賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

日々の神の御言葉「聖書について(1)」抜粋268

2020-11-11 23:06:45 | 勝利者の証し

日々の神の御言葉「聖書について(1)」抜粋268

    律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。だから、かつて行われたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は神が地上で、イスラエルの外で、より偉大で新しい働きをしたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超え、これまでに預言されていない、新しい、驚くべき働き、イスラエルの外の新たな働き、人々が見も想像もできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本の常識を覆す、この、より強力で賢い働きを誰が記録できたろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書の彼方へ行かなければいけない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。なぜ今日、聖書を読まないように言われるのか、なぜ聖書とは別の働きがあるのか、なぜ神は新たな、より詳細な実践を聖書に求めないのか、なぜより偉大な働きが聖書の外にあるのかを理解しなければいけない。これをみな、あなたたちは理解する必要がある。新旧の働きの違いを知らなければいけない。聖書を読まないが、聖書を分析できなければいけない。そうでなければ、まだ聖書を崇めていて、新たな働き、新たな変化に入るのが困難になるであろう。より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。

『言葉は肉において現れる』より引用


「マタイ福音書」イエスはガリラヤで伝道する

2020-11-10 22:08:07 | 聖書の物語

「マタイ福音書」イエスはガリラヤで伝道する

イエスはガリラヤで伝道する
    さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。 そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。

四人の漁夫を呼びかける
    さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。 そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、 すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。 イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。 そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。

福について
    イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである

地の塩と世の光になる弟子
    あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

律法について
    わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

人を憎んではならない
    昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。

よこしまな考えをしてはならない
    『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

妻を見捨てはならない
    また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。

誓ってはならない
    また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。

 復讐してはならない
    『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者を断るな。

敵を愛すべき
    『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

施しを言い触さない
    自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

あなたのために 聖書の学び に関するより多くの文章を推薦します

 


主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

2020-11-09 20:30:22 | 信仰生活

主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

オンラインの集会に参加することで潤される

    私は数年前に家族と一緒に主イエスを信じ始めました。しかし2017年になって仕事のせいで頻繁に集会に参加できず、霊が沈んでいくのを徐々に感じました。自分の気に入らない物事に出会うたび、私はしばしば怒りっぽい性質を露わにしていました。心の中では自分を憎んでいたものの、それでも感情を抑えられなかったのです。そこで主に祈り、聖書の学習で私を導き、それによって主との関係修復を助けられる人を用意してくださるようお願いしました。

    ある日、Facebookグループである人のために祈っていたところ、ひとりの姉妹が私を友達に加えてくれました。その後、私たちは信仰に関することをオンラインでチャットするようになりました。その姉妹は聖書について多くのことを知っており、彼女の交わりはとても光に満ちていたので、私は自分の霊が再び潤されたことについて心から主に感謝しました。あるとき、彼女が説教を聞くよう招待してくれたので、私は喜んで従いました。説教の間、ある兄弟が聖書を使って、人類の堕落の起源と、どのような人が天国に入れるかを語りました。彼の説教は牧師のものよりも啓きに満ちていて、耳を傾けていた私の心は光で満たされ、その兄弟の説教を聞くのが楽しみになりました。

オンラインの噂と牧師に影響され、神様による終わりの日の働きの考察を拒絶する


    次の集会が終わりに向かう中、その兄弟は「神様につき従う決心を揺るぎない」という賛美歌を歌いました。私はその賛美歌を聴いたことがなかったので、好奇心からオンラインでそれを探しました。あるリンクをクリックしたところ馴染みのある画像が現われ、それが全能神教会のウェブサイトであることと、その賛美歌が東方閃電によって作曲されたことを思い出しました。以前、牧師が全能神教会のウェブサイトをプロジェクターで映し、それについて悪く言っていたことがあるので、私はとても驚きました。しかし兄弟による説教はとても光に満ちていました。いったいどうなっているのでしょう。それから東方閃電に関する多くの否定的なコメントをオンラインで読んで、その兄弟を心の中で警戒するようになりました。その後、私はあの姉妹に、兄弟が歌った賛美歌は東方閃電のもので、彼の信仰は私たちのものと違うと言いました。すると姉妹は、次のオンライン集会でその問題の答えを一緒に見つけましょうと言ってくれました。

