森にようこそ・・・シャングリラの森

森に入って、森林浴間をしながら、下草刈りをしていると、自然と一体感が沸いてきます。うぐいすなど小鳥たちと会話が楽しいです

奇跡な誕生・・・私の生まれた経緯

2022-10-22 08:48:55 | 人生の秋

 

     奇跡の誕生・・・私の生まれた経緯

 

  私は昭和19年生まれです。当時は戦時中で、いわゆる戦中生れになります。私は末っ子

ですが、私が生まれる三年前にそれまで三人兄弟で上が男、女、女であったようです。その末

っ子の女の子が亡くなったと言うことです。戦時中とはいえ三人が二人になったので、両親は

もう一人亡くなった女の子の代わりに欲しいと思って、私が生まれたということなのです。

 どの家庭の末っ子の人の誕生は両親の思いもそれぞれ特別な考えかたがあり、三人か四人か

と考えることもあるだろう。だから、生まれるべくして生まれて人と、是非もう一人として生

まれた人が居られると思います。

 私の場合にも、ああそうなのかと思ってしまえばそれだけのことですが、私は年を重ねるごと

に想うことが強くなってきました。もしあの亡くなった女の子が健在であったなら、多分、大き

な確率で私は生まれて来なかったと思っています。私はこれは一つの大きな奇跡の一つだと考え

るようになってきました。

 もっと広く大きく考えて見ますと、人類が始って以来、一応100万年前として、両親が30代

で子供を生むことが可能だと仮定すると、3万3千代のご先祖が命を私まで繋いで来られた結果

私が生まれたことになります。先に述べた私の誕生はなかったかも知れない。このような奇跡を

3万3千代のご先祖か、何処かで若くして亡くなっていたら、勿論私まで到達できていないこと

になります。このように、今現在健在している人達は全て、奇跡の継続によって生まれたのです。

  このように考えますと、この世に生を授かった私たちは皆、奇跡のつまり強運の持ち主なの

です。そのことを自分で改めて自覚する年齢になったのでしよう。だから、どんなに苦しくとも

またどんなに貧しくとも、強運を持ち合わせて生まれて来たのでありますから、そのことに自信

を深めて日々を懸命に生きれば必ず、道は開けるものと確信しております。

 

 

 

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北海道へ

2022-10-10 14:52:21 | 森の施設

 

      北海道へ

 

 このぶどうは、私がマンション住まいになった25年ほど前に、小さな苗木を4本植えた

ものです。35世帯という小さなマンションで敷地も狭く、建物の裏手にある、僅かな土地

に飢えたのです。およそそれから5~6年経て食べることが出来るぶどうが実り出しました。

10月中旬から下旬にかけて、収穫祭と大袈裟な行事と銘打って、子供優先でぶどうをそれ

ぞけで食べあった。今年も良く実りました。

 

