賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

神の救い-健康のために、しっかりと体を休めてください(オーディオブック)

2020-06-05 00:18:06 | 信仰生活

   私が学生だった頃、村の人々の多くはアパートに引っ越し、車を所有していましたが、私の家族は未だに瓦ぶきの家で暮らしていました。従って、私は大きくなったら裕福になろうと一生懸命に働く決心をしました。その数年後、私は荷物をまとめ、新しい場所を目指して電車に乗り、明るい将来に向かって奮闘し始めました。

   「急げ!急げ!」、作業場で監督が大声を出し続けました。スタッフは全員が出来るだけ急いで仕事をしていました。私は片手で顔の汗を拭き、もう片方の手でドリルを掴みました。そして、私は次の工程が始まる前に、前かがみになって腰をマッサージしました。

   「ジエ、急げ!急げ!もたもたするな!業務終了の時間だぞ!」トレイいっぱいの段ボールを片付けて、資材供給係が頭の高さまで山積みになった資材を運び入れてきたその時、監督の声が梱包作業場から聞こえてきました。私はつま先立ちして沢山の箱を下に降ろしました。私はもうクタクタでした。しかし、ペースダウンして一息つこうとすると、いつも仕事をしろと駆り立てる監督の声が聞こえてきました。3000個の箱を目の前に、私は頭を下げて嫌々ながらも働き続けました。夜になると、私の指は頻繁に痛みました。私は、「最も辛い苦しみを乗り越えた者こそが最高の人間なんだ。だから今は我慢するしかない。金持ちになれば全てが上手く行くんだ」、と自分に言い聞かせました。

   ある日、私は作業場のミーティングが終わって帰ろうとしていた時、突然気を失って床にうずくまってしまいました。監督が私に気が付いてこう叫びました、「ジエ、どうしたんだ?何があったんだ?」頭が重くなり、私はとても気分が悪くなりました。しばらく時間が経って少しだけ気分がましになりました。しかし、私はこれを真剣に受け止めませんでした。自分はエネルギーにあふれる若者だと思っていたからです。

   より高い給与を手にしたかった私は機械販売会社で仕事を見つけ、倉庫管理者として働きました。私は何千という製品の受け取り、出荷、および保管の担当をしました。私は基本給以外に残業代も稼ぎました。更に多くのお金を稼ぎたかった私はほぼ毎晩のように得意先情報を更新して遅くまで働きました。

   新製品が増える中、倉庫内の通路は資材でいっぱいでした。結果的に、私の労働時間は8時間から10時間、10時間から12時間へと増えていき、12時間以上になった時さえありました。職場からの帰宅途中、私はいつも静まり返った夜の中を1人で歩きました。しかし、私は給与カードの貯金が増えて行くことを考えると、この疲れと疲労を忘れることができました。私は近い将来自分の家と車を手にする日を心に描きました。

   ある日、私は重い資材を引っ張っていると、突然動悸と胸内苦悶を感じて呼吸困難に陥りました。医者に診てもらうと、私は不整脈と診断されました。医者は私にこう言いました、「体をしっかり休めて、普通の生活をしてください。でないと、重病になったら合併症を患いますよ。」これは私の不健康な体調に対する警鐘でした。しかしながら、私は医者の言うことを聞かず、実際に重病になるまでは考えないようにしようと思いました。こうして、私はお金、家、そして車を手にしようと懸命に働き続けました。

   ある日、職場で、私の同僚であるシアさんが勤務中に心筋梗塞で倒れ、病院に救急搬送されました。彼は過労が原因で病気を患い、命を落としかけたのです。これを目撃した私は同じことが自分にも起こるのではないかと心配になりました。私は自分にこう問いかけました、「お金は本当にいのちよりも大切なのか?健康を損なったら、何のためにお金を稼ぐというんだ?」私は毎日、仕事を終えて帰える途中、ある路地の交差点を曲がって帰宅しています。しかし、生死を分ける交差点ではどの道を選ぶべきなのでしょう。私は初めて寂しくなり、絶望し、困惑しました。私は精神的にも、肉体的にも疲れ切っていたのです。私は残りの人生をこのような形で生きるのでしょうか?

