森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

時々清掃・・・水雲問答⑦

2024-05-23 16:33:14 | 森の施設

 

     時々清掃・・・水雲問答⑦

 

雲   法というものは、どんな法でも必ず弊害があるものです。賞罰もって鼓舞しても

   善者は少なく、悪者は多いものです。たとえば落葉を掃くように、掃いても掃いて

   も落ちるので、飽きはててしまいます。だからその場その場を清掃するしかありま

   せん。余り吟味ばかりしているとどうにもなりません。とにかく食物の上のハエを

   追うやうに賞罰をやっていかなければなりません。悪く考えて無理に善悪をはっき

   りさせますと、却って弊害が多いのではないでしようか。

 

水   なるほど善者は少なく、悪者(法を破る人)は多いということも考えられますが、

   この説はみだりに人に適用してはいけません。ただ目先の問題だけに捉われて、永

   遠の計を忘れる弊害があります。強いて善悪をわけるのも形式にすぎて、実を失う

   ということがありますが、これも簡単に断定はできません。天下のことはまことに

   複雑な内容と矛盾が含まれていますので、こういうことを本当に心得た人でなけれ

   ば相手にはできません。ただ今おっしゃることは少々立ち入りすぎて、まだ本当に

   世間を知らない者には難しいでしよう。だから成人の語は賢者が聞いても愚者が聞

   いてもそれ相応に悟れるきわめて平実正大なものであります。これはあなたの御意

   見に反するのではありません、言葉の使い方に王道と覇道のあることを申すのです。

   あなたはどうも覇道なことを申しておられるようです。

 

      才は徳に及ばず

 

雲   世の中を観察いたしますと、公平温厚な人は、才覚も実行力もないのに高位におり、

   国民が服し、天下が平和になることがあるように思います。公平の徳が大きいからう

   まく運ぶのでしようか。公平の二文字は大臣の欠くことのできない条件であります。

   公平温厚の二条からはずれて高位においても、終りを全うするものはないと思われま

   す。こういう風に考えますと、才は徳に及ばない。大切なのもは徳であります。

 

水   どうも上に立つと、寛容でない方偉く見えるので、びしびしとやりたくなるものです。

   また本当の寛厚ではなく、才智が足りぬために薄ぼんやりしておって、寛厚に見える人

   おります。まして才智が備わってその上寛厚の徳があれば、申し分ありません。今の才

   人はどうも寛厚の量がなく苛酷であります。寛厚に見えるのは馬鹿なのであります。こ

   点をわきまえ、才智全備し、さらに寛厚であるというよな人がでれば、これはもう天下

   無敵でありましよう。

 

雲       

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

治国の術(国を治める見識)・・・水雲問答⑥

2024-05-17 10:27:26 | 森の施設

 

   治国の術(国を治める見識)・・・水雲問答⑥

 

雲  治国の術は、悪い者は刑し、善い者は賞する、信賞必罰をもって鼓舞することと思います。

  手段や策略をもって行いますと、人心は服しませぬので、誠実公正に行うのがよいと存じます。

 

水  そのとおりです。

 

雲  昔から野心家が政権を取ってうまくやるのは、刑罰と恩賞をもって巧みに人心を収攬し鼓舞

  するからです。

 

水  大監物、歳の功を経た悪人はみなこの手段をとってきました。

 

雲  手段・方便として刑罰をもって鼓舞する、という大監・宿匿のやる方法をつかって、最後に

  世道に帰するという風にやりたいと思います。

 

水  監邪の道を参って終に帰すというのは語弊があります。何とかもう少し言葉を考えなければ

  なりません。 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英名の指導者、とかく人心服さぬもの・・・水雲問答⑤

2024-05-07 13:28:16 | 森の施設

 

   英名の指導者、とかく人心服さぬもの・・・水雲問答⑤

雲   治国の術は国民の心を服させることだと思います。人心が服しませぬと、どんなよい

   法律を作っても、どんな美しい気持ちで政治をやっても、駄目であります。施すという

   ことと、寛大ということがなければ人心は服しません。どうすれば人心が服するのか、

   これは私達には一番痛切な問題であります。

    どうも名君にはとかく人心が服さないと言われますが、どうしてでしようか。

 

水   ああもしてやる、こうもしてやるということが過ぎますと、賞をみだりにするという

   弊害が生じます。また余りに寛大にしておりますと、だらしなくなって引き締まらなく

   なります。国民や部下に褒美をやってご機嫌をとり、あるいは悪いことをやってもなる

   べく大目にみいやるということで、あれはよい指導者だと人心を得ようというのは、最

   も末なるものです。自分に備わっている徳性があれば自然に人を感化する。それは手練

   手管の問題ではなくて、中味のあるものがどういうふうに外に反映するかの問題であり

   ます。どうも英明の主というもののは頭が良いものですから手段方法、すなわち権謀に

   かたよる。そうすると、あいつは頭が良いから一杯ひっかけられるぞ、というふうに考

   えて、その人間の為すところを信用しません。

    手段や策略ではいけません。春風駘蕩とか蕩々と言います。蕩々、スケールが大きく

   屈託がない。身体の内部にある何とも言えない、あたたかい気持ちが自然に外にあらわ

   れれますと、理屈なしに服するものであります。施も寛も、程度と方法によって結構で

   すが、人君がけちで重箱の底をほじくるように細かいところまで立ち入ると、国民は堪

   えられないものであります。

 

     人君の治術

 

雲   徳義にかたよると、とかく情におぼれ、だらしなくなる。これに対して頭がよいという

   こと、英明の弊害は、こまかくうるさくなることです。とかくどちらも弊害を免れない。

   そこで人の上に立つ者は、よく人を知って、その人に委任し、表現と実体をてらしあわせ

   て、よく吟味して励ますほか、治世の術はないものと思います。

 

水   細かくつつかずに、全体的に人を知って委任する、という御意見まことに結構であります。 

 

 

 

 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする