賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

主が戻られてどこに現れるのか

2019-09-04 22:17:01 | キリストの再臨

シャォシィさん、

昨日、私はリュウ兄弟から地元の教会が今、さらに荒んだ状態にあることを知りました。そして、教会を蘇らせるために、シャォシィさんは頻繁に断食し、祈りを捧げ、20日間も何も食べず、空腹のために気絶することもあると聞きました。私はこれを知ってとても心配していますので、今すぐにでもあなたとお話しをしたいと思っています。しかし、教会でやるべきことがありますので、まずはリュウ兄弟にこの手紙をあなたのもとへ届けるようお願いしておきます。

シャオシィさん、教会の荒廃は最近宗教界全体に広まっています。それに、主の再臨のしるしは基本的に既に成就しています。なので、私たちは何もせずにただ座って主の来臨を待っているわけにはいきません。私たちは聖霊の働きが宿る教会を探しに行って、子羊の足跡を辿るべきです。私は以前、頻繁にあなたと一緒に主の再臨について交流したのを覚えています。主は再臨される時にどこに現われるのかという話をした時、私たちはゼカリヤ書14章4節を学びました。「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り……」私たちはこの聖句を読み、それは主が再臨なさる時、主は間違いなくユダヤにあるオリーブ山に来られ、注意深く主を待っていた人たちに、その御姿を現しになると預言しているものと思っていました。これ故に、私たちは長年に渡ってイスラエルに注目してきたのです。特に、4つの血の月が現れた後、私たちは主の再臨の知らせを受けるのが待ち遠しくなり、更にイスラエルに注目するようになりました。その時、私たちに、イエス様は既にお戻りになられ、中国に現われて、働きをされておられると説教する人たちがいました。そして、彼らは主の再臨をお迎えする機会を逃すのを恐れ、私たちに可能な限り早く探求し、調べるよう助言しました。しかし、私たちはこう思いました。「彼らが説いている内容は聖書の預言に沿っていませんし、神が以前になされた二段階の働きは共に、何世代にも及ぶ信者たちが暮らすイスラエルで行われているのに、どうして神が中国に現われて働きをなさるというのでしょう。さらに、歴史を振り返っても、中国は人々が香をたき、仏陀と悪霊を礼拝し、クリスチャンは最も厳しく迫害されるという国です。それは最も遅れていると同時に、最も神を信じたがらない国です。なので、神が中国に現われて働きをなさるなんてことはありえないのです。」従って、当時、私たちはそれを受け入れず、教会にとどまり、主がいつかユダヤのオリーブ山に現れるのを待ち続けました。

私はここに来た後、ヂャオ兄弟と出会いました。彼の言ったことは私の考えを変えました。彼はこう交流してくれました。「聖書にはこう書かれています。『ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。」』(ローマによる福音書11:33-34)神の知恵は人間が計り知れるものではありません。私たちは神の働きを自分たちの考え方に照らして分析することもできません。さらに、神は決して将来なさる働きを私たち人間と予め話し合われることはなく、なす必要のある働きを直接なさり、私たちは神を神の働きから知り、そして神に従います。これと同様に、終わりの日の主の再臨に関しても、私たちは主の現れを自分たち独自の観念の中で定義するべきではありません。私たちはもっと探求して、もっと主に祈りを捧げるべきです。こうしてのみ、私たちは主の預言を完全に理解して主の来臨をお迎えすることができるのです。」

ヂャオ兄弟の言葉を聞いていると、私は過去のパリサイ人が頭に浮かびました。イエス様がメシアとは呼ばれておらず、王宮のお生まれでもないと知った彼らは、預言の文字とそれぞれの観念および想像に従ってイエス様に反対し、イエス様を非難しました。最終的に、彼らは主を十字架に釘付けにし、それが神の性質を怒らせる結果となって、彼らは神の怒りの下で滅びていったのです。終わりの日において、主の再臨の預言に関する自分たちの観念と想像に固持していたのでは、私たちも無意識のうちに主に抵抗したパリサイ人の道を歩むことになるでしょう。それは危険なことです。私はこの時初めて、このように待ち続けていたのでは決して主をお迎えできるようにはならないと気が付きました。こうして、私は自分の観念を脇に置き始め、主のお導きを求めて頻繁に主に祈りました。