 

 

   私が困惑し、絶望していた時、神の福音が私に届いたのです。神はこう仰りました:「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。…この格言について誰かがどれほどの経験があるかにかかわらず、これが誰かの心に及ぼすことのある否定的な効果は何ですか。(人は金銭を重んじます。)皆さん一人ひとりを含め、この世にいる人々の人間的性質を通して、何かが明らかにされました。これはどのように解釈されますか。それは金銭崇拝です。それを誰かの心から排除するのは困難ですか。極めて困難です。サタンによる人間の堕落は相当に徹底的なようです。サタンがこの社会動向を用いて人を堕落させた後、それは人にどのように表れますか。皆さんは金がなくてはこの世で生き残っていけない、一日でさえも不可能であると感じませんか。(感じます。)人の地位は、体面と同様に、その人がどれだけ金をもっているかにもとづいています。貧しい人々は恥ずかしさのあまり背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。」

   そして私はこう理解しました:「『この世は金しだい』や『金が第一』というのはサタンの人生の規則であり、それは私の人生観を堕落させ、私を騙して裕福になることを私が人生の目的にするように仕向けていたのです。私はこういった影響と考えの影響下で、お金は全てを意味し、お金があれば他人よりも偉くなり、変化をもたらし、自分の家族に敬意を表すことができると信じたのです。従って、私はより沢山のお金を稼ぐためだけに頻繁に残業をし、汗水たらして働き、疲れ果てていても、病気になっても休みを取りませんでした。神はシアさんに起こった出来事を使って、お金のために健康といのちを犠牲することは愚かなことであると私に注意を促してくださったのです。主イエス様はこう仰りました:「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイによる福音書 16:26)。いのちに比べたら、お金など口にするにも値しないのです!お金は一時的に肉体的な快楽を与えてくれるだけで、健康を取り戻してはくれないのです。従って、私はお金のためだけに生きるべきではないのです。

   これを理解した私はお金を追い求めることを以前ほどは熱望しなくなりました。その後、私は集会に参加し、神の御言葉を読み、神を讃えながら讃美歌を歌うようになり、これらを自分の人生の必要不可欠なものにしました。私は心の中で今まで感じたことがないある種の確信と平安を手にしたのです。私は裕福になる欲望を手放そうと試み、沢山働くことをさほど重要視しなくなりました。週末には少し休みを取るようになりました。こうして、私は次第に体調が少し改善していきました。しかし、同僚たちが過労して高い給与を稼いでいると聞いた時、私は又しても躊躇しました。何を選択すべきか?お金のために残業するのか、それとも健康のために体をしっかり休めるのか?

   その後、私は神の御言葉のこの節を読みました:「こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法がある。それは、自分の従前の生活様式や、従前における人生の目標と訣別し、従前の生活様式、哲学、追究、願望、理想を概括し、分析して、それを神の旨や人間に対する要求と比較し、そうした従前の物事すべてが、神の旨や要求と矛盾していないか、人生の適切な価値をもたらすか、自分を一層深い真理の理解へと導くものであるか、人間性と人間らしさによって生きるようにさせるものかを確認することである。人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。」

   私は神の御言葉を熟考しながら、何度もうなずいてこう考えました:「神の御言葉はとても現実的だ。過去に、「お金が第一」というサタンの考えが心の奥底に根付いていた私はそれを人生のモットーとし、続けて残業し、もっとお金を稼ごうと自分の時間、自由、そして健康を犠牲にしていた。しかし、私は神を信仰し始めて以来、やっと普通の生活が送れるようになったんだ。だから、以前の生き方に戻るのは愚かなことではないだろうか?神は人々の運命を支配し、用意されている。これ故に、富は人々が努力して手にできるものではないのだ。神の御心は私が普通の仕事環境で規則正しい日常業務に就けるよう、私がお金のために生きるという人生観を手放すようにすることなのだ。私は神の主権と御采配に従うことを学びます。」

   それ以降、私はスケジュール通りに働き、定期的に休みました。徐々に、私の体は強くなり、見た目も増々改善していきました。私はとても嬉しくなり、以前よりも効率的に働けるようになりました。私の心も、心配したりパニックに陥るのではなく、豊かさと平安を感じるようになりました。後に、会社はどういう訳か私の所属する部門の給与調整を行いました。私は仕事量が減っても、給与は上がっていたので、富は人々の努力で手に入るものではなく、神に予め定められているものだと確信させてくれました。神の主権と御采配に服従せずにサタンの人生観を持って生きるのは辛いことです。対照的に、神に従い神の御言葉を指針にして生きることを選ぶ人は真の平安と喜びを得ることができるのです。

   お金のために疲れ果て、健康を犠牲にする生活から私を救ってくださった神に感謝いたします。皆さん、健康のために、どうかしっかりと体を休めてください!