  さて、私が北海道に縁を最初に出来たのは、過日述べました「研究所」が全国に10カ所

の拠点を設置し、本格的に普及(営業)するためで、北海道から南九州にそれぞれ一人づつ転勤を

命じられ、私は北海道札幌に派遣されたのです。親会社の事務所に一つだけ机を借りてあって、

何もかも体勢を整えていかなければならなかった。まず、事務員の採用から行い、自分は早速

営業のため、毎日外回りして、出版物をあらゆる組織を訪問した。これが私と北海道に縁ができ

たことでありました。

 そして2年経ってやっとこの北国にも慣れ、親しくして頂ける人も出来てはじめいよいよこれ

から本格的にと言う時に、今度は東京への転勤命令があったのです。その時私は、上司に転勤を

断りました、それに対して上司いわく、サラリ-マンが転勤を断ったりすると、会社を辞めざる

を得ないぞと脅かすように言われ、その時一瞬、それなら何時か会社を退職して、自らの意志で

札幌に戻ってこようと思っていました。単なる強がりというかそれほど真剣に思ったわけでは無

かったのです。 結局東京では今度は内勤の仕事で、これまた2年ほどで京都の研究所の本社に

戻されることになりました。このようにサラリ-マンに付きものでしようが、転勤の繰り返しで

地域との結びつきは仕事以外ではほとんど持つことが出来なかったのです。世間のサラリ-マン

方は同じ経験をされているのでしようが、私はこのような勤務状態には満足というより我慢でき

ずに、現在の商売の契約をした後、再度札幌に戻って一から自営の道に進みました。当時29歳

で間もなく30歳手前の年でした。出向前の親会社に戻ることもできたのですが、いずれにして

もサラリ-マンを止めることにしたかったのです。その時代は、オイルショック直後の不況の底

辺で、上司からもこんな環境で自営するなど、無謀ではないかと言われました。でもその一瞬に

経済がどん底ならば、これから良くなることになるだろう。自営所謂脱サラのチャンスではない

かと思ったものです。 退職金と僅かな貯金を少しづつ吐き出しながら、良い運に恵まれて、2

年目にはその時き結婚もしていて、子供二人いたのですが、何とか生活の目途が見えてきました。

 京都で結婚し、すぐ子供が生まれた欲年に会社を辞めました。普通は結婚し子供が出来たなら

ば、さらに身を構えて仕事に励ところなのでしようが、この点についても、私は世間の常識と少

し掛け離れているかも知れないと、周りの人たちの言葉や態度で認識した次第です。つまりいわ

ば世間知らずであったのでしよう。

 今年で自営の道に入って以来48年になり、転勤で2年いた事と合わせると、丁度50年になり

ました。自分ではこの判断で良かったと、サラリ-マンを続けていたら、きっと窓際族のひとりに

なって、定年を悶々と迎えただろうと思い。これまでの大きな決断は良かったし、良い運に恵まれ

たお蔭だとつくづく有難く思っている次第です。

 

 

 

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テニス試合の出来事・・・強運の成績

2022-10-06 14:21:35 | 森の施設

 

    テニス試合の出来事・・・強運の成績

 

  中学と高校の6年間をクラブ活動として軟式テニスを厳しい環境のもとで練習を行った。

雨の日以外は一日も休ませてくれないという環境で、先輩の方々が築き上げた、強豪校であ

ったようだ。

 その6年間の間終始、学校の中でも2番手という実力の私でした(軟式テニスは二人での

ダブルスで、個人の試合はなかったので、二人組の実力のことです)学校でも常に二番手で

すから兵庫県の大会で優勝するなど少しの可能性も考えられなかったのです。所謂二回戦・

三回戦で敗北するのだろうと。

 中学での最大の試合は、近畿大会があります。各県から三位までになった組が、その大会

に出る権利が得られます。三年生になってその予選があり、とても近畿大会には届かない

と思いながら試合が進んで行きました。果たして、何と三位になってやっと出場できる結果

がえられる事が出来、10月の近畿大会に向けていままで以上の猛練習が続きます。

 試合会場は、たしか大阪のテニスコ-トが6面もある広い環境で試合に臨みました。優勝

するには5回勝たねばなりません。まあ、2から3回程度試合が出来れば言い方だと思いなが

ら比較的緊張するタイプですがその試合は強く緊張することもなく、試合に臨み、何とあれよ

あれよという間に、決勝戦まで勝ち進んだのです。我ながらびっくりです。

 そして相手は奈良県の選手だったと思います。その相手を観ていて確かに自分たちより実力

がありれそうに思えました。試合が進んで行く内に、強く思った考えがありました。自分は中

学生で相手の選手も間違いなく中学生でともにまだ子供であるから欠点はいろいろとある筈だ

と思いつつ、一つの作戦と言うか、いやそれしか出来なかったのですが、あることに努めてや

ったことがありました。どんなスポ-ツ競技でも、相手に勝つためには一般論で言えば、相手

の苦手で強いボ-ルを打てばいいのです。しかしそれには当然実力が伴います。そこで私は相

手が打ち返し易いボ-ルでもいいからとにかく相手にボ-ルを返すことに徹し、決して強いボ

-ルは打たないことに努めました。いわばかっこ悪い試合の姿です。若いのだからもっと思い

切ってプレ-すればいいのにと見ている人達はそう思ったに違いありません。だってこの試合

は決勝戦だから尚更のことです。

 どんな試合でも言えることですが、難しいボ-ルよりも、絶好球のようなボ-ルが来たなら

ばこれはチャンスとばかり強く打ち返そうとします。そこに力身が出てしまうでしよう。それ

を我慢に我慢を続けて行く内に相手は徐々にミスをし出してきました。自分がシメタと思って

打ち込んだボ-ルを相手が転げまわりながら、打ち返ってくると、相手はミスの連発になって

ゆきました。そこが中学生だと思っています。

 その結果、何と優勝のカップを学校に持ち帰ることができました。このことは作戦もありま

したが、やはり強運による結果だと思っています。

 次は高校になってからです。

  高校生になっても相変わらず学校では二番手の実力に甘んじていました。三年生の7月に

全国国民体躯大会の出場権を得るための県予選大会が、兵庫県明石市のコ-トであったと思

います。国体は都道府県大会で三組による団体戦になります。この試合で三位まで入らない

と高校生活最後試合になってしまいます。中学の最大の大会は近畿です。高校では国体とし

ては全国大会なので出場するだけでも栄誉感を味わいさせてくれるものと思い、それこそい

つもよりも激しい練習をしました。過日述べた就職活動の結果が出たのはこの時期でした。

 私のこれまでの成績は兵庫県においては、ベスト8がぎりぎりでした。これではとても三位

になることは極めて困難なことで、中学生だったように、実力がともなわなくても心理的作戦

と運の良さだけでは勝つことは不可能と言わざるを得ない大会だったと思います。

 この高校生活最後の試合に臨み、結果所属する自学校の常にトップの組が優勝し、私の組は

三位入って国体の出場を果たせることになりました。自学校から二組も国体に出場できること

になったからでしようか、学校において朝全校生の前で激励会をしてくれました。

 

