PSW研究室

専門職大学院の教員をしてる精神保健福祉士のブログ

2016年師走にあたり:近況報告とご挨拶

2016年12月22日 15時24分27秒 | 日々の雑記

いよいよ年の暮れ、師走の季節、今年も結局、あちこち走り回っています。

もう、さすがに若くはないので、疲労も溜まり、移動中はしばしば爆睡していますが。

それでも、ようやく来週で仕事納めかと思うとホッとします。

先週からの1週間、あちこちでお世話になった皆さまに感謝申し上げます。

 

16日(金)は、名古屋市社会福祉協議会の社会福祉施設研修会にお邪魔しました。

精神障害をお持ちの方へのアセスメント面接について、講義と演習を5時間行いました。

受講生41人中18人の方に、面接ロールプレイを体験して頂きましたが、いかがだったでしょうか。

夜は東京に戻り、弘文堂の教科書の編集委員会の方々と懇談させて頂きました。

 

17日(土)は、午前中は個別スーパービジョン2件、午後は専門職大学院のゼミでした。

ゼミは13時半から19時まで、途中2回休憩は挟みましたが、院生の途中報告と質疑討論で3コマ。

それから清瀬の駅前に繰り出しましたが、忘年会シーズンのためか、どこも満席。

6軒目に入った「わらべ」で、美味しい刺身を頂きながら、将来の夢物語を語り合いました。

 

18日(日)は、午後に立川のアイムで、精神医療国家賠償請求訴訟研究会の月例会。

その後、18時半~21時まで同会主催による、今井康雄さん(日本女子大教授・東京大学名誉教授)の講演会。

『プロパガンダとメディアを読み解く』とのお堅いテーマでしたが、さすがに中身の濃いお話でした。

参加者は少ないでしたが、問題意識の明確な方々と45分の質疑が繰り広げられました。

 

19日(月)~20日(火)は、和歌山県の精神障害者地域移行推進研修会へ。

県の報告、ピアサポーターの鼎談、病棟看護の実践報告など、内容も盛りだくさんでした。

夜の懇親会では、初めて会う方々と酒を酌み交わしながら、取り組み課題を語り合いました。

二日目のフル職種演習や、圏域ごとの推進戦略検討演習は、とても勉強になり面白かったです。

 

21日(水)は、夜「第九交響曲」をやっている池袋の東京芸術劇場で、ミーティング。

東京医療社会福祉協会のグループスーパービジョン、都内の病院MSW8名が参加しました。

柏木昭さんの「グループA」を引き継がせて頂きましたが、毎回真剣な省察の場です。

現行診療報酬の制度の下で業務を行う、MSWたちの苦悩とジレンマが伝わってきます。

 

22日(木)、今日は一日、学務にいそしむために、清瀬の校舎にいます。

研究室でメール対応をしていると、結構じゃんじゃん電話がかかって来ます。

この後、三つ会議がありますが、何時に終わるのか、読めません。

これでも会議の短縮化をかなり意識してはいるのですが、なかなか上手くいきません。

 

23日(金)、明日の祝日は、専門職大学院の「福祉実践フォーラム2016」が行われます。

今回のテーマは、福祉人材育成の方法と戦略を考えようというものです。

どなたでも参加できますし、まだ定員に余裕もあるので、下記のご案内もご参照ください。

夜は、霞が関ビルの上で、例年通り専門職大学院の同窓会を行います。

 

24日(土)、明後日は文京校舎で、今年最後の専門職大学院の授業です。

「発達障がいの理解と支援」の2回目、朝9時~夕方4時半までの4コマ連続講義です。

午前中は、かつて病院で同僚だった精神科医、東大の渡辺慶一郎さんをお招きします。

午後は、東京都発達障害者支援センター長の山﨑順子さんをゲストにお招きしています。

 

まだ来週も仕事は続きますが、キリがないので、ここまでにしておきます。

今年も、本当に様々な人と出会い、色々な場面でお世話になりました。

皆さまにとって、来年が良いお年となりますように。

少し気が早いですが、年末のご挨拶とさせて頂きます。

 

※画像は、今年9月に文京校舎の2階にオープンした「多目的ラウンジ」。本文の内容とは関係ありません。

 

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2016 年度 日本社会事業大学専門職大学院福祉実践フォーラム

力量ある福祉人材として自らを磨き、新たな時代を拓くための方略

~それぞれの学びと成長を支える魅力ある職場、そして職能団体・大学の役割

 

日時 2016年12月23日(金・祝)13:30 ~ 16:40

会場 全国社会福祉協議会 灘尾ホール

定員 300 名

参加費 無料

プログラム

13:30

主催挨拶:潮谷義子(学校法人日本社会事業大学理事長)

13:35 ~

第Ⅰ部 基調講演 

大島巌(日本社会事業大学・学長)

『ソーシャルワーカーを育てるという使命』

14:35 ~

第Ⅱ部 シンポジウム 

発題者

宇梶和子氏(元家庭裁判所調査官、家庭児童相談員/ 社会福祉士)

田村綾子氏(聖学院大学教授/ 日本精神保健福祉士協会副会長)

野口百香氏(一般社団法人戸田中央医科グループ本部医療福祉部部長/ 日本医療社会福祉協会副会長)

指定討論者

宮島渡(専門職大学院特任教授/ 社会福祉法人恵仁福祉協会常務理事・アザレアンさなだ総合施設長)

司会・コーディネーター

古屋龍太(専門職大学院教授・研究科長)

16:20~

終了挨拶:渋谷篤男(社会福祉法人全国社会福祉協議会常務理事)

 

【問合せ】

日本社会事業大学専門職大学院

〒204-8555 東京都清瀬市竹丘3-1-30

大学院教務課 福祉実践フォーラム事務局

TEL:042-496-3105

WEB:http://www.jcsw.ac.jp

E-Mail:inkyoumu@jcsw.ac.jp

 

全国生活協同組合連合会・全国労働者共済生活協同組合連合会助成事業

 


信州安曇野のこと、むさしの会のこと

2016年03月27日 15時21分14秒 | 日々の雑記

ちょうど1か月前の、先月27日には誕生日を迎えました。

フェイスブックを通じて、多くの方々からお祝いのメッセージを頂戴しました。

暖かい応援のメッセージを、ありがとうございました。

本来であれば、お一人おひとりに返信のメッセージをお届けしなければならないのですが。

今は、本務の業務や数多の宿題も含めて、日々まるで余裕がありません。

もう1ヶ月過ぎてしまいましたが、日頃の非礼をお詫びするとともに、この場でひとことお礼を述べさせていただきます。

皆さま、本当にありがとうございました。

 

 

その誕生日の日は、安曇野のスイス村にいました。

長野県精神科病院協会の職員研修会でした。

午前中から各病院の演題報告をお聞きしていました。

午後のシンポジウムの後、最後の特別講演でお話をさせて頂きました。

講演の冒頭で「本日が誕生日」と自己紹介すると、皆さん笑顔で拍手をして下さいました。

130人の方の拍手で誕生日を迎えられるなど、なかなかない体験で恐縮ものです。

 

講演テーマは「精神科病院の未来を考える~地域移行支援から見えてきたもの」としました。

患者さんを「退院できない人」にさせているのは、精神科病院のスタッフであること。

精神科病院が、現在の病床を温存したままの未来など、今後あり得ないこと。

埋まらない空床がどんどん増えて、廃院にいたる精神科病院が増えていること。

空床を埋めるために患者を長期入院化させている病院は、今後自然淘汰されること。

各地で、病床縮小化と並行した、新しい精神科医療像の追求が行われていること。

今後はダウンサイジングを前提として、人員と資源を、地域に移行する必要があること。

多くの病院が経営に四苦八苦しているが、2018年にもっと大波が来ること。

診療報酬・障害報酬・介護報酬の同時改定で、医療・福祉・介護の方向が決まること。

各病院が、既存の枠組みに捉われず、新しい医療・福祉像をイメージする必要があること。

そのために、自病院の未来像を率直に語りあうプロジェクトを立ち上げる必要があること。

 

地域移行支援を通して、概ねそんなことを述べさせて頂きました。

招いて頂いた立場ですが、精神科病院の従事者向けにしては、少し辛口であったと思います。

それでも、会場の多職種の皆さんは、真剣に聞いてくださいました。

 

今回の機会を頂戴した、飯田病院の小宮山徳太郎副院長にお礼を申し上げます。

国立精神・神経センター病院のアルコール・薬物依存病棟で、ご一緒していました。

昨年7月に、飯田病院の精神科公開ゼミナールでお話をさせて頂きました。

この時のテーマは「精神科病院と地域移行・地域包括支援をつなぐもの」でした。

今年4月に、南信州渓流フォーラムin飯田にもお邪魔させて頂くことになっています。

今度のテーマは「統合失調症をもつ人の支援環境の未来像」となっています。

毎回、難しいお題を頂戴しますが、これまでのご縁を大切にしたいと思います。

篠田看護部長やPSWの皆さんにも、またお世話になりますが、よろしくお願い致します。

 

 

昨日26日は久しぶりに、古巣の病院に行ってきました。

小平市にある国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センターです。

この病院の家族会「むさしの会」例会で、お話しする機会を頂いたためです。

社大の博士後期課程に通う当事者、澤田優美子さんとご一緒でした。

題して「当事者が地域で豊かに生活していくために~精神保健・医療・福祉よもやま話~」。

一方的な講演ではつまらないので、二人で掛け合いトークのスタイルを取りました。

 

まずは、精神病床転換型居住系施設の話から、地域移行支援型ホームの話で滑り出し、

今度は地域の相談支援体制の話から、澤田さんがかかわる青梅や清瀬のピア活動の話へ、

さらに、澤田さんが構成員でもある「これからの精神保健医療福祉のあり方検討会」の話し、

その後、オープンダイアローグの話から、話題の「暴力リーフレット」問題に及び、

参加者も含めて、当事者側の暴力被害、強制入院制度をめぐる家族と当事者の葛藤の話し、

親なき後に向けた自立の試みや、単身在宅生活の工夫、病とのつきあい方まで。

精神医療については、当事者や家族は、制度・政策の中で苦渋の選択をしてしか生きられない現実や、

国の政策が抜本的に変わらない現実が語られ、精神医療国賠訴訟が提起されようとしていることまで、話が及びました。

予定を変更して、途中の休憩を含めると、結局3時間半のやりとりになりました。

 

参加者は約70名ほどでしたが、今回は当事者の方も10名近くいらしたでしょうか。

懐かしい家族会の方々や、かつて関わらせて頂いたご家族と再会することができました。

アルコール病棟で入院されていた方たち3人も、わざわざ駆けつけて下さいました。

「もう断酒して25年になりますよ」とお聞きして、時の流れを感じました。

当事者の方の涙まじりの訴えや、ご家族の置かれた厳しい状況の質問などもありました。

講師が答えるというより、会場の皆さんが真剣に聞き入り、受け止めて応じて下さいました。

この包容力、支え合い、体験の伝えあいが、やはり家族会の原点だなと思い知らされました。

 

