賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

真理を理解することでのみ、自らを真に知る

2020-08-24 19:20:26 | 勝利者の証し

   私は常に、外面的な実践が適切であり、何の堕落も人に見せなければ、それが変化であるという意見の持ち主でした。そのため何をするにしても、外面的な実践にひときわ注意を払ってきました。自分の実践が正しいかどうかだけに気をつけ、外面的な行動と実践が適切でありさえすれば大丈夫だと思っていました。刈り込みを受けたときも、自分の実践に間違ったところがなかったかどうかだけを気にかけ、自分の実践の間違いが証明されて初めて納得しました。自分の堕落した本性を認識することについては、それ以上の交わりを受け入れなかったのです。しかし、後に兄弟姉妹から、人は自分の本性を知ることでのみその性質を変えられるけれど、あなたは自分の本性がわかっていないと言われました。兄弟姉妹のその言葉を聞いてからというもの、私は自分の本性を認識するよう努め始めました。誰かが「そのように自分を誇示するのは、あなたが傲慢さという本性に支配されていることを示している」と言えば、「ええ、私は傲慢です。私の本性は傲慢なのです」と答え、別の誰かが「その型破りで気ままな行動は、あなたの邪悪な人間の本性に支配されている」と言えば、「ああ、私の邪悪な本性」とそのまま繰り返しました。それぞれの行動が自分のどの本性に支配されているかをオウム返しに言いさえすれば、自分の本性を知るのは難しくないと思っていたのです。誰かに「その行動はどの本性に支配されたものか」と訊かれたら、「傲慢、邪悪、悪意、ずる賢さ……」と答えるのです。こうした問いかけと返事は空欄を埋めるようなもので、とても簡単に思えました。しかし結局は兄弟姉妹に、あなたは自分の本性を表面的にしか知らないと言われました。そこで、後に自分を認識することについて話した際、「私は余りに傲慢で、際限がありません。私は余りに邪悪で、余りに悪意があります」と言いました。以前の認識に「余りに」という言葉を付け足せば、自分の認識が深まるだろうと思ったのです。私は自分の本性を認識せよという、神の人に対するご要求の意味がわかっておらず、ゆえに自分が堕落をあらわしたときや、人間の本性を暴く神の御言葉を見たときは、規則に従うという観点からしか理解しませんでした。本当に理解して心から知るのでなく、自己認識についての言葉を繰り返すだけの私は、ほとんどオウムのようでした。自分を憎まず、それがいかに危険なことかもわからなかったのです。神の厳しい御言葉を聞いても衝撃を受けず、それどころか気にもなりませんでした。そのため、私の性質は少しも変わらなかったのです。たとえ私が愚かで感覚がなく、素質が劣っていても、神は私を見捨てられず、代わりにいつも私の先に立って私を啓き、私が自分の本性と実質を知り、自分の性質を変化させる道を見つけるよう導いてくださるのです。

 

 

