賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

スーパー細菌が襲ってきた。あなたは準備ができたのか

2020-07-16 23:28:15 | 聖書の名言

   ここ数年来、臨床上細菌感染が敗血症を誘発したために亡くなった患者は少なくない。老人の命であれ若者の命であれ、男の命であれ女の命であれ、体質の丈夫な人の命であれ体質の弱い人の命であれ、細菌、ウィルスの前では同じように弱いのである。さらに恐るべきことは、細菌感染を治療するのに用いられる抗生物質がもはや細菌に抵抗できなくなり、次第に効用を失いつつあることである。細菌の薬物耐性はますます強いが、でも今のところ、医学界ではまだほかの「強力」な抗生物質がない。人々の命の安全に対する細菌の脅威はますます大きくなる。「細菌の薬物耐性」も医学界の早急に解決しなければならない一大難題になった。

   「細菌の薬物耐性」とは、細菌の、抗生物質に抵抗する性質である。細菌は三種以上の抗生物質に抵抗できたら、「スーパー細菌」と呼ばれるようになる。スーパー細菌の危害は普通の細菌の危害よりもっと大きい。台湾の2007年の研究では、スーパー細菌となったアシネトバクター・バウマニによって敗血症にかかった患者は一般の敗血症患者より死亡する可能性が二倍高く、しかももっと長い治療時間を必要としているということが示されている。EUでは、毎年スーパー細菌のゆえに死んだ者が2.5万人にのぼる。全世界では、毎年スーパー細菌のゆえに死んだ者が70万人にのぼる。目下のところ、まだスーパー細菌に対する有効な治療法がない。

   スーパー細菌の危害を抑制できないが、でも適切に防ぐことが必要である。スーパー細菌の発生する主な原因は抗生物質の乱用、および傷口の感染や手術用機器との接触による感染である。だから、よい生活習慣、よい薬の使用の習慣を身につけることは、スーパー細菌を防ぐのに非常に重要である。

1.よい薬の使用の習慣

   抗生物質の乱用は、スーパー細菌の発生の重要な要因である。多くの人は抗生物質に頼りすぎるため、薬を乱用するようになる。実は、普通の風邪を引き起こし、鼻水が出、インフルエンザにかかるのはウィルスのためであり、細菌感染のためではない。だから、抗生物質で治療しないほうがいい。患者は風邪の進み具合に対する医者の判断に基づいて、抗生物質を使うかどうか、またどのくらいの抗生物質を使うかを決めるべきである。

   薬の分量と、薬を飲む時間は医者の要求に従わなければならない。意のままに薬の使用をやめたり、自分で薬の使用法を決めたりしてはならない。さもなければ、患者自身のためにならないだけではなく、しかも細菌の薬物耐性を速く強める。

2.正しい手を洗う習慣

   正しい手を洗う習慣は、手の洗い方と手洗いのタイミングを含んでいる。正しい手の洗い方には五つの手順がある。すなわち、水で手を濡らすこと、こすり洗いすること、洗い流すこと、両手を上げること、手を拭くことである。その中の最も重要な手順は、「こすり洗いする」という手順である。両手を石鹸やハンドソープで少なくとも二十秒こすり洗いしなければならない。では、いつ手を洗わなければならないのか。咳やくしゃみをしたり、鼻ををかんだりした後、食事の前、トイレの後、或いは公共の場所の公共物に触り、公共交通機関を利用した後、すぐに手を洗わなければならない。

3.体の鍛練に励み、抵抗力を強める

   抵抗力は、スーパー細菌に抵抗する最もよい薬である。一般的には、体質がよく、抵抗力が強い人であればあるほど、細菌に感染する可能性は低い。だから、いつも体を鍛えれば、自分の抵抗力を高めることができ、病気にかかり、或いは細菌に感染する可能性を有効に低めることもできる。

   客観的な協力はスーパー細菌に感染する可能性を有効に低めることができるが、根本的に問題を解決することはできない。では、わたしはほかの対処する方法があるのか。聖書にこう書かれています。「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も。あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない」(詩編91:1-7)。全能者は人類の依り頼む方、人類の贖い主であり、また人類が病気にかかり、災難に遭う時の避けどころである。彼の力ある御手はわたしたちを庇護して、すべての疫病、ウィルス、すべての苦難から遠く離れさせることができる。真心をもって彼に依り頼んで、彼をあなたの依り頼む方、あなたの救い主にさせよう! 彼はきっとあなたを平安の中に守ってくださる!

   スーパー細菌が襲ってきた。あなたは本当に準備ができたのか。


真の悔い改めとは何か

2020-07-15 21:21:11 | デボーション

   主イエスは言われました。「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書4:17)では、真の悔い改めとは何か。多くの人は主に祈って罪を認め、主の御言葉によって寛容し、へりくだり、忍耐し、苦しみを受けて十字架を背負い、多く福音を伝え、良い行いがたくさんあれば、これは真の悔い改めだと思っています。しかし、事実は本当にこのようなものでしょうか。