最後には、この「むさしの会」創立の陰の立役者とのことで、花束まで頂戴しました。

一昨年の『15年誌』にも書かせて頂きましたが、立ち上げまでには紆余曲折ありました。

病院PSWとして、ご家族の方々と話し合いながら、少しずつ準備を進めました。

時として、PSWはご家族と病院職員の板挟みになることもしばしばありました。

病院トップであった、高橋清久院長(その後、総長)に助けて頂いたことも多々ありました。

1998年11月の「第1回家族の集い」を開き、翌年5月に総会を開いて以降、毎月開催されています。

今回の準備・企画・進行の様子を拝見して、この自助組織の新陳代謝と成長を実感しました。

島本さん、本城さん、住本さんと会長が引き継がれる中で、新しい役員の方々の力量を感じます。

住本会長ほか役員の皆さん、連絡調整の労をお取り頂いた原さん、ありがとうございました。

用意したパワポは結局3分の1しか話せませんでしたが、それだけ充実した時間でした。

18年目に入ったこの「むさしの会」が、更に継続して発展することを心より祈ります。

 

 

毎年のことですが、2月以降、スギ花粉症に苦しめられています。

特にこの3月は、目は痛痒く、くしゃみは止まらず、鼻水は流れ、辛い日々でした。

目を開いているのも辛いし、薬のせいもあり頭が働かず、色々な仕事が滞ってしまいました。

もともとそんなに性能のよくない自身のCPUですが、実感としては、30~40%くらいしか稼働していない感じです。

 

まだ、年度内に仕上げなければならない報告書作成等の仕事も残ってはいるのですが。

それでも、ほんの少しだけ、息継ぎができるようになってきました。

あと5日ほどで新年度も始まりますので、またバタバタの日々が予想されます。

今度はいつ記事を更新できるかわかりませんが、皆さん、どうぞお元気で。

 

 

※画像は、国立精神・神経医療研究センターの桜。


あの日から5年

2016年03月11日 13時24分04秒 | 日々の雑記

あの日から、5年が経ちました。

 

2011年3月11日、午後2時46分。

大学の研究室で仕事をしていたら、書棚がギシギシと揺れ、本が降ってきました。

かつて体験したことのない揺れに、ただごとではないことは分かりました。

廊下や中庭では、女子学生たちが座り込み、悲鳴を上げていました。

 

少しずつ、各地の映像がネットやテレビで目に飛び込んできました。

不気味に押し寄せる波に、街が呑み込まれていく風景を見ました。

波間に浮かぶ小さな箱が、逃げる人が乗っている車だと理解した時、愕然としました。

すべて現実に起きていることだとは、にわかには信じられませんでした。

 

東京では公共交通機関が止まって、家に帰れなくなったくらいでしたが。

夜中、渋滞が続く国道をとぼとぼ歩きながら、どこまでも続く赤いテールランプにくらくらしました。

翌日の卒業旅行は中止、院生たちと歩いている時に、福島第一原発の第一報が入りました。

とんでもないことが、この国で起きてしまったと実感しました。

 

2011年3月11日。

 

あの日から約1か月後、このブログは炎上しました。

「心理カウンセラーお断り」の記事を掲載したことで、多くの批判を浴びました。

今から考えれば、誰もが言葉を呑み込み、ナーバスになっていたのだと思います。

ディスカッションというよりは、ネガティブでアグレッシブな他罰的な言葉が、ネットを席捲しました。

 

あの日からの2ヵ月で、大きく自分の人生も変わりました。

24年間の結婚生活にピリオドを打ち、離婚をし、家庭を失いました。

住み慣れた土地を離れ、新しい住まいで、時の流れに身を委ねていました。

痩せて表情の乏しくなった自分を、身近な同僚の教員たちが心配してくれました。

 

あの日からの半年は、今から考えれば相当抑うつ的であったのは確かです。

6月の学会や、7月の国際会議開催もありましたから、忙しく立ち働いてはいましたが。

仕事の宿題が溜まっていても、頭がまとまらず、原稿が書けませんでした。

新年度に入ってから教科書が出版されるという、前代未聞の事態も招いてしまいました。

 

あの日から1年半後、自分を奮い立たせ、一念発起して博士論文を書き始めました。

大学院に通っての課程博士ではなく、一発審査の論文博士にチャレンジすることにしました。

何も自分は書き記していない、何も残せていないという感覚が、背中を押しました。

生き残った者として、何か今、書かなければ、死者たちに申し訳ないと思いました。

 

あの日から3年後、何回も書き直した論文を認めて頂き、博士号を取得しました。

その後1年かけて、さらに論文を再構成して、昨年ようやく2冊の本を出すことができました。

とても時間がかかりましたが、自身にとっては死者への贖罪と感謝の日々でありました。

そして今年は、多くの仲間たちと「精神医療国賠訴訟」を提起しようとしています。

 

2011年3月11日。

あの日から、5年が経ちました。

 

宮戸島への訪問を皮切りに、翌年から始まった、専門職大学院のフクシマ・バスツアー。

多くの方のご協力を頂いて、今年も現地の方との交流は続けて行きたいと思います。

もうすぐ卒業の、あるいは入学してくる専門職大学院生とともに、また8月に行きます。

今もフクシマで生活する人々と一緒に、この5年間の意味を考えてみたいと思います。

 

あの日、「最低の政府、最高の国民」と言われた、この国で。

あの日、原発はもうゴメンだと多くの人が思った、この国で。

あの日、国土の半分が人が住めなくなるところだった、この国で。

自分が生きている間に何ができるのか、語られなかった死者の想いに、考えを巡らせてみたいと思います。

 

あの日から、5年が経ちました。

まもなく、午後2時46分ですね。

死者に頭を垂れましょう。

合掌

 

※画像は、未だ帰宅困難地域となっている浪江町の請戸小学校の校舎にて。

他の校舎の時計は、津波到達時刻と思われる15時38分で止まっていました。


大晦日の京都にて…

2012年12月31日 18時58分50秒 | 日々の雑記

 

大晦日ですね。
いよいよ2012年も、余すところわずか。
皆さんの今年は、どんな年だったでしょう?

僕の2012年は、やたら忙しくなった年でした。
ひたすら走り続けた1年だったと言って良いと思います。
限られた24時間の中で、自身のタイムマネジメントが問われた年でした。

締め切りが守れないのは、今に始まったことではないのですが。
今年は、なかなか一人でパソコンに向かう時間が取れなくて。
あちこちの締め切りを破り、たくさんの人にご迷惑をおかけしました。

いろいろ役割が増えてしまったのが、やはり辛いところです。
学内でも、学外でも、会議が増えてしまって、スケジュール調整が大変です。
あっちこっちへの移動だけでも、なんか疲れてしまいます。

それでも僕は、昨年よりは、はるかに元気です。
今年は、自分なりの希望や目標がハッキリあるからでしょう。
昨年2011年は、身も心も本当にボロボロの年でしたけど。

今、京都の実家に来ています。
持参したノートパソコンで、ただただ一日中原稿を書いています。
老いた母とふたり、ゆっくり新しい年を迎えたいと思います。

どうぞ、良いお年を…とご挨拶したいところですが。
残念ながら、訃報が飛び込んで来ました。
谷中輝雄さんが亡くなられたようです。

病院PSWを辞めて、やどかりの里を立ち上げ、社会復帰施設のモデルを創りました。
日本PSW協会の理事長や、全国精神障害者社会復帰施設協会の会長も歴任されました。
大学で教鞭を執りながら、精神保健福祉士養成校協会の会長もお務めでした。

そのご経歴と軌跡から、アクティブでエネルギッシュな印象が、どうしても強い方ですが。
熱いハートを秘めながら、とても静かに、穏やかな笑みを浮かべて話す方でした。
精神障害を有する方の「ごく当たり前の生活」を、ずっと追求していた方でした。

何も無かった時代のこの国で、茨の道を切り拓いてきた、偉大なPSWのひとりです。
巨星墜つ…、思わずそんな言葉が脳裏をよぎります。
生前のご厚誼とご指導に感謝しつつ…、合掌。
 


広田伊蘇夫さんの一周忌

2012年09月18日 23時13分58秒 | 日々の雑記

今日は9月18日、広田伊蘇夫さんの命日です。
もう1周忌というのが、信じがたいですが…。
昨年の2月には「喜寿の会」を新宿で行ったばかりだったのに…。

こう記しても、広田さんの名前を知っている人は少ないでしょう。
精神科医として、決してメジャーな存在ではありませんでしたし。
精神保健福祉の教科書に、名前が出てくるような存在でもありませんし。

むしろ、一昔前の精神病院の院長たちには、煙たがられた存在と言えます。
その主著のタイトルの通り「精神医療と人権」を語る精神科医でしたから。
「改革派」「人権派」の代表的論客として、この国の精神病院を批判し続けた人です。

この人がいなければ、日本の精神科医療はもっと遅れていたかも知れません。
1984年の報徳会宇都宮病院事件を契機とした、精神衛生法改正=精神保健法成立は、
この人の活躍がなければ、実は成し遂げられていなかったと言えるでしょう。

精神保健医療福祉を変えていくのは、「おかしい…」という現実への素朴な疑問です。
広田さんは、生涯一臨床医として、市井の精神科医として行動し続けました。
純朴に社会正義を追い求め、自らの信念に沿って地道な運動を持続した人です。

制度の改正は、時の流れとともに自然に変わっていくものではありません。
法律が大きく変わる時には、必ずその影に使命感をもって取り組んできた人がいます。
歴史は、その時代の人々の意識的な行動により、初めて築かれていくものです。

広田さんには「勝手にネットに追悼文なんか書くんじゃないよ」と怒られそうですが。
こういうアクションを起こした実践家がいた、ということは記しておきたいと思います。
彼の世代が成し遂げられなかった変革は、現在のPSWが引き継ぐべき使命と言えるでしょう。


※画像は「広田伊蘇夫先生の喜寿を祝う会」(2011年2月5日)で挨拶する広田さん。


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広田さんの言葉
~追悼・廣田伊蘇夫元理事長~

古屋龍太
(日本社会事業大学大学院、准教授)

2011年9月18日、広田伊蘇夫さんが亡くなりました。
享年78歳、悪性リンパ腫でした。

私が広田伊蘇夫さんと出会ったのは、約30年前の「病院精神医学会」山梨総会(1981年)ででした。
その後「病院・地域精神医学会」になり、「日本病院・地域精神医学会」に変わり、随分メジャーな学会になりましたが、日本で一番ラディカルな医学会を牽引する小柄な理事長でした。
たまたま、その後1984年、学会事務局が国立武蔵療養所(当時)に移り、広田さんが監事に退き、その後を継いで樋田精一さんが理事長になり、私が学会の事務局の仕事をするようになって以降、約20年間にわたって会合で同席させて頂くようになりました。

したがって、私が知る広田さんの姿は、ごくごく限られたものです。
学生時代からずっと行動を共にしてきた精神科医の方々に比べると、広田さんのほんの一面しか知らないと思います。
そんな自分が追悼文を記すなど、恐れ多い感じはしますし、広田さんからは「お前が追悼文書いてくれるのかよ?」と笑われてしまいそうですが。
たぶん精神医療改革を共に闘ってきた同じ世代の精神科医や弁護士の方々が、それぞれ追悼文を書いて下さるでしょうから、私は私の世代の目から見た広田さんを記しておきたいと思います。



広田さんたちは、1974年に「刑法改「正」保安処分に反対する百人委員会」を結成し、これを母体に1980年には「保安処分に反対する精神医療従事者協議会」を発足させました。
この協議会は、その後の「精神保健従事者団体懇談会」(精従懇:22団体で構成)に発展し、現在も引き継がれています。
精神保健医療福祉にかかわる従事者たちの横断的な連合体をまず組織し、隔月開催のこの協議会の中心的な存在として、幅広い関係学会・協会とのコンセンサス作りと共同戦線形成を図っていきました。

1984年、報徳会宇都宮病院事件が起きた時、病院精神医学会理事長であった広田さんは八面六臂の活動を展開しました。
やはりこの国の精神医療の実態が明らかになった歴史的事件であり、入院患者たちの救済と、当時の精神衛生法の抜本的改正をなしとげなければならないという使命感が、広田さんを強く突き動かしていたのだと思います。
そして、宇都宮病院が存在し得たということは、自分たちの医療改革実践が不十分であったことと同じ地続きの問題なのだという自責の念から、広田さんは憤りながらも、時に空しい虚無感に襲われたようです(「病院の治療・看護の再点検」1985年)。

広田さんは精神医療関係5団体による宇都宮病院調査団を組み、声明を発しました。
事件報道は入院患者2名に対するリンチ死亡事件でしたが、この病院では入院患者に対する暴力的支配が日常化しており、看護室や保護室で鉄パイプ・金属バット等によるリンチが横行していたこと、3年間に222名の患者が亡くなっていたこと、入院患者が作業療法という名のもと病院の業務や親族経営の企業で使役されていたこと、医師派遣の見返りとして東京大学に死亡患者の脳が提供されていたこと等の実態が次々と明らかになりました。

広田さんは国内の運動を組むだけでなく、国際世論に訴えました。
国内法の改正に向けて、外圧を有効に利用した戦略でした。
自由人権協会の弁護士らとともに、国際人権連盟に同問題を訴えました。
国連の人権委員会「少数者の差別防止並びに保護に関する小委員会」に提訴されました。
同委員会に出席するために、仕事の合間を縫って、手弁当で毎週ジュネーブと往復する傍ら、『精神医療と人権』3巻を上梓しました。

ジュネーブで日本政府代表は、とんでもない答弁を繰り広げました。
「政府としても遺憾、きわめて例外的な事件」
「日本の強制入院患者は12%、あとは同意入院」
「法律は適正であり、改正する必要はない」と。
ここで言われた「強制入院」は、自傷他害のおそれがあるとされた方の措置入院のことです。
当時の「同意入院」は、今の医療保護入院です。
決して、患者本人のボランタリーな意思によるものではありません。
とても姑息な言い逃れですが、霞が関の官僚たちはごまかせると思ったのでしょう。
広田さんたちの働きかけにより、国際人権連盟会長から当時の中曽根内閣総理大臣閣下宛に要請書簡(抗議文)が届き、政府代表は前言を撤回せざるを得なくなりました。

広田さんたちは海外の法律家とも連携し、国際法律家委員会(ICJ)訪日に合わせ、国際医療従事者委員会(ICHP)を創設しました。
1985年合同調査団の調査内容は「結論及び勧告」として、日本政府に示されました。
広田さんは、厚生省の小林秀資課長(当時)に、精神衛生法改正を強く迫りました。
結局、国連人権委員会に出席した同課長は、法改正について意見表明せざるを得なくなりました。

1987年、精神衛生法が改正され「精神保健法」が制定されました。
患者本人の意思による「任意入院」が、この時初めて日本にできました。
患者自身が、自分自身の意思で、精神科病院を利用する。
その門戸を開いたのが、広田さんの一番大きな功績であったと、私は思っています。
広田さん自身は「自由入院」という言葉で法律化できなかったのを悔しがっていましたが。
「不十分な点はたくさんある。しかし、ひとつ風穴が開いた」。
広田さんが、法改正後の学会で語っていた言葉です。



静かな人でした。
とても静かで、熱い情熱を秘めた人でした。
じっと他者の言葉を聴き、余計なことは言わない人でした。
そのかわり、ズバッと一刀両断の、辛辣なひと言を語る人でした。
いくつも、広田さんが遺した言葉が思い返されます。
その場にいる人の背筋を、しゃんと伸ばさせる、短いひとことでした。

学会の理事会では、居並ぶ精神科医や専門職種などのディスカッションを聴いたうえで、ひとこと告げました。
「スローガンだけじゃダメだ。スローガンだけじゃ何も変わらないよ」
「仮にも学会なんだ。運動をするにも、データを示さなきゃダメだ」
「事実を示さなきゃダメだ。常に事実に基づいて語らなきゃダメだ」
「本当のことを言わなきゃダメだ。この学会を再建した意味がない」
「千人超えたら、もう学会じゃないよ。単なるお祭りだ」
「学芸会じゃあるまいし、良いことしましたって発表だけで、何になる?」。

そして、会議のあとの帰り道、居酒屋などで同志や若手の仲間たちの議論を聞いていました。
説教はしませんでした。
いつもひとこと、告げました。
時に、含羞の笑みを浮かべながら。
時に、人を射抜くような鋭い眼差しで、相手を見つめながら。
「専門職を名乗る以上、学問をしろよ」
「学問はコツコツと、真面目に取り組んでやるもんだよ」
「僕は勉強した。本当に勉強した」
「自分にできる限りのことはやってきた。精一杯診療もしてきた」
「運動もした。書いた。書くべきものは、書いた。もういいよ」。

晩年は、季刊誌「精神医療」の編集委員会で同席させていただきました。
広田さんの絶筆は、私が知る限りでは、同志たちへの追悼文でした。
「島(成郎)が逝き、藤沢(敏雄)や生村(吾郎)が逝き、浜田(晋)も逝った」
「もうイヤだよ、追悼文を書くのは。長生きしてても、みんな先に逝っちまう」
「医者として、やるべきことはやったよ。もう、いいんだ、俺は…」

振り返ると「もう、いい」という言葉が、やたら多い晩年でした。
そして追悼文は、みんな「いずれまた」「またお会いしましょう」という言葉で締めくくられていました。



2011年2月に「喜寿の祝い」を新宿で開き、全国から仲間が集まりました。
お祝いの励ましの言葉を受けて、広田さんは挨拶で精神科医療の現状と今後について語りました。
「精神医療改革は、まだまだ不十分」「取り組まなければならないことは、たくさんある」と語りながらも、「書くべきことは、もう書いた」と広田さんは言っていました。

広田さんの学問的業績の集大成といえるものが『立法百年史ー精神保健・医療・福祉関連法規の立法史』でしょう。
情緒的文言を排して史料の事実のみを記し、精神病者監護法前史から日本の100年を説き起こす400頁を超える大著です。
この本について取り上げると書評になってしまいますし、広田さんの生涯一臨床医としての姿勢は、初期の著作に表れていると思うので、言葉をいくつか拾い出してみたいと思います。

「今、明白なことといえば、自らの精神医療が恥と失敗の繰り返しであったし、今後もそうなるであろうとの実感だけである。
このことを認め、自覚すればするだけ、記したり、話したりすることが白々しいものとなってゆく」
(「日常性へのいくつかの疑問」1974年)。

「病者が自らの誇りや野心をもって、自らの生活を社会に根づかせた時にはじめて、社会復帰は真の意味を獲得し得るものであろう。
とするならば、病者の自尊心や野心を切り刻む病院内部の、そしてなによりも医療者内部の権威構造は、病者の社会復帰への道を傷つけはしても、それを拡大するものとはなり得ない。
このことがわれわれの内部で自覚されてゆかない限り、真の意味での社会復帰医療は、はるかかなたの幻想として存在せざるを得ない」
(「内なる阻害ー社会復帰の前提」1974年)。

「病院治療で何が問われなければならないかといえば、まず、病者は自立し得ず、自らをコントロールし得ないものとの立場を離れ、[理解]ではなく、ラパイユの意味での[愛の関係]にどこまでたち至り得るのかがあり、次に、何が施設のもつ有害な、致命的な政策なり哲学であるかの検討があり、さらに病者を救い難い、無力の犠牲者とみるのではなく、自らの行為に対し責任もあれば、理由づけもできる者としてみる立場に、我々がどこまで立ち得るのかという問題につきるといえよう」
「それは分裂病の病的プロセス論の賛否の問題ではなく、病者の自己決定なり責任を、個々の症例について検討し、それをどう保証してゆくかという問題といってよい」
(「治療者と病者の関係」1975年)

G.トーネイやD.H.クラークらの言説を取り上げながら
「スタッフといえども、ひとりの人間として、合理と不合理を共々もち合わせ、誤りやすい存在であり、それが病者に影響を与えるものであるとの経験的認識があり、この認識の上に、人間集団としての精神医療を展開するのが、精神病院における実践の方向である」
「そこには、道徳療法の根底で、この運動を支えたロックの思想をうかがうことができる。
このようにみる時、精神医療におけるわれわれの治療的実践は、決してドラマチックなものでもないし、それを期待するべきものではない。
それは[われわれもまた誤謬を犯す]との控え目で、つつましやかな認識の上での実践である」
(「精神医療の歩み」1977年)

「コンビニだって、今や24時間やってるんだから、あちこちに診療機関があれば便利ですよ。
ところがコンビニにも負けているわけです。
惨憺たるものですよね、比較すると。
これは資本と福祉の対決点であると私は見ています」
「保健所が人間を相手にしないで、事務屋さんになってしまった。
ただ、勤務している人は優しいですし、ケースによっては懸命に援助して下さいますけれどもね」
「マニュアル通りにやっているだけ。
何か出さないと何もしない。
治療の根本が、変わってきましたね。
人間的ではない。
人間はそんなに簡単でも単純でもない。
マニュアル通りに動く患者がいたら、大変だと思うよ」
(「座談会:病・地学会50年の回顧と展望」2009年)



9月22日の夜。
世田谷キリスト教会での前夜式には、多くの精神医療関係者が集まりました。
学生時代からずっと行動を共にしてきた、精神科医の森山公夫さんが故人を偲び、その活動を称えました。
その思い出を記した追悼文は、広田さんが長年編集委員を務めていた「精神医療」誌の最新号(65号)に掲載されています。

当然のことですが、精神科医師である広田さんというのは、ごく一面だったんだなと葬儀で実感しました。
お顔もそっくりなご兄弟や親族の方に囲まれていた、富山県での少年時代や、社会の矛盾に目を見開いた多感な思春期。
私たち精神保健福祉領域の者もほとんど知らなかった、社会福祉法人興望館の運営する児童養護施設での活動や、子どものいなかった広田さんの子どもたちとのかかわり。
そして、入院療養中の広田さんに告げられた、奥様が突然自宅で逝去された事実…。
「もう、いい…」。
広田さんの晩年の口癖が思い出されました。

今は天国で、含羞に満ちた少年のような笑顔を浮かべて、奥様と過ごしているのでしょうか?
他者を正面から見つめる鋭い眼差しで、先に逝った同志たちと再会し、酒を酌み交わしながら議論しているのでしょうか?

「時代を、状況を変えたいなら、ちゃんと勉強しろよ。学問しろよ」。
…今も広田さんの声が聞こえてきそうです。



廣田 伊蘇夫 先生 (ひろた・いそお、1934年~2011年)

【略歴】
1933年 富山県魚津市に生まれる
1961年 東京大学医学部卒
都立松沢病院、三枚橋病院を経て、同愛記念病院に勤務
日本病院・地域精神医学会:理事長(1979年~1988年)、監事
国連非政府機関(NGO)国際医療職専門委員会:元日本代表
精神衛生従事者団体懇談会:元代表世話人
イギリス王立精神医学会選出会員
批評社刊:季刊誌「精神医療」編集委員
社会福祉法人興望館(児童養護施設)理事など

【著書】
浜田 晋・広田伊蘇夫・松下正明・二宮冨美江 編:『精神医学と看護―症例を通して』,日本看護協会出版会,1973年 
広田伊蘇夫:『精神病院~その思想と実践』岩崎学術出版社、1981年5月
戸塚悦朗・広田伊蘇夫編:『日本収容所列島~精神医療と人権Ⅰ』亜紀書房、1984年11月
戸塚悦朗・広田伊蘇夫編:『人権後進国日本~精神医療と人権II』亜紀書房,1985年6月
戸塚悦朗・広田伊蘇夫編:『人間性回復への道~精神医療と人権III』,亜紀書房,1985年12月
広田伊蘇夫・暉峻淑子編:『調査と人権』,現代書館,1987年5月
広田伊蘇夫:『断想・精神医療』,悠久書房,1987年10月
広田伊蘇夫:『精神分裂病~慢性状態からの考察』医学書院、1987年4月
浜田 晋・竹中星郎・広田伊蘇夫 編:『ナースのための精神医学――症状のとらえ方・かかわり方』,日本看護協会出版会,1997年9月
広田伊蘇夫:『立法百年史~精神保健・医療・福祉関連法規の立法史 増補改訂版』, 批評社, 2004年7月初版

【翻訳】
トーマス S.サズ 著 石井毅,広田伊蘇夫 訳『狂気の思想 : 人間性を剥奪する精神医学』新泉社、1975年
テモシー・W. ハーディング著, 広田伊蘇夫訳:日本の精神衛生法の諸特徴 比較研究(精神衛生法改正国際フォーラム).法学セミナー増刊、37;256-265、1987年
広田伊蘇夫,永野貫太郎 監訳『精神障害患者の人権 : 国際法律家委員会レポート』 明石書店、1996年8月

【論文・報告】
広田伊蘇夫:睡眠段階と閃光刺激への反応.臨床脳波、9(2);115-123、1967年3月
広田伊蘇夫:措置入院制度――その反医療性.精神医療(第1次)4:19-23、1970年
Uno,M., Yoshida,M. & Hirota,I.:The mode of cerebellothalamic relay transmission inuvestigated with intracellular recording from cells of the ventrolateral nucleus of cat's thalamus.Exp.Brain Res.10;121-139.1970年
広田伊蘇夫:もちあじ論への疑問~園田よし氏(あけぼの会)との関連から.精神医療(第2次)、2(3);87-90、1971年11月
広田伊蘇夫:陳旧性分裂病でみる分化像 慢性病棟での覚え書き-1-.精神医学、14(3);207-217、1972年3月
広田伊蘇夫:陳旧性分裂病でみる分化像 慢性病棟での覚え書き-2-.精神医学、14(4);349-356、1972年4月
広田伊蘇夫:陳旧性分裂病でみる分化像 慢性病棟での覚え書き-3-.精神医学、14(5);457-465、1972年5月
広田伊蘇夫:精神分裂病でみる機能的類型とその予後 方法論的試み-1-.精神医学、14(6);557-566、1972年6月
広田伊蘇夫:精神分裂病でみる機能的類型とその予後 方法論的試み-2-.精神医学、14(7);661-667、1972年7月
広田伊蘇夫:精神衛生法をめぐる諸問題.病院精神医学、33、1972年
広田伊蘇夫:保安処分新設決定と今後の方向.病院精神医学、35、1973年
広田伊蘇夫:精神衛生実態調査をふりかえる.病院精神医学、36、1973年
広田伊蘇夫:Rehabilitationの可能性 精神病院の中から.精神医学、16(3);232-245、1974年3月
広田伊蘇夫:治療における不安と熱意.精神医療、3(2);79-82、1974年1月
広田伊蘇夫:わが内なる阻害ー社会復帰の前提.精神医療、3(2);83-86、1974年1月
広田伊蘇夫:社会復帰援助の経験から.心と社会、5(2・3)、1974年
広田伊蘇夫:精神病院で考えたこと~日常性へのいくつかの疑問.精神医療、4(1);32-38、1974年9月
広田伊蘇夫:「作業療法」をめぐる精神衛生法小委員会結論 (第72回日本精神神経学会総会特集-1-) .精神神経学雑誌、77(11);809-812、1975年11月
広田伊蘇夫:精神病院で考えたこと(その2)~治療者と病者の関係から.精神医療、4(3);54-59、1975年5月
広田伊蘇夫:書評Thomas S. Szasz の立場.精神医療、4(3);73-75、1975年5月
広田伊蘇夫:精神病院で考えたこと〔Ⅲ〕~離島での経験と社会学者の目から.精神医療、4(4);63-69、1975年9月
広田伊蘇夫:非行者と病院医療.精神医療、5(1)、1976年
広田伊蘇夫:精神医療の歩み.5(3・4)、1977年
広田伊蘇夫:東京都における緊急措置入院制度をめぐり.病院精神医学、48、1977年
広田伊蘇夫:社会適応施設案へのコメント~精神衛生課長との面会を通して.病院精神医学、52、1978年
広田伊蘇夫:オープン・ポリシーということ.「レモンブックスⅢ」、やどかり出版、1979年
広田伊蘇夫・石川信義:精神病院と地域精神医療.社会精神医学、3;231-237、1980年
広田伊蘇夫:原点から現状を考える (精神医療・医学の今日的課題<第76回日本精神神経学会総会特集-2->) .精神神経学雑誌、82(10);599-606,1980年10月
広田伊蘇夫:松沢病院の戦後の医療実態 (日本精神医学と松沢病院<特集>).精神医学、22(10);1089-1096、1980年10月
広田伊蘇夫:ワイアット裁判以後.精神医療、34;86-89、1980年
広田伊蘇夫:精神医療の抜本的改善について(要綱案)に関する要望書、1981年
広田伊蘇夫:事業報告及び事業計画・資料日弁連・単位弁護士会宛要望書.病院精神医学、65、1981年
広田伊蘇夫:精神病院の社会復帰活動を考える 秋元波留夫氏の感想に寄せて.病院、42(1);76-78、1983年1月
広田伊蘇夫:【精神衛生法と患者の人権】国連人権委員会の報告から.精神医療(第3次)、47;143-148、1983年6月
広田伊蘇夫:精神医療の現実に目をそむける推進派--「保案処分」めぐる賛否.朝日ジャーナル、26(12);92-95、1984年3月
広田伊蘇夫:【宇都宮病院問題緊急特集号】精神病院の密室性を打破するために.精神医療、51;71-75、1984年5月
広田伊蘇夫:患者の人権を重視した医療・看護体制.看護、36(10);21-26、1984年9月
広田伊蘇夫:宇都宮病院問題に対する本学会の対応経過について.病院・地域精神医学、75;87-88、1984年9月
広田伊蘇夫:病院の治療・看護の再点検、東北精神医療、14、1985年
広田伊蘇夫:視点:1984年3月14日.精神科看護、20、1985年
広田伊蘇夫:精神衛生行政の実態.精神医療、14(1)、1985年
広田伊蘇夫:事業報告・事業計画・参考資料宇都宮病院関係.病院地域精神医学、78;15-32、1985年3月
広田伊蘇夫:精神衛生行政を考える.精神医療、54;34-46、1985年4月
広田伊蘇夫:精神医療への若干のコメント 宇都宮病院問題を通して(会議録).精神神経学雑誌、87(11);818-822、1985年11月
広田伊蘇夫:治療者に求められているもの.精労協ニュース、56、1986年
広田伊蘇夫:精神障害者処遇の歴史と記者の目--精神衛生法改正を機に.新聞研究、436;47-51、1987年11月
広田伊蘇夫:精神保健法への若干のコメント.CORE、4(3);193-196、1989年3月
広田伊蘇夫:1964年法改正運動・医局連合.精神医療(第3次)、70;52-60、1989年5月
広田伊蘇夫:90年代の精神病院を展望する ヨーロッパ諸国の動きのなかから.日本精神病院協会雑誌、9(5);411-415、1990年5月
広田伊蘇夫:私と精神医療.病院・地域精神医学、97;11-27、1990年8月
広田伊蘇夫:[せん妄状態]ということ.同愛医学雑誌、16;42-51、1990年12月
広田伊蘇夫:【精神医療改革運動20年】回顧と期待.精神医療(第3次)76;42-43、1991年5月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(1) いま,なぜ総合病院か.病院、50(4);338-339、1991年4月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(5)リエゾン精神医学とは.病院、50(8);698-699、1991年8月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(6)総合病院精神科の患者動態.病院、50(9);788-789、1991年9月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(8)変わりゆく精神分裂病像.病院、50(11);970-971、1991年11月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(9)老人医療にかかわってみて.病院、50(13);1094-1095、1991年12月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(10)老人痴呆その見立ての歴史.病院、51(1);68-69、1992年1月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(12)精神科治療の動態と望むこと.病院、51(3);246-247、1992年3月
広田伊蘇夫:精神科医療 総合病院の窓から(14)精神科治療における“精神の覚醒”.病院、51(5);436-437、1992年5月
広田伊蘇夫:精神保健法の見直しに期待する 国連原則と精神保健の改善.作業療法ジャーナル.26(7);472-476、1992年7月
広田伊蘇夫:遠き道程~精神障害者と人権保護.精神医療(第4次)、1;8-15、1992年8月
広田伊蘇夫:Alpha-Interferonの副作用 精神症状への考察.同愛医学雑誌、17;37-41、1992年12月
広田伊蘇夫:精神医療における倫理的ジレンマ 若干の考察.精神医学、35(8);891-894、1993年8月
広田伊蘇夫:精神分裂病の慢性化とは(会議録).薬物・精神・行動、、13(6);338、1993年12月
広田伊蘇夫:慢性精神分裂病の病態生理をめぐって.同愛医学雑誌、18;55-59、1994年12月
広田伊蘇夫:Common Diseases 200の治療戦略 せん妄.Mndicina、32(12);554-555、1995年11月
広田伊蘇夫:旧き分裂病者からの便りによせて.精神医療(第4次)、8/9;68-78、1996年8月
広田伊蘇夫:宇都宮病院入院者の損害賠償請求訴訟の経過.精神医療(第4次)11;62-65、1997年5月
大友 守 , 黨 康夫 , 小川 忠平 , 荒井 康男 , 佐野 靖之 , 広田 伊蘇夫 , 伊藤 幸治:蘇生後の喘息患者にみられたLance-Adams症候群の一例、アレルギー、47(2・3);302、1998年3月
広田伊蘇夫:高齢者の権利擁護--介護保険と成年後見.精神医療、16;49-60、1999年4月
広田伊蘇夫:【改正精神保健福祉法施行】精神医療と法.精神科看護、27(5);8-12、2000年4月
広田伊蘇夫:序説.『追悼 島成郎~地域精神医療の深淵へ』,批評社,精神医療別冊,2001年
広田伊蘇夫:高齢者のメンタルヘルス (総特集 メンタルヘルス・クライシス).精神医療、27;90-97、2002年
広田伊蘇夫:立法史からみた精神保健福祉施策に関する私見(会議録).精神神経学雑誌、2005特別;S117、2005年5月
広田伊蘇夫:立法史からみた精神保健福祉施策に関する私見(解説).精神神経学雑誌、107(9);958-962、2005年9月
広田伊蘇夫:【転換期を迎えた精神科病院と地域生活支援】 戦後の精神科病院施策の変遷.精神医療、48;36-43、2007年10月
広田伊蘇夫:追悼:黒川洋治さんへ.精神医療、53;127、2008年
広田伊蘇夫:藤沢敏雄先生追悼記.病院地域精神医学、52(1)、2009年
広田伊蘇夫:【追悼藤沢敏雄の歩んだ道】おわりに~追悼記として.精神医療、2010年別冊;140-141、2010年5月
広田伊蘇夫:浜田晋さんを追悼する.精神医療、62;134-135、2011年

