賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書の名言ー14節聖書の中の神の裁きに関する聖句・罪を抜け出し天国に入る道を見つける

2020-10-21 22:52:12 | 勝利者の証し

聖書の名言ー14節聖書の中の神の裁きに関する聖句・罪を抜け出し天国に入る道を見つける

    聖書に預言された終わりの日の裁きの働きに関する聖句はたくさんありますが、いったい裁きとは何か、なぜ神は終わりの日にまた来られて裁きの働きをなさるのか、これは私たちが罪の束縛から抜け出して清められ、天国に入ることとの関係は何でしょうか。次の聖句と関連のおすすめを閲読し、裁きの働き及びその意味を理解し、罪から抜け出し天国に入る道を見つけます。

    一、終わりの日の神の裁きの働きに関する預言

    使徒行伝17:31
    1、神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。

    ヨハネによる福音書12:47-48
    2、たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。

    ヨハネによる福音書5:22
    3、父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。

    ヨハネによる福音書5:27
    4、そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。

    ペテロの第一の手紙4:17
    5、さばきが神の家から始められる時がきた。

    ダニエル書7:10
    6、彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。

    ヨハネの黙示録20:11-12
    7、また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。

    ヨハネの黙示録14:7
    8、大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。

    二、神の終わりの日の裁きと天国に入ることとの関係

    イザヤ書2:2-4
    9、終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

    ゼカリヤ書13:8-9
    10、主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『主はわが神である』と言う」。

    ダニエル書12:9-10
    11、彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。 多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。

    ヨハネの黙示録22:14
    12、いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

    ヨハネの黙示録21:3-4
    13、また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

    ヨハネの黙示録11:15
    14、この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。

関連する真理:
    終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

    「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

    終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、悪者、義なる人ではないからである。。。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。


聖書の言葉-すべてを捨てて主に従います・マタイによる福音書4:22

2020-10-20 23:33:26 | 聖書の学び

聖書の言葉-すべてを捨てて主に従います・マタイによる福音書4:22

 聖書の言葉
 すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。

マタイによる福音書4:22

 この聖句に「おいて」に触れたが、私たちが知っている通り、当時ペテロが魚に行ったが、何の穫物もなく、主イエスが彼を再度魚に行かれて、穫物がいっぱいありました。同時に主イエスが彼に従うようにペテロたちに呼びかけて、つまり主の弟子となり、この時彼たちは舟をおいて、網を捨て、しかも父親から離れられて、主イエスに従いました。ここから私は聖書にある言葉を思い出しました。「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」(ルカによる福音書14:33)

 主イエスは私たちにこの世の追求よりも彼を愛するように求められています。それでは、私たちはどのようにして神様を愛する人になれるのでしょうか。神様の言葉はこう言われました。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、委託、責任などを認識しているだろうか。あなたには歴史における自分の使命感がどこかにあるだろうか。あなたは次の時代の良き主人としてどのように奉仕するだろうか。あなたには主人としての強い意識があるだろうか。全ての物の主人についてどのように説明するだろうか。それはまことに世界の全ての生き物と全ての物質の主人であるのだろうか。次の段階の働きの進展のために、あなたはどのような計画を持っているのだろうか。何人の人たちがあなたに羊飼いとなってもらいたいと待っているのだろうか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。『道はどこにあるのか』と。……神は心でどれほど深く悲しみ、心配しているかを、あなたは考えたことがあるだろうか。神は自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。結局、人類は毒された不運な者たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者によって長い間毒されてきたといったい誰が思っただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神へのあなたの愛で、生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の肉と血のように人類を愛する神に報いるために全力で努力したいと思わないだろうか。神に用いられて並外れた人生を生きることを、あなたはどのように理解しているのだろうか。あなたには『敬虔で神に仕える人』の意義深い人生を送るための決意と自信を本当に持っているだろうか。」この中から、人類を救いたいという神様の強い願いを見ました。神様の働きには人間が協力することが求められ、私たちが呼びかけに直面し、選択に迫られた時、もし私たちは自分の利益を優先に考えたら、誰が神様の福音を広めるのでしょうか。これは私たちが深く考えるに値します。