   数日前、私はある兄弟と新しいホストファミリー宅へ引っ越しました。引っ越し後にホストファミリーの年配の姉妹と話した際、その姉妹は以前に迎え入れた兄弟姉妹がいかに堕落を露呈していたかについて語りました。また、その人たちに対する自分自身の考えも話しました。その話を聞いても、私は反応することも心に留めることもせず、その姉妹と真理について交わることもしませんでした。そのようにして時間が過ぎていきました。数日後、私たちと本分を尽くしていた別の兄弟二人が訪れ、数日間そこに滞在しました。その兄弟たちが去った後、姉妹は彼らについての考えを話しましたが、その瞬間、私の心が姉妹に対してこう反応しました。「あなたが言ったことの大半は事実に当てはまらない。すべてあなたの疑いだ。兄弟姉妹が互いに愛し助け合うよう、神は求めておられる。私は真理を実践し、正直であることの真理をあなたと語り合わなければならない」私たちが語り合った二日後、姉妹は私のところに来て、私の言ったどの文章が、そして私のしたどの行為が自分を束縛していたかを告げました。そしてすべての思いを吐き出して泣きました。それを見て、私はこう思いました。「あなたは誰に対しても強い疑いを抱いているが、今度も私を疑っている。それは良くない。あなたが私に偏見をもたないよう、ここではっきり話し合う必要がある」そこで私はその姉妹と率直に話し、彼女が見せた本性と、人を疑って決めつける振る舞いを指摘しました。姉妹はそれを受け入れたように見えましたが、内心では納得していませんでした。それからの日々、姉妹はあれやこれやの病気にかかっていると言いました。それを見て、私はこう思いました。「あなたは内心納得せず、代わりに受け入れる振りをしている。これは偽りであり、欺瞞ではないのか。病気のときに学ぶべき教訓がある。あなたは立て続けに病気になったのだから、反省すべきだ」そう考えていると、私は新たな「重荷」を背負うことになり、再び姉妹と話し合ったうえ、反省して自分を知るようにと言いました。しかし話し合いのさなか、姉妹の顔色は優れず、私の言葉を受け入れる振りさえしませんでした。私は非常に驚き、こう思いました。「こちらがこんなに気遣って手助けし、何度も繰り返し語り合ったのに、あなたは受け入れようとせず、私を疑ってすらいる。あなたは非常に不正直な人だ。あなたが真理を受け入れないなら、他の誰があなたを助けられようか。もういい、私には何もできない。あとはあなた次第だ」私はその姉妹があまりにずる賢いと思い、一切の非難と責任を彼女に押しつけました。つまり、自分こそが真理を実践し、進んで兄弟姉妹を助け、神の御心に配慮するよき兄弟だと信じていたのです。このように、私はこの姉妹に対する思い込みでいっぱいになり、彼女も私の言うことをそれ以上聞かなくなりました。

   私はこのジレンマに直面して自省せざるを得ませんでした。「自分は間違っているのか。姉妹の欠点を見て、思いやって手助けしたのは間違っていなかった。神に頼らなかったのがいけなかったのか。いや、私はあの姉妹と交わる前に毎回神に祈った。自分の実践においても何ら間違ったことはしなかったし、過去に他人を手助けしたときはこんな深刻な状況には陥らなかった。だから、問題はきっとあの姉妹にあり、それは彼女が純真ではないからだ」しかし、こう考えていくと問題があるように感じられました。