    集会のあいだ、私たちは心の中の疑惑を兄弟に伝えました。すると兄弟は、真の道を考察するときは神様のお声に耳を澄ますべきで、オンラインの噂を基に考察すべきではないと語りました。そして、今は終わりの日で、主イエスは肉となってお戻りになり、全能神の御名で神様の家から始まる裁きの働きをなさっていると言いました。また神様による終わりの日の裁きの働きや、神様が御名を変えられたことに関する聖書の聖句も数多く示してくれました。終わりの日の裁きの働きと全能神の御名に関する聖書の預言に反論することはできませんでしたが、全能神はお戻りになった主イエスであるという兄弟の言葉は私にとって信じがたいものでした。私はこう考えました。全能神は本当にお戻りになった主イエスなのか。牧師がそれについて語るのを以前に聞いたことはないし、主イエスも「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)とおっしゃった。主イエス以外に私たちを救える方はいらっしゃらない。全能神を信じるなら、主イエスを裏切っていることにはならないか。私はまだ天国に入れるだろうか。そうしたことを考えると、兄弟の言うことに耳を傾ける気がしなくなりました。

    その後、異端に気をつけるようにとのメッセージが教会のFacebookグループから送信されました。私はそれを見て、あの兄弟と接触するのがさらに嫌になりました。また姉妹が何度も招待してくれたにもかかわらず、オンライン集会に参加するのも断わりました。しかし後になって、兄弟の説教は主の御言葉と一致しており、ゆえに異端であるはずがないと感じました。そう考えていると心の中で葛藤が起こり、惨めな気分のまま、どうすべきかわからないでいました。その後、兄弟がグループチャットで数編の動画を送ってくれました。それらの動画を再生したところ、西洋の宗教学者による研究報告やコメントがいくつかありました。彼らは中国共産党による全能神教会への非難を調査し、インターネットで流れている全能神教会についての否定的な報道の大半は中国共産党が捏造したフェイクニュースであり、根拠となる事実がないことを証明していました。それらはまた、全能神教会を誹謗し断罪している中国共産党のフェイクニュースが、宗教的信仰の抑圧を目的としていることも暴いていました。これらの動画を見終えて初めて、インターネット上の噂がすべて嘘であることに気づきました。その後、兄弟がグループチャット経由で送ってくれた全能神教会による福音動画も見ました。その動画に登場する兄弟姉妹は中国共産党による逮捕を避けるため、しばしば集会の場所を変える必要がありました。集会の最中に中国共産党によって逮捕され、残酷な拷問を受けた人もいれば、自宅を捨てて逃げることを強いられた人もいました。私はそれらのシーンを見てとても悲しくなり、かつてある長老が中国に行って教えを宣べ、中国共産党はクリスチャンを迫害するのに力を惜しまず、中には投獄された長老さえいると言っていたことを思い出しました。また日曜礼拝の教師は、中国共産党は無神論者でマルクス主義を信じているから、神様を信じる人は誰もが弾圧されると言っていました。当時、私はそれらを誇張だと思っていました。盗みも強盗も働いていない主の信者を、どうして中国共産党が逮捕するでしょうか。しかしこれらの動画を見て初めて、中国共産党は犯罪と闘うよりも宗教的信仰を抑圧するほうに関心があり、彼らによる全能神教会の断罪を信用してはならないと理解しました。

神様による終わりの日の働きを受け入れるのは主イエスを裏切ることなのか


    私は中国共産党による噂を見抜きましたが、主イエスと全能神の関係についてはまだはっきり理解しておらず、兄弟の説教を聞き続けるべきかどうかわからないままでした。全能神を信じ始めたら主イエスを裏切ることになるのではと不安だったのです。すると姉妹が、そんな簡単にあきらめず、最後の判断を下す前に詳しく調べてはどうかとアドバイスしてくれました。彼女の言うことは正しいと思いました。いったい何なのかを突き止めることなくあきらめたら、実際に主がお戻りになっていた場合、主をお迎えする機会を失うことにならないだろうか。そこで、次の集会で兄弟が説教することに耳を傾けることにしました。