これらのことは、前回のレポ-トで申し上げている通り決して自慢するためではなく、最後の

試合の時ほど今までよりもよい成績を上げられたことに、これは何か強運を与えられたものと

強く感じる事でした。もちろんある程度の努力と勇気が必要なことは当然ですが、しかし、そ

れだけでは良い結果を出し続けられることは難しいだろうと思っているところです。

 

 この6年間のテニスの練習と試合結果から、私は大きな自信を持つことができたと、人生を

振りかえって見る時つくづく思うのです。それまでの私は、おとなしい目立たない気の弱い男の

子だった自分が初めて、自分の意志というものを少しだけ発揮できるようになって来たのだと感

じているところです。私の強運の人生はこれらの体験から本格的に始まることになります。

 

 

 

 

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希望通りの出向・・・自慢話では無い・運の良き事

2022-10-04 15:03:42 | 森の施設

 

    希望通りの出向・・・自慢話では無い良き運

 

  私が卒業した高校では、機械科で3年間学び、就職して工場の品質管理の仕事が初めての

職場でした。2年ほど経過し他の職場(職種)に魅力を感じていた。そして思い切って人事課長の

に面談し、職場変更を直接申し出た。その時に一つの条件を言われました。

 お前の希望する職場には直ちに移動させることはできないが、チャンスがあれば推薦しようと、

そして条件として「現在の業務においてお前が少しでもだらけているとか、さぼっているとかとい

う社員からの噂が自分の耳に入った時には、お前を一切推薦はしない。という内容でした。私は

当然に普通以上に努力して働きました。

 丁度、あれから一年後に人事課長から呼ばれて、お前が希望している職場に移動が決まったが、

今でも気持ちは変わりないかと聞かれ、はいと言って決まりました。何もこれは運が良い事では

あるけれども、会社の事情もあって職場移動が可能になった気配もあったようである。

 

 話はこれからで、そしてそのまた2年経過した時に、会社の社内新聞に会社を創業された(会長)

が、自ら設立していた研究所(物心両面の繁栄を通して、世の中を平和な社会にする)謂わば、研究

も然ることながら出版関係の内容の研究所である。社内新聞にその研究所に希望する社員で入社5

年以内の人は、直接本社の総務へ申し込むこと。という内容の記事を見て、早速希望のハガキを

提出しました。そして、10後の或日に本社で面接をするからとのことでありました。

 本社に行き面接者から君は何故この研究所を希望したのかと聞かれ私は「物心両面の繁栄を目

後に、工場長から呼ばれて研究所への移動の辞令を頂ました。後で解ったことですが、面接され

たのは、70名でその中から7名が選ばれたことだということです。

 このように私は、周りの都合も考えずに職場移動を自ら申し出たのに関わらず、またしても上

司など誰にも相談なく、本社に申込みそれが決められたこと、私は我が道を行く、我儘な人間だ

と自覚しております。このような我儘の人間を大企業の職場でよく実現されたものだと、自分な

めただけで実現できたわけです。

 先に述べた通り私は機械科を卒業したけれども、徐々に仕事をしながら、機械系より文化系の

仕事が向いているように感じつつありました。高校の三年生になってから、運動部(テニス)に所

属していましたが、機械科の7名の友達とともに、女性の多い部活道を探し、それが文芸部であ

りました。たった一年間だけの部活動でしたが、いろいろと得ることが沢山あり、私の人生のあ

り方に大きく影響されたことに結果的になったのです。不思議なものです。このころ私は努力の

賜物ではなく、何か良き運が得られることに意趣の自信をえることになりました。

 

 

 

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二十歳に立てた人生の目標

2022-10-02 13:22:03 | 森の施設

 

    二十歳に立てた人生の目標 

 

 私が高等学校を卒業して社会人になって以来、これから社会人としてどんなことを目標に

つまり人生計画というか目標というものがあるのだろうかと、考え続けていました。

 

 そして、二十のときに精神的というか思考の在り方について、一つのテ-マを決めました。

それは、人として「悟り」を開くことでありました。そのことは宗教の世界に入るとか、何

の思想に絞るとかということではなく、自分が生きている世間、廻りの人々の有様を眺めな

がら自らの思考と行動を確立して行こうというものであったと思います。

 