特に、姉妹が病気で悩んでいるのを見て後ろめたく思いました。私は心の底から姉妹を助けたいと思いましたが、どう協力したらいいのかわかりませんでした。私は神の御前に出向き、その助けを求めるしかありませんでした。そして次の神の御言葉を読みました。「あなたの唇は鳩より優しいが、あなたの心は古代の蛇より悪意がある。あなたの唇はレバノンの女性ほど美しいが、あなたの心はレバノンの女性ほど優しくはなく、カナン人の美しさの比較対象になどならないことは言うまでもない。あなたの心はあまりに欺きに満ちている。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは人格が卑しすぎる」より)この神の御言葉は即座に私の心を打ち、最近自分がしたことや、その背後にある思いを反省せずにはいられませんでした。あの姉妹が他の兄弟姉妹を批判するのを聞いたとき、私は自分には関係ないし、それで自分が困ることはないと思い、反応しませんでした。しかし、私が知っている兄弟二人について偏見を口にしたときは、彼女が誤解しているかもしれないと思ってすぐに話をしました。また、私のそれまでの言動に対する姉妹の考えを聞いたときは、私について他にも思い込みがあるかもしれないと思い、特に注意して話をしました。私は思いやりをもって兄弟姉妹を手助けしていると言いながら、実際は真理でもって他人を納得させ、打ち負かし、口をつぐませ、私を批判して私の利益を侵害させないようにしたかったのです。自分の振る舞いを考えると、それは思いやりではありませんでした。そこに愛の本質などどうしてありえるでしょうか。振り返ってみると、私は最初からあの姉妹に思いやりも配慮も示していませんでした。私の本性はなんと悪意に満ちていたのでしょう。彼女は神の家族に加わったときから自宅を宿として提供しており、一度も不平を漏らしたことがありません。普段、彼女は集会や交わりに参加していなかったので、いのちの経験は浅いままでした。しかし、空いた時間を見つけては進んで神の御言葉を追求し、それを読みました。真理についてもはっきりわかっていなかったので、陰で兄弟姉妹を判断したりその欠点を述べたりすることを、彼らのために負担を背負うことだと考えていました。兄弟姉妹を疑うことを、率直に話すことと勘違いしていただけなのです。何が疑いで何が誇張かまったくわかっていなかったのに、私はその姉妹に対して何の配慮も示しませんでした。彼女の霊的身丈を無視して、自分の利益に関わる限り見境なく反撃し、自分を知るよう彼女に強要しました。私にはなんと理知が欠けていたことでしょう。他人に私の批判を許さないのはなぜでしょう。たとえ他人が口に出さなくても、私の生き方はサタンのそれと同じではないでしょうか。私がしたことはすべて自分のためであり、自分を守るためでした。自分の利益が侵されない限り、他人のことなど構いませんでした。他人の弱さに配慮を示さず、他人が私の話に耐えられたか、私の話が負の効果をもたらしたかなどとは考えませんでした。私の生き方はサタンの堕落した性質に影響されていました。私が人々にもたらしたのは危害と攻撃でした。どうして他人がそれを我慢できるでしょう。私の言動は神に嫌悪を抱かせ、聖霊に私への働きをやめさせました。私の話がどうして効果的であるでしょうか。