    インターネットに接続すると、私の疑問について兄弟がこう説教してくれました。「主イエスを信じる私たちはみな、主が真の神様であることを知っています。また主から多くのお恵みと祝福を受け取り、大いに感謝して愛情を抱いています。ゆえに、主はすでにお戻りになっているが、もはやイエスではなく全能神と呼ばれていると聞くとき、私たちの多くは心の中でためらいを感じだし、自分は別の神様を信じて主を裏切っているのではないかと不安になります。そのせいで神様の働きをあえて考察しようとしないのです。しかしこのような考え方は正しいでしょうか。私たち全員が知っているとおり、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ファリサイ人は主の働きを異端だと断罪し、ローマ帝国と手を結んでイエスを十字架にかけました。主の御名がメシアではなく、安息日をお守りにならず、神殿の外に行って働きをなさり、教えを宣べ伝えられたからです。次のことを考えましょう。何世代もヤーウェ神に仕え、熱心にメシアを待ち望んでいたファリサイ人は、主イエスが預言されていたメシアであるとどうして気づかなかったのでしょう。それは、彼らが神様を知らず、とても傲慢でうぬぼれていて、自分の観念と想像を基に主イエスを断罪して拒んだからです。彼らは最終的に神様を信じながら神様に抵抗した人たちとして人生を終えました。ならば、主がお戻りになったという知らせを聞きながら、主の御名がイエスから全能神に変わったからといって考察するのを拒むなら、それは単に当時のファリサイ人の過ちを繰り返していることになりませんか」

    兄弟の説教は深く考えるべき多くのことを私にもたらしました。彼は正しいと私は思いました。神様にはお知恵があり、神様がどう働かれるかは私たちに想像できることではない。しかし自分の観念と想像を基に神様の働きを判断すれば、まさにファリサイ人と同じではないだろうか。そう考えると心がとても落ち着き、引き続き兄弟の説教に耳を傾けました。

    兄弟は続けました。「事実、ヤーウェ神と主イエスと全能神は一つの神様です。その働きと、働かれた場所は違っていますが、いずれも堕落した人類の必要に応じて神様がなさらなければならない働きなのです。律法の時代、神様はヤーウェ神の御名を使って働きをなさいました。ヤーウェ神は律法を布告なさって生まれたての人類を導かれ、地上でどう暮らすべきかをお教えになり、威厳と怒りと憐れみの性質を表現なさいました。律法に従う人たちは神様の祝福とお恵みを得ました。律法に背いた者は罪の捧げ物をしなければならず、さもないと石打ちの刑に処されるか、天の火によって焼かれました。律法の時代の後期、人類の罪はますます深刻になり、罪を贖われるためにする罪の捧げ物ももはやないほどでした。ゆえに、神様は人類が必要とするものを基に受肉され、イエスの御名で恵みの時代の働きをなさり、愛とあわれみの性質を表現なさるとともに、豊富なお恵みを人類に授けられ、悔い改めの道を宣べ伝えられ、自分を愛するように他人を愛するようお教えになり、人類のために罪の捧げ物として十字架にかけられました。恵みの時代の働きは二千年にわたって続き、主の贖いのおかげで私たちの罪は赦されてきたものの、傲慢さ、偽り、利己心、邪悪さといった私たちの堕落したサタン的性質はいまだ残っており、いまなお罪を犯しては告白するという循環の中で生き、罪の束縛からまったく逃れられないでいます。これは真実ではないですか」

    私は言いました。「ええ、真実です。主は私たちに、寛大で忍耐強くなり、自分を愛するように他人を愛するようお教えになりました。私たちは自分の怒りを抑えられるときもありますが、自分の意にそぐわない物事に遭遇すると怒りっぽい性質をどうしても露わにすることがあります。私たちは主の御前で罪を告白して悔い改めますが、それでも再び同じ罪を犯してしまいます」

    兄弟は再び説教を始めました。「そうです。主イエスによる贖いの働きのおかげで私たちの罪は赦されてきましたが、私たちに罪を犯させるサタン的な本性はいまなお深く根ざしており、いつでもどこでも罪を犯して神様に反抗することができます。聖書にはこう記されています「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)また主イエスはこうおっしゃいました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書8:34-35)罪を犯しては告白するというこの状態の中で生き続けるなら、たとえ主イエスの罪の捧げ物が永遠に有効だとしても、私たちはなお主によって天国へ引き上げられることができません。ゆえに終わりの日、神様は私たちが必要とするものを基に、主イエスによる贖いの働きを土台としてより高い働きをなさり、私たちの罪を裁いて不正を清めるべく真理を表現なさって、私たちが真の救いを得て天国に入れるようにしてくださいます。そのことから、ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きはそれぞれ不可分に結びついており、働きの各段階は直前の段階に比べてより高く、それらが一つの神様の働きであることがわかります。ここで神様の御言葉の二節を読みましょう。そうすればもっとはっきり理解できます。


