بسم الله الرحمن الرحيم
102章解説
1. あなたがたは(財産や息子などの)多いことを張り合って、現を抜かす。
2. 墓を訪れるまで。
3. いや、やがて(死後)あなたがたは(その真実を)知ろう。
4. もう一度言おうか、いや、やがてあなたがたは知ろう。
5. いや、あなたがたは(今に)はっきり知るとよいのである。
6. あなたがたは必ず獄火を見よう。
7. その時あなたがたはそれを明確に目で見ることであろう。
8. その日あなたがたは、(現を抜かしていた)享楽に就いて、必ず問われるであろう。
この章は、特に私たちが生きる現代の「物質主義という暴君が引き起こす現象」を扱っています。
近代化が人間に与えた支出を要する種類豊富な贅沢は、人を昼も夜もそれを手に入れるために奔走する近代化の奴隷にし、生活を安楽ではなく苦労の連続に変え、金銭を手に入れる方法を考え続けなければならない不安を心に植え付けました。そして人は人生の貴重な時間さえもそのようなことに死ぬまで費やすようになってしまいます。
ジャーヒリーヤ時代におけるアラブはかつて、財産や子供の多さと名声の高さに誇りを持ち、自慢しあっていました。そこにこの章が啓示されました:
「あなたがたは(財産や息子などの)多いことを張り合って、現を抜かす。墓を訪れるまで。」
意味:金と子の多さの自慢と名声の希求が、あなたがたが死んで墓に入るまでアッラーへの崇拝から忙しくさせてしまった。
「墓を訪れるまで」は、墓の中での滞在が恒久的なものではなく、単なる訪問であることを暗示しています。訪問は、再生と清算と行為に対する報いを受けるときに終了するということです。
人間が努力して手に入れようとしているこの至福、そして金集めやその自慢といった熱のこもった競争は、人間を幸せに導きませんでした。ただ、人間関係にひびを入れ、疲労と苦悩を齎したにすぎず、その結果は身体の病や心理的な病となって現れました。
「現世の享楽と富の収集に完全傾倒すること」、「アッラーを思い起こすこととかれの導きに背を向けること」は、次のアーヤが示しているように、人間を損失に引っ張り込みます:「信仰する者よ、あなたがたの富や子女にかまけて、アッラーを念じることを疎かにしてはならない。そうする者(アッラーを念わない者)は、自らを損う者である。」(偽信者たち章9節)人間には創造主に対して、崇拝する義務と、かれからいただいた数え切れない恩恵に愛情と感謝の気持ちを込めて継続的にかれを唱念する義務があります。アッラーを想い、念ずることは、心を安定させ、そして困難や試練に対して堅甲にしてくれます。代わってアッラー唱念を拒否することは、現世における不幸のきっかけであり、来世におけるアッラーからの恩恵を損なうという結果を齎します。人間が努力して手に入れるべき「本物の至福」とは、次のアッラーの御言葉にあるような現世の去りゆく少ない幸福ではありません。「現世の歓楽は些細なものである」(婦人章77節)それは永続する来世の至福なのです。「主は、親しく慈悲と満悦を与えられ、かれらのために永遠の至福の楽園の吉報を与えられる。」(悔悟章21節)
では解説が脇道にそれてしまったので本題に戻りましょう。至高なるアッラーは仰せになります:「いや、やがて(死後)あなたがたは(その真実を)知ろう。もう一度言おうか、いや、やがてあなたがたは知ろう。」كلاّカッラー は強い否定、禁止の意味を含みます。つまり:財産やいろいろな贅沢を自慢し合うのをやめなさい、アッラーへの崇拝に背を向けることなどやめなさい、でないとそれぞれの行いの結果を見ることになる、です。クルアーンは文章を2度繰り返していますが、繰り返すことで禁止の依頼をさらに強め、自慢者たちに対する脅しを確かなものとします。
「いや、あなたがたは(今に)はっきり知るとよいのである。」つまり、人々よ、このような振る舞いは好ましくない。もしあなたがたの死後に報いのためにあなたがたを墓からアッラーが蘇らせ給うと明解に知ったならば、きっとあなたがたはかれの罰を恐れて急いでアッラーにお仕えしたことだろう、という意味です。
アッラーは彼らが見ることになる結末を説明し給いました:「あなたがたは必ず獄火を見よう。その時あなたがたはそれを明確に目で見ることであろう。」ここには指で数え得る、アラビア語で知られた数少ない文章の意味を確定させる単語がぎっしりと詰まっています。このような表現はどのような長い書物の中にも見られないでしょう。ゆえにそれは紛れもない真実であることが分かります。「獄火を見る」は、その熱さで苦しむことを暗示しています。自慢をやめない人たちは必ずこのような状態に行きつくわけですから、人々は皆、嫌悪される張り合いと現世の楽しみにうつつを抜かすのと、アッラーに仕えること、崇めることから背を向けてしまうのをやめなさい、ということです。
つづいてアッラーは次の御言葉をもって章を終わらせ給います:「その日あなたがたは、(現を抜かしていた)享楽に就いて、必ず問われるであろう。」つまり、アッラーは信者にも不信者にも現世での至福について質問し給う、ということです。どのようにそれを手に入れ、集め、使ったかを。不信者はアッラーに対する感謝を否定したため、質問は責めの形で行われます。
楽しみを満たすことに夢中になって、食べて飲んで遊ぶためだけに時間を費やす者に、現世で楽しみは好ましくありません。しかしアッラーからいただいた至福と糧を享受しつつ、それらを勉学や善行のための拠り所とし、そのことに対してアッラーに感謝を捧げ、必要とする人にはサダカし、属している社会に貢献する者には、罪はなく、審判の日にはアッラーの罰から救われる者の一人となるでしょう。
(参考文献:①ルーフ・アル=クルアーン タフスィール ジュズ アンマ/アフィーフ・アブドゥ=ル=ファッターフ・タッバーラ薯/ダール・アル=イルム リルマラーイーン(P162~165)