神の愛は善いこと、悪いことの両方で見ることができます

2020-10-19 23:04:42 | 信仰生活

神の愛は善いこと、悪いことの両方で見ることができます

    私たちは誰もが前漢の劉安が執筆した思想書「淮南子、人間訓」について良く知っています。これ故に、私たちは損は得を伴い、得は損を伴うということを頻繁に口にします。これがそのストーリーの1つです:戦国時代の間、サイ・ウェンは多くの馬を育てました。彼が馬を失った時、彼の隣人たちは彼を慰めに行きました。彼はそれを悲しんでいなかったどころか、それは良いことかも知れないと隣人たちに言いました。予想外にも、行方不明になっていた馬が帰ってきただけでなく、乗馬用の馬までついてきたのです。これを知ったサイ・ウェンの隣人たちは彼を祝福しました。彼はそれにあまり満足しておらず、それどころか、これは必ずしも良いことではないと言ったのです。案の定、彼の息子が乗馬中に足の骨を骨折してしまいました。彼の隣人たちは彼を慰めに行きましたが、彼はとても落ち着いており、これは悪いことではないかもしれないと言ったのです。彼の隣人たちは彼のことが本当に理解できず、彼は悲しさのあまり頭が混乱しているのではないかと思いました。しかし、最終的には、胡の人々が侵略してきたため、若者全員が戦場に連れていかれ、その大多数が死んでしまいました。しかし、サイ・ウェンの息子は足を骨折していたため、戦争に行かずに済み、いのち拾いをしたのです。

    このショートストーリーを読んだ後、私は餌入れからクライマックス、そしてその反対を行ったり来たりしながらローラーコースターに乗っているような気分になり、とても驚きました。私がサイ・ウェンのストーリーから学んだことは:「私たちが善い、または悪いと捉えるものは実は全てが完璧なのです。さらに大切なのは、私たちがそれをどのように捉え、それとどのように向き合うかということなのです。私たちは頻繁に「善い」出来事に大喜びし、「悪い」出来事に心を痛めますが、結局、私たちは物事は私たちが捉えているほど単純ではなく、それらには主の御知恵が込められていることを知ります。これは私たちが頭の中で想像できることではありません」、ということです。

    まるで聖書に書かれているヨセフのストーリーのようです:彼は父親から特別扱いされていました。彼の兄弟たちはこれにひどく嫉妬しましたため、彼らはヨセフをイシュマエルの子孫に売り飛ばし、最終的に、彼はファラオ​の​役人、かつ護衛​の​長であるポテパルというエジプト人に奴隷として売られてしまいました。ポテパルの自宅で、ヨセフは全てにおいて神を頼りにし、誠実に、そして責任をもって働いたため、ポテパルの信用を得ました。そしてポテパルはヨセフに家の中にある物全てを担当させたのです。素晴らしい働きをしていたヨセフはポテパルの妻の目に留まり、彼女はヨセフを誘惑して彼の関心を引こうと試みました。しかし神を敬けんする心の持ち主であるヨセフはポテパルの妻を拒みました。この結果、彼は彼女から冤罪を被り牢屋に入れられてしまいました。ヨセフは牢屋の中でファラオの献酌人とパン焼き人に出会い、彼らの夢を神から授かった智恵で解釈して彼らから感謝されました。後に、彼はファラオの夢を解釈するように推薦されました。ファラオの信頼を得た彼はエジプト全土を管理する主席大臣に任命されたのです。当時、全ての国々では7年の大飢饉に苦しんでいました。ヨセフは予め備蓄をしていたため、彼の家族は運よく大飢饉を生き延びたのでした。