「美しき声」NO.4 罪を赦されることが天国へ入る方法なのか

2020-11-08 21:31:15 | キリスト教映画

「美しき声」NO.4 罪を赦されることが天国へ入る方法なのか

    宗教界の多くの人が、主を信じた後に自分の罪を認めて悔い改め、贖われ、恵みによって救われたと考えている。また、主が再臨される時には直接的に天国へと引き上げて下さるので、清めや救いの働きをされることはないだろうと思っている。しかしこれは、神様の働きの事実に沿っているだろうか?聖書には、「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙12:14)と書いてある。神様は言われる。「あなたは、神を信じる上での必要な段階を一つ見落としている。あなたは、単に罪から救われただけで中身は変えられていないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変える働きをし、あなたを清めなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、高潔さを手に入れることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという肝心の段階を経験していないがために、神の良き祝福を共有する資格がないのである。」


恵みによって救われれば、天国に入れるのか

2020-11-07 21:09:45 | 天の国の福音

 今日、わたしは道を説く時、大災難がもうすぐ起こると言い、兄弟姉妹たちに積極的に集会に参加し、もっと多く聖書を読み、現実生活の中で主の道を行い、目を覚まして主の到来を待つように要求しました。わたしは一部の兄弟姉妹が依然として力を持たず、自分が天の国の中に携え上げられることができるかどうかを疑うのを見て、こう言いました。「兄弟姉妹たち、聖書にこう書かれています。『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ10:10)。主イエスを信じたわたしたちは心で信じ、口で公に言い表したため、永遠に救われました。主が再来される時、わたしたちはきっと天の国の中に携え上げられることができます!」。兄弟姉妹たちはこの言葉を聞いた後、うれしくなり、また力を持つようになりました。この時、同労者山田さんは立ち上がって言いました。「わたしはそうとは限らないと思います。主イエスは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』(マタイ7:21)と言われました。これはわたしたちに、神の御心を行う者だけが天の国に入ることができるとはっきり教えています。今わたしたちは救われましたが、依然として昼間に罪を犯し、夜に罪を告白します。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではありません。わたしはわたしたちが天の国に入ることができないと思います!」。

 兄弟姉妹はさっき少しうれしくなったが、同労者山田さんの一言で彼らの顔から笑顔が消えました。わたしはみなさんを見回して少し考えた後、その言葉を引き取って言いました。「兄弟姉妹たち、パウロ兄弟はガラテヤの信徒への手紙第3章26節で『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです』と言いました。これは、わたしたちはイエスを信じることによって神の子となったことを証明します。わたしたちは神の子ですから、必ず神の国に入ることができます!」。

 同労者山田さんはわたしの言葉を引き取って話しました。「佐藤兄弟、わたしはあなたの言葉に賛成しません! ペテロの手紙一第1章16節で『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあります。へブライ人への手紙第12章14節で『聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません』と書いてあります。聖書のこの二箇所の言葉から、わたしたちは神のきよい性質をはっきり見られます。わたしたちは救われましたけれど、いつも罪を犯し、罪を告白し、まだきよくなっていません。このようなわたしたちは全然主に会う資格がありません。これではどうして天の国に入ることができるでしょうか」。

 この時、佐々木兄弟は立ち上がって、聖書を指しながら厳しく言いました。「兄弟姉妹、使徒パウロはローマの使徒への手紙第8章33節から34節でわたしにはっきり言いました。『だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう』と。わたしたちはもう神に選ばれた人になりました。わたしたちが以前犯した罪も、わたしたちが以後犯す罪も、主イエスに赦されました。主はもうわたしたちを罪人だと思いません。わたしたちはすでに義とされました。だから、わたしたちはきっと天の国に入ることができます。これは疑う余地のないことです! わたしは佐藤兄弟の観点に賛成します」。

 同労者山田さんは断固として言いました。「兄弟姉妹たち、聖書には、聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできないと書かれているし、主イエスも天の父の御心を行う人だけが天の国に入ることができると言われました。これは、わたしたちがきよくなってこそ神の国に入ることができることを証明します。わたしたちは主の言葉を守らなければなりません!」。