   神はこうおっしゃいました。「自分の言葉や行動により自分のほんとうの顔を表すことは、誰にでも出来る。このほんとうの顔がもちろんその者の本性である。もしあなたが、たいへん回りくどい話し方をする者であるならば、あなたには、ひねくれた本性がある。あなたの本性がとても狡猾であるならば、あなたの手口は極めて巧妙で狡賢く、人々をあなたによってとても欺されやすくする。あなたの本性が極めて陰険であれば、あなたの言葉は聞いていて心地良いかもしれないが、あなたの行動はその陰険なやり方を覆い隠すことは出来ない。あなたの本性がとても怠惰である場合、あなたの言う事は、すべて自分のいい加減な性格や怠惰さに対する非難や責任を逃れることばかりを意図とし、あなたの行動は非常に遅く、おざなりで、真実を隠すことにたいへん優れている。あなたの本性が非常に同情的である場合、あなたの言葉は合理的であり、行動もまた真理にたいへん良く則しているであろう。あなたの本性が非常に忠実である場合、あなたの言葉は誠実であり、あなたの行動のしかたは堅実であり、あなたの主人が不信感を抱くようなことはないにちがいない。あなたの本性が極めて好色あるいは金銭に貪欲であれば、あなたの心はいつもそれらのことで一杯であり、無意識のうちに常軌を逸した不道徳的な行動をとり、そのために人々はそれをどうしても忘れることができず、さらには、ひどい嫌悪感を抱くであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)人がどのように自分自身を露わにするか、自分の人生をどう生きるかは、その人の本性に支配されるのだと、私は神の御言葉の中で悟りました。内なる本性がどのようなものかによって、外にあらわれる性質がどのようなものかも必然的に決まるのです。もし内側に何か邪悪なものがあれば、行動は邪悪な本性に支配され、決して慈愛を示すことはないでしょう。あの年配の姉妹と話す動機が間違っていた際、私の内側を支配したのは神でも真理でも肯定的な事柄でもなく、サタンでした。私の生き方はサタンの姿そのものでした。ゆえに、私の話は他人に恩恵をもたらさなかったのです。過去にこうした事態に遭遇したならば、外面的な実践に集中したことでしょう。自分は教会を率いていないし、他人と交わるのが上手でないと思い、自分が悪くないことを証明する理由をいくつも探したことでしょう。今日初めて、外面的な実践は決定的な役目を果たさず、むしろ心が正しいかどうか次第だということに気づきました。内なる本質を見つめることは大切です。例えば、他の人を本当に愛しているならば、その人が何を好むかを心の目で見て注意を払い、最後は自分の愛を告白して、その人に愛を感じてもらうでしょう。兄弟姉妹を心の中で愛しているなら、私はもっと注意を払い、彼らの問題にもっと共感を示し、彼らの気持ちにもっと配慮し、正しい行動を取り、適切な言葉と口調で話し合ったでしょう。たとえ他人の問題を解決しなかったとしても、危害はもたらさなかったはずです。私の内側には愛がまったくないので、たとえ外面的な実践が善良で正しくても、私があらわすものは悪意です。神は人類を愛していらっしゃるので、何をなさろうとも、そこには愛のあらわれがあります。神はこうおっしゃいました。「神がこれらのことを言う目的は人々を変え、救うためです。このように話すことによってのみ、神は最善の成果を達成できます。あなたは、神の思いやりのある意図は徹頭徹尾人々を救うためで、それが具現化するものは神の愛です。神の働きにおける知恵の観点から見るか、神の働きの段階や様式の観点から見るか、あるいは神の働きの期間や神の精密な采配と計画の観点から見るかにかかわらず——それはすべて神の愛を具現化します。例えば、誰にでも息子たちや娘たちに対する愛があり、子供たちに正しい道を歩かせるために、人々はみな大きな努力をします。子供たちの弱点を見つけると、穏やかに話せば子供たちは聞こうとせず、変われないだろうと心配し、厳しく話しすぎると、子供たちの自尊心を傷つけ、子供たちは耐えられないだろうと心配します。それゆえ、これはすべて愛の影響下で行われ、多大な努力が費やされます。息子と娘であるあなた方は親の愛を経験したかもしれません。優しさと配慮が愛であるだけでなく、厳格な懲らしめが愛であるのはなおさらです。神は特に人類に対する愛の影響を受け、愛の前提条件の影響を受けます。それゆえ神は堕落した人々を救うために全力を尽くします。神は人々をおざなりに扱わず、むしろその段階に基づいて精密な計画を立てます。時間、場所、声の様子、話し方、そして発揮される努力の大きさについては…、それすべては神の愛を表し、人類に対する神の愛は無限で計り知れないことを十分に説明すると言えます。そして、効力者の試練の只中にあるとき、多くの人々は反抗的な言葉を言い、彼らは苦情を発します。しかし、神はこれらのことについて口論せず、これのために人々を罰しません。神は人々を愛しているので、すべてを許します。もし愛の代わりに憎しみだけが神にあるなら、神は早い時期に人々を断罪したでしょう。神には愛があり、神は口論せず、しかし神は容認し、人々の困難を観察できます。これは、完全に愛の影響下ですべてを行っていることです。」(『キリストの言葉の記録』の「神の人類への愛を理解していますか」より)神の本質は愛なので、神のあらわれもまた愛です。人間に対する神の愛は言葉に表されませんが、実際にはその働きに、その働きの各段階に、その働き方に具現化されています。神が各人にいつ、どのように働くか、その人にどのような人物、物事、出来事を采配するか、そしてどのくらい長くその人を精錬するかは、すべて神の緻密な計画と血のにじむような努力を反映しています。神の実践的な働きのすべてにより、人類に対する神の純粋な愛が例外なく浸透します。神は人間をこよなく愛していらっしゃるので、血のにじむような努力を残らず費やして私たちをお救いになり、私たちの誤解と抵抗に耐え、私たちの愚かさと無知を我慢してお赦しになります。これらのすべてによって、神の偉大さと気高さがわかります。それに比べて、私は醜く卑しいサタン的性質を生きてきました。そのすべてを認識した私は、自分の心の内にある悪しきものを率直にあの姉妹に打ち明けました。そして、私たちの間の疎外感はいつの間にかなくなったのです。心の底から神に感謝します。神に栄光あれ。