良い行いは真の悔い改めを表すのか

   主に従ってから、確かに私たちの行いの変化は少しあり、へりくだり、寛容し、忍耐し、多くを放棄し、自らを費やし、福音を伝えて主を証しすることができました。しかし、否認できないのは、私たちは常に嘘をつき、欺き、金銭を追い求め、邪悪を崇め、傲慢で横柄、利己的で貪欲なサタン的性質の中に生きています。神様が私たちの家族を平安で、すべての事において順調であるように祝福してくださるとき、私たちの心の中には神様に感謝し、賛美します。仕事の不調、結婚の失敗、生活の貧しさに臨むとき、私たちは神様に不平を言い、祈った後に神様の祝福を感じない時に、私たちは神様を否認し、神様に背くさえできます。主が私たちに自分を愛するように他人を愛し、人を許し、忍耐するように求められているが、自分の大きな利益に及ばない時に、しぶしぶ実行できますが、自分の大きな利益を失うことに直面する時に、私たちは自分を制御できずに、利益を奪い、他人を傷つけ、外側の良い行いさえ実行できません。自分は主を信じる前に、家族との関係がとても悪くて、よく怒り出し、 家族と喧嘩していました。主を信じた後、私は主が私たちに人を愛するように求められていることを知ってから、主の御言葉によって、寛容し、忍耐し、それから聖書を読み、祈り、集会し、主のために働き始めます。外側から見れば、主を信じる前と異なりますが、実生活の中で、あらゆることにおいて、家族が自分の言うことを聞くように求め、家族が聞かない時に、私は怒ってしまいます。その後、私は自分の以前の行いは皆抑制していて、本当に主の御言葉を実行できたのではないと気づきました。私たちは罪を犯した後に、主の御前で罪を告白し、悔い改めるが、後にはまた罪を犯してしまうのです。もし良い行いがあることで真の悔い改めを表すことができるなら、私たちは再び罪の中で生きることはないと証明できるが、なぜ私たちはまた常に罪を犯して神様に抵抗しているのですか。なぜまた昼間に罪を犯し、夜になると告白する循環の生活を送っているのですか。ここから分かったのは、規則に従い、外側で少しの良い行いがあり、行動では少しの変化があるのは、真の悔い改めを表すことではありません。パリサイ人、律法学者、祭司のように、彼らの外見は敬虔で、律法を暗記し、年じゅう聖書を読み、説教し、福音を伝え、常に神様に捧げものを捧げ、自分の過ちを認め、私たちから見れば、彼らは最も神様に称賛されると思っているが、なぜ彼らは切望していたメシアを生きたままで十字架につけたのですか。これは何を証明していますか。外側の良い行いがあって、外側の規則だけに従うのは、罪を犯さず、神様に抵抗しないことを表すことがではなく、私たちは真摯に悔い改めていなければ、また罪を犯すことを証明しています。主イエスは言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。」(ヨハネによる福音書8:34−35)主の御言葉に基づき、私たちは自分の罪を認め、外側では少しの行いがあるだけで、真の悔い改めの効果に達していないので、天国に入ることができません。

真の悔い改めとは何か

   「ヨハネの黙示録」22章14節にこう書かれています。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。」また「マタイによる福音書」3章8節にこう書かれています。「だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」「レビ記」11章45節にこう書かれています。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」神様は聖なる者であり、人の罪を憎み、そのため、私たちは真の悔い改めの基準は、罪深い性質が変化し、再び罪を犯さず、悪を行って神様に抵抗することもなく、つまり私たちの内の利己的、欺瞞的、高慢的な堕落した性質が清められ変化し、生まれ変わるに達することであるのを確定できます。どんな環境に臨んでも、私たちは神様に従順になり、もはや罪を犯して神様に抵抗せず、いくらサタンにどう誘惑されても、私たちはサタンの策略を見破って証しに立ち、悔い改める態度と現れがあり、これこそ本当に悔い改める人であり、天国に入る資格があります。

   聖書に記載されたダビデのように、最初彼はウリヤの妻をわがものとして、淫乱の罪を犯してしまい、神様の懲罰が彼に臨み、ダビデは自分の行いが神様に背いたことを知り、神様に祈り自分の罪を認め、自ら進んで神様の懲罰を受け入れ、従順になりました。ダビデは自分の行いを後悔し、この事を思い出す度に苦しくて涙を流し、まさに「詩篇」6章6節に「わたしは嘆きによって疲れ、夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、わたしのしとねをぬらした。」と記載されている通り、ダビデはどれほど後悔したことでしょうか。ダビデが晩年の時、寒く感じて、大臣たちは美しい少女を彼の懐に送っても、彼は触らなく、これはダビデの真の悔い改めの現れです。もし私たちは自分が悔い改めたと言った後の行いが、古い自我の様で、依然として罪を犯しては告白するなら、悔い改めとは言えません。なぜなら、悔い改めは人が自分のサタンに堕落させられた真相に対して、本当の認識と憎しみを持ち、本当の変化に達し、もはや神様に抵抗せず、神様に逆らわないことを含み、これこそ真の悔い改めです。

どのようにして真の悔い改めに達すことができるのか

   私たちは真の悔い改めに達したいなら、また神様の進んだ一段階の救いの働きを受け入れる必要があります。主イエスはこう預言されました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネによる福音書16:8)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)また聖書のほかの預言にこう書かれています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)ここから分かるのは、終わりの日に、神様はまた来られて一段階の神様の家から始まる裁きをなさり、言葉を語り、私たちが理解していないすべての真理を語り、これによって私たちの内の罪を裁き、清めるのです。私たちは神様の裁きの言葉を受け入れた後に、自分のサタン的性質を本当に認識し、憎み、真の悔い改めに達し、神様に神様の国に導き入れられます。そのため、私たちは堕落した性質から解放され、真の悔い改めに達したいなら、終わりの日に神様がなさった裁きの働きを受け入れるべきです。裁きの中で清められる人こそ真摯に悔い改める人なのです。


