森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

時の罪か事故の罪か㉗・・・水雲問答

2024-08-30 15:15:01 | 森の施設

 

           時の罪か自己の罪か㉗

 

雲      君子が世間のことに処して、自分の思うようにいかないとき、ためいきを

      ついて、時代が悪いと言いますが、実におかしいことであります。何故意の

      ようにいかないかと申しますと、自分にやましいところがないから、ついう

      かうかいたします。行動に原則というものがあって、その原則からはずれる

      と意の如く行われません。そして立派なことほど行われないのが普通であり

      ます。行われないということを知りつつ行うのは真剣味が欠けておりますの

      で、いずれ自分の罪であります。

 

水      自分の為す所が善いか悪いか、誠に十分であるか、あるいは不十分である

      か、ということを己にかえって求めるということは、これは学問第一の工夫

      で立派なことであります。しかしながら時勢というものがあって、その働き

      方でどうにもならないことがあります。易というものはこの時世の変化を主

      に論じたものですから、他の道徳の書物のように、己にかえって良心に求め

      るというようなことばかりではありません。聖人と言われた孔子・孟子が世

      にあわなかったというのは、たまたま生まれあわせた時世が悪かったという

      理由があるのです。

 

 

 

      

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日本と中国の国体の相違㉖・・・水雲問答

2024-08-21 14:40:06 | 森の施設

 

      日本と中国の国体の相違㉖・・・君子の負け

 

雲    暴政の結果に起きた乱に乗じて帝位を奪った者は、君臣の側からいえば逆取である。

    しかし天下を取ってからは、非常な善政を行なった。これは順をもって守るというこ

    とでありますが、中国の君臣関係は事変(いわゆる革命)による優勝劣敗の結果できたも

    ので、したがって相対関係以上に出ることが少なく、常に易姓革命がつづきました。

    日本は創業垂直万古変わらず、逆取を許さない道義国家として成長しました。これが日

    本と中国の国体の相違であります。

     そういう意味で逆取順守という語は、聖人の制には外れますが、古来とくに中国では

    英雄の心がけであります。従って逆取順守も時によって使うこともあり、聖人の道も時

    によっては役に立たないことがあります。寛雄がうまく仕事をしとげるのもその計画が

    図にあたって、機会をはずさずさないからです。つまり利をもって働き、分合をもって

    変をなす、という具合にやるから成功するのです。ところが君子はたいてい義理にかか

    わり、時機を失いますから、ついに失敗いたします。大体寛雄といわれる輩はみな頭が

    よく、腕がたちますが、君子は正直で、少々血のめぐりが悪く、為すことが下手であり

    ます。どうしてそうなるのかと実はがっかりしております。

 

水    逆取順守は治世に用いてはなりません。治世に用いると大きな害を引き出し、自分の

    身も保つことができません。聖人も実は一種の英雄であります。その昔国に仕えると、

    国君の夫人に挨拶をするのが礼儀であるとされていました。孔子のような聖人も見よう

    によっては一種の英雄でありますから、必ず聖人・君子はみな凡庸、あるいは正直愚鈍

    ではありません。しかし後世の君子というものは大体書生の本読み程度の類が多く、よ

    く物事を知っているというだけで、活きた人間のことがわかりません。だから君子と小

    人、善人と悪人とが争いますと、君子・善人が負けます。これはお説のとおり困ったこ

    とです。

 

 

  

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小人乱に及ばざる法㉔・・・水雲問答

2024-08-13 14:13:37 | 森の施設

 

      小人乱に及ばざる法㉔・・・水雲問答

 

雲    国を治める方法となりますと、どれほど骨を折っても多少の弊害は免れません。

    全く弊害なしに天下の大事を治めることはできないと思います。

 

水    私が昔、天下のこととなると全く弊害がないというわけにはいきませぬから、な

    るべく弊害の少ない人を選んでこれにまかせますと、賢い人を選んでこれにまかせ

    たのと大差がないと言ったことがありますが、このことであります。

 

雲    そこでどうしても多少の弊害をまぬがれないとすれば、その弊害の小さいものは

    残しておいて、つまり重箱の隅をつつくようなことをせず、たいして害の小さいも

    のは残しておいて、大弊の起きないようにすることが大切であります。そうすれば

    つまらぬ人間も身をかくす所があって、どこかで呼吸ができますから乱を起こさな

    いと思います。

 

水    この処きわめて意味慎重であります。

 

雲    特に大弊を出さぬように考えて、この意見を申し上げるのでありますから、とく

    と吟味して下さるように・・・・。

 

水    感服至極であります。

 

 

       商人の術を善用しては㉕

 

雲    悪知恵にたけた者が悪事を働くときに、たとえば五つのことをしようとすると倍

    の十という。善人がこれと争って五に止めても、悪人の目標は元来五つであります

    から彼の作戦に落ちたわけで、しかもその作戦を知ることができません。実に巧妙

    であります。いまそれを善を行う道に転用して、善いことをこのように行いますと

    裨益(ひえき)するところ定めて多いことでありましよう。

 

