賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

奇跡!医学的に不妊と診断されたあと、彼女は元気な赤ちゃんを産んだ(I)

2019-12-13 23:13:55 | 癒やしと恵みの証し

   広く明るいリビングにはベビーベッドがあって、生後六ヶ月の赤ちゃんが小さな口で小さな指をしゃぶりながら、幸せそうに横たわっていました。小慧はソファーに座り、それまで決して自分の顔を飾ることがなかった笑みを浮かべながら、その光景を見ていました。

   かつて不妊だった小慧が元気な赤ちゃんを産めたのは、科学的処置や医療の結果ではありませんでした。それは神様によって彼女に与えられたいのちなのです。医療を探し求めた二年以上にわたるつらさを振り返ると、彼女は複雑な感情で一杯になりました。



   二十代前半のころ、小慧は二年間交際したボーイフレンドと結婚し、結婚後は夫の愛と献身に恵まれましたが、かわいい赤ちゃんを産んで家庭を始める夢を叶えることも楽しみにしていました。しかし小慧はどうしても妊娠できず、その理由を確かめようと病院に行ったところ、医師からこう告げられました。

   「先天性卵巣形成不全が治癒する可能性は極めて低いです」これはどうしても子どもを欲しがっていた小慧にとって苦痛に満ちた打撃となりました。彼女は息の下で自分にこう言いました。「どうしてこんなことになるの。子どもを産めない女なんて誰が尊敬するでしょう。子どもを産めなかったら、将来、夫はそれでも私を望むかしら。それにお義母さんも孫と会うのを心待ちにしているし」涙が頬を伝い落ちる中、小慧は後ろ向きで惨めな思いに捕らわれました。

   「先生、現在の医学はとても進んでいますし、私の状態がよくなって妊娠できる可能性が低いのはわかっていますが、それでも治すために全力を尽くしたいんです。先生、お願いですから助けてください!」子どもを産む望みがすべてその医師にかかっているかのように、小慧は懇願しました。医師は最先端の赤外線加温殺菌治療を小慧に施し、薬を処方しましたが、半年間にわたる治療を行ない、三万元の費用をかけてもなお、小慧の病状は変わりませんでした。まったく改善していなかったのです。小慧はひどい無力感を覚えました。自分の病状に対して本当に治療法はないのだろうか。小慧は、必要な器具を完備し、国内最先端の技能を有する医師がいる病院で治療を試みたいと望みました。そこに必ず答えがあるはずだと考えたのです。そこで彼女は情報を集め、治療を求めて有名な国立病院へと向かいました。

   しかし医師は、彼女が持ち込んだ資料に素早く目を通し、病状やこれまでの治療歴についていくつか簡単な質問をしたあと、こう言いました。「あなたはずっと生理が弱く、卵巣も数ミリほどの長さしかなくて、エストロゲンも少ないです。あなたの病歴と検査結果も、先天性卵巣形成不全という診断と一致しています。だから新たな検査は行ないません。その代わり、人工的に生理を誘発するため、人工プロゲステロンを使うことにします」しかし二ヶ月にわたる治療を経ても病状が改善することはなく、薬の副作用のせいで食欲を失いました。痛みと苦しみがひどいため、薬をとり続けることもできませんでした。しかし小慧は諦めたくはありませんでした。数多くの不妊を見事に治療した病院や医師について、インターネットの記事を読んだりテレビや広告で見たりしましたが、そのすべてを頭に思い浮かべ、次の回復例となることを夢見ました。彼女は最後の希望にかき立てられて、名の通った二つの大病院に行きました。診察のあと、有名な医師がこう言いました。「あなたのエストロゲンレベルはとても低いので、生涯にわたってホルモン補充療法を行なわなければならないでしょう。治療をやめることはできません。さもないと老化が早まります」その言葉が傷口にすり込まれた塩のようだということに、疑問の余地はありませんでした。自分の病状が生涯にわたるホルモン補充療法を必要とするとは、想像できたはずがありません。小慧は失望を覚え、医師の言葉に耳を傾けてもう半年治療を行なうしか選択肢はありませんでした。しかし再検査を行なったとき、彼女の卵巣は小さすぎるままで、成長した卵子も見られませんでした。小慧は完全に絶望しました。

   小慧は呆然としながら最終検査の結果を見つめました。過去二年間、彼女は仕事で貯めた十万元をすべて治療に費やしました。また、治療のために苦しい思いをしてきたことも記憶に鮮明でした。医師の指示通りに検査を受け、薬を飲み、注射をされ、そのすべてについて細かな点までまったくおろそかにしませんでした。冬の寒さや夏の暑さの中でも予約した検査には必ず行き、どれほどの距離を旅したか、どれほど多くの血を抜かれたか、何回注射を受けたり薬を飲んだりしてきたか、思い出せないほどでした。しかし結局、彼女の病状はこれっぽっちも改善していなかったのです。その代わり、肉体的にも精神的にも疲れ果て、苦痛にさいなまれ、またホルモンを長期投与したことによる副作用のせいで、体重が元々の四十五キロから六十キロに増えました。サイズも何段階か大きくなりました。満月のようになった顔と膨れ上がった身体を鏡で見たとき、それまで経験したことのない失望を感じました。それまでずっと、医学と科学には権威があると思っていましたが、想像するほど素晴らしいものではなかったのです。その瞬間、彼女は頼るものが何もないかのように感じ、悲しみと絶望に捕らわれました。

   その夜、小慧は眠ることができずにベッドの中で寝返りをうっていました。窓の外に広がる夜の暗闇を見ていると、自分が無力に感じられ、両目の端から涙が静かに枕へ流れ落ちました。

   小慧の祖母はいつも孫娘への気遣いを見せていましたが、彼女の家を訪れたところ、小慧が不妊のせいでどれほど苦しみ絶望しているかを知りました。祖母は優しくこうアドバイスしました。「小慧、これまでの数年間、不妊を治すためにあなたがどれほど苦しんできたか、どんなことを経験してきたか、私はわかってますよ。あなたがそのすべてを耐えているのを見て、とても心配だったのよ」小慧は無言のまま涙がこぼれ落ちるのを我慢しました。祖母は続けました。「実は、妊娠するかどうかについて私たちに選択肢はないの。私たちも、それにお医者さんや科学もそれをコントロールすることはできなくて、神様だけがおできになるのよ。あなたは神様を信じるべきだわ。神様の御言葉は、私たちが人生で出会う問題や困難をすべて解決できるんですから」祖母の言葉に小慧は慰められ、心が穏やかになるのを感じました。

   祖母はさらに続けました。「小慧、神様の御言葉を読んで、子どもを授かることについて何と言っているか見てみましょう」小慧は神様の御言葉の本を手に取って読みました。「人間の計画や幻想は完璧であるが、自分の子の人数や自分の子の容姿、能力などは自分で決められず、…人間は、自分の子孫のために一切努力を惜しまないが、最終的には、自分がもうける子の人数や、その子がどのような子であるかは、その者の計画や願望通りにはならない。貧しいながら多くの子を授かる者もいれば、裕福ながら子を授からない者もいる。娘を欲しがっていてもその願いが叶わない者や、息子を欲しがっても息子が出来ない者もいる。」

   祖母はこう教えました。「神様の御言葉がそのことをどう説明しているか、はっきりわかるわね。私たちが子どもを授かるかどうか、その子が男の子か女の子か、どんな外見になるか、そして将来どんなことをするのかは、私たちにもお医者さんにもどうにもできないの。できるだけ早く子どもを産みたいと願った、あなた自身の努力を振り返りましょう。あなたは医学的な治療を求め、最先端の治療を受けるためにあらゆる大病院に行ったわね。自分にできることは何でもしたけれど、すべて無駄に終わった。小慧、私たちは人間には頼れないの。神様に頼るとき初めて、奇跡が起こるのを見られるのよ。アブラハムが百歳のとき妻のサラはもう九十歳だったけど、神様はイサクという名の息子をお与えになった。一年後、子どもを授かるなんて生物学的に無理だと私たちには思える年齢で、サラは本当にアブラハムの息子イサクを産んだのよ。神様の権威は、私たちの頭では理解できないの」。

   祖母の話を聞いたあと、小慧は治療を受けた自分の経験と、あらゆる可能な方法を考えてすべての大病院に行ったものの、結局まだ妊娠できていないことを思い起こしました。小慧は神様の御言葉と祖母の教えを受け入れました。

   「小慧、自分の病状をよくしようとして、これ以上問題を抱え込んではだめよ。あなたが子どもを授かると神様がお決めになったら、遅かれ早かれ妊娠するわ。ただ誠実にそれと向き合い、神様に祈って頼り、神様のご支配と運命に従いなさい。そうすれば、もう心配したり苦しんだりすることはないし、幸せに楽しく生きることができるわ」。

   その瞬間、自分が子どもを授かるかどうか、あるいはいつ授かるかは、自分で計画したり準備したりできることではなく、また努力や医療によって変えられるものでもないことを、小慧は理解し始めました。祖母の助けを借りて神様への服従の祈りを唱えると、これまでにないほどのくつろぎと落ち着きを感じました。他人が自分をどう思っているか、義両親と夫が自分をどう扱うだろうか、もはや気になりませんでした。その後、彼女は子どもを授かる能力を医学に託さず神様の手に委ね、神様が指揮と采配をなさるのに任せました。彼女は自由時間に両親の家に行き、祖母と一緒に神様の御言葉を読んだり、神様を讃える賛美歌を歌ったりして、心の奥深くで神様の平和と喜びを感じました。

 

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クリスチャンは仕事上でどのように効果的に従業員を管理するのか

2019-12-12 11:24:18 | 職場の人間関係

   「上司」という言葉から「厳格な」とか「多くを要求する」といった単語を連想する人はかなりの数に上ると思います。私も上司は部下に厳しくあるべきであり、上司の言葉は法律であるべきだと考えていました。それがスタッフを適切に管理する唯一の方法だと思っていたのです。しかし現実と向き合ったとき、それは決して優れた方法でないとわかりました!