終末預言は既に実現され、主は既に新しい名前に変えて戻られた

2020-06-03 00:11:16 | 聖書預言

   二千年前、主イエスは預言されました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書24:7~8)またヨハネの黙示録にはこう預言されました。「小羊が第六の封印を解いた時、わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり……」(ヨハネの黙示録6:12)この二節の聖句は主が再来する時の兆しは、さまざまな災害が頻発し、また血の月の兆しが現れると明確に私たちに教えました。しかし、血の月は既に2011年と2013年に現れました。2014年4月から2015年9月までに連続の四つの血の月が現れ、太陽が暗くなってめったにない天象が伴っていました。近年、各国の情勢が混乱の中にあり、時々テロ攻撃が発生し、干ばつ、地震、洪水、火災も発生し続けています。しかも、2020年の災害はさらに大きく、新型コロナウイルス肺炎は世界中に広がり、至るところが不安に襲われています。オーストラリアの大火災は何ヶ月も燃え続け、数億匹の動物が死亡し、全世界に深刻な汚染をもたらしました。米国でインフルエンザの猛威が続き、致命的なインフルエンザウイルスが全米国で蔓延しています。カナダのニューファンドランド・ラブラドール州では前例のない暴風雪に見舞われ、都市全体が雪に埋められました。東アフリカも25年以来最も深刻な蝗害に遭遇し、数千万人が食糧危機に直面しています。プエルトリコでは102年以来最も強い地震に遭遇しました。フィリピンのマニラは火山噴火に遭遇し、巨大な火山灰が全都市を覆い、地震も起こりました。また北アメリカのカリブ諸島で7.7震度の地震が起こるなど、災害が頻発し、四つの血の月が現れ、主の再来の預言が既に実現されたことを示し、多くの主を信じる人々は皆今は終わりの日であり、主イエスが再来される時であると感じています。

   現在多くの人は皆主イエスが戻られて、新しい名前に変え、新しい働きをさなると証ししていますが、ある兄弟姉妹は聖書に書かれている「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)によって、主イエスの御名は永遠に変わらず、主イエスだけが救い主であり、主イエスの御名によって救われ、ほかの新しい名前を受け入れるのは主イエスを裏切ることになると思っています。このような考えはいったい正しいでしょうか。次に一緒に神様の名前についての真理を交流しましょう。

神様の名前は変わるのか

   私たちは神様の名前はイエスと呼ばれ、永遠に変わらないと思っていますが、事実は本当にこのようですか。神様の名前は決して変わらないのですか。一緒に二節の聖句を見てみましょう。聖書にはこう書かれています。「ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。」(イザヤ書43:11)「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」(出エジプト記3:15)

   聖書の記載から分かるのは、律法の時代の神様はヤーウェと呼ばれ、ヤーウェ以外に救い主がいなく、ヤーウェの名前は永遠に続くのです。しかし、恵みの時代になると、なぜ人々は主イエスを救い主として受け入れたのですか。なぜまた主イエスの御名を守るのですか。しかも、聖書には「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」(使徒行伝4:12)と書かれています。もし、私たちの思う通りに神様の名前が変わらないなら、神様の名前はなぜヤーウェからイエスに変わったのですか。「ヤーウェ」と「イエス」この二つの名前はいったいどれが神様の唯一の名前でしょうか。