聖書を読む:賢いサマリアの女

2020-07-14 23:16:29 | 日記

神様を信じる私たち全員は、サマリアの女が井戸のそばで水を汲んでいたときに主イエスに出会った物語を知っています。最初、彼女は主イエスを見ても、主イエスが誰であるかを知りませんでした。その後、彼女は神様の言葉に耳を傾けて主を認めました。 これこそ彼女の賢いところです。この物語は、今日主の再来を待っている私たちにどのような道をもたらしたのでしょうか。詳しい内容については、リンクをクリックしてご覧ください。


偽キリストを見分けることを学んでこそ、主を迎えることができる

2020-07-13 23:30:01 | 真のキリストと偽キリスト

   【編集者メモ】聖書には終わりの日には偽キリストが現れるという預言があります。では、主の再来を迎えつつ、偽キリストに警戒するにはどうすればよいでしょうか。用心して物事を避けるべきでしょうか。それとも神の声に注意深く耳を傾けるべきでしょうか。真偽を見分けるのが難しい時代に、主が来ると知らせる説教を聞いたときは、賢い乙女になり積極的に追求して調べるべきです。それが主の再来の迎え方です。

寄稿家:同心(マレーシア)

 今までに偽札を受け取ったことはありますか。多くの人が「ある」と答えるでしょう。私たちは偽札がはびこる時代に直面しているわけですが、偽札を受け取るのが怖いからといってお金を拒みますか。もちろん、拒まないでしょう。本物のお札と偽札とを見分けることができれば、むやみに警戒しなくてよいからです。では、主の再来を深く切望しているクリスチャンはどうでしょうか。偽キリストの出現問題をどのように扱うべきでしょうか。用心して物事を避けるべきでしょうか。それとも神の声に注意深く耳を傾けるべきでしょうか。このことは私たちが主を迎え入れられるか否かに関わっています。私はかつて偽キリストにだまされるのを警戒し、あやうく主を迎え入れる機会を逃すところでした。

   2017年12月のある日、叔母が教えに光があるからと言って、オンライン集会に誘ってくれました。叔母はその集会で、それまで聖書の中には答えが見つからなかった真理を幾つか理解し、神様の働きについてもある程度分かるようになったのでした。叔母はまた、私の従姉妹もこのオンライン集会に二年前から参加していると言いました。オンライン集会について聞き、興味がわいたので、私は迷わず誘いを受けました。初めて参加したときは時間がなく、簡単な会話だけで私は退出しました。後で叔母はこの教会は違うといつも繰り返し、嬉しそうに言いました。

   「主が戻って来られたのよ」

   「主が戻って来られたって?」

   この突然の知らせに私は驚いて目を見張り、叔母に尋ねました。

   「本当に?主はどこにいらっしゃるの?教えて」

   でも叔母は参加し始めてまだ二か月だったので、はっきりと説明できませんでした。姉妹の一人に聞くのに、次の集会を待たなくてはなりませんでした。

 

 

   その次のオンライン集会で、姉妹は主の再来に関係する預言をいくつか結びつけ、主イエスが既に再来しておられ、人類を裁き清めるため言葉を表す働きをするために受肉して来られていることを私に証ししてくれました。姉妹はさらに、神様の経営計画の目的、神様はいかにして人を救ってくださるのか、サタンはいかにして人類を堕落させたのか、人類はどうすれば罪を逃れて救いを得られるのか、人類の終着点といった真理の側面について私に話してくれました。神様の御言葉には権威と力があり、そのすべては真理であり神様の御声なのだと思いました。私の心はこの説教には聖霊の働きがあることを立証していました。なぜなら、これほど光を照らす説教ができる教派はないからです。それ以来、集会があるたびに仕事を終わらせるとまっすぐ叔母の家に行って姉妹の説教を聞きました。

   ある日の集会で、姉妹が讃美歌のビデオ「神は始まりであり、終わりである」を見せてくれました。ビデオの中の風景は荘厳で、出演している兄弟姉妹は生き生きとした声で歌っていました。歌詞も神様が所有するものと神様そのものを見事に解釈していました。私にとってそれは全く新しい体験でしたが、その画像はまるでどこかで見たことがあるかのように妙に懐かしく感じるのでした。それから姉妹は神様の名前について説教してくれました。神様は全能神という名を使って、終わりの日の人類の裁きと清めの働きをなさると言うのです。全能神の名前を聞いたとき、親しみの感覚はさらに強まりました。集会後、帰宅してWhatsAppを開きメッセージをチェックすると、所属教会の陳姉妹から「東方閃電の説教を聞いてはいけない」という注意書きと共に全能神教会のビデオが送られてきていました。私は「陳姉妹は何年も主を信じ、とても敬虔な信者に見えるのに、なぜ全能神教会の説教を聞かせたくないのだろう」と考えました。戸惑った私は、他に姉妹が送ってきたものを見てみました。それはすべて全能神教会を非難し、中傷する否定的なプロパガンダで、「5月28日の山東省招遠市の事件」の情報もありました。それを読んだ後、少し不安になりました。聖書に終わりの日には偽キリストが現れると書いてあったのを思い出し、私にはそれを見分けられないだろうからです。陳姉妹は長く主を信じていましたから、理由もなくこのようなものを送ってくるはずがありません。叔母はまだ主を信じて短い上、全能神教会と関わり始めてまだ二か月です。私は叔母が真理を理解していないために間違ったものを信じているのだと大変心配になりました。その夜、ベッドで横になりながら、何度も寝返りを打ちました。大きな葛藤を覚えたのです。私を導き、見分ける力を与えてください、と主に祈り求めました。