私の厳格な管理方法によって疎外されたスタッフ

   社会に出てから六ヶ月後、私は会社の人材室長に昇進しました。そして自分自身の管理能力を証明すべくチームの業績を向上させようと、部下達に効率的かつスピーディーに仕事をするよう求めました。それができないと、理由がどうあれ、私は彼らに説教をします。スタッフが提出する日報も、誤りは一つも許されませんでした。私の基準に届いていなければ、その人物を叱責するだけでなく、私が満足するまで書き直させるのです。

   あるとき、従業員の一人が報告書をきちんと書けないということがありました。私は彼女にどう書き直すべきか指示したのですが、それでも彼女は正しく書き直せませんでした。しまいに私はノートを放り投げ、こう言いました。「もういい、忘れてくれ。他の誰かにやらせよう。私は君のために待ち続けるほど辛抱強くないんだ」彼女は私の振る舞いに恐怖で震えていましたが、私は気にすることなく、彼女は単に怠け者で、精神力を費やしたくないのだろうと考えました。また別の従業員が私に質問するということがありましたが、それがあまりに簡単なものだったので、私は心底怒って彼女を叱りつけました。「私は君に何回言った?疑問に思ったら自分で考え、答えを見つけるんだ。なぜこんな簡単なことを私に質問するんだ」彼女はうなだれ、「ああ」とだけ言ってその場を離れました。その直後、化粧室から彼女の泣く声が聞こえました。私はほんの少し良心が痛み、自分の管理方法が厳しすぎるのではと感じたのですが、やがてこう考えました。私が彼らに厳しくしなければ、彼らはどのように仕事をうまく成し遂げるのか。だから私はそれを気にとめませんでした。



   それからしばらく経ち、私の厳格な管理方法は社内でよく知られるようになりました。そして新しいスタッフが雇われるたび、誰もが私の部門に配属しないよう支配人に求める有様でした。しかし私の部門は能率的に仕事をしていたため、支配人は私の下に従業員を送り続けました。私の部門に加わった人間はみな不安に満ち、仕事に恐れを感じ、失敗したら私に叱責されると心配していました。彼らは聞こえないほどの小声で話し合い、私が来るのを見るとすぐ自分の席に戻るのです。私はこうした状態を見ていささかお手上げに感じました。私のスタッフは徐々に私の近くを避けるようになり、仕事上必要でない限り私に話しかけようとしませんでした。私は孤独を感じ始め、彼らを不安にさせているのは自分の管理方法のせいだと自覚しましたが、チームをうまく管理するには他に方法がないと考えました。

相次ぐ退職に私は考え直した

   2015年4月、私はスーパーマーケット業界に移り、新しい店舗の店長となって店の業務をすべて担うことになりました。ここでもまた、優秀なチームをまとめて自分自身の指導力を見せつけるべく、私はスタッフに対して商品の補充を素早く行なうだけでなく、秩序正しく、また見た目にも美しく陳列するよう求めました。動きが緩慢だったり私の指示を理解していなかったりすれば、私はこう叱責したものです。「君には脳みそがないのか。どうしたら商品をこのように並べられるんだ。君は自分が何をしているのかわかってないし、誰かに尋ねようともしない。その口は何のためについているんだ」しかし思いもよらぬことに、その店舗で同じ管理方法を用いた結果、業務の効率が向上しなかっただけでなく、平均して月に一人か二人の割合で多数の従業員が退職し始めたのです。六ヶ月以上働き続ける従業員はほとんどいませんでした。

   この管理方法がよい結果を生み出さなかっただけでなく、従業員の相次ぐ退職へとつながっていることに気づいた私は、この問題に対して無力感と孤独を覚えていました。その時点で私はこう考えざるを得ませんでした。私は一生懸命管理しているのに、なぜこんな結果になってしまったのか。私はすっかり途方に暮れてしまい、何をすべきかわかりませんでした。

従業員への怒りの背後にある問題

   その後、私は神様の言葉を読みました。「人間が地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにする。人間は、自分の力を示し、自分の地位や身分が普通の人々とは違うことを他人に知らしめるため、明確な理由なく激怒することさえ多々ある。無論、地位の無い堕落した人間も、頻繁に取り乱す。そのような人間の怒りは、その人間の個人的利益に対する危害によって発生させられる場合が往々にしてある。自分の地位と威厳を守るため、堕落した人間は感情を発散させ、傲慢な本質を露わにすることが往々にしてある。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は陰謀や詭計に満ちている。人間の堕落と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。」神の言葉を読んだあと、私が怒りを感じたときに必ずかっとなるのは、サタンの傲慢な性質に支配されているからだということ、それは単に自分自身の地位と名誉を守るためだということを、私はようやく理解しました。店長になったあと、自分が有能であることを証明し、社内でよいイメージを築こうと努力する中で、私は仕事のあらゆる面で従業員に厳しい要求を行ない、彼らがそれを満たせなければ、指導者としての立場から彼らに説教し、腹を立て、勝手気ままに彼らを叱責していたことに私は気づきました。私が腹を立てていたのは単に、従業員が基準に満たない仕事をした場合、自分が優秀な管理者であることを証明できず、社内で面目を失ってしまうからではなかったでしょうか。最初はその管理方法のおかげでいくつかのよい結果を残せましたが、それはまた私のスタッフを大いに締めつけ、彼らとの関係もすっかり冷え込んでしまいました。それは単に上司と部下の関係に過ぎず、私の部門で誰も働きたがらない事態に至ってしまったのです。そしてスーパーマーケットを運営するために同じ方法を用いたところ、従業員の大量離職につながってしまいました。スタッフを管理するために自分の堕落した性質に頼ることで、私の行なったことはすべてスタッフを傷つけ締めつけることになり、またスーパーマーケットの利益も損なうことになりました。私はキリスト教徒として、自分の行動は神を賛美し神の証しをするべきだと考え、自分の立場と利益だけを考えるべきではないと思いました。特に、自分の堕落した性質に頼って腹を立てたり他人を叱責してはならなかったのです。そして私は神に祈り、自分の個人的な野心と欲望を満たすのをやめ、自分のサタンの性質のためにスタッフを気まぐれに叱らない決意をしました。

   そのとき以来、従業員が何かを理解できなかったとき、私は辛抱強くそれを説明するよう努め、彼らの仕事に問題が発生したときは助言や手助けをするようにしました。ときには仕事ぶりがよくないのを自覚させることもまだありましたが、もはやそれについて叱ることはせず、間違いの結果を理解するようはっきり説明するだけにしたのです。いったんそれを理解すれば、彼らは喜んで改善を行ないます。しばらくそれを実行したところ、私とスタッフの関係はもはや緊張したものでなくなり、私は心がより自由になるのを感じました。

他人を公平に扱う方法を学ぶ

   程なくして、私はもう一つの状況に見舞われました。新しい人物が店に雇われたのですが、彼女はさほど優れた能力の持ち主ではありませんでした。私が割り当てた仕事をうまくこなすことができず、何度も訓練を重ねたあとも、彼女は理解できなかっただけでなく、どうするべきか他の人達に訊こうとしなかったのです。私は苛立ちを覚え、こう考えました。「あんな様子で、彼女はどうして仕事を立派にこなせるようになるだろうか。彼女には辞めてもらったほうがいい。そうすれば面倒事が少なくなる」そうした考えが浮かんだとき、私は心から不安を覚えました。そこで神の御前に行って祈りました。「ああ、神様! 私はこの従業員にどうしても我慢できません。辞めてほしいと思っていますが、心から不安を感じています。どうすればよいかわかりません。どうかお導きください」

   後に私は教会の中で、自分の状態について妹に話しました。すると彼女は神の言葉の一節を読んでくれました。また別の言葉も読みました。その後、私は神様の言葉を読みました。「大きいものから小さいもの、そして微小なものまで、創造されたあらゆる生物には、創造主の権威と力により造られなかったものは存在せず、それぞれの生物に固有の、生來の必要性と価値がある。あらゆる生物は、その形狀や構造の相違に関係なく、創造主の権威に従って存在するよう、創造主により造られている。」また「いのちの供給ための説教集」も読みました。「正しく他人と接することができるようになりなさい。つまり、他人を見上げても、また見下してもいけません。他の人が愚かだろうと賢かろうと、素質が優れていようと劣っていようと、金持ちだろうと貧乏だろうと、偏見を抱いて感情に頼ってはいけません。自分の好みを他人に押しつけてはいけませんし、ましてや自分の嫌いなことを他人に強いてはいけません。これは、誰かがしたくないことをその人に押しつけるということではありません。物事を行なうときは、自分に目を向けるだけではいけません。他の人にも目を向け、自分がどう配慮すれば他人のためになるかをもっと学ばなければなりません」。