水    お説はいけません。君子と小人は水は氷と炭、香草と臭草のようなもので、正反

    対でありますから、どうしても会いません。小人が作戦をたてて君子に挑戦する時、

    君子の方でも小人の作戦をつかって彼に勝って善をしようとするのは、君子であり

    ながら、実際は小人の作術を使うわけであります。事の善悪は違いますが、その心

    術、事に処する精神がすでに誤っております。一度こういう方法をとって成功して

    も、いつもこの方法をとるべきではありません。これは臨機応変に行うもので、恒

    久の道ではありませぬから、よほど注意をして善処しなければなりません。つまり

    これを原理・原則としてはいけないという議論であります。したがってこういう詭

    道(きどう)に翻弄されるということは愚であります。

 

  

 

    

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時によりては小人をも用う㉑・・・水雲問答

2024-08-07 12:45:11 | 森の施設

 

     時によりては小人をも用う㉑

 

雲    賢人には任せて宜しいが、その他の者を使う場合にはよほど手段を考えないと、衰え

    たものを興すことは不可能かと存じます。

 

水    時勢の必要に応じて、一才一能を持った人物も使わなければならないと思います。間

    違いのない人物というのはそんなにいるものではありませんから、また場合によっては

    立派な人物では事の成功しないこともあって、隅におけない人間で使わなければならな

    いこともあります。しかし自分は使っておるつもりでも、いつの間にかだまされている

    ということもありますから、よほど腕に覚えがないと危険があると思います。

 

     君子、小人の使い方㉒

 

雲    君子と小人の使い方はもちろん区別があることと思いますが・・・・。

 

水    威厳と恩情とを並び施すのが人君の道でありますから、偏ってはいけません。

 

雲    君子に対しては平生恩情を施し、時には威厳をもって臨み、小人に対しては威厳を専ら

    にして、たまには恩を施して怨みに遠ざかるのがよいと思います。

 

水    小人を使う方法として、威厳を多くし、恩を少なくするのはたいへん結構です。

    (君子と小人の原則的な分け方を申しますと、東洋政治学においては、まず人間を才と徳

    に分けます。徳とはその人間に本質的についておるところの、人間として一番大事なもの

    であります。それに対していろいろな頭の働き、腕の動きといった能力が才であります。

    この二つを人間の要素といたしますと、どちらかといえば才が徳に勝っている人間を小人

    徳が才に勝っている型の人間を君子というのであります。)

 

     小人を待つこと㉓

 

雲    小人を御するのに余りその罪を責めると必ずといってよいほど弊害が起ります。

    「参りました」と罪に服せるには、少々のあやまちがあっても罪の明らかに外にあらわれ

    るのを待つが宜しい。ある時機がきて、これはいけないと思うと、利にさとい小人はすぐ

    看板の塗り替えをやって、おとなしくついていくというのであります。また古語に「小人

    を待つは厳に難からずして悪まざるに難し、君子を待つは供に難からず礼あるに難し」と

    あります。人間でありますから悪んではいけません。父が子供を育てるのにはいくら性質

    のよくない子供でも悪んではなりません。包容して厳格にしつけ、慣れさせてはいけませ

    ん。

 

水    窮鼠猫を噛むという例えのある如く、追い詰められると獣でさえ、反撃を͡好みるもので

    あります。まして人間のことですから、余りその罪を責めると弊害がありましよう。

 

 

 

 

水     

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人の用い方----善悪の分ち具合⑲・・・水雲問答

2024-08-03 11:27:19 | 森の施設

 

   人の用い方---善悪の分ち具合⑲・・・水雲問答

 

雲    善悪をあまりはっきり分けると、こういう世紀末的時代には、悪党の怨みをかい、

    物事を破壊してしまうことがあります。しかしまた明白に分けないと信賞必罰が行な

    われない。一体どの程度に区別したらよいでしようか。

 

水    善い事は善い、悪い事は悪いと断定すれば、黒白がはっきりする。これは誰もが納

    得する正道であります。ところが一面において、黒白をはっきりしたために失敗して

    怨みをかうことがあります。一時を糊塗して切り抜けることはできますが、最後には

    賞罰がはっきりせず、そのために君子派と小人派にわかれて争うようになるものです。

 

     人と識⑳

雲    人間は才智・学識というようなものがすぐれておっても、正しい価値判断、すなわち

    見識がなくては天下のことは片付かないと思います。しからばその見識を進める方法は

    一体どうすればよいかと申しますと、学問よりほかに方法はありません。といっても単

    なる知識の学問では駄目であって、体験叡智の学問でなければなりません。その場その

    場の理解や解釈ではなくて、活きた先をも見通す識がないと大事はできますまい。見識

    があって初めて賢哉明断、すなわち裁縫師が布をたつようにあきらかに断定することが

    できるものです。

水    見識は才学より上であることはお言葉のとおりです。人間の才というものは機械的な

    ものであり、学もまた機械的なものであります。もっとも同じ見識があるといっても、

    生まれつき勝れておって、見識のある人もあれば、正しい意味の学問によって見識の出

    来た人もあって、決して一様ではありません。ことに生まれつき天分が優れて見識があ

    り、その上学問をした人-----これは滅多にありませぬが-----この人には百千年にわたる

    大事なことも相談してよろしい。天分が足らずようやく学問によって見識を得たという

    人は、どうかすると、判断に偏るところがあるものです。

 

 

 

 

 

 

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