 あれから既に68年の日々が過ぎ去り、その間いろいろな出会いがあり、仕事に就き学ぶ

ことが多々ありました。入社して1カ月目に私にとって大きな出来事を経験しました。

 私がこのブログで何回か「運」について述べたことがあります。つまり、私が考えている悟

りとは良い運に常に回り逢えるようになる人になることではないかと、一つの例あり方として

思っているところです。常に正しい思考のもと、適切な判断と行動に近づけば、必ず良い運が

自ずと回り逢える。勿論、世の中理屈通りにならないものですが、それでもよい運が我に付け

ば結果はよくなります。

 

 私はこれまでの人生78年間も生きて来たのですから人生を語っても良い年齢だと思います。

これまで大変恵まれた数々の良い運に遭遇出来てきました。そのよき運の内容を申せば、人は

自慢話かと思うことでしよう。しかし、これは自慢話ではなく、真に運が良かったことなので

す。例えば、

 私が社会人になるために、ある大企業の採用試験を受けました。そのために、履歴書の提出

と申込書を学校から送って頂きます。その履歴書といっても家族の内容とか、学校における部

活の内容です。その項目の中に、身長、体重の記入する欄があり、採用基準には、身長155

㎝以上、体重53㎏以上ということでありました。現代ではこんな採用基準をすることはない

と思います。ところが、それらを測定するために学校の保健室に行き測定したところ、身長は1

69㎝であったけれども、体重が52,7㎏しかなく、これでは書類で撥ねられることになると思い

測定して頂いた看護婦に53㎏てしてほしいと頼みました。看護婦さんはそんなことしても会社で

測定されたらまずいのでないかと言われましたが、私は今テニスの全国大会にむけて猛練習して

いて測定時に体重が少し減っていましたと言いますから、どうかお願いしたいと言って、53㎏に

して頂きました。 そして夏休みの猛練習中に内定の発表があり、その会社には学校から7名が

応募して、その内6名が内定されたとの連絡が来たけれども、あなたの名前だけが保留になった

ままであると担任の先生から告げられました。私がそれではその会社は駄目であっということで

すが、問うといや、不採用ならその旨の連絡が必ずあるはずだから、所謂保留になっているとの

ことでありました。担任はもう駄目の確率高いと思われたのでしよう、私にもう一社応募したら

どうかと、言われました。しかし、私は今テニスの猛練習中でもあったので、担任に会社から正

式に不採用と連絡が来たら、他の会社に応募しますと答えました。それから1週間は何の連絡も

無かったのですが、10日ほど経ったある日に再度担任が練習中に来られて、君は追加内定の連

絡がきたことを告げられました。

 

 話が少し長くなりますが、内定が皆と一緒ではなく、保留になった原因も後日解ったのですが、

それは省くとして、その後の入社して1ケ月経ったころに、同年輩が入る会社の寮官より私ともう

一人、二人が呼ばれて「3日後に会社の本社の総務の方に行きなさい」と告げられました。何の

ためでしょうかと、問えば、会社の創業記念式が5月5日にあり高校採用した約800名を代表して、

社長に答辞を読む役割を二人のうちどちらかに決めたいということで私達二人が指名されたとい

うことでありました。 そして、本社の課長クラスの方から、面接というよりも、お二人のうち

どちかに、答辞を読んでもらいたいといわれ、どうですかと言われました。二人にとってはどう

ですかと言われても会社で決めて頂けないものかと一瞬思いました。そこで私は、一緒にいるも

う一人隣に座っている人に、尋ねました、ずばりお聞きしますが、あなたは答辞を読みたいです

かと、そういうと彼は、私は結構です、つまり強くそれは思っていないといわれました。この言

い方は一つの儀礼でとりあえず遠慮された答えだと私は直感で思いましたが、それでは私でよろ

しければお受けいたしますと答えました。眼の前におられた会社の課長は、それではあなたにや

ってもらうことにします。ともう一人の人に確認されてから会社の創業記念日に私が答辞を読む

ことに決まりました。 追加の内定で決まったものが、どうして800名の人達を代表して私が

このような大役に付けることになってしまったのか。今でも不思議に思うことがあります。1カ

月いやたった2週間あまりの寮生活で私は何も良い生活を態度をしたり寮官に強く愛想よくした

覚えは全くなく、寮官との相性がただ良かったのかなあと思っています。

 

 この答辞文も自分で原案を作成して、寮官に提出したものを会社がきちっとした巻物に製作され

たもので5月5日の五月晴れに会社の体躯館で答辞を読みました。

 この出来事により、私は大変運がよい星のもとに生まれたのかも知れないと少し思うようになっ

た一つの出来事でありました。このような運が良かったという出来事よりももっと奇跡的な数々が

今日まで発生しております。これらの事柄私は徐々に「悟りを開く」という一つの要素として、自

分は大変良い運の星の下に生を受けた人間であると心の芯からそう思うことではないかと思ってい

ます。

 

 

 

 

 

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