   それから彼女は次の言葉をみんなと分かち合いました。「神様によって作られたすべてのものには、存在する必要性があります。誰もが自分の長所と固有の価値を持っています。私達一人一人は異なる環境で育ち、異なる能力を有していますが、私達はしかるべき方法で他人を扱い、その人の長所が何かを見いだすためにより多くのことを行ない、その長所を土台として彼らにふさわしい位置を見つける必要があります。丸い穴に四角い釘を打ち込もうとしてはいけません。私達自身の個人的な基準を土台として常に他人を扱ったり、物事を要求したりするのは公平ではなく、それは傲慢な性質から来ています。だから私達は、他人の欠点や短所により同情的で寛容になる必要があるのです。私達は愛の場所から他人を助けるべきです。それが私達の付き合いの中で公平さを達成する唯一の方法なのです」

   私は妹のこの言葉を聞いたあと、神は一人一人を異なるようにお造りになったこと、そして私達がみなそれぞれの長所を持っていることを理解しました。私は他人を見下してはならず、特に自分の要求を押しつけ、彼らにできない仕事を無理強いしてはならないのです。その代わりに、彼らの能力を土台としてふさわしい準備を行ないつつ、他人を尊敬し理解する方法をも学ばなければなりません。さらに彼らを助けるべく、自分にできることは何でもする必要があります。そして私は、あの従業員がまだその立場に長くおらず、それほどなじんでいなかったという事実を考えました。うまく仕事をこなせないのは無理もないことで、それを理解し、彼女にふさわしい仕事を用意すべきであり、あまりに多くのことを要求してはいけないのです。

   その後、私は実際の状況に従って、彼女に単純な仕事を与えました。しばらくそうしたあと、彼女は正直で素直なだけでなく、実に勤勉な働き手であることがわかりました。私が割り当てたことを残らず完了させるため、自分にできることは何でも行ない、ときには自分の仕事を終わらせたあとも、他人を助けようと手を差し伸べるのです。彼女の性格におけるこうした側面は、私自身が持っていないものでした。はじめは自分の傲慢な性質のために、私の基準に届いていないという理由で彼女の解雇を考えたことを思い出しましたが、私はそのせいで彼女が輝く場所を見ることができず、店は本当に素晴らしいスタッフを失っていたことでしょう。私は神の導きに感謝を捧げました!

神の言葉に従って行なうとき、仕事はスムーズに進む

   それからというもの、私はもはや自分の傲慢な性質に頼らず、自分自身の基準を土台として従業員に厳しい要求をしないようになりました。そしてより多くの助言を行ない、どのように自分の仕事を進めるべきか教え始めました。時には従業員が仕事を完璧にこなせないこともありますが、努力を行ないベストを尽くす限り、私は彼らに同情的でいられました。私とスタッフの関係は徐々によくなり、ときにはジョークを交わしたりおしゃべりしたりしています。全員の間にこうした溝はなく、協力して仕事を進める中でより多くの暗黙の理解があるのです。

   数ヶ月後にマレーシアの主要な休日があり、私達は店に大量の商品を受け入れ始めました。私も業務の準備に忙しくなりました。しかし業務の進み具合が緩慢であることがわかり、このままだと在庫が積み上がってしまうのではないか、倉庫が満杯になってしまうのではないかと心配になりました。そうなれば深刻な問題です。私は不安を感じ始め、より素早く働くよう彼らを駆り立てるために、再び自分の堕落した性質に頼る衝動に駆られました。しかし同時に、自分のスタッフが息苦しさを覚えることも心配しました。そこで私は神に祈り、私の心を静めてくださるようお願いした上で、ふさわしい行動を探し求めました。いったん心が静まると、みんながそれぞれの個人的な長所を持っていることを思い出し、彼らが自分の役割をもっともよく果たせるよう、一人一人に最適な場所を用意した上で、適切な助言を与えるべきだと考えました。それを実行したところ、全員が自分の役割をよく果たし、在庫の処理も新しい商品の入荷に間に合ったのです。すべてのことがスムーズに進み、全員が自分の仕事により大きな自信を得ました。私も大いに安心しました。

   この経験を通じ、スタッフとの付き合いにおいて自分の堕落した性質に頼るなら、全員を締めつけるだけでなく、スーパーマーケットの利益も害することがわかりました。私が神の言葉を実行に移したところ、スタッフとの関係が改善しただけでなく、仕事も極めてスムーズに進んだのです。私はこのことから、神の言葉は自分がいかによい人であるべきかの基準であることに気づき、また神の言葉を実行に移すことで私の堕落した性質を変え、正しい人間らしさを生きられると知ったのです。さらに、神の言葉を実行に移すことで神の祝福と導きを得られ、内なる平和と喜びがもたらされることもわかりました。将来、私はさらに真理を追い求め、神の言葉を実行に移すでしょう!


神様は私に幸せな結婚を与えてくださった

2019-12-11 21:28:25 | 婚姻・家庭

   阿凱:

   こんにちは。私は告白をするためにこの手紙を書いています。結婚して何年も経ちますが、こんなことを言ったのは結婚後初めてで、とても恥ずかしく感じられます。どこから始めればいいのかわからないので、まずは私の子ども時代から始めましょう。

   私は若いころ、結婚は女性の第二の誕生であり、富と物質への崇拝がはびこっているこの社会で衣食の不安から逃れてよい人生を送りたければ、金持ちで有能な男と結婚するしかないと、周りの大人が言っているのをしばしば耳にしました。その瞬間から、お金を稼げる優秀な男性を見つけることが、夫を選ぶ私の基準となったのです。



   成長後、私は自分の望みを叶えるために、将来の伴侶になりそうな人たちを慎重に選別しました。しかしおばが将来の夫を私に紹介しました。美辞麗句を口にせず、飾り気がなく誠実で、貧しい一家に生まれ育った男性、つまりあなたです。あなたは突然私の人生に登場し、私たちはそれと同じくらい突然別れました。私は「金銭が第一」という考えに捕らわれ、金持ちで有能な男だけが目当てだったのです。あなたのあと、私は恋をするのに理想的だと思われる男性と出会いましたが、彼は私のことを軽んじて、最後は別々の道を進みました。それは私にとってとても苦しいことでした。

   その日、あなたとご両親が会いに来て、考えを変えるよう説得しました。私は渋々同意しました。でも、私がそれを後悔していたことを、あなたは知っていましたか。私はあなたのことを、何も持っておらず、私が望む幸せを与えられない人と見ていました。あなたの気持ちを気にしていなかったのです。あなたとは三度別れ、再び一緒になりましたが、それはどれも自分の幸せを追い求めてのことでした。あなたは私のわがままを我慢して待ってくれました。そのことは私を感動させましたが、私はそれでも満足していませんでした。薬でしかコントロールできず、根本的な原因を取り除けない、奇妙かつ苦しい病気にかかったのもそのときでした。私は悲嘆と落胆に襲われ、自分の人生はなぜこんなに困難なのかと思いました。しかし、あなたがその重荷を背負って私にプロポーズしたのもそのときでした。鉄を熱いうちに打とうとしているのか、それとも別の理由があるのか、私にはわかりませんでしたが、どうすることもできない状況の中で、嫌々ながらあなたと結婚することに同意しました。

   結婚後、あなたの家族がどれほど貧しいかがわかりました。三ポンドの大豆が欲しくて、それを買うためにお金を借りなければならなかったことを、今でも覚えています。誰かがお金を求めて来たとき、私はとても恥ずかしく思いました。どうしてこんな夫を見つけてしまったのだろう。これ以上は想像できないほど大きな侮辱を受けたという思いのせいで、私はあなたに叫び、大声で叱りました。「こんな貧乏生活、もう耐えられないわ!あなたと結婚したとき、私は一体何を考えていたのかしら」でもそのたび、あなたは何も言わずじっと座っているだけでした。

   翌年、息子が生まれてあなたはとても幸せでした。それからの日々は私の世話をするのに忙しく、私が回復する助けにしようと、油を買うために再びお金を借りました。その年、あなたの弟の奥さんも子どもを産みましたが、ご主人はお金を稼げたので、奥さんが回復後に食べたいものは何でも買うことができました。それを考えることは、私にとってこの上ない苦痛でした。自分たちの生活はこんなに貧しく惨めなのに、彼女の家庭にはお金があってみんな幸せだ、と私は感じ、自分の家庭と彼らの家庭がこんなに違うのはなぜなのかと思いました。私たちの赤ちゃんも同じ貧しさを耐えなければならないだろうと気づき、私はさらに惨めな気持ちになりました。自分の惨めさはいつ終わるのか、全くわかりませんでした。それを考えれば考えるほど、私の苦痛はより深くなり、ますます泣きたくなるのです。私は疲れ果てるまで泣いてから、空腹のためにベッドの中でいつまでも泣き声を上げる息子を見つめ、抱き上げながら心に感じた痛みのせいで、再び涙を流すのでした。