私は主に祈りを聞いてくださったことを感謝しました。その後、私はある聖句を見つけました。マラキ書1章11節です。「日の出る所から没する所まで、異邦人のうちにわが名はあがめられている……と、万軍のヤーウェは言われる。」そして、イザヤ書にはこの記録があります。「だれが東から人を起したか。彼はその行く所で勝利をもって迎えられ、もろもろの国を征服し、もろもろの王を足の下に踏みつけ、そのつるぎをもって彼らをちりのようにし、その弓をもって吹き去られる、わらのようにする。彼はこれらの者を追ってその足のまだ踏んだことのない道を、安らかに過ぎて行く。」(イザヤ書41:2-3)マタイによる福音書24章27節です。「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」これらの聖句に「異邦人」、「東から人を起こした」や「いなずまが東から」という言及があることから、主が働きをしに戻られる場所は東にあり、異邦人のいる所であることが分かります。そして中国はちょうど世界の東に位置しています。無神論国家である中国は神を礼拝したことが一度もなく、歴史を通してもクリスチャンを迫害してきています。中国人はかつて幾つかのキリスト教国から「異邦犬」と呼ばれていました。中国は正に異邦国の典型的な例なのです。これらの聖句を学んだ後、私は聖書の中に神は終わりの日に中国に現われて働きをなさると預言した記録があることを知りました。私たちが思っていたことは間違いであり、それは間違いなく私たちの観念と想像から生まれていたのです。

この問題のより明確な理解を得ようと、私はヂャオ兄弟と交流することを求めました。当時、ヂャオ兄弟は私と沢山交流して、私の心を明るくしてくれました。私が最も感心したのは、彼が読んでくれた2つの節の御言葉です。これがそのコピーです。

「神はイスラエルの民を導きユダヤに生まれたが、また、異邦人の国にも生まれる。神の働きはみな、神が創造した人類全体のためではないのであろうか。神はイスラエルの民を百倍愛し、異邦人を千倍憎んでいるのであろうか。それはあなたたちの観念ではないのか。……もしあなたたちが神はイスラエル人だけの神であるといまだに言い張り、イスラエルのダビデ家が神の誕生の起源であり、イスラエル以外の民族はどれも神を『生む』資格がないどころか、異邦人の民族はヤーウェの働きを直接受けられはしないと信じているのなら──もし、まだこのように考えているのなら、それは、頑固に抵抗していることではないのか。……あなたたちはまた、神がどうして異邦人の国に直接顕現しえるということを考えてみたこともない。神はシナイ山かオリーブ山に下り、イスラエル人に現れるはずではないのか。異邦人(つまり、イスラエルの外の人々)はみな、神の嫌悪の対象ではないのか。どうして神が自らそうした者の間で働くのか。こうしたことはみな、あなたたちが長年の間にもつに至った根深い観念である。今日あなたたちを征服する目的は、あなたたちのそうした観念を打ち砕くことである。だから、あなたたちは神がシナイ山やオリーブ山ではなく、あなたたち、過去に神が導いたことのない民族の間に現れるのを見た。」(「征服の働きの内なる真実(3)」より)

「わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、わたしが呪った民族をも含む異邦人のすべての民族の神であることをわたしはあらゆる人々に知らしめる。わたしはすべての被造物の神であることをあらゆる人々に知らしめる。これがわたしの最も大きな働き、終わりの日のための働きの計画の目的、終わりの日に成就される唯一の働きである。」(「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」より)