   翌日、5月28日の山東省招遠市の事件のビデオを叔母に送り、懸念を伝えました。

   「主イエスはおっしゃいました。『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイによる福音書24:23-24) 終わりの日には偽キリストと偽預言者が大勢現れて人をだますから、引きずり込まれないように気をつけなくては」

   叔母は私の注意に取り合いませんでした。その夜、仕事の後、叔母が私の店に立ち寄って調べ続けるようにと説得してきましたが、私はだまされるのではないかと恐れて断りました。でも叔母はもっと話を聞くべきだと言い張り、電話で私と交わるようにと従姉妹に連絡したのです。従姉妹は言いました。

   「全能神が表された御言葉を読むと、それは力強い真理の施しであると、どんな人もこのような言葉を表すことはできないと感じるの。私たちの心は全能神教会には真理と聖霊の働きがあると立証している。それならば、なぜ調べるのをやめなきゃいけないの?疑念があるなら、追求して調べればいい。でも調べるのを止めるわけにはいかないのよ」

   私は、「従姉妹は全能神を二年前から信じているけれど、何も変なことは起きていない。それなら、私ももっと話を聞いてみよう」と考えました。

   オンライン集会に出ると、姉妹が言いました。

   「神様の働きを調べるときは、中国共産党の嘘と噂をもとに調べるのではなく、第一に全能神の働きが神様の現れと働きであるかどうか、そして全能神が表される御言葉が真理で神様の声であるのかどうかを調べなければなりません。中国共産党が何年も嘘をでっち上げて人々をだましてきたこと、その名は中国でも海外でも嫌悪されていることを、私たちはみんな知っています。中国共産党の本質を見通せる人の数は世界で日々増えていますし、もはや誰も党を信頼していません。中国共産党は無神論の党でもあり、何よりも邪悪で神に抵抗しています。また一党制を敷いていて、大小問わず、あらゆる組織、機関を支配していて、それぞれが中国共産党の専制を守るためにものを言い、活動しなければならないのです。中国共産党の法廷に司法の独立という概念はありません。中国共産党の判事に自主性はなく、中国共産党の指示に従って行動しなければなりません。『5月28日の山東省招遠市の事件』の審議をしたのは中国共産党の法廷です。公平で正当だったなんてことがあり得ますか。『5月28日の山東省招遠市の事件』の裁判のあいだ、容疑者は全員、『全能神教会に関わったことはなく、何のつながりもありません』、『国が厳しく取り締まっているのは趙維山の全能神であって、私たちの「全能神」ではありません』と法廷で明言しました。容疑者の誰一人として全能神教会の会員であるとは認めていません。ではなぜ中国共産党の判事は容疑者たちが教会員であると主張したのでしょうか。中国共産党が宗教的信仰を攻撃するために全能神教会を中傷していることは誰が見ても明らかでしょう」。

   姉妹はさらに「五二八山東招遠事件」と題されたビデオを送ってくれました。

   帰宅してからビデオを開いて見たとき、 私は不意に悟りました。容疑者の誰一人として全能神教会の会員だとは言っていません。そして殺人現場には疑わしい点があったのに、中国共産党の法廷は問題を取り調べて明らかにしませんでした。代わりに、全能神教会に犯罪のぬれ衣を着せました。この事件は中国共産党が全能神教会を攻撃し、抑圧するためにでっち上げたのは明らかです。思考力と理性のある人なら誰でも、これもまた中国共産党の仕掛けだということが分かります。それでも私は噂を聞いたので、終わりの日の神様の働きを調べるのを止めたかったのです。叔母が全能神を信じるのを止めさせたいとさえ思いました。私はまったくの無知でした。私を見捨てず、姉妹の真理についての説教を使って私に判断力を授けてくださった神様に心から感謝しました。それがなければ、主の再来を迎える機会を失っていたはずからです。

   翌日、オンライン集会に行くと待ちきれずに姉妹に聞きました。

   「聖書には終わりの日に偽キリストが現れて人々をだます、と書いてあります。どうすれば真のキリストと偽者とを見分けられるのですか」。

   姉妹はこのような説教で答えました。

   「私たちはみんな、終わりの日に偽キリストが現れるのを恐れています。そのため偽キリストに警戒することに集中してしまい、いかに賢い乙女でいるかに注力したり神様の声を聞いたり、主が終わりの日にお働きになるために再来なさるときにお迎えしたりするのを忘れてしまうのです。代わりに自分の観念と想像に固執し、主の再来を証言する人は誰でも偽者であると信じるのです。そのような人たちが主イエスが戻ってこられると信じていると本当に思いますか?そんな人たちは主イエスがお話になっていた愚かな乙女ではないでしょうか?主が偽キリストが現れると仰るのは、私たちに否定的になって警戒してほしいからではなく、偽キリストの見分け方を学んでほしいからだ、というのが真理です。終わりの日に神様がお表しになる真理がそうする道を与えてくれます。最初に全能神の御言葉から一節を読みましょう。