   その後、あなたが商売の勉強を始めたことに私は喜び、もっとお金を稼いで家族の苦境を変えてくれればと望みました。しかし数年経ってもあなたの商売はまったくお金を稼ぐことができず、ときにはお金を失うことさえありました。私の心の中で、あなたは他人と付き合う能力や商売の才能に欠けた人物であり、そのせいであなたをさらに軽蔑するようになりました。私に優しいことは知っていましたし、とても思いやりがあるのもわかっていましたが、それでも家族が暮らす貧困に我慢できなかったのです。だからあなたと一緒のときは決して幸せではありませんでしたし、物事が自分の望み通りに進まなかったとき、私は内側で感じていた押しつぶされような苦痛を軽くするために、あなたと喧嘩し、役立たずと罵りました。あなたを怒らせるために離婚すると脅しさえしました。それであなたが傷ついたのはわかりましたし、私もあなたをこんな風に扱いたくはなかったのですが、自分を止められなかったのです。翌日、あなたは村の外で仕事を探すために家を出ました。

   あなたが家にいない日々、私はいつも落ち込んでいました。私の両親や親戚やお友達が来て、あなたが私に親切であり、離婚すべきでないことをわからせようと説得しました。私はあなたの愛情と献身、そしていつも思いやりがあって私を気遣おうとしていたことを思い出し、私たちの愛する息子を見ました。家を出るという考えは耐えられず、ようやく、あなたと離婚するという考えを諦めたのです。

   結婚生活の不幸のせいで、私は何度も夜に泣き出し、涙で枕を濡らしました。でも、いつもあなたを軽蔑し、苦痛の中で生きているのは家族の貧しさのせいだと考えていたことに、あなたは気づいているでしょうか。ある日、義母が神様の御国の福音について語ってくれるまではそうでした。神様の御言葉は私の人生から闇を吹き払い、私を苦痛から解放し、あなたへの憎悪を消し去りました。

   神様はこうおっしゃっています。「あなた方の気質、素質、外見、霊的背丈、あなたが生まれた家族、あなたの仕事と結婚、あなたの全て、あなたの髪や肌の色、またあなたが生まれた時間さえも、すべてはわたしの手によって定められたのである。あなたが為すことや、あなたが日々出会う人たちさえ、わたしの手によって定められており、今日あなたが私の前に来たのも、実際、わたしの采配であるという事実は、言うまでもない。あなたは混乱に陥ってはならない。落ち着いて前進すべきである。」神様の御言葉は私に衝撃を与えました。天でも地でも、すべての物事には支配者がいらっしゃいます。支配者は天と地ですべてをお造りになっただけでなく、一人残らずその運命を支配なさっています。そのとき初めて、自分がいつ生まれ、誰と結婚し、家庭を築くのかは、神様によってはるか以前にあらかじめ定められていたのだと気づきました。私が何度もあなたから離れることを選びながら、それでも結局一緒になったのは、何ら不思議なことではなかったのです。結婚後、私がどれだけあなたの家族に不満だろうと、どれだけあなたを軽蔑しようと、また離婚すると脅したにもかかわらず、私は息子を失いたくなかったので、最後はその考えを捨て去りました。神様がすべてを支配なさっていることを知らなかったせいで、自分は人生においてあまりに多くを要求し、あまりにたびたび文句を言っては不満を抱え、そのような苦痛の中で生きていたのだと、私は気づきました。いったんそれを理解すると、私は神様に祈り、神様の計画と采配に喜んで従うようになり、自分を苦痛の根源へと導いてくださるよう神様にお願いしました。

   その後、私は神様の御言葉の中から次の文章を読みました。「社会動向が席巻すると、その創出者となるのはごく僅かな人たちです。その人たちは、ある種の行動を始めたり、ある種の考え方や物の見方を受け入れたりして始めます。しかし大部分の人々は、無意識のうちに、そうした社会動向に継続的に汚染され、捕らわれ、魅惑され、やがてそれを知らず知らずのうちに、無意識のうちに受け入れるようになり、それに呑み込まれて支配されるようになります。こうした社会動向で、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの区別が出来ない人間は、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、価値観を次々と進んで受け入れてしまいます。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが教えることや、サタンにより『授けられた』生活の道を受け入れます。彼らには強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏しているのです。」

   神様の御言葉は突然の目覚めでした。サタンは人々を騙して誤った方向へ導くために、ずっと「金銭が第一」とか「パンのない結婚は長続きしない」とか「貧しい夫妻を待つのは災難のみ」とかいう悪しき考えや観念を用い、それらを使って人生や価値に対する私の見方をねじ曲げました。そもそも結婚とは、意思があって同じ考えを持つ二人が一緒に家庭を築くことのはずですが、悪しきサタン的な流行が結婚に数多くの追加条件を付け加え、夫婦の関係を取引の一つに変えてしまったのです。パートナーの一方が、もう一方による物欲と虚栄心の要求を満たせるなら、結婚は曲がりなりにも保たれるでしょうが、さもなければ互いを嫌い、文句を言い、傷つけ合うか、もしくは崩壊して別れることになるでしょう。私も同じだったのではないでしょうか。私は悪しきサタン的な流行に影響され、有能で稼ぎがいい男と結婚して物質的な不安から自由になり、最高の物質的な贅沢を享受することでしか、本当に幸せにはなれないと考えていました。結婚後、私たちの貧困と、豊かな暮らしを送りたいという私の願望のために、あなたが私を満足させられなかったとき、私は惨めな気分になってあなたに文句を言ったり、有能でないとあなたを軽蔑したり、些細なことでしばしばあなたと喧嘩したり、そのうえ離婚すると脅しさえしました。私はあなたのことも惨めな気分にさせていました。ですが、それはどれも、サタンが私をもてあそび、害を及ぼしていたのです。今それを考えてみると、裕福な夫を本当に見つけていたとしても、幸せになるとは限りません。お隣さんは大金持ちの裕福な重役ですが、外に愛人を見つけ、家には数ヶ月に一度しか戻りません。奥さんは高級な服を着て物質的な不安は何一つないものの、夫の冷酷さと裏切りのせいでいつも惨めな思いをしています。また車と家と貯金がありながら、何十回も浮気を重ねて妻を苦しめ、最後は離婚に至った金持ちの男性がこの街にはいます。そうした例は数え切れないほどあるのです。そして自分自身の結婚生活が頭に浮かびました。あなたは財産を作れず、物質的に最高の暮らしを私にもたらすことはできないけれど、私を優しく扱い、私のもとを決して離れず、あらゆる点で私を気遣ってくれます。私の病気が一番深刻だったとき、あなたは私の見ていないところで何度も泣いて、私の母にこう言いました。「彼女が息をしている限り、治す試みを諦めるつもりはありません。治療のために金を借りる必要があるとしても、いのちの最後のかけらが彼女から消えるまで、私はそうするつもりです」私はずっと幸せのうちに暮らしていながら、一度もそれに気づきませんでした。ようやく、あなたが私のそばにいるという神様の采配が、私に対する神様の愛だということに気づきましたが、サタンは私の見方をねじ曲げ、物質的な生活を追い求めて、神様の采配から逃れようともがくように仕組んだのです。それが私の苦痛の根源でした。

   その後、私は神様の御言葉の中で次の文章を見ました。「人々が追求する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本来の意図と一致するものがひとつも無いことが分かります。それらは全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離し、人間を堕落させて地獄へと導く罠です。このことを確認した後の作業は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神による采配に委ね、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢をもたない神を崇拝する者となることです。」神様の御言葉は私に方向を指し示しました。そして私は喜んで神様の御言葉を実践し、神様の計画と采配に従い、自分の誤った古い目標と見方を捨て、贅沢な物質的暮らしを追い求めるのをやめようと思いました。あなたと平和に人生を送れればそれでいいと考えて、あなたがお金を稼げるかどうかに関係なく、もうあなたと喧嘩しないと決意しました。

   その年の春節の前に戻ってきたとき、あなたが自分を支えるだけのお金しか稼げなかったと知って、私は心の中に再び衝動を感じました。あなたの眉間にしわが寄っているのを見て、またあなたを罵ってしまうと思い、心を静めてくださるよう神様にお願いしました。過去のつらい体験をすべて思い出し、私たちがどれだけお金を稼ぐかは神様によってあらかじめ定められていると理解するとともに、着る服と口にする食事があればそれで満足すべきこともわかりました。私は心が解放されるのを感じ、以前のようにあなたと喧嘩することはありませんでした。あなたの眉間に浮かんでいたしわが消え、顔に笑みが浮かぶのを見ました。私はもう離婚など口にせず、あなたを軽蔑もしませんでした。

   その日あなたは、神様を信じるようになってから優しく寛容になったとか、幸せな家庭を持つのはいいことだとか言って、息子の前で私を褒めてくれました。それに、私の神様への信仰を支えるとも言ってくれました。それがわかったとき、私がどれだけ感動したか知っていますか。神様の御言葉は私を変え、神様は私たちに平和な家庭を与えてくださったと、あなたにお伝えしたいです。

   あなたの妻、阿悦

 

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真キリストと偽キリストを見極める方法の真理を理解した後、むやみに警戒することを止めた (I)