   実は、「世々」とは神様がその時代での名前が永遠に変わらなく、つまりその時代で神様の働きが終了しない限り、私たちは神様のその時代の名前を守るべき、こうしてこそ神様の称賛を得られるのです。しかし、神様が新しい時代の働きをなさる時、私たちは神様の新しい名前を受け入れるべきです。こうしてこそ子羊の足跡に従い、聖霊の働きを得られるのです。律法の時代で神様がヤーウェという名前を取って、その時代の人々は「ヤーウェ」という名前を守り続け、永遠に変えられません。神様が受肉して「イエス」という名前で贖いの働きをなさる時、律法の時代の働きが完了し、もし人はヤーウェの名前を固執し、主イエスの名前を受け入れないなら、聖霊の働きに捨てられ、排除され、暗闇に落ちるのです。ペテロ、ヨハネなどの弟子たちのように主イエスの新しい名前を受け入れるだけ、聖霊の働きを得られ、主の救いを得られるのです。ここから分かるのは、神様の名前は決して変わらないのではなく、神様が新しい時代の働きによって変わりますが、神様の名前がどう変わっても、依然として同じ神様であり、ただ呼び名が異なるのです。しかも、聖書には「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル人への手紙13:8)と書かれているのをどう理解しますか。実は、神様の本質、神様の性質が永遠に変わらないと指しているのです。神様の名前が永遠に変わらないのではありません。一段落の言葉ははっきりと説明しています。「神は不変であるという人たちがいる。それは正しいが、それは神の性質と本質の不変性に言及している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わることはない。神の働きは常に同じだと言うのなら、神はその六千年の経営(救いの)計画を終えることはできるであろうか。あなたは神は永久に不変であることだけ知っているが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。もし神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代まで連れてくることができたであろうか。もし神が不変なら、神がすでに二つの時代の働きをしたのはなぜであろうか。……『神は不変である』という言葉は神が本来持っているもの、そして神の在り方に関してである。いずれにせよ、六千年の働きを一点で定義することはできないし、単なる静的な言葉で描くこともできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するように単純ではないし、神の働きは一時代には立ち止まってはいられない。たとえば、ヤーウェは神の名前を常に表すわけではない。神はイエスの名によっても働くことができ、これはいかに神の働きが常に前進しているかという象徴である。」(『神の働きのビジョン(3)』より)ここから分かるのは、神様の本質、神様の性質は決して変わらないが、神様の名前が変わるのです。つまり神様が違う時代でなさった異なる働き、異なる名前を取り、神様の名前は「ヤーウェ」と呼ばれても、「イエス」と呼ばれても、神様の本質が変わらず、いつでも一人の神様が働きをなさるのです。もし、主が再来されて新しい名前に変え、私たちは受け入れるなら、これは主イエスを裏切ることではなく、子羊の足跡に従うのです。当時ユダヤ教のパリサイ人は、神様の名前が時代によって変わるのを知らなかったため、彼らはメシアだけが彼らの神様であり、彼らの救い主であると思い、結局、神様の名前を「イエス」に変えて、贖いの働きをなさって来られる時、彼らは気が狂って主イエスを罪に定め、主イエスに抵抗し、最終的に、主イエスを十字架に釘づけにし、凶悪犯罪を犯してしまい、神様の懲罰を受けたのです。私たちはこのことを今後の戒めとすべきです。自分の観念と想像によって神様の名前が永遠に変わらないと決めつけることができず、さらに終わりの日の神様の名前はまた主イエスと呼ばれると言うこともできず、さもないと神様を決めつけることになるのです。

神様が違う時代で異なる名前を取る意義

   神様はなぜ違う時代で異なる名前を取るのですか。神様が異なる名前を取る意義は何でしょうか。一緒に一段落の言葉を見てみましょう。「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。」(『救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た』より)この段落の言葉は神様が各時代で異なる名前を取る意義を教えてくださり、神様が律法の時代でヤーウェと呼ばれ、神様が律法の時代で行われた働きを表し、神様が律法の時代で発表された威厳、怒り、呪い、憐れみの性質を表しています。ヤーウェ神は律法と戒めを発布され、人々に罪と何か、地上でどのように生きていき神様を礼拝するか、律法と戒めを守る人が神様の祝福を得られ、律法に背く人は神様に呪われ、懲罰されるのを分からせました。したがって、律法の下でのイスラエル人は皆律法を守り、ヤーウェの名を聖いものとし、何千年ものあいだヤーウェ神の導きの下で生活していました。律法の時代の末期になって、人類の堕落はますます深くなり、律法や戒めを守れず、捧げるものもなく、律法違反によって死刑を宣告される危険な状態にありました。神様は人類を救うために、恵みの時代を開き、イエスという名前を取って、人類を贖う働きをなさいました。言い換えれば、「イエス」という名前は神様が恵みの時代でなさった働きを表し、神様が恵みの時代で発表された憐れみ、慈しみの性質を表し、主イエスが人に憐れみを与えられ、人に悔い改めの道を賜り、最後に人類を贖うために十字架に釘付けにされ、人類はもはや律法によって罪に定めることがなくなり、神様の前に来て祈り、主の恵みと祝福を得られるようになりました。ここから分かるのは、各時代で神様が固有の名前があるが、どの名前も神様の全体を表すことができず、そのため、神様の働きの新しい段階はそれぞれの時代の意義を反映する特定の名前を取って、神様のその時代での働き及び発表された性質を表すのです。同時に、私たちは、神様は常に新しく、決して古くならない神様であり、神様が新しい時代の働きを開く時、再び古い名前を使わず、私たちはただ神様の新しい時代での名前を受け入れてこそ、聖霊の働きを得られ、神様の称賛を得られることが分かりました。