私はこれを読み終えた後、突然気が付きました。「その通りだ!神はイスラエル人のみの神ではなく、全人類の神でもあるのです!この全世界が神によって創造されているのです。神はどの国にでも現れる権利をお持ちで、いかなる国や民族の私物ではないので、いずれの規則による束縛も受けないのです。」しかし、私たちは神が以前になされた2段階の働きはイスラエルで行われていたことを知った時、心の中で主は再臨なさる時はイスラエルのみに現われて、異邦国には現れて働きをされないという観念を持ちました。私たちは当時、聖句の文字を固持してイエス様に抵抗したパリサイ人のようだったのではないでしょうか?このような観念は私たちの神に対する誤解であり、勝手な定義であることが分かります。そんなものを固持しながらどうやって主に認めていただけるというのでしょう。実際、主がお戻りになり、中国に来て働きをするために受肉されたということには主の知恵と素晴らしさが込められているのです。主が再臨されて、働きをするためにユダヤに降臨され続けていたら、私たちは常に神の存在をイスラエルに限定し、神はイスラエル人のみの神であると主張してしまうでしょう。神の知恵は本当に私たちには計り知れないものなのです。

私たちは以前、自分たちの観念の中を生きていたため、主が中国に現われたと聞いた時にそれを調べず、ただ単に神がイスラエルのオリーブ山に現われることを待ちました。これはあまりにも理不尽なことです。今、宗教界は荒れはてた状態にあり、災害は増々深刻になっています。これ故に、私たちは自分の観念と想像に固執して神の現れを待ち続けていてはいけないのです。私たちは私たちの国家の持つ観念を打ち破って主の足跡と現れを探すべきなのです。こうしてのみ、教会が荒んだ状態にある問題を解決することができるのです。現在、私は神の現れと中国における働きについて調査しており、彼らの説教には本当に真理があり、それは私たちの抱える問題と困難を解消することができると同時に、私たちに教会が荒んだ状態に陥った理由をとても明確に示していることを知りました。彼らの説教は正に私たちのいのちが必要とするものを備えてくれています。

シャオシィさん、私はあなたもご自分の観念を捨て、直ちに率先して終わりの日における神の現れの働きを探求、そして調査し、兄弟姉妹たちを荒んだ教会から導き出せることを願っています。良い知らせが聞けることを楽しみにしています!

敬具

リーユー

 


聖書の言葉―主は戸を叩き、あなたは神の声を聞きましたか

2019-09-03 08:50:45 | 聖書の言葉

   聖書の言葉

   見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。


ヨハネの黙示録3:20


   この聖句は私たちに主を迎える道を示しています。終わりの日に、ある人は主が再来されて言葉を発されると証しする時に、私たちは尋ね求め考察すべきです。もし私たちがこれらの言葉はみな真理であり、神様の声であると聞き分けたら、私たちは主を迎えられて主と共に宴席に着くことができるのです。このような人は賢い乙女です。しかし、それら主の再来についての証しを聞いても、尋ね求めて考察しないだけではなく、ひいては神様の声を罪に定めて抵抗し、拒絶する人は愚かな乙女です。最終的に主に見捨てられ、暗闇に陥って歯ぎしりして泣くしかありません。このことから、主イエスの再来を迎えることにおいて、肝心なのは神様の声を聞き分けることだと分かりました。たとえば、主イエスが働く時に、悔い改めの道を発表し、それら主に従う弟子や使徒たちは、主イエスの言葉と働きから主イエスが来たるべきのメシアであることを認識でき、主の救いを得られました。それらユダヤ教のパリサイ人は神様の声を聞き分けず、ひいてはユダヤ人が主イエスに従うことを全力を尽くして阻み、このような人は神様に排除され懲罰を受ける対象になります。

   現在、主を迎える肝心な時には、私たちすべての信者にとって、神様の声を聞き分けることも極めて重要なことです。これは私たちが神様の足跡に付き従い、主と共に宴席に着くことができるかどうかに関わっており、さらに私たちの結末と終着点に関わっています。



   そのため、私たちは謙虚で尋ね求め、花婿だ、迎えに出ないと叫ぶ声を聞いたら、いち早く尋ね求めて考察し、神様の発した声であるかどうか、神様の現れであるかどうかを聞き、尋ね求めて考察さえすれば、主の再来を迎えられるのです。一段落の御言葉を分かち合います。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」


