その結果はどうなるのか、ということにつき、皆さんは明白に理解されたと思います。『呪縛を解く』より


受肉した神の働きを経験しそれに従うことによってのみ神を知り得るのはなぜか

2020-06-11 00:11:01 | 信仰Q&A

   「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネによる福音書1:14)

   「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」(ヨハネによる福音書 14:6-7)

   「わたしが父におり、父がわたしにおられる。」(ヨハネによる福音書 14:10)

   「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10:30)

 

 

   関連する神の言葉

   神が受肉していなかった時、神の言葉が完全な神性から発せられたものであったため、人間は神の言葉の多くを理解していなかった。人間には理解できない霊的領域において言葉が表出されていたので、神の言葉の観点と背景は人間にとって見えないものであり、到達不可能なものであった。肉を持つ人間にとって、霊的領域に立ち入ることは不可能であった。しかし神が受肉した後、神は、人間性の観点から人間に対して語り、霊的領域から出てそれを超えた。神は、神の神性の性質、旨、姿勢を、人間が想像できる物事、生活の中で見たり遭遇したりしていた物事により、人間が受け入れられる方法を用い、人間が理解できる言葉で、また人間が把握できる知識で表出することにより、人間が神を理解し知り、人間の能力の範囲内かつ人間に可能な程度で、神の意図と神が求める基準を理解できるようにすることが可能であった。これが、人間性における神の業の方法と原則であった。神が肉にあって業を行う方法と原則は専ら人間性により達成されたが、そうした方法と原則により、神性から直接業を行う事では達成できない結果が実際に得られた。神の人間性による業は比較的具体的であり、真正であり、対象が特定されているものであり、また方法は格段に柔軟であり、形式においては律法時代よりも優れたものであった。「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

   神は終わりの日における新しい働きを行なっている。神はその性質をさらに明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神は新しい働きを担っているので、それは新しい性質を伴う。もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神は受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通して直接語りかけ、人間には神と直接接触する方法がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができたであろうか。もしも霊のみがこの働きを行なったならば、人間には神の性質を知る方法がなかったであろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言が肉に現れるとき、神がその全性質を肉体をもって表現するときだけである。神は本当に人間のもとで暮らしている。神は触れることができる。人間は本当に神の性質、神のもつもの、神であるものと関わりをもつことができる。この方法においてのみ、人間は本当に神を知ることができるのである。「神の働きのビジョン(3)」より

   主イエスが恵みの時代に完遂した業では、神の中にある物事や神の存在に関して、もう一つの側面を見ることができる。それは、神の肉により示され、また神の人間性により、人々が見て理解することが可能になった。人の子となった神の中に、人々は、肉にある神が、神の人間性をどのようにして生きたかを知り、また肉により示された神の神性を理解した。この二種類の表現により、人間は極めて現実的な神を理解し、神に関して異なる考えを形成することができた。しかしながら、世界の創造の時から律法の時代の終焉に至るまで、すなわち恵みの時代の前は、人々が見聞き、経験した事柄は、神の神性面のみであった。それは、神の無形の領域における業と言葉であり、見たり触れたりすることのできない神の真の実体から示されたものであった。こうした事柄により、神が極めて偉大であり、人々は近づけないという印象が人々に対して与えられることが往々にしてあった。神が人間に対して通常与える印象は、神は出現と消滅をくりかえすというものであり、神の旨や考えはすべて神秘的であり、把握が極めて困難であったため人々が到達する術は無く、理解したり認識したりすることなど到底無理であるとさえ感じた。人間にとって、神に関するあらゆる事柄が、人間には見ることも触れることもできないほど遙か遠くに離れていた。神は天高くあったようであり、また神は全く存在しなかったかのようでもあった。そうしたわけで、人間にとって、神の心や思い、考えは、すべて理解不可能であり、到達することさえ不可能なものであった。…主イエスが業を行っている間、人々は、神が多くの人間的な表現を持っていることを知った。たとえば、神は踊ったり、婚礼に列席したり、人間と親交したり、人間と会話し、様々な事柄を話し合ったりすることが可能であった。さらに、主イエスは神の神性を示す多くの業を遂行し、当然ながらそうした業はすべて神の性質を表出し、啓示するものであった。この時期においては、神の神性が、人間が見たり触れたりできる通常の身体により具現化された時、人間は神が出現と消滅を繰り返されている存在、人間の近づくことが出来ない存在であるとは感じなくなった。これに対し、人間は、人の子のあらゆる動作や言葉、業により、神の旨や神の神性を理解しようと試みることが出来るようになった。受肉した人の子は、神の人間性により神の神性を表現し、神の旨を人間に伝えた。また、神は、旨と性質を表出することにより、霊的領域では見ることも触れることもできない神を人間に啓示した。人々が見たのは、肉と骨を持ち、姿形のある神自身であった。そうして受肉した人の子により、神の正体、地位、像、性質、神の中にある物事や神の存在が、具体的かつ人間的なものとされた。人の子の外観は、神の像に関してある程度の制約があったものの、人の子の本質と人の子の中にある物事や人の子の存在は、神自身の正体と地位を完全に示すことが可能であり、表出の仕方に僅かな相違があるのみであった。それが人の子の人間性であるか、人の子の神性であるかを問わず、人の子が神自身の正体と地位を示していたことを否定することはできない。しかし、この時期、神は肉により業を行い、肉の見地から言葉を述べ、人の子という正体と地位により人間の前に姿を見せたので、それによって人間の中にある神の真の言葉と業に遭遇し、体験する機会が人々に与えられた。また、それにより神の神性と、謙遜の中にある神の偉大さについて、人間が知見を得ることが可能となり、また神の真正さと実在に関する暫定的な知識と定義を得ることも可能となった。「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