2019-12-10 21:34:31 | 真のキリストと偽キリスト

   【編集者メモ】主が再臨される重大な時がやって来ました。しかし、牧師と長老の言うことを聞いて、偽キリストに惑わされることを恐れて消極的な守りの姿勢に入っている信者たちがいます。彼らは誰かが主の再臨を証言しているのを耳にしても、それを探求しようとしません。そうすることで、偽キリストに惑わされることは避けられますが、真キリストに対して扉を閉ざしやすくもなってしまいます。では、実際にどうすれば偽キリストを警戒しながら主の再臨をお迎えすることができるのでしょうか?シャンワン姉妹はその答えを発見しました。では、彼女が何を体験したのか読んでみましょう。

終わりの日には偽キリストが現れるという理由で、私たちは他人の宣教を聞くことを牧師から禁止されていました

   私は幼い時から、(教会の助祭で子供向けの日曜学校で教師をしていた)母親に習って主を信仰し、頻繁に一緒に集会に参加して聖書を読んでいました。私は少し大きくなった後、子供のフェローシップからユースのフェローシップに移行しました。

   私たちのユースのフェローシップで宣教の担当をしていた牧師は神学者でした。彼はよくこう言いました、「牧師でいるのは容易なことではありませんよ。聖霊による感動がなかったら、牧師の仕事を続けるのはとても大変なんです。」従って、私たちは、彼が聖霊に触れられて、主に最も好かれている人であると思い、彼を大いに敬いました。彼は宣教する時、頻繁にこの節を読み上げていました、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マルコによる福音書13章21-22節)そして、彼は私たちにこう言いました、「終わりの日には偽キリストがたくさん現れます。全てにおいて注意を払い、むやみに説教を聞き回ってはなりません。特に、まだ聖書の基礎知識が固まっていなくて、霊的背丈も極めて低い人たちは、惑わされてしまうといけないので、他の宗派の説教を聞いたり、読んだり、それを調査してはなりません。」



   さらに、この牧師は私たちが特に関わりを持つことを禁止されていた東方閃電を含む特定の教会の名前を頻繁に幾つか挙げていました。彼はまた東方閃電に関する非難宣伝についても幾つか口にしていました。私の兄弟姉妹は全員がそれを聞いてその教会とは絶対に関わりを持たないと言っていました。これ以外にも、私たちは聖書をもっと読んで、普段から集会に参加して聖書を学習することを続け、毎日主に罪を告白して、それを悔い改め、全ての瞬間において注意しながら主を待っていれば、主が再臨される時に天国に携挙されると彼はよく私たちに言いました。当時、私は彼の言ったことを信じていました。なので、私は警戒を緩めて他の教会の説教を聞こうとはせず、彼に言われたことは何でもしていました。私はこれによって、自分は安全な場所で主の来臨を待っていると思わされていたのです。

   2017年のある日、教会からフー兄弟が私を探しに学校までやって来ました。彼は真剣な口調で言いました、「大事な話があります。あなたのお母さんと姉さんが東方閃電の信者になってしまったかもしれないんです。」私はこの知らせに唖然としました。私は思いました。「牧師によく東方閃電とは一切関わってはいけないって言われているのに。どうしてお母さんは東方閃電を信じているの?」それから彼は私に東方閃電に関する非難宣伝の内容を幾つか話してくれました。私はこれを聞けば聞くほど、どんどん怖くなっていきました。私はパニックになって、「どうしよう?どうしよう?」、と思い続けました。その時、彼はこう言いました、「家に帰って、本当に東方閃電を信じているのかどうかをお母さんに聞いてください。でも、聞く時は東方閃電のことは何も知らないふりをしてください。先ずはお母さんの返答を聞いて、会話を録音して私に送ってください。」これを聞いて、私は自分の母が誤った道を歩んでいないかと不安になり、彼に同意しました。

母親と口論になりました

   事態はフー兄弟が言った通りになりました。私が家に帰ったとたん、母は、主イエス様は終わりの日に全能神として再臨されており、人間を清めて変えるために、そして人間を罪の束縛から完全に解放するために、たくさんの御言葉を仰せられ、神の家を起点に裁きの働きをなさっておられると言ったのです。母はこうとも言いました。「これは神が人類を救う最終段階の働きよ。これを逃したら、もう救われる機会はないわ。だから、あなたも素早く終わりの日の神の働きを調査して、全能神教会の集会に参加するようにしてね。」母の言葉を聞いて、私はすぐさまフー兄弟が話していた非難宣伝の内容を思い出しました。私は心の中で葛藤しました。でも、私は会話を録音するために、自分の感情を抑えて母の言うことを聞き続け、こっそりと彼女の言葉を録音しました。

   その翌日、母は全能神教会の人たちと一緒にインターネットの集会に参加することを私に勧めてきました。私はすかさず拒否してこう言いました、「お母さん、私は彼らの集会に参加するつもりはないし、お母さんにも彼らと集まるのは止めて欲しいの。お母さんは増々彼らの側に付こうとしているわ。」母は穏やかに言いました、「この集会で全能神教会の兄弟姉妹と交流して、聖書に書かれた神の御言葉の新しい理解と知識を得ることができたのよ。だからこそ、私は彼らの交流は光で満ちていて、聖霊の啓示から来ているものだと確信できたの。それに、全能神の御言葉は私の困惑をたくさん解消してくださったのよ。だから、全能神教会には聖霊の働きが本当に宿っていて、全能神の仰せられる御言葉が真理であるっていうことを私は確信したの。」当時、私の頭の中は東方閃電に対する観念でいっぱいになっていたので、私は母の言うことを完全に無視していました。その後、私はフー兄弟が話していた東方閃電に関する非難宣伝をインターネットで検索し始めました。そして、私はそれを母に見せて言いました、「お母さん、見てよ!インターネットにちゃんと書いてあるわ。東方閃電は調査したら駄目だって牧師がよく言っているじゃない。彼らと連絡を取るのはもう止めてよ!」

   しかし、母はこの非難宣伝には目もくれず、寛容な口調でこう言いました。「中国共産党は無神論を信じる政党で、神の顕現と働き、信仰を持つ全ての人を嫌うの。中国では、政府がキリスト教とカトリック教をカルトとして、聖書を狂信者の書籍として非難して、無数の聖書が燃やされ、破壊されているわ。政府は聖書の販売すら禁止したのよ。それに、数多くのキリスト教徒とカトリック教徒が捕まり、迫害され、刑務所に入れられて、体に障害を負わされたり、殺された人たちまでいるのよ。その活動は世界や西洋諸国の人権保護団体から何度も強い非難を受けているわ。神に抵抗する中国共産党政府のようなサタンの政権が真実を話すと思う?それに神の顕現と働きについて発言したり、それを誹る権利があるかしら?牧師と長老に関してだけど、どうして彼らは私たちが終わりの日の神の働きを調査することを許可しないのかしら?そんな行動を取ることが主の教えに適っているのかしら?主は私たちにこう仰ったのよ。『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイによる福音書5章3節) 主の御言葉から、私たちが謙そんして探求することを主が望んでおられることは明らかだわ。誰かが主の顕現と働きについて証言しているのを耳にすることがあれば、私たちは前向きにそれを調べるべきなのよ。私たちはそうしてのみ、主の再臨をお迎えすることができるの。あなたは主を信仰しているのよ。ならば、どうして主の代わりに人間の言うことを聞いているの?あなたはまだ、牧師の言葉を聞いて消極的な姿勢をとって、サタン政権の非難宣伝を信じることが主の御心に適っていると思っているの?それは主の御言葉に反していると思わないの?過去のユダヤ人のしたことを考えてみなさい。彼らは主の福音を求めも調べもせず、むやみにパリサイ人の言うことを聞いて、不純な動機を持っていた人たちが捏造した噂を信じたわ。彼らは、それが理由で主イエス様に抵抗して、非難を向けて、最後は主を十字架に釘付けにして、神の罰を被ったんじゃなかったかしら?私たちは神にある信者として、主をお迎えする機会を逃してしまわないように、彼らの過ちから学ばなければいけないのよ。ヨハネの黙示録には、次の預言が出てくる箇所がたくさんあります。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(ヨハネの黙示録2章、3章) これより、主は再臨なさる時に御言葉を仰せられるということが分かるわ。だから、主の再臨をお迎えしたいのなら、私たちは神の御声を聞くことを学ぶ必要があるの。全能神の仰せられる御言葉が本当に神の御声かどうかはそれを読んで調べないと分からないのよ。」母はこう言った後、『終わりの日のキリストの語られる言葉』 という書籍を手に取って私に渡そうとしてきました。

   私は母の持っていた本に目を向けましたが、それを受け取りはしませんでした。なぜなら、私はまだ終わりの日の全能神の働きを受け入れることができなかったからです。なので、私は「そんなの読みたくないわ」、と言った後、背を向けて自分の寝室に向いました。