 すると、わたしは大声で言いました。「同労者のみなさん、救われるという問題については、パウロはこう言いました。『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です』(エフェ2:8)。『もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります』(ロマ11:6)。パウロの言葉はどんなにはっきりしているのだろう。主の救いは価なしにわたしたちに与えられました。彼は人の行いを問題にしません。もし彼が人の行いを問題にすれば、それは主の恵みだと言えるでしょうか。今日、わたしたちが主の恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます!」。

 佐々木兄弟は手を揚げて言いました。「佐藤兄弟の言うとおりです! パウロはまたテモテへの手紙二でこう言いました。『神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ』(二テサ1:9)。主イエスを信じるわたしたちは恵みに頼れば、救われ、天の国に入ることができます。行いによって救われることができる者はだれもいません!」。

 同労者山田さんは感情が少し高ぶって立ち上がって言いました。「兄弟姉妹たち、神を信じるわたしたちが天の国に入ることができるかどうかを決めるのは主イエスですか、それともパウロですか。主イエスの言葉に権威がありますか、それともパウロの言葉に権威がありますか。わたしたちは主イエスが真理、道、命であることを認めますか」。この言葉を聞いた後、みんなは互いに顔を見合せて、「もちろん認めます!」と言いました。

 同労者山田さんのこの言葉はわたしを悟らせました。「そうですね。わたしたちは神を信じる上で主の言葉を基準とすべきです。なぜわたしはいつもパウロの言葉に言及するのですか」とわたしは考えていました。ここまで考えた時、わたしは心を落ち着かせて、続けて山田兄弟の言葉を聞きました。

 同労者山田さんは続けて言いました。「わたしたちは主イエスが真理、道、命だと認めますが、でも今パウロの言葉は主イエスの言葉と矛盾し、対立しています。これは、パウロの言葉が混じり気のあるもの、人の意志によって出たものであって、真理ではないことを証明します。わたしは『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』という主イエスの言葉を信じます。これこそ、天の国に入るための唯一の基準です!」。

 この時、高橋兄弟も興奮して立ち上がって言いました。「わたしたちは神を信じる上で主イエスの言葉を基準とすべきです。なぜなら、主イエスだけが天の国の主であり、彼の言葉にこそ真理、権威があります。主イエスの言葉に権威があるということは、主イエスが決定権を持っているということです! パウロが天の国の主ではないから、彼の言葉に権威がなく、彼の言葉が有効ではありません! パウロはただの使徒であり、しかも腐敗した人です。彼自身も神の救いを必要としていました。人が天の国に入ることができるかどうかは、主イエスによって決められるのです。彼はほかの人が天の国に入ることができるかどうかを決める資格があるでしょうか」。

 皆さんがうなずいて賛成するのを見て、わたしは「山田兄弟、あなたの言うとおりです。わたしたちは主を信じる上で主イエスの言葉を基準とすべきです。しかし、わたしは救われることと天の国に入ることについてよく分かりません。この面についてあなたはどう考えていますか」と言いました。

 この時、同労者山田さんは落ち着いて言いました。「この面については、ここ数日わたしは聖書を繰り返して調べました。わたしはこの面についてこう思っています。救われるとは、律法の罪定めから解放されること、罪の赦しを得ることです。しかし救われる人は常に罪を犯し、神に逆らい、神に背き、まだきよくなっておらず、まだサタンの権威の下に生きています。天の国に入ることのできる人は天の父の御心を行い、神の言葉を実行する人、神を知り、神に従い、神に味方する人でなければなりません。だから、救われることと天の国に入ることは異なります。主イエスが言われたように、『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない』(マタ22:14)。これは、主を信じて救われる人が多いが、最終的に天の国に入る人が少ないことを証明します。これも神の義なる性質を明らかにしました」。

 この言葉を聞いて、高橋兄弟はこう言いました。「わたしは山田兄弟の観点に賛成します! 主イエスは『天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている』(マタ11:12)と言われました。主の言葉から分かるように、天の国に入るのには基準があるのです。それはわたしたちが想像しているように簡単ではありません。恵みに頼って救われるとしたら天の国に入ることができる、というのではありません。わたしたちは努めて主の道を行わなければなりません。それでこそ天の国に入ることができます」。