   以前、私の自己認識は言葉にとどまっていました。それは決まった手順で学んだ知識であり、神の御言葉の暴露によって自分の本性を認識することはなかったのです。しかし今日、私はその経験のおかげで理解しています。ひとたびサタンによって堕落させられると、その人の本性はサタンの本性となります。言動にせよ思考にせよ、すべて人間の本性に支配されるのです。自分の本性を認識して初めて、自分の堕落した性質に取り組み、それを徐々に変えることができます。自分の本性をまったく認識していなければ、いつの間にかサタンの本性の支配に苦しみ、神に反抗して抵抗することしかできません。そして言うまでもなく、自分の性質を変えることなど不可能です。これから私は、外面的な実践に注意を払い過ぎるという過去の間違ったやり方を改めます。外面的な実践のことで騒ぎ立てないようにし、規則に従うことを自分の本性を知る基礎とはしません。自分の性質をできる限り早く変えて神に救っていただくよう、神の御言葉の啓示を通じて神の裁きと刑罰を正直に、また誠実に受け、自分の本性を知り、それを認識していきます。


聖書預言-イスラエルの復権

2020-08-23 22:16:40 | 聖書の名言

エレミヤ書30:3
主は言われる、見よ、わたしがわが民イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る。主がこれを言われる。わたしは彼らを、その先祖に与えた地に帰らせ、彼らにこれを保たせる。

イザヤ書11:11
その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。

 


ヨエル書3:1-2
見よ、わたしがユダとエルサレムとの幸福をもとに返すその日、その時、わたしは万国の民を集めて、これをヨシャパテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣業であるイスラエルのために彼らをさばく。彼らがわが民を諸国民のうちに散らして、わたしの地を分かち取ったからである。

アモス書9:11
その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。

エゼキエル書36:24
わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。

エゼキエル書36:33-35
主なる神はこう言われる、わたしは、あなたがたのすべての罪を清める日に、町々に人を住ませ、その荒れ跡を建て直す。荒れた地は、行き来の人々の目に荒れ地と見えたのに引きかえて耕される。そこで人々は言う、『この荒れた地は、エデンの園のようになった。荒れ、滅び、くずれた町々は、堅固になり、人の住む所となった』と。

申命記4:27-31
主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。

 

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教会音楽「神の名の意義」

2020-08-22 23:06:16 | 讃美歌

 

教会音楽「神の名の意義」

あらゆる時代に神の業の段階で
神の名は重要で意味を持って響いた
どの名も各時代を映している
ヤーウェ、イエス、メシアという名は
神の霊を代表している
これらが表すのは救いの業の時代であり
神の全てではない
地上で人が呼ぶ神の名は
神の性質や神の全ては表せない
これらはただ、違う時代の神の名だ
最後の時代、つまり終わりの日に
神の名はもう一度変わるのだ
神は、ヤーウェともイエスとも
ましてメシアとも呼ばれず
力ある全能の神と呼ばれ
この名で時代を終わらせる

神はかつてヤーウェとして知られ
メシアとも呼ばれていた
また愛と敬意をもって
人々に救い主イエスとも呼ばれた
今日の神はかつて
人々が知っていたヤーウェでもイエスでもない
終わりの日に再臨し、時代を終わらせる
神の全ての性質と権威と栄誉と栄光に満ちた神だ
彼こそ神自身である
地の終わりに際して立ち上がる神自身である
彼こそ地の終わりに立つ神

全ての国は神の言葉により祝福されるか破壊される
終わりの日に人は救い主なる神の再来を見るだろう
彼は力ある全能神、全人類を征服し
かつて彼が罪のいけにえだったことを知らせる
しかし彼は終わりの日に
全てを焼き尽くす太陽の炎となる
彼は義の太陽となり 全てのことを明らかにする
これが終わりの日の神の業
これこそまさに神がなす業
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


キリスト教の歌「神はより多くの人が救いを得ることを願う」歌詞付き

2020-08-21 11:45:30 | 讃美歌

 