神様の終わりの日の新しい名前を通して主の再来を迎える

   それでは、主が再来される時に新しい名前に変えるのですか。実は、聖書はずっと前に、私たちに主が再来される時に新しい名前があると教えてくださいました。例えば、「利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録3:12)「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである。」(ヨハネの黙示録1:8)「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。』」(ヨハネの黙示録19:6)「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』。」(ヨハネの黙示録4:8)「そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、『今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。』」(ヨハネの黙示録11:16-17)聖書に神様の新しい名前について言及されていることから、私たちは主が再来される時に必ずイエスと呼ばないことを確定できます。しかも、ここには多くの箇所に神様の名前は「全能者」と呼ばれることに言及し、このいくつかの聖句以外に、ほかの聖句にも記載されています。例えば、「ヨハネの黙示録」の15章3節、16章7節、14節、21章22節などです。これらの聖句には「全能者」と言及しています。これらの聖句に基づき、私たちに分かるのは、主が戻られて新しい働きをなさる時に、主の名前は「全能者」に変わることです。しかも神様は「全能者」という名前を用いて新しい時代を開き、恵みの時代を終わらせ、人々に神様のすべての性質を認識させ、皆「全能者」を大いなる名前と崇めるのです。私たちは神様の終わりの日の新しい名前を受け入れるのは、主イエスの再来を迎えていることです。

   今「東方閃電」の人が主イエスが既に戻られ、全能神と呼ばれることを証ししています。「全能神」という名前はまさにヨハネの黙示録の預言の成就です。しかも、彼らは全能神が既に多くの真理を語り、一段階の人を裁き清める働きをなさり、人々をそれぞれの種類に応じて分類され、毒麦と麦を分けられ、神様の言葉の裁きを受け入れ、清められる人は災いの前に、神様に勝利者に完全にされて神様の国に入り、神様の言葉の裁きを拒絶する人は災いの中に落ちるのです。全能神がなさった言葉の裁きの働きはまさに聖書の預言の成就です。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)「収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう。」(マタイによる福音書13:30)聖書の預言の成就から見れば、おそらく全能神が主イエスの再来でしょう。私たちは主を迎えることにおいて、謙虚に尋ね求め考察すべきです。こうしてこそ主の再来を迎える機会を容易に逃すことはありません。


娘の結婚、私はそれに口出しするのを止めます

2020-06-02 00:05:22 | 勝利者の証し

   私は娘の結婚の管理人、彼女が釣り合いのとれた相手を選ぶことをしつこく要求しました

   ある日、私の娘が突然電話をしてきてこう言いました、「お母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。将来の義理の息子に求める必要条件って何?」

   彼女の言葉を聞いて私の心臓はビックリしました。私はこう思いました、「彼女は今お相手を選んでいるってことかしら?そうならちゃんと検討して自分に合った人を選んでいることを確認しておかなきゃいけないわ。私の夫のことを考えると、彼は大した学歴もないし、私たちが育った家庭環境も違うから、私たちはいつも意見が食い違って、それで喧嘩をしていたわ。人生の半分を喧嘩の多い家庭で暮らしてきたから、私はもうくたくたでがっかり。そんな結婚生活で幸せになれるわけがないわ。だから、娘に私が生きた道を歩ませるわけにはいかないわ。彼女は大学を卒業して、安定した仕事にも就いているから、最低でも学歴と家庭環境が同等で、素養と教養があって、彼女と同じ目標を持っている男性と結婚するべきだわ。そうすれば、彼女は幸せな結婚生活を送れるわ。」

   私はこう考えながら、真面目な口調で娘にこう言いました、「最低でも、彼の学歴はあなたと同レベル、またはそれ以上であるべきよ。彼の家族はそんなに裕福でなくてもいいけど、最低私たちと同じくらいであるべきね。それと、ひとり親家庭で育った人は駄目よ⋯」

   私は自分の考えを一息ですばりと言いました。しかし、娘は私の言葉を聞いた後、「そう、」としか言いませんでした。そして、彼女は話題を変えてしまいました。

 

 