   『このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。』

   神様の御言葉は明確に、神様の受肉された肉体が神様ご自身の働きを行なうことができると言っています。それは真理を表し、人に実践の道を与えることができます。たとえば主イエスは、人類を贖うべく、ユダヤ人の中で生活して天国の福音を説き、悔い改めの道を示し、弟子たちを自ら教え、牧するために肉となって来られました。その働きを見れば、主イエスは真理であり、道であり、いのちであることが分かります。同様に、終わりの日の全能神は何百万語もの真理の御言葉をお表しになっていて、それにより神様の六千年の経営(救いの)計画の奥義や、三段階の働きの真の本質、受肉の奥義といった真理の側面が人に明らかにされています。そして、神の家から始まる人類を裁く働きの新段階を始められたのです。これは人類が完全に罪の束縛から逃れ、救いを得て、天国に入れるようにするためです。偽キリストの本質は悪霊の本質です。それらには一切真理がなく、ましてや真理を表すことなどできません。できるのは正誤をかき乱す嘘と人を騙す愚かな理論を口にすることだけです。そしていくら自分がキリストであると主張しても、キリストの本質を持っていないのです。誰かが受肉した神であるかどうかは、神様の働き、言葉、神様が表される性質から判断できます。なぜならキリストだけが真理であり、道であり、いのちだからです」

   姉妹の説教を聞いた後、私はずっと明るい気持ちになり、興奮して言いました。

   「以前はキリストの本質を知らなかったので、偽キリストを見分けられませんでした。でも今やっと、キリストが真理であり、道であり、いのちであるということ、そして受肉なさった神様であるキリストには神様の御言葉を表し、神様ご自身の働きを行うことができるということを理解しました。キリストの本質は神様だからです。でも偽キリストには真理がなく、愚かな理論を話して人をだますことしかできません。偽者には一切真理を表すことはできないんです」

   そして姉妹に言いました。

   「真理のこの側面についてもっと話していただけませんか」

   姉妹は微笑んで言いました。

   「あなたには真理を切望し、探し求める心がありますね。だから、きっと神様の導きを受け取れますよ。神様の御言葉から別の箇所を読みましょう。

   『この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を予言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。…もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。』

   神様の御言葉から、神様はいつも新しく、決して古びないこと、そして神様は働きを繰り返されないことが理解できます。サタンには神様が過去になさった働きを真似ることしかできませんが、神様はさらに新しく、高度な働きをなさいます。たとえば、主イエスが働きのために来られたとき、恵みの時代を始め律法の時代を終わらせられました。主イエスは病を癒し、悪霊を追い出すといったたくさんの神様のしるしと不思議を人々にお示しになり、人に豊かな祝福と恵みをお与えになり、最後には、人類の罪を贖う捧げものとして十字架にかけられ、それによって全人類の贖いの働きが完了なさったのです。私たちは主イエスの贖いの働きを受け入れ、罪は赦されましたが、罪の束縛から自由ではありません。もしまた主が来られて、病を癒したり、悪霊を追い出したり、神のしるしと不思議を示るといったことを再びなさったならば、私たちはどうして罪の束縛から逃れることができるでしょうか。主イエスによる贖いの働きの基盤の上に、全能神は次の段階の働きをなさっているのです。それは人類を清めるための裁きの働きであり、人のいのちの性質を変える道を指し示し、サタンの影響から完全に人類を救い、私たちが罪の束縛から逃れ、神の救いを得られるようにするのです。また、偽キリストには新時代を始めたり、旧時代を終わらせたりする働きはできません。主イエスが復活なさり、天に昇られてから、偽キリストが真理を表し罪から逃れる道を示すのを私たちは見たことがありません。なぜなら、偽キリストには神の本質、権威、力がないからです。偽キリストは主イエスが行われた簡単な働きの真似をし、しるしと奇跡を現して人をだますことはできますが、死からよみがえったり、五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせたりといった主イエスがなさった神の権威と力を持つ聖なる奇跡は、偽キリストには決して真似できないのです」

   私は同意してうなずきました。

   「そうですね。神様はご自身の働きを繰り返されません。神様の働きの各段階は前段階の働きの基盤の上に打ち立てられて、一段一段、進められます。律法の時代には人は律法により断罪されて死ぬ危機にあったので、人類を死から救うため、主イエスが自ら受肉して来られ、贖いの働きをなされ豊かな恵みを人々に与えられたのです。人類が主イエスの救いの恵みを受け入れたとき、神様の祝福を受け取ったけれど、罪深い本性からは逃れられていません。終わりの日に、神様は神の家から始めて裁きの働きを行ない、私たちの堕落した性質を清めて罪の束縛から逃れられるようにする裁きの言葉を表するために受肉して来られたのですね。偽キリストには真理がないので、時代を始めたり締めくくったりする働きはできませんし、私たちをサタンの暗闇の影響から救うことも、神様の救いをもたらすこともできません。神様が過去に行なわれた奇跡の真似ができるだけです」

   その後、姉妹は真理のたくさんの側面について説教してくれました。話を聞いて私はすっかり興奮し、全能神は主イエスの再来だと確信したので、神様の終わりの日の働きを受け入れました。私は陳姉妹のことを思いました。彼女は主を何年も信じ主の再来を待ちわびているのに、中国共産党の噂と嘘のために全能神の終わりの日の働きを調べていません。私はとにかく彼女にこの良い知らせを伝えたくてたまらなくなりました。

   家に帰るとすぐに陳姉妹にメッセージを送り、オンラインで見た噂は、全能神教会を中傷し、攻撃するために中国共産党がでっち上げたものであること、中国共産党の嘘と噂をむやみに信じるべきでないこと、終わりの日の神の働きも調べるべきであることを伝えました。ところが驚いたことに、彼女は調べることを拒んだだけでなく、引き続き否定的なビデオを送ってきては、全能神教会を裁いてとがめ、こう言ったのです。

   「世界にはたくさんの偽キリストがいるのだから、不注意に信用するべきじゃない。あなたは主を信じてまだ日が浅いから、見分けられないのよ。私は長い間、主を信じてきた。本当に私が間違っていると思うの?」

