賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンはどのようにして思慮深い乙女となれるか

2020-11-25 22:33:55 | 天の国の福音

    1つの投稿記事をここで転送します:

    こんにちは!兄弟姉妹の皆さん、私は1つ質問があり、皆さんのそれに関する理解を求めて、今日、ここに投稿します。どうぞ、積極的に参加してください。

    今日、私が強い信仰心でお勤めをしていると、マタイによる福音書第25章に10名の乙女に関する寓話があるのを読みました。5名の思慮深い乙女は誰かが「花婿がやって来た」と叫ぶのを聞いて、躊躇せずに彼を迎えに出ました。そのため、彼女達は主と共に夕食を取り、ごちそうを楽しみました。なんと栄光あることでしょう。一方、残りの思慮が浅い乙女5名は主を迎え出なかったため、神の国の門の外に閉め出されてしまいました。なんと愚かなことでしょう!そこで、私は、「誰かが『花婿がやって来た。外へ出て、彼を迎えよう』」と叫ぶのを聞いたら、私が生きている間は思慮深い乙女となり、躊躇せずに主を迎え出なければならない」と考えました。そこで、また、「主の再来は私が考えるほど単純なものではないはずだ。そうでなければ、どうして思慮が浅い乙女が主により閉め出されるなんてことがあろうか?」と考えました。そこで、思慮深い乙女となるにはどうすればよいかを知りたいと思います。

    投稿者:松本愛

    回答:

    姉妹岡田:

    松本愛、私にはこれが分かります。数日前に行われた聖書の勉強会で、リュー牧師は「現在は、終わりの日で、主イエス様が間もなく再来されます。私達は主をお迎えできるよう思慮深い乙女となり、主に見放され、神の国の門の外で泣いて、歯ぎしりをすることになる思慮が浅い乙女とならないようにしなければなりません。思慮深い乙女となるには、私達はもっと聖書を読み、注意深く祈り、主のためにもっと働く必要があります。これらのことを常日頃から行う者だけが思慮深い乙女であり、神の国に入り、主と共に夕食を取ることができるのです」と言いました。牧師のこの説教を聞いて、私はとても興奮しました。それから私は、毎日、注意深く御祈りをし、聖書を読むようになりました。思慮深い乙女となり、神の国の晩餐会に主と共に参加できるよう、時間がある限り、親戚や友人、仲間に福音を説き、主の証を立てています。

    ムイ:

    こんにちは!少しお話させていただきたく思います。姉妹岡田の言葉をたった今聞きました。過去10年間、私の牧師もそう言っており、私はそのようにいつも実践してきました。しかし、その後、何かがおかしいと感じるようになりました。私達はこれらのことをするだけで思慮深い乙女となれるのでしょうか?思慮深い乙女とは、主が再来されたときに、積極的に外へ出て、主を迎えることができることを意味するのではないでしょうか?10年はまたたく間に過ぎていきました。主の再来に関する預言が基本的に現実化し、大災害が次から次へと起きており、それは主がいつ何時でも再来し、私達を神の国に連れて行ってくださることを示しており、とても心配しています。そこで、イエス様が再来した際にお迎えできるよう、思慮深い乙女の基準を満たせるよう、どのようにそれを追求できるかについてぜひとも知りたいと思います。

    松本愛:

    さて、回答がありますか?

    ムイ:

    主よ、ありがとうございます!その後、兄弟姉妹との交流を求める中で、私はそのことを理解しました。主イエス様は次のように預言されました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 」(マタイによる福音書 25:6)。このことから、主イエス様が再来されたとき、主の御声を聞くことができ、外へ出て主をお迎えできる者だけが思慮深い乙女だということが分かります。従って、思慮深い乙女の主な現れは、その者たちが主の御声を認識できるということです。主イエス様がユダヤで働くために受肉されたとき、主は数多くの真理を明らかにされました。真理を本当に求め、神様の出現を切望する者は、救世主の到来を歓迎しました。これらの者は主イエス様の御言葉から神様の御声を認識し、主こそ到来が預言されていた救世主であると悟ったのです。

    佐藤恵和:

    ちょうどサイトに入ったばかりです。上のメッセージを読み、私も皆さんにお話したいことがあります。

    松本愛:

    ようこそ。

    ムイ:

    まるで、かつて収税人であった当時のマタイのように、主イエス様が「わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書 9:9),と彼に言われるのを聞いて、彼は立ち上がり、そのまま主についていきました。また、聖書には次も記録されています。主イエス様との短い会話を交わした後、ナタナエルは「ナタナエルは答えた、『先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(ヨハネによる福音書 1:49)と言い、主についていきました。また、ペテロは、イエス様が船の中で人々に説いていた説教を聞いて、網と船を捨て、主についていきました。