 彼らの言っていることはもっともですが、わたしの心の中にやはり疑問があります。そこで、わたしはこう聞きました。「天の国に入るのに、天の父の御心を行わなければなりません。これは間違いのないことです。だが、わたしたちはずっとパウロに倣ってすべてを捨てて主のために働くのではありませんか。多くの兄弟姉妹は自分の一生を主にささげ、一生娶ったり嫁いたりせず、主のために山々を越えて福音を宣べ伝えます。すべてのクリスチャンが天の国に入るために少なからぬ苦しみを受け、多くの代価を払ったと言ってもいい。これは天の父の御心を行うのではありませんか。わたしはわたしたちがずっとこのように実行すれば、きっと天の国に入ることができると信じています!」。

 同労者山田さんは手の中の聖書を下に置いて言いました。「兄弟姉妹たち、わたしたちはまじめに聖書を調べましょう。主イエスは、人がすべてを捨てて、主のために労苦し、働くなら天の国に入ることができると言ったことがありません! 主イエスはただ『わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである』と言われました。わたしはこう思います。本当に天の父の御心を行う人たちは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛する人です。彼らが働き、苦しみを受けるのは、自分の利益と前途のためではなく、完全に神を愛し、神の愛に報いるためです。彼らは何事にも神の願いを顧みることができ、どんなことがあっても罪を犯したり神に逆らったりしません。彼らが神を信じるのは、完全に罪悪を逃れ、自分をきよくするためです。このような、主のために働く人こそが天の国に入る資格があります!」。

 この時、沈思している高橋兄弟はこう言いました。「山田兄弟の言うとおりです! 聖書に『義を行う者は、御子と同じように、正しい人です』と書かれています。ここの『正しい人』は信仰によって義と『された』人ではなく、義を行う人、もはや罪を犯さない人を指します。わたしたちは今、すべてを捨てて主のために働きますが、やはりいつも罪を犯します。わたしたちは真の義人ではなく、神の国に入る資格がありません!」。

 わたしは異議があって反駁しました。「パウロはこう言ったのではなりませんか。『わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。……』(二テモ4:7-8)と。わたしたちが主のために福音を宣べ伝え、労苦し、働き、主の道を守るのは、天の父の御心を行うのではありませんか」。

 同労者山田さんは冷静に言いました。「佐藤兄弟、あなたの観点によれば、海と陸を行き巡って至る所で福音を宣べ伝え、多くの苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っているパリサイ人も天の父の御心を行ったのではありませんか。わたしたちが知っているように、パリサイ人は外側で神のために苦しみを受け、代価を払いましたが、神に逆らい、主イエスを十字架につけました。これで分かりますが、人が外側で苦しみを受け、代価を払い、外側のよい行為を持つことは、人が天の父の御心を行い、神を認識し、神に従うことの証明ではありません! 同様に、わたしたちは今日主のために働き、苦しみを受け、またいくらかの外側のよい行為を持っていますが、やはりいつも罪を犯し、神に逆らいます。だから、わたしたちは天の父の御心を行う人ではなく、天の国に入る資格がありません!」。

 これらの言葉を聞いた後、わたしは言うべき言葉がなくなりました。考えてみれば、わたしたちが罪の中に生きていることは事実であり、わたしたちが主のために費やす時、主と取引するという意図、観点、祝福を得ようという欲望があることも事実です。

 この話題について、皆さんはそれぞれ自分の見方と認識を積極的に話しました。集会がもうすぐ終わる時、わたしは皆さんに喜んで言いました。「兄弟姉妹たち、神に感謝します。今日の弁論会によって、わたしたちは救われることは天の国に入れることを意味しないと分かりました。しかも、このような弁論によって、恵みに頼れば救われることができるというわたしの間違った観点も是正されました。以上から分かるように、わたしたちが外側でどのように神を信じても、どのように主のために労苦し、働いても、わたしたちの中の罪が解決されず、わたしたちが本当に神の御心を行うことができないとすれば、わたしたちは神に良しとされることができず、神の国に入ることもできません。この点から、神がきよくて正しい神であるのを知ることができます。だから、わたしたちはいつも自分の観念と想像によって神を信じるわけにはいかず、神がわたしたちに要求する、天の国に入るための基準によって追い求めるべきです。そうしてこそ、神の心を満足させ、神の称賛を得ることができます」。これらの言葉を聞いて、兄弟姉妹たちはみなうなずいて賛成しました……。