    神の御業は本当に素晴らしく賢明であられます。ヨセフは父親の一番のお気に入りでなかったら、兄弟たちから嫉妬されてエジプトに売り飛ばされることはなかったかもしれません。エジプトに売り飛ばされていなかったら、ポテパルの召使になることも、ポテパルの家の管理を担うことも、ましてポテパルの妻から誘惑され、濡れ衣を着せられて牢屋に入れられることもなかったでしょう。彼は牢屋に入れられていなかったら、献酌人とパン焼き人に出会うことはなかったでしょう。彼はファラオのために夢の解釈をしていなかったら、エジプトの主席大臣になることはなかったでしょう。エジプトの主席大臣になっていなかったら、彼は自分の家族が7年の大飢饉を生き延びる手助けをすることはできなかったでしょう。「悪い」と思われたことが「善い」ことになりました。ですが、「善い」と思われたことも、時には「悪い」ことになっています。実に、神の御旨は常に人に向けられており、神の偉大な愛は全ての背後に込められているのです。これについてヤーウェ神はこう仰りました:「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書 55:8-9)

    私は主を初めて信仰し始めた頃、いつも歯痛がしていたのですが、祈りを捧げても改善しなかったのを覚えています。次第に、私は主への信仰を失っていき、聖句を読んだり祈りを捧げるのが嫌になっていきました。兄弟姉妹たちのサポートを受け、私は自分の主への信仰はかなり弱いことが分かり、主の御力は最も偉大であられることも理解しました:主は盲人たちが見えるようにされ、足の不自由な人たちが歩けるようにされ、5つのパンと2匹の魚で5千人の人々を養われ、死者を蘇らせる等なされました。後に、私は主の御啓示により、自分は自慢して自己顕示することが大好きな人であったことを知りました。私が主の前で悔い改め、罪を告白した後、歯痛は改善し、それ以降、歯痛は決して起こりませんでした。歯痛がして痛い思いをするのは悪いことのように思えましたが、私の霊的ないのちが育まれ、私の信仰は強くなりました。これは善いことではないでしょうか?

    従って、私たちは自分の観念と合致しない出来事に遭遇することがあれば、それを自分たちの目に映ったまま判断かつ検討して肉の欲求を満たせなかったからと言って主を非難するなど、自分の自然な姿勢を露わにしてはならないのです。しかし、むしろ私たちは、主は過ちを犯すことも、無作為に物事をなさることもなく、主が私たちのためにしてくださったこと全てには主の善良な御旨が込められていると信じるべきなのです。私たちは主の御旨を理解できなくでも、待って、求めて、従うということを学ぶべきであり、それが最も合理的かつ懸命な選択肢なのです。私はこうすることによって主の素晴らしい御業を見ることができると信じています!

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キリスト教讃美歌「神の愛は私の心を溶かした」


聖書黙示録終末の預言は成就された──主の再臨をどうお迎えすればよいか

2020-10-18 23:01:08 | 癒やしと恵みの証し

聖書黙示録終末の預言は成就された──主の再臨をどうお迎えすればよいか

    2000年前、主の弟子たちはイエスに尋ねました。

    「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」(マタイによる福音書 24:3)

    主イエスは答えられました。

    「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書 24:6–8)

    今日、世界中でますます多くの災厄が発生しています。地震、伝染病の流行、飢饉、戦争、洪水が相次いで起こっています。2019年の暮れには、中国の武漢で新型コロナウィルスが発生しました。その感染率は驚異的です。わずか数ヶ月のうちに感染例が中国全土で出現し、中国はまたたく間に大混乱に陥りました。死亡者数が増えつづけるなか、多くの省、直轄市、村が次々と閉鎖されつつあります。このウィルスはさらに国境を越えて、世界の20ヶ国以上に広まっています。それに加えてオーストラリアでは、2019年の9月から2020年の1月にかけて森林火災のために、5900棟以上の建物が焼失し10億匹以上の動物の命が奪われました。2020年1月には同じオーストラリア大陸が百年に一度の集中豪雨に見舞われ、洪水が発生し多くの淡水生物が死にました。インドネシアでは同月の洪水のために、何万人という人々が家を失っています。さらにフィリピンで火山が噴火、アフリカで過去25年間で最悪のバッタが大量発生、中国の新疆でマグニチュード6.4の地震が発生……と、こうした例は枚挙に暇がありません。主の来臨を告げる聖書の預言が成就されているのです。こうしたことは主が戻られたことを明白に示しています。では私たちはなぜまだ主の到来をお迎えしていないのでしょうか? このようなことが続けば、私たちは大患難に陥るのではないでしょうか? また主の来臨をお迎えするために、私たちは一体何をすべきなのでしょうか?