【座談会】
稲地聖一・浦野シマ・岡田敬藏・田原明夫・広田伊蘇夫・樋田精一:本学会の歩んできた道、進む道.病院・地域精神医学、100;8-33、1992年
松本雅彦・広田伊蘇夫・島成郎・森山公夫・野口昌也・西澤利朗・藤沢敏雄:転換期の風景と精神医療の現在.精神医療(第4次)1;32-72、1992年8月
羽田澄子・浜田晋・広田伊蘇夫:老人問題あれこれ.精神医療(第4次)4;8-39、1993年9月
広田伊蘇夫・ 谷中輝雄・岡崎伸郎:対談 緊急検証 障害者自立支援法体制.精神医療、39; 8-24、2005年
広田伊蘇夫・中山宏太郎・松本雅彦, 岩尾俊一郎, 佐原美智子, 高岡健:【精神医療の1968年】 1968年-時代の転換期と精神医療.精神医療、60;8-33、2010年
広田伊蘇夫・樋田精一・白澤英勝・田原明夫ほか:【回顧と展望】病・地学会50年の回顧と今後の展望.病院・地域精神医学、51(3);207~226p.2009年


※この追悼文は、精神保健ミニコミ誌「クレリェール」592号に掲載されたものを、同編集部の了解も得て、大幅に加筆修正し転載したものであることをお断りします。

※著作等一覧については、国立国会図書館NDL-OPAC書誌一般検索も用いて作成しましたが、漏れも多く、手元の書籍による探索時間も限られていたため、不十分なものであることをお断りいたします。

※参考文献
広田伊蘇夫:事業報告・宇都宮病院問題関係.病院・地域精神医学、78集.1985年
広田伊蘇夫:『断想・精神医療』,悠久書房,1987年
森山公夫:広田君、ありがとう.精神医療(第4次)65;123‐127、2012年
古屋龍太:日本病院・地域精神医学会の50年とわが国の精神保健福祉をめぐる流れ(1957年~2008年)」病院・地域精神医学、51(3);254~281p.2009年


以上、『病院・地域精神医学』54巻3号(通巻185号)344-348頁(2012年3月発行)より転載

沖縄の人たちの気持ち

2012年09月12日 09時41分47秒 | 日々の雑記

先週7日(金)~9日(日)、沖縄に行ってきました。
名護市で開かれた「福祉フォーラムin名護」に参加するためです。

昨年の宮古島に続いて、5回目の「専門職大学院出前ゼミ」です。
現地の専門職大学院修了生が中心となって、企画運営されるフォーラムです。

講演2本、シンポジウム1本、ワークショップ1本、ゼミ4本。
1日盛りだくさんのメニューに、120名の方が参加されました。

その様子は、フェイスブックの専門職大学院ページの方に掲載しています。
画像も多数アップしていますので、よろしければご覧ください。



沖縄に到着した前日には、レンタカー3台で「嘉数高台」の公園に向かいました。
密集した住宅街に隣接するアメリカ海兵隊普天間基地が、眼下に広がっていました。

その後、「道の駅かでな」に立ち寄り、展望台から嘉手納基地を眺めました。
嘉手納町の83%を米軍が占め、17%の土地に住民が住む「基地の町」を身近に感じました。

フォーラムを終えた翌日には、再びレンタカー3台で辺野古の海を見に行きました。
エメラルドグリーンの海の向こうに、キャンプシュワプの鉄条網が拡がっていました。

その後、宜野湾市での「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」に向かいました。
前夜の懇親会で、名護の方々からお聞きして、皆で急きょ決めたことでした。

「参加はしなくてもいい。でも関心は持っていてほしい。沖縄の気持ちはわかってほしい」
とても控え目な言葉でしたが、一同の気持ちを動かすには十分でした。



レンタカーを沖縄国際大学の駐車場に停め、シャトルバスで海浜公園に向かいました。
昨年、日本病院・地域精神医学会を行ったコンベンションセンターの海側です。

会場周辺の駐車場・道路には、沖縄各地から集結したバスが溢れていました。
数百台もの、あれだけの数のバスが一堂に会しているのを見たのは、初めてでした。

マイカー渋滞を避けるために、沖縄県内のすべての各市町村から貸切バスが出ています。
かなり年配の方から、子供連れの夫婦、学生まで多種多様な市民が集まっています。

ネット上では「沖縄県外からの動員がほとんど」というような書き込みも散見されますが。
現地に行けば、それが根拠のない中傷であることがハッキリわかります。

周辺には、会場に入れない人々が、暑い日差しを避けて、たくさん座り込んでいました。
参加者は主催者発表で10万1千人、過去最大規模の県民大会になりました。

現地到着が遅れたため、本当に後半の方しか参加できなかったのですが。
登壇者の発言に聴き入り、拍手し、指笛を鳴らし、気勢を上げる姿は、胸に迫りました。

自由のない辺境の地で、常に意志を蹂躙され、ないがしろにされてきた沖縄の人々…。
短い時間でも、沖縄の気持ちに触れることができて、行動を共にできて、良かったです。



今年『精神保健福祉』に掲載された拙文を、以下に再掲しておきます。
今回の県民大会の会場で開催された、昨年の学会の参加印象記ですが。

沖縄の人たちの気持ちに触れた、自分の気持ちを率直に記したものです。
沖縄に関することを、沖縄の人々抜きに決めるな!…。そう思います。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


沖縄と東北を結ぶもの~第53回日本病院・地域精神医学会総会に参加して

古屋龍太(日本社会事業大学大学院)

2011年は、悲しい年だった。
遠く離れた東北の地で、人々が一瞬にして生活のすべてを失い、親しい家族を喪う光景を、私たちは目撃した。
多くの人が亡くなった。
多くの人が生きる希望を失った。
そして多くの人が、心痛ませ、何もできずにいる自分が後ろめたく、もどかしかった。
未曾有の大震災は、戦後最大の国難とも呼ばれた。

第54回日本病院・地域精神医学会総会は、2011年11月18日~19日、戦中戦後の国難を一身に背負わされてきた南の島で開かれた。
碧い海が拡がる沖縄には、自由な空がない。
今なお米軍の管制空域を避け、民間航空機は海上すれすれをゆっくり飛んで那覇に着く。

3・11を経て、大会基本テーマは「出会い、支え合い、結び合う~ゆいまーるの島から」と掲げられた。
大会長の知念襄二(福の木診療所)は記す。
1960年の琉球精神衛生法以降、本土化の過程で「同化と異化」が内在していた。
日本と比した沖縄の収容史の落差から、この国の精神医療の変革に何事かの視点を提示しうる根拠が孕まれていると。

沖縄総会の姿勢は、北村毅(早稲田大学琉球・沖縄研究所)の記念講演「戦後沖縄の心象風景」に見事に結実していた。
今も米軍基地と隣り合わせの人々の生活の中に残る、沖縄戦の記憶。
敗戦国として、日米地位協定の下で陵辱されてきた悲しみの記憶。
戦闘機の爆音によってフラッシュバックされる光景と、日常も続く漠然とした不安。
時限爆弾のように、遙か時を経てから発症する心の叫び。
辺境の住民の意思を無視した中央政府の意向と、抑圧され内向した怒り。
まだ若い文化人類学者の静かな語りに、参会者は東北の被災地と沖縄の心象風景をだぶらせ、等しく心を揺さぶられ涙していた。

その体験は、理事会企画シンポジウム「東日本大震災と精神医療」、市民公開講座「震災と沖縄」に繋がっていく。
閉会式で、学会理事長の白澤英勝(東北会病院)は、言葉を詰まらせながら「沖縄で学んだ記憶を東北の地の活動に繋げていくこと」を約し、深々と頭を垂れた。
それは、1000人を超えた参加者らの気持ちを代弁するものでもあった。

今も、原発問題は何も解決していない。
「自分たちは被災したのではない、今なお被災し続けているのだ」というフクシマの訴えは正しい。
来年度の日本病院・地域精神医学会は、日本精神保健福祉士協会と同様、そのフクシマで開催される予定だった。
フクシマに代わって、前者は名古屋で、後者は熊本の仲間が代走を引き受けた。
誰かが成し遂げられなくても、誰かが代わりに立ち、年1回のその場を絶やさず、襷を繋いでゆこうとする。
そうやって、私たちは集い、語り合い、歴史を繋ぎ、言葉を紡いできた。

歴史から学び、記憶を風化させぬこと。
その地に人が住み、その身に悲しみの記憶を秘めている限り。
オキナワと被災地を結ぶ、国難を背負わされた土地に生きる人の気持ち。
東日本大震災と、戦後沖縄と、精神科病院。
この三者は、決して無縁ではない。
少なくとも、それぞれの場で体験された極限状況は、国策として隔離収容政策を続けてきたこの国の形と、どこか通底している。
心に大きな痛手を負った人々があれば、その気持ちを推し量る想像力をもち、明日へと繋いでいく支援は、PSWのミッションでもあるはずだ。

寒風吹きすさぶ、灰色の琉球の海を見ながら、そんなことを考えた。


(日本精神保健福祉士協会誌『精神保健福祉』89号(2012年3月)「情報ファイル」より)



振替休日の授業

2012年05月01日 01時00分00秒 | 日々の雑記

今日(4月30日)は、昭和の日の振り替え休日。
いわゆる、ハッピーマンデーですね。
世間は、ゴールデンウィークの真っただ中、皆さんお休みです。
自宅のすぐ前にある月極め駐車場も、今朝はガラガラでした。
家族そろって、皆さん、お出かけですね。

残念ながら、僕は今日も仕事です。
今日は、青山学院大学の非常勤講師でした。
振り替え休日は無しで、全校で通常授業日となっています。
ハッピーマンデー対策で、月曜日の授業時間が確保できないからですね。
前期・後期に帯番組で時間割を組んでいる以上、仕方ないのでしょう。

いつもの通期風景とはまったく違う、都心に向かう電車の乗客の姿でした。
いつもの背広姿ではない、ラフな格好のお父さんたち。
いつもはお目にかからない、小さな子供連れやカップルたち。
いつもの無言の車内ではなく、笑い声の絶えないにぎやかな車内。
いつも通りの恰好で、カバンをぶら下げて電車に乗っている自分がみじめに思えました。

こんな日に授業をやってて、学生たちはちゃんと来るのかと思いましたが。
廊下から各教室を覗くと、いつもの通りのにぎやかな学生たち。
自分の担当科目の教室にも、いつもと変わらず学生たちがすでに待っていて。
履修学生22名のうち、18名がちゃんと出席していました。
思わず「みんな、えらいね」と言ったら、逆に怪訝な顔をされてしまいました。

帰りに、先週オープンしたばかりの「渋谷ヒカリエ」に行ってみました。
下から見上げると、何の変哲もない、ちょっと凸凹したビルですが、
来店者をさばくために、背広姿の男性店員や警備員が、大声で誘導していました。
誘導されるままに行くと、延々先の方まで行列が伸び、折り返してくるのが見えました。
ひとり仕事帰りの恰好で、にぎやかな行列に並ぶ気持ちにはなれなくて、諦めました。