聖書の名言-癒やすことに関する聖句・悲しい時の慰め

2019-09-02 23:25:09 | 聖書の名言

   この邪悪な世界で傷つけられた時、神様が私の頼りだと忘れないでください。なぜなら、神様は私たちの体の病気を癒せるだけではなく、心の病気も癒せてくださいます。以下の癒やすことに関する聖句を読んで、私たちの悲しむ心が慰めを得て、神様との関係をもっと近づくようにしましょう。


旧約の中の癒しの聖句

エレミヤ書 17:14

ヤーウェよ、わたしをいやしてください、そうすれば、わたしはいえます。わたしをお救いください、そうすれば、わたしは救われます。あなたはわたしのほめたたえる者だからです。


ホセア書 14:4

わたしは彼らのそむきをいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。


イザヤ書 53:5

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。


マラキ書 4:2

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。


イザヤ書 57:18

わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。


詩篇 30:2

わが神、ヤーウェよ、わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると、あなたはわたしをいやしてくださいました。


詩篇 41:4

わたしは言った、『ヤーウェよ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました』と。


エレミヤ書 33:6

ヤーウェよ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。ヤーウェよ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。


エレミヤ書 33:6

見よ、わたしは健康と、いやしとを、ここにもたらして人々をいやし、豊かな繁栄と安全とを彼らに示す。


詩篇 147:3

ヤーウェは心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。

 

新約聖書の中の治療

マタイによる福音書 4:23-24

イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。


使徒行伝 28:27

この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである。


マタイによる福音書 9:21-22

み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた、『娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです』。するとこの女はその時に、いやされた。


マタイによる福音書 15:30

すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。


ルカによる福音書 9:11

ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。


使徒行伝 5:16

またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。


ヨハネの黙示録 22:2

都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。


ペテロの第一の手紙 2:24

さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。


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真理を実践しない者に対する警告

2019-09-01 23:19:50 | いのちのパン

   否定的な部分を常に発散している兄弟姉妹は、サタンの僕であり、教会を乱す。そうした者は、いつか追放され、排除されなければならない。人間は、自分の中に神を崇める心、そして神に対して従順な心を持っていなかった場合、神のために働くことが出来ないだけでなく、その反対に神の業を阻害し、神に反抗する者となるであろう。神を信じる者が神に従う事も、神を崇めることも無く、神に反抗した場合、それは信者にとって最大の恥辱である。信者の言動が常に信者以外の者と同様に粗略で節操が無いものであるならば、その信者は、信者以外の者にも増して邪悪であり、典型的な悪魔である。教会に居て、毒々しい言葉を放ち、兄弟姉妹の間で噂を立て、混乱を助長し、派閥を組もうとする者は、教会から追放されなければならない。しかし、現在は神の業の異なる時代であり、排除の対象となる運命にあるので、そうした人々は既に制限されている。サタンにより腐敗させられた人間には、皆腐敗した性質がある。しかし、一部の者には腐敗した性質のみがあるのに対し、腐敗した性質だけでは無いものも居る。腐敗したサタンのような性質があるのみならず、本性もまた悪意を極めているのである。この種の人々の言動が全て腐敗したサタンのような性質を示すのみならず、そうした人々自身が真の邪悪なサタンである。そうした者の行動はすべて、神の業を阻害し、混乱させ、兄弟姉妹がいのちを享受するのを阻害し、教会における正常な生活を破壊する。こうした羊の皮を被った狼のような者は、遅かれ早かれ一掃されなければならず、こうしたサタンの僕に対しては、全く礼儀正しくない、見放す姿勢で臨む必要がある。神の味方となるには、そのように臨むことによるほか無く、そのように臨むことが出来ない者は、サタンと共謀している。常に神は神を真に信じる者の心にあり、そうした者の内部には、常に神を崇め愛する心がある。神を信じる者は、注意深く慎重な心持ちで行動し、自分の行動全てが神の要求に従い、神の心を満たすことが出来るものである必要がある。そうした者は、強情であってはならず、自分が望むままに行動してはならない。そうした事柄は聖なる礼節に不適である。人間は神の旗印を誇示して暴れ回ったり、威勢を張ったり、詐欺を働いたりしてはならない。そうした行いは最も反逆的な行為である。家族の間には規則があり、国には法があるのだから、神の家族には、どれほど厳格な基準があるだろうか。当然行政命令があるのではなかろうか。人間は、何でも望むままを行うことが出来るが、神の行政命令を思うままに変えることはできない。神は人々に自身を侵害させることを許さず、人間を死に至らしめる神であることを、本当にわきまえているだろうか。