    佐藤恵和:

    少しお話させていただきたく思います。ペテロ、ナタナエル、マタイなどの人々はすべて、主の御言葉と御発言から主イエス様が救世主であると認識し、主についていきました。同様に、サマリア人の女性は主イエス様と話しているとき、主が 「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。』」(ヨハネによる福音書 4:13-14)と話されるのを聞き、彼女の心の中に隠していた秘密が主によって明らかにされました。そして、真理の謎について話し、彼女の秘密を明らかにすることができるこのような人は、明らかに、普通の人や預言者ではないと悟りました。彼女は、主の御言葉から、主イエス様が救世主、キリスト様であると確信を持ちました。

    ムイ:

    そう、佐藤さんの言う通りです。これにより、私達は、彼らが神様の御声を聞くことに意識を集中しており、そのため、主の出現を歓迎できたことが彼らの知恵であり、それが思慮深い乙女の表れであることが分かります。

    佐藤恵和:

    少し付け加えたいと思います。思慮深い乙女には、自分自身の意見と根拠がありました。主の御言葉を聞いたとき、彼女達は外に主を迎え出ました。彼女達が主についていっている間、彼女達の周りでどれだけ中傷、冒涜、非難の声を聞こうとも、彼女達は変わらず、主イエス様が救世主であることを受け入れていました。弟子達が主についていったときと同様、彼女達は、多くの祭司、律法学者、パリサイ人から、主に抵抗し、主を中傷する多くの声を耳にしましたが、主への信仰に影響することはありませんでした。

    松本愛:

    はい。その通りです。

    ムイ:

    これらの祭司、律法学者、パリサイ人、そして彼らに従うユダヤ人はすべて、律法と規則に従う限り、確実に救世主の到来をお迎えすることになるだろうと信じていました。主の御言葉と御働きにどれほどの力と権威があろうと、彼らは自分の観念と想像に固執し、主イエス様の御言葉と御働きを調査することを拒みました。彼らは主イエス様を普通の人、神様の御発言を人の言葉とみなし、主を裁き、冒涜さえしました。最終的に、彼らは待ち望んでいた救世主を十字架に磔にし、神様を信じながら神様に抵抗する者となったのでした。彼らには神様の御声を認識することができず、真理を求める心を持っていませんでした。その代りに、神様の御出現と御働きを盲目的に拒否し、非難しました。そのため、彼らは神様からの御救いを失い、最終的に、神様の御怒りと御懲罰が下りました。これは、思慮が浅い乙女の表れで、彼らの結末でした。

    松本愛:

    皆さんの言葉を読み、私はとても恥ずかしくなりました。私はこれまで何度も聖書でこれらの寓話について読んでいながら、この光を得ていませんでした。

    主よ、ありがとうございます。たった今行われた皆さんによる思慮深い乙女と思慮が浅い乙女の表れについての交流はとても明確で、思慮深い乙女とは主イエス様の御働きについていく者のことで、主の御声を聞くことができる者で、主の御声を認識したら躊躇せずに最後まで主の後についていく者のことを言うのだと理解することができました。

    佐藤恵和:

    そうです!思慮が浅い乙女が門の外に放っておかれた理由は、彼女達には謙虚な気持ちで求める心がなかったからです。主イエス様の福音に直面して、彼女達は思慮深い乙女達と共に表に出ていって、これを受け入れることを嫌がり、自分の意見を持たずに、彼女達が尊敬し、崇拝するパリサイ人に助言を求めました。そのため、彼女達は主の救済を失いました。

    ムイ:

    その通りです!そのことは、現在にも同様に当てはまります。主イエス様の再来に関する預言は、基本的に現実化しています。今こそ主が再来される重大な瞬間です。イエス様の再来をお迎えするために、私達はどのような環境を整えておくべきでしょうか?