大学や会社によっては、5月1日も2日も臨時休校にして、9連休のところもあるとか。
それぐらい休みがあると、まさにゴールデン・ウィークですね。
悲しいかな、僕は社会人になって以降、そういう優雅な職場に勤務したことがありません。
病院も、夏休みは3日間だけでしたし。
大学の教員になっても、実習巡回やらで、結局あまり休めません。

明日も大学で、午後めいっぱいの精神保健福祉士課程の授業があります。
11時からの打ち合わせ、ランチョンミーティング、夜7時半まで演習・実習指導です。
春休みの実習を経て、凛々しくなった学生たちは、全員出席で休みません。
限られた時間の中で、各自のレポートを報告しあい、グループで真剣に検討します。
そんな学生たちに煽られて、教員たちも夜9時までのアフターミーティングになります。

でも、休みは、やはり必要ですね。
疲労も蓄積してくるし、余裕がなく、発想も貧困になってきます。
強迫的にワーカホリックに仕事していても、できることは限られています。
昨年度は、宿題にも追われ、いつもボーっと疲れた顔をしていた僕ですが、
今年度は、少しきちんと休みをとって、自分の時間を確保したいと思っています。


※画像は、真下から見た「渋谷ヒカリエ」

年度末の僕の出没場所

2012年03月06日 23時09分13秒 | 日々の雑記

もう3月です。
あわただしいうちに、今年度が終わろうとしています。

もう、さすがに授業も終わっているので、大学は静かですが。
教員たちの仕事が終わったわけでは、ありません。

僕も、相変わらず、宿題に追われる毎日です。
いろいろな人が、仕事の催促をしてくださいます。

僕が出没するのは、だいたい東京都心や郊外ですが。
この年度末は、やたらあちこち出没することになりそうです。



今日は、小平に行ってました。
小平市社会福祉協議会のみなさん、夜までどうも、ありがとうございました。

明日は、仙台に行きます。
仙台市精神保健福祉総合センターのみなさん、お世話になります。

今週は、北九州にも行きます。
浅野社会復帰センターのみなさん、どうぞよろしくお願いします。

今週末には、秩父に行きます。
卒業旅行に参加の院生のみなさん、夜遅くまでおおいに語り合いましょう。

来週は、和歌山にお邪魔します。
定点観測4年目、やおき福祉会のみなさん、またお世話になります。

再来週は、静岡に行きます。
連日、まるで別々のご依頼をいただきましたが、これもご縁でしょうか?

再来週は、巣鴨にも行きます。
大学教員対象の講習会、恐れ多いですが、なんとか頑張ります。

月末の週は、和光に伺います。
初めてのお邪魔ですが、なんとか今後につながる場になればと、願っています。

月末には、京都に帰ります。
老いた母や叔母と一緒に、父の墓参りに行ってくるつもりです。



大学は、年度の単位で動いています。
3月と4月で、顔ぶれが異なります。

学生・院生のみなさん、お疲れさま。
それぞれの新しい一歩を、大切に…。

いくつもの、新しい出会いのある1年でした。
いくつもの、悲しい別れがあった1年でした。

まもなく、やたらあわただしかった1年が終わります。
3・11以降、悲しく、苦しかった1年が終わります。

3月11日の14時46分18秒、僕はたぶん院生たちと秩父にいます。
この1年、苦楽を共にした院生たちと、黙とうを捧げたいと思います…。



※画像は、京都府立図書館。
 昔、よく通っていました。
 記事とは、まったく関係ありません。

原稿書きラッシュ

2012年02月05日 01時18分16秒 | 日々の雑記

昨年の秋から冬にかけて、「PSW研究室」の更新が、まったく止まっていました。
けっして、体調を崩していたのではないので、ご安心ください。
この間、僕は原稿書きに、ずっと苦しんでいました。

大小合わせて計30本の、依頼原稿などです。
一番長いので、400字詰め原稿用紙換算で300枚超、平均でひとつ40枚。
学会発表とか、資料作成は除きます。

こんなに一時期に集中したのは、さすがに初めてです。
やはり、2012年度からのPSWカリキュラム改訂が影響しています。
半分くらいが、来年度から使われる精神保健福祉士の教科書の原稿です。

こんな事態に至ったのは、自分の責任もあります。
わかっていたのに、春から夏にかけて、書けなくて放ってありました。
それぞれ締切日が過ぎても、まるで書けませんでした。

それでも、依頼原稿には、必ずデッドラインがあります。
その原稿が提出されないと、穴が開くだけでなく、発行できなくなるラインが。
新年度から使用される教科書の類は、なおさらです。

どうにもこうにも、にっちもさっちも、行かなくなって
本来業務と、食事と睡眠以外は、いつもパソコンに向かっていました。
正月に実家に帰っても、出張先でも、ずっと書き続けていました。

この1月末日で、どうにかこうにか、ほぼ終わりました。
一番長い枚数のひとつは、未だに仕上がっていませんが。
また、編者としての他執筆者の校正作業が残っていますけど。

これでも、大学の教員ですから、当たり前の仕事なのかも知れませんが。
さすがに、いささかきつい日々でした。
ちょっと、愚痴になってしまいました。

この5か月間で抱えていた、原稿30本のタイトルは以下の通りです。
順次、どこかで、皆さんの目に留まるかも知れません。
どれも不出来な原稿ですが、「時間なかったんだな?」とご笑覧ください。



【2011年秋~冬に書いたもの】

1.精神障害のケアマネジメント

2.精神保健福祉援助実習の概要

3.再発予防・退院促進のための支援、医療観察法対象患者の支援

4.ケアマネジメントの事例

5.精神保健医療福祉と精神保健福祉士

6.精神保健医療福祉の歴史と動向

7.精神科リハビリテーションと精神保健福祉士

8.精神科デイケア・ナイトケア

9.多職種協働による精神科リハビリテーション

10.社会福祉と精神保健福祉

11.障害者基本法と精神障害者施策との関わり

12.精神障害者にとっての制度とサービスの意味

13.長期在院精神障害者の退院・地域移行支援

14.「精神保健福祉」巻頭言

15.第54回日本病院・地域精神医学会総会参加記

16.精神保健福祉士の仕事

17.追悼:広田伊蘇夫先生

18.精神病院からの退院

19.障害者自立支援法から5年間で何が変わったのか?

20.退院促進・地域移行・地域定着支援の現在・過去・未来

21.精神保健分野における成年後見制度の課題と市民後見

22.地域移行の対象および支援対象

23.「精神医療」書評 

24.迷走する障害者ケアマネジメント

25.精神保健福祉の理論と相談援助の展開:はじめに

26.精神保健福祉に関する制度とサービス:はじめに

27.障害者総合福祉法(仮称)骨格提言案に盛り込まれた精神保健福祉関連事項

28.日本精神保健福祉士委員会国際委員会総括

29.精神保健福祉士実習指導方法論Ⅳ

30.日本の精神保健医療福祉の現状



※画像は、段ボール箱で暖をとる「社大猫」。
 立春前の大寒波は、さすがに堪えるようで、じっと我慢のふたり。




謝罪と訂正と教訓と感謝と

2011年07月01日 14時13分07秒 | 日々の雑記


「PSW研究室」をご覧になって下さっている皆さん、こんにちは。
当ブログを主宰している、PSWの龍龍です。

5月~6月はとうとう1回も、新しい記事をアップできないまま、過ぎてしまいました。
何回か記事は書こうとしたのですが、なかなか言葉になりませんでした。

依頼を受けた原稿書きの仕事も、まるで中途半端なままストップしてしまいました。
文章を書けない大学教員って、ちょっと使い物になりませんね。

実は、この間、身辺に大きな生活の変化もあり、心に余裕のない日々が続きました。
いずれ、プライベートなその経緯も、時間が経てば、ここに記すつもりですが…。

仕事上も、週に8~13コマの授業をこなしながらの日々なので、余裕がありません。
かかわっている地域の事業等も待ったなしなので、青息吐息の日々です。

自身の寝不足とパワーダウンにより、ブログがストップしてしまっていました。
今も、たいして状況は変わっていないのですが、なんとか復帰を図りたいと思っています。





■1.謝罪

今回の一連の「炎上」については、多くの方々に、ご心配とご迷惑をおかけ致しました。
被災地の一枚の張り紙の存在を記すことで、自身も予想外の展開となってしまいました。

僕自身は、専門職としての自戒を込めて、率直に記しただけのつもりでしたが。
結果として、多くの方々に不快な想いをさせることになってしまいました。

特に、心理職の方々には、不愉快な思いをさせてしまったと反省しております。
また、実際にカウンセリングを受けている方々を、不安な気持ちにさせてしまいました。

僕自身の職場だけでなく、所属学会・協会等にも複数の抗議文を頂いています。
その文言から、カウンセリングを実際に受けている当事者の方と思われます。

自らがカウンセリングを受けている心理職の方への信頼が揺らぎ、不安に思われたこと。
ブログ主宰者である僕への、適切な処分を求めたいと、綴っておられました。

これまでも記している通り、記事の趣旨は、心理職批判を意図したものではありません。
被災地支援にかかわる専門職のかかわり方を、自分なりに述べたものです。

一連のやりとりを通じて、ネガティブな言葉の応酬に傾斜していったのは残念です。
ともすれば、激しい被害的感情表出の場になっていってしまいました。

収束を図れなかったブログ主宰者が、すべて責を負うことなのか、議論はあるでしょうが。
心理カウンセリングのユーザーの方に、とてもショックを与えたことは慙愧に堪えません。

結果として、僕の記事が「風評被害」を招いたのは事実ですので、謝罪したいと思います。
ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。

また、自身のプライベートな事情により、記事更新が著しく遅れたことをお詫び致します。
けっして、シカトして意図的に放置していたのではないことは、どうかご理解ください。



■2.訂正

これまで物議を醸してきた記事の一部を、下記のように訂正させて頂きます。
多くの方々のご指摘を受けて、僕自身がごもっともであると考えた部分です。

1)「『心理カウンセラーお断り』の貼り紙」の記事

「…新たな貼り紙が、加わりつつあるようです」という表記
→「加わりました」に訂正

理由
婉曲な表現を心掛けたつもりですが、ネット上の文字列では、過剰な解釈を生みます。
曖昧な表現ゆえに、現在進行形で拡散しつつある事態のように読み取れます。
一地域にあった事実が、被災地すべての場面で起きているかのような印象を与えます。
事実の提示にとどめ、伝聞調の曖昧表現は削除しました。

2)「風評被害の責任の取り方」の記事

「この記事の存在を、何十回も書き込みして、流布して頂いた方がいらっしゃいます。」という文言
→「この記事は、多くの方のリツイートにより、幅広く拡散していきました」に訂正

理由
ツイッターによって、僕の記事が際限なく拡散していったのは、事実です。
しかし、特定の方が意図的に何十回も発信し続けたという事実は、ありませんでした。
僕自身の被害的な受け止め方が、上記のような表現に至っています。
事実に基づき、訂正させて頂きます。