   どの教会にも、教会を混乱させ、神の業を阻害する者が居る。こうした人々は、すべて神の家族に身を隠したサタンである。こうした者は特に演技力に優れ、自らの目的を果たすため、敬意を持ってわたしの前に来て頭を下げ、みすぼらしい犬のように振る舞い、「すべて」を献じているが、兄弟姉妹の前では醜悪な素性を露わにする。こうした者が真理を実践している人を見ると、攻撃して排除し、自分自身よりも手に負えない人を見ると、その人にお世辞を言って機嫌を取り、教会の中では暴君のように振る舞う。この種の「地域の下劣なへび」、あるいは「愛玩犬」は、殆どの教会の中に居ると言えるであろう。この種の者は集まってこそこそと歩き回り、ウインクや秘密の合図を送り合う。この種の者の中に真理を実践する者は皆無である。最も強い毒を持つ者が「悪魔の頭」であり、最も評判の高い者が他の者を従え、一味の旗を高く掲げる。この種の人々は教会内を荒らし回り、否定性を広め、死をもたらし、したい放題、言いたい放題に振る舞い、誰もそれを止める者は居らず、サタンの性質に満ちあふれている。この種の者が妨害し始めるとすぐに、教会内に死の空気が入る。教会内で真理を実践する者は見捨てられ、その者は潜在能力を発揮できない一方、教会を妨害し、死を広める者は、教会内で放縦に行動する。さらに、殆どの人々がこうした者に従う。こうした教会は、明らかにサタンの支配下にあり、そこでは悪魔が教会の王である。教会の人々が立ち上がってこうした悪魔の頭を追放しなかった場合、教会の人々もまた、遅かれ早かれ破滅するであろう。今後は、こうした教会への対策を実施する必要がある。多少の真理を実践できる者が追求していない場合、その教会は追放されるであろう。真理を実践することを望む者や、神の証しに立つことが出来る者が教会内に不在の場合、その教会は完全に追放される必要があり、その教会と他の教会との関係は断絶される必要がある。これを、死を葬り、サタンを追い払う、と呼ぶ。教会に、地域の下劣なへびのような者と、そのへびに従う、分別の無い小ばえのような者が居て、教会に居る者が、真理を理解してなお、そうしたへびのような者の呪縛と操作を駆逐できなかった場合、そうした愚か者は最終的に排除されるであろう。そうした小ばえのような者は、何ら劣悪な事をしていないかもしれないが、ことさら狡猾でずる賢く、そうした者も全て排除されるであろう。そうした者はひとり残らず消し去られるのだ。サタンに属す者はサタンへと戻されるが、神に従う者は間違い無く真理を探し求めるであろう。これは、そうした者の本性により決められる。サタンに従う者を全て滅ぼすことである。こうした者は決して憐れまれることが無いであろう。真理を探し求める者に糧を得させ、心ゆくまで神の言葉を堪能させることである。神は義であり、人間を不公平に扱うことは無い。あなたは、自分が悪魔であれば、真理を実践出来ないであろう。あなたが真理を探し求める者であれば、あなたがサタンの虜にならないことは確実であり、それについて全く疑う余地は無い。