    主はどのように来られるか

    多くの人が次のような聖書の言葉を読んでいます。

    「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。」(ヨハネの黙示録 1:7)

    「そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)

    そうした人々は主が雲に乗って来られると確信しています。それなのに私たちがこのような光景をまだ目にしていないのでなぜでしょう? これが主が来られる唯一の方法なのでしょうか? 実をいうと、私たちは主の来臨に関して大きなことを一つ見落としているのです。聖書には神が秘かに来られるという預言もあるのです。

    「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録 16:15)

    「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

    「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音書24:44)

    「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24–25)

    聖書にある「盗人のように」、「夜中に……呼ぶ声がした」という言葉は、終わりの日に再臨される主が、ひっそりと秘かに戻られることを示しています。では「人の子」は何を称しているのでしょうか? 「人の子」は間違いなく人から生まれます。母親と父親がいて肉と血から生まれるのです。たとえば主イエスです。イエスは人間の間で生活する普通の人間の姿で受肉されました。つまり「人の子」という言葉は受肉した神を称しているのです。霊は人の子とは呼ばれません。また聖書は次のようにも述べています。

   「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。

    この一節は紛れもなく、主が戻られるときは、ひどい苦しみを受けその時代の人々に捨てられるであろうと述べています。神が人の子として受肉したときに限って捨てられるのは、肉となった神があまりにも平凡すぎて、人々が神であると知らないせいであることを、私たちはみな知っています。人々が神を普通の人間として扱うので、その結果神は厳しい苦難に遭うのです。ところが主が霊として人の前に現れれば、善人であろうと悪人であろうと、信者であろうと不信仰者、あるいはたとえ神に敵対する者であろうと、あらゆる者が神の前にひれ伏して崇めるでしょう--そうなれば誰が神を捨てられましょう? またどうして神が苦しみを受けることになりましょう? こうしたことは、終わりの日の主が受肉した人の子として人間の前に現れることを示しているのです。

    再臨されたとき主はどのような働きをなさるのか
    ここまで読んで、困惑している兄弟姉妹もいるかもしれません。終わりの日に主が秘かに来られて人間の間で働きをなされるなら、雲に乗って来られるという預言はどのようにして成就されるのかと。神の働きには段階と計画があります。神はまず肉となって秘かに到来し、人を救う働きを実行されてから、雲に乗って人の前に公に現れられます。この疑問を理解するために、私たちは主が終わりの日に再臨するときになさる働きについてもっと知らなくてはなりません。主イエスはこう語られています。

    「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)

    「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:48)

    「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」(ヨハネによる福音書 5:22)

