日本人は正直か・・・言語の魅力
話し手の正直こそが、言語の魅力をつくりだすということである。それが唯一の条件では
ないにせよ、正直さの書けた言語は、ただの音響にすぎない。
幕末以来、日本の外交態度について、欧米人から、この民族は不正直だといわれつづてきた。
私は日本人は不正直だとは決して思わないが、しかし正直であろうとすることについての練度
が不足していることはたしかである。ナマな正直はしばしば下品で悪徳でさえある。しかし練
度の高い正直は、まったくべつのものである。ユ-モアを生み、相手との間を水平にし、安堵
をあたえ、言語を魅力的にする。
もしニュヨ-クでの歌舞伎幕開前のスピ-チで、、えらい人が、じつをいうと私は日本人の
くせに歌舞伎には関心がうすく、見巧者ではないのです、と正直に言ったとしたら、もっとす
ばらしかったろう。たとえば、以下のように。----------
「・・・私が半生無関心でいつづけたあいだに、歌舞伎は世界に出て行ってしまったのです。
ぜひきようは皆さんのまねをして、私も後ろの席で見ます。芝居がおわったあと、どこがおも
しろかったのか、こっそり耳打ちしていただけないでしようか」
先日、英国のチャ-ルズ皇太子のさまざまなスピ-チが、日本銃を魅了した。言ってみれば、
練度の高い試用時期さというべきものだった。言語化された人格がひとびとの心をとらえたば
かりか、そり背後の英国文明の厚味まで感じさせてしまったのである。日本人は喋り下手だと
いわれているが、それ以上に、正直さに欠けているのではないか。政界のやりとりをみると、
ついそう思ってします。
1986年(昭和61年)6月2日 司馬遼太郎著 「風塵抄」より
この文章は32年前のものです。今マスコミで騒がれているパ-ティ-券云々の混乱ですが、
丁度30年前にリクル-ト事件が発生し、自民党は政治改革(選挙改革)を打ち出した。しかし、
いつしかその改革も元に戻って、贈与だ献金だと金銭問題に堕落の道を進んでしまった。その
集積とも言うべき問題が溜まり溜まって溢れだしたのが、現在の金まみれに堕落した与党の姿
と言うべきだろう。政治家がいくら改革提案をしてもそれを守らなければ、どのような制度で
も、いつの間にか元の木阿弥になってしまうだろう。
司馬氏が言うように、正直さに練度を重ねなければ真の民主主義にはならないのかもしれな
い。特に政治家及びそれを目ざす人々には、それらが強く求められているのである。もちろん
国民の一人一人が一票の重さの自覚を持てる投票ができるように練度高めて行かなければなら
ないことは言うまでもない。これがある程度では無ければ、民主主義国家とは恥ずかしくて言
えないだろう。
間もなく新しい年を迎えます。お屠蘇気分が済めば、一国民として研鑽に励みたいものである。