   イエスに従っている間、ペテロはイエスについて多くの意見を持ち、常に自らの観点からイエスのことを判断していた。ペテロはある程度は霊について理解していたけれども、あまり啓発されることもなかったので、彼は「天の父によって遣わされたお方に従わなければならない。聖霊によって選ばれたお方を認めなければならない」という言葉を発したのである。ペテロはイエスが行ったことを理解していなかったし、何の啓示も受けていなかった。しばらくイエスに従った後、ペテロはイエスが行うこと、言うこと、またイエス自身に次第に興味を持ちはじめた。ペテロはイエスが愛と尊敬の念を呼び起こすのを感じるようになり、イエスと交わり、イエスのそばにいたいと思うようになった。そして、イエスの言葉を聞くことによって彼は、満たしと助けを得た。長らくイエスに従って、ペテロはイエスの生活の全て、つまりイエスの行動、言葉、動作、表情などを観察し、心に留めた。ペテロはイエスが尋常の人のようではないことを深く理解した。イエスの人間としての外観は極めて普通であったが、イエスは人間に対する愛、哀れみ、寛容で満ちていた。イエスが行ったこと、言ったことの全てが他の人々の大きな助けとなり、ペテロはイエスの側で今まで見たことも得たこともないことを見たり学んだりした。イエスには大きな背丈や並外れた人間性はなかったが、実に驚くべき尋常でない雰囲気があることをペテロは見た。ペテロはそれを完全には説明できなかったけれども、イエスの行動が他の誰とも違っていることを見ることができた。というのは、イエスは普通の人のやることとは遥かに違うことをしたからである。ペテロはイエスと接するようになってから、イエスの性格が普通の人とは違っていることにも気づいた。イエスは常に落ち着いて行動し、決して焦ることも、誇張することもなく、物事を控えめに表現することもなく、ごく普通で称賛に値するような生活を送った。イエスは会話においては、上品で、優雅で、率直で、朗らかでありながらも、穏やかで、働きを実行するときも決して威厳を失うことはなかった。ペテロは、イエスがあるときは無口になったり、またあるときは絶え間なく話したりするのを見た。イエスは時には嬉しくて、鳩のように敏しょうに、いきいきとふるまい、時には悲しみの余り、まるで風雨にさらされた母親のように、まったく口をきかないこともあった。時としてイエスは、勇敢な兵士が敵を殺すために突進するように、また時には吠え猛るライオンのように憤りで一杯になることさえあった。イエスは時には笑い、時には祈り泣くこともあった。イエスがどのように行動するかに関わらず、ペテロは限りのない愛と敬意をイエスに抱くようになった。イエスの笑い声はペテロを幸せで満たし、イエスの悲しみはペテロを嘆きに落とし入れ、イエスの怒りはペテロを脅かしたが、その一方、イエスの憐れみ、赦し、厳しさによって、ペテロはイエスに対して真の畏敬と憧れを抱くようになり、ほんとうにイエスを愛するようになった。もちろん、これらのこと全ては、ペテロが数年イエスのもとで生活して、次第に分かってきたことである。「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より