    聖書には次のようにも書かれています。

    「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

    こうした聖句は、終わりの日の神がもっばら御言葉を発して、神の家から始まる裁きの働きを行うために来られると告げています。その結果、終わりの日における神の裁きの働きを受け入れる者は主の到着をお迎えし、神の前に引き上げられることになるのです! 今日、受肉した全能神がこれまで発された何百万もの御言葉はすべて、『言葉は肉において現れる』という本に収録されています。この本の中で全能神の御言葉は、これまで私たちに理解できなかった多くの謎を明らかにしています。たとえば人類の発達の歴史、サタンがいかに人類を堕落させ、神がいかに人を救うのか、どのような者が神に愛され、どんな者が嫌われるのか、さまざまな分類の人々にどのような結果や終着点があるのか、といったことです。それだけでなく神は、裁きと刑罰の御言葉をも表して、私たちの堕落した性質を明らかにされています。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れる者はみな、堕落した性質を清められ変化を遂げるのです。そして大患難の前に勝利者とされ、最後には神の国に入り永遠の至福を享受することになるのです。神が肉となって秘かに働かれている時期にその声を聴こうとしない者や、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れない者、自らの観念や想像にもとづいて受肉した神を非難し冒涜する者は、正体を暴かれて神に淘汰されるでしょう。さらに小麦と毒麦、子羊と山羊、思慮深い処女と愚かな処女、よきしもべと悪しきしもべ、真理を愛する者と忌み嫌う者は、それぞれ真の姿を暴かれ種類に応じて分類されます。その後神は雲に乗って来臨し、地上のあらゆる国と諸民族の前に公然と現われて、良き者に報いを与え悪しき者を罰しはじめられます。かくして聖書の次の預言は成就されるのです。

    「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(ヨハネの黙示録 1:7)

   「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書 24:30)

    その時神に敵対し、神を拒絶し、非難した者はみな、自らの悪行のために胸を打って後悔に苛まれることになります。神の働きから、神がいかに義であり全能で賢明であるかを、私たちは知るのです!

    主の来臨をどうお迎えすればよいのか
    今日、受肉した全能神はすでに一団の人々を征服し救われています。またそうして勝利者を完全にされています。神の秘かな働きは間もなく終了し、その後ただちに地上にあらゆる種類の大患難が降りかかるでしょう。私たちの前には、主イエスの再来をどうお迎えし、終わりの日の神の働きをどう受け入れるべきなのかという、差し迫った課題があります。主イエスはおっしゃっています。

    「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書 10:27)

    聖書には次のような預言もあります。

    「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録 2:7)

    「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

    さらに全能神はこう語られています。

    「神の働きは強く打ち寄せる大波のようなものである。誰も神を引き留めることはできないし、誰も神の歩みを停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め、渇望する人々だけ神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然の罰を受ける。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)あなたは子羊の歩みと歩調を合わせたいですか? 主をお迎えしたいですか? 大患難の前に引き上げられたいと切に願いますか? 神の御言葉が私たちに告げているのは、主をお迎えするつもりがあるなら、重要なのは全能神によって表現された御言葉が真理かどうか、それが諸教会に向けた聖霊の御言葉なのかどうかを考え、それにより神の声に耳を傾ける方法を知るということです。へりくだった心をもって真理を探究し切望すれば、神はすぐにも主をお迎するよう私たちを導いてくださると私は信じます!

アン・ユエン、フィリピン


教会音楽「失われた時は二度と戻ってこない」歌詞付き

2020-10-17 22:48:02 | 勝利者の証し

教会音楽「失われた時は二度と戻ってこない」歌詞付き

教会音楽「失われた時は二度と戻ってこない」歌詞付き

目覚めよ!兄弟姉妹たち!
神の日は遅れることがない
時は命、時をとらえることは命を救い
その時は近い
試験なら、落ちたとしても
学び直し、再挑戦できるが
神の日は決して遅れないことを
あなたは知らなければならない

覚えておくように
神のこれらの良い言葉は
あなたを促すためにある
終わりは目前で
災害が近づいている
大切なのはあなたの命か
それとも食べ物や衣服だろうか
今、熟考するべき時が来たのだ

人類は何と惨めで
貧しく盲目で、残酷なのか!
神の言葉は耳のそばを吹きゆく
風のようなものなのか
神の話は無駄だろうか
何故あなたはまだ怠慢なのか
神がこれらを誰に言っているのか
一度も考えたことはないのか?
神を信じなさい
神はあなたの救い
そして全能者なのである
見張り続けよ
失われた時は戻らず
後悔に効く薬はない
神はどのようにあなたに告げるのか?
神の言葉は熟考に値しないのか?
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より