私は主の御旨を求め始めました

   私は部屋に戻った後、自分の机に向かって座って自分を落ち着かせました。そして、私は母が話していたことを思い出してこう考えました。「確かに、お母さんは正しいわ。東方閃電は主が再臨されたと証言しているけど、私は全能神の言葉を読みもしないで、むやみに牧師の言葉を聞いて、中国共産党の東方閃電に対する非難宣伝を信じてしまっているわ。これは確かに少し思慮に欠けているわ。全能神がもし本当に主の顕現であっても、それを受け入れることを拒否していたら、私は主の再臨をお迎えする機会を逃してしまうわ。でも、終わりの日には偽キリストが現れるって牧師がよく言っているわ。正しい道から逸れてしまったら、主への信仰が無駄になってしまわないかしら?」こう考えていると、私は心の中が動揺しました。私は誰の言うことを聞けば良いのか分からなくなってしまいました。こうして、私は主に呼び掛けました、「ああ、主よ!私は今までずっとあなたの再臨を待ち望んできました。しかし、私は終わりの日の偽キリストに惑わされてしまわないかと不安です。主よ、東方閃電の信者たちはあなたの再臨を証言しています。あなたが本当に全能神として再臨されておられるのなら、あなたの御声に気付くことができるよう、どうか私を啓き、導いてください!」

   その後、私の母は依然として全能神教会の兄弟姉妹たちと一緒にインターネットで集会に参加することを私に勧めてきました。私はしばらく躊躇した後、インターネットにアクセスして集会の内容を聞いてみることにしました。

   集会の最初、私は心を静めず、彼らの交流にも耳を傾けませんでした。しかし、その後、ヂャン兄弟が人類を救う神の経営計画、神の三段階の働きの奥義、終わりの日の神の裁きの働き、およびその他の真理の諸側面に関して交流したのを時、私は興味を引かれました。私は聞けば聞くほど、増々彼の交流が新鮮であると感じました。以前参加した聖書の勉強会では、宣教師がただ単に神の不思議な働きがどのような形で神の起こした奇跡に基づいていたかを語ったり、遠い昔から聖徒たちがどのようにして神に従い、神から受けた任務を達成したかについて話すだけで、人類を救う神の経営計画について触れたことは一度もありませんでした。ヂャン兄弟の交流によって私は神がどのようにして人類を管理されているのかを少し理解できました。私は長年に渡って聖書を読んできましたが、このような理解を得たことはありませんでした。この集会の後、私は気が変わり、終わりの日の全能神の働きを調べることにして、録音した母の言葉を削除しました。

私は神の御声を聞く賢い乙女になる決意をしました

 


   その2日後の集会で、私たちは賢い乙女と愚かな乙女の違いについて話し合いました。ヂャン兄弟は言いました、「賢い乙女の賢明さは、神の顕現を切望すること、そして神の御声に気が付くということにあります。賢い乙女は知力と素質を有し、真理を愛し、真理を求めます。だからこそ、賢い乙女は主の再臨の知らせを聞くと、それを前向きに探究して、調べることができるのです。このような人々が偽キリストに惑わされることはありません。対照的に、愚かな乙女は真理を嫌い、神の御声を聞くことに注意を払わず、神の御声に気が付きません。愚かな乙女は困惑していると同時に、識別力を持っていません。なので、主の再臨の話になると、ただ単に自分たちの観念と幻想に固執して、神の働きに抵抗して、非難を向けるのです。例えば、兄弟姉妹の中には、主を信仰していながらも、主の御言葉を聞くことをないがしろにしている人たちがいます。代わりに、彼らは牧師と長老の言うことを聞き、それが何であっても信じます。彼らは、名目上は主を信仰していますが、実際は牧師と長老に従っているのです。他にも、偽キリストをむやみに警戒しているだけの兄弟姉妹もいます。彼らは再臨された主イエス様の御声を聞いても、それを探求することがなければ、調べることもありません。彼らは惑わされることを恐れて心を閉ざしてしまっているのではないでしょうか?そのような人々が主の再臨をお迎えすることができるのでしょうか?」

   ヂャン兄弟の言葉は突然私を目覚めさせてくれました。「そうだ!私は長い間、牧師の言うことを聞いてきたけど、終わりの日の神の働きを調査したことは一度もなかったわ。全能神がもし本当に主イエス様の顕現であるとしたら、私は愚かな乙女として暴露されてしまうわ!主イエス様はかつてこう仰せられたわ。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書7章7節)私は常に主の再臨をお迎えすることを願ってきました。神が既に再臨されたと全能神教会が証言している今、私は賢い乙女になって、終わりの日の全能神の働きを前向きに探究して、調査するべきなのです。神はそれを望んでおられるのです!」私はこうして終わりの日の全能神の働きを調査し続ける決意をしました。

私は真キリストと偽キリストを見極める方法を理解しました

   次の集会で、私はこう尋ねました、「兄弟、昨日あなたは賢い乙女になるために大切なことは神の御声を聞くことに集中することだと言われました。私は終わりの日の神の働きをどうやって調査すればよいのか分かるような気がします。しかし、牧師はよく終わりの日に偽キリストが人々を惑わすことについて話しています。ならば、真キリストと偽キリストはどのようにして見極めればよいのでしょうか?私は真理のこの部分がどうも理解できません。これについて私と交流していただけないでしょうか?」

   ヂャン兄弟は言いました、「あなたは大切なポイントを提起されましたね。それは私たちが主の再臨をお迎えできるかどうかに直接関連しています。真キリストと偽キリストを見極める方法に関する真理をちゃんと理解できている限り、偽キリストがどのようにしてキリストになりすましても、私たちが彼らに惑わされることはありません。真キリストと偽キリストの違いを見分ける方法について、主はこう仰っておられます。『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。 』(マタイによる福音書24章23-24節)主の御言葉は、偽キリストが終わりの日に、主として、しるしと奇跡を行って人々を惑わそうとすると明確に語っておられます。偽キリストは全く真理を知らず、悪霊と悪魔の本質を持っているため、人々を欺くためには神が過去になされた働きを真似て、単純なしるしと奇跡を幾つか行う、または聖書を誤解して、意味深い理論を語ることしかできないのです。キリストのみが真理、道、そしていのちであり、キリストのみが真理を表し、私たちに道を指し示し、いのちを与えることがおできになります。キリストを名乗りながらこういったことが出来ない人は、そのいずれも間違いなく偽キリストです。彼らは偽物なのです。この原則に従えば、私たちは基本的に真キリストと偽キリストを見極めることができます。」

   私はヂャン兄弟の交流を聞いた後にこの節をさらに詳しく考えてみると、突然こう気が付きました。「確かに、この御言葉には偽キリストが人々を惑わすために大きなしるしと奇跡を行うと述べているわ。でも、どうして聖書に精通している牧師たちが偽キリストを見分けるこの原則に気付けなかったのかしら?」

   その後、ヂャン兄弟は全能神の御言葉のこの節を掲示しました。「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。…もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」(『今日の神の働きを知るということ』より)。

   そして、ヂャン兄弟はこう言って交流しました、「全能神の御言葉から、神は常に新しく、決して古くなく、決して同じ働きを繰り返されないということが分かります。神は新たな段階の働きをされる度に、新たな御言葉を仰せられ、人々に新たな実践の道をもたしてくださります。例えば、主イエス様は来臨された時、律法と戒めを発布する働きは繰り返されませんでした。代わりに、主はその働きを土台にして、人類の罪を贖う段階の働きをなされました。主は当時の人々に実践の新たな道をお与えになったのです。例えば、主は人々に罪を告白して悔い改めること、敵を愛すること、許す心を学ぶこと、そしてお互いを愛し合うことを教えられました。終わりの日には、全能神が来臨されました。全能神は悔い改めの道は繰り返されませんでした。代わりに、全能神は贖いの働きを土台にして、人々を裁いて清める御言葉を宣べ伝える段階の働きをなさりました。この段階の働きでは、全能神はしるしと奇跡は行われません。むしろ、実際に御言葉を仰せられ、私たちの堕落した性質を暴露され、私たちの不義を裁かれます。同時に、全能神は、私たちが救いを得るために必要な真理を全て私たちにお伝えくださり、それは私たちが自分の性質を変えるために歩む必要がある道について明確に理解できるようにしてくださります。そうすることで、私たちはサタンのような堕落した性質を脱却し、ゆくゆくは神に天国に連れて行っていただけるようになるのです。しかし、偽キリストのほとんどは悪霊に取り付かれています。彼らは極めて傲慢で、不合理です。彼らは新たな時代を開くことも、古い時代を閉じることもできず、まして真理を表して人々に性質を変える道を示すことなどもちろんできません。彼らは主イエス様が既になされた働きを真似ることしかできません。彼らは人々を惑わすために単純なしるしと奇跡を行うことしかできません。彼らは死人を蘇らせたり、5つのパンと2匹の魚で5000人を食べさせるといった、主イエス様がなされた大きなしるしと奇跡を行うことはできません。なぜなら、これらは彼らの能力を確実に超えるもので、このような権威と力は神のみがお持ちであるからです。」

   ヂャン兄弟の交流を聞いて、私は初めて「神の働きは常に新しく、決して古くない。一方で、偽キリストは神が過去になさった働きを真似て、単純なしるしと奇跡を幾つか行うことしかできず、神の働きを行うことはできない。なので、神の働きの原則を理解している限り、私は惑わされることはない」、と理解しました。以前、私は惑わされることを恐れて、東方閃電の宣教を聞こうとはせず、終わりの日の全能神の働きはなおさら探求しようとも、調査しようとしていませんでした。私は普段自分が説教を聞いて主を讃えている教会にしがみついていることが一番安全なことであり、そうしていれば主に会うことができると考えていたのです。これを今振り返ってみると、私は、主の再臨を宣教するいずれの人に対しても消極的な守りの姿勢をとり、終わりの日の主の御言葉を積極的に探求できていなかったことで、自分が主をお迎えする機会を実に逃しやすくなっていたことが分かりました。