   進歩を求めない者は、常に他の者が自分自身と同様に悲観的であり怠惰であることを望み、真理を実践しない者は、真理を実践する者に嫉妬する。真理を実践しない者は、常に混迷している者や分別が無い者を欺くことを求める。こうした者が放つ物事は、あなたを退化させ、引きずり落とし、異常を引き起こし、内面を闇で満たすおそれがあり、またあなたを神から遠ざけ、あなたに肉を愛させ、自らの欲望を満たすようにさせる。真理を愛さず、常にうわべだけで神に接する者は、己を知らず、そうした者の性質により、人々は誘惑されて罪を犯し、神に反抗する。こうした者は真理を実践せず、また他人が真理を実践することを許さない。こうした者は罪を愛し、自分自身を忌み嫌うことは全く無い。こうした者は己を知らず、また他人が己を知ることや、真理を求めることを阻む。こうした者が欺く人々は、光を見ることができずに闇に落ち、己を知らず、真理を明瞭に理解しておらず、神から遠ざかってゆく。こうした者は真理を実践せず、また他人が真理を実践することを阻み、愚かな人々を自らの前に来させる。こうした者は、神を信じるというよりも、自らの祖先を信じている、こうした者が信じているのは、自らの心の中の偶像である、と言った方が良い。神に付き従っていると言う者にとって、自らの目を開き、自分が信じているのが誰かを良く見るのが最善であろう。あなたが信じているのは、本当に神であるか、それともサタンであるか。あなたは、自分が信じているのが神ではなく、自分にとっての偶像であることを知っている場合、自分は信者であると述べずにいるのが最善であろう。あなたは、自分が誰を信じているのか知らないならば、同様に、自分は信者であるとは言わないのが最善であろう。そうであると言うのは、冒涜である。あなたに、神を信じることを無理強いしている者は居ない。わたしを信じている、という言葉は、とうの昔に聞き飽きており、二度と聞きたいとは思わないので、そうした言葉を言わないで欲しい。なぜなら、あなたがたが信じているのは、あなたがたの心の中の偶像であり、あなたがたの中にいる地域の下劣なへびだからである。真理を聞いた時に首を横に振り、死の言葉を聞いた時に満面の笑みを浮かべる者は、サタンの子孫であり、そうした者は全て排除対象となる。教会には識見の無い者が多数居て、何かしら偽りの出来事があると、そうした者はサタンに味方をする。こうした者は、自分がサタンの僕と呼ばれると、不当な扱いを受けたと感じる。こうした者は全く識見が無いと言う者もいるが、こうした者は常に真理の無い側に味方する。重要な時期に、こうした者が真理の味方をしたことや、真理のために立ち上がって議論をしたことは一度も無いが、こうした者は本当に識見が無いのであろうか。こうした者が常にサタンの味方をするのは、何故だろうか。何故、こうした者は真理について正当な言葉も合理的な言葉も決して述べないのだろうか。こうした状況は、本当に一時的な混乱から生まれるのだろうか。ある者の識見が少なければ少ないほど、その者が真理の味方をする能力も低くなる。それは何を示すであろうか。それは、識見の無い者が邪悪を愛していることを示して居るのではなかろうか。それは、識見の無い者がサタンの忠実な子孫であることを示して居るのではなかろうか。こうした者が常にサタンの味方をし、サタンと同じ言葉を述べることが出来るのは何故だろうか。こうした者のあらゆる行動、言動、表現は、こうした者が決して真理を愛する者ではなく、むしろ真理を忌み嫌う者であることを十分に示している。こうした者がサタンの味方をすることが出来ることは、こうしたサタンのために一生涯を通して戦う小悪魔をサタンが真に愛していることを十分に示している。こうした事実は、全て十分に明白ではなかろうか。あなたが本当に真理を愛する者であるならば、真理を実践する者を全く認めることが出来ず、真理を実践しない者が僅かに表情を変えた時、その者に直ちに従うのは、何故だろうか。これはどのような問題であろうか。わたしは、あなたに識見があるかどうかや、あなたがどれほど甚大な代償を払ったか、あなたの勢力がどれほど強いか、あなたが地域の卑劣なへびであるか、旗を掲げる主導者であるかを問題とはしない。あなたの勢力が強いのであれば、それは単にサタンの支援を得ているということであり、あなたが高位にあるのであれば、それは単にあなたの周囲に真理を実践しない者が多すぎるということであり、あなたがまだ排除されていないのであれば、それは今が追放の業の時ではなく、むしろ排除の業の時期だからである。今あなたを追放する喫緊性は無い。わたしは、単にあなたが排除された後の罰を与える日の到来を待つのみである。真理を実践しない者は、全て排除されるであろう。