   電話を切った後、私は落ち着くことができませんでした。夜になると、私はベッドの上で寝返りを打ちながらこう考えました、「明らかに、彼女はお相手を見つけているわ、それに電話で私の反応を探っていたわ。彼はどんな人なのかしら?彼が私の条件に合わなかったらどうしようかしら?」私は繰り返し考えました。ついに、私はこれに厳しい注意を払って、彼女の見つけたお相手が彼女と同等の人でなかったら認めない決意をしました。

   しばらくして、娘が電話してきた時、彼女は私にこう聞いてきました、「お母さん、学歴って結婚相手を見つけるのに本当にそんなに大事なの?」「もちろんよ!」と私は何も考えずに答えました。「それは人の文明的な質と資格、それとその人の地位を表すものなのよ⋯」

   私が喋り終える前に娘が割り込んでこう言いました、「お母さん、人の学歴がその人の質と等しいわけじゃないし、高学歴は必ずしも高い質や教養を表しているわけでもないわ。才能はあっても美徳が無いような人はどこにでもいるでしょ?成績が良くても能力が低い人だってあちこちにいるわ。お母さんは私よりも沢山の人に会ってきてるんだから、私よりも良く知ってるはずよ⋯」

   その時、私はもう全くそれ以上彼女の言うことを聞く気分にはなりませんでした。私は彼女の彼氏が私の要求からは遥かに遠いことに薄々気付きました。私は彼の学歴が私の基本要件に及んでいないことが分かりました。そうでなければ、娘が人の学歴はその人の質と資格に等しいわけではないなどと言うはずがないのです。

   私は私の要件通りに夫を選ばなかった娘に激怒してしまいました

   その後、私はこれについて何度も繰り返し考えていると娘のことが心配になりました。そうして、私は娘に電話をかけました。私はこう言いました、「もう私があなたの彼氏のことをどう思っているかなんて聞かなくていいから。彼のことを私に話してちょうだい。」一息おいた後、彼女は彼のことを全て話してくれました。その内容はあまりにもひどく、恐れていたことが現実となってしまいました。この男の子は娘の3歳年下で、中学校の教育しか受けていなかったのです。彼の母親は彼が11歳の時に白血病で亡くなり、それから彼の父親が再婚したので彼は祖父母と一緒に暮らしていたのです。そして彼は娘の務める会社の工業で作業員となっていたのです⋯私は娘の言葉に猛烈な打撃を受けました。私は突然頭痛がして、気を失いそうになりました。私は一瞬どうしたらよいか分からなくなって泣きそうになり、手は怒りで震えていました。私の娘がこのような相手を選ぶなんてことは全くの予想外で、私は彼女に何を言ってよいのか分かりませんでした。

   それまで娘には一度も怒ったことがありませんでしたが、私はわれに返った時、彼女に声を上げて説教をするように言いました、「あなたは私に逆らおうとしているわ!どうして私の言うことを聞かないの?あなたは私があなたの父親と一緒に生活して辛い思いをしているのを見ているでしょう?長年の間、私には不満を聞いてくれる人が1人もいなかったの。だから、あなたには同じ思いをして欲しくないのよ!」私は娘の気持ちを完全に無視して自分の怒りをぶちまけてしまいました。私がとても怒っていたことを分かっていた娘は心配そうな口調で私にこう説明しました、「お母さん、お母さんってば、ちょっと聞いてよ。お母さんが私のために言ってくれていることは十分に分かってるわ、でも信じてよ、彼は本当にいい人なの。お母さん、心配しないで。私は大卒で、洞察力があるのよ。私にとって大事なのは彼の性格なの。彼は私と違って高学歴じゃないし、一人親家庭で育っているけど、彼は大人で安定感があって、正直で誠実、落ち着いてるし思いやりもあるの⋯いつか彼を家に招待するわ。お母さんも彼に会ったら間違いなく気に入ってくれるわ。」

   娘は一生懸命になって私と話をしようとしましたが、私はどうしても聞いていられませんでした。私はもう感情が抑えられなくなり、涙があふれ出てきました。そして、私は心を鬼にして彼女に言いました、「やめて、彼には会いたくないわ。私の言うことを聞かないなら、もう二度とお母さんに電話してこないで!」私はこう言ってすぐに電話を切りました。