   私は姉妹を説得しようと、こう言いました。

   「偽キリストに気を付けるのは正しいことだけれど、否定的になって警戒ばかりして、主の現れと働きを調べるのを拒んでいたら、神様の救いを失う危険を冒すことになるんじゃない?主はまた来る、と言われた。これはつまり、終わりの日に再来するということ。全能神は本当に再来した主イエスよ。全能神の御言葉を読めば読むほど、神の声が聞こえてくるはずよ」

   私が何と言っても姉妹は聞こうとせず、むしろ頑固に自分の観念にしがみつくのでした。私はとても落胆しました。

   ある日、私はこの神様の御言葉を読みました。

   「イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりすべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしはあなたがたに、注意深く信仰の道を歩むよう助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたはうわべだけ神を信じたり、気楽に信じたりしてはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている」

   そうです、神様は注意して信仰の道を踏みしめるよう助言していらっしゃいます。私たちは神を畏れる心を持ってその働きを考え、真理を追求することを学ばなければなりません。そして自分の傲慢な性質ゆえに不注意に神様の働きを裁いたり、非難したりしてはいけません。陳姉妹のふるまいがどれほど神様の言葉に反しているかを考えました。その態度には終わりの日の神様の働きに対する謙遜さも、追求したいという熱意もありませんでした。主が再来したと聞いたとき、姉妹には真理を求めたいという願いが全くありませんでした。代わりに自分自身の傲慢な性質に耳を傾け、神様の働きを裁いてとがめるほど頑固に自分の観念と想像に固執しています。これはまさに神様の御言葉で明らかにされている傲慢さではないでしょうか。

   私が神様の御前にたどり着くまでの経緯を思うと、自分が実に幸運だったことが分かりました。神様は私を哀れに思い、姉妹が神様の新しい御言葉について忍耐強く私に説教してくれるようにしてくださったのです。私が神様の働きを理解し、神様の足跡を追いかけるようにするためです。同時に、謙遜に真理を追求し切望する者だけが神様の声を聞けるのだと気づきました。


「裁き」への誤解を解消できた私は、主の再来を迎えた

2020-07-12 23:27:45 | 神に帰す証

   【編集メモ】多くのクリスチャンは皆聖書の中に記載されている「終わりの日の裁き」を知っていますが、「裁き」に含まれる意味を明確に説明できる人はいません。かつて彼女は「裁き」に対して想像に満ち、その後、神様の言葉の導きの下で、彼女は「裁き」に対して新たな認識を得られ、そして主の再来を迎えたのです。

集会の時に主が再来される良いお知らせを聞いた

   私は2016年に主を信じ、毎週教会堂に集会しに行っていました。その後、一人の新人、若い姉妹が来て、数回の集会を通して、私は姉妹が色々な聖句に対しての交わりに新しい光があって、皆も供給を得ることができたので、私も羨ましくなり、こう思いました。「この姉妹は若いですが、聖書に対する交わりは牧師よりよいです。彼女はどのように聖書を読んでいるのか?」私は好奇心を持って、こっそりと姉妹に聞きました。「あなたは聖書に詳しいですね。どうやってこんなに多くの聖句を理解しているのか。」姉妹は自分がほかの集会場所で集会しているから、そこの兄弟姉妹の交わりのほうが明白、理解しやすいと言い、私を誘ったのです。私は喜んでうなずきました。

   日曜日に、姉妹は私を連れてその集会場所に向かいました。兄弟姉妹は心をこめて私を招き入れました。腰掛けた後、兄弟姉妹は私に主イエスが既に戻られ、受肉された全能神であり、多くの真理を語られ、一段階の人を裁き、清める働きをなさり、まさに聖書の預言「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)の実現だと教えてくれました。そして、私に神様の六千年経営計画、神様の声をどのように聞き分けるか、人類の終着点の奥義などの側面の真理を交わりました。姉妹が詳しく交わってくれて、私はそれを聞いてから、明白になり、神様を信じることにおいての奥義がたくさんあることに気づきました。そこで、私は全能神教会をよく考察することを決意しました。集会が終わった後、家で読めるように、姉妹は一冊の神様の言葉の本をくれました。

 

 

心から「裁き」への誤解が生じた

   家に帰った後、私は手が空いたら全能神の言葉を読み、読み終わったら、神様の言葉がとてもいいと感じ、読むのが好きになりました。ある日、私は全能神が次のように言われた箇所を読みました。「終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。」私はこのように心の中で思いました。「主イエスは終わりの日に再び受肉され、最後の選別の働きをなさり、人々をそれぞれその種類に応じて分類させるなら、すべての神様の終わりの日の働きを受け入れる人は皆神様の裁きを経験しないといけないのか。」私はつい思わず自分が話すときにまだ嘘をついて人を欺き、人と付き合うときに術策を用い、人を妬み、他人に傷つけられたときに人を恨み、たくさんの欠点、例えば人に対していつも当たり散らし、同僚と怒るなどがあります。今日主が来られて裁きの働きをなさり、もし私の昔の出来事を持ち出されたら、私は罪に定められるのではないか。それならどうやって神様の国に入れるのか?これを考えて、私は自分を心配し、きっと神様の国に入れないと思って、消極的になってしまいました。私は兄弟姉妹に打ち明けて交わり、尋ね求めて解決したいですが、兄弟姉妹は私がこのような人であるのを知ったら、私を嘲笑い、貶すのではないかと恐れたため、私は逃避して再び集会をしたくなかったのです。