3)その他

その他にも、いくつかご指摘いただいている事柄があります。
順次、記事の表現、文言についても、僕なりに改めて考えたいと思います。

一方で、危惧されていたような事態が、被災地で生じているのは事実のようです。
少なくとも、マスコミの報道を通した記事でも、いくつか取り上げられています。

毎日新聞(5月7日):東日本大震災「心のケア」、2次被害懸念トラブルも
読売新聞(6月22日):被災地 心のケア(5)寄り添う姿勢が原点

このことをもって、自らの正当性を主張するつもりは、まったくありません。
でも、被災地支援に取り組むべき専門職の姿勢は、やはり考え続けるべきと思います。

訂正すべき文言と、批判を受けても訂正してはならない事柄が、あると思います。
自分なりに考えて、対応していきたいと思っています。



■3.教訓

僕自身は、一連の「炎上」を通して、実に多くのことを学ばせて頂きました。
自らの専門職としての立ち位置や、他職種との連携ということも、改めて考えました。

安直な表現の文字列が、他者にどのように受け止められるかということも、痛感しました。
「インターネットの民主主義」ということについても、考えざるを得ませんでした。

ひとことで言えば、「コミュニケーションの難しさ」について考えたと言えるでしょうか。
そのことについては、もう少し考えてから、いずれ記事にしたいと思います。

また、ネットの世界で「あまりに無防備」というご指摘を、何人かの方々から頂きました。
振り返ってみると、確かに無防備ですね、僕は…。

匿名と言いながら、自分の詳細なプロフィールも公開してしまっていますし。
批判を受ける事態になった時には、攻撃材料を提供してしまっていることになるのでしょう。

ネット社会の怖さやルールについて、あまりに認識が甘いというご指摘はごもっともです。
その認識の甘さは、ある種の奢りと、安っぽいプライドから発していたと思います。

僕自身はこれまでに、複数の団体のホームページ造りに関与してきています。
なまじっかな体験が、ネットのこと知らない訳じゃないという想いを生んでいました。

自分が「無知」であることを認めるのは、なかなか辛いことです。
特に、自分の無知が、他の方々に多大な迷惑をかけてしまったとすれば、なおさらです。

認めたくないことを、きちんと認めなきゃいけないと思います。
僕は、やはりネット社会の流儀や礼儀作法に、とても無知であったと思います。

ただし、「無防備」であることは、これからも続けたいと思います。
無防備だから、伝えられることも、伝わることもあると思いますので。

他者からの批判を受けないように、ただ防衛的になってしまっては、何も生みませんし。
多少のリスクは抱えても、名前や顔の見える関係は、追求していきたいと思います。

批判を受け入れられるよう、可能な限り、笑顔で無防備であること。
それは、ソーシャルワーカーにとっても、大事なことなのかなと思っています。



■4.感謝

この間、多くの方々から、暖かい励ましのお言葉を頂戴しました。
「ブログ止まっているようですが、大丈夫ですか?」という気遣いも頂いています。

ブログの炎上自体は、けっして褒められた出来事ではありませんが。
自分が多くの人々によって支えられている存在であることを、実感できました。

僕にとって身近なPSWや学生の方も、書き込みコメントを残してくれています。
でも、実際には、そういった方々のコメントは、割合としてはとても限られています。

コメントすることで、更に煽ってしまっては…という配慮をして頂いていたようです。
多くの知人は、じっと見守るという選択をして頂いていたようです。

そういった無言のご支援にも、感謝申し上げます。
気遣いながら、見守って下さって、本当にありがとうございました。

そして、臆せずコメントを寄せて頂いた方々に、感謝申し上げます。
とりわけ、被災地からのコメントは、匿名とはいえ、本当に勇気がいったと思います。

時に、ネガティブで、いかがかと思われる書き込みもあったのは事実ですが。
それでも、多くの方々が、真摯に記事のテーマに向き合って下さいました。

それだけ、僕たちにとって大きなテーマであるということの表れでしょう。
被災地における支援、専門職の役割、「心のケアチーム」の内実が問われているのでしょう。

真剣に考え、真摯な言葉のコメントを残してくださった方々、ありがとうございました。
このブログがどう展開していくかは未知数ですが、今後もお付き合いいただければ幸いです。





以上、僕自身の現時点における率直な想いを綴らせて頂きました。
改めて、ご意見等ございましたら、お寄せいただければ幸いです。

ブログ記事の定期的な更新には、まだ時間を要するかと思いますが…。
「PSW研究室」を、今後ともよろしくお願いいたします。


「心理カウンセラーお断り」の貼り紙

2011年04月14日 09時31分41秒 | 日々の雑記


東日本大震災の被災地を訪れた人から、聞きました。
避難所の入り口に「マスコミお断り」という紙が、貼られているそうです。
一枚の紙を張り出すに至った被災地の方々の想いは、マスコミでは伝えられていません。

被災地の状況について、僕たちは、多くの情報をマスメディアから得ています。
テレビ画面に映し出される、津波の様子や壊滅した街の状況。
そして、住む家や家族を失った被災した方々の、絞り出すような生の声や表情。

画像は、強烈に僕たちに訴えかけ、僕たちの心を揺さぶります。
被災した方々の姿と声が、多くの人々の気持ちを突き動かしているのは事実です。
でも一方で、プライバシーのない避難所の方々は、マスメディアに晒され続けています。

「大変でしたね」「大丈夫ですか」という言葉とともに、マイクとカメラが向けられる。
それは、気遣いの言葉ではあっても、あくまでも報道が目的のものです。
被災地の方の気持ちに寄り添い、そのリカバリーを促すカウンセリングではありません。

多くの避難所の方々が、もう対応にうんざりしているということでしょう。
そして、その貼り紙の横に、もう一枚、新たな貼り紙が加わりました。
「心理カウンセラーお断り」という貼り紙が…。

阪神淡路大震災以降、被災者のPTSD、心のケアが強調されるようになりました。
今回も、多くの心理カウンセリングのボランティアが、現地入りしているようです。
文部科学省も子どもの心のケアのために、千数百人規模のカウンセラー派遣を決めました。

臨床心理士会などが、きちんとコーディネート機能を果たして、派遣する人材をコントロールできていれば、まだ良いのですが。
実際には、善意で現地入りしている人たちが、それぞれ活動しているのが実態です。
そして、残念ながら、その「心理カウンセラー」の質は、実にまちまちです。

勉強途上の学生や院生が、マニュアルだけ片手に、相談を請け負う例も多いようです。
使命感ももちろんあるでしょうが、自身の力量はきちんと見定めて欲しいと思います。
少なくとも、自分の専門職としての腕試しや勉強のために、被災地を使わないで欲しい。

見ず知らずの人に語るということだけで、カタルシスが得られるものではありません。
喪の作業に本当に寄り添うことができなければ、相手をパワーレスにするだけです。
いたずらに悲しみの感情を引き出して、その後のフォローもない支援などあり得ない。

「心理カウンセラー」を名乗るなら、少なくとも相手のためになるかかわりをして欲しい。
被災地の方々自身による、リカバリーが促進されるようなかかわりをして欲しい。
専門職の自己満足や、ましてや事例収集のために、被災地に足を踏み入れるべきではない。

「話せて良かった」「聞いてもらえて良かった」と、穏やかな笑顔を返してもらえるか。
「相談したけど、結局何にもならなかった」というため息で語られるようになるのか。
「心理カウンセラーお断り」という貼り紙は、避難所の方の精一杯の抗議と考えるべきだと思います。

それは、「心理カウンセラー」だけでなく、精神保健福祉士だって一緒です。
専門職づらをしないで、できることをコツコツと地道にやっていくしかありません。
「ソーシャルワーカーお断り」と言うような貼り紙を、貼られることのないように…。


被災地支援に取り組む心理職の方々に、失礼なことを書き連ねたかも知れません。
真摯に「心のケア」に取り組む方々に、不快の念を与えたとしたら、お詫び致します。
どうか他職種と連携しての、継続的な息の長い支援をよろしくお願い致します。


※画像は、差し替えさせて頂きました

※文言を、一部訂正させて頂きました
(→7月1日付「謝罪と訂正と教訓と感謝と」の記事をご覧ください)

東日本大震災、その日以降…

2011年03月16日 20時17分14秒 | 日々の雑記


3月11日(金)14時46分。
その日、その時、僕は、研究室にいました。
かつて体験したことのない、長く、激しい揺れでした。
本棚の最上段から、本が降ってきました。
さすがに、これは「ヤバイ」と思いました。

隣の研究室の、院生達にも声をかけて、外に出ました。
地面に立っていても、ふわふわと地面がまだ揺れていました。
校舎から、たくさんの学生達が、外に出てきました。
それでも、大学のある近辺は、「震度5弱」でした。
鉄筋コンクリート造りの2階で、あの揺れですから、「震度7」って…。

テレビで、岩手・宮城方面の映像と実況報道が繰り返しなされました。
阪神・淡路大震災の記憶が、よみがえりました。
その場に居合わせた訳ではないけれど、はじめて知った、地震の恐ろしい力。
遠く500キロ離れた地で、今まさに起きているであろう風景のイメージ…。
でも、実際には、それは想像とは、はるかに違っていました。

東京でも、すべての鉄道が止まりました。
僕は、てくてくと1時間半、自宅まで歩いて帰りました。
幹線道路は、どこも大渋滞で、赤いテールランプがどこまでも続いていました。
駅前のスーパーに入り、食料品を買いました。
絶対に、明日以降、品物は手に入らなくなると思って。

作業所所長である配偶者は、深夜23時50分に帰宅しました。
帰れなくなった利用者を自宅まで車で送り、大渋滞に巻き込まれていたようです。
家族揃って、テレビで、初めてリアルな津波の様相を目にしました。
パニック映画ではなく、現実の映像であることに圧倒されました。
黒い波の巻かれ、何百人、何千人という人が、命を失っていっている事実があります。



翌日は、専門職大学院のゼミ合同卒業旅行でした。
「決行するのか?」というゼミ生からのメールが入っていました。
正直言って、僕は迷っていました。
みんなが楽しみしている卒業旅行を、台無しにしたくない…。
そんな想いが、どうしてもありました。

一旦「決行」を決めてみたものの、当然のことながら、人は集まりませんでした。
参加者は、昨日のうちに帰宅できなかった院生もいました。
テレビで被災状況の映像を見た、各院生からのキャンセルも相次ぎました。
さらに、長野県北部で当日、震度6の地震も発生していました。
参加予定者35名中、当日朝、大学に集まったのは、幹事3名を含む6名。

大学もすべての学事を中止決定する中で、卒業旅行も中止を決定しました。
状況判断が遅すぎるというそしりは、甘んじて受けなければいけないと思います。
軽井沢から迎えに来てもらった大型バスに、キャンセルを伝え、帰って頂きました。
キャンセル料は発生してしまいますが、仕方ありません。
自らの状況判断の甘さを実感した、ちょっと高い授業料でした。



大学では、在校生(学部生・院生)の安否確認が進められました。
幸い、学生自身の安否は、全員確認されました。
でも、未だ、実家や家族と連絡が取れない、学生や教職員もいます。
それに、通信教育科の学生達への、連絡がまだまだ取れていません。
昨年、一昨年、一緒に酒を酌み交わした、東北の元気印のみんなは無事なのでしょうか?

3月18日に予定されていた、卒業式(学位授与式)も延期が決定されました。
西武線の電車がストップしてしまっていて、交通アクセスが確保できないこと。
当日が、計画停電の予定に当たっていて、講堂等での式挙行ができないこと。
福島第一原発の状況が予断を許さず、事態の推移により、重大な事態が生じること。
そんな理由で、大学としても、やむなくの決断です。

卒業式は、開催1ヶ月前には告示することになっています。
学生だけでなく、関係者への周知を考えれば、当然のことです。
この時点での、卒業式延期決定は、もう3~4月中はあり得ないということです。
地方に帰る学生も多いので、全員が集まる機会が失われてしまいました。
たかが式典、たかが形式と言えばそれまでですが、とても残念です。

学内で予定されていた、すべての会議も、中止になりました。
停電も続くため、当面、21日まで、大学は全館閉館になります。
でも、計画停電や原発の炉心溶解の問題は、1~2週間で解決しません。
今後、東京近辺でも、1~2ヶ月は大きな影響がでるでしょう。
新入生を迎えての入学式は、できるのでしょうか?