   神の優れている点は、その働きに示されている。神の業を経験してはじめて、人は神のすばらしさを見つけだす。実際に体験してはじめて、神のすばらしさを認識するのであって、実際に体験することがなければ、誰一人神のすばらしさを見つけだせない。神の敬愛するべき点はまことに数多いのに、実際に神に触れることがなければ、人々はそれを見つけだせない。それはつまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神に触れることができず、実際に神に触れることができなければ、その働きを経験することができず、そこで、人々の神への愛には偽りや想像が介在することになる。天にいる神への愛は、地上にいる神への愛ほどの真実味がない。天にいる神についての認識は、その目で見たり実際に体験したりしたことではなく、想像によるものだからだ。神が地上に来ると、人々は神の業とすばらしさをその目で見られる。神の実際的で正常な性質のすべてを見られるのだ。それらはみな、天にいる神についての認識より数千倍も現実的なものなのだ。人々が天の神をどれほど愛そうと、その愛に真実は何もない。人間の考えたものばかりだ。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は実際的である。たとえごくわずかであっても、それでも現実のものなのだ。神は実際の働きを通して人々に自分を知らせになる。そして、その知識によって人々の愛を得られる。これはペテロと同じことだ。もし彼がイエスと共に暮らしたことがなければ、イエスを愛することは不可能だったろう。ペテロのイエスへの忠誠心もまた同じで、イエスとの交わりを通して築かれたものだ。人間が自分を愛するようになるため、神はおいでになって人々と共に生きた。そして人々が見て経験するものはみな、神の実際なのである。「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」より

   受肉した神は人間の集団を得ることを今日望んでいるが、それは、神の心にかなう人々の集団である。人間はただ神の働きに従い、天の神の考えに常にとらわれず、曖昧さの中で生活せず、受肉した神に困難を与えなければよい。神に従うことが出来るのは、神の言葉を絶対的に聞き、神の采配に従う者である。そうした者は天の神が実際にはどのような存在か、現在天の神はどのような働きを人間に対して行っているかを一切気にすることなく、自らの心を地上にある神へ完全に捧げ、自分の存在全体を神の前に置く。決して自らの安全を省みることなく、受肉した神の平常性や実際性に関して騒ぎ立てることがない。受肉した神に従う者は、神により完全にされることが出来る。天にある神を信じる者は、何も得ることがないであろう。なぜなら、人間に対して約束したり恵みを授けたりするのは天にある神ではなく、地上にある神だからである。人間は、常に天にある神を誇大視し、地上にある神を凡人とみなしてはならない。それは不公平である。天にある神は偉大で素晴らしく、驚異的な知恵を持つが、それは全く実在しない。地上にある神は至って普通で小さな存在であり、また極めて平凡である。地上にある神には非凡な精神も地を揺るがすような業もない。地上にある神は至って普通で実際的に働き、話をする。地上にある神は雷により言葉を述べたり雨風を起こしたりしないが、真に天にある神の受肉であり、人間のもとで生活する神である。人間は自分が理解できないが、自分の想像に合う存在を神として誇張したり、自分が受け容れられず、想像もつかない存在を卑しいとみなしてはならない。そうしたことは、全て人間の反逆性であり、神に対する人間の反抗の源である。「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」より