    松本愛:

    もっと教えてください。

    ムイ:

    分かりました。主イエス様は次のように仰っています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。」(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)。これらの預言によると、主が再来されたときは、確かに御言葉を発することが分かります。主イエス様が次のように仰っているため、これは疑う余地がありません。 「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)。従って、主の再来のお迎えに関して、主の御発言と御言葉に注意する必要があります。神様の羊は神様の御声を聞くものです。「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。」(ヨハネの黙示録 14:4)。主が再来される終わりの日に、私達が主をお迎えできるか否かは、私達が主の御声を認識でき、主の後についていけるか否かにかかっています。この点で、思慮深い乙女は思慮が浅い乙女とは異なっています。今日、誰かが主の再来の福音を説いているのを聞いたら、私達は思慮深い乙女の例に倣い、自分の観念と神様が御働きになった過去から出て、新時代の神様の御発言と御言葉に耳を傾けなければなりません。このような人のみが神様によりお認めいただき、聖霊の働き、啓示、光を得ることができます。同時に、私達は終わりの日の主の御言葉と御働きを求める際に、思慮深い乙女達のように自信と勇気を持つべきです。他人が何を言おうと、私達は見定める力と自分自身の意見を持つ必要があります。私達が神様の御声を認識する限り、私達は躊躇せずに調査すべきです。それが神様の御働きであることが確認できたら、神様の後にぴったりとついていき、迷ったり、後退りしてはなりません。真理を渇望し、真理を求める心がある限り、私達はイエス様の再来を確実にお迎えできるでしょう。

    ムイ:

    その通りです。主よ、感謝します。最後に、皆さんと御言葉の次の聖句を共有したいと思います。「私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」栄光は全能の神様のものです。アーメン!


3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2020-11-24 22:46:53 | 信仰生活

    ケム姉妹へ:

    こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ

    こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

    あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

    今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。
    では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

    神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

    そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう


    賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです


    私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

    例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう


    通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

    私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより


3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2020-11-24 22:46:53 | 信仰生活

    ケム姉妹へ:

    こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ

    こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

    あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

    今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。
    では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

    神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

    そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう


    賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです


    私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

    例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう


    通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

    私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより


キリスト教讃美歌「万象は神の手の中にある」歌詞付き

2020-11-23 22:24:41 | 讃美歌

キリスト教讃美歌「万象は神の手の中にある」歌詞付き

神はかつて言った
神の言葉は作用し必ず成就する
かつて神はそう言った
誰にもそれは変えられない
過去の言葉も未来の言葉も
全ての言葉が成就される
神が宇宙の万象を定めることを
全ての者が見ることが出来る
神の手の中に無いものがあるか
神が言った事は全て成し遂げられるだろう
誰が神の意志を変えられるか
神の計画の進行を妨げる物は無い
神は常に働いている
万物は神の手の中にある
神は常に救いの計画に携わる
誰が妨げられよう
神は今も全てを指揮する
現在の物事の状態は
神の計画と展望の中
神が宇宙の万象を定めることを
全ての者が見ることが出来る
神の手の中に無いものがあるか
神が言った事は全て成し遂げられるだろう
誰が神の意志を変えられるか
神の計画の進行を妨げる物は無い
神は常に働いている
万物は神の手の中にある

それは神が予め定めていたこと
かつて神が言ったこと
神の民は神の声を聞く
神を真に愛している者は
みな神の座の前に戻る
神が宇宙の万象を定めることを
全ての者が見ることが出来る
神の手の中に無いものがあるか
神が言った事は全て成し遂げられるだろう
誰が神の意志を変えられるか
神の計画の進行を妨げる物は無い
神は常に働いている
万物は神の手の中にある
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


キリスト教の歌「人間の結末への神の采配」歌詞付き

2020-11-22 21:57:35 | 讃美歌

キリスト教の歌「人間の結末への神の采配」歌詞付き

人は人を行動で測る

善行は義人 悪行は悪人が為す

善行を積んで良い将来を

立派な言葉で良い結果を得たがる

彼らは神が言動を見て

結果を決めると錯誤する

善行と立派な言葉で神を騙し

いっときの恵みを得ようとする人が多い

神は人を本質と従順さで判断する

従うのは義人

従わない者は邪悪な敵

行いの善悪や話の正誤は関係ない

神は人を本質と従順さで判断する

将来、安息の中で生きる

人は苦難に耐え 神に証しする

本分を尽くし

心から神に従った

奉仕だけで真理を実践しない人は留まれない

神には人の結末への正しい基準があり

人の言動に基づかない

誰も悪への報いや悪事を隠し

破滅の苦痛から逃げられない

悪人は永遠に生き延びられない

義人だけが安息の主

正道を行けば正しく生き

本分を尽くし 忠実になる

反抗と堕落した性質から脱し

抗わず神のために生きる

神に従うことが

神と人の神の国の安息と平和の生活

神は人を本質と従順さで判断する

従うのは義人

従わない者は邪悪な敵

行いの善悪や話の正誤は関係ない

神は人を本質と従順さで判断する

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より