清き心の未知なるものの為に㉖・・・ダグ・ハマ-ショルドの日記より
ささやかな願い。-------食べ物を消化しようというばあいに晩さん会の礼服に付与しうる
異議に比して、それよりはいくらかでもましな意義を、人生において、われわれの行為やふ
るまいに持たせたいものである。それでいて、われわれが自分たちの成し遂げた業と称して
いるものは、その大部分が、儀式張ったばあいにわれわれの裸身を隠そうとして着込む衣服
以外のなにものでもない。
成熟に伴う利益を早くから手に入れるにいたった人たちのことを、おまえは許しがたく思
う。ほかにも見方があるのはしばらく措くとして、おまえはなぜ、遅くまで続く青年時代と
いう長い春に伴う楽しみの方と秤にかけて、これもまたよしとは思わないのか。
自己の精神的燃焼から生じた排気ガスで充満した空気を呼吸したあとで、人びとはこうい
うことを思い出す。-----硫黄精製工場のそばでは、疎らに残っている草木が生きていけるの
は、工場から出て来るガスがあたらなぬ場所に限られる。と。------人びとはこう自問する。
「こんなことが、いつから起ったのだろうか。これからどれだけの世代を重ねるまで、この
影響の痕跡が消え残っているだろうか。」
ともあれ、おまえはほかの人たちを軽蔑していながら、自尊心を後生大事に守りつつ、あ
いかわらず彼らの敬意をもとめようとするのである。
歳月が過ぎ去るにつれ、名声はあがり、そして能力は衰える。
同情をそそぎ、また同情を受けるとき、彼の親切さは心からのものである。ただしその親
切さは、自分の生活の内容を他人の生活内容で充たされそうとする彼の生来の傾向のあらわ
れである。
大いなる友情は、いつかは報いられるものなのであろうか。この友愛は、われわれになに
ものも(与え)ない。しかし、それが住む孤独の世界のなかに入るとき、それはわれわれを広大
な眺望-----内面の光景-----の展けた山頂へ引き上げてくれる
彼が、自分には友達が大勢いるうえ、新しい友達をたやすく作ることができるし、その連
中といっしょに(至極楽しくやっている)と、だしぬけに私にうちあげたとき、それは狙いをよ
く定めた一撃のようにひどく私にこたえた。問い返す余地はなかった。
これはずっとのちになってからわかったことであるが、こうしたことばが私を痛めつけた
のは、私の友愛はまだ長い道筋を辿らなければ、成就して私心を去った友愛になりきること
ができなかったからにほかならない。そのときになって察しがついたことであるが、彼は私
の行くべき道と彼の行くべき道とを感じとって、自己防衛のために本能的に正当な反撃にで
たのであった。