つづき

集会で失ったものと得たもの

2019-12-09 23:34:21 | 人生の奧義

   私の名前は果子(グオツィー)と言います。海外の米国で勉強している高校生です。私はキリスト教の家に生まれました。母は私が1歳の時に、全能神の終わりの日の働きを受け入れました。私がとても小さかった頃、母がいつも私にこう言っていたのを覚えています。「神様が天と地、そして存在するあらゆるものをお創りになったのよ。私達人間もまた神様がお創りになったもので、神様は私達を何よりも愛してくださっているの。覚えておいて。何かがあなたに起こるたびに、全能神にお祈りするのよ。そうすれば、神様はあなたのことを見守ってくださるわ。」こうして、私はとても小さい頃、神様が存在するということを学びました。何かが私に起こるたび、私は神様に祈りました。私は神様のご加護を経験したのです。でも、神様と神様の働きを本当に知ったのは、集会と信者仲間の語り合いでした。集会に出席しているうちに、徐々に神様と神様の働きに関する認識を得たのです。全能神教会のブラザーやシスターと一緒に真理を語り合っているうちに、知識を身に着けたのです。神様のお言葉を実践しているうちに身に着けたのです……



   2015年12月、ブラザーとシスターとの集会に出席してみたらと母は私に提案して、こう言いました。「終わりの日の神様の働きはすぐ終わるわ。集会に出席せず、ブラザーやシスターと神様のお言葉について語り合わず、神様のお言葉を自分だけで読んでも、真理を理解するのはとても難しいわ。それでは簡単に救済を得られないわ。」その時私は、母は口で言っているだけだと思いました。なので、私はそうねと適当に母に返事しておきました。よもや母が実際に教会に連絡して、シスターと私のオンライン集会を開くようにシスターにお願いしていたとは思っていませんでした。シスターが集会時間を設定したので、私は本当にいやいや参加しました。毎週集会に参加しなきゃいけないなんて、私の自由時間が減ると思ったのです。友人と外食したり、飲んだり、楽しんだりする時間が減ると思ったのです。私は心の中では集会に出席したくはありませんでした。その時の状態を保ちたかっただけなのです。何かが私に起きると、私は神様にお祈りしていました。時には神様のご加護もあり、そのご加護だけで、心の中で神様を信じるのに十分でした。でも、シスターを即座に拒否するなど、あまりにばつが悪かったので、いやいや同意するしかありませんでした。でも、集会時間が来ると、いつも集会から逃げる言い訳を考えようとしました。集会に出席したとしても、私の心はあまり幸せではありませんでした。神様に祈る時、私ができたことは、称賛の単語をいくつかつぶやくことだけでした。そうして、テストやテストみたいなもので成功するために助けてもらったのです。神様の言葉について信者仲間と語り合う時、自分の番が来るのが本当に怖かったです。なぜなら私の心には光がなかったからです。信者仲間と何について話せばいいのかわかりませんでした。私ができることと言ったら、私が重要だと思った一節を探して読み上げることでした。それから文字通りの意味を少し説明しました。たとえば、読解のようなことをしたわけです。これは神様の言葉に対処する私の態度が適切ではなかっただめです。私は集会にじっくり注意を払いませんでした。聖霊による啓蒙が私にはなかったのです。見返りもありませんでした。こんな風に集会に参加するにつれ、私はますます集会を退屈だと思うようになりました。私はこう思いました。これよりクラスメートと外出して楽しむ方が遥かにいいわ。特に携帯電話で受信した大量のテキストメールのメッセージを見ると、クラスメートや友人と出かけることを思わず考えてしまいました。そこで母に、集会に出席したくない、自分で神様のお言葉を読むだけで大丈夫だと言いました。でも、母はこう言いました。「集会に出席しなくて、意識を集中させて神様の言葉を読めるの?神様の言葉は、学校で読む教科書に出てくるようなものとは違うのよ。み言葉を文字通り受け取って理解できるものではないわ。ブラザーやシスターと集会に出席して、それについて信者仲間と語り合い、お互いと経験や知識を分かち合う必要があるの。そうやって初めて、徐々にはっきりと理解できるようになるのよ。」私は集会への出席がそんなに重要だと思ってもみませんでした。でも、集会は神様の言葉を読む機会をもっと与えてくれて、集会でもっと真理を理解することができたので、私は何も言えませんでした。でも、私は素敵な時間を過ごすことにしか興味がなかったので、欲をあきらめて真理を実践する気はなかったのです。真理を少しは理解していたんですけど。なので、その後も集会に出席するたびに、まず神様の言葉について信者仲間と話して、次に携帯電話で遊び始め、ゴシップ・ニュースを眺めて、最新のテレビ番組をチェックして、時には友人とおしゃべりしていました。こんな風でしたから、毎回集会に出席しても、何も得るものはありませんでした。

   ある時、母が突然私に聞きました。「最近集会出席はどんな感じ?聞いたことを理解してる?集会中に絶対携帯電話で遊んではダメよ!出席しているのがオンライン集会だから、シスターにあなたがしていることを見えないとしても、神様はあなたの言葉や行動をいつもご覧になれるんですからね。全然注意を払ってないと、神様は啓蒙さえしてくださらないわよ!」その直後、母は私に神様の言葉の一節を読んでくれました。「神の道を歩むためには、自分自身に関する事柄や、自分の周囲で起こる事柄は、小さいことでも、すべてないがしろには出来ない。自分がそれに注意すべきであるかどうかを問わず、問題に直面している限り、それを無視してはならない。そうした事柄は、全て神からの試験であるとみなす必要がある。こうした姿勢は、どのようなものであろうか。あなたが、こうした姿勢をとっている場合、それにより、ある事実が確認される。すなわち、あなたの心が神を畏れていること、そして悪を避けることを望んでいるということである。あなたに、神に満足してほしいという願望があるなら、あなたが実行する事柄は神を畏れ、悪を避ける基準とかけ離れていることは無い。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)母はこう言いました。「あなたは集会に出席している時に携帯電話で何かを覗くのはそんなに大したことじゃないと思っていても、これは集会だけではなく神様に対する態度に関係あることよ。神様は私達の傍にいて、私達の一挙一動を見て、私達が何を考えているのかも逐一観察しているから。自分がなぜ集会中にいつも携帯電話で遊びたいのかを考えてみたことがあった?実際、これにはサタンのトリックが見て取れるわ。私達が集会に出席してもっと真理を理解して、いのちが速く成熟して、最後に神様の救済を得るのは神様のご意思よ。でも、サタンはあなたに神様を避けさせ、神様の言葉に耳を傾けさせないようにするために、あなたが好きなものを使ってあなたを誘惑するの。神様の御前であなたの心が落ち着かないようにして、最後にはあなたが何も得られないようにするためにね。神様の働きがなくなると、あなたは人生を失うのよ。」母の言葉を聞きながら、私は心の中で思いました。わかったわ。今回のように何か小さなことを求める真理もあるのね。これは神様に対する人間の態度にも関わってくること。私はちょっと恥ずかしかったです。母に私が考えていたことをズバリと言い当てられて。昔私はいつもこう思っていました。オンラインで集会に出席しているだけだから、誰も見ていないって。だから自分のしたいことをしたくていろいろ考え始めたんです。今やっとわかりました。神様はこの全てをご覧になっていたのだと。そう考えると罪の意識を感じて、ちょっと動揺しました。ここ何回かの集会中にいつも携帯電話で遊んでいたのを神様が全部見てたなんて。後悔の念でいっぱいになって、神様にお祈りを捧げる時に、慌てて自分のミスを認めました。この後、私は集会中に二度と携帯電話で遊ばない、神様のお言葉を熟考するよう頑張ろうと決心しました。ブラザーとシスターの話に意識を集中させて耳を傾けることにしました。私はその後で出席した何回かの集会で携帯電話の電源を切り、携帯電話をどこか自分から遠く離れた所に置いておきました。自分の注意をシスターの話に耳を傾けることに集中させました。耳を傾けている時に、時々私の心が上の空で、心ここにあらずの状態になることもありましたが、それでも集会に出席して得ることが多かったです。