   神の御言葉は私の誤った観念を好転してくださりました

   それから何日も経ちましたが、娘は電話をしてこないので私はどんどん悲しくなりました。私は良識があって親思いな娘が私にいろいろ言われたからといって私と縁を切ることはないとよく分かってはいましたが、彼女は自分で決めたことを簡単に諦めないことも分かっていました。これ故に、私は心が痛み、次に何をしてよいのか分かりませんでした。すると、私の言った言葉が頭の中で響き渡りました:「私の言うことを聞かないなら、もう二度とお母さんに電話してこないで!」私はこう思いました:「彼女は自分の決めたことは諦めないわ、でもそれは私が譲歩しなきゃいけないってこと?」私は増々途方に暮れました⋯

   弱くて無力な私は神の前で跪き、涙しながら祈りを捧げました、「ああ、神様!私の娘はあのような相手を見つけてしまいました、私はこれを容認できません。私は娘の結婚生活が私のと同じように不幸にならないかと心配です。ああ、神様!私は今とても辛いです、私があなたの御旨を理解できるよう、どうかお助けください。」

   ある日、私は霊的献身を実践していた時、次の神の御言葉を読みました:「ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、『高等教育機関』で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。」「この邪悪な時世においては、結婚に関して、歪んだ情報に常にさらされ、それにより必要条件がさらに増加し、人間に様々な負担が課せられ、人間の態度が異常になっている。しかし、結婚経験者は、その者が結婚をどう理解しているか、結婚に対してどのような姿勢であるかを問わず、結婚とは個人的選択の問題では無いことを知っている。」

   この御言葉を読んだ後、私は次のことに気が付きました:「サタンに堕落させられて以降、私たちは神からどんどん離れていき、その結果として、今私たちは人生や価値に対して正しい見解を持てておらず、全面的にサタンの哲学を指針として生活しています。‘男は間違った業種に就くことを恐れる反面、女は間違った男と結婚することを恐れる’や ‘同じ社会的階級の家族間における結婚が最適である’ 等、サタンの誤った思考や観念の影響により、私は無意識のうちにこれらを肯定的なものと見なし、幸せな結婚生活の基準としていたのです。」これらに方向付けられながら、私は自分の娘が高学歴で、資格を持った良い家系生まれの相手を見つけることを要求し、私はまたそのような男性のみが素養と教養を持ち、そのような男性と結婚してのみ娘は幸せな結婚生活を送れるとも思っていました。私の娘が私の要求に合わない相手を選んだ時、私は彼女の気持ちを無視し、私の言うことを聞かないと縁を切るとまで言ってしまいました。この私の行動が原因で私たちは2人とも苦しい思いをしました。これは全て私がサタンの観念に束縛され操られていたことが原因で起こったのではないでしょうか?私は神を信仰していながら、神の主権を完全に信じておらず、神の御計画と御采配に従ってもいませんでした。私はサタンの持つ生き方のルールによって深刻なまでに堕落させていたにもかかわらず、それを認識していませんでした。私は極めて盲目で無知だったのです。

   その時、私はこの神の御言葉も目にしました:「結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。」「結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。」

   この神の御言葉を読み終えて、私はやっとこう理解しました:「私は自分の結婚の判断もできないのに、娘の結婚を判断してあげれるはずがないわ。私は本当に傲慢だったわ。結婚は2人の運命に従って神が取り決めるになるものであって、それぞれが役割を持つものよ。各結婚はカップルが共通の目標を持って生じるものであって、外部からの影響が決めるものでなければ、人間の意思や努力で変えられるものでもないわ。これは神の権威で決定するものなのよ。でも、‘同じ社会的階級の家族間における結婚が最適である’といった観念に従って生きていた私は、カップルは学歴と家庭環境が釣り合う場合に限って共通の話題を分かち合って、その場合に限って幸せな生活が送れるものだと信じていたわ。私の考えは神が全てを支配されておられるという事実に背いていないからしら?私は神の主権と采配に抵抗していないかしら?」

   この時、私は今までずっとサタンの結婚における観念を指針に生きながら神に背き、抵抗していたことに気が付きました。これは私を苦しめただけでなく、娘を縛られて抑制された気分にしていたのです。そして、私は後悔の念と罪悪感に圧倒され、こう静かに神に祈りを捧げました、「ああ、神様!私はとても愚かで何も考えていませんでした。私はあなたを信じていながらも、あなたの主権を全く知らず、サタンの毒を指針にして暮らし、学歴が低くひとり親家庭で育った男の子は大卒で立派な私の娘にはふさわしくないと常に思っていました。私はサタンに欺かれ、苦しみの中を生きていました。神様!私は今、自分の結婚であれ、娘の結婚であれ、それは全てあなたが支配し、定めておられ、他の誰かが決められることではないと理解しました。神様!私はあなたの御采配に従います!」