   兄弟姉妹はこのことを知らないので、よく集会に参加するように私を誘いましたが、私はいつも仕事が忙しい或いは他の口実で彼らを拒絶しました。しばらくしてから、兄弟姉妹はまた私にメッセージをして、いつ時間があるかを聞いて、彼らは私の時間に基づいて集会のスケジュールを組むと言いました。兄弟姉妹の思いやりに直面しても、私は心の扉を閉じていました。私はあらゆる方法を尽くして理由を探して彼らを拒絶し、ひいてはわざと返事しないが、彼らは気にかけず、私を包容し、忍耐し、また様々な方法を考えて私に集会できない問題を解決してくれて、いつも私に何か困難があるかを聞き、言葉には私への思いやりと世話を表し、これは本当の愛ではないか。兄弟姉妹に誠実に招かれ、私は本当に断わりかねて、彼らの集会に参加しました。最初、私はどうしても心を静められず、私は毎日罪を犯しては告白する状態の中に生き、もし神様が私を裁いたら、その時また私は罪に定められるため、今聞いても無駄だと心の中で思っていました。しかし、これらの考えはずっと兄弟姉妹に話さなかったのです。メンツにほだされ、いい加減に集会に参加していました。

「裁き」への誤解が解消された

   ある集会の時、姉妹が裁きに関する側面の真理を交わった時、ようやく私の観念が解消されたのです。楊姉妹はこう交わりました。「全能神が真理を語られ、終わりの日の人を裁き、清める働きを行われるのは、私たちを神様の国に導き入れるためです。しかし、ある人は神様の意図を理解できず、神様が人を裁き、刑罰するのは、人を罪に定めるのではないかと思います。そのため、神様の終わりの日の裁きの働きを受け入れることを拒絶するのです。それでは、神様が再び肉となって裁きと刑罰の働きをなさり、人間にとっていったい救いなのか、それとも罪に定めることですか?多くの人はこの問題を理解することができません。この側面について、全能神はどう言われるかを一緒に見てみましょう。」楊姉妹の話を聞いて、私はパッと元気になり、「今日の交わる話題はとても興味があります。私は楊姉妹が言った『多くの人』の中の一人であり、神様の裁きの働きは人間にとって罪に定めるか、それとも救いなのかが分からないのです。」と心の中で思いました。私はさらにまじめに聞きました。

   この時、ある姉妹は全能神の言葉を読みました。「神のすることはすべて、あなたたちへの真の愛である。神に悪意はまったくない。神があなたたちを裁くのは、あなたたちの罪の故である。それは、あなたたちが自分自身をよく吟味し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな、人間を形成するために行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしている。そして、確かなことは、神には、自らの手で創造した人間を完全に破壊するつもりはない。今、神は働くためにあなたたちの間に来た。これは、より以上の救いではないか。もし神があなたたちを憎んでいるのなら、あなたたちを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたたちを憎まないし、あなたたちに何の悪意ももたない。あなたたちは、神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人々を救わなければならないのは、唯一、彼らの不服従の故である。そうでなければ、彼らは救われないだろう。」「今日、神はあなたたちを裁き、あなたたちを罰し、あなたたちを罪に定めるが、あなたを罪に定めるのはあなたが自分を知るためであることを知りなさい。罪に定めること、のろい、裁き、刑罰――これらはみなあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きの必要性に適っていること、神は人を救うための計画に従って働くこと、神は人を愛し、人を救い、人を裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。……神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、そして救うために来たのだ。」

   楊姉妹はこう交わりました。「全能神の言葉から私たちは明らかに認識できるのは、神様が終わりの日に裁きの働きをなさる目的は私たちの罪を定めるのではなく、さらに私たちを懲罰するのでもなく、私たちの心を目覚めさせ、自分がサタンにより深く堕落させられた真実を認識し、背くことを許さない神様の義であり聖なる本質を認識し、堕落した性質から解放されるように私たちを救い、真の人間らしさを行動で示し、神様に救われるためです。なぜなら、今全人類がサタンの支配下に生き、ますます邪悪、堕落が酷くなり、終日飲食と快楽を追求し、罪の中に生きていて悔い改めを考えず、罪のはかない歓楽にふけ、宗教界さえ世界の邪悪な流れに従い、生きているので、不信者との違いがありません。真理を慕い求め、神様の出現を望む人がいません。神様が終わりの日に現れて働き、語られた真理は皆インターネットに載せられていますが、積極的に探し求め考察する人は何人いるのでしょうか。人々は皆全く関心も持たず、無視しており、ひいては神様の再来を罪に定め、抵抗しています。ここから分かるのは、私たちはサタンに頂点まで堕落させられ、真理を愛さず、邪悪を崇め、神様に抵抗するのです。もし終わりの日に神様が真理を語られ裁きの働きを行わないなら、私たちは自分を反省し認識できず、また主が憐れみ、慈しみであり、いくら私たちがどれほど罪を犯しても、主に赦され、主が再来される時に皆天国に引き上げられると思うのです。実は、神様が聖くて義であるのに、神様はどうして神様に抵抗する人を神の国に導き入れるのでしょうか?私たちは神様の裁きと刑罰を経験してこそ、自分の堕落した真相を見極め、いのちの性質が変化され、神様へ本当の服従と畏敬に達することができ、こうしてこそ神様の国に導き入れられる資格を得られます。ここから分かるのは、神様の裁きの働きは人にとって極めて大きな愛と救いです。それらの真理を憎み、全能神の言葉の裁き、清めを拒絶する人だけが、暴かれ淘汰されるのです。」