   でも、楽しみたいという欲が強かったので、少し経つと、また集会中に携帯電話で遊びたくなって、手がうずうずしました。私はこう思いました。ちょっと携帯電話を覗いてみるだけ、約束するわ。私は携帯電話をさっと取り上げて、チラリと見てみました。でも、この携帯電話を見るということになると、結果は絶望的でした。あっという間に昔のやり方に戻ってしまいました。時には集会で使っていたコンピュータを横に押しのけて遊んだりしました。私は全てを無視して、携帯電話を手に取ってテレビ番組を見ていました。悪いと知りつつ悪いことをするというこの態度のせいで、私は聖霊の働きを受けることができませんでした。集会を開いている時でも、集会の最初から最後までシスターの話を全く理解していませんでした。私が話をする番になると、何を言うべきなのか全くわかりませんでした。徐々に集会に出席したくないという思いがまた芽生えてきましたが、恥ずかしくてとても母に言えませんでした。私は半分上の空で何とか出席を続けていました。これは、ある時ある集会で携帯電話で遊んでいる時まで続きました。私はその時、始まったばかりの新しいテレビ番組に気づきました。すぐ見たかった番組でしたが、その番組を見るにはソフトウェアのダウンロードが必要でした。ちょっとためらいましたが、それでもそのソフトウェアをダウンロードしました。ダウンロードを終えてそのプログラムを開こうとすると、突然私の携帯電話の画面が真っ暗になりました。次にパスワードを要求されました。でも、パスワードなんて知ってるはずがないでしょう。私はなぜ画面が真っ暗になったのか、その理由を検索しようとしてオンライン接続して、自分がトリックに引っ掛かったのだと気づきました。誰かが私の携帯電話のコントロールを奪ったので、携帯電話が使用不能になったのです。私は非常に後悔しました。同時に神の懲らしめという発想が心に浮かびました。私はこう思いました。神様は人々の心の最も深い部分を観察していて、私の一挙一動が神様の御前に全画面表示で映し出されているのだと。私は悪いとわかっていながら悪いことをしました。これは神様が下した懲らしめなのだと。そう考えると、集会中に本当にもう携帯電話で遊べなくなりました。

   母にこのことを話すと、母は私に神様の言葉の一節を読んでくれました。「大きな問題は何であろうか。小さな問題は何であろうか。神の道を歩むことが関与する問題は、大小の区別が無い。そのことが理解できるであろうか。(理解できる。)日常の問題に関しては、人間が重大な問題であると捉える問題と、些細であるとみなす問題がある。人間はこうした大きな問題を極めて重要な問題と考え、それが神により与えられたものと考える。しかし、こうした大問題が発生する過程においては、人間の未熟な背丈が原因となり、また人間の貧弱な力量が原因となって、神の趣意に従うことが出来ず、神の啓示や、価値のある実質的認識が全く得られないことが往々にしてある。些細な問題については、人間に軽視され、放置されて徐々に意識からなくなることが多い。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃している。このような、神があなたのために計画した人々、出来事、物事や状況を常に軽視したとしたら、どのような結果になるであろうか。その結果、あなたは、あなたを全き者とする日々のそして瞬間瞬間の神の業と神の指揮を、常に放棄することとなる。神があなたのために一定の状況を計画する時は、毎回あなたの心、思いや思想、考え方、行動のしかたを、常に神が隠れて観察している。あなたが不注意な場合、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことが無い場合、神がその状況をあなたのために計画した際に、神が完全にしたい物事や神があなたに要求している物事に、注意することも配慮することも無いであろう。また、こうした人々、出来事や物事が真理や神の趣意にどのように関連するかを知ることも無いであろう。繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなかったら、神はどのように事態を進行させるであろうか。……神のそうした人々に対する姿勢はただひとつである。その姿勢とは何であろうか。神はそうした人々を心の底から拒否する。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)私は神様の言葉を読みながら、こう考えました。今回、私は本当に神様の懲らしめを自分自身で経験して、神様が本当に私の傍にいて私のあらゆる行いをご覧になっていることがわかったわ。私いつも自分の堕落した行動や考えで、ブラザーとシスターを欺けると思ってた。でも、神様の観察から逃れることは絶対にできなかった。今まで意図的に悪いことをして、集会中に用心深く立ち回って神様のお言葉を読まなかったり、信者仲間と真理について語り合わなかったりしたわ。携帯電話で遊んでテレビ番組を見てただけだった。私はもう神様に嫌われてるんだわ。私の携帯電話のコントロールを誰かに握られただけじゃなくて、集会中、真理に関する信者同士の話から何も得られなかったし。時間を浪費して、「命の入り」を自分から阻止してしまった。そして、こうも思いました。昔はいつも自分自身の努力で携帯電話で遊ぶのを止めたいと思っていたけど、その結果どうなったかというと、自分ではサタンの誘惑を克服することができなかった。わかったことは、真理を実践して神を畏れ邪悪を避けようとする時、神様に頼るのではなく、自分自身の力に頼るのは、とても難しいということ。私、自分の器が小さすぎるんだと思う。これからは祈って神様に頼るだけにしようっと。そうして初めて、神様を畏れて邪悪を避ける状態になれるんだわ。集会で心から落ち着けるんだわ。

   その後数カ月間、私はクラスメートの携帯電話を借りました。人の電話だったので、どんなプログラムでも気に入れば、手当たり次第にダウンロードするわけにはいかなかったからです。それで集会に参加するたび、満ち足りた気持ちで自分の席に座って、シスターが話すことに耳を傾けていました。時には友人が私に次々とメッセージを送ってくるのを見て、好奇心が勝って友人が送ってきたものを本当にちょっと見てみたいと思いました。でも、次に思ったのは、神様が私の一挙一動を見ているということです。「現在集会中。信心深くて敬虔な態度でなければ、私は神様に嫌われるかもしれない。」なので、私は毎回携帯電話に手を伸ばそうとしては、さっと手を引っ込めていました。心の中で神様に祈っていました。「神様!私の心をお守りください。私の心が落ち着いて、サタンにかき乱されないように。」神様に祈って私の心を静め、シスターが話していることに耳を傾けて、神様のお言葉に対する彼女達の経験と認識を分かち合うのです。すると、私は集会の最初から最後まで神様のお言葉から非常に多くの啓蒙と光を得たことに気づきました。そうすることで神様と神様の働きについて幾ばくかの認識を得られました。私は昔、集会に行きたいと思ったことは一度もなかったのです。集会への出席を避けるため、学校の課題で忙しいという言い訳をしていました。今や私は自分の欲を捨てるために集会が必要で、集会に出席する時間を必ず見つけるべきだと感じています。いずれにせよ、勉強は通常それほど大きなプレッシャーや大きな作業ではありませんでした。私はよく自由時間を携帯電話で遊んだりテレビ番組を見たりして過ごしたものです。実際には、全体として集会への参加にもっと時間を費やせたのでした。参加時間を増やせば、真理を理解するのにとても役立ちます。なので、1週間に2回、集会に参加することを提案しました。こんな風に本心から実践することで、私はますます多くの真理を理解しました。神様の言葉に関する知識が、昔より遥かに増えました。時には携帯電話を体に乗せて盗み見しました。でも、欲を捨てなければならなかったことをすぐ思い出し、携帯電話をベッドの上に投げ出して集会を続けることができました。これは神様が密かに私の一挙一動を見ていると私が知っていたからです。もう自分の欲に従うのではなく、神様を敬う心を持つべきなのです。

   数か月経つと、私は本当に多くのことを得て、多くの真理を理解し、自分のいのちが大きな進歩を遂げたと本当に感じました。神様の言葉を経験したシスターの話を分かち合うことで、私も徐々に私の人生における神様の働きを学びました。私が覚えている最も深い経験は、数学のテスト中でした。私は他の生徒の回答を写して高得点を得ようとしたのです。何が起こったかと言うと、学問上の高潔さに問題があるかどうかについて、私は学校から問われました。この問題はあまりに重大だったので、私の大学進学にも影響があるでしょう。私がどうしていいかわからなかったちょうどその時、集会中にシスターが神様のお言葉を分かち合い、私の状況に基づいて神様のご意思を話してくれました。彼女は、神様は正直な人々が好きで、正直な人々は神様の救済を得られると言いました。私が神様のお言葉に従って正直な人間になる訓練をしていると、神様の行いを実感しました。つまり、再テストを受ける機会を得ただけではなく、その学期中の成績は全てAというご褒美も得たのです。このような経験はこの1回だけではありませんでした。……今や集会に出席するのがどんどん好きになっていきました。神様のお言葉についてシスターと話すのが好きです。神様のお言葉を実践した自分自身の経験を語るのも好きです。時には聖霊の啓蒙を通じて、神様のお言葉を読み、神様のお言葉を自分自身の経験と関連づけてじっくり考えていると、私の心はとても感動し、私は本当に感情に圧倒されそうになるのです。神様を信じることは、何て素晴らしいんでしょう!経験を経ることで、集会に出席するのが怖かった私から、集会を楽しむ私になりました。これは神様の言葉に率いられて達成した結果です!これをじっくり考えてみると、たとえ集会に出席したためにクラスメートと外出して食べたり、飲んだり、楽しんだり、羽目を外したりする時間が減ったとしても、私が得たことは私の人生の神様の定めでした。正直な人間が神様の祝福を得るということを私に理解させてくれたのは、神様のお言葉だったのです。真理を実践していると、私の心は喜びと平和を感じました。携帯電話で遊んで自分の欲のままに従うと、私はサタンに傷つけられ堕落させられる可能性があります。そうなると更にまた神様から遠ざかってしまい、これが原因で神様が私を忌み嫌う可能性もあります。真理に関する集会と信者仲間の話のおかげで、神様は神様を畏れ邪悪を避ける人間を褒めたたえること、そしてそれは私が追求して具現すべき真の人間の形でもあると私は徐々に学びました。神様のお導きにより、私は本当に多くを得ました。全能神様、ありがとうございます!