   神を真に信じる者は、神の言葉を実践することを望み、真理を実践することを望む者である。本当に神の証しに立てる者は、神の言葉を実践する意志のある者でもあり、こうした者は本当に真理の味方となることが出来る者である。謀る者や不正を行う者は、すべて真理の無い者であり、そうした者は皆、神に恥辱をもたらす。教会に居る者のうち、論争する者はサタンの僕であり、サタンの化身である。こうした者は悪意が過ぎる。識見が無く、真理に味方出来ない者には、すべて邪悪な意図を抱き、真理を汚す。こうした者は、より典型的にサタンを代表する者であり、こうした者に贖いの業は及ばず、全員が間違い無く排除対象となる。真理を実践しない者も、意図的に教会を崩壊させる者も、神の家族として居残ることを許されてはならない。しかしわたしが追放の業を行うのは今ではない。こうした者は、単にあばかれ、最終的に排除されるのみである。こうした者には、これ以上無意味な業はなされない。サタンに属する者は真理に味方出来ない者であるが、真理を探し求める者は真理に味方出来る。真理を実践しない者は、真理の道を聞く価値も、真理の証しに立つ価値も無い者である。基本的に、真理はそうした者が聞くための物ではなく、むしろ真理を実践する者のために述べられる。教会を混乱させ、業を阻害する者は、各人の結末が明示される前に、まず片方によけられる。業が完了した後、こうした者は順番に暴き出されてから排除される。真理を与える時、こうした者はしばらく無視される。人間に対して全ての真理が明示された後、こうした者が排除される。なぜなら、その時は全ての人々が、その種類により分別される時でもあるからである。見識の無い者は、賢明さに劣っているがために、邪悪な者の手により滅ぼされ、惑わされて、戻ることが出来ない。こうした者を、そのように扱う必要があるのは、こうした者が真理を愛さず、真理の味方になることが出来ず、邪悪な者に付き従い、邪悪な者の味方となり、結託して神に反抗するからである。こうした人々は、邪悪な人々が邪悪さを放っていることを完全に知っているが、決心を固めてそうした邪悪な者に付き従い、真理と反対方向へと進む。こうした、真理を実行せず、しかし破壊的で忌まわしい行動を行う人々は、すべて邪悪ではなかろうか。そうした者の中には、自らを「王」のように装う者と、それに追随する者が居るが、両者の神に反逆する性質は全く同じではなかろうか。こうした者は、神は自分達を救わないと言うが、どうして弁解できようか。また、こうした者は、神は義ではないと言うが、どうして弁解できようか。こうした者を滅ぼすのは、自らの邪悪ではなかろうか。こうした者を地獄へ落とすのは、自らの反逆心ではなかろうか。真理を実践する者は、最終的に救われ、真理により完全にされるであろう。真理を実践しない者は、最終的に真理により滅びを得る。これらが、真理を実践するものと、実践しない者を待ち受ける最後である。真理を実践する予定ではない者に対し、それ以上罪を重ねないよう、出来るだけ早く教会を去るよう勧告する。さもなければ、後悔するのも手遅れとなる時が来るであろう。また特に教会内の徒党を組む者や分裂を招く者、地域の下劣なへびは、なおさら直ちに教会を去る必要がある。こうした邪悪な狼のような本性の者は、変わることが出来ないので、兄弟姉妹の正しい生活を二度と阻害することのないよう、そして神の罰を避けるため、出来るだけ早く教会を去った方がよい。こうした者と親しくしている人々は、その機会を活用して反省するのがよい。あなたがたは、邪悪な者に付き従って教会から去るであろうか、それとも教会に残り、従順に従うであろうか。このことを十分検討する必要がある。あなたがたに、もう一度選択の機会を与えよう。あなたがたの答えを待っている。

 

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