   ここまで聞いて、私の心配は安心に変わり、なんと神様が人を裁くのは罪に定めるのではなく、よりよく人を救うためだと分かったのです。私たちは毎日罪を犯しては告白する状態の中で生き、いつも思わず神様に逆らってしまい、確かにサタンに深く堕落させられ、私たち自分自身に頼るなら、罪の束縛から抜け出すことできず、確かに神様が一段階の裁きの働きをなさって私たちを救う必要があります。もし今日姉妹のこのような交わりがなかったら、私はまだ神様の意図を誤解し、神様の裁きの働きは私たちを罪に定めることだと思っていたままでした。神様に感謝します。今私は神様が終わりの日に裁きの働きをなさる意味を理解しました。

神様の終わりの日の裁きの働きはとても現実的である

   この時、楊姉妹は続けて交わりました。「私たちは神様の終わりの日の裁きの働きが人を救うためであることを知りました。それでは、神様はどのように裁きの働きをなさるのでしょうか?この側面の真理について、一緒に一段落の神様の言葉を読んでみると分かるはずです。全能神は言われます。『終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。』

   神様の言葉から私たちが分かるのは、全能神は真理を語られて裁きの働きを行われ、私たちが全能神の言葉を読むとき、神様が私たちに面と向かって私たちを裁いているのを感じ、神様の言葉は鋭い剣のように、私たちの神様に抵抗し、神様に背く本性を暴き出し、私たちは自分がサタンに深く堕落させられ、生きているのは皆傲慢で高ぶり、真理にうんざりし、利己的で下劣で、欺瞞や不正を行い、邪悪かつ貪欲などのサタン的性質があり、真の人間らしさは少しもありません。例えば、本分を尽くすとき、兄弟姉妹が私たちに異なる意見を出すとき、私はいつも自分の考えが正しいと思い、いくら相手の言ったことが真理と一致しても、私たちは受け入れたくなく、他人が自分の言うことを聞くように求め、とても高慢で高ぶっています。私たちは神様を信じているが、本性は真理を愛さず、金銭、名利や地位を崇め、不信者と同じく飲食と快楽を追求し、官能的快楽にしがみついています。少し放棄し費やしても、神様と取引するのであり、報いを得て天国に入るためであり、神様の愛に報い、被造物の本分を尽くすのではありません。そのほか、神様の終わりの日の働きは、言葉を用いて私たちを裁き、刑罰する以外、実生活の中で、様々な環境を配置されて私たちを刈り込みと取り扱い、試練と精錬をするのです。例えば、私たちがいい加減に本分を尽くすとき、神様は私たちを刈り込みと取り扱いをするためにリーダーや働き人を興されます。私たちが頑なに神様に逆らい抵抗するとき、神様は私たちを懲らしめと鍛錬するために環境を作り出されます。私たちの心が神様に立ち返るとき、神様はまた私たちを憐れみ、私たちが神様の意図を理解するように啓示し導いてくださいます。私たちは神様のこのような裁きの働きの中で、自分の堕落した真相に対してますます認識するようになり、肯定的なものと否定的なものに対してますます識別できるようになり、物事の見方が次第に変化し、神様の性質に対して真の認識を身につけ、神様への畏敬と敬愛の心を持つようになり、あらゆることにおいて真理を尋ね求め、実践し始め、再びサタンの堕落した性質によって生きたくないのです。良心と理知が取り戻され、堅実に被造物の本分を尽くしたくなり、神様の支配と采配に服従し、いのちの性質がますます変化され、真の人間らしさを持つようになります。これは皆神様の裁きの働きによって達した効果です。」

   姉妹の交わりを聞いて、私の心配が全部なくなり、神様の働きは本当に現実的だと分かりました。もし神様の言葉の裁きと刑罰を経験しなかったら、私たちは皆自分を高く評価し、自分を認識することなんかできません。もし自分を認識しなかったら、私たちはどうやって変化できるのでしょうか?神様の終わりの裁きの働きに対して少し認識できた後、私は喜んで神様の終わりの日の働きを受け入れました。

   次の集会をするときに、姉妹は私に一部の全能神教会の証しの経験の映画「神様の働きによって私は真の人間らしさを生きてきました」を見せてくれました。映画の中の主人公は数十年にわたって建築の請け元に携わっており、かつて「政府と企業の共謀」の暗黙のルールに従わないと商売できない暗い社会の中で、お金を稼ぐため、彼は止むを得ず邪悪な流れに従って、賄賂し、自堕落になり始め、政府関係者とぐるになって、たくさんの悪事を働くのですが、良心のとがめにより彼は苦痛ともがきの中で生きています。母親が全能神の終わりの日の福音を彼に伝えた後、神様の言葉の裁きと刑罰の中で、彼は自分がサタンに堕落させられた哀れさを見極め、自分を後悔し、嫌悪し、神様の言葉によって正直者となることを実践し、その後、次第にサタンの束縛から抜け出し、神様の祝福と守りの中で生きられるようになりました。

   この映画を見てから、私は神様の裁きの働きは確かに人間を救い、清めることができることを見ました。もし神様の裁きと刑罰がなかったら、私たちは自分がどれほどサタンに堕落させられたかを知ることができず、神様の裁きと刑罰は確かに私たちをサタンの束縛から救い出すことができ、神様の言葉は本当に権威と力があります。幸いに私は神様の終わりの日の働きを受け入れることができて、本当に心から神様に感謝します。今私のうちに堕落した性質はまだたくさんあり、今後私はより多く全能神の言葉を読み、神様の裁きと刑罰を経験し、一日も早く神様に清められ、完全にされ、神様の心に適う人になれるように願います。