先週7日(金)~9日(日)、沖縄に行ってきました。
名護市で開かれた「福祉フォーラムin名護」に参加するためです。
昨年の宮古島に続いて、5回目の「専門職大学院出前ゼミ」です。
現地の専門職大学院修了生が中心となって、企画運営されるフォーラムです。
講演2本、シンポジウム1本、ワークショップ1本、ゼミ4本。
1日盛りだくさんのメニューに、120名の方が参加されました。
その様子は、フェイスブックの専門職大学院ページの方に掲載しています。
画像も多数アップしていますので、よろしければご覧ください。
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沖縄に到着した前日には、レンタカー3台で「嘉数高台」の公園に向かいました。
密集した住宅街に隣接するアメリカ海兵隊普天間基地が、眼下に広がっていました。
その後、「道の駅かでな」に立ち寄り、展望台から嘉手納基地を眺めました。
嘉手納町の83%を米軍が占め、17%の土地に住民が住む「基地の町」を身近に感じました。
フォーラムを終えた翌日には、再びレンタカー3台で辺野古の海を見に行きました。
エメラルドグリーンの海の向こうに、キャンプシュワプの鉄条網が拡がっていました。
その後、宜野湾市での「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」に向かいました。
前夜の懇親会で、名護の方々からお聞きして、皆で急きょ決めたことでした。
「参加はしなくてもいい。でも関心は持っていてほしい。沖縄の気持ちはわかってほしい」
とても控え目な言葉でしたが、一同の気持ちを動かすには十分でした。
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レンタカーを沖縄国際大学の駐車場に停め、シャトルバスで海浜公園に向かいました。
昨年、日本病院・地域精神医学会を行ったコンベンションセンターの海側です。
会場周辺の駐車場・道路には、沖縄各地から集結したバスが溢れていました。
数百台もの、あれだけの数のバスが一堂に会しているのを見たのは、初めてでした。
マイカー渋滞を避けるために、沖縄県内のすべての各市町村から貸切バスが出ています。
かなり年配の方から、子供連れの夫婦、学生まで多種多様な市民が集まっています。
ネット上では「沖縄県外からの動員がほとんど」というような書き込みも散見されますが。
現地に行けば、それが根拠のない中傷であることがハッキリわかります。
周辺には、会場に入れない人々が、暑い日差しを避けて、たくさん座り込んでいました。
参加者は主催者発表で10万1千人、過去最大規模の県民大会になりました。
現地到着が遅れたため、本当に後半の方しか参加できなかったのですが。
登壇者の発言に聴き入り、拍手し、指笛を鳴らし、気勢を上げる姿は、胸に迫りました。
自由のない辺境の地で、常に意志を蹂躙され、ないがしろにされてきた沖縄の人々…。
短い時間でも、沖縄の気持ちに触れることができて、行動を共にできて、良かったです。
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今年『精神保健福祉』に掲載された拙文を、以下に再掲しておきます。
今回の県民大会の会場で開催された、昨年の学会の参加印象記ですが。
沖縄の人たちの気持ちに触れた、自分の気持ちを率直に記したものです。
沖縄に関することを、沖縄の人々抜きに決めるな!…。そう思います。
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沖縄と東北を結ぶもの~第53回日本病院・地域精神医学会総会に参加して
古屋龍太(日本社会事業大学大学院)
2011年は、悲しい年だった。
遠く離れた東北の地で、人々が一瞬にして生活のすべてを失い、親しい家族を喪う光景を、私たちは目撃した。
多くの人が亡くなった。
多くの人が生きる希望を失った。
そして多くの人が、心痛ませ、何もできずにいる自分が後ろめたく、もどかしかった。
未曾有の大震災は、戦後最大の国難とも呼ばれた。
第54回日本病院・地域精神医学会総会は、2011年11月18日~19日、戦中戦後の国難を一身に背負わされてきた南の島で開かれた。
碧い海が拡がる沖縄には、自由な空がない。
今なお米軍の管制空域を避け、民間航空機は海上すれすれをゆっくり飛んで那覇に着く。
3・11を経て、大会基本テーマは「出会い、支え合い、結び合う~ゆいまーるの島から」と掲げられた。
大会長の知念襄二(福の木診療所)は記す。
1960年の琉球精神衛生法以降、本土化の過程で「同化と異化」が内在していた。
日本と比した沖縄の収容史の落差から、この国の精神医療の変革に何事かの視点を提示しうる根拠が孕まれていると。
沖縄総会の姿勢は、北村毅(早稲田大学琉球・沖縄研究所)の記念講演「戦後沖縄の心象風景」に見事に結実していた。
今も米軍基地と隣り合わせの人々の生活の中に残る、沖縄戦の記憶。
敗戦国として、日米地位協定の下で陵辱されてきた悲しみの記憶。
戦闘機の爆音によってフラッシュバックされる光景と、日常も続く漠然とした不安。
時限爆弾のように、遙か時を経てから発症する心の叫び。
辺境の住民の意思を無視した中央政府の意向と、抑圧され内向した怒り。
まだ若い文化人類学者の静かな語りに、参会者は東北の被災地と沖縄の心象風景をだぶらせ、等しく心を揺さぶられ涙していた。
その体験は、理事会企画シンポジウム「東日本大震災と精神医療」、市民公開講座「震災と沖縄」に繋がっていく。
閉会式で、学会理事長の白澤英勝(東北会病院)は、言葉を詰まらせながら「沖縄で学んだ記憶を東北の地の活動に繋げていくこと」を約し、深々と頭を垂れた。
それは、1000人を超えた参加者らの気持ちを代弁するものでもあった。
今も、原発問題は何も解決していない。
「自分たちは被災したのではない、今なお被災し続けているのだ」というフクシマの訴えは正しい。
来年度の日本病院・地域精神医学会は、日本精神保健福祉士協会と同様、そのフクシマで開催される予定だった。
フクシマに代わって、前者は名古屋で、後者は熊本の仲間が代走を引き受けた。
誰かが成し遂げられなくても、誰かが代わりに立ち、年1回のその場を絶やさず、襷を繋いでゆこうとする。
そうやって、私たちは集い、語り合い、歴史を繋ぎ、言葉を紡いできた。
歴史から学び、記憶を風化させぬこと。
その地に人が住み、その身に悲しみの記憶を秘めている限り。
オキナワと被災地を結ぶ、国難を背負わされた土地に生きる人の気持ち。
東日本大震災と、戦後沖縄と、精神科病院。
この三者は、決して無縁ではない。
少なくとも、それぞれの場で体験された極限状況は、国策として隔離収容政策を続けてきたこの国の形と、どこか通底している。
心に大きな痛手を負った人々があれば、その気持ちを推し量る想像力をもち、明日へと繋いでいく支援は、PSWのミッションでもあるはずだ。
寒風吹きすさぶ、灰色の琉球の海を見ながら、そんなことを考えた。
(日本精神保健福祉士協会誌『精神保健福祉』89号(2012年3月)「情報ファイル」より)