   娘の結婚を神に託す

   私が神の御旨を知った時、心の中に溜まっていたもやがやっと晴れていきました。私は娘の結婚を神に託し、その心配をせずに、神の御計画と御采配に従うことにしました。その後、私は娘の望みを受け入れて、自ら彼氏に会いに行きました。実際に会ってみると、彼女が言っていた通り、彼は良い性格をしていて、大人で落ち着きがあり、特に思慮のある人で、「低学歴でひとり親家庭で育った男の子は力量と教養に欠ける」という私の想像とは違いました。この事実は私の誤った観念に対するはっきりとた切り返しでした。その時、私は自分がこの結婚を邪魔をすることを神の御言葉が時にかなった形で妨げてくださったことをとても幸福に感じました。

   私の娘が結婚した後、私の義理の息子は彼女をとても大切にし、そして愛し、彼らの生活は幸せで恵まれていました。さらに、以前娘が言っていた通り、私はこの立派な男の子がとても気に入りました。特に、意外にも仕事熱心で現実的に働く義理の息子は会社のリーダーと同僚たちから認められ、一般作業員から会社にとって重要な技術員へと昇格し、技術指導を担う正社員となったのです。平凡な男であった義理の息子がこんなに立派になり、娘に対してもとても優しくしている様子を見ていると、私はとても驚かされました。

   これらの事実は、自分の観念がどれだけ不合理で無知であったか、そして自分の想像が真理とは違い、神の御采配と御計画とは正反対であったことを知らせてくれました。これは私の誤った観念に対する強力な切り返しとなりました。サタンが私に植え付けた「同じ社会的階級の家族間における結婚が最適である」といった生存のルールが私を苦しめていたのです。それでもなお、自分の観念を新たに見直し、神を求め、神に従った後、私は神が娘のために用意してくださった結婚は完璧であったことを知り、それと同時に私の誤まった観念も改心されました。私は神の愛と御救いを実際に体験し、神への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

   神の御言葉が私の内で成し遂げたことの結果として、私は義理の息子に対する偏見を捨てることができました。さらに、私は神の御采配と御計画に従ってのみ、私たちは心の中で落ち着きと平安を感じることができるのだと心から感じました。これについて、神のこの御言葉があります:「⋯神が人間の運命を統治していることをあなたが真に知り、それを真に認め、自分のために神が計画し、決定した物事の全てが大きな利益であり、大いなる保護であるということを真に理解した場合、その痛みが次第に緩和され、心身共にくつろいだ気持ちになり、自由になり、解放される。」 私は個人的な体験より、サタンが私に吹き込んだ虚偽の観念は真理のみが解決できるものであり、私に光をもたらし、私の心を解放し、自由にしてくれたのも真理であったことを知りました。

   全ての栄光、神様にあれ!  


今日のみことばー神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である (抜粋4)

2020-06-01 23:33:52 | デボーション

 

   神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。神の働きは人には達成できないし、人には備わっていないものだからである。三つの段階の働きが神の経営の全てであり、人が認識すべき最大のビジョンである。もし人がこの偉大なビジョンを知らないとすれば、神を認識することも神の心を理解するのも容易ではないし、さらに人が歩む道もますます困難になる。ビジョンがなければ、人はここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのはビジョンである。将来、あなた方の認識はより深くなるべきであり、あなた方は神の心の全て、そして三つの段階の働きにおける神の賢明な働きの本質を認識するようにならなければならない。これこそがあなた方の真の背丈なのだ。働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営(救い)も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。人は、これらの三つの段階の中に表現されている神の性質の全体を認識しなければならない。この神の存在の全てが人類全てにとって非常に重要であり、神を礼拝するときに、人がもしこの認識を持たないのであれば、彼らはブッダを崇拝する人々と何ら変わらないことになる。人の間で行う神の働きは人に隠されておらず、神を崇拝するすべての人に認識されるべきである。神は、人の間で人を救う三つの段階の働きを行ったのだから、人は、これらの三つの段階の働きの中で表現されている神が持つもの、また神であるものを認識すべきである。これは人がすべきことである。神が人から隠すことは、人が達成できないこと、また人が知るべきでないことであり、一方、神が人に見せることは、人が知るべきこと、そして人が身に付けるべきことなのである。三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。

『言葉は肉において現れる』より

 

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