なんの役にも立てない、こんな個人ブログでも、情報を寄せて下さる方々がいます。
コメントという形で記事のオモテに出なくても、メッセージが寄せられています。
被災地の、親族・友人・知人・仲間を思いやる声。
被災地である現地で、活動を続けている専門職の声。
被災地の周辺地域からの、状況を伝える声…。

「不眠不休で、みんな頑張ってますが、燃料が無く、寒い」
「入院患者さんは無事ですが、外来の方々の安否が不明」
「道路に亀裂が入っていて、安否確認の訪問したくても、先に行けない」
「ガソリンが枯渇しており、車での訪問ができないので、徒歩で行くしかない」
「食料品を買いたくても、どこにも何もない」

東京近辺でも、もう、スーパーやコンビニに、商品がありません。
米や水、パンやカップラーメン、電池やろうそく、カセットガスはおろか、
あらゆる食料品や日常生活用品が、店の棚から姿を消してしまいました。
ガソリンスタンドも「お売りする燃料がありません」と閉鎖されています。
人々の先行き不安が、過剰な買い占め消費行動に表れています。

多くの人が傷つき、命を落とした未曾有の大震災。
夢や希望を、安直に語るのは、もはや憚られます。
それでも、生きている者には、暮らしがあります。
現地で、懸命に、人を支え続けている人がいます。
自らが被災者でも、支え合っている人達がいます。

どうか、どうか……。
少しでも早く、少しでも心安く、日々のふつうの暮らしが、再建されますように…。
生きている人が、生き残ってしまったと、自ら罪悪感と後悔に苦しみませんように…。
被災地の誰もが、生きていて、本当に良かったと、実感できる日が訪れますように…。
人々を支え続ける人々が、疲れた身体をゆっくり休められる日が、訪れますように…。



※画像は、差し替えました。

疲れてやつれた男

2011年03月01日 17時22分10秒 | 日々の雑記

専門職大学院の院生たちに、言われてしまいました。

「あれっ?先生、どうしたんですか?」
「なんか、げっそり、しちゃってますよ」
「すっかり、やつれちゃいましたね」
「私たちの総括レポートで、迷惑かけちゃってるから?」

たしかに、2月に入ってから、僕は大変、疲れています。
正確に言うと、2月7日以降ですが。

夜、あまり寝てないので。
1週間で、合計睡眠時間、24~5時間だと思います。
毎日、床に就くのは、午前3時過ぎてからなので。

その前に布団に入っても、眠れないんですね。
頭が冴えちゃっているので、ますます不眠に意識が向いてしまいます。
それで、疲れ果てて、眠くなるまで、パソコンに向かっています。

やつれて見えるのは、体重が減ったせいでしょう。
3週間で3キロくらい、落ちました。
肌もガサガサで血色悪いし、白髪も増えました。
我ながら、一気に老け込んで、歳をとったような…。
おかげで、正月太りは解消しましたけど(笑)

院生の、君たちのせい?
いえいえ、そんなことはありません。
別のことなので、ご安心下さい。
自分のことで、パソコンに向かい続けているだけです。
今抱えている課題が一段落したら、回復してくると思います。

昨日は、同僚の教員からも言われてしまいました。
よほど、僕が会議中ぼーっとしていて、居眠りも目立ったのでしょう。
「大丈夫かい?元気ないじゃない?」
「ちゃんと寝なきゃ~。今日は早く休みな」
そういって、やさしく肩をぽんぽんと叩いてくれました。

やっぱり、見るからに、疲れているんでしょうね。
あまり、周囲に心配かけちゃいけないな、と反省しきりです。

今日は、院生のひとりから、シールとカードをもらいました。
「配ってたんで、もらってきました」と。
こんなことが書いてありました。

  「疲れた」「眠れない」が「うつ病」のサインです。
  あなたが気づけば、きっと大丈夫。
  うつ病サイン、みんなでキャッチ。
  「お父さん、眠れてる?」
  3月は自殺対策強化月間です。
  彩の国・埼玉県

あ”~っ…(^_^;)
精神保健福祉担当の教員が~(>_<)
自分の、心の健康管理、きちんとせにゃぁ~(*_*)

これから、過酷な3月です。
あらゆる宿題の締め切りが、迫ってきています。
毎週、講演やら、出張やら、旅行もあります。
限られた時間で、集中して、こなしていかないと…。

この3月を、なんとか乗り切りたいと思います。
3月は、教え子たち(「子」じゃないけど…)の旅立ちの時だし。
4月は、新しい院生たちを迎えるんだし。
なんとか、かんとか、這いつくばってでも…。

あ~~、しかし……。
どうにも、頭が働かない…。
ともすれば、フリーズしてしまいそうな…。
エネルギー充填、30%くらい?
花粉症もあって、意気が全然上がらない、僕の春です。
(=_=)



※画像は、2月27日。
 先週土曜日は、専門職大学院の長期履修生の発表会。
 昨年卒業した6期生も、2年目の同期生の発表応援に、多数来ていました。
 夕方の意見交換会(懇親会)のあと、清瀬の街で二次会やって。
 新津ふみ子さんの提唱で、さらに三次会で、カラオケに行くことになって。
 カラオケシダックスで、深夜0時に迎えた、誕生日。
 突如、サプライズのケーキが運ばれてきて、ビックリ!
 「疲れてる」とか言いながら、ノリノリで1時半まで歌っちゃいました~♪
 みんな、ありがと~ぅ!(^_^)/~

狭い世界で生きてきた男

2011年02月09日 10時37分17秒 | 日々の雑記

看護職ほどではないにしろ、福祉の専門職も、結構皆さん、とらばーゆします。
一生ひとつの職場で勤めて、定年まで働く人って、かなり少ないのではないでしょうか?
僕自身は大学を出てから、ひとつの病院でずっと勤めていましたが。
全国の国立病院で、異動もなく一カ所で勤めていたSWは、僕ひとりでした。
四半世紀を、ひとつの病院の中で過ごすことが、良いのか悪いのか…。

「つくづく狭い世界で生きてきてしまったなぁ~」と思う今日このごろ…。

同じ時期に病院PSWになった東京の仲間たちも、ほとんど途中で転職しています。
埼玉県の精神保健福祉総合センターができた時に、東京のPSWはごっそり移りました。
医療観察法ができて社会復帰専門官ができた時にも、多くのPSWが移りました。
さらに圧倒的な数のPSWたちは、その後地域に展開していっています。
今、東京のあちこちで運営されている法人も、PSW達が立ち上げたものが多数あります。
PSWの裾野の拡大とともに、新天地を求めて、みんな旅立っていきました。
そして、同世代の病院PSWは、東京では数える程しかいなくなってしまいました。
若干、取り残された感じがあったのは、事実です。

「つくづく狭い世界で生きてきてしまったなぁ~」と思う今日このごろ…。

福祉の分野を対象者で単純に分けると、大きくは三つでしょう。
今や大半は高齢者分野に従事していて、専門職大学院でも1/2を占めます。
あとの1/4が児童分野。
残りの1/4が障害者分野。
精神保健福祉分野は、その障害者分野の1/3に過ぎません。
全体の円グラフを書くと、アナログ時計の11~12時くらいの幅しかありません。
福祉の専門職と言いながら、その中でしか仕事をしてきませんでした。

「つくづく狭い世界で生きてきてしまったなぁ~」と思う今日このごろ…。

僕は、東京の近郊北西部、小平というベッドタウンにずっと住んでいます。
長年勤めた、国立精神・神経センターも、同じ市内にあります。
最初は病院内の宿舎に住んでいましたし、職住接近が当たり前になってしまいました。
結婚して、途中2年間だけ練馬区に住みましたが、また小平に戻って来ました。
あしかけ、もう29年間、小平市に住んでいます。
転職しても、大学のある清瀬市までは、車で20数分。
北多摩北部保健医療圏の中で、ずっと生活しています。

「つくづく狭い世界で生きてきてしまったなぁ~」と思う今日このごろ…。

そういった意味では、僕の視野は、とても狭いかも知れません。
自分が認知している体験世界の範囲って、なかなか自分じゃわかりませんしね。
専門職としての職場体験も狭いし、生活圏域も限られている。
海外旅行も行ったことなければ、国内旅行も限られている。
学会や講演に地方に行っても、空港・駅と会場の往復しか知らない。
ひとつの場所で、コツコツと地道にやっていくのが、僕のスタイルなのかも知れませんが。

「つくづく狭い世界で生きてきてしまったなぁ~」と思う今日このごろ…。

継続は力なり、自らの足下を掘れ、逃げ出すな、というのが僕のスタンスですかね。
でも、仕事だけじゃね…。
もっと、人生には遊びがないとね?
もっと、人生は楽しんで、いいんですよね?
もっと、自分の時間を大切にして、いいんですよね?
こうして書いていると、ますます力が抜けてきます。
「なんかつまらない男だな~」と、自己評価が更に下がりそうです。

「つくづく狭い世界で生きてきてしまったなぁ~」と思う今日このごろ…。


(注)昨夜、完全徹夜で少々疲れています…(*_*)


※画像は、夜の明治大学のイルミネーション。

とんでもないことが…!?

2011年01月25日 10時08分29秒 | 日々の雑記

 

とんでもないことが起きてしまいました…。
昨日、突然、想定外のことが…。
どうして良いか、わかりません…。
さすがに、困っています…。

アウトルックが、まるで起動しなくなってしまいました。
職場のデスクトップパソコンで、メールができません。
読むことも、出すこともできません。
外部との連絡手段が、すべて失われてしまったような感じが…。

どうやら、履歴もすべて、失われたようです。
あれこれの仕事の依頼やら、連絡のメッセージすべて。
名前をつけて別保存していなかった、添付ファイルも。
未だ返信していないメールも、たくさんあったのに…。

残念ながら、外部にバックアップをしていませんでした。
以前、病院時代にはメール全て、別に保存していたのですが。
15年間、一度も使ったこともなかったので。
油断していました…。

たぶん千件以上あった、連絡先の入ったアドレス帳も、失われました。
自分からは、すべて連絡が取れなくなってしまいました。
相手からメールのない限り、この事態を伝えることもできません。
リアクションが薄いどころか、全く無い人と言われそうです。

ネットの無料ソフトを使っていた方が良かったのかも?
gメールとかホットメールとかで、メールを統合しておけば…。
自宅と職場とモバイルで、自動的に共有できたんでしょうけど。
…後悔先に立たず、もはや、後の祭りです。

仕事は、B5のノーパソで続けています。
これで、職場の回線に繋ぐことは可能です。
同僚に教えてもらった、サンダーバードでも使ってみようと思います。
でも、失われたものは戻ってきません。

ひとつ、お願いがあります。
僕の職場アドレスで、メールのやりとりのあった皆さん。
空メールで構わないので、メールを送って頂けませんか?
それで、アドレス帳を一から作り直します。

このブログを、まるで掲示板的に、私物化して恐縮ですが。
(ん…??ブログはあくまでも私物ですよね~?!)
本当にピンチなので、よろしくお願いします。
日頃の不義理で顰蹙を買いそうですが、どうかよろしくお願いします。

 

※画像は、新幹線車内からの富士山です。ガラス越しなので、ちょっとかすんでる?