神はより多くの人が救いを得ることを願う
より多くの人が神の言葉と業に出会った時
よく調べ
神に適う心で重要な言葉に臨むことを神は願う
罰を受ける者を真似てはならない
真理の道をはっきり知りつつも
故意に背き 罪のための捧げものを失った
パウロのようであってはならない
神の新しい業を受け入れ
神が与える真理を受けなさい
そうすれば神の救いを得られる
神はさらに多くの人が罰せられることを望まず
逆により多くの人が救われることを願う
そしてより多くの人が遅れずに
神の足跡をたどり
神の国に入ることを望む
神の新しい業を受け入れ
神が与える真理を受けなさい
そうすれば神の救いを得られる
神は人の年齢・地位・苦しみに関係なく
全ての人を公平に扱う
神の性質は永遠に変わらず
それらの事に関わらず 義である
神は誰もえこひいきしないが
もし全てを捨て
神の真理と新しい業を受け入れるなら
その人を思い遣る
神の新しい業を受け入れ
神が与える真理を受けなさい
そうすれば神の救いを得られる
『小羊従って新しい歌を歌おう』より


終わりの日に主イエスはどのように来られるかについての預言

2020-08-20 11:10:35 | 聖書預言

   「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書 24:27)

   「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」(マタイによる福音書 24:44)

   「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」(ヨハネの黙示録 16:15)

   「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)

   「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン」(ヨハネの黙示録 1:7)

 


   関連する神の言葉:

   わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。

   宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より

   数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

   終わりの日が来て、世界中の国は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現し、人の世界は大惨事で、天は災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。しかし、人々にとっては陽気ですばらしい世界のように見え、ますますそうなっていくように思われる。人々が世界を見渡すと、彼らの心は惹きつけられ、多くの人はそこから抜け出すことができない。数多くの人が策略や妖術に携わっている人々に騙されるだろう。「実践(2)」より

   あらゆる災害が次々に襲ってくるだろう。すべての国、すべての場所は災害を経験するだろう──疫病、飢饉、洪水、干ばつ、地震が至る所で発生する。これらの災害は一か所や二か所だけに起こるのではなく、一日や二日の間だけ起こるのでもなく、広大な領域にわたって広がり、次第に激しさを増していくだろう。この間、あらゆる種類の虫害による疫病が次々に発生し、残忍な現象があらゆる場所で起こるだろう。これはすべての国家、すべての民族に下すわたしの裁きである。「キリストの初めの言葉」の「第六十五章」より

   今日、わたしは赤い大きな竜の国に降り立つだけではなく、わたしの顔を全宇宙に向け、天空全体が揺れるようにする。わたしの裁きが行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしの投げつける懲罰が行われない場所が一つでもあるだろうか。わたしは行く先々に、あらゆる災いの種を蒔いた。これは、わたしの働く方法の一つで、必ずや人間を救う行いなのであり、わたしが人間に差し伸べるものは、何であれ、一種の愛なのである。わたしは、さらに多くの人々がわたしを知り、わたしを見ることができるようにし、そうして長い間人々が見ることのなかった神、だが、今日、現実となった神を、崇めるようにしたいのだ。「全宇宙への神の言葉」の「第十章」より

   恵みの時代の後、最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのになぜ神はまだイエスと呼ばれることができるのであろうか。どうして神は人々のあいだでイエスの外観を取ることができるのであろうか。イエスはただナザレ人の姿であったことを忘れたのか。イエスはただ人類の贖い主であったということを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し完全にする働きを行なうことができるのであろうか。イエスは白い雲に乗って去って行った。これは真実である。しかし、イエスが白い雲に乗って人間のもとに帰ってきて、またイエスと呼ばれるなどということがどうしてありえようか。イエスが本当に雲に乗って来たなら、人間に見分けられるのではないであろうか。世界中の人々がイエスを見分けるのではないであろうか。その場合、イエスだけが神ということになるのではないのか。その場合、神の姿とはひとりのユダヤ人の外見であり、永遠に同じということになる。イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。イエスは去って行ったとおりにやって来ると言った。いつ来るのかは、イエス自身も知らないのである。それではイエスがあなたに前もって知らせることができたであろうか。あなたは彼の到来を見ることができるのか。これは冗談ではないのか。「神の働きのビジョン(3)」より

   多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より