「キリスト」が何を意味するかご存知ですか

2020-01-28 14:41:35 | 信仰Q&A

  キリスト教徒として、私たちは皆「キリスト」という言葉に馴染みがあります。なぜなら、私たちは毎日イエス・キリストの聖なる御名によってお祈りしているからです。では、どうして主イエスを「キリスト」と呼ぶのでしょうか。キリストとは何を意味するのでしょうか。「キリストとは、油注がれた者を意味します」と言う人もいれば、「キリストは人の子です」と言う人もいます。見解は十人十色です。これらの見解に関して、皆さんはこう考えたことはありますか。旧約聖書の記録によれば、ヤーウェは神に用いられた人々を人の子と呼ばれました。神に用いられ、人の子と呼ばれたそれらの人々はキリストだったのでしょうか。

  聖書にも同様の記録があります。「彼はわたしに言われた、『人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう』」 (エゼキエル2:1)。 「彼はわたしに『人の子よ、あなたはこれを見るか』と言った。」(エゼキエル 47:6)。

  ここでは、ヤーウェはエゼキエルを人の子と呼ばれています。では彼はキリストだったのでしょうか。旧約聖書では、働きのためにヤーウェに用いられた人々は預言者や祭司などでした。神は彼らを人の子と呼びました。では彼らはキリストだったのでしょうか。答えは「否」です。キリストが油注がれた者という意味であれば、旧約聖書に登場する同じく油注がれた国王や祭司たちはどうでしょうか。どうして彼らはキリストではなかったのでしょうか。

  恐らくキリストの意味については私たちの誰もが多くの混乱を抱いているかもしれません。キリストとは一体何を意味するのでしょうか。

  神の御言葉が明確な答えを与えてくださいます。神はこう仰せられます。「受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊が肉をまとった姿である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はいかなる人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性も、神性も父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。ゆえに、受肉した神は神自身の経営(救い)を妨げるような働きは絶対に行わない。このことをすべての人が理解すべきである。聖霊の働きの本質は人を救うことであり、また神自身の経営のためである。同様に、キリストの働きは人を救い、神の心を行うためのものである。神が肉となったため、キリストは自身の肉において神の本質を実現し、よってキリストの肉は神の働きを引き受けるに充分になる。神の霊の働きはすべて受肉の期間にキリストがなす働きに取って代わられる。受肉の期間を通してすべての働きの核心となるのがキリストの働きである。それはほかのどの時代の働きとも混同することはできない。」「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。」

  これらの御言葉から、受肉した神のみがキリストだということがわかります。キリストは神性の本質を有しておられ、真理を表して神御自身の働きをおこなうことができます。キリストは肉をまとって人になられる神です。表向きは普通の人のように見えるため、人の子とも呼ばれています。ただし、人の子と呼ばれていてもキリストではないかもしれません。使徒、預言者、祭司がその例です。彼らは人の子と呼ばれていましたが、その本質は人間性で、つまり神の創造物である人間でした。キリストではなかったため、神御自身の働きを行うことはもちろん、真理を表すことは尚更できませんでした。

  しかも、キリストは神の霊が具現化し、内在する肉です。それにキリストが油注がれた者を意味するとはいえ、油注がれた者は必ずしもキリストではありません。これがキリストと人の違いです。キリストは人の姿をしていますが、その本質は神の本質です。

  旧約聖書で、ヤーウェはどうしてキリストと呼ばれなかったのでしょうか。なぜなら当時、神は霊を用いて働きを為され、人の生活を律して、神を崇拝するよう導かれたのであり、肉となって働きをなさらなかったからです。そのため、キリストとは呼ばれなかったのです。

  キリストは、受肉された神のみを指す特別な言葉です。肉の中に生きる神御自身であり、表向きは普通の人ですが、その本質は他のいかなる創造された人とも異なります。

  キリストは神の受肉であり、神御自身の肉であり、神が肉をまとって地上に降臨されたお姿です。サタンがキリストに近づき、堕落させることはできません。それ故に、キリストは神御自身の働きを為され、真理を表すことで人間を罪から贖い、救うことができます。これはキリスト特有の神性です。キリストの本質は普通の人間性と完全な神性を組み合わせたものであり、地上における神御自身です。

  これでキリストの意味するところがもっと理解できたでしょう。しかし、私たちはこの側面の真理を継続的に探究し、熟考する必要があります。こうして初めて、私たちはこの真理に対する理解を深め、私たちの花婿、つまり終わりの日